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源氏物語と長恨歌 其四・其五

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(1)

四一

源氏物語と長恨歌   其四・其五

上   野   英   二 其四   竹取と浦島

『源氏物語』の一部始終に、 『長恨歌』の変奏が見られることについては、当時『長恨歌』が広く流行し、深く 愛好されていたことが、その背景として考えられる。

このごろ明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子の院の書かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の 葉をも、唐土のうたをも、たゞその筋をぞ枕言にせさせ給ふ。 (桐壺)

(2)

四二

『 源 氏 物 語 』 桐 壷 の 巻 自 身 が 語 る よ う に、 当 時 の 宮 廷 に あ っ て『 長 恨 歌 』 は、 絵 に 書 か れ、 あ る い は 和 歌 や 漢 詩に詠まれ、あるいは折にふれて話題されるなど、様々に愛好されていた。 実際、 『伊勢集』には、

長恨歌の屏風を亭子院の帝書かせ給ひて、その所々を詠ませ給ひける

と題する歌が収録されている。その他、平安朝における『長恨歌』流行の様を具体的に偲ばせてくれる資料は、 枚挙に事欠かない (拙稿 「平安朝における物語─長恨歌から源氏物語へ─」 『源氏物語序説』 )。 そうした状況があっ たとすれば、 『源氏物語』に『長恨歌』の存在が大きく影響を与えたことは、至極当然なことであった。 しかしそれならば、 『長恨歌』はなぜそれほどの愛好の対象となっていたのであろうか。 『源氏物語』にとって の『長恨歌』の意味を考えるためには、まずそのあたりから吟味を始める必要があるであろう。 す で に 述 べ た と こ ろ で あ る が( 其 一 )、 『 源 氏 物 語 』 絵 合 の 巻 に は、 帝 の 叡 覧 に 備 う べ き 作 品 と し て『 長 恨 歌 』 の名が挙げられていた。

長恨歌、王昭君などやうなる絵は、面白くあはれなれど、 (絵合)

結 局 こ れ は、 「 事 の 忌 み 」 あ る 故 に 献 上 品 か ら 除 外 さ れ る こ と に な っ た け れ ど、 公 の 場 に 出 す に 足 る、 数 少 な い

(3)

四三

作品の一つとして『長恨歌』が尊重されていたことを示す点で、この記事は注目に値する。 他 に 絵 合 の 巻 で 取 り 上 げ ら れ た 物 語 は わ ず か に 四 つ。 『 源 氏 物 語 』 に お い て『 長 恨 歌 』 の 扱 い が、 軽 い も の で な か っ た こ と が 窺 わ れ る。 他 の 四 作 品 と は、 『 竹 取 物 語 』、 『 伊 勢 物 語 』、 『 う つ ほ 物 語 』、 『 正 三 位 物 語 』。 『 正 三 位 物 語 』 一 つ は 今 に 伝 わ ら な い け れ ど も、 い ず れ 文 学 史 上 特 筆 す べ き 作 品 ば か り。 こ れ ら が、 『 源 氏 物 語 』 が そ の 価値を認めた作品であったし、恐らく当時広く支持を集めた物語なのであった(拙稿「光源氏須磨の日記─源氏 物語の文学史制覇─」本誌第二十七輯) 。 ここに、特に『長恨歌』愛好との関連で注目すべき物語は、 「物語の出で来始めの親なる竹取の翁」 、すなわち 『竹取物語』であろう。 な ぜ な ら、 『 竹 取 物 語 』 の ヒ ロ イ ン、 「 か く や 姫 」 こ そ は、 『 長 恨 歌 』 の ヒ ロ イ ン、 楊 貴 妃 と 瓜 二 つ の 相 貌 を 呈 しているからである。 美麗比類無き女が、恋い慕う男をこの世に残してこの世ならぬ世界に飛び去って行ってしまう話である、とい う 点 で は、 『 竹 取 物 語 』 も『 長 恨 歌 』 も 択 ぶ と こ ろ が な い。 『 長 恨 歌 』 愛 好 の 秘 密 は、 『 竹 取 物 語 』 の 人 気 の 秘 密 と多分に共通するところがあったのではないか。

方士ガ大真院ヲ尋シ、貴妃ノ私語再ビ唐帝ノ思ヒニ還ル。使臣ガ富士ノ峰ニ昇ル、仙女ノ別書永ク和君ノ情 ヲ燋セリ。

(4)

四四

彼モ仙女也、此モ又仙女也、共ニ恋シキ袖ニ玉散ル。彼ハ死シテ去ル、此ハ生テ去ル、同ジク別テ夜ノ衣ヲ カヘス。都テ昔モ今モ、好女ハ国ヲ傾ケ人ヲ悩マス。ツヽシミテ色ニ耽ルベカラズ。

『海道記』の作者は、鎌倉下向の途次、富士山をよぎる場面で、 「採竹翁」の説話を採録しているが、はたせる かな、 「赫奕姫」に配するに『長恨歌』の楊貴妃を対照的に取り上げ、好一対のものとして叙述を進めている。 『長恨歌』と『竹取物語』のストーリー上の類似は、誰しもが看取するところであろ う

。 まず、美麗極りない美女が、男の元に現れる。

この児の容貌けうらなる事世になく、屋の内は暗き所なく光満ちたり。 (『竹取物語』 ) 天生

 二

麗質

 一

 二

自棄

 一

  一朝選在

 二

君王側

 一

(『長恨歌』 )

その美しさは、惚れ惚れするほどのものであった。

翁、心地悪しく苦しき時も、この子を見れば苦しき事もやみぬ。腹立たしき事も慰みけり。

尽日君王看不

 レ

足 (『長恨歌』 )

『竹取物語』 )

ところが、女には男の元を去って天界へ行かなければならない時が訪れる。

(5)

四五

今は帰るべきになりにければ、この月の十五日に、かのもとの国より、迎へに人々まうで来んず。 (『竹取物語』 ) 宛転蛾眉馬前死 (『長恨歌』 )

男の愁嘆。

そ の 後、 翁、 媼、 血 の 涙 を 流 し て 惑 へ ど、 か ひ な し。 あ の 書 き 置 き し 文 を 読 み 聞 か せ ど、 「 な に せ む に か、 命も惜しからむ。誰がためにか、何事も用もなし」とて薬も食はず、やがて起きも上らで病み臥せり。

(『竹取物語』 ) 君王掩

 レ

眼救不

 レ

得   廻看

 二

涙血相和流

 一

(『長恨歌』 )

生 別、 死 別 の 違 い は あ る も の の、 両 者 の 展 開 は 実 に よ く 似 て い る。 と す れ ば、 『 竹 取 物 語 』 に 人 気 が あ っ た と するならば、同様の筋をたどる『長恨歌』がもてはやされたことも不思議ではない。 そればかりか、 『長恨歌』と『竹取物語』との間には、さらに類似点を見出すことが出来る。

かくや姫は、罪をつくり給へば、かく賤しき己がもとにしばしおはしつるなり。罪の限り果てぬればかく迎

(6)

四六

ふるを、翁は泣き嘆く、能はぬ事なり。

『竹取物語』の「かくや姫」は、実は贖罪のために地上に配流されていたと言う。同様の事情は、 『長恨歌』の楊 貴妃にも伝えられている。

我本上界諸仙、先与

 二

玄宗

 一

 二

恩愛

 一

之故、謫居

 二

於下世

 一

、 (『長恨歌序』 )

いつの頃か『長恨歌』に付された『序』によれば、楊貴妃はもと天上界の仙女であり、玄宗と恩愛の契があっ た た め に、 下 界 に 流 さ れ た こ と に な っ て い る。 す で に『 長 恨 歌 伝 』 に も、 「 復 堕

 二

下 界

 一

、 且 結

 二

後 縁

 一

」 と 述 べ ら れ て い た け れ ど も、 も し こ の 説 が 古 く 溯 る も の で あ っ た と す れ ば、 『 竹 取 物 語 』 と の 類 同 は 一 層 著 し い こ と に な る

。 「 彼 モ 仙 女 也、 此 モ 仙 女 也 」。 少 く と も『 海 道 記 』 は、 楊 貴 妃 を、 「 か く や 姫 」 と 同 じ よ う な「 仙 女 」 と し て 把 握していた。 諸書に指摘されるが、 『海道記』は、竹取の説話を記すに当って、 「赫奕姫」を楊貴妃に重ねて叙述している。

長テ 好

カホヨキ

事比ナシ。 (『海道記』 ) 楊家有

 レ

女初長成( 「長」字、金沢文庫本『白氏文集』傍訓「ヒトヽナリ」 ) (『長恨歌』 )

(7)

四七

一タビ咲メバ百ノ媚ナル。 (『海道記』 ) 廻

 レ

眸一笑百媚生 (『長恨歌』 ) 君ノ思ヒ臣ノ懐ヒ涙同ク袖ヲウルホス (『海道記』 ) 君臣相顧尽霑

 レ

衣 (『長恨歌』 ) 風ノ声札々トシテ夜ノ恨ミ長シ。 (『海道記』 ) 長恨歌(題名) (『長恨歌』 ) 好女ハ国ヲ傾ケ人ヲ悩ス (『海道記』 ) 漢皇重

 レ

色思

 二

傾国

 一

(『長恨歌』 )

ひとえにそれは、 『長恨歌』と竹取説話との類同の故であった。 こ こ に、 『 長 恨 歌 』 が 愛 好 さ れ た 理 由 の 一 端 も 明 ら か で あ ろ う。 そ の 物 語 と し て の 展 開 の 大 筋 は、 当 時「 物 語 の出で来始めの親」と敬愛された、 『竹取物語』のそれに重なるものであったのである。 た だ、 『 竹 取 物 語 』 と『 長 恨 歌 』 の ス ト ー リ ー の 類 似 は、 そ の 前 半、 楊 貴 妃 の 死 の 場 面 ま で に 留 ま る。 後 半、 方 士 の 蓬 萊 訪 問 の 場 面 は し か し、 『 竹 取 物 語 』 に 対 応 す る 箇 所 を 持 た な い。 そ れ は、 『 竹 取 物 語 』 に 対 し て、 『 長 恨歌』がその独自性を主張する部分である。 しかしながら、その後半部分に対しても、類似の物語を、当時人気の作品の中に見出すことが出来る。 男が、この世ならぬ世界を訪ね、美女に巡り会うという話。

(8)

四八

すなわち、 「浦島太郎」を典型とする、浦島説話である。 仮名による物語作品としては、 浦島の話は御伽草子の類を俟たねばならないが、 浦島の話自体は、 周知の通り、 すでに『日本書紀』 、『丹後国風土記』 (『釈日本紀』所引) 、『萬葉集』 (「詠

 二

水 江 浦 島 子

 一

」) などにも見えている。 平 安 朝 に あ っ て も、 そ れ は 人 気 を 博 し た 話 ら し く

、 仁 明 天 皇 四 十 賀 の 際 に は、 浦 島 子 の 像 が 作 ら れ て い る( 『 続 日本後紀』 )し、 『浦島子伝』 、『続浦島子伝記』等の作品も製作されている。 『源氏物語』にも、

ありし世の名残りだになき浦島に立ち寄る波のめづらしきかな (賢木)

などと詠まれてい る

。 分けても、 『続浦島子伝記』 。「続浦島子伝記は其の署記の如く承平二 (九三二) 年の作なるべし」 (柿村重松 『上 代日本漢文学史』 )とされる が

、すでにその文章には、 『長恨歌』の字句や表現との類似を見出すことが出来 る

(群 青類従本) 。

雲髪峨々、不

 レ

 二

芳沢

 一

。花容 々、無

 レ

 二

鉛粉

 一

。 (『続浦島子伝記』 ) 雲髪花顔金歩揺 (『長恨歌』 ) 金台玉楼、隆崇而崔嵬。 (『続浦島子伝記』 )

(9)

四九

金屋粧成嬌侍

 レ

夜   玉楼宴罷酔和

 レ

春 (『長恨歌』 ) 芙蓉帳開、而素月射

 レ

幌。 (『続浦島子伝記』 ) 芙蓉帳暖度

 二

春宵

 一

(『長恨歌』 ) 霓裳羽衣、而逍

 二

遥於紫府之黄庭

 一

。 (『続浦島子伝記』 ) 驚破霓裳羽衣曲 (『長恨歌』 ) 楊柳眉生愁萬数   芙蓉𥇥落涙千行 (『続浦島子伝記』 ) 芙蓉如

 レ

面柳如

 レ

𥇥   対

 レ

此如何不

 二

涙垂

 一

・太液芙蓉未央柳   (『長恨歌』 ) 俯

 レ

地馳

 レ

神臨

 二

絶壁

 一

  仰

 レ

天抱

 レ

 二

連崗

 一

(『続浦島子伝記』 ) 排

 レ

空馭

 レ

気奔如

 レ

電   昇

 レ

天入

 レ

地求之遍 (『長恨歌』 ) 憎

 二

比目魚

 一

胸臆苦   妬

 二

交心鳥

 一

感情傷 (『続浦島子伝記』 ) 在

 レ

天願作

 二

比翼鳥

 一

  在

 レ

地願為

 二

連理枝

 一

(『長恨歌』 ) 遙尋

 二

旧里

 一

草間宿   夢見

 二

蓬萊

 一

秋夜長 (『続浦島子伝記』 ) 秋燈挑尽未

 レ

 レ

眠   遅々鐘漏初長夜 (『長恨歌』 ) 岐路還思比翼鶼   (『続浦島子伝記』 ) 在

 レ

天願作

 二

比翼鳥

 一

(『長恨歌』 )

字句の類似は『長恨歌』の文言を踏まえた結果であろうが、その内容も、一般に流布する「浦島太郎」の話に

(10)

五〇

比較するならば、はるかに『長恨歌』に近いものであっ た

。 例えば、主人公、 「浦島子」自身。彼は、最初から仙術に闌けた仙人であった。

浦島子者、不

 レ

 二

何許人

 一

。蓋上古仙人也。

彼もまた、 『長恨歌』の、 「方士」 「道士」と同じ力を持つ存在であったのだ。 『続浦島子伝記』によれば、

 レ

気 乗

 レ

雲 、 出

 二

於 天 蔵 之 閫

 一

、 陸 沉 水 行 、 閇

 二

於 地 戸 之 扉

 一

、 以

 レ

天 爲

 レ

幕 、 遊

 二

身 於 六 合 之 表

 一

、 以

 レ

地 爲

 レ

席 、 遣

 二

懐於八埏之垂

 一

とあるが、それは『長恨歌』の方士の術に通うものであった。

又能遊

 レ

神馭

 レ

気、出

 二

天界

 一

 二

地府

 一

、 (『長恨歌伝』 )

『続浦島子伝記』における浦島子は、単なる漁師などではなかったのである。 亀から姿を変えた美女に誘われた先も、龍宮城ならぬ、 「蓬萊宮」であった。 『続浦島子伝記』は、この美女の

(11)

五一

住処は、 「蓬嶺」 「蓬山」 「蓬萊宮」 「蓬萊山」などと記されている。

 二

於蓬萊山

 一

。如

 レ

夢如

 レ

電、 (『続浦島子伝記』 )

『 長 恨 歌 』 の 方 士 が 楊 貴 妃 を 訪 ね た 先 も、 「 蓬 萊 宮 」 で あ っ た。 「 奔 如

 レ

電 」。 彼 も ま た「 電 の 如 」 く「 奔 」 っ て 蓬 萊に至っている。 蓬萊は海上に浮ぶ仙境、浦島子も『長恨歌』の道士も、海を渡って仙山に達した。

忽聞海上有

 二

仙山

 一

(『長恨歌』 ) 東極絶

 二

天界

 一

、跨

 二

蓬壷

 一

 二

最高仙山

 一

、 雲海沈々、洞天日暮。 (『長恨歌伝』 ) 而 散

 二

花 浪 於 海 面

 一

。 掣 々 洩 々、 未

 レ

 二

 レ

志 之 遠 近

 一

。 沆 々 悠 々、 不

 レ

 二

 レ

遊之東西。遂一時眠之内、 済

 二

萬里波上

 一

、而到

 二

蓬萊山脚

 一

也。 (『続浦島子伝記』 )

しかし両者は、蓬萊に至ってただちに仙宮に入れるわけではなかった。二人はともに門外に待たされる。

金闕西廂叩

 二

 一

  転教

 三

小玉報

 二

双成

 一

(『長恨歌』 )

(12)

五二

図3 浦島太郎絵巻(東洋文庫蔵)

図4 長恨歌絵巻(日本大学総合学術センター蔵)

(13)

五三

方士抽

 レ

簪叩

 レ

扉、有

 二

双鬟童女

 一

、出応

 レ

門。方士造次未

 レ

 レ

言、而双鬟復入。 瓊戸重闔、悄然無声。方士屏

 レ

息斂

 レ

足、拱

 二

手門下

 一

。 (『長恨歌伝』 ) 而令

 三

島子立

 二

於門外

 一

、神女先入告

 二

於父母

 一

、 (『続浦島子伝記』 )

浦島子をしばし門外に立たせ、ひとまず先に蓬萊宮に入り、衣服を整え容儀を改め姿を現わした『続浦島子伝 記』の美女には、しばらく方士を門外に待たせたところへ出御した、盛装の楊貴妃の登場の仕方に通うところが ある。 そうして、貴妃と方士、浦島子と女は相会うことになるが、その別れの情景にも類似を見出すことが出来る。

空持

 二

旧物

 一

 二

深情

 一

  鈿合金釵寄将去

別れに臨んで楊貴妃は方士に「釵」を託した。一方、浦島子には「玉匣」が与えられている。 た だ、 「 鈿 合 金 釵 」 と 言 え ど も 人 工 の 品、 偽 物 の 嫌 疑 の か か る の を 慮 っ て、 「 臨

 レ

別 殷 勤 重 寄

 レ

詞 」、 楊 貴 妃 は 玄 宗との秘密の誓言をさらに方士に伝えている。 『続浦島子伝記』の女も、別れに際して浦島子に言葉を寄せていた。

吾聞、君子贈

 レ

人以

 レ

言、小人贈

 レ

人以

 レ

財。雖

 三

我非

 二

君子

 一

、而適得

 二

仙骨

 一

也。将

 二

 レ

子以

  一レ

言。

(14)

五四

楊 貴 妃 は、 玄 宗 と の「 比 翼 連 理 」 の 誓 い を 明 か し た が、 『 続 浦 島 子 伝 記 』 で も、 「 終

 二

萬 歳 之 契

 一

、 遂

 二

再 会 之 志

 一

」を期して、女は浦島子に別れの言葉を寄せたのである。 そして、いずれもその美女の正体は神仙であった。 『続浦島子伝記』では、女は「仙娘」 「神女」等と記されて いる。楊貴妃が「上界諸仙」であったことは、 『長恨歌序』のすでに記すところである。 『長恨歌序』によれば、貴妃と玄宗との縁は前世からのものであったとも言う。

我 本 上 界 諸 仙、 先 与

 二

玄 宗

 一

 二

恩 愛

 一

之 故、 謫

 二

居 於 下 世

 一

、 得

 レ

 二

夫 妻

 一

。 既 死 之 後 恩 愛 已 絶。 今 汝 来 求

 レ

我、恩愛又生。

これに対して、 『続浦島子伝記』も浦島子と神女の夫婦の縁を前世からのものとしている。

妾 在 昔 之 世、 結

 二

夫 婦 之 義

 一

、 而 我 成

 二

天 仙

 一

、 生

 二

蓬 莱 宮 中

 一

、 子 作

 二

地 仙

 一

、 遊

 二

澄 江 之 波 上

 一

。 今 感

 二

宿 借 之因

 一

、来隋

 二

俗境之縁

 一

也。 我依

 二

宿昔之因

 一

、尽

 二

当時之縁

 一

也。

それが、玄宗、浦島子との邂逅によってふたたび復活するのだと、貴妃も神女も語るのである。

(15)

五五

『長恨歌』 、特にその後半部分がいかに浦島説 話

、就中『続浦島子伝記』に似る か

、すでに明らかであろう。す でに日本で人気を得ていた浦島説話との類似、これがまた『長恨歌』の人気を呼んだのであ る

)(1

。 『長恨歌』と浦島説話のストーリー上の類似は、 『続古事談』の次のような説話によっても確認できるであろう。

張喩といふ者有りけり。ことのほかの好き者、又、好色にて有りける。心に深く風月を翫びて、身、常に名 所に遊びけり。この人、伝へて貴妃の有り様を聞きて、遙かに愛念の心を起こす。見ず知らぬ世の人を恋ひ て、心を砕き身を苦しむ。離宮の古き跡に臨みては、昔を思ひて涙を流し、馬嵬の坡のほとりに行きては、 いにしへを悲しみて、腸を断つ。かくの如く思ひ悲しめども、同じ世にある人ならねば、言ひ知らすべきか たなし。いたづらに嘆き、いたづらに恋ひて年月を過ごすほどに、ある時、夢に、みづら結ひたる童子来た り て 曰 く、 「 玉 妃 の 召 す な り。 す み や か に 参 る べ し 」 と。 夢 の 中 の 心、 歓 び を な す 事 限 り な し。 童 子 を 先 に 立てゝ、やう〳〵行くほどに、程なく玉妃の宮殿に渡りぬ。玉の簾を入りて、錦の帳に臨みぬ。玉妃は床の 上にあり。張喩は下に居たり。年頃の志を述べて、その詞尽くる事なし。玉妃、懇に憐れみ語らふこと、人 間の女の如し。睦び近付きて後、その思ひいよ〳〵深し。玉妃の手を執りて、床の上に登らんとするに、身 重くて、 たやすく登る事を得ず。 妃の曰く、 「汝は人間の身なり。 穢らはしく卑しくしてわが床に登りがたし」 。 張喩、懇に近付かむ事を望む。その時玉妃、人を呼びて、えも言はぬ香湯を設けて、その身を洗浴せしめて 後、手を執りて床の上に登るに、身軽くして思ひの如くに登りぬ。交はり臥すこと、世の常の如し。懐しく 睦まじき事、すべて詞も及ばず。別れの懐ひ未だ述べ尽さゞるに、暁の風やうやくに驚かす。人間に帰らず

(16)

五六

して、こゝに留まらん事を望めども、玉妃さらに許すことなし。許さずといへども、その思ひ浅からざるけ し き な り。 後 会 を 契 り て 曰 く、 「 今 十 五 日 あ り て、 そ の 所 に 行 き て、 再 び 会 ひ 見 る こ と を 得 ん 」 と。 こ の 契 を聞きて後、夢早く醒めぬ。別れの涙、枕の上に乾くことなし。むなしき床に起きゐて、泣き悲しめども甲 斐なし。其の後、十五日を過ぎて契りし所へ行きぬ。かの所は広き野なりけり。野煙渺茫として、行けども 行 け ど も 人 な し。 た ま 〳〵 牧 童 の 一 人 会 へ り け る に、 試 み に こ れ を 問 ひ け れ ば、 か の 童 の 曰 く、 「 今 朝 い ま だ 暗 き よ り こ の 野 に あ り。 朝 霧 の 絶 え 間 に、 え も 言 ひ 知 ら ぬ 天 女 一 人 ま み え て、 我 を 呼 び て 曰 く、 「 こ れ に もし人を尋ぬる者あらば、必ずこれを与へよ」とて、一通の書を残して、霧の内に消え、雲の中に入りぬ。 彼の人の示せる人か」とて、その書を与へたり。これを聞きて、一度は会はざる事を悲しみ、一度は書を残 せる事を喜ぶ。心を鎮め、眼を拭ひて、これを披き見るに、一紙、詞少なくして、四韻の詩を書けり。その 中の一句に曰く、 天上歓栄雖

 レ

 レ

楽   人間聚散勿堪

 レ

悲 となむありける。人の思ひのむなしからざる事、古今も隔つる事なく、天上人間もおのづから通ふ。まこと にあはれなる事なり。

「伝へて貴妃の有り様を聞きて、 遥かに愛念の心を起こし」た「張喩」は、 「夢の中」に「玉妃の宮殿」へ行き、 女に巡り会う。しかし、それも束の間、彼は人間界に戻らなければならなかった。彼は「再び会ひ見ることを得 ん」という「契」の言葉を得てこの世に戻って来るのだが、 そこには何も無く、 「野煙渺 茫

)((

」、 彼は空しく「天女」

(17)

五七

から託された一通の手紙を手に、事の不思議に思いを致すばかりであった。 これはまさに、楊貴妃の登場する浦島説話に他ならな い

)(1

。 『長恨歌』の圧倒的な影響力もさることながら、 『長恨歌』のヒロインを借りた浦島の話が綴られたことは、両 者の深いところでの類同を示して興味深い。 浦 島 説 話 の 人 気、 そ し て 類 似 す る『 長 恨 歌 』 の ヒ ロ イ ン、 「 貴 妃 」 の 人 気。 そ う し た 興 味 が こ う し た 説 話 を 生 んだのであろう。 『長恨歌』後半と浦島説話の類同。以って、 『長恨歌』の人気の理由の、もう一つの一端をここに探ることが出 来る。

竹取と浦島。 『 長 恨 歌 』 は、 元 来、 中 国 の 詩 で あ り な が ら、 そ の 語 る と こ ろ は、 当 時 日 本 で 大 変 に 好 ま れ て い た 二 つ の 代 表 的な物語、 竹取と浦島という二つの物語の骨格を、 さながらに備えていたのである。そうした素地のある所ヘ『長 恨歌』がもたらされたとするならば、それが愛好の的となったことは、自然の勢いであったと言わなくてはなら ない。

(1) 拙稿「赫奕姫と白島処女─柳田國男『昔話と文学』覚書─」(高木昌史編『柳田國男とヨーロッパ』)参照。

(18)

五八

(2)

の成立について」『東方学』第六九輯)。   『長恨歌』の『序』は、日本での製作になるとされる(近藤春雄『長恨歌・琵琶行の研究』、太田次男「長恨歌序

(3) 阪口保『浦島説話の研究』、水野祐『古代社会と浦島伝説』参照。(4)

  『源氏物語』夕霧の巻は、母一条御息所を偲ぶ落葉宮を、

御佩刀に添へて経筥を添へたるが、御かたはらも離れねば、

  恋しさのなぐさめがたき形見にて涙に曇る玉の筥かな

黒きもまだしあへさせ給はず、かの手馴らし給へりし螺鈿の筥なり。誦経にせさせ給うしを、形見に留め給へるなりけり。浦島の子が心地なむ。

   と描く。「形見」の経筥を、歌に「玉の筥」と詠じるのは、『続浦島子伝記』等に言う「玉匣」に拠って、「浦島の子」と言うのに因む措辞であるが、それが「螺鈿の筥」であり、「形見に留め給へる」と言うのは、『長恨歌』「空持 二

旧物 一 二深情 一  鈿合金釵寄将去  釵留 二一鈷 一合一扇  釵擘 二黄金 一合分 レ鈿  但教 三心似 二金鈿堅 一」に拠るものであろう。

(5)

  『続浦島子伝記』

「逢事乃雲井遥丹阻礼羽心曽虚爾思成塗」は、紀貫之「あふことは雲居はるかになる神の音にきゝつゝ恋ひわたるかな」(『古今和歌集』巻十一・恋一・四八二)に似る。

(6)

  『続浦島子伝記』の『長恨歌』の字句の利用は、渡辺秀夫『平安朝文学を漢文世界』に部分的に指摘される。

(7) その他『続浦島子伝記』には、「牽牛織女」、「尤物」、「玉顔」等、『長恨歌』・『長恨歌伝』に拠ると思われる文言

が枚挙に暇無い。(8)

  『注好選』は、上巻末に「漢皇涕密契第一百一」、「嶋子別笞雲第一百二」と、『長恨歌』の話と浦島の話とを連続

(19)

五九 して並載している。(9) さらに、『続浦島子伝記』全体の構成にも『長恨歌』の影響を見ることが出来る。

  『続浦島子伝記』は、

実は内容的に重なる、二つ部分から成り立っている。前半、散文で綴られた「伝」の部分と、後続する、七言による韻文の「辞」の部分である。しかし、この構成自体、韻文の『長恨歌』に先立って散文の『長

恨歌伝』を置くという、『長恨歌』の作品構成に範を仰いだものであったと考えられる。

  さらに『続浦島子伝記』には、「依 レ 二余興 一。詠 二加和歌絶句各十四首 一浦島子之詠十首亀媛之詠四首」として、その内容を詠

んだ「和歌絶句」が続く。これはまさに、「このごろ明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子の院の書かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土の詩をも」と『源氏物語』に描かれた、平安朝における『長恨

歌』の享受の実態に重なるものでもある。(

10)  『

浦島子伝』にも、「不 レ 二楊妃西施 一」(群書類従本)とあった。『浦島子伝』にも『長恨歌』・『長恨歌伝』に拠

ると思われる文言は少くない。(

11)  『続浦島子伝記』には、

「烟霞眇々浅深黛」とあった。

ハリフス事ヨノツネノ如シ」というようなことには遂にはならない」(増山欣『中世文芸比較文学論考』)。 12) この話は、泰醇『温泉記』、『驪山記』等に拠ると言う。ただし、「「温泉記」では、『続古事談』のように「マジ

(20)

六〇

其五   羽衣説話

『長恨歌』の内容と、竹取、浦島の物語の大筋は、何故類似しているのだろうか。 まず、 『長恨歌』の前半部と類同を見せる『竹取物語』と、 『長恨歌』との関係について考える。いずれかがい ずれかに影響を与えたものであろうか。 『 長 恨 歌 伝 』 に よ れ ば、 『 長 恨 歌 』 の 成 立 は「 元 和 元 年 」( 八 〇 六 )。 そ の 日 本 へ の 伝 来 は、 「 白 氏 文 集 の 伝 来 以 前に於て長恨歌のみが既に単独に我邦へ伝来してゐたといふことは未だ嘗て聞かない所であり、且つ又これに関 する文献の徴すべきものが存在してゐない以上は、白氏文集の伝来を以てやがて「長恨歌」の伝来と考ふるも、 決して異論のない所であらふ」 (遠藤実夫『長恨歌研究』 )とすれば、 『白氏文集』の日本への伝来、すなわち、

白氏文集の我が邦に伝はりし事は既に楽天の生存中にあり。故に楽天の文集自記

会昌五年

の文に、 集有五本。 其日本・新羅諸国及両京人家伝写者、不在此記。 とあり。楽天自ら既に文集の日本に伝はれることを認め居たるなり。之を我が史伝に徴するに、仁明帝の承 和 五 年 即 ち 唐 の 開 成 三 年 に、 太 宰 少 弐 藤 原 岳 守 唐 人 の 貨 物 を 検 せ る に、 「 元 白 詩 筆 」 あ り し を 以 て 之 を 奏 上 せ し に、 仁 明 帝 は 大 に 悦 ば せ 給 ひ て、 岳 守 に 従 五 位 上 を 授 ひ 給 ひ し 事 は 文 徳 実 録 巻 三 に 見 ゆ。 「 元 白 詩 筆 」

(21)

六一

とは即ち元稹及び白楽天の詩文集を称せるものにして、是白氏文集の伝来の正史に見ゆる始なり。 嵯峨帝が白氏文集を秘蔵せられ、河陽宮に行幸の時、 「閉閣唯聞朝暮鼓。登楼遥望往来船。 」の句を小野篁に 示し給ひしに、篁は遥を改めて空に作ること尤も妙ならんと奏せしに、嵯峨帝は「卿の詩情は楽天に同じ。 」 と 宣 ひ し 事 は 江 談 抄

に 見 ゆ る 有 名 な る 逸 話 な り。 之 に 拠 れ ば、 嵯 峨 帝 御 在 位 中 か、 又 御 譲 位 後 な る か は 明 ならざれども、其の承和五年以前とするには異論無かるべし。承和十一年頃に、我が邦の僧恵蕚が唐に在り て伝写し齎せるものは、後に金沢文庫本となれり。是等は白氏の生存中文集の我が邦に伝はりしことを示す ものなり。 (岡田正之『日本漢文学史  

増訂版

) と言う、 「承和五年」 (八三八)を溯り得ることにな る

。 一方、 『竹取物語』の成立は、一般的には「おおむね九世紀末から十世紀の初頭の間」 (片桐洋一「日本古典文 学 全 集   竹 取 物 語   解 説 」) と 考 え ら れ て い る か ら、 年 代 的 に は『 長 恨 歌 』 か ら『 竹 取 物 語 』 へ の 影 響 と い う こ とがまずは考えられる。 しかし、ここで考慮すべきは『竹取物語』の大筋は、それはそれでさらに古く溯り得るものであった、という ことである。すなわち、竹取の話には、その物語に先行して、さらにその原型というべきものがあったことが推 測されている。

いはゆる羽衣の説話が、この『竹取物語』の結構に参与してゐるといふことは、誰が言ひ始めたともなく、

(22)

六二

今ではもう通説のごとくなつてゐる。 (柳田国男「竹取翁」 『昔話と文学』 )

柳田国男も言うように、 「『竹取物語』 の根源が天人女房説話にあるという説」 は、 大方の支持を集めている。 「沐 浴する神女の羽衣を取り隠して、押してこれを娶つた」 、「後日その羽衣の隠し場所を発見すると、妻はさつさと こ れ を 着 て 帰 つ て し ま ふ 」 と い う 羽 衣 の 説 話、 天 人 女 房 説 話 と、 『 竹 取 物 語 』 は な る ほ ど 大 筋 で 同 じ 結 構 を 示 し ている。

ふと天の羽衣をうち着せ奉りつれば、翁をいとほしく、かなしと思しつる事も失せぬ。この衣着つる人は、 もの思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり具して、昇りぬ。

「かくや姫」の昇天を語る『竹取物語』の叙述を見れば、 「かくや姫」がまさに天人として「羽衣」をまとい、 翁の元から飛び去って行ったことが、改めて認識される。 し か し、 竹 取 の 翁 は、 「 か く や 姫 」 を 子 と し て 育 て た の で あ っ て、 羽 衣 説 話 の 一 般 に 語 る と こ ろ の、 妻 と し た わ け で は な い。 し か し、 「 た と え ば 天 人 を 妻 と せ ず に 子 と し て 養 つ た と い ふ な ど も、 よ そ の 国 に は 例 が 少 な い か しらぬが、まず丹後の比治里がそれであつた」と、柳田国男も類例を挙げるように、それは羽衣説話の一変型の 中に納まるものであろう。 羽衣の説話ということであれば、 それは日本の歴史をさらに古く、 例えば、 八世紀『風土記』にまで溯り、 『古

(23)

六三

事記裏書』その他に引用される『丹後国風土記』 、『帝王編年記』所載の『近江国風土記』逸文かとされる文章に その例を見出すことが出来る。 とすれば、これは八〇六年の『長恨歌』の成立に先んじることとなり、さすれば今度は逆に、日本の羽衣説話 の『長恨歌』への影響の可能性を検討すべきことになる。 しかし、日本の説話の中国唐代の詩への影響、というようなことが考えられるであろうか。 ここで是非とも考慮に入れなければならないことは、羽衣説話は日本独自のものではない、という一事であろ う。 大正十五年刊、 中田千畝著、 その名も『浦島と羽衣』によれば、 羽衣説話は、 世界的な分布を見る、 と言う。 「東 はベーリング海峡より西はスカンヂナビヤ半島にいたるまでの極めて広汎なる地域に種々なる形となつて分布し てゐる」 。 アジアに限っても、 「琉球」 「南洋土人」 「朝鮮」 「支那」 「印度」 「アイヌ」などにも見出される、 と言う。 同書にはそれら各地の例が列挙、 紹介されている。羽衣説話( 「天人女房」 )は、 日本の各地に分布している( 『日 本昔話大成』 、『日本昔話通観』 )が、 それはそれ以前に、 すでにして世界的な分布を見せる説話であったのである。 恐らく、はるか古代から人々に親しまれ、広く世界に伝えられたものであったのであろう。 『竹取物語』が、そのような広い分布を示す説話に則って書かれていた、とすれば、 『竹取物語』が人気を博し たというのも故無しとしない。 同様の事情は、 『長恨歌』にも考えられる。 『 浦 島 と 羽 衣 』 は、 「 支 那 」 に も 羽 衣 説 話 が あ っ た と し て、 『 元 中 記 』、 『 捜 神 記 』、 『 神 仙 伝 』 そ の 他 の 名 を 挙 げ

(24)

六四

ている。とすれば、そのような羽衣説話に『長恨歌』が影響を受けたということも、十分考えられるのではない か。 説 話 と い う 性 格 か ら し て、 そ の 広 い 分 布 は、 そ の 相 対 的 な 古 さ を 示 唆 す る で あ ろ う。 『 長 恨 歌 』 は、 そ の よ う な先行する羽衣説話の影響を受けて成ったものではないか。だとすれば、ともに羽衣説話の影響を受けた『竹取 物語』と『長恨歌』とが、 結果的に類似するものになったというのも、 当然のことであった、 ということになる。 はたして、羽衣説話という観点から『長恨歌』を見直すならば、その大筋が羽衣説話の展開に則っていたこと に、改めて驚かされる。 美女が男の元に現れ、一時夫婦となるが、やがて女は天界へ去ってしまう。 その展開もさることながら、柳田国男の言った「沐浴する神女の羽衣」の「沐浴」も「羽衣」も、驚くべきこ とに『長恨歌』に見出すことが出来るのである。 すなわち、 『長恨歌』では玄宗・楊貴妃の最初の出会いは、 貴妃の入浴の場面として印象的に描かれるのであっ た。

春寒賜浴

 二

華清池

 一

  温泉水滑洗

 二

凝脂

 一

  侍児扶起嬌無

 レ

力   始是新承

 二

恩沢

 一

これは、まさに天女の水浴。 「沐浴する神女」を目撃するところに始まる、羽衣説話の発端そのものであろう。 そして、 「神女の羽衣」 。「羽衣」もまた、 『長恨歌』に現れている。

(25)

六五

すなわち、蓬萊宮での楊貴妃の描写。

猶似

 二

霓裳羽衣舞

 一

「霓裳羽衣」とは舞曲の名だが、 「羽衣」とは、文字通り「羽衣」に他ならないであろう。 ち な み に「 霓 」 と は 虹 の こ と。 「 霓 裳 羽 衣 」 と は、 虹 の 裳 と 羽 の 衣 と い う 衣 裳 を 着 け て 舞 う、 楊 貴 妃 得 意 の 舞 でもあった。この曲に導かれて、楊貴妃は玄宗に引見されたのであった。

進見之曰、奏

 二

霓裳羽衣曲

 一

、以導

 レ

之、 (『長恨歌伝』 )

また、安禄山の蜂起を告げる箇所では、

驚破霓裳羽衣曲

とあって、その曲が無残にも台無しにされる様が、それと対照的に描かれている。 『長恨歌』では、 「霓裳羽衣」が、楊貴妃を華麗に彩って、その象徴ともなっている。 『長恨歌』の「霓裳羽衣」 の「羽衣」とはまさに、羽衣説話で天人を美しく彩った、 「羽衣」の一変形として理解すべきものであろう。

(26)

六六

白楽天には、 『霓裳羽衣舞歌』 という作品もあって、 そこでは 「虹裳霞帔歩揺冠」 と歌われているから、 この 「舞」 は美しい衣裳を纏って軽やかに舞われたものであろうが、それはまさしく、天女の舞を形どったものであっ た

此月宮也。見

 三

仙女数百皆素練霓裳、舞

 二

於広庭

 一

。帝問曰、此何曲也。曰霓裳羽衣也。

『逸史』によれば、玄宗皇帝が月宮に遊び、 「仙女」の舞う曲を聞いて帰って作ったのが、霓裳羽衣の曲であっ たと言 う

。 「霓裳羽衣」に彩られた『長恨歌』の楊貴妃は、まさに天人であったのである。 鎌 倉 時 代 の 一 種 の 翻 訳 文 学 た る『 唐 物 語 』 は、 「 沐 浴 」 の 楊 貴 妃 を さ な が ら「 天 人 」 の よ う で あ っ た と 描 い て いる。

すべてこの世の人にはあらず、たゞ天人などの、しばし天降れるとぞ見えける。かゝりければ、上、内裏の うちに、忽に出湯を掘らせて、この人に浴させ給ふ。湯より出でたる姿、まことに心苦しく、薄物の衣、重 げになん見えける。色ざし、歩み出で給へる気色、軽びたるものから、気高く、愛々しくて、さすがまた、 思ふところあるさまにふるまひ給へり。

あるいは逆に、 羽衣説話の典型たる、 謡曲『羽衣』 。能の『羽衣』では、 隠されていた羽衣を身に纏った天女は、

(27)

六七

まさにこの「霓裳羽衣の曲」を舞って、天に昇って行くのであった。

あら恥かしや   さらばとて   羽衣を返し与ふれば、乙女は衣を着しつゝ   霓裳羽衣の曲をなし   天の羽衣風 に和し   雨に潤ふ花の袖   一曲を奏で   舞ふとかや

こ の こ と は、 「 霓 裳 羽 衣 」 の「 羽 衣 」 が、 羽 衣 説 話 の「 羽 衣 」 に 他 な ら な か っ た こ と を、 羽 衣 説 話 の 側 か ら 証 するであろう。 全体的なストーリーの類同、 「沐浴する神女の羽衣」というモティーフの一致。これらは皆、 『長恨歌』への羽 衣説話の影響を示唆する。 『長恨歌』以前に中国に広まっていた羽衣説話、それが『長恨歌』に反映しているのではなかろうか。 『 長 恨 歌 』 と 言 え ば、 白 楽 天 が 玄 宗・ 貴 妃 の 史 実 を 正 確 に 記 録 し た も の、 と い う 印 象 が 強 い が、 は た し て そ う いうものであったかどうか。 玄宗の在世は、 六八五年から七六二年。 『長恨歌』が作られたのが、 八〇六年。それから半世紀も下るのである。 そこに、さまざまの虚構、潤色、説話等の反映の交る可能性は大いにあったと見なければならない。

唐の張祜の憶柘枝詩の「鴛鴦鈿帯抛何処、 孔雀羅衫属阿誰」の句を、 白楽天が「問頭」

二字未詳、疑ふらくは蓮花落の類。明の王世貞の芸苑巵言る、本摭言に拠れるに似たり。

と 冷 か し た の に 対 し、 祜 は 即 座 に 報 い た、 「 其 の 御 批 評 は 御 尤 も ぢ や が、 貴 殿 に も 日 蓮 変

(28)

六八

本、る、ま雅雨堂叢書本及び学津討源本等に拠る。

が 御 座 る。 長 恨 歌 の「 上 窮 碧 落 下 黄 泉、 両 処 茫 〻 皆 不 見 」 と は 日 蓮 訪 母

愈文豹の吹劒録に母に作る。

で は 御 座 ら ぬ か 」 と。 此 の 話 に は「 目 連 変 」 と 云 う て あ る も の ゝ、 実 は 其 の「 変 文 」 を 意 味 す る こ とは、七言の詩句を引いてゐる処からでもすぐ推測される。この話を信ずべしとせば実に敦煌出土の「目連 縁 起 」「 目 連 変 文 」 は 曾 て 白 楽 天 な ど の 月 旦 に 上 っ た も の で あ る と 云 ふ こ と も 出 来、 青 木 正 児 氏 が 五 代 ま で 溯らせられた語り物が、百尺竿頭の一歩を進め得るかも知れぬ。

(倉石武四郎「目連変文紹介の後に」 『支那学』第四巻第三号)

すでに『長恨歌』には、 「変文」などの当時の俗文学の影響があったことが指摘されてもいる。 第 一、 「 方 士 」 が「 蓬 萊 」 を 訪 ね て、 貴 妃 の 魂 に 会 見 し て 戻 っ て 来 る、 な ど と い う こ と を、 史 実 と し て 信 じ ら れ る だ ろ う か。 あ る い は、 華 清 池 入 浴 の 発 端、 「 霓 裳 羽 衣 」 の 描 写 な ど も、 ど こ ま で 真 を 伝 え た も の で あ っ た で あろうか。もとより正史に、そのような記述を見出すことは出来ない。 その点では、有名な「比翼連理」の誓いさえも、あるいは疑ってかからなければならないかも知れない。

七月七日長生殿   夜半無

 レ

人私語時   在

 レ

天願作

 二

比翼鳥

 一

  在

 レ

地願為

 二

連理枝

 一

玄宗・貴妃の二人だけの秘密の誓いであったなら、どうしてそれが、余所に洩れたのだろうか。 そもそも二人は、そうした睦言を交したのか。そしてそれは、本当に、七月七日のことだったのか。

(29)

六九

『 長 恨 歌 伝 』 に よ れ ば、 時 は「 天 宝 十 載 」、 「 秋 七 月、 牽 牛 織 女 相 見 之 夕 」 の こ と で あ っ た と 言 う。 し か し、 そ れも、正史の伝えるところではない。そこに、文学的潤色の交る余地は大いにあったと見なければならないだろ う(陳寅恪『元白詩箋證 稿

』) 。 由 来、 『 長 恨 歌 』 と は、 白 楽 天 と 陳 鴻 等 が「 語 及

 二

此 事

 一

、 相 与 感 嘆 」 と い う こ と に 始 ま る と、 『 長 恨 歌 伝 』 に 言 う。 「 夫 希 代 之 事 非

 下

 二

出 世 之 才

 一

潤 色 之

 上

、 則 与

 レ

時 鎖 没 不

 レ

 二

于 世

 一

」。 そ も そ も『 長 恨 歌 』 は、 彼 等 が 話 題にした玄宗・楊貴妃の話が元になっていたのだし、その作品化には白楽天の「潤色」が欠かせなかったこと、 何より『長恨歌伝』が証言している。そして、その潤色は、すでに白楽天以前に溯るものと考えなくてはならな い。 い ず れ に し て も、 『 長 恨 歌 』 の 作 品 化、 そ れ に 預 っ て 力 あ っ た の が、 羽 衣 説 話 で あ っ た、 と 考 え ら れ る。 ち ょ う ど 日 本 の『 竹 取 物 語 』 が 羽 衣 説 話 か ら 多 く を 得 て、 人 気 作 と な っ た よ う に、 『 長 恨 歌 』 も ま た、 羽 衣 説 話 の 力 を借りることで名作となった側面があったのではないか。 か く し て、 羽 衣 説 話 の 存 在 を 介 し て、 『 長 恨 歌 』 と『 竹 取 物 語 』 が 期 せ ず し て、 類 同 を 見 せ る こ と に な っ た、 と考えられるのである。

これは、 『長恨歌』の後半部と、 それへの類同を見せる浦島説話との関係にも、 同様に考えられることであろう。 「浦島太郎」の話は広く日本に分布する( 『日本昔話大成』 、『日本昔話通観』 )が、 すでに述べたように(其四) 、 そ れ は、 『 日 本 書 紀 』、 『 風 土 記 』、 『 萬 葉 集 』 等、 八 世 紀 の 古 代 に ま で 溯 る。 一 方、 中 国 に お い て も、 浦 島 説 話 に

(30)

七〇

類 似 す る 話 は 見 出 さ れ る。 「 陶 潜 が 桃 花 源 記、 陳 翰 が 槐 宮 記、 張 文 成 が 遊 仙 窟 に い ふ 所 は、 み な 唐 山 の 浦 島 の 子 なるをや」として、滝沢馬琴『燕石雑志』は、 『捜神後記』を引いた。

会 稽 県 民、 袁 相 根 碩 二 人、 猟 経

 二

深 山

 一

、 重 嶺 甚 多。 見

 二

一 群 山 羊 六 七 頭

 一

、 遂

 レ

之 経

 二

一 石 橋

 一

甚狭而峻。 羊 去 根 等 亦 随 渡 向

 二

絶 崖

 一

、 崖 正 赤 壁 立。 名 曰

 二

赤 城

 一

。 上 有

 レ

水 流、 下 広 狭 如

 二

匹 布

 一

、 人謂

 二

之瀑布

 一

。 羊 径 有

 二

山 穴

 一

 レ

門。 豁 然 而 過 既 入

 レ

内 甚 平 敞。 草 木 皆 香。 有

 二

一 小 屋

 一

。 二 女 子 住

 二

其 中

 一

。年皆十五六。 容 色 甚 美、 著

 二

青 衣

 一

。 一 名 塋 珠、 一 名 □ □、 見

 二

二 八 至

 一

。 忻 然 云、 早

 二

望 汝 来

 一

、 遂 為

 二

室 家

 一

。 忽 二 女 出 行云、 復有

 二

 レ

婿 者

 一

、 往慶之。曳

 二

履 於 絶 巌 上

 一

、 行琅々然。二人思

 レ

帰潜去、 帰路二女追還。已知乃謂曰、 自 可

 レ

去。 乃 以

 二

一 腕 嚢

 一

、 与

 二

根 等

 一

語 曰、 愼 勿

 レ

開 也。 於

 レ

是 乃 帰。 後 出 行、 家 人 開 視

 二

其 嚢

 一

、 嚢 如

 二

蓮 花

 一

。 一 重 去、 一 重 復 至。 五 蓋 中 有

 二

小 青 鳥

 一

飛 去。 根 還 知

 レ

此 悵 然 而 已。 後 根 於

 二

田 中

 一

耕。 家 依

 レ

常 餉 之、 見 在

 二

田中

 一

 レ

動。就視有

 レ

殻如

 二

蝉脱

 一

その他、前引『浦島と羽衣』には、やはり「琉球」 「台湾土人」 「南洋土人」に浦島説話の伝わることが紹介さ れ て い る。 「 必 ず や こ れ は 記 紀 の 彦 火 々 出 見 尊 海 宮 行 神 話 の 後 世 的 変 容 で あ る と 共 に、 支 那 式 神 山 譚 や リ ツ プ・ ヴアン・ウインクル型の仙界淹留説話と軌を同じうする世界大播布説話の性格を有する日本伝説であることも、 廔〻言はれてゐるところである」 (島津久基『日本国民童話十二講』 )。 また、関敬吾『昔話の歴史』は、 「他の民族の「浦島伝説」 」として、朝鮮、中国、台湾の伝承を紹介し、さら

(31)

七一

に 同 種 の 伝 説 を、 「「 浦 島 伝 説 」 の 発 生 地 が ど こ で あ っ た か は 問 わ ず、 「 死 ん だ 友 人 と 花 聟 」 の 名 で、 記 録 と し て また口頭伝承として、ときには他の昔話を複合して、西・南ヨーロッパ、東・西・南スラブ民族、トルコなどに 見られる」とも言う。 羽衣説話とともに浦島説話も、古く広い、愛好と分布があったのである。 とすれば、その古い浦島説話が、一方で日本の浦島説話となり、また一方中国において『長恨歌』に反映され ることとなったと考えることも、あながち無謀な推測ではないであろう。 もとより、前述のように(其四) 、『続浦島子伝記』の措辞は『長恨歌』の文言に拠るところが大きかった。し かしそれも両者の内容上の類同がその前提になっていたこと、言うまでもない。 かくして、中国・日本のみならず、世界的な愛好のうちにある、羽衣説話、浦島説話という二大説話が二つな がら取り込まれて、傑作『長恨歌』として結実した、そう考えることも、十分に可能となる。 さ す れ ば、 『 長 恨 歌 』 が 日 本 の 平 安 朝 に お い て、 さ ら に は 本 国 中 国 に お い て、 人 気 を 博 し た 理 由、 そ れ も こ こ に自ら明らかであろう。

由来、羽衣説話と浦島説話とは、その根幹において好一対を成す説話であった。まず、男女の好対照。羽衣説 話においては、地上界の男の元へ天上界から女が訪れて、一時共に過ごして、また天界へ去って行く。浦島説話 は、ちょうどその逆で、この世の男が、この世ならざる異郷を訪問して女と出会い、一時共に過ごして再び元の 世界に戻って来る、という対称形を成している。

(32)

七二

『長恨歌』は、 互いに表裏の関係にあるこの二つの説話が、 連続的に接合されている格好になってい る

。それも、 ス ト ー リ ー の 展 開 上、 極 め て 自 然 に 接 合 さ れ て い る の で あ る。 そ れ も ま た、 『 長 恨 歌 』 の 大 き な 魅 力 を 形 作 る も のであろう。 しかし、 その点において、 『長恨歌』とほとんど同様の展開を見せる話が、 中国の民話の世界に見出せることは、 これもまた驚くべきことであろう。 すなわち、例えば、 「天の川の岸辺──〈牛飼いと織姫〉 」の名で紹介される、中国江蘇省の民話。

あまり人気のない山のふもとに、若者が一人で住んでいた。名まえはわからなかったが、一頭の老いぼれ た牛を飼っていて、 いつも草原へつれていって草を食べさせていたので、 みんなはただ牛飼いと呼んでいた。 ある年の夏のことであった。草原に深い霧がたちこめ、十歩も先はなにも見えなかった。 その時、草原で草を食べていた牛が、とつせん牛飼いに話しかけた。 「 ご 主 人 さ ま、 草 原 の 南 が わ に あ る 川 で、 七 人 の 仙 女 が 水 浴 び を し て い ま す。 気 づ か れ な い よ う に 川 べ り にいき、宝の衣を一枚取ってかくしてしまえば、一人の仙女をあなたのかみさんにすることができます」 これを聞いた牛飼いが、急いで川べりにいくと、たしかに川面の霧に見え隠れして七人の仙女がいて、岸 辺には七枚の宝の衣が脱いであった。 牛飼いは見さかいもなく大きな声をだし、一枚の宝の衣を手にすると逃げだした。 仙女たちは恥ずかしがって、みな宝の衣をつけて空に舞いあがった。

(33)

七三

ただ一人残った織姫という名まえの仙女だけが、裸のままで顔をまっかにして牛飼いを追いかけてきた。 織姫は宝の衣を返してとしきりに頼んだが、牛飼いがやすやすと承知するはずはなかった。牛飼いが家に駆 けもどるのといっしょに、織姫も牛飼いの家に駆けこんだ。 牛飼いは織姫に見つからないように、宝の衣をかくしてしまった。織姫は宝の衣がなくては空に舞いあが ることができない。しかたなく、地上の人の着物をつけて牛飼いのかみさんになった。織姫は天の上では織 物をするのが得意だったので、 地上で暮らすようになってからも、 しょっちゅう梭を使って機織をしていた。 牛飼いはかみさんがいるようになってから、牛の世話をしなくなった。老いぼれた牛は毎日、自分だけで 草原へいくようになり、そのうちに病気になった。草を積みあげたわきに寝こんでしまった牛を見て、その 背中をさすってやりながら、牛飼いはたいへん悲しんだ。 牛は頭をあげると、牛飼いに向かって話しかけた。 「 ご 主 人 さ ま、 わ た し は も う じ き 死 に ま す。 わ た し が 死 ん だ ら、 わ た し の 皮 を 剥 い で 黄 砂 を 入 れ て 包 み、 それからわたしの鼻の綱をはずしてしばりなさい。その包みを背負っていれば、いつでも、困った時に手助 けをします」 牛はそう話しおわると、息を引きとった。この牛のおかげで過ごした十数年の苦労を思い、牛飼いはこら えきれずに大声をあげて泣いた。そして泣きながらも、牛の言い残したとおりに皮を剥いで包みを作った。 それから二、三年のうちに、織姫には娘一人と息子一人が生まれた。そのあいだにも、織姫はくりかえし 宝の衣のしまってある場所を牛飼いにたずねた。しかし、牛飼いはいつもことばをにごし、話をそらすばか

(34)

七四

りであった。 そこでこんどこそ聞きだそうと、織姫は牛飼いに話しかけた。 「 わ た し の 宝 の 衣 は、 い っ た い ど こ に か く し た の で す か。 わ た し た ち の あ い だ に は も う 娘 も 息 子 も い る の ですから、置き去りにして逃げたりはしませんよ」 そう言われると、牛飼いはそれもそうだと思い、笑いながら答えた。 「もうぼろぼろになったかもしれないけど、戸口の土台石の下に埋めてあるよ」 織姫は戸口に走っていき、土台石をのけると、宝の衣を取り出した。ぱっと広げてみると、まだきらきら と光りかがやいていた。姫はそれを身につけると、すぐさま空に舞いあがった。 牛飼いはあわてて息子と娘の手をつかみ、織姫のあとを追いかけようとしたが、空に舞いあがることがで きないので、どうにもならない。 あせった牛飼いが、おもわず背中をたたくと、手のひらが牛の皮の包みにあたった。すると、親子三人は たちまち空に舞いあがり、織姫のあとを追いかけることができた。 牛飼いの親子が自分に追いつきそうになったのを見ると、織姫は頭から金のかんざしを抜き、うしろに線 を一本引いた。すると、そこに白い波のさかまく大きな川が現れた。 ところが、 牛飼いの背負った牛の皮の包みから、 とつぜんたくさんの黄砂がこぼれ出して川のなかに落ち、 あっというまに土手ができた。牛飼いの親子は、その土手の上を走って川を横ぎり、さらに追いかけること ができた。

(35)

七五

またも牛飼いの親子が自分に追いつきそうになったのを見ると、織姫は頭から金のかんざしを抜き、うし ろに線を一本引いた。こんども、そこに白い波のさかまく大きな川が現れた。牛飼いの背負った牛の皮の包 みには、もうこぼれ出す黄砂がなかった。しかたなく、牛飼いが包みをしばってあった綱を急いでほどき、 川の東がわにほうり投げると、綱はちょうど織姫の首にからみついた。織姫は身につけていた機織の梭を手 につかみ、牛飼いに向かって投げつけたが、牛飼いが体をかわしたので当らなかった。 こうして二人がやりあっている時、とつぜん天上から白いひげをはやした神仙が、杖をついて現れ、二人 に向かって言った。 「 わ た し は 天 帝 の 命 令 を 受 け て、 お ま え た ち の 仲 裁 に や っ て き た。 織 姫 よ、 お ま え は 川 の 東 が わ に 住 む が よい。牛飼いよ、 おまえは川の西がわに住むがよい。しかし、 これでおまえたちの縁が切れるわけではない。 年に一度、七月七日の夜だけは、川の東がわで会うのを許すことにする」 天帝の命令とあっては、それに従わないわけにいかない。 あなたがたが満天に星のかがやく秋の夜空を仰ぐと、ひとすじの天の川が横切っているのを見るだろう。 その天の川は、織姫が金のかんざしで線を引いた時にできた川である。織姫(織女)と牛飼い(牽牛)の星 は、それぞれ天の川の東と西にあって、きらきらと光っている。織姫のそばにある小さな星は牛の綱がなっ たもので、牛飼いのまわりにある星は子どもたちと機織りの梭がなったものである。 牛飼いが毎日食事で使ったどんぶりは、一日一つずつ、すべて織姫に洗わせるために残しておく。年に一 度、川を渡って二人が出会う夜には、織姫がどんぶりを洗いおわると、夜が明けてしまうという。

(36)

七六

毎年、七月七日には、雨が降らなければいいのだが、雨が降れば、それは牛飼いと織姫の流す涙だといわ れている。 (飯倉照平編訳『中国民話集』 )

牽牛・織女の物語、世に七夕の由来を説く民話であるが、この結構が、まさにその前半が羽衣説話に、後半が 浦島説話にほぼ重なる展開を見せるのである。それはまた、 『長恨歌』の展開にも重なる。 まず、 「仙女」の登場。そして、その「水浴び」 。これは、楊貴妃の登場と華清池での温浴に当たる。水浴の女 は、そうして男に見染められる。 た ま ら ず「 牛 飼 い 」 が 奪 い 去 っ た、 「 一 枚 の 宝 の 衣 」。 こ れ が『 長 恨 歌 』 に「 霓 裳 羽 衣 」 と 言 う、 「 羽 衣 」 に 当 た る こ と、 言 う ま で も な い。 「 牛 飼 い は 織 姫 に 見 つ か ら な い よ う に 宝 の 衣 を か く し て し ま っ た。 織 姫 は 宝 の 衣 が なくては空に舞いあがることができない」 。すなわち、 羽衣である。止むを得ず、 女は、 男の妻となることとなる。 さて、 織姫は、 その「宝の衣」を見付け出し、 「それを身につけると、 すぐさま空に舞いあがった」 。天界へ去っ てしまう女。 『長恨歌』に「馬前死」と語られた楊貴妃は、 「天上人間会相見」と言われている。 死して楊貴妃は、 「天上」に去ったのである。 「牛飼いはあわてて息子と娘の手をつかみ、織姫のあとを追いかけようとした」 。 ここからが、浦島説話の展開となる。 女 の 後 を 追 う 男。 『 長 恨 歌 』 で は、 そ の 役 廻 り を、 玄 宗 は「 臨 卭 方 士 」 に 託 し た。 彼 は 玄 宗 に 代 っ て「 昇

 レ

天 入

 レ

地 求 之 遍   上 窮

 二

碧 落

 一

下 黄 泉 」、 「 蓬 萊 」 に 至 っ て 貴 妃 の 魂 に 巡 り 会 う こ と に な る。 男 達 は、 こ の 世 な ら ぬ

(37)

七七

異郷を訪れて、女と出会うのである。 しかし、その出会いは永続しない。男と女には、別離の運命が待っていた。 「牛飼い」は、 「白い波のさかまく 大きな川」に二度も阻まれ、 ついには「天帝の命令」により「天の川」の東西に隔てられることになってしまう。 もとより、 『長恨歌』の方士は、 「人間」に待つ玄宗の元に帰って来ることがその使命であった。 「 牛 飼 い 」 が「 牛 飼 い( 牽 牛 ) の 星 」 と な っ て、 天 上 に 留 ま る 点 は、 浦 島 説 話 の 結 末 と は 異 な る け れ ど も、 大 よその展開は、民話、 『長恨歌』ともに、その後半は浦島説話と重なっている。 そして、 分けても、 民話と『長恨歌』の類同の点で注目すべきは、 話の最後に、 「金のかんざし」と「七月七日」 が印象的に語られる点であろう。 『 長 恨 歌 』 で は、 「 空 持

 二

旧 物

 一

 二

深 情

 一

  鈿 合 金 釵 寄 将 去 」 と、 「 金 釵 」 ま さ し く「 金 の か ん ざ し 」 が 方 士 へ 託 さ れ た。 そ し て ま た「 比 翼 連 理 」 の 誓 い が な さ れ た の は、 ま さ に「 七 月 七 日 長 生 殿 」 で あ っ た、 と『 長 恨 歌 』 は明記している。 さらに、 その「比翼連理」の契、 生まれ変り死に変りしても、 必ずまた夫婦として相い会おうという約束は、 「天 の 川 」 に 隔 て ら れ て も、 「 年 に 一 度、 七 月 七 日 の 夜 だ け は 」 再 会 が 叶 う、 と い う 民 話 の 結 末 に 対 応 し て い る と 見 ることが出来る。 「金のかんざし」と将来の再会を約束するというメッセージ、これらの一致。これらも偶合ではないであろう。 憶 測 す る に、 こ れ ら は こ の 種 の 民 話 の、 『 長 恨 歌 』 へ の 反 映 に よ る も の で あ っ た、 と 思 わ れ る。 恐 ら く、 古 い 時代にこの種の民話がすでにあって、それが『長恨歌』に影響していた、と考えられるのではない か

参照

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