薗部:山陰地方の名主座について(上)
本稿は、山陰地方における名主座について論じるものである。名主座とは、一四世紀初頭ごろに成立した、村落内身分である名主頭役身分の者たちの身分集団である(1)。名主頭役身分とは、名主職の所持をもとに、宮座である名主座の頭役を勤仕する者の村落内身分のことである。また村落内身分とは、村落集団によりおのおの独自に認 はじめに 六島根県隠岐島七名主座分布領域としての山陰地方おわりに 【目次]はじめに一島根県吉賀町二島根県津和野町(以下、『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』’一一六号、二○○九年掲載予定)三島根県浜田市四島根県飯南町五鳥取県日南町
山陰地方の名主座について(上)
(1)大元申し石見国吉賀郡吉賀郷沢田村、現在の島根県鹿足郡吉賀町沢田には、鎮守指月神社に合祀された大元社をめぐる「大元申し」という儀礼がある(2)。これは、名屋敷を所持する名主たちが回り持ちで大当を勤め、それに対して他の名主数人が寄子(名)として助成する形でおこなわれる。これは、紛れもなく名主座である。 まず、石見国吉賀郡(のち鹿足郡)吉賀郷、現在の島根県鹿足郡吉賀町における三つの名主座について考察する。 定・保証され、一義的にはその村落内で通用し、村落財政により支えられた身分体系である。名主座は中国地方及び山陰地方の一部に分布するとされてきたが、近年、筆者の探索により、それを越える広い範囲に名主座が分布していたことを確認しつつある。本稿は、その探索の一環として、従来知られている山陰地方の事例を再検討するとともに、新たに検出した事例を紹介したい。石見国、出雲国(以上、島根県)、因幡国(鳥取県)及び隠岐国(島根県)の順で論述していく。
島根県吉賀町
薗 部
寿樹
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現在、名屋敷二○軒ほどで当屋を廻し、一二月上旬に神迎祭、前申祭のあと、本祭である本申祭がおこなわれている。筆者が実見した二○○七年は、一二月九日が本申祭であった。本申祭の朝、当屋がドジョウ二匹を取る。指月神社神前での祝詞奏上の後、同社境内の大元社で土中に埋められた瓶の蓋を取り、なかの水の状況をみる。これには、年占の意味がある。そして、ドジョウを瓶の中に放して蓋を閉じる。その後、当屋宅で御帳渡の儀がある。これは、当屋の記録帳を納めた御帳箱を当屋が来年の当屋に渡すことにより、当屋が交代となる儀式である。この大元申しの記録である大本大当記録は全部で七冊ある。一番古い第一冊は一六一九(元和五)年から書き始められている。かって、これ以前の記録を萩へ持っていったと言い伝えられているが、その所在は不明である-3)。この記録には、大本大当とでてくることから、この宮座を大本大当名主座と呼ぶことにする。沢田村は、中世では吉賀郡吉賀郷という公領の一部であった(4)。中世後期には、石見吉見氏の支配下におかれていた。公領吉賀郷の内実は不明であるが、大本大当名主座の名(みよう)はもともとこの郷の名だったのではなかろうか。つぎに、大本大当記録にみえる大本大当名主座の特徴とその変化のあり方をみておきたい。大本大当記録第一冊の冒頭部分の記載を示しておく。大本大当之事一家守より秋守へ渡ル寄子 坂本、石原名、河本両名、中原両名、家守元和五年末ノ十月十八日神六携これは、一六一九(元和五)年の記録である。この年の大当名が家守(名)で、勤仕者は神六である。これを補佐する寄子(名)が、坂本、石原名、河本両名、中原両名、家守である。家守は大当であるとともに、寄子名にもなっている。翌年の大当は秋守(名)である。この一六一九(元和五)年から一六三七(寛永一四)年までの期間は、次のような特徴がある。第一点は、一六の名または地名で大当が勤仕されていることである。この期間にみえる名は、家守、秋守(明森)、山本、河本、大坪、広兼、来佐木、六反田名、中原、松影名、八郎迫、中河原、新田、石原名、光冨、下河内である。このうち、坂本、中河内、木屋河内、松院、遠給(恩給)は、寄子のみにみえる名(地名)である。この寄子名ものちに大当を勤仕しているので、これらの名も一六一九(元和五)年以前に大当を勤仕した可能性がある。一六の名(地名)のなかには、名という記載のあるものの方が少ない。中原、中河原というように地名そのままのものもある。しかし後述するように、寄子は「寄子名」といわれ、また各名は「名屋鋪」を中核としていることからみて、これらはすべて名であったと考えてよいだろう。第二点は、寄子名に一一一ないし四のグループが存在する点である。表1をみてみよう。表1は、大本大当記録の当初三○年分の大当と寄子名を表示したものである。これをみると、寄子名に四つのグループがあることが分かる。これ
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近世初期の大本大当と害
聖.
Ⅲ
1122221122 1111112 35187410 829767811111II 寛
1 456789012 56 01 567 2 2222 33 33 44 444 6 6666 66 66 66 666 111111111111111111111111111111
【亜山
(]‐)〉二0M一圏怜癖e梹暑塾「’’二距糎 ①国
】大本大当記録(能美定久
NC
西暦 和暦 月 日 大当名 当人 寄子1 寄子2 寄子3 寄子4 寄子5 寄子6 寄子7 備考1 1619
元和510 18
家守 神六 坂本 石原名 河本両名 中原両名 家守 寄子A組2 1620
元和611 1
秋守 庄屋弥二郎 光冨両名 広金 大坪 八郎迫 下河内 秋守 寄子B組3 1621
元和710 11
山本 勘右エ門 松院 大坪 木屋河内 六反田 中河原 木崎 山本 寄子C組4 1622
元和810
29 河本 吉蔵 坂本 石原名 河本両名 中原両名 家守 寄子A組5
1623 元和9 10 3 大坪 八蔵 光冨両名 広兼 土居名 八郎迫 下河内 寄子B組6 1624
寛永110 18
広兼 六郎右ヱ門 松院 大坪 木屋河内 六反田 中河原 寄子C組7 1625
寛永210 2
来佐木 四郎右ヱ門 坂本 石原名 河本両名 中原 家守 寄子A組8
1626
寛永310 12
六反田名 与右ヱ門 光冨両名 広兼 土居名 八郎迫 下河内 寄子B組9
1627 寛永410 29
中原 六日市弥三郎 大坪 木屋河内 秋守 遠給 山本 寄子D組10 1628 寛永5
10 17
松影名 十郎右ヱ門 坂本 石原名 川本両名 中原 家守 松影 寄子A組11 1629
寛永610 16
松影 六日市神右ヱ門 光冨両名 広兼 土居名 八郎迫 下河内 寄子B組12 1630
寛永710 17
八郎迫 善五郎 大坪 木屋河内 秋守 中河原 遠給 山本 寄子D組13 1631
寛永8 閏1028
中河原 作右ヱ門 坂本 石原名 lll本両名 中原 家守 遠給 寄子A組14 1632
寛永910 11
中原 久左ヱ門 光冨両名 広兼 土居名 八郎迫 下河内 寄子B組15 1633
寛永1010 21
新田 弥助 大坪 木屋河内 秋守 中河原 遠給 山本 寄子D組16 1634
寛永1110 27
中河原 神祇 石原名 松影 中河内 中原 家守 坂本 寄子A組17 1635
寛永1210 2
石原名内 助三郎 光冨両名 広兼 土戸 八郎迫 下河内 寄子B組18 1636
寛永1311 3
光冨 彦右ヱ門 大坪 木屋河内 秋守 中畠 恩給 山本 寄子D組19 1637
寛永1410 25
石原名 七内 石原名 松影 中河内 中原 家守 坂本 寄子A組20
1638 寛永1510 22
光冨 善助 作右ヱ門 神右ヱ門 弥三郎 十左ヱ門 弥四郎 弥二郎21
1639 寛永16 10 19 下河内 十内 善右ヱ門 市助 六右ヱ門 弥三郎 弥七郎 八蔵22 1640
寛永1710 19
明森 又十郎 弥七 十左ヱ門 吉蔵 助十郎 七内 大郎助23 1641
寛永1810 23
坂本 大郎助 勘右エ門 弥作 弥左ヱ門 助三郎 助蔵 六兵衛24 1642
寛永1910 25
光冨 市助 六左ヱ門 弥四郎 弥次郎 善助 善右ヱ門 喜三郎25 1643
寛永2010 27
木屋河内 弥三郎 助八 助蔵 文蔵 吉蔵 弥七 弥三郎26 1644 寛永21 10 28 光冨 弥三郎 神祇大夫 助十郎 七内 大郎助 助三郎 善五郎
27 1645
正保210 17
山本 助十郎 又十郎 神左ヱ門 六左ヱ門 弥四郎 弥二郎 善助28 1646
正保310 14
家森 弥七 市助 弥三郎 助八 善右ヱ門 助蔵 六兵衛 弥七29 1647
正保410 27
河本 吉蔵 助十郎 七郎兵衛 鬼清 肋三郎 善五郎 又十郎 吉蔵30 1648
慶安110 20
大坪 助八 源右ヱ門 弥作 弥左ヱ門 六左ヱ門 弥二郎 善助 助八そしてA、B、Cの順で一六一九(元和五)年から六年間、寄子を勤仕している。その後、A、B両組が勤仕した後、C組にかわってD組があらわれる。D組は、大坪、木屋河内、秋守(明森。秋守はB組から)、中原、遠給(恩給)、山本。D組は大坪、木屋河内、中原がC組と共通しているので、C組の変化形とみてよかろう。そして、その後、A、B、Dの順で寄子を勤仕している。この寄子は、大当を勤仕する名が勤仕している。すなわち、同じ名がある時は大当を勤仕し、またある時は寄子名となるのである。たとえば備後国杭荘の杭稲荷神社では、一つの名に一人の「当本」(名主に相当)とそれを補佐する複数の「寄当」とがいた一旦。すなわち寄当は、当本に従属する存在なのである。また寄当というような名称ではないが、各当番で名頭に従属する複数の小名が存在する事例(美作国弓削荘志呂宮)もある(6)。一六の名が大当も寄子名も交代で勤仕する点、これが大本大当名主座の特徴なのである。そしてこの状況が、残存する史料からうかがえる、中世の大本大当名主座の姿である。次にその後の変化についてみてみよう。一六一一一八(寛永一五)年か ある。 を順にA、B、C、D組と呼ぼう。A組は、坂本、石原名、河本両名または中河原・中河内、中原(両名)、家守である。B組は、光冨(両名)、広金(広兼)、大坪、八郎迫、下河内である。C組は、松院、大坪、木屋河内、六反田、中河原または中原(中原はA組から移動)である。なお、両名とは二つの名という意味であろうが、内実は不明で ら、寄子の名称が名(みよう)から個人の名前に変わる(表1を参照のこと)。それにともない、寄子勤仕の組み合わせに規則性がみられなくなる。
さらに、一六九六(元禄九)年の大当が「助兵衛」、一六九七(元禄十)年が「伊右エ門」というように、名の肩書きがない頭人が現れはじめる。そして一七一一○(享保五)年ごろからは、大当の一一一分の二ほどが名の一肩書きなしになるのである。一方、これまでみられなかった名が大当を勤めるようになってくる。表2をみてみよう。それによると、一六五二(承応元)年以降、それまでみられなかった一肩書きで大当を勤仕する者が現れはじめ、それが江戸時代末期までに一一一○名に及ぶことがわかる。この肩書きの中には「六日市」のような明らかに近隣の地名もあるが、神田名、神畠名、田屋名、下森名、森分名というような名を明示するものがみられる。また後述するように、このうちの中畠ヶ(中畠)、桐木、土井、坂本、光福は、一八七八(明治一二年の名屋鋪の一覧にもその名がみえているのである。前述したように、一六一一一八(寛永一五)年から、寄子の名称が個人の名前に変わった。しかし、一六六四(寛文四)年及び一六六五(寛文二年には「寄子名」という記載がみられるのである(7)。実質的には個人による勤仕に変わっても、名という規範意識はかろうじて維持されていたものといえよう。一方、名の数にも変化がうかがえる。近世初期は一六名であったが、大本大当記録一八一四(文化一二年の条によると大当の構成員は一一一六人となっている。このことは、前述したように近世で新名が一一一
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薗部:山陰地方の名主座について(上)
表2新し〈出現した名
【注】備考欄に「名屋敷」とあるのは、大本大当記録1878(明治11)年条にある「名屋
舗」のリストにみえるものを示した。
【出典】大本大当記録(能美定久氏保管文書)
31
NC
年 名 頭人 備考1
1222(承応l) 六日市 源右ヱ門 地名2
1669(寛文9) 横竹 市助3
1680(延宝8) 中畠ケ 宮福 名屋敷4
1681(天和1) 桐木 市郎左ヱ門 名屋敷5
1682(天和2) 茶円 利兵衛6
1686(貞享3) 士井 六郎右ヱ門 名屋敷7
1687(貞享4) 坂本 茂左ヱ門 名屋敷8
1706(宝永3) 光福 七郎右ヱ門 名屋敷。もと光冨か9
1763(宝暦13) 山まき 六右ヱ門10
1770(明和7) 田中 権左ヱ門11
1773(安永2) 新屋 長右エ門12
1776(安永5) 神田名 次郎兵衛 13 1777(安永6) 鍛冶屋 権六14
1778(安永7) 坊河内 惣左ヱ門15
1781(天明l) i1 】 仁三郎16
1782(天明2) みそうち 七兵衛17
1790(寛政2) 尾|崎 五郎右衛門18
1793(寛政5) 神畠名 忠三郎19
1795(寛政7) 下沢田 久蔵 地名20
1819(文政2) 恩給田尾名 初五郎21
1821(文政4) 田中下森名 八助22
1824(文政7) 水をち 久米蔵23
1828(文政11) 下組石原名 朝七 下組は地名か。石原名は既出24
1835(天保6) 屋敷田 兼蔵25 1845(弘化2) ねきの 藤兵衛 「ねきの」は「祢宜の」の意か
26 1848(嘉永l) 西原 福治郎
27
1849(嘉永2) ミツトヨ 六兵衛28
1850(嘉永3) 木分かハチ 五郎29
1851(嘉永4) 森分名 重助30
1853(嘉永6) 小迫 栄太郎P
○増えていることとほぼ相応するものといえよう。また本名・公文・名護脇それぞれに名屋敷があり、「三十六名屋敷」とこれは、座外の者が座に加入したことによるものであろう。また後呼ばれている。すなわち、本名・公文・名護脇は名屋敷の所有者であ述するように近世初頭の名も形としてはそのまま維持されているが、り、所有者が変更になると新所有者がその役を引き継ぐのである。現行制度のように名屋敷の売買による当人の変更が近世でも認められこの神事は、’一一三七(嘉暦一一)年にはじまったと伝承されている(9―ていたらしいので、従来の名においても内実は変化していたものと恩が、定かではない。われる。注連川村も、中世には吉賀郷に属している。したがって、七草申し一方、大本大当記録一八七八(明治一一)年条によると、一三軒の「名の名も、大本大当名主座と同様に、もともとは公領吉賀郷の名であっ屋鋪」が記されている。それを整理した表3をみると、一三軒のうちたのであろう。一六軒は近世初期以来の名であったことがわかる(ただし光福は二七草申しには、一六○三(慶長八)年の弓始神事定書が伝わってい軒)。それ以外は、のちに加入した名である。る(現存するかどうかは、未確認)。この文書は、御帳渡しの際に受け近代になると、近世に新規加入した名の多くが脱落し、近世初期の渡しされる御帳箱(黒い箱)にいれて頭人が自宅の神棚に奉斎してい体制に近い形に揺り戻した。これは、近代における名主座の経済基盤たものだが、現在は愛宕神社の内殿に奉納してあるという。諸般の事の弱体化などによるものと推測される。その後も名屋敷の脱落などに情で実見できなかったので、写を示しておく〈Ⅲ一。よる座の弱体化は続いており、現在、名主座の維持は喫緊の課題と一辰歳□□□九郎右衛門
なっている。|巳□□□□□□
'1
(2)七草申し石見国吉賀郡吉賀郷注連川村、現在の島根県鹿足郡吉賀町注連川では、鎮守愛宕神社を拠点として、正月七日に七草申しという儀礼がお録こなわれていた(8)。これは、「武者的の神事」とも呼ばれているよう己錦に、正月に徒歩弓で的を射る歩射神事である。注連川村の一一一の名が林干支割の順番でこの神事の当屋を勤仕していた。これも名主座といつ
犬てよい・1 曲〈一二の名それぞれには、本名一人の他、公文一人、名護脇一人がい出I る。当屋は本名が勤仕し、公文と名護脇はその補佐にあたる。32
NC
近世初期の名 近代の名屋敷1
家守 家森2
秋守(明森) 秋森3
山本 山本4
河本 河本5
大坪 大坪6
広兼 広兼7
来佐木 木佐木8
六反田名 六反田9
中原 中原10
松影名11
八郎迫 八之迫12
中河原 中河原13
新田 新田14
石原名 石原名15
光冨 光福(2件)16
下河内 下河内17
中畠18 松頼
19
桐木20
土井21
坂本22
木屋河内薗部:山陰地方の名主座について(」二)
表4七草申一二名一覧
一午□一未□一申歳一酉歳一戌歳一亥歳一子歳 □□□□太郎屋下地三郎右衛門□□□□兵衛一一一助五兵衛山本弥四郎牛尾五郎兵衛河内五郎太左ヱ門
○印は輿守を勤める
【出典】平成3年3月七草申記録(帳)(愛宕神社所蔵文書)
一丑歳上徳五郎右ヱ門一寅歳光長彦左ヱ門右者、毎歳正月七日十二名の名主御弓始の古格神事仕るべき者な
り
慶長八年卯ノ正月七日庄屋五郎右衛門前半の一部が欠損しているが、現在の七草申し十二名干支割りの一覧表(表4)をみると、河内名(子)、上徳名(廷、光長名(寅)、正中名(卯)、大久保名(辰)、藤安名(巳)、森脇名(午)、屋下地名(未)、鍛冶屋名(申)、三助名(酉)、山本名(戌)、牛尾名(亥)となっており、名と干支は同じ組み合わせになっている。ところが、一七六八(明和五)年正月河内大明神祭礼当屋人別名の記載は、若干異なる。河内大明神毎年九月朔日祭礼当屋人別名一午之歳光長惣左衛門一未之歳牛尾文右衛門一申之歳屋下地三右衛門一酉之歳山本佐兵衛一戌之歳藤安民助一亥之歳河内民部一子之歳大久保昭太郎一丑之歳熊山元右衛門一寅之歳森脇忠次郎一卯之歳上徳作右衛門一辰之歳正中源左衛門
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愛宕神社祭祀十二名役割
平成2年現在
干支 屋敷名 本名 公文 名護脇
子 河内 渡辺初左ヱ門 山尻明美 茅原勝義 丑 上徳 ○上徳睦夫 橋本唯正 介山虎夫 寅 光長 ○光長節夫 土井寿勝 吉Ⅱ|学 卯 正中 正中金正 ○道面明 斎藤真雄 辰 大久保 ○米田利夫 田中理作 西村進 巳 藤 安 ○永安初子 久保克巳
午 森脇 ○森脇伴文 lll上 列jbG、 田中勇一 未 屋下地 ○澄川梅夫 渡辺木好 渡辺茂夫 申 鍛冶屋 ○中村義喜 佐間喜右ヱ門 出会修 酉 三助 ○介山公男 熊山悟 渡辺茂夫 戌 山本 ○房崎輝臣 吉木恒 光長知男 亥 牛尾 中村文恵 ○潮信生 下本孝行
|巳之歳鍛冶屋平兵衛右者、明和五戊子年正月七日古帳損じたるによって、庄屋永安民佐正方これを写したるなりⅡこれによると名と干支は、大久保名(子)、熊山名(丑)、森脇名(寅)、上徳名(卯)、正中名(辰)、鍛冶屋名(巳)、光長名(午)、牛尾名(未)、屋下地名(申)、山本名(酉)、藤安名(戌)、河内名(亥)となっている。これを慶長八年の名とくらべると、一つには名の当役勤仕の順番が相違している。また慶長八年にあった三助名が消滅し、それにかわって熊山名が出現していることがわかる。なお、現在の七草申し十二名干支割りでは三助名が復活しているが、その理由は不明である。このような入れ替わりはあるものの、名頭役勤仕システムの根幹は、少なくとも一七世紀初頭から大きな変動はなく、維持されてきたとみてよかろう。ただし、名屋敷の所有者の変化は相応にあったものと思われる。表4をみると、藤安名の名護脇が欠けているし、屋下地名と三助名の名護脇は同一人が兼務している。これは直接には現在の過疎化によるものであるが、このような変化は近世にもあったであろう。現在、このような祭祀役担当者の欠如などにより、七草申しの儀礼は廃絶している。
(3)牲の申し石見国吉賀郡吉賀郷七日市村の鹿大明神、現在の島根県鹿足郡吉賀町七日市にある奇鹿神社に、牲〈にえ)の申しという神事があった厄)。 『吉賀記」の記載によると、鹿大明神において、一一一月二日、にえの舞がおこなわれた。これが牲の申しである。この神事は、七日市村・抜舞村・月和田村・田丸村の四ヶ村にわたる一八の名が、順番で六名ずつ勤仕することにより運営されていた。したがって、これも名主座とみてよかろう。この牲の申しの名は、以下の通りである。田中名・下堂名・大沢名・山根名(七日市村)八王子名・大谷名・源田名・仁神名・菰名・石築名(抜舞村)般若名・上野名・山根名(月和田村)井手名・石矢名・石川野名・抜名(田丸村)以上のように名がリストアップされているが、ここに掲げられた名の総数は一七にすぎない。その背景には近世におこった神事勤仕に関する相論があるようだが、現在、この神事は廃絶しており、詳細は不明である。この地域も公領吉賀郷のなかにあるので、牲の申しの名もやはり吉賀郷の名を淵源としているものと思われる。なお「六日市町史』は、この地域に田尻荘(田尻名)があった可能性を指摘しているが、明確な徴証はない。
小括 の申し(奇鹿神社)という一一一つの名主座があったことが確認できた。この三つはすべて「申し」という独特の名称がつけられているが、この名称は古いものではないと考えられる。大元申しは「大本大当」、七草 以上、吉賀町には、大元申し(大元社)、七草申し(愛宕神社)、牲
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薗部:山陰地方の名主座について(上)
(1)鷺原八幡宮石見国吉賀郡野々郷上領・中領の鎮守として鷲原八幡宮が勧請された。勧請の時期と勧請者についてはいくつかの伝承(型があるが、ここではふれないこととする。少なくとも一五世紀初頭までに、領主の吉見氏によって鷲原八幡宮が勧請されたとみてよかろう。「津和野町史』第一巻にはいくつかの八幡宮関係の史料が載せられているが、筆者が現地調査で実見できたのは、一五八三(天正一一)年二月鷲原八幡宮祭礼式法写(桑原家文書)という記録のみである。こ ここでは、石見国吉賀郡(のち鹿足郡)野々郷(現津和野町)の津和野及び木部の二つの名主座について考察する。前述の吉賀町の事例では史料的に中世に遡及することは困難であったが、津和野町の事例で、その可能性を探ってみたい。 申しは「武者的」、牲の申しは「牲の舞」というのが、それ以前の名称と思われる。このうち、牲の舞は七日市村・抜舞村・月和田村・田丸村の四ヶ村にわたるが、大本大当は沢田村、武者的は注連川村のみの名主座である。そしていずれも惣郷鎮守社ではなく、個別村落鎮守社かまたは準惣郷鎮守社である。このような名分布地域の狭さが、山陽地方の一荘園規模のものとは異なる、石見国吉賀郷における名主座の特徴である。ニ島根県津和野町 昭和十八年二月十四日影写了とある。この時に写本を作成した人物は、不明である。この記録の前書き・後書きは以下の通りである。(外表紙)「野上領中領社頭祭礼式法」(内表紙)「野上領中領社頭祭礼式法」 の文書は、現在、津和野町教育委員会が保管している。原文書が元同宮神職の桑原家にあるようだが、諸般の事情により現在、調査はできない。筆者が実見した鷲原八幡宮祭礼式法写は、セロハン紙に墨書された写本冊子である。原文書に透明なセロハン紙をあてて模写したものと思われる。そのセロハン紙を二つ折りにしてその問に薄茶色の紙を挟み込んで綴じられている。全七丁。裏表紙の奥書に右野上領中領社頭祭礼式法
大賞(力)川永正六年已卯十一月十五日吉松八郎左衛門基秀(花押)野上領中領社頭祭礼式法(中略)|鷲原祭礼演殿〆之ガク神前ヲ別当一一左ヲ中領大宮ニヲロシ、先別当頂戴、次二大宮司頂戴仕リ上領鞁頭へサス、後二左右ノ脇へ分ル、近年マデ如此候、□福場弥九郎鞁頭ノ時以別当ヲ栫候間、御コシノ右ノメ、ガクヲロシ私ノ分別ニテ新盃一一一シ一一仕候 津和野町桑原秀武氏蔵
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冒頭に一五○九(永正六)年の署判があるが、これは領主吉見氏の家臣であろうか。この記録本文との関係は不明である。ここにみえる「野上領中領」の「野」は野々郷を意味する。野々郷上領は後述する津和野町木部地区、下領が日原町から津和野町の旧城下町あたりと思われる、)。中領とは、この上領・下領にはさまれた中間地域なのであろう。鷲原八幡宮は、この野々郷上領・中領の鎮守社なのである。そして記録末尾にあるように、一五五一一(天文二一)に神職の桑原秀次がまとめたものを、一五八三(天正一一)年に桑原秀安が書写している。セロハン紙に模写された筆致は、一六世紀当時のものとみてよい。本稿ではこの記録を一六世紀中期における桑原八幡宮の祭祀状況を示すものとして、用いたい。以上の前提に立って、記録の本文に注目したい。|中領八月キャウ米可出名本事二舛皮細工一一舛山本一一舛清藤三名二舛大岩二舛坂本二舛ちハう 一鷲原鞁頭ヲ福場左衛門大夫可仕之由新儀二申出シ侮、御前へ候へ共、右此一冊ヲ懸御目一一如前々此方ノ理ニナリ申候、別御墨付ヲ被下候天正拾一未十一月十六日桑式部大夫秀安 天文廿一年壬子八月十九日桑原治部左衛門尉秀次(花押)
四番篠山名五番寺田六番坂本名七番地楽名八番大岩九番栗坪名十番森名十一番皮細工十二番名田まず前段の。中領八月キャウ米可出名本事」である。キャウ米は経米で、八幡宮八月の放生会での祈祷料であろう。この祈祷料を中領の一○の「名本」が負担していることを示す。後段は「大歳祭」の運営に関する記述である。何らかの形で鷲原八幡宮に合祀されているのであろう大歳神の祭りである。ここでは、一二の「名」が「頭屋」を勤仕することにより、祭祀がおこなわれている。鷲原八幡宮の主神に対する祭祀のありかたは史料上不明だが、これと同じ形態でおこなわれたものと思われる。これは名主座にまちが
いない。この一二の名をさきほどの「キャウ米可出名本」と比べると、名の所在地が判明する。前段・後段に共通する名は中領の名、それ以外は上領の名である可能性が高い。上領の名…有次名、篠山名、寺田、地楽名、栗坪名中領の名…清藤三名、山本名、坂本名、大岩、森名、皮細工、名田 一大歳祭事、御供ハ折敷料大各別二枚宛、但一枚と一重各へ給之、神子市さんし一重宛立付一枚相残所ハ鞁頭シンタイ敷米二舛白神楽酒一力タケ山肴一串帯一橡中頭屋ヨリ神子五人此外大宮司市さんし百姓十二人ト申一人別一番清藤三名一一番有次名三番山本名 二舛兼山二舛もり 二舛名田二舛寺向
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薗部:山陰地方の名主座について(上)
(2)木部八幡宮・木薗神社石見国吉賀郡野々郷上領(木部)、現在の津和野町木部地区には、木部八幡宮や木薗神社などがある而一。木部八幡宮(現中曽野八幡宮)は、建立年代には諸説あるが、吉見氏が建立した社である。一三九五(応永一一)年の洪鐘銘が伝わっているので、少なくともこの時期までに建立されたことは確実であるくじ。木部八幡宮は、上領(木部郷)の鎮守社である。木薗神社は、当地方の領主である吉見頼行が、遠祖である源頼信・頼義・義家を祀ったとされる神社で、別名頼義社という。吉見氏の柤霊社である。木薗神社は、吉見頼行の館祉や菩提寺源流寺吐などの付近にある。館吐・菩提寺趾・木薗神社など近隣の遺跡群を一括して、「木薗(木曽野)遺跡」と名付け、津和野町教育委員会が文化財保存の対象としている。この二つの神社に関する史料がある。(前欠)|[ ](虫損) 現在の小字名と一致する名が一部あるが、名配置の全容はいまのところ不明である。また上領の名は、後述する木部八幡宮・木薗権現の名とは一致していない。ここで上領の名としたものも、あるいは中領の名である可能性もあろう。以上、まだ不明な点があるが、鷲原八幡宮名主座が確実に中世に遡る存在であることを確認しておきたい。
十徳長名十一[](虫損)十二寺河内
十三正長名十四有福寺十五金谷十六安光名十七舟越子十八落野名十九河尻名廿田低名廿一畑名也権現行薗一横枕名二野地名三久曽野 二横枕名三鍛冶給四久曽野五石壬名六小野名□墨杭名□皷頭名九野地名
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四正長名五田底名六徳長名七河尻名八小野名九石王名十海藤次十一横屋名十二皷頭名十三寺河内十四安光名十五畑名也十六落野十七金谷名十八小山名十九鍛冶給
永正九粧年七月日行)
この一五一一一(永正九)年の文書は、現在、所在不明である。幸い『津和野町史』に写真が掲載されているので、それをもとに議論する。この文書は前欠であるが、文書の前半部分は木部郷鎮守の木部八幡宮に関するものとみてまちがいない。問題は後半部分であるが、この「権現行薗」を『津和野町史』は吹野金比羅とみている兎)が、これは誤りである。「行薗」は「きその」と訓んだものと思われ、「権現行薗」は木薗神社をさすものと考えられる。この点は、木部の郷士史家・桾 坂庄之進氏のご教示による。この史料の記載をまとめると、次のようになる(○数字は名に頭書された番号を示す)。木部八幡宮①(不明)、②横枕名、③鍛冶給、④久曽野、⑤石王名、⑥小野名、⑦墨杭名、⑧皷頭名、⑨野地名、⑩徳長名、⑪(不明)、⑫寺河内、⑬正長名、⑭有福寺、⑮金谷、⑯安光名、⑰舟越子、⑱落野名、⑲河尻名、⑳田低名、⑪畑名也木薗神社(権現行薗)①横枕名、②野地名、③久曽野、④正長名、⑤田底名、⑥徳長名、⑦河尻名、⑧小野名、⑨石王名、⑩海藤次、⑪横屋名、⑫皷頭名、⑬寺河内、⑭安光名、⑮畑名也、⑯落野、⑰金谷名、⑬小山名、⑲鍛冶給またこの名をまとめた表5をみてみよう。木部八幡宮の名数は二一、木薗神社の名数は一九である。ただし、木部八幡宮の一番・三番の名は不明である。表5からわかるように、⑪横屋名と⑬小山名は木薗神社にしかみえない。木部八幡宮の名数が木薗神社より多いことを考慮すると、この⑪横屋名と⑱小山名が木部八幡宮の一番・二番いずれかの名である可能性が高い。また木部八幡宮の⑭有福寺。⑰舟越子は、木部八幡宮の名頭役のみを勤仕する名であることがわかる。両社の名頭のローテーションをみると、同一の名が同じ番号にならないように配列してある。これは、同一名が同時に両社の名頭役を勤仕することをできるだけ避けるための方策であったと考えられる。38
薗部:山陰地方の名主座について(上)
小括鷲原八幡宮、ならびに木部八幡宮・木薗神社は、中世にさかのぼる名主座であった。このことから、津和野町に隣接する吉賀町の近世名 木部八幡宮と木薗神社がほぼ同様の祭祀組織となっているのは、いずれも領主吉見氏によって勧請されていたことによるのであろう。このように、木部八幡宮・木薗神社は中世以来の名主座であったのである。
■…
・木薗神社の名幡権現行薗座次第書付(岡家所蔵文書)
〆~へ
--- 2
【圧
(1)
主座も、中世に遡る可能性が十分に考えられるといえよう。※以下、「山陰地方の名主座について」(下)s山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告」一一一六号、二○○九年掲載予定)に続く。名主座に関しては、藤井昭『宮座と名の研究』(雄山闇出版、一九八七年、第一編第一章)、薗部寿樹『村落内身分と村落神話』(校倉書房、二○○五年、第二章)、同「名主職と名主頭役身分l安芸国久島郷を中心にl」(『米沢史学』一三号、一一○○六年)、同「周防国賀保荘における名主座について」(「米沢史学』二一一一号、二○○七年)、同「村落内身分の地域類型と讃岐国詫間荘」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』四一一一号、二○○八年)、同「名主座の変質とその意義l讃岐国井原荘の冠尾八幡宮宮座l」・「名主座の分布領域と讃岐国」(いずれも「山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』三五号、二○○八年)、同「中部・北陸地方の名主座について」・同「山口県における名主座について」(いずれも『米沢史学』一一四号、二○○八年)及び同「備後国杭荘の名主座について」s国立歴史民俗博物館研究報告』掲載予定)を参照のこと。なお、山陰地方のうち長門国の事例については、前掲「山口県における名主座について」で論じた。大元申しについては、『吉賀記乾之巻坤之巻』(六日市町文化
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NC
木部八幡宮 木薗神社 備考1
(不明) 横枕名2
横枕名 野地名3
鍛冶給 久曽野4
久曽野 正長名5
石王名 田底名 田底名=田低名か6
小野名 徳長名7
墨杭名 河尻名 墨杭名は木部八幡宮のみ8
皷頭名 小野名9
野地名 石王名10
徳長名 海藤次11
(不明) 横屋名 横屋名は木薗神社のみ(?)12
寺河内 皷頭名13
正長名 寺河内14
有福寺 安光名 有福寺は木部八幡宮のみ15
金谷(名) 畑名也16
安光名 落野17
舟越子 金谷名 舟越子は木部八幡宮のみ18
落野名 小山名 小山名は木薗神社のみ(?)19
河尻名 鍛冶給20
田低名 (なし) 田低名=田底名か21
畑名也 (なし)財審議会、一九六六年、四九頁)、「吉賀記』(六日市町文化財審議会、一九七六年、一○六~二七頁)、萩原龍夫「祭祀組織」(和歌森太郎編「西石見の民俗」、吉川弘文館、’九六二年、一九一~’九五頁)、『六日市町史」二(六日市町、’九八八年、一○六~二○頁)などを参照のこと。(3)古い大本大当記録を萩へ持っていったというのは、『萩藩閥閲録』(一七二○〈享保五〉年~一七二五〈享保一○〉年編纂)の資料として徴収きれたということかもしれない。大本大当記録第一冊(能美定久氏保管文書)の解読にあたっては、山根博氏撮影の写真を利用した。なお、この儀礼は「大本大当」と書かれているので、この記録を「大本大当記録」と呼んでおく。(4)『日本歴史地名大系」島根県の地名(平凡社、一九九五年、七六九~七七○頁)、『角川日本地名大辞典』島根県(角川書店、一九七九年、六七一一一、八七一~八七一一一頁)。(5)前掲注(1)藤井著書第一編第一章、前掲注(1)薗部著書第二章、及び同「備後国杭荘の名主座について」を参照のこと。(6)前掲注(1)薗部著書第二章。(7)この「寄子名」の字体は、「寄子各」とも読むことができる。しかし、寛文二年条の「同名八郎右ヱ門」も「同各八郎右ヱ門」と読めることから、「寄子名」と読むべきである。(8)前掲注(2)『吉賀記乾之巻坤之巻』(五三頁)、同『吉賀記」(一三七~一四一頁)、前掲注(2)萩原「祭祀組織」(一九○~一九一一一頁)などを参照のこと。 (9)平成三年一一一月七草申記録帳(愛宕神社所蔵文書)。(Ⅲ)前掲注(9)七草申記録帳、所収。なお、前掲注(2)『吉賀記』(一三九頁)も同文書の写を載せるが、読みに若干問題がある。(u)明和五年正月河内大明神祭礼当屋人別名(愛宕神社所蔵文書、前掲注(2)『吉賀記』、’一一一九~一四○頁、所収)。一部、読み下して写したものと思われるが、そのまま引用した。原文書は未見である。
(皿)前掲注(2)『吉賀記乾之巻坤之巻』(二九頁)、前掲注(2)『吉賀記』(一八○~一八一頁)、『六日市町史』一(六日市町、一九八一年、四六九~四七八頁)などを参照のこと。以下、本稿における牲の舞の記載は、『吉賀記』による。(B)『津和野町史』一(津和野町、一九七○年、六八四~七○二頁)を参照のこと。なお、『津和野町史』二(津和野町、一九七六年、四○~四一頁)にも、鷲原八幡宮の祭祀についての記述がある。(Ⅲ)前掲注(4)『日本歴史地名大系』島根県の地名(七六九、七八三~七八四頁)。(胆)前掲注(田)「津和野町史』一(七○一|~七一三頁)。(蛆)応永二年五月木部八幡宮洪鐘銘(光厳寺〈山口県山口市内問田〉所蔵、「津和野町史』|、津和野町、’九七○年、七○四~七○六頁)。参考までに銘文の一部を引用する。日本国石見州吉賀郡内木部郷有八幡大菩薩霊
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薗部:'11陰地万の名主座について(上)
同県津和野町の調査に関しては、津和野町埜庄之進氏、宅野忠行氏のご高配をたまわった。 【付記】島根県吉賀町の調査に関しては、吉賀町教育委員会・水津浩信氏、指月神社宮司・能美定久氏ならびに水落裕之氏、介山公男氏、房崎隆氏のご高配をたまわった。 (Ⅳ)永正九年七月八日八幡権現行薗座次第書付(岡家所蔵文書「津和野町史』「津和野町、一九七○年、七一頁写真)。(旧)前掲注(旧)『津和野町史』一(七二頁)は前掲注(Ⅳ)文書を「木部八幡宮金比羅権現宮座文書」と記し、また前掲注(ご『津和野町史』二(四一頁)には「権現行薗(吹野金比羅)」と記している。 応永二年乙亥大檀那兵庫頭 感之社壇然欠蒲牢之逸音姜有別当栄印為幹縁之功□檀那之鋳成大法器就音声仏事驚天上天下仰神明護持謹為銘曰(漢詩省略)応永二年乙亥五月十日
源朝臣弘家大願主金剛仏子阿闇梨栄印誌之
津和野町教育委員会ならびに桾坂 【キーワード]名主座村落内身分村落地域類型 記して感謝申し上げる。なお、以上の調査経費として、財団法人三菱財団の助成金を用いた。【要約】本論文は、山陰地方における名主座の分布とそのありかたを論じたものである。本稿では島根県吉賀町の大元申し・七草申し・牲の申し、島根県津和野町の鷲原八幡宮・木部八幡宮・木薗神社の名主座について論じた。この続きは、「山陰地方の名主座について(下とで論じる。[英文標題】宣豈・吻宮‐目(名主座)冒昌①のシヱーニ□の曰。〔(」)