日本人的入信動機の特質 に関す る一考察
持 田 行 雄
OnMot i fofJ a pa ne s eConve r s i ons
MocHIDAYukio
は じ め に
ロシアの海軍少佐 ゴロウニ ン (VasilliMikhailovich Golovnin,1776‑1831)の 『日本 幽囚記』(1816年刊行) (1)を読み、 日本人 に対 して深 い親愛 の念を抱 き, 日本 への布教 を決意 したイオア ン ・デ ミトリウィチ ・カサー ッキ ン (IoannDimitrivichKasatkin,1836‑1912.後 の ニコライ大主教)が,苦心惨憶 の末, 日本のロシア領事 館付司祭 として幕末の函館 に渡来 したの は 1861(文久 元)年6月の ことである。 ペテルブルグを出発 してか ら ほぼ10ケ月が経過 していた。
1868(慶応4)年4月には3名のE]本人が洗礼を受 け た。 この年 の9月に明治 と改元 されたが,切支丹宗禁制 の高札 が撤去 されたのは1873(明治6)年2月であるか ら,禁令 を犯 しての授洗である。洗礼 はニコライ師の部 屋で密かに行 なわれ, 部 屋 の外 には領事館付 の読経者 (涌経者 ともい う祈祷を涌す る下位の聖職者) ウィ ッサ リオ ン ・サル トフを警戒 に立 たせて, ニコライ師一人が 洗礼 を授 けた とい う。神社 の宮司津遠琢磨がパ ウエル, 函館 の医師酒井篤礼がイオア ン,南部の藩士浦野大蔵が ヤコフの洗礼名 (聖名)を受 けて,式 は無事 に終了 して いる。 日本 における‑ リス トス正教会最初の洗礼であっ た(2)。
揮遠琢磨の入信の動機 について は次のよ うな逸話が伝 え られている。
「滞遠謂 (お も)へ らく, ニコライは我邦の厳然たる切 支丹 の教師なれば,我邦根本の外患 は,欧米等の諸国そ の ものな りと言 はんよりは,寧 ろこの邪教を宣伝教授す る彼等教師にあ りと言 はざるべか らず。故 に, もし我邦 将来 の禍根 を断たん とな らば,嬢夷の精神を発揚す ると 共 に,又切支丹 の教師を もー指せざるべか らず とO され ば今 この露国領事館内に,‑ リス トス教 の教師たる,司 祭 ニコライの居 るこそ幸 ひなれ,先 (まず)彼 に面 して論 難 を試 み, もし答弁 の明確な らざるに於ては,天課を加
ふ るも亦その所な りと思考せ り。津蓮 は斯 く心 を決せ し かば,当時の武士 の風俗 とて,腰 に大刀 をさしばさみ, 司祭 ニコライ師を訪 ほん とて露館 に赴 きた り。両刀 を腰 に構へたる血気の神官 は,殺気を含み憤然たる相貌にて, 突然 ニコライ司祭 の室 に入れ り。彼 は怒気満面,声 を怒
らし,「爾 の信ず る教法 は邪教 なれば, 爾 は我 国 を親観 (さゆ)す る者 にあ らずや」, と詰問せ り。 司祭 ニ コライ 師 は,坦然 として直にこれに答へ,「され ばな り, 貴君 は‑ リス トス教の事を能 く識 り居 らるるか」 と反問せ し かば,琢磨 はこの間に対 して,識 らざる旨を告 げた り。
是 (ここ)に於て司祭 ニコライ師 は揮達琢磨 に向 ひ,「未 だ自ら識 らざるの‑ リス トス教 を,何故 に憎むべ きの邪 教 と名 け らるるか, もし自ら識 らずんば, これを研究 し て,然 る後 に正邪如何を決すべ きにあ らずや」 と。津蓮 琢磨 はニコライ司祭の反問を受 けて,答ふ る言 に究 した るものの如 くな りLが,彼 は忽ち意 を決 して,「然 り, 然 らばこれより‑ リス トス教を聞 くべ し」 と答へた り。
斯 く未だ‑ リス トス教 の何 ものたるを解せざるの琢磨が, この教を厭忌す るの余 り, これを排斥せん とて,宣教師 の許 に来 り,論難す る所あ らん として,今は不思議にも, 其心志を一変革せ られて,其正邪 いかんを聞 き質 さん と す るに至 りた り。」
ニコライ司祭 は教義の大要 を説 き,葎通琢磨 はその要 点 を書 き留め,熱心 に聴聞 した。そ して,弁難 しよ うと していたニコライ師の説 く教義が 「弁駁 をなす能 はざる のみな らず」,「邪教 と名づ くべ きものにあ らざれば,一 応研究せざるべか らず」 として, その後 はニコライ師に 就 いて‑ リス トス教 の教義 を熱心 に学んでいる。
やがて,「樺通琢磨 は略(ほぼ)自ら教義 を解 し, 信仰 を喚起せ られ Lが,其職務 は神官 に して,身 また養子 の 事 な りしかば, これを信仰す るに非常 の困難を感 じたる も,遂 に纏綿せ る一切の事情を排 けて,‑ リス トス教 を 奉ず るに至れ り。」 (3)という。
この逸話記述 にはい くつか興味を引 く点を指摘できる。
第一 に,記述全体の信悪性 について。 これは単 に 「い
一 13‑
かにもあ りそ うな話」 とい うだけでな く, ニコライ自身 の回顧談 の中にもはぼ同様 の話が伝え られているので, かな り信濃性 は高 いと言えよう。1907(明治40)年4月 10日に ニ コ ライ大 主 教 の 補 佐 と して ア ン ドロ ニ ク (Andronik)主教が来朝 し, その歓迎パーテ ィが神 田美 土代町のY.M.C.A.会館 で開 かれ た時, 席上 ニ コライ 師が一つの回顧談 を試み, この淳遠琢磨の話 を行 なった とい う(4)。 その話 の内容 は上記 のそれ とほぼ同様 で あ る。従 って,少 な くとも日本正教会の内部では, この話 は本当に起 こった出来事 として伝え られて きた ものと考 えてよい。
第二 に, ニコライが 「切支丹 の教師」 と見なされてい た点 について。常連 は新 しく海外か ら渡来 した基督教 を
「切支丹」 とい う古 い概念 によって理解 している。無論, 当時の理解 によれば,切支丹 は国 に害をなす邪教 であ っ た。悩 める魂 の救 いを事 とす る宗教ではなか った。そ し て基督教 と言 えば, それは専 ら切支丹すなわち天主教で あ った。 旧教,新教,正教 などの区別がはっきりして く るのは, もっとず っと後の ことである。
事実, この揮連 の入信の出来事 を伝える 『日本正教侍 道誌』 の欄外 にも次のよ うな頑註が付 けられている。
「此 に‑ リス トス教 なる文字 を用ひたるも, 当時 は多 く天主教 と呼 びた り, され ど今 日天主教 とい‑ばロマ教 とまざらは しきを以て‑ リス トス教 と書せ り,以下皆同 じ。」 と(5)。
この書 の印刷 は明治33年であるか ら, ようや くこの頃 にな って正教 と天主教 (orthodoxとcatholic)との区 別が明確化 して来 た ことが推測 され る。後述するように, この激動 の30年間の国家的な変化 は,基督教全般 の進展 にとって も大 きな意味をな した もの と思われ る。
第三 に, この逸話が大切 に伝え られて きた ことについ て。 日本正教会の内部で この出来事が長 く語 り継がれて きたのは,おそ らく, これがニコライ師 と揮遠琢磨の人 とな り (人物像) を端的に表す ものであったか らであろ う。 この時, ニコライ師 は未だ32歳であ った。 「血 を見 ることに慣れた戦乱 の時代 に,刀 の柄 に手 を掛 けて詰め 寄 る狂気 じみた男 の気迫をさらりと受 け止め, これを懐 に入れて しまうなど,並 の青年 にで きる芸当で はない。
ちなみに琢磨 は天保六年 (1835年) の生 まれだか ら三十 三歳, ニコライとほぼ同い歳である。」(6)0
この出来事 には,「身体強大,意志剛毅 で, 而 も父 の 薫化に因 り敬度,熱心,克己 堅忍の性格」を備えた,
「軍人 に もふ さわ しい不屈不摸,勇壮敢為の人であ った」
と後 に評 され る若 き日のニコライ師の面 目躍如 たるもの があったのである(7)0
他方,揮遠琢磨 もまた, ニコライ同様,「勇壮敢為」
に して 「熱心,克己 堅忍」 の人であったことが推測 さ
れる。揮遠 は, ニコライか ら 「正教 の何であるかを知 ら ないで,邪教 と言 うのは道理 に合わない」 と指摘 され る と,す ぐに 「それな らば,正教 とは何か, それを話せ」
と応 じて, ニコライの話 に耳 を傾 ける。 そ して, ニコラ イが唯一の神,世界の造物主 のことを語 り始 めると,吹 第 に顔を和 らげ,聞 きなが ら,腰か ら墨汁を取 り出 し, 快か ら紙 を取 り出 して, ニコライの言 うところを記 し始 め,やがて 「これは考えていたこととは違 う。今後 も正 教の教えについて話 して くれ」 と頼み込み, ニコライの 承諾 を得 ると,喜んで戻 って行 く。 そ してそれか ら後 は, たびたびニコライを訪れ,ついに間 もな く熱心 な信者 に な った(8)とい うのである。 (このま さに 「竹 を割 った ような」津遠の性格が後 に正教 の人々を引 き付 けてい く のか もしれない。)
しか し,揮蓮 の入信 を伝え るこの逸話 のち ょうどこの 点 に当時の 日本人の特異 な入信動機 の問題が現われてい るように思われる。少な くとも, ここには,入信 の最 も 重要な要因である 「死や罪 に苦悩す る魂 の救 い」 とい う 要素 は微塵 も見て取 ることが出来ないのである。
本小論では,西洋の入信の場合 と比較 しなが ら,比較 思想史論的にこの問題を取 り扱 ってみたい。無論,本小 論の目的 は, そ うす ることによって, 日本‑ リス トス正 教会の 日本思想史上の意義を探 ることにある。
Ⅰ
揮遠琢磨 (1833‑1913)は,土佐の藩士 の長男 として 土佐 に生 まれ,幼名を山本数馬 とい った。坂本竜馬 の従 兄 にあたるとい う。18歳の時,武市半平太 の道場 に入 っ て剣を学 び,やがて塾頭を努 めている。22歳か らは江戸 に出て,桃井春蔵の道場 に入門す る。24歳 の時,懐中時 計2個 を拾得, これを売却 して酒代 に しよ うとして発覚 し,罪 に陥 るところを坂本竜馬 と武市半平太の助けによっ て江戸を脱出 し,難を逃れた。東北 を経て,北海道 に至 り,やがて箱館の神明社 (山上大神宮) の宮司 になる。
ここの養子 (女婿) に入 り,揮遠琢磨を名乗 った。1864 (文久3)年 にはニコライの 日本語教 師 の新 島嚢 と親交 を結んでいる。翌年, ニコライ殺害を決意 して面会す る が, ニ コライの説得 によ って正教 に共鳴 し, つ い に 1868(慶応4)年 には酒井篤礼,浦野大蔵 と共 にニコラ イより受洗 し, 日本最初 の‑ リス トス正教信徒 にな った (9)。
翌年,仙台藩士などに伝道 したが,未だ禁教下 にあ っ たため,迫害を受 け,1872(明治5)年 には仙台で3ケ 月余 り入獄 している。 2年後 には布教会議で全国巡廻伝 教者 とな り,翌年司祭 に叙聖 された。以後,宮城県佐沼, 岩手県一関,福島県白河 などに伝道。晩年 は東京四谷 の
正教会 (山手教会)の司祭を務め,管轄諸教会の牧会 と 巡廻 にあた っている。1913(大正2)年80歳で没 し,育 山霊園に埋葬 された。
滞遠琢磨のこのような略歴の中か ら拾い出せる,当面 の問題 に関連 したい くつかの注 目すべ き点を,次 に考え てみることに しよう。
第一 に,揮遠 は外国人を夷秋 と呪い, とりわけ切支丹 を蛇嶋の如 く忌み嫌い,彼等 こそ日本国を毒す る禍根で あると断 じて, ニコライを一刀両断にしようと狙 ったわ けであるが,彼のそのような切支丹観は,決 して単 に彼 独 自の尊皇擾夷思想 にばか り依 るものではな く,徳川幕 府の禁教令以来,長 く日本人が一般に培わされてきた邪 教観であ った。無論,確固 とした根拠や立証的な理由な どが存在 していたわけでは決 してない。 「あなたは, わ た しどもの宗教の何であるかを知 ってお りますか。」 と ニコライに尋ね られて,津蓮が 「それは知 らない。 けれ ども余の考えていることは,広 く一般 の意見であ る。」
と答えている(10)ことが,その事実 を端的 に物語 って いる。つ まり,入信者 は 「広 く一般の意見」に従 ってい るにす ぎないか ら,その意見の過ちが自覚できたならば, 極めて容易 にこれを放棄 して,間違いと気付かせて くれ
た意見の方 に従 って生 きていけるようになるわけである。
これは,正教会の場合に限 らず, とりわけ,明治時代 にキ リス ト教の洗礼を受 けた知識人達 について も言える ことであ って,彼等の多 くは,熱狂的にキ リス ト教信仰 を一度 は受 け入れなが ら,「いっの間 にか」信仰か ら離 れた生活へ と移 っている。 日本人 には内心の激 しい懐悩 の末に背かざるを得ない 「背教者」 よりも,ただ何 とな く教えか ら遠 ざか って しまう 「離教者」の方が遥かに多 いとよ く言 われるのはこの理由による。そ もそ もの出発 点 において,入信に最 も大切な 「死の問題」や 「罪の自 覚」が欠如 しているのである。
従 って, そ うした一般的な日本人的心性の中にあって, 真 に正 しい信仰を守 り通そ うとす るな らば,例えば,内 村鑑三が体験 したように,入信後 も幾度 とな く,信仰を 純化すべ く, 自己自身 に対す る激 しい精神的な苦悩を体 験 しなければな らな くなるのである。
第二 に,入信後熱烈 な布教活動を開始 した揮遠琢磨 は 土佐藩士であったが, しか し,彼の正教への呼び掛 けに 応 じて集 まったのは,主 に倒幕軍 と最後の決戦を挑 もう と箱館に集結 した秋田戦争の残党の中の人々であり, と りわけ,その うちの重立 った者の多 くが仙台藩士であっ た。すなわち,最初期の正教会入信者のほとんどが新 し く誕生 しつつあった明治国家,薩長政府 に対 して不平, 不満を持つ下級武士達であった。従 って,彼等が受 け入 れた ものは,彼等の国を憂える政治的な行動を正当化す る救国の理念を提供 して くれる教えであったと言 ってよ
い。正教の教えは,明治新政府 によって誤 った方向に形 成 されつつある日本国家を,真正の宗教を信 じる人心の 統一によって正 しい方向へ と回転 させて くれ る教えとし て受 け取 られていたのである。
石川喜三郎編纂の 『日本正教侍道誌』 は, この間の事 情を次のように伝えている。
「仙台藩の亡国の志士 は,郷関を出でて函館 に逃れ, 滞蓮琢磨等 と交 り,其言論に耳を傾 くれば,琢磨 は国家 の革新 は人心の改造よりせざる可 らず,人心の改造 は宗 教の改革 よりせざるべか らず,宗教の改革 は‑ リス トス 教を以てせざるべか らず といふ。」
この津遠の 「言論 に耳を傾 け」た者の中に仙台藩士の 金成善右衛門や新井常之進などがいる。 そ して,「新井 常之進の如 きは略々‑ リス トス教の真理なるを認め,国 家の改革,安身立命の道 は一にハ リス トス教 に拠 らざる べか らざるを」悟 ったという。
(もっとも金成善右衛門は生涯正教内に留 まり布教の 任に就いたが,新井常之進 は1871(明治4)年,森有礼 に従 って 渡 米 し, ア メ リカ の 神 秘 主 義 者 ‑ リス (ThomasLakeHarris,1823‑1906)の門 に入 り, 彼 の 主宰する農業共同体で30年間を過 ごし,帰国後 は 「奥逮 (お うすい)」 と号 して東京巣鴨に 「講和舎」を建て,余 生 は半農の生活を送 り,いずれの教派 にも属 さず,終生 独身を通 している。)
揮遠等 は,更に,金成,新井の両名を介 して仙台藩士 に幾度か書を送 り,来函を促 した。
「国家の回復を謀 らんがためには,人心の帰一を期せ ざるべか らず,人心の帰一 は真正の宗教 に依 らざるべか らず,人民に して真正の宗教を信せば,人心の統一を得 べ く,人心統一せば何事か成 らざ らん, もしそれ,国家 を憂ふ るの赤心あ らば,速に釆函すべ し」 というのが, その呼び掛 けの趣 旨であった (ll)。
この呼び掛 けに応 じて集 まったのは,影田孫一郎,小 野荘五郎,高屋仲,津田徳之進,大立 目(おおたちめ)謙 吾, 目時金吾,笹川定吉,梁川一郎などである。 いずれ もが奥羽列藩同盟の結成に参画 し,戊辰の戦役を共に戦 っ た歴戦の勇士達であった。後に司祭あるいは伝教者 とし てニコライを助けることになる人々である(12)。
ニコライは,来 日して初めて数人の日本人 と知 り合い になった頃,ペテルプルグ府主教のイシ ドールに宛てた 手紙の中で次のように語 っている。
「彼 ら (日本人)すべてに同 じ欠点が認め られます。
自分の知識を体系的に築 き上げてゆ くという能力が全 く 欠如 していることと,記憶がわるいということです。」
その後 もニコライは 「論理的思考の欠如」が 「日本人 全体に認め られる」欠点であることを しば しば嘆いてい るが,最初期の入信者達が憂国の情念 に燃えるあまり,
ー 15‑
「一貫性 も論理性 も無 い完全 に中国式 のや り方」 で正教 の教理 に傾倒 してい った ことはほぼ想像に難 くない(13)0
正教 の教 えによって人心 の統一を図 り, もって国家の 革新 を達成 しようとい うのが,最初期の入信者達 の心を 捉 えていた最 も決定的な動機であ った。明治新政府 に日 本国 の将来を任せてお くわけにはいかないとい うのであ る。 その政治的情念が彼 らを新 しい宗教へ と駆 り立てて い った。祖国を喪失 した武士が憂国の志士 とな り,心の 奥底 に現 出 した空洞を,新 しい宗教 によって満たそ うと す る試 み, それが入信 の動機だ ったのである。
従 って,新 しい国家が未だ揺藍期 にあり,多少 な りと ら,異な った国家形成への可能性が残されている時には, この情熱 も十分 に機能 し持続す ることが可能であった。
すで にニコライが1869(明治2)年 に次のように書 いて い る。
「日本の正教 において注 目すべ きは,正教宣教団が設 立 されてわずか八年 に しかな らず, その間常住の宣教師 は二人 しかお らず,安定 した活動資金 もないのに,獲得 したキ リス ト教徒 の数 においては, カ ト]トソクの宣教団 とプロテスタン ト諸派 の宣教団すべて とを合わせた数 の 二倍 にもな っているとい うことである。」(14)0
こうして,天皇制を中心 に据える中央集権国家が形成 され,やがて確固 とした国家体制が構築 されて くると, 日本 の場合, もともと国家形成の原理 として受容 されて きた正教であるが故 に,今度 は明治国家の発展 と同一の 方 向を探 らざるを得 な くな り,やがて 日本国家のその後 の発展 と共 にその信徒数 も拡大 してい くことになる。
事実,例えば,1891(明治24)年1月 に, いわゆ る
「内村鑑三不敬事件」が起 きた時,大多数 のキ リス ト教 徒 は,内村 を擁護 して世論を弾劾 した。 しか し, ただ 日 本正教会だけは終始,内村を批判 して,天皇崇拝 を弁護 す る立場 を貫 いている(15)。 また, ニ コライ大主教 の 葬儀の日,祈祷中に宮内省 よ り侍従によって恩賜の花環 が贈呈 され, その時刻 には祈祷を一時中止 して, これを 拝受 した とい う(16)0(これ らの点 の詳細 につ いて は後 述 され よう。)
やがて正教会 は「1910年 (明治43年)1月1日現在で 日本正教会 には 265の教会共同体が存在 し,そ こに男女 あわせて31,538人のキ リス ト教徒 が属 して い る」 (正教 日本宣教団報告書) とい う発展ぶ りを示 してい く(17)0 しか し,明治国家の終蔦 (それは同時 にニコライ大主 教 の死で もあ ったが) と共 に, 日本正教会 は急速 にその 信徒数 を減少 させてい くことになる。
例えば, 日本正教合総務局編纂の 『公舎議事録』 によ ると,次の表 のようになる。すべての数値が減少 してい る実情 はもはや覆 うべ くもない。
教会 神品 信徒 総員 大正 3.7‑ 4.6 267 47 35468
大正11.6‑12.5 215 44 14447
昭和13.7‑14.6 184 34 13503
これ らの減少を もって 日本正教会の教練の衰退 と断ず ることが許 されるのだろうか。 それ とも,む しろ日露戦 争 の勃 発 (1904, 明治37年), ニ コライ大主教 の永 眠
(1912,明治45年), ロシア革命 の勃発 とシベ リア出兵
(1917,大正6‑1918,大正7年),関東大震災 によるニ コライ堂の消失 (1923,大正12年)等 々 と相次 ぐ不幸 な 出来事 にも拘 らず, よ く減少を この程度 に食 い止 め得 た
もの と称賛すべ きなのだろうか。
いずれにせよ,最初期の入信動機 に主要な位置を占め ていた救国の情熱 による国家形成 とい う理念が, もはや 教線の維持,発展の原理 として働 くことがで きな くな っ ていたのは紛れ もない事実であって, その意味で は, こ こに至 って 日本正教会 は初めて真の意味での宗教的な入 信動機 によって,真 に日本人的な宗教 を形成 し得た とも 言 えな くはない。少な くとも,正教 の教えが政治的な手 段 としてではな く,純粋 に宗教的な意味を持っ教えに向 か って純化 していき始 めた とは言えよう。 このように, 決 して 「衰退」 としてでな く,純粋 に宗教的な 日本人的 正教が成立 して くる現われ として, この数値の減少 を理 解す ることもまた可能 なのではなかろうか。
第三 に,両刀 を腰 に携えた 「血気 の神官」 に対 して, ニコライは先ず 「教義 の大要」を説 き姶めたが, それは
「真神 の存在」であ り,「真神 は天地万物 の始原者 にて, 森羅万象‑ として真神 の造物な らざるはな きの教理」で あったとい う(18)。「創世記」 の天地創造物語 が先 ず説 き明かされた もの と思 われ る。
この物語 は,聞 きようによっては,素朴 な古代 の民族 神話 とも見 られな くはないが,掴み所の無い八百万の神々 への信仰を単純 に保持 していた 日本人 にとっては,かな り高度な知的理解を必要 とす る教義であ り, まさにそれ 故 に,その理解 に応 じて初めて これを聞 く者 の心 をそれ だけ強 く捉 えて離 さなか った もののよ うである。
解 らない事柄を解 りたいとい うのは人間精神 の最 も本 質的な欲求であるか ら, このように信仰 とは関係 な く純 粋 に知的興味か ら宗教の教義 に初 めて触れ るようにな っ た とい う事例 は,単 に正教会の場合 に限 らず, キ リス ト 教受容の最初期の頃には,意外 に多 く散見 されている。
例えば,1876(明治 9)年9月, 白河市天神町の中野 儀三郎が東京の書店 にて 『天路指南』
,
『聖教図記』 を求め, その難解なるにより師を求 めた ところ,伝教者 イオ ア ン武石定師が白河市 に至 り, その師 とな り,初 めて基
督教 を教 えた とい う。 しか し,やがて儀三郎 は父中野東 太郎 と共 に基督教 を愛 し,翌年,武石師 と共 に仮教会を 開 き,「発酵合」 と命名 し,教理 の研究 に励んで い る。
この中野父子 は,更 に翌11年 には他 の5名の仲間 と共 に 司祭パ ウエル揮遠琢磨師か ら洗礼 を受 けた。 これが白河 ハ リス トス正教会の始 まりである(19)。
更 に他の宗派 の事例を上 げてみよう。
内村鑑三 のキ リス ト教への入信 は,1877(明治10)年, 17歳 の時の ことである。札幌農学校時代 に上級生か らの 強要 によるものであ ったが, しか し, この入信 は彼の日 常生活 に大 きな変化を もた らしている。
「この新 しい信仰 の もた らす実際上 の利益 は,たちま ち, はっきりとあ らわれた。私 はそれを撃退 しよ うと全 力をっ くしていた ころにさえ,すでにそれに気づいてい たのであるが,宇宙 には唯一 の神がいますのみで,私が 昔信 じていたよ うな多 くの神々‑ 八百万(やおよろず) 以上 の‑ はいないとい うことを,私はここで教え られ, このキ リス ト教的一神教が,私 のすべての迷信を根本か ら断 ち切 ったのである。神々にかつて ささげたすべての 誓 い,神 々の怒 りをなだめる種々の形式の礼拝 は, この 唯一 の神を信ず ることによって今や無用のものとなった。
‑‑東西南北 に住む四方 の神 々の群れに,朝 ごとに長 い 祈 りをささげ ることも,往来 を歩 きなが ら,通 りすが り の神社 に一 々長 い祈 りを繰 り返す ことも, また今 日はこ の神 に, あす はあの神 にと,誓 いと物断(ものだ)ちとを ささげることも, もはや不要 となったのである。‑‑・私 は 「イエスを信ず る者」の誓約 に強制的に署名 させ られ た ことを悲 しまなか った。一神教 は私を新 しい人にした。
‑・・.この新 しい精神的 自由は,私の心身 に健全 な影響を もた らし,私 は一段 と勉強に努力を集中す るようになっ た。」(20)。
内村鑑三 もまた,先ず唯一神教 の教理 に触れて, その 信仰が もた らす 日常生活 の 「利益」 に心 を奪われた者の 一人であ った. ここに も高度な知的理解の先行す る入信 の動機が前提 されているのである。 それは極めて 「実際 的」 な,一見 「打算的」 とも見える動機であった。だか らこそ彼 は, その後 も,結婚 に次 ぐ破婚 によって 「久 し (悩んでいた罪 の苦悶を解決す る」べ く渡米 し,真のキ リス ト教徒 となるために,更 なる魂 の深 い懐悩を体験 し なければな らなか ったのである。 それ らを経て初めて真 の意味のキ リス ト者内村鑑三 の誕生であった。
Ⅲ
一般 に, キ リス ト教的入信の動機 と言えば,①理解 し 難 い超 自然的な恩寵 の体験 (例えば,パ ウロ) とか,② 自堕落 な生活 の末 に襲 われ る罪の意識 の体験 (例えば,
アウグスティヌス) とか, あるいは,(勤他者 もしくは自 己の実存的な死への恐怖の体験 (例えば, ル ター) など が挙 げ られ るだろう。 いずれの場合に も,何 らかの激 し い苦悩 に満ちた実存的な出来事が極 めて短期間に起 こり, その 「瞬間」 に自己の全生存の在 り様が一変 して しまう ような体験を共通 に していると言 ってよい。 キルケ ゴー ルが言 うように, まさにこの 「瞬間」 こそ,「時間 の ア
トム」ではな く 「永遠のア トム」 なのである(21)0 しか し, 日本正教会の場合,少 な くとも, その最初期 の人々の入信の動機 に, このような恩寵体験, もしくは 罪や死の恐怖体験などを見て取 ることは出来 ない。仮 に 存在 していたとして も, それ らが入信の動機 の主役を演 じていたとは到底考え られないのである。彼等 の入信動 機 の主役 は, あ くまで も憂国的,政治的な ものであ り, それでなければ,実際的,打算的な ものであ った。 しか し, まさにその点 にこそ,明治初期の極 めて 日本人的な 入信動機 の特質を見て取 ることがで きるのである。
(日本人的心性の このよ うな実際的,打算的な特質 は 今 もなお存続す る。例えば,現在, 日本 のキ リス ト教徒 は人口のわずか2%弱であ り, ここ数年 ほとんど増えて いないのに,聖書 の配布,売上数だけは年々着実 に増加 し,1977年 には,ついに1,000万部 を突 破 した とい う事 実がその ことを端的に物語 っている。聖書だけは信徒 の 十倍近 くも出ているのである。 このような傾向は日本以 外 にな く,欧米人 には理解で きない現象であるが, それ は,聖書 くらい読んで (または,持 って) いなければ恥 ずか しいとい う日本人の世間体を重ん じる 「恥 の文化」
の現われで もあろうか。一種 の 「教養主義」 と言 ってよ い。結局, 日本人にとって は,聖書 といえども信仰か ら 切 り離 された装飾品なのであって,古 い装身具の価値が 揺 らぎ始めた時に飛 び付 くことの出来 る新 しいアクセサ リーの一つにす ぎないのか もしれない。従 って, ここで 決定的 に大切なことは, い ったん聖書 に触れた魂が,か って内村が体験 したような激 しい心底か らの苦悶を もう 一度,そ して今度 こそ決定的に,体験で きるか どうか と い う問題なのである。)
これ らの ことは,西洋 における入信動機 の幾つかの特 質を瞥見 し,比較 してみることによって,一層 はっきり
と理解す ることがで きるだろう。
1). まずパ ウロ (Paulos, 生没年不祥。 1世紀) の 入信 について見てみよう。彼の場合, ダマスコ途上での 出来事がそれに当たるだろう。パ ウロにとって も, また 原始教団 にとって も, この出来事 は決定的に重要 な もの であった らしく,「使徒行伝」 の中 には三度 も繰 り返 し て言及 されている。 まず,一般的な説明の中で (9:3‑9), 次 に, エルサ レムでパ ウロが民衆 に向か って語 る言葉 の 中で (22:6‑ll), それか ら, カエサ レアにお いて ア グ
117‑
リッパ王の前でパ ウロ自身が弁 明 す る言葉 の中で (26:
12‑18)語 られているのである。原初の信徒達の この出 来事 に対す る思 い入れの深 さを窺 い知ることができよう。
今 は第9章 の記述 に従 ってパ ウロの回心の軌跡を辿 っ てみ ることにす る。
丁さて, サウロ (後のパ ウロ) はなお も主の弟子たち を脅迫 し,殺 そ うと意気込んで,大祭司のところへ行 き, ダマスコの諸会堂あての手紙 を求 めた。 それは, この道 に従 う者 を見つけ出 した ら,男女 を問わず縛 り上 げ, エ ルサ レムに連行す るためであった。 ところが,サウロが 旅 を して ダマスコに近づいたとき,突然,天か らの光が 彼 の周 りを照 らした。 サウロは地 に倒れ,「サ ウル, サ ウル, なぜ,わた しを迫害す るのか」 と呼びかける声を 聞いた。「主 よ, あなたはどなたですか」 と言 うと, 答 えがあ った。「わた しは, あなたが迫害 して い るイエス である。起 きて町 に入れ。 そ うすれば, あなたのなすべ きことが知 らされ る。」同行 していた人 た ちは, 声 は聞 こえて も, だれの姿 も見えないので, もの も言えず立 っ ていた。サ ウロは地面か ら起 き上 が って,目を開けたが, 何 も見えなか った。人々は彼の手 を引いて ダマスコに連 れて行 った。 サウロは三 日間, 目が見えず,食べ も飲み もしなか った。」(9:1‑9)。 その後, サ ウロはキ リス ト 者 アナニアの助 けによって,「元 どお り見 え る」 よ うに な り 「身を起 こして洗礼 (バ ブテスマ)を受 け」た とい う (9:10‑19)。 そ して,主 イエスの名 を伝 え るために 主 自 らが 「選んだ器」である (9:15)との自覚の下 に, パ ウロは旧に も倍 して熱心 に,今度 はキ リス トの福音を 宣べ伝え始 めてい く。やがて彼 は 「異邦人使徒」の名で 呼ばれ るようにな り,古代教会最大の宣教者 になるので ある。
この伝承 の古代 キ リス ト教史的意義 については,すで に拙稿 (22)において論 じたので, 今回 は割愛 せ ざ るを 得ないが,パ ウロのこれ と揮遠琢磨の入信の場合 との相 違 は歴然である。一方,切支丹を亡国の邪教 と断 じて, その答弁 の如何 によっては一刀両断 に しよ うとニコライ の所 に乗 り込んだ揮通琢磨,他方,主の弟子達を脅迫 し, 殺 そ うと意気込んで ダマスコへ乗 り込 もうとしたパウロ, この両者 の余 りに もよ く似た行動 の結果 は, しか し全 く 異な っていた。入信の動機 は,前者の場合,救国のため に人心を統一す る理念への願望であ り,未知の ものへの 知識欲であるが,後者 の場合 は,超越者か らの恩寵 によ る召命の体験であ り,古 い自己を悪 と断 じて これを放棄 す る心情的 自己否定 の行為なのである。 このように,原 初 のキ リス ト教的入信への情熱 と比較することによって, 明治初期の 日本人が概 ね心 に抱 いていた宗教の何であ っ たかを一層 よ く理解す ることがで きるのである。
かって 日本 に高度 な教義や教説を持 った宗教が存在 し
なか ったわけではない。事実,仏教や神道 などは, それ な りに高度な教えを展開 して きた。 しか し, 日本人 は, それ らをきちん と理解 した上で,初 めて信仰す るとい っ たような生活には慣れて来 なか ったと言 ってよいだろう。
何か奥深 いところに知 られざる尊 い ものが存在 している ことをただ漠然 と感 じていなが ら,決 してそれ らを突 き 詰 めて知 ろうとはせず,解 らないか らこそ尊 い もの とし て信仰す るとい うことの方 が, む しろ一般的であった。
津遠琢磨がニコライに問い詰 め られて答え られなか った とい うこと自体がそのことを端的に物語 っている。
しか し, まさにそ うであ ったか らこそ, きちん と筋道 の立 った論理的な説明によって理解で きるものに憧れ, そのよ うな ものに直面す るな らば,たちまちの うちに傾 倒 し,心酔 してい くとい う事態 は十分 に考 え られ ること であ って, まして,政治的に も,文化的に も,思想的に も極度な混乱期 に生 きざるを得 なか った 日本人 にとって は尚更そ うであったことであろう。 ここに欧米 の文化 に 憧れた明治の知識人達の生 き方の一つの典型 を見て取 る
ことも出来 るのではなかろうか。
とまれ, このような比較 は我 々の文化的,思想的ルー ツが何であ ったかをよりよ く理解 させて くれ る比較で も あるのである。
2).次 にア ウグステ ィヌ ス (AureliusAugustinus, 354‑430)の回心の場合 について考えてみよ う。
西方教会最大の教父であ り,古代の文筆家の うちで は 現存す る著作が最大の神学者で もあ ったアウグステ イヌ スは 「キ リス ト教古代 に生 きた最初 の現代人」 とまで評 され るが (23), しか し,その青少年 時代 は決 して 「優 等生」ではな く,む しろ母親 にとって は 「涙 の子」であ り,問題児です らあった。事実, カル タゴに遊学 して, 18才の頃すでに一婦人 と同棲 し,一子を儲 けた りもして いる。
思想的にも幾多の苦悩 に満 ちた遍歴を重ねた人物であ る。19才でCiceroの"Hortensius"を読み,精神世界の 真理探求 に情熱を燃や し, マニ教徒 として9年間 も過 ご しなが ら,Faustusと会見 して,その教えに失望 し,節 プラ トン主義 に触れて,最後 はマニ教か ら離れている。
そ して,修辞学教師 として赴任 していた ミラノの庭園 で 「深 い反省」か ら 「涙 の雨」 に濡れていた時,意外な 体験 によってキ リス ト教 に回心す ることになる。 その時 の様子をアウブステ ィヌス自身が次のように語 っている。
「私 の心 は千 々に思 い乱れていた。 そのとき,見 よ, 男の子か女の子か分か らないが,「取 って読 め, 取 って 読め」 と何度 も繰 り返 して歌 っている声が,隣家か ら聞 こえて きた。私 はさっと顔色 を変えて, いったい子供 た ちが何かの遊戯 にこんなことを歌 うものだろうか,とじっ と考えは じめた。 ・・・私 はあふれ出る涙を押 さえて立
ち上が り,聖書を開 いて 目にとまった最初の章を読 め, とい う神 の命令 にはかな らないと解釈 した。」(24)0
こうして, アウブステ ィヌスは急いで引 き返 し,聖書 を手 に取 って開 き, 目に入 った最初の節を静かに読んだ とい う。それ はパ ウロの 「ローマの信徒への手紙」第13 章13‑14節であ った(25)。 しか し, 彼 はその先 を読 も
うとしなか った し, その必要 もなか った。 この章句を読 み終わ るや否や, いわば平安の光が彼の心 に注がれて, 疑惑 の闇がす っか り消え去 ったか らであ った。
これがアウグステ ィヌスの伝え る彼 自身の回心の体験 である (26)。386年の7月末か8月初めの,アウグスティ
ヌス32才の出来事であった。それか らのキ リス ト者 アウ グステ ィヌスの活躍 について, ここに触れる必要 はない だろう。 キ リス ト者 として生 まれ変わ ってか らは, マニ 教 を批判 し, ドナ トゥス派やベ ラギウス派などの異教 ・ 異端を論駁 して,教会の権威 と教義の確立に努力するが, やがてゲルマ ン民族 の侵入を機会 に壮大な歴史哲学を展 開 してい く。 そ して, ギ リシア哲学 とキ リス ト教 とを総 合 させた独 自な神学を構築 し,後世 にかけがえのない貴 重 な遺産を残す ことになる。
アウグステ ィヌスか この時聞いた 「取 って読 め」 とい う子供 の歌声が何であ ったか は不明である。隣家で子供 達が 「舟 あそび」 を していたとか,小石を使 って遊んで いた とか,母親か誰かが子供 に勉強を勧めていたとか, いろいろと憶測 されている(27)。 しか し, 誰 が何 を し ていたとして も, そのような ことはどうで もよいことで ある。事実, アウグステ ィヌス自身 もそのよ うな推測 は 全 く行 な っていない。 ここで決定的な ことは彼が 「取 っ て読 め」 とい う声 を 「神 の命令」 と理解 して,聖書を手 に取 って読んだ とい うことなのであるか ら。
アウグステ ィヌスの回心 にとって最 も大切 なことは, 回心が一切 の知的な興味や関心 に基づ く理解 (知解) に 先行 していた とい う点であろう。このことをアウグスティ
ヌス自身が後 に次 のように語 っている。
「知解 は信仰の所産である。それゆえ,信ぜんがため に知解 しよ うと欲 してはな らない。む しろ,知解せんが ために信ぜ よ。 なぜな ら,信 じなければあなたがたは知 解 しないか らである。」(InJoan.Evang.XXIX,6.)
「われわれは知 るため に信 じてい る (credidimllSut cognosceremus)。 なぜな ら, も し, まず知 って, それ か ら信 じよ うとす るな らば,知 ることも信 じることも出 来 ないか らである。」(InJoan.Evang.XXVH,9.)(28)。
入信 は,一個の罪人の上 に注がれ る神の恩恵 によって 打 ち砕かれた弱 く真 しい者が 自己の欠陥や罪 を深 く承認 した時,突如 として生 じる倫理的純潔への回心であって, 理性的な教義等 の知解 に基づ き,知的な探求の結果 とし て生 じるよ うな事柄では決 してない。従 って,その回心
には,神の恩寵 によって古 い自己が死 に,新 しい自己が 誕生 したとい う新生 の自覚が必ず伴 っている。 アウグス テ ィヌスの回心 もまた,パ ウロと同様, それまでの全人 生を無 に帰 して,キ リス トを着た自己に生 まれ変わ る新 生の出来事であった。
3).最後 にル ター (MartinLllther,1483‑1546)の 回心 の場合 について見てみよ う。
1483(or1482)年 に,‑ ンス‑ル ターの次男 と して生 まれたル ターは, その翌 日の聖 マルチヌスの 日に洗礼 を 受 け,その名に因んでマルチ ンと名付 け られた。 そ して その後,パ ウロの よ うなキ リス ト教 を攻撃 す る異教徒 (ユダヤ教徒)であ った ことも, また, ア ウグステ ィヌ スのようなキ リス ト教 に反す る教義 を生 きる異教徒 (マ ニ教徒)であ った こともない。宗教改革者 として生 まれ 変わ るまでのル ターも, その後 のル ターと同様,形 の上 では生 まれてか らず っと一貫 してキ リス ト教徒であった。
従 って,彼の回心 は異教や異端か らのそれではないか ら, これをパ ウロやアウグステ ィヌスの場合 と同列 に置 いて 論 じることは間違 いであるとも言 えよ う。
しか し,青春時代のル ター もまた,前二者 と同様, い つ も自己の実存的な諸問題 に苦悩す る純粋な魂の持 ち主 であった。『卓上語録』 などに見 られ るル ター 自身 の回 顧記録 によれば,厳格で恐 い両親,鞭 を振 って ラテ ン語 を教える学校教師,親元を離れて学んだ町の 「共同生活 兄弟団」や托鉢 して歩 く修道士,そ して,寄宿 した 「コッ タ夫人」 とその家族 ・・・ル ターの魂 に激 しい苦悩 を与 えつつ彼の精神的な成長 に大 きな影響 を与えた人々は実 に数多 く存在す る。 とりわけ,成長後の彼 に法学博士 マ ルテ ィンの姿を夢見 る父親 の過重 な期待 は, ル ターの心 に重 くの しかか っていた ことであろう(29)。
しか し,何 よ りも先ず,青年 ル ターの心 を最初 に最 も 激 しく苦 しめたのは死の問題であ った。1501年,彼 はエ ルフル ト大学の文学部 に入学す るが, その翌年 の試験中 に同級生 の ヒエロニムス ・ブンツが急性肋膜炎で急逝す る。 この級友の死の体験 に, 自らの怪我 も加わ って, ル ターは人間の死の問題 に直面 していったのである。
やがて父親 の期待 に応え るべ く同大学 の法学部 に転 じ た彼 は, それか ら3年後の1505年7月に,最 も深刻な死 の恐怖 を自らの身に体験す ることになる。夏の帰省の徒 歩旅行の途中,激 しい落雷 に打 たれて思 わず 「聖 ア ンナ 様,助 けて ください。私 は修道士 にな ります。」 と叫ん だ というのである。 これ は老境のル ターが修道院 に入 っ たことを記念す る日に, テーブルを囲む友人達 に語 った 話 として有名である。無論,聖 ア ンナは聖母 マ リアの母 であり,当時 は執 り成 しの仲介者 として信仰 されていた 女性である。 もっともル ターはこの修道院 に入 る誓約を す ぐに後悔 したとい う(30)。 しか し, 彼 は修道士 にな
‑ 19‑
る決意 を して, この死 の恐怖 の体験か ら二週間後 にはア ウブステ ィヌス派 の修道院 に入 って しま う。彼の魂 の再 生 は父親 の期待を完全 に裏切 るとい うかたちで始 まった。
と うして,新 しいル ターの宗教的出発 は 「死 の問題」 を 契機 として開始 され 「罪 の問題」 はその後 になる。従 っ て,福音 を再発見す るためにル ターは もう一度,激 しい 苦悶 の炎 に身 を焼 かれなければな らなか ったのである。
死 の恐怖 の体験 か ら2年後, ル ターは司祭 にな り,神 学 の研究 を開始す る。 そ して更 に5年後 には,神学博士 とな り, ウ ィッテ ンベル ク大学神学部 の教授 に迎 え られ る。多分, この頃 にいわゆ る 「塔 の体験」が起 こってい る。大学 の学生寮 の一角 にあ った塔 は, ル ターが書斎 と して利用 して いた場所で あ ったが, ここで彼 は激 しい精 神的苦悶の末
,
「新 たな義 の理解」 と言 わ れ る福 音 の再 発見 に到達す る。 この 「塔 の体験」 がいつ どのよ うに し て起 こったのか,様 々な議論 があって未だ定説 を見てい ないが,決定的な ことは, この体験 を通 して真 の意味で のキ リス ト者 マルテ ィン ・ル ターが誕生 し,宗教改革 の 原理 が確立 してい った とい うことで あろ う。事実, この体験 か らわずか5年後 に, ル ターは 「免罪 符」(indulgentia)の販売 に反対 して, ウィ ッテ ンベル ク城教会 の扉 に95ヶ条 の論題 を提示 し,次 々 と, いわゆ る宗教改革三大論文を発表す ることにな るか らである。
「塔 の体験」 につ いて何か決定的な ことを語 るのは不 可能 であ るが,修道士 にな り,神学教授 にな ったル ター は,社会的な成功 を収 めれば収 め るほど, おそ らく, 自 分 は死 の恐怖 か ら救 われたいために神 を利用 したのだ ろ うか, とい う疑問 に突 き当た ったはずである。死 の問題 か ら罪 の問題‑ の転換 であ った。 そ して, その苦悶 に満 ちた疑問 に,塔 の中で行 なわれていた長 く深い聖書研究, 特 に使徒パ ウロの研究 が答 え ることにな った。
神 はキ リス トを通 して罪深 い人間 を も我 が子 として受 け入れて下 さる,人間 の救 いはただその神 の愛 と恵みに よるのみであ る, それが,多分, ル ターが苦悩 の末 に獲 得 した福音 の真理 であ った。対象 を 自分のためではな く, 対象 自身 のために愛す るとい う愛 の純粋 さをキ リス トに 発見 したのであ る。人間の一切 の罪 を一身 に引 き受 けて 十字架 に上 って下 さったキ リス トの純粋 な愛の故 に,人 はただキ リス トを信 じる信仰 によ ってのみ救われ る, そ うル タ‑は確信 した。
その時 まで, キ リス トはル ターに とって, いかなる罪 人 も逃 れ難 い,恐 ろ しい罰 を言 い渡す審判官であ った。
しか し,今 やその最 も恐 ろ しいキ リス トが最 も憐 れみ深 い者 に変 わ ったのであ る。 それ は 「人が義 とされるのは, 律法 の行 いによるので はな く,信仰 による」 とい う,主
として 「ローマの信徒への手紙」 (3:28)の中 で使 徒 パ ウロが展開 した信仰義認 の再発見で もあ った と言 ってよ
い。事実, ル ター白身が,後 に
,
「パ ウ ロの言 葉 はわ た しにとって天国 へ の門 とな った」 と語 って い るとい う (31)0死 の問題 そ して罪 の問題 を転機 とす るル ターの回心 は, 明 らかに純粋 に個人的な魂 の苦悶 の問題 であ った。決 し て憂国の志士 による宗教的救国 の問題 で はなか った。 し か も, ル ターの この 「新 たな義 の理解」 が, その純粋 に 個人的な出発点 に も拘 らず, やがて宗教改革 の原理 とも な って,様 々な国家的規模 の,乃至 は民族的規模 の宗教 的動乱 を引 き起 こ し, ひいて は ヨーロ ッパ世界を分断 し て近代市民社会 を形成 してい く政治的な問題 の誘 因 とも な ったのである。 そ してむ しろ, まさにその点 に こそ, 明治期 の宗教的知識人達 の回心 とは根本的 に相違す る入 信動機 の特質 の一つを見て取 ることが出来 るのである.
樺蓮琢磨的な入信 の動機 が,す なわち,憂国 の志士達 の救国の願望 が国家 の存続 に影響 して, その後 の国家 の 政治的動向を左右す るよ うな ことは決 してなか った。新 しい宗教 に新国家建設 の動力源 を期待 した彼等 の希望 は 完全 に裏切 られてい く。 そのため,彼等 はもう一度, そ して今度 こそ旧に倍す る深刻 さを以て, 自 らの信仰す る 宗教 と全 く別個 の原理 で動 く国家 との不幸 な関係 に改 め て深 く懐悩 しなければな らなか ったのである。
他方,純粋 に個人的な死や罪 の問題か ら出発 して,義 初 か らそ こには国家的な, あるい は政治的な動機 の欠 け らす らも存在 していなか った 「福音 の再発見」 が, やが て は宗教改革運動への引 き金 とな り, ひいて は近代国家 形成 の動因 ともな ってい った。 それ は同時 に,個人的な ものか ら社会的な ものへ と進展 してい く宗教的信仰 の深 ま りが明 白に見て取 れ る出来事 で もあ った。 しか し,残 念 なが ら,明治以降の宗教運動 にそのよ うな発展的な性 格 を読 み取 ることは出来 ない。
同 じ宗教的新生への出発点 た る入信が,一方 は,個人 的な動機 か ら出発 しなが ら,やがて は近代国家形成 の政 治的な動機 にまで展開 してい き,他方 は,救国 の信念 に 燃 えた政治的な動機か ら出発 して, しか し結局,何 ら政 治的,国家的な結実 を見 ることはなか った とい う, この 西欧的な動機 と日本的な動機 との性格上 の相違 こそが, 西欧 に展開 したキ リス ト教 と日本 に展開 したキ リス ト教 との性格上 の決定的な相違点 の一 つ なのであ るo信仰 や 思想 によって真 に自己を実存的 に改造す ることの困難 さ と不思議 さとを思 うべ きなので あろ うか。 それ とも,西 方 に残存 して発展 して きたCatholicキ リス ト教 と, 東 方 に伝え られて生 き残 って きたOrthodoxキ リス ト教 と
の性格上 の明白な相違 を考 え るべ きなのであろ うか。