• 検索結果がありません。

雑誌名 星薬科大学一般教育論集

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 星薬科大学一般教育論集"

Copied!
38
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

A・スミスにおける《想像力》の構造 : 論文「天 文学の歴史」を中心に

著者 佐々木 健

雑誌名 星薬科大学一般教育論集

号 8

ページ 43‑79

発行年 1990

URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000172/

(2)

A ・スミスにおける︽想像力︾の構造

論 文 ﹁ 天 文 学 の

歴 史﹂を中心に

佐 々 木  健

はじめに

    一八世紀のスコットランドが産んだ著名な思想家アダム・スミス︵︾亀旬日ω出口﹈叶# ﹂べNω1ΦO︶の遺稿集として︑﹃哲学

    論 文 集﹄︵国ω゜力旬ぺωoロ勺匡δωoO巨o巴ω已豆oo誘⁝⇔o≦露6庁富肩o匡×oユpロ︾oooc巳o︹●ゴoζSo餌ロら≦ユ怠pσqω昆

    葺o>已夢o﹃ひぺO⊆σq巴△o力9笥旬詳︶がある︒その初版は二人の友人J・ブラックとJ・ハットンの編集で︑ス︑ミスの没

    後五年経った一七九五年に刊行された︒ここには遺稿六篇が収められている︒冒頭には︑スミスのグラスゴゥ大学時代以

    来の友人で数学者であったM・ステユアートの子息で︑エディンバラ大学の教授をつとめたD・ステユアートにょるスミ

   ス の ﹁ 生 涯 と諸著作﹂に関する記述が添えられている︒これはもともと︑ステユアートが一七九三年にエディンバラ王立

   

協 会で読み上げ︑後に同協会の﹃会報﹄︵弓﹁§ω旬9ざ嵩ω︶に掲載されたものである︒六篇の遺稿とは︑①﹁天文学の歴史﹂

ヨ 4 ︵弓庁O田ω9昌O袖︾ω含OロO日く︶︑②﹁古代の自然学の歴史﹂︵↓庁O田ω8昌O︵芸O卜旨90巳勺庁ぺω宮ω︶︑③﹁古代の

(3)

4 論理学と形而上学の歴史﹂︵弓庁O国一ωけ◎吟ぺO冷庁庁O>昌96口け↑◎σqざωロロ●﹈≦O⇔旬噂ゴ匂ω一〇ω︶︑④﹁外的諸感官について﹂︵O⌒ 4      1

    仔o国尊o目巴Q力opωoむD︶︑⑤﹁いわゆる模倣的技芸において行われる模倣の本性について﹂︵OS夢02騨9﹁60S庄9

   ﹈旨﹂冨窪8笥巨6げ富民oω噂一旬ooぎ笥9古Ro8=o含↓●o﹈日︷冨江くo︾詳ω︶︑および⑥﹁若干のイギリス詩とイタリア

    詩との親縁性について﹂︵O﹃けゲOP噛悟ロズ喝ひ6辞≦δ050Φ円訂声口国口明一冨ゲPβ命一件ロ一一ロロ<O吟ωOω︶である︒このうち①︑

   ②および③の三篇についてみれば︑表題はいずれも︑﹁哲学的︹学問的︺探究を糊導する諸原理︒その例証⁝⁝﹂︵弓ずo

   ㊦﹁︷ロo一巳oω宅宮oゴ一〇陣全ooユら障o含勺ロ匡oωoO巨o巴国ロρq匡6ω⁝一一一ロω茸pθo●O矯⁝⁝︶となっており︑これらはそれ

   ぞ

れ 同一の構想のもとに同じモティフから著された各論であるという性格を担っている︒

   

  さて︑本稿では右の六篇の遺稿のうち︑①﹁天文学の歴史﹂だけを取り上げ︑この論文に照準を当てることにする︒今︑

    何 故 に ス ミスなのか︑またいかなる観点からスミスを論ずるのか︑といったスミス論の基本視角については︑ここでは述      

   べない︒また︑この﹃論文集﹄所収の②︑③および④を分析する作業︑そのことによって一七四〇年代後半から五〇年代

    初 め に か け て の 時 期のスミスにおける問題の圏域︑そこでの問題連関を確定する作業︑さらに他の論文や﹃修辞学・文学

    講 義﹄︵﹈﹁06け口﹃Oω O白 男ぱOひO﹁声O 拶昌● 団一〇一一6ω ︼いO●ひ﹃9︶︑﹁言語起源論﹂︵Ooづω庄o目江o旨ω60昌60﹃昌ぎoq●ゴo田⑦吟哨07

  §ロ江oロ鳥↑pロoq§°Qoω︶︑および﹃道徳情操論﹄︵↓#o弓庁oo昌o滅呂自巴Q力oロけ一日09ω︶等々を統一的︑総体的に捉え

   る作業︑等々は別の機会にゆずりたい︒本稿では︑さしあたり先ず︑論文﹁天文学の歴史﹂を︽想像力︵11構想力︶︾       さ    ︵ 一 ∋〇四日旬江oづ︶の意義に照準しながら分析し︑そのことを通じてスミス哲学あるいはスミスの思想世界の︑その形成の

    い

わ ば原初点における問題連関と思想構造とを︑D・ヒューム︵一︶⑪<﹂皇 ﹈肖ロゴロO° Hべ﹂HーベO︶の﹁人間学﹂の基本構図との

    対 比 に お い て 解析すること︑スミスと同時代のドイツの哲学者1・カント︵︼已ρ5冨口CO一 蝋︻③一Pθw Hべ呈lHo◎◎ふ︶の初期の論

    文 ﹃ 天 界の一般自然史と理論﹄︵﹀一一σqO言O一昌OZ旬●ロ﹃oqO9げ一〇庁古Ocロ島弓冒OOユO●Oω出一§︼βO一ω− や切切︶を考察し︑その

(4)

ことによって側面からスミスの思考の様態を照明するとともに︑スミスがー・ニュートン︵﹈ωロロO ︸4⑦≠<●OP㊥ ﹂Φ由Nー﹂べNべ︶

の 業 績 を

論 じている﹁天文学の歴史﹂の﹁最後の部分﹂の最終パラグラフが孕む問題を浮彫することを課題としたい︒

1 執筆時期・構成・梗概ースミス哲学の原形姿1

      論 文 ﹁ 天文学の歴史﹂は大きく分けて次の三つの部分からなっている︒一 論文全体の課題を設定する序論の部分︑二

     この論文ばかりではなく前記の②と③をも含んだ構想︑つまり﹁哲学的探究を翻導する諸原理﹂に関する研究全体への

    総 論 ともいうべき性格を担っている部分︑および三 天文学体系の﹁歴史﹂的展開を記述した部分である︒最初に︑執筆

    時期を確定し︑全体の構成を概観しておく︒

    先ず︑執筆時期についてみれぽ︑右の三の大部分がスミスのオックスフォード留学の期間︵一七四〇ー四六年︶に書き

造 礪   上 げ られ︑彼がスコットランドに戻ってから︑ニュートンに関する﹁最後の部分﹂が付け加えられたのであろう︑という

      よ 勧   編者の推測はまず大過ないものといってよい︒より厳密にいえぽ︑この論文は︑三の原草稿ともいうべきものが一七四二

雛 年以後に董れ︑スースがス⁝ラン・へ帰・茜六年以降のある時期に書き直され︑・れに一︑二お・び三の嘉後

紺  の部分﹂が付け加えられ︑彼がグラスゴゥ大学論理学教授に就任する五一年までには全体が出来上がっていたのではない

ス   か︑と思われる︒ バ

  第一に︑四二年以後という起点はスミスがどの時点でヒュームのどの著作を幡いたかという点に関わる︒W・バジョッ

A    トは︑スミスがオックスフォードで﹁ヒュームの﹃哲学論文集﹄︵勺ロ=oω8巨o巴国ωω旬町ω︶を読んでいるところをチュー

 ゼ        4 ターに見付かり︑とがめられた﹂︑というエピソードを伝えている︒ここにいう﹃論文集﹄とは﹃人間本性論﹄︵弓﹃o⑪江ω⑦

(5)

46 o︵出已日旬ロZ曽巨少巳︒︒Φ︶ではなく︑﹃道徳・政治論集﹄︵国ω乙・③町ω呂o﹃巴§△㊥包一江6巴︶の第一篇か第二篇のことで

ある︒ス︑ミスは﹁哲学の起源﹂を論じた箇所で﹁法律によって秩序と安全とが確立され生活が不安定でなくなるところで

は︑人類の探究心は増大し彼らの恐怖は減退する﹂︵目゜ωぷO︶と書いている︒これは﹁法律から安全が生ずる︒安全が確        保 されれば探究心が起り︑探究心から認識が始まる﹂というヒュームのエッセイ﹁諸技芸・学問の起源と発展﹂のなかの

言 葉 を 敷 術 したものといってよい︒このエッセイを収録した﹃道徳・政治論集﹄第二篇が刊行されたのが四二年である︒

もう一つ留意すべきことは︑﹃論集﹄第二篇所収のあるエッセイのなかの次のような件がスミスを触発したのではないか︑

ということである︒ヒュームは言っている︒﹁私が﹃プトレマイオス﹄の体系と﹃コペルニクス﹄の体系とを検討する場

合︑私はただ︑私の探究によって︑諸惑星の実在的な位置を知ろうと努めるだけである︒別言すれば︑私は︑これらの惑

星 が 天 界 に お い て ︵ 一 昌●げO げO旬くO口ω︶相互に有するのと同じ関係を︑私の概念のなかで︵日目鴇8ロ68註op︶それらに

      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ  ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ  ヘ   ヘ      ヘ   ト   へ 与 えようと努めるだけである︒それゆえ︑このような精神の操作に対しては︑しばしば︹わたしたちにとっては︺未知で

ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ      ヘ   ソ   ヘ   へ

あるけれども︑︹それ自体においては︺実在的な基準︵旬﹁o旬ど●ゲocぬげo津oロ餌oロロ屏目o笥づω訂o巳曽O︶が︑諸事物の

ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ア 本 性 の うちに常に存すると思われる︒﹂スコットランドでは︑ニュートンの直弟子であるD・グレゴリィがエディンバラ大

学 で ニ ュ ートン哲学を講ずるなど︑すでに一七世紀末にはニュートンの自然哲学への関心が高まっていたという一般的な

知 的背景︑そしてスミスは大学時代にR・シムスン教授とM・ステユアートからの感化で﹁数学と自然哲学﹂への関心を

抱いていたという個人的な事情があって︑スミスには自然哲学を論究する知的基盤は備わっていた︒スミスの問題関心を

触発し︑その基盤のうえで天文学体系の﹁歴史﹂的展開の過程をたどる作業を彼に遂行させる方向に働いたひとつの︑し

か し 強力なナケィジョンがあったとすれぽ︑それは右のようなヒュームの発言ではなかったかということである︒

  第二に︑スミスの構想が単に天文学体系の展開を辿る作業から︑これを含んだより大規模な構想へと膨らみ︑前述の構

(6)

    想 全 体の基礎が据えられるにいたったのは︑彼がオヅクスフォードから戻ってからエディンバラに転居するまでの時期︑

    す なわち郷里のカァコーディで母親と暮らしていた四六年から四八年までの時期である︒また︑四八年には︑ニュートン

    哲 学 を

論 じたC・マクローリン︵Oo=目哀騨9ρξ一Pま㊤◎︒山べぱ゜ニュートンの推薦で二五年にエディンバラ大学教授に

   なっている︶の遣著﹃アイザック・ニュートン卿の哲学的諸発見の解明﹄︵﹀ロ>ooo⊆暮oSω冒誘窪020箋9ロ︑ω勺庁匡P

   ωoO窪o巴O宏8<oユoω︶が刊行されている︒こうした事情から概略︑以下のように推測することができる︒論文﹁天文

    学 の 歴 史﹂は︑右の構想に従って︑四八−九年以降ーこの時期にはヒュームの﹃人間悟性に関する研究﹄︵︾ロ国昌ρ巳蔓

   oo昌oo﹃巳ロ鳴国已日①od⇒口o﹃ω冨ロ合ロぬ﹂謹◎︒︶が刊行されているーに︑序論と総論にあたる部分とが付け加えられると

  ともに︑原草稿というべきものも総論で展開される原理にもとづき︑またマクローリンの著作を典拠としつつ書き直され︑

         

  さらにこの著作に触発されて﹁最後の部分﹂が添えられ︑五一年までには完成していた︑と︒

      次 に︑冒頭に示した区分に従って全体の構成と概要をみる︒

髄    一の序論では︑心理現象のある局面に照準が当てられ︑対象と向き合う際に心に生起する三種の根本的な﹁感情・情操﹂

の        コ カ   ︵ωOOけ一5PO口けΦ︶として次のものが挙げられる︒新奇なものによって惹き起される﹁驚嘆﹂︵綱o白臼o﹁︶︑予期されていな

像 偬   い ものの出現によって喚起される﹁驚き﹂︵o力ξ廿民ψ・o︶︑および壮大なもの・偉大なもの︑あるいは美しいものに接して覚 る 湖   え る﹁賛嘆・称讃﹂︵︾臼日﹈﹁①●︷O昌︶である︒これらの感情は︑それぞれ異種・異質な︑相互に没交渉で独立したものでは

ス   な く︑同じ対象ないし事態によって惹き起こされるとき相互に増幅しあう︒それらは︑ ﹁わたしたちが傾注せずに眺める

ミ パ   ときに想像しがちであるよりはるかに広範な﹂﹁感化力﹂を精神の作用に及ぼす︒このようなものとしての三種の感情の A     ﹁ 本 性 と諸原因﹂を考察することに課題が設定される︵HO●﹃O°べ⁝ω杏︶︒

  4  二 序論を承けて︑1﹁予期されていないことの効果について︑あるいは驚きについて﹂︵OS葺⑦国津⑦90袖dロo苧

(7)

8 亨89臼50ωωo﹃oSω葺買一ωo︶︑およびH﹁驚嘆について︑あるいは新奇さの諸効果について﹂︵O暢≦OP△o︹o﹃亀日0 4

   国は09ωoS20<巴蔓︶の二節で︑先の三種の感情のうち﹁驚き﹂と﹁驚嘆﹂に関する経験心理学的な分析が行われる︒

    ︵ この部分における所説については次章で検討する︒︶第三の﹁賛嘆・称讃﹂については︑これを考察するための独立の一

  節は設けられていない︒むしろスミスの叙述は︑この感情がいかなる状況において︑どのような事態によって惹き起こさ

    れ るかを︑特に天文学﹁体系﹂の転換が行われるそれぞれの局面に照準しながら明らかにし︑その﹁本性と諸原因﹂を浮

    か び 上 が らせる構成をとっている︒

      次いで皿﹁哲学の起源について﹂︵OSけげOO﹃︼oq︷口O﹇勺庁一一〇ωOO庁町︶では︑1およびnにおいて確定された原理に従っ

    て︑﹁哲学﹂︵自然哲学︑ないし自然に関する理論的学問的探究︶の発生および生成の究明が企てられる︒この節でスミス

    は ﹁ 未開﹂の段階にある社会と︑法機構の整備によって社会秩序が安定し︑﹁閑暇﹂を享受しうる階層が自然の探究に向

    か う﹁文明化﹂の段階に到達した︵ギリシヤ︶社会とを区別する︒前者における人間の対自然的な態度の特質は︑不規則

    な自然現象で脅威的なものについては︑これに対する畏怖と恐怖の念から︑また同じく不規則な自然現象でも﹁美しく快

   い﹂ものの場合には︑これに対する崇敬と感謝の念から︑それぞれその原因は﹁︹目に︺見えないが知性を具えた存在者﹂

    に 帰 せ られて︑自然が人格化あるいは神格化されること︑不規則な自然現象は﹁ジュピターの見えない手﹂︵夢oぎく声ω声巨o

    冨昌ユoS甘巳9﹃︶が﹁事物の通常の行程﹂に介入してこれを乱す結果であると思念されることである︒︵﹈口右H.悼⁝ふ◎oー切O︶

   これと対比して︑後者においては︑有閑階級が以前は人間界に注がれていた注意を自然界に転ずることが可能となる︒そ    の結果︑それまでの通念からして﹁自然の規則的な行程﹂と目されていた系列から逸脱しているように見える不規則的︑

   不

整 合的な自然現象が発見され︑﹁驚嘆﹂の念を惹き起こす︒この﹁驚嘆﹂に促されて︑自然の探究が開始される︒﹁驚嘆

   は哲学の︑すなわち自然の多種多様な諸現象を結び付ける隠された結合諸潤係を開示しようとする学問の︑研究へと人類

(8)

    を 促す最初の根源である︒﹂︵匿゜ω⁝田︶重要なことは︑ここでは自然の探究が﹁ジュピターの見えない手﹂の自然現象ヘ

      ヘ   ヘ   シ     の 直 接 的 な 介 入 という想定を排した学問的探究として行われること︑しかもそれはそれの有用性への顧慮をはなれて︑そ

    れ 自体を目的として行われることである︒

      三 の 部 分 に あたるW﹁天文学の歴史﹂は︑古代ギリシヤ以来の諸々の天文学﹁体系﹂が︑﹁ぼらぼら﹂な様相を呈して

  現れる外見上︑規則性と整合性を欠いた天体現象を統︸的に解明すると同時に︑︽想像力︾がその自然本性にもとつく﹁自

    然 な進行行程﹂において容易に当の現象に﹁ついて行く﹂ことを可能にするどのような理論的枠組みを︑いかにして構築

    してきたかを︑哲学︵11自然哲学︶とは﹁自然の結合原理を探究する学問﹂︵芸oω巳opooohgoo§口60江ooq買日息巳oω

   o裕ロ9ξo︶であるとする規定︵巳゜﹂Nぷ切︶のもとに︑しかもまた︑それぞれの体系が﹁想像力を鎮静させるのに︑また

    自然という劇場︵けげO ●︼ばO旬け﹃O Oh 口旬●β﹃O︶を体系がない場合に映じたであろうよりも一層整合的な︑それゆえ一層壮大

    な景観たらしめるのにどの程度まで適していたか﹂︵=︶一●°︸杏Φ︶という観点から考察する︒その際︑ス︑・・スは機械と﹁体

造 構   系﹂との類比を認める立場から︑同じ効果を産み出す同じ運動を起こすための︑より少ない部分からなるより単純な仕組 M ヵ   み へ の 進 展 に 機 械の改善が存するのと同じ意味において︑同じ現象を説明するための︑より少数の︑より普遍的な原理か

像 徽   らなるより単純な体系への方向に体系の転換が存するとする視点に立つ︒ ︵宅゜﹂㊤ぷΦ︶ る 湖    ﹁天文学の歴亮﹂に関するスミスの叙述は概要︑以下の通りである︒叙述は︑地球︑太陽︑月︑五つの惑星︑および恒

に ス   星 の 存 在 が 確 認 され︑しかも地球は円盤状の平面であって天界はこの円盤を覆う半球であるとするイオニア学派の宇宙観 バ

  が 否 認されて︑ピュタゴラス学派の登場とともに地球も天界も球体とみなされるにいたった地点から始まる︒

A

     スミスは︑先ず1天動説に即して︑エウドクソスやカリッボスによって唱えられた同心球説と︑アポロニウス︑ヒッパ

  4 ルコス︑プトレマイオスが提唱した離心円説および周転円説の古代の二大体系を概観する︒次いで彼は︑ローマ帝国の崩

(9)

o 壊とアラビア世界の勃興にふれ︑アラビア世界からヨーロッパに伝えられたヒッパルコスの体系とアリストテレスの宇宙 5     観 とを調停しようとする中世のスコラの試みに言及する︒そのあと︑ポイルバッハとレギオモンタヌスによる天文学理論

    の 改革のための努力を瞥見したうえで︑2地動説に議論を移し︑先ず①コペルニクスに照準を合せる︒ス︑ミスによれば︑

  旧来の体系では天体現象は依然﹁混乱﹂した様相を呈しており︑理論装置そのものが天体現象におとらず複雑で錯綜して

    い ることへの不満から︑コペルニクスは﹁最も高貴な自然の作品︹天体︺が︑最も賎しい自然の所産のなかにさえも顕わ

    に 示 されているあの調和と比例︹釣合い︺を欠いた姿で映現することがもはやないように﹂︑新体系の構築におもむいた

    の で あり︑その際︑彼は﹁このように美しく神聖な事物︹天体︺の真の運動は必ずや完全に規則的であるにちがいなく︑こ

    れ らの事物そのものが諸感官にとって快いのと同じ位︑想像力にとって快い仕方で進行しているに相違ない﹂という基本

    想 定 に 立っていた︒ ︵之゜田⁝葦︶コペルニクスの推論過程をたどったのち︑その﹁仮説﹂の妥当性が論じられる︒スミス

    は また︑その体系に対する当時の反論に触れ︑以下︑コペルニクス説における理論上の難点︵近日点と遠日点の問題︶と

   ︽想像力︾にとっての難点ー︽想像力︾は︑巨大な天体や﹁静止﹂していると見える地球がいかにして途方もなく大きな

    速 度 で 回 転しているのかに﹁ついて行﹂けないーがいかにして克服されるにいたるか︑という観点から︑②プトレマイ

    オ ス 説 とコペルニクス説とを調停しようとするブラエの試みとその難点︑③ガリレイの力学原理︵力の合成︶および彼に

    よる諸発見のコペルニクス説にとっての意味︑④ケプラーにおける美的調和のイメージ︑三法則を論究する︒ケプラーに

    よってコペルニクス説における理論上の困難は解決され︑三法則の妥当性はカッシー二の観察によって確証された︒それ

    に もかかわらず︑先の︽想像力︾にとっての困難は︑ケプラー説において運動原理として想定されていた﹁生命的︑非物

  質的力﹂によっても払拭されなかった︒この困難を排除することがデカルトに課せられた︒⑤﹁創造的で想像力豊かな﹂

    デ カルトについては︑その自然哲学の基本原理︵ここでは慣性の法則︑運動量恒存の法則︑真空の否定︶が確認され︑渦

(10)

    動 説 が 概 説 される︒渦動説は︑原初の宇宙空間は根源的に分割された無数の物質粒子によって充たされており︑この粒子

    に 対 して﹁そもそもの根源において万物の創造者によって一定量の運動が付加され︑運動法則は同じ運動量を保存するよ

   うに調整された﹂という想定︵之゜ΦごΦN︶から出発し︑宇宙発生論を展開する︒この箇所でスミスが次の二点に注意を促

  していることは注目に値する︒第一に︑デカルトは︑太陽系は無際限にある惑星系のうちの一つであって︑それぞれの恒

    星 は それぞれの惑星系の中心であることを説き︑そうすることによって﹁宇宙の境界を取り除いた最初の近代人のひとり

    で ある﹂こと︵勾書Oω⁝忠︶︑第二に︑デカルトの体系は天体運動の﹁継起の順序﹂ばかりでなく︑﹁天体および他のほとん

    どすべての自然の諸事物がそもそもの根源において産出されたときの継起の順序をも想像力に対して跡づけようとくわだ

    て た﹂こと︵一く◆Φ98︶︑特に﹁惑星系のそもそもの根源的な形成とその後の運動との原因﹂︵宅゜Φ合留︶を提示しようとす

    る思考実験を行ったこと︑の二点である︒3﹁最後の部分﹂では︑﹁惑星の運動に傾注しようとする際に想像力が覚える

    困難を一切除去するようなよく知られた結合原理によってこれらの運動を結び付けること﹂が可能であることを﹁発見﹂

髄 す ることによぞ・﹁かつて哲学においてなされたことがないような最も適切な・そして今やこう 三てもよいであろう

物 ヵ   が︑最も勝れた︑最も称讃すべき改善﹂を成就した﹁アイザック・ニュートン卿の卓越した天才的才能と明敏な知性﹂

像 偬  ︵︼<°Φご㊤o◎︶が︑﹁重力﹂を根本原理とする︑﹁メカニズムの原理﹂に立つ数学的力学的自然学の︑︵現存の︶太陽系全般に る 紺   対

す る汎通性に即して賞揚される︒

に ジ パ         2 自然の行程と観念の継起ー︽想像力︾の機制I A                 ︵ ス ミスとヒューム︶

ユ 5  右にその概略を見た﹁天文学の歴史﹂の叙述について留意すべきことは︑スミスの叙述が史実に照らして適正であるか

(11)

2 どうかではなく︑天文学﹁体系﹂の﹁歴史﹂的展開は︑彼において︑諸﹁体系﹂の連続的発展の過程ではなく︑非連続的 5    ヘ   へ    な飛躍を通じた自然認識の理論的枠組みとしての﹁体系﹂の転換︵パラダイム・チェィンジ︶の過程として捉えられてい

    る︑ということである︒そして︑そうした体系の転換の局面が驚き︑驚嘆︑および賛嘆・称讃の基本的感情と︑みずから

    の 自然本性にもとつく﹁自然な進行行程﹂を辿ろうとする︽想像力︾の根源的な欲求とに関係づけられている︑というこ

  とである︒

   この連関のなかで体系の転換は次のような構造をとる︒既成の﹁体系﹂の枠組みからは﹁予期されない﹂天体現象︑あ

  るいはその枠組みに照らして自然の﹁通常の行程﹂とみなされうる系列から逸脱した﹁新奇な﹂天体現象は驚き︑あるい

   は 驚嘆の念を惹き起こす︒それは同時に︑︽想像力︾を混乱に陥れる︒既成の枠組みを自明視して﹁習慣﹂的な進行行程に

    埋 没 していた︽想像力︾は不規則的︑不整合的な事態に遭遇することによって﹁自然な﹂進行を阻まれ︑事象に﹁ついて

    行 く﹂ことの困難に直面して﹁平静﹂を失う︒この地点において︑驚き︑あるいは驚嘆がいわば挺子となって︽想像力︾

    は 飛 躍 を 強いられ︑ここに既成の体系は崩壊し︑これに代わる新しい枠組みが構築される︒もし新しい枠組みがより少数

       ヘ   ヘ   へ     の︑より普遍的な原理によって当の不規則的︑不整合的な現象を十全に説明することができるならば︑それは従来の体系

       ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  へ     に お い て は 例 外 とされていた事象をより普遍的な体系のなかへと救い上げることができる︒それはまた同時に︑︽想像力︾

  が一段高いレヴェルにおいてこれらの事象に容易に﹁ついて行く﹂ことを可能にし︑そのことによって︽想像力︾を混乱    から救い出す︒しかもその際︑この新しい体系‖枠組みは︑それが開示する自然の﹁壮大な景観﹂︵より普遍的な斉一的

       ヘ   ヘ   へ    

連 関構造︶ゆえに︑同時に体系自身の﹁美しさと単純さ﹂︵理論的内部脈絡の整合性と原理の単一性・普遍性︶ゆえに︑

   賛 嘆・称讃を惹き起こす︒のみならず︑体系の転換がラディカルであれぽあるほど︑新しい体系は体系自身とこれが描き

   出す自然の景観との︑既成の観念からの隔たりゆえに︑体系に対する驚き︑あるいは驚嘆を惹き起こしもする︒しかしな

(12)

    が ら反面︑新しい体系が未解明の例外事象を残存させる場合︑事象に対する驚き︑あるいは驚嘆は全面的には払拭されず︑

   ︽想像力︾は依然として混乱から脱却できないままである︒スミスは以上のようなパースペクティヴに立って体系の転換の

    構 造 を 解 明しようとする︒

      例えぽ︑ス︑ミスは彼が﹁最初の整然とした天文学体系﹂と呼ぶ同心球説がおさめた成果とそれが及ぼした精神的作用に

   ついて︑こう評している︒﹁この体系は天界のなかで最も壮大で︑外見上最もぽらばらに見える諸現象を想像力のなかで

    ︵ ぎ夢o一∋ロσq5旬江oロ︶結び付けることができる︒﹂﹁この体系がそのそつのない真実らしさによって人々に信奉された

    とすれば︑それはまた︑この体系が想像力に対して眼前に提示した自然の景観の新奇さと美しさとによって彼らの驚嘆と

  賛嘆・称讃をひき︑これらの感情は彼らの信奉の念をなお一層堅固にした︒﹂﹁諸天体の運動と距離のなかに顕わに示され

    る調和的な比例のようなものをプラトンに想い描かせたのは︑また天球の音楽︵So哀c巴o犀o﹃⑩℃庁o目ω︶という有名

    な想像を初期のピュタゴラス学派に示唆したのは︑まさにこの体系の美しさであったように思われる︒﹂︵一く.鼻IO⁝OΦーペ︶

造 構

   また︑コペルニクス説に即して︑これによって太陽中心︑﹁天空﹂︵夢o⌒詳日③日6暮s恒星界︶の静止︑各惑星の太陽

M 勧   か らの配列順序︑全惑星の公転と地球の自転︑他の惑星の順行.留.逆行現象︑地球の自転軸の傾斜︑等の問題が解明さ

徽   れ た 局面に照準して︑スミスはこう述べる︒﹁ここまでに関しては︑この新しい事物の解明は天界の諸現象を旧来のどの る 紺  ような体系によっても成就されなかったほど完全に整合的にした︒しかも︑より美しいばかりでなく︑より単純で知性が

ス   了解できる理論装置をもってそうしたのである︒⁝⁝︹コペルニクス説は︺想像力を周転円の煩わしさからぽかりでなく︑ バ ・ プトレマイオスとアリストテレスの体系が全惑星に賦与した二つの反対方向の運動︹西へ向かう日周運動と東へ向かう年 A

    周 運 動︺が同時に進行するのを観念のうえで思念することの困難からも解放した︒⁝⁝五個の惑星は他のすべての体系に

ヨ 5 もとづけぽ︑想像力が慣れているものすべてに似ても似つかない︑それだけで異種の事物であると思われるが︑しかしこ

(13)

4 れらの惑星が地球とともに太陽の回りを回転すると想定すれば︑それらは地球と同種の事物︑生き物が生息可能で不透明 5     な︑ただ太陽光線によってだけ照らされる事物であることが自然に理解された︒L︵宅゜ωN⁝べ吟ーO︶

   

  さらにスミスはコペルニクス説の革新的な意義を次の点にもとめる︒﹁この体系が想像力の好むところとなったのは︑

    た だ そ の 美しさと単純さによってだけではなかった︒体系が想像力に対して開示した自然の景観の新奇で予期されなかっ

    た 様 相は︑体系がそれをば自然で馴染みやすくするために編み出されたところの諸現象のなかでも最も奇怪なもの以上に︑

  驚嘆と驚きを惹き起こし︑これらの感情ゆえに体系はなお一層愛好された︒というのは︑異常な自然現象か︑外見上ぽら

   ぼ らの自然現象かのいずれかが惹き起こす驚嘆を鎮静することが哲学の目的ではあるけれども︑哲学が最大の勝利をおさ

   めるのは次のときにであるからである︒そのもの自体としては多分取るに足らない少数の事物を結び付けるために︑哲学

   が︑それらの現象そのもののどれよりも自然で︑想像力がより容易に傾注することができるような︑しかしより新奇で︑

    通 念 や

通 常の予期により対立するような︑もしそう言ってよけれぽ︑もう一つの諸事物の結構︵§o古庁o﹁ooロω註后註oo

  oh汗宮吟ω︶を︹思想のなかで︺創造したとき︑である︒﹂︵之゜ωω⁝ば︶

     ところで︑以上考察してきたところから明らかなように︑体系の転換の局面には︑1一定の枠組みに包摂されえない例

  外事象に遭遇するとき︑︽想像力︾は﹁平静﹂を失うということ︑および2新しい枠組みを設定することは当の例外事象を

   より普遍的な体系のなかへと救い上げると同時に︑︽想像力︾をその混乱から救い出すことであるということが︑一つの事

  態の両面として含まれている︒前者を一定の枠組みの内部で︽想像力︾が辿る﹁自然の行程﹂と﹁観念の継起﹂との対応性︑

  後者を﹁現象の救済﹂と﹁精神の救済﹂との同時相即的連関構造とそれぞれ呼ぶとすれば︑この二つの契機が体系の転換

   という事態を構成している︒以下︑1をめぐってスミスにおける︽想像力︾の構造をヒュームにおけるそれとの対比にお

   いて解析し︑あわせてヒュームの﹁人間学﹂のモティフとの関連において2の問題をみる︒その前段として︑驚きと驚嘆

(14)

    に 関するスミスの所説を要約する︒

      先 ず︑驚きについてみれば︑その特質は︑驚きがそれだけで独立した根源的な感情ではなく︑精神状態の特定の様相で

    あることに存する︒予期または予見されていない事物や事象・事態ーこれが既知であるか全く未知であるかを問わず︑

    精 神がこれの出現・出来・生起に対して準備しておらず無防備であることが要件であるーが出現したり生起する場合︑

   これに誘発されて強い情念が惹き起こされれば︑それは心を席巻し﹁激烈で発作的な感情﹂の渦に巻き込む︒こうした感

    情 が 突然︑一挙に襲うときに精神状態に及ぼす﹁激しい突然の変化﹂にこそ︑驚きを驚きたらしめるその﹁全本性﹂が存

    す る︒︵︼°N切⁝ω古留︶

      次 に︑驚嘆は︑全く未知の︑したがって予期・予見されていない新奇な事態によって惹き起こされるものであり︑この

  ようなものとして驚きの局限され限定された様相である︒驚嘆について︑スミスは二様の場合に分けて考察する︒第一は︑

  旧来の分類体系における既成のカテゴリー︵論理学上の﹁類﹂Ooロo﹃ρと﹁種﹂Q力Ooo8ω︑あるいはロック︑バークリィ︑

髄  ヒュームのいう﹁抽象的一般名辞﹂pOω茸旬oけ§臼゜Qoロo﹁巴ロ四日oω︶に包摂されえない個物︵ω日oq冨§口日象く狂ロ巴

泌 力  o忘⑦9ω︶が出現する場合である︒この新奇な事物や事象・事態は﹁想像力のなかで︑ただこれだけが孤立し﹂︵ω9昌餌ω

像 隈   巴oロo①⇔創O町津ωΦ罵一ロけ庁o一日ロoa一ロ暮一8︶︑既成のカテゴリーのなかにおさまらない︒﹁記憶力﹂︵日O日O﹃司︶はこれ る 紺  と﹁類似﹂した事例を想起しようとしても甲斐なく︑︽想像力︾がそれを取り込めるカテゴリーを捜し求めても徒労であ

ス   り︑両者は﹁動揺﹂を余儀なくされる︒こうした︽想像力︾の﹁動揺と甲斐なき想起︑ならびにこれらが惹き起こす感情︑ パ ・ あるいは精気︵冶ま・ω︶の運動﹂に︑驚嘆の﹁本性﹂が存する︒︵目゜ω⁝㏄㊤︶しかし同時に︑驚嘆は﹁探究せずにはいられ A

    ない好奇心︹知識欲︺﹂︵旬ロ×ざqωo¢ユoω含望︶としての性格をも具え︑このようなものとして︑新奇なものを包摂するこ

ら 5 とのできる新しいカテゴリーを創出するための挺子となりうる︒

(15)

6  第二は︑一定の枠組みの内部で︽想像力︾が辿る﹁事物の通常の行程﹂に従わない︑あるいはこれから逸脱した事態が 5    生起する場合である︒この問題局面を考察するにあたって︑スミスはヒュームが切り拓いた﹁人間学﹂︵むn6︷O口660柏呂旬P︶

   ヘ   へ

   の地平を踏まえ︑ヒュームが承認した︽想像力︾の積極的な意義を継承する︒この点に関するスミスの論述を煩をいとわ

  ず以下に引用する︒ス︑ミスをして語らしめよう︒

      コ一つの対象が︑どんなに似ていないにせよ︑他方が一方に次いで現れるのがこれまでに何度も観察され︑たえずその

  順序で諸感官に対して現前してきた場合︑両者は︑一方のものの観念が自ずからひとりでに他方のものの観念を喚び起こ

   し導き入れると思われるような具合に想像力のなかで結び付けられるようになる︵夢o匂8日09σoωoooロ昌9村●陣一ロ   芸o吟昌6S夢9夢o江go木夢06βoω8日のoご書o≦ロg8a∨88已cO旬ロ住︷旨茸aξo汁ゲ90吟夢oo夢雲︶︒

  当の二つの対象が︑以前と同様に他方が一方に次いで現れるのが依然︑観察されるならば︑この結合関係は︑あるいはこ

   の関係はこう呼ばれてきているのだが︑この両者の観念の連合︵白巨ω旬ω80冨庄oロoS庄o声﹃定8ω︶は︑ますます厳密に

  なり︑一方の想念から他方の想念へと移行する想像力の習慣︵夢o冨ひ詳o冷90一日旬σqぎ旬江oロ︶はいよいよ堅固になる︒

  想 像 力の諸観念は外界の諸対象より速やかに運動するので︑想像力は絶えず諸対象の先を駆けており︑それゆえ︑この諸

  事 物の通常の行程︵・巨ωoaぎ旬蔓8ξωooご宮Rω︶にしたがって起こるすべての出来事を︑これが生起する以前に予

  料 す る︵9江o甘巴o︶︒こうして想像力の諸観念がそれにおいて動くのになれている系列・順序で︑しかもまた諸感官に

  対 して出現する出来事の系列・順序によって導かれるのではないにせよ︑想像力の諸観念が自ずからひとりでにそれにお

  いて進む傾向を獲得しているのと同じ系列・順序で︑諸対象が継起するとき︑そうした対象はすべて相互に緊密に結び付

け られているように現れ︑思考は努力せずに︑断絶なしに容易に滑らかにそれらについて行く︵σq一一●OO一〇口σq笥一●#●#O日︶︒

  それらは想像力の自然な進行行程︵夢Φロ旬9﹃巴8吋oo叶o︷90一目ロ・q日巴戸oロ︶と合致する︒そしてそのような諸事物の

(16)

    系 列・順序︵ωco#旬☆①ざoS昏日oqω︶を表示する諸観念はすべて互いに他のものを導き入れ︑︹その時々の︺思考はす

   べて︑先行する思考によって喚び起こされ後続する思考を喚び起こすように思われるであろう︒生起する諸対象の場合も︑

  それぞれの出来事︵o<oロ・︶は︹諸観念の継起と︺同じ様に︑先行のものによって導き入れられ後続のものを導き入れる

  ように思われる︒⁝⁝これほど緊密な諸事物の連鎖によって惹き起こされる諸観念はいわば自ずからひとりでに心のなか

  を軽やかに通り抜け︑そのため心は観念から観念へと次々に移行するのに奮尽し苦労する必要がないのである︒

   

  しかしこの習慣的結合︵け巨ωoc馨o日旬qooロ巨oo江o昌︶が切断されるならば︑すなわち︑ 一つの︑あるいはそれ以上

    の 対 象 が︑想像力がそれに慣れており︑またそれに対して準備ができているこれまでの順序とは異なった順序で現れるこ

    とがあれば︑以上のこととは正反対の事態が生起する︒わたしたちは当初︑新しい現象の予期されなかったことに驚き

   ︵陣﹃O ωρ﹃O﹃一ωO臼︶︑この一時的な感情が消滅しても︑わたしたちはなお︑その現象がどうしてそうしたところに生起した

    か を︹いぶかり︺驚嘆する︵乞op●⑦﹃︶︒もはや想像力は先行の出来事から後続の出来事へと移行するのに︑これまでのい

造 構  

つ もの容易さを感じることがない︒想像力はそうした継起の順序ないし定則︵①︼P O﹃●O﹃O﹃一口♂< O吟 ω口OOOωω声〇一P︶に慣れ

い 働   て お らず︑それゆえこれを辿ったりこれに傾注するのに少なからず困難を覚える︒想像力︵叶庁O S9昌6ぺ︶は停止させられ︑

巡 ・れまで進んできたあの自然蓮動あるいは進行行程を遮断される︒あの二つの出来事は互いに他から隔たぞいるよう

紺   に 見 える︒想像力はそれらを結び付けようと努力するが︑両者はどうしても結合しない︒想像力は両者の間に間隙ないし

に ス   断 絶のようなものを感じる︑あるいは感じると想像する︒想像力は自然にためらい︑いわぽこの断絶の淵で立ち止まる︒

ミ 弓   想 像力はその間隙を埋めることができるものを探り出そうと努める︒つまり︑外見上︑遠く隔たっている対象と対象との A  

  間の思考の移行を円滑で自然で容易にしうる程度に少なくともこれらの対象を橋のように結び付けることができるものを

  5 探り出そうと努めるのである︒不可視ではあるが中間の媒介的な諸出来事︹諸事象︺︵⁝暮o﹃日o象暮O↓夢o已頓庁︷昌く︷牲窪o︑

(17)

8 Φ<Φロ汁ω︶︑想像力がこれまでそれにおいて動くのに慣れてきた系列・順序と類似した系列・順序において継起する諸出来 5     事で︑しかもばらぼらの二つの現象を連繋する諸出来事︑こうした諸出来事の連鎖を想定することこそが︑想像力がこの

   断 絶 を 埋 め ることができる唯一の手段であり︑こう言ってよいならぽ︑一方の対象から他方の対象への想像力の移行を円

    滑 に す ることができる唯一の橋である︒こうして︑天然磁石が動くと︑その後これに従って鉄片が動くのを観察するとき︑

    わ た したちは目を見張って立ち止まり︑こんなに異常な系列・順序で継起する二つの出来事の間に結合関係が欠如してい

    ると感じる︒しかし特定の不可視の発散気︵O︵冷一口く声旬︶が一方の物の周囲を巡り︑その反復的な衝動によって︑この物の

    方へ︑しかもこの物の動きに後続して動くように他方の物を駆り立てると︑デカルトとともに想像するならぽ︑わたした

    ち は 二 つ の 出来事の間の断絶を埋めるのである︒いわば橋をかけるようにして両者を結び付け︑一方の出来事から他方の

    出来事へと移行する際に想像力が覚えたためらいと困難とを取り除くのである︒⁝⁝そのように結合された二つの対象は

  もはやぼらぼらであるとは思われず︑想像力は円滑に容易に両者︹の動き︺について行く︒﹂︵﹃下○︒ぷO−N︶

     一読して明らかなように︑ここでスミスは困果関係に関するヒュームの論理をみずからの︽想像力︾の論理の地平へと

  取り込もうとしている︒この問題局面において取り上げられる論点は︑①諸事象・観念の﹁継起﹂と②﹁自然の行程﹂と

    ﹁

観 念の継起﹂との対応性である︒

      先 ず︑①の論点についてヒュームの見解をみよう︒それは彼の﹃人間本性論﹄での区分に従えぽ︑第一篇第三部で論じ

    られる﹁原因と結果の観念﹂︵け●O 一αO口O⌒O①口ω6旬口臼O喘︷OO●︶の問題である︒因果関係はヒェームにおいて︑﹁それによ

    っ て 二 つ の 観念が想像力において結合され⁝⁝︑その一方が自然に他方を導き入れる性質﹂を意味する﹁自然的関係﹂で

  あることを特色とする︒﹁印象の観念に対する先行性の原理﹂︵夢o買芦9巳oo︵夢o實︷oユξoパ声日買o詔合ロω9一αo①ω︶

    か ら厳密にいえば︑この関係は︑現前する印象または観念がいまだ現前していない観念︑しかし想像力において予料され

(18)

    た 観 念に関連づけられうる唯一の関係である︒因果関係を究明するにあたウて︑ヒュームは︽想像力︾の機能に積極的な

    役 割 を付与している︒このことは︑因果関係の本質的な要素として彼が挙示する三契機︑原因と結果との時間的・空間的

    ﹁

近 接﹂︵68江σq巳身︶︑原因が結果に時間的に先行する﹁継起﹂︵ωc80ωω﹂o目︶︑および原因と結果との﹁必然的結合﹂

    ︵ ロoooωω自町ooロ昌oo怠oロ︶のうちの第三のものに関わっている︒

    ﹁ 必 然 的

結 合﹂の問題をめぐっては︑ヒューム以前の哲学者︑たとえぽJ・ロックは︑原因とされる事能︹から結果と目

    される事態への﹁継起﹂だけでは満足せず︑原因による結果の﹁産出﹂︵買o皇¢o江o昌︶にも着目し︑﹁継起﹂と﹁産出﹂と

    の 間の動揺のなかで︑﹁産出﹂の原理としての﹁力﹂︵Oo≦o﹁︶の考察におもむき︑彼の哲学的主著﹃人間悟性論﹄︵﹀ロ

   国ωω旬望oo昌否o日一昌oq出已日p旨己昌●o易け§臼冨σq︑﹂O㊤O︶の第二巻第二;早﹁力について﹂をことさら長くさせたという経

    緯 が ある︒ヒュームは︑外的事物そのものに即した﹁必然的結合﹂を﹁︹われわれにとっては︺未知なる﹂ものとして括孤

    に くくり︑物の側から因果関係を説明する立場を斥け︑これを一八〇度回転させる方向で︑意識︵11︽想像力︾︶の作用か

造 構

  らそれを解明しようとする︒因果関係は外的事物に即した客観的な関係ではなくして︑まさに︽想像力︾における主観的

め 力

  な結合なのである︒こうした連関において︑﹁原因﹂は﹁他のものに先行し近接し︑しかもこの他のものと想像力におい

像 徽  て次のように結合しているもの︑すなわち︑そのものの観念が他のものの観念を作るように心を決定し︵Oo9﹃日ヨoω夢o

る 紺   日芦△︶︑またそのものの印象が他のものの︑より活気ある観念を作るよ゜うに心を決定するような仕方で結合しているも

こ      む ペ       ユ

ス   の﹂︵弓も﹂謁︶と定義される︒あるいは︑﹁他のものがそのものに次いで現れるところのもので︑しかもそのものに類似 バ

  したものすべてに次いで︑この他のものに類似したものすべてが現れる場合の当のもの﹂︵団゜も゜弍︶︑あるいは﹁他のも A     の が そ の ものに次いで現れるところのもので︑しかもそのものが現れると︑その出現は他のものの思想を必ず伝えるとこ

  5 ろの当のもの︵弍●oω●旬bUo胃§oo巴≦ρ匂ω8p<o誘日o夢o已ぬ宮o喘葺oo夢o﹃︶﹂︵国゜もごべ︶と規定される︒それゆ

(19)

0 え︑因果関係を成立させる根拠は︑諸事象の﹁不断の継続発生﹂︵ooPω$98忌已昌o江o昌︶という過去の事例の想起にも 6     とついて︑現前する印象または観念から︑その結果とされる事象の観念を喚び起こす︽想像力︾の性向・作用にある︒

   ﹁類似した諸事例の反復ののちに︑ひとつの出来事︹事象︺︵o<6暮︶が現れると︑心は習慣に促されて︑通常その出来事

    に

随 伴するものを予期し︵o×づ09︶︑これが存在するようになるであろうと信ずる︵ぴoばΦ<o︶にいたる︒それゆえ︑わ

    た したちが心のなかで感じる︵咋oo一︶この結合︑あるものから通常これに随伴するものへの想像力のこの習慣的な移行こ

    そ︑わたしたちが力あるいは必然的結合の観念をそこから形成する基盤となる感情あるいは印象なのである︒﹂︵国゜も゜謡︶

     ス︑ミスはヒュームが切り拓いたこのような︽想像力︾の地平を継承し︑︽想像力︾の積極的な作用の意義を承認する︒

    問 題 は︑その︽想像力︾の積極的な作用の意義をいかなる文脈において捉えるかであり︑この点からヒュームとスミスと

   が 進 む 主 張 の 方 向が分岐する︒ヒュームにおいて︑関心の力点は現在の事態の所与性と直接性からの脱却と未来の事態の

   予 料 に ある︒︽想像力︾は過去に現れたのと類似の出来事・事態・事象の連鎖を未来に向かって期待させる基盤であり︑

    時 間 的 未来への展望を切り拓く原理である︒それはまた︑実践的行為の局面においては︑過去の事例の想起と未来の事

    態の予料との緊張のなかで行為への決断を促す契機となる︒これに対してス︑ミスの場合︑ー論文﹁天文学の歴史﹂に関

    す るかぎりでー︽想像力︾の作用は一定の枠組みのなかでの︽想像力︾の作用として捉えられる︒未来の事態を予料す

    る︽想像力︾の作用は︑︽想像力︾が質料性を獲得して﹁習慣﹂化している場面︑換言すれば︑Aの事態が生起すれば︑それ

   に 後続してBの事態が必ず生起するという﹁継起﹂を自然なこととして自明視しているような場面において照準されてい

  る︒このことは︑︽想像力︾は二つの側面ないし機能を有することを意味する︒一方で︑︽想像力︾は新しい理論的枠組み

    に ﹁ つ い て 行﹂けないとき︑これを拒絶し︑逆に﹁ついて行く﹂ことができるかぎりにおいてこれを質料化する︑という

    ことである︒このようなものとしてそれは︑新しい体系の妥当性を判定する主体的基盤であるとともに︑それを常識化す

(20)

    ることによって社会的質料に転化する働きを演ずる︒しかし他方で︑それは既成の枠組みを自明化し固定し︑硬直化させ

  る︑ということである︒スミスが﹁教育・教化によって補強された感覚の自然的な偏向﹂︵司ω9べΦ︶に着目するのは︑社

    会

的 質料と化し作為的に自然化され無意識化された通念の︑社会的場面での拡大再生産の弊害に即してなので︑ある︒その

   意 味において︑質料性に埋没した︽想像力︾が覚醒をせまられる局面が﹁予期﹂されない﹁新奇﹂な事態の出現なのであ

       ヘ  ト  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ト  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ     り︑体系の転換は︽想像力︾の自己否定的な転換をまって可能なのである︒

   

  次に︑②の論点︑﹁自然の行程﹂と﹁観念の継起﹂の対応性についてみる︒この点に関して︑ヒュームは両老の間に一

    種の﹁予定調和﹂が成り立っているとして︑次のように言っている︒﹁自然の行程とわたしたちの観念の継起との間には

      へ   て   ヘ   ヘ   ト   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヤ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

   一種の予定調和︵ρ江p△oh肩o−oω90目ω庁o臼げ自日oロ町︶がある︒前者を支配する力や勢力はわたしたちにとって全く

  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  

  未知である︒それにもかかわらず︑わたしたちの思考や想念はやはり︑他の自然の作品と同じ系列・順序において︵一ロ日⑦    ωp日o障巴口司津庁けゴoo夢o﹃笥o﹃犀ωo木ロ曽旨o︶進行してきていることを︑わたしたちは見出す︒﹂︵国゜も゜9占゜傍

造 礪   点 引用者︶﹁自然はわたしたちに四肢の使い方を教えこそすれ︑それらを運動させる筋肉や神経についての知識をわたし

  勧   た ちに与えなかった︒それと同様に自然は︑自然が外界の事物の間に確立した行程と対応する行程をとってわたしたちの

穂 思 考 を 推 し進める本能をわたしたちの内部に植え付けたのである︒も・ともぶ璽忽欝繧貧ど欝ぎ面鹸

け ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 疏   に よってたつ力と勢力については︑わたしたちは全く無知であるけれども︒﹂︵国゜日゜切間傍点引用者︶

口     先にみた因果関係をめぐるヒュームの議論はこうした﹁自然︹の諸事物︺の行程﹂と﹁観念の継起﹂との間の対応性を

ス か   ﹁ 予 定 調 和﹂として想定する発想を基盤として前提している︒スミスはこのヒュームの前提を承認し︑みずからの論理の

    なかに取り込もうとする︒ヒュームにおいて︑この前提はいわば一般論︑ないし原則論として提示される︒自然哲学の領

ユ 6 域であると経験的日常的場面であるとを問わず︑継起的因果論 般の根本想定として議論の基盤に据えられる︒スミスはこ

(21)

2 れを個々の枠組み.体系.パラダイムの文脈に即して捉える︒ある体系の文脈の内部ではA←Bという事物・事象の継起 6     とX←Yという観念の継起との間に対応性が認められても︑他の体系においては︑A←C←Bという自然の行程が﹁通常﹂

    の 継 起 とされ︑X←Z←Yという観念の継起がそれに対応する自然な継起の順序とみなされる︒﹃道徳情操論﹄のヵテゴリ

  ーを使⇔て当の対応性を﹁適正性﹂と呼ぶとすれぽ︑ちょうど﹁当事者﹂と﹁観察者﹂との間の感情が対応・一致する水

    準

で ある﹁適正点﹂︵●げO ℃O一昌ひ Oパ O﹃OO﹃︷Oひ町︶と同じように︑﹁自然の行程﹂と﹁観念の継起﹂との﹁適正点﹂は動的︑

   可 変的︑流動的なのである︒︵なお︑これまで引用したヒュームの文章のなかの傍点を付した部分でふれられる︑ヒュー        1ー    ムが﹁未知﹂なるものとして括孤にくくった﹁実在的な基準﹂や﹁力と勢力﹂といったことがらはスミスの枠組みにおい

    て どう処理されるのか︑ーこの点については次章で検討する︒︶

    さらに︑如上の論点のほかに︑ヒュームの﹁人間学しの論理的地平とそのモティフがスミスの論文﹁天文学の歴史﹂に

    お ける︽想像力︾の論理においてどのように継承され展開されているかを︑先にふれた2﹁現象の救済﹂と﹁精神の救済﹂

    の 同時相即的連関構造に即して確定しよう︒

     ヒュームは︑﹁人間の自然本性に関する学﹂︵●庁OωO一〇口OOOS 庁β日oo口 昌餌﹇⊆﹃O︶として︑しかも諸学の基礎学ともいう

   べき︑いわぽ第一哲学として﹁人間学﹂を構築しようとする志向を﹃人間本性論﹄﹁序論﹂で表明している︒ヒュームをし

   て語らしめよう︒﹁すべての学問が多かれ少なかれ人間の自然本性との関係をもっていること︑そして諸学問のなかには︑

    人 間 の 自然本性からどんなに遠く離れているようにみえるものがあろうとも︑これらはやはり何らかの通路を辿って人間

      ヘ    ヘ        ヘ    ヘ    ヘ    ヘ        ヘ    ヘ    へ    も    の 自然本性に立ち帰ってくることは︑明らかである︒数学︑自然哲学︑自然宗教でさえ︑ある程度まで﹃入間﹄の学に依

  存している︒というのは︑これらの学問も人間の管轄権のもとにあり︑人間の力と能力︹という権能︺によって裁決され

  るからである︒もしわたしたちが人間悟性の及びうる範囲と勢力を.:...︸知りつくし︑推理に際してわたしたちが用いる

(22)

    観 念の本性と︑そのときわたしたちが働かせる作用の本性を解明することができるならば︑これらの学問はどれほど改変

   され改善されるか︑これを語ることはとてもできないほどである︒﹂︵弓゜も゜図く︶﹁わたしたちが哲学的探究を行う際に成

    功をおさめるのを期待しうる唯一の方策は︑これまで採ってきた迂遠な方法を捨てて︑そのおりおりに辺境の城や村をあ

    ち こ ち と奪取するかわりに︑諸学問の首府ないし中心部である人間の自然本性そのものにまっすぐ進撃することである︒

    ここをひとたび手中に収めれば︑ほかはどこへ行っても容易に勝利を望みうるのである︒﹂︵∩ワこb°×<︷︶

      ス ミスが着目するのは︑諸学問にそれがよって立つ基盤を与える基礎学としての﹁人間学﹂の役割であり︑しかもこれ

    が ﹁ 人 間の自然本性の原理﹂の探究を第一義的な課題とするという基本性格である︒論文﹁天文学の歴史﹂が﹁哲学的探

  究を蕎導する諸原理﹂を究明しようとする構想のもとに成立したことは既述の通りである︒その構想はここでは︑﹁人間

    の 自然本性の原理﹂を探究する方向に限定され具体化される︒その際︑﹁進撃﹂目標として照準されるのが人間的自然の

   ﹁原基﹂︵05昌9亘o︶ともいうべき︽想像力︾である︒﹁人間学﹂の探究は︽想像力︾の構造を解明する作業として︑また

髄   これに即して遂行される︒次に︑基礎学としての﹁人間学﹂はここでは︑﹁自然哲学﹂︵2ロ9﹃巴㊦庁匡oωo℃げ町︶に関係づ

吻 働   け られる︒前者は﹁人間的自然の原理﹂‖︽想像力︾の原理を探究する学として︑﹁自然の結合原理を探究する学﹂である

⊇ 後者を次三点で自己の﹁管藁﹂のもとに置く︒第三︑自然哲学における天文き体系﹂の転換は人間的自然の﹁原

紺   理 ‖原基﹂たる︽想像力︾の自己否定的な転換をまって可能となる︒論文﹁天文学の歴史﹂はただ単に天文学体系の﹁歴

に   史﹂的転換の叙述であるのではない︒それは同時に︽想像力︾の﹁自然史‖自然誌﹂︵昌暮巨巴巨︒︒9昌︶でもあるという様

ス か   相を帯びる︒﹁歴史﹂的な相における︽想像力︾の発現形態の﹁記述﹂︑天文学体系の転換過程に即した﹁記述﹂なのである︒

    第

二 に︑その︽想像力︾は︑それ自体は﹁精神哲学﹂︵ζ自巴勺巨一〇ω8ぽ町︶の探究領域に属することがらでありながら︑

ヨ 6 ﹁現象の救済﹂と同時に﹁精神の救済﹂が成立する基盤として︑﹁ナチュラル・フィロソフィ﹂と﹁モラル・フィロソフィ﹂

(23)

64 とを連繋する︒さらに︑この点をみていこう︒

  ス ミスは言っている︒﹁通常の観察で得られるかぎりでの最も広範な経験をつんだあとでも︑自然界は次のような出来

事 ︹ 事 象︺に満ちているようにみえる︒それだけが孤立して︑それに先行するすぺての出来事と整合しないように映じ︑

そ れ ゆえ想像力の容易な運動を混乱させる出来事︑想像力の観念の継起を︑もしそう言ってよけれぽ︑突然動き出したり

突進したりする規則に従わない動きに転じ︑こうして︹心の︺混乱と錯乱を惹き起こす傾向が大幅にある出来事が充満し

て い るようにみえる︒哲学はこれらすべてのぼらばらの諸事物︹事象︺︵ω=●庁o︒力o合&oぎ9△oO一2﹇ω︶を結び付ける

見えない連鎖を眼前に提示することによって︑不愉快で調和を欠いた諸現象のこの混沌︵oロ旬oω︶のうちに秩序︵oao﹃︶

を 導 き入れようと努力し︑想像力のこの動揺を鎮静させ︵巴冨く葺冨9日己古︶︑宇宙の壮大な回転︵夢o°q﹃09冨くo−

一 c江8ω︶を観望するときの想像力に︑それ自体で最も快くもあり想像力の本性にとって最も適合的でもあるあの平静と沈

着の状態︵夢巴古80鳥☆①昌ρ巳一一身§●8日︹δ︒Dξo︶を取り戻そうとする︒﹂︵貝﹂o︒⁝冷よ︶

  ここで一般論として説かれていることは︑自然哲学は観察された不規則的︑不整合的な現象を統一的︑整合的に説明す

る理論的枠組みを提出することをみずからの課題とするのであり︑このことはとりもなおさず︑現象の﹁混沌﹂によって

陥った錯乱から︽想像力︾を救い出し精神の﹁平静と沈着﹂をもたらすことに他ならない︑ということである︒これを天

文 学 ﹁ 体系﹂の転換の個々の局面に即して特殊化していえぽ︑新しい理論的枠組みが現象をよりよく説明することができ

るならば︑それは従来の体系においては異質な例外とされていた事象をより普遍的な体系のなかへと救い上げ︑このうち

      ヘ   ヘ   へ で 生 か す ことができ︑同時に︑︽想像力︾が旧来より一段高いレヴェルにおいてこれらの事象に容易に﹁ついて行く﹂こと

を 可 能 に し︑そのことによって︽想像力︾を混乱から救い出すことができる︑ということである︒このようなものとして

﹁ 現 象 の

救 済﹂は﹁精神の救済﹂なのであり︑しかも両老は同時的な連関構造において捉えられている︒

(24)

     

﹁ 現象の救済﹂あるいは﹁みかけを救う﹂︵㎏具∩ミ﹃寝ミミ︒盲這︑ω巴くg﹁⑦弓げ知600日oロP留#心﹃o①O層曽oロ巴①切︶と    は︑もともと︑観察された現象に合致する仮説をこれの真偽とは無関係に立てることを意味した︒しかるに︑コペルニク

       ー2

   スが﹁地球に関係づけるならぽ諸星の運動と見かけがどんなにまで救われるか⁝⁝﹂と語り︑G・W・ライプニッツが

      ト   ヘ   へ    ﹁ 仮

説 というものはすべてわざとこしらえた︵曇け︒°・︒苫轟ω︶ものであり︑体系というものはすべて⁝⁝現象すなわち

       13    みかけを救う︵ωロ已くo﹃一〇ωOゴo昌o日oロoωo⊆巷ロ曽oβooω︶ことを目的としている﹂として仮説と体系とを区別するとき︑

      ヘ  ヘ      ヘ  へ     ﹁ 現 象の救済﹂とは現象の説明原理あるいは根拠を提出する確固とした理論の構築を志向する︒スミスにおいてそれは︑

    例外的な個別的事象の個別性を尊重し︑その個別性を救い上げる方向で一般原理を提出するところに照準される︒その意

    味 で︑﹁自然誌・実験誌﹂の辛抱強い蒐集を踏まえて﹁知性の梯子﹂を一段一段登る道程の長きに耐えるベィコン的精神

    は ス ミスにおいて生きている︒またカントが﹁必然性﹂とならんで客観的自然認識の要件として﹁普遍性﹂を要求するの

  は︑例外を異質なものとして枠組みから排斥してはならないとする個別性尊重からの普遍性志向のゆえなのである︒

造 礪    ここで着目しなければならないのは︑哲学は﹁想像力に連繋する技術︹技巧・技芸︺︵夢o︒・og詳のξ巨o廿①△合霧ω   働   夢o日のo#o︒・9夢o一日旬oq日旬庄op︶のひとつ﹂︵ロ゜旨ぷΦ︶であるという性格規定と︑哲学と︽想像力︾との関連づけの

想 ぷ   仕 方 で ある︒第一に︑ある理論的枠組みの構築が﹁天界の現象を想像力のうちで結び付ける﹂試みとして︑統一性.整合

け 疏   性 を もとめる︽想像力︾の統一作用を基礎とし︑また体系から体系への転換を可能にする根拠が︽想像力︾の﹁飛躍﹂

ジ  ︵⌒=㈹宮︶を伴う自己否定的な転換にあるとすれぽ︑﹁自然哲学﹂の成立基盤の究明は同時に﹁精神哲学﹂の作業でもある

  という性格を担う︒第二に︑﹁自然哲学﹂は対象面での﹁現象の救済﹂と同時に主体面での﹁精神の救済﹂を目指し︑﹁平 A

    静と沈着﹂への精神の欲求を充足しようとするものとして︑﹁精神哲学﹂の圏域にその一環として帰属するものであると

65     い えよう︒こうして︑﹁自然の結合原理﹂の探究の学としての﹁自然哲学﹂は︑︽想像力︾の地平のうえに定位されて︑﹁人

参照

関連したドキュメント

(J ETRO )のデータによると,2017年における日本の中国および米国へのFDI はそれぞれ111億ドルと496億ドルにのぼり 1)

[r]

 TABLE I~Iv, Fig.2,3に今回検討した試料についての

一丁  報一 生餌縦  鯉D 薬欲,  U 学即ト  ㎞8 雑Z(  a-  鵠99

 中国では漢方の流布とは別に,古くから各地域でそれぞれ固有の生薬を開発し利用してきた.なかでも現在の四川

16)a)最内コルク層の径と根の径は各横切面で最大径とそれに直交する径の平均値を示す.また最内コルク層輪の

この小論の目的は,戦間期イギリスにおける経済政策形成に及ぼしたケイ

quarant’annni dopo l’intervento della salvezza Indagini, restauri, riflessioni, Quaderni dell’Ufficio e Laboratorio Restauri di Firenze—Polo Museale della Toscana—, N.1,