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近代詩研究瞥見
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宮沢賢治研究の流行!
長 野
臨
近代詩研究一年期︿一九九
O
年設﹀の収穫の中から何かを︑という本詑の薪指針に命じられるまま︑反網羅的にこれを収東させるべ
く努めていると︑おのずと表題ハ割問題﹀のようなものが浮かんでき
た︒とにかくどこを覗いても︑宮沢賢治研究で壊め尽くされている
感じを受けたし︑そこにはまた︑他の詩ハ人﹀研究には見られない
異様な活況があった︒むろん︑この﹁活況いは今に始まったことで
はない花せよ:::調えば︑安藤容子氏の鵠笈ハ﹁宮沢賢治最新参考
文献
言録
﹂︑
苦闘
文学
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年﹀に出た研究文献は︑単狩本一一冊︑雑誌特集号一
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冊︑単行O
m m・6﹀によれば︑この年三九九本所叡論文一四籍︑新関・雑誌︿特集号を除く)掲載論文八九舗と
いうことで︑強に賢治関需の機関誌・研究誌を加えると︑一一
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籍を優
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萌える論文や広ヅセイが量産されていたことになり︑いささ
か危機的な状読と言えなくもない︒ここまでくれば︑(冗談ではな
く﹀今後は是非とも
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ムなりと︑専門研究者としての斡侍を添えてもらいたいもので︑来見ならば未見と︑それなりに対象を軽快に
説く手つきを見せて欲しい︒
情報ネットワークの過離で表能的な皮応は︑構報そのものの葉忠
応じた自然淘汰の必要を妨げていはしないか?この種の苦い体験
は誰しも覚えのあるところで︑文学研究の宿命は百も建知した上で︑ 何やら提言しないではいられない︒これでは反って文献が文献として機能しにくい:::と︑これは特広宮沢賢治研究にありがちな大きな陥葬のような気がして:::が︑余計な世話であった︒それどころか︑﹁それをやるのがお前の役目だ﹂と繋下されそラである︒
そこで一襲︑いま触れた開題に関連して︑銘記しておきたい論文
がある︒佐藤恭正﹁賢治文学の魅力﹂(﹁特集・宮沢賢治
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新しレ賢治橡を求めて﹂︑吋解釈と鍛賓﹄6
﹀である︒野治研究の現今の
﹁展望﹂をうかがうなら︑これに聴きる︑といって過震でない︒
佐藤氏は言う
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私はここで数て賢治童話の具体や細部犯ふれ
つつ︑その︿魅力﹀を語ろうとはしていない︒その魅力や輝きをた
たえ︑嘆賞することはたやすい︒しかしその本質の由来するところ
を関わずして部分︑細部をいうことは︑菅各氏もいうごとくしばし
ばコアィレヅタンテイズムの集積にとどまいり︑賢治という存窓の
﹁イノセンスハ無償性﹀を喰レつぶすたぐいのア?チュプリズム﹂
に聾することにもなろう︒きらにいえばその安易な嘆賞は逆に対象
自体を﹁縮小﹂すること記もなる︒菅谷氏はその鱗織な分析の果て
に童話はそれ自体︑賢治﹁文学の限界であったいという︒民の論
は賢治世界が真の﹁悲離に到達しえず﹂︑その物語が﹁ついに散文
︿小
説﹀
Kゆきっかなかった﹂曲来を説き︑生の定立の基盤ともいう
べき︿砕陪﹀は﹁子供はなぜ大人になってしまうのか
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という間
いのただなかで︑いわば絶対的に諌結してしまっているいという︒
さらには何が賢治の物語において﹁麓話﹂的であるかと問えば︑そ
れは﹁向性的な親和という理的・未成熟を人間の蒋悲のイノセンスと
して絶対化したこと﹂であり︑これは︿謹話﹀的本質ならぬ﹁個性
としての宮沢賢治の人格的な本質に思料すること﹂だともいう︒/管
苔氏の論ずるところは賢治という存在の深部を衝いて鋭く︑また探
ぃ︒賢治に対するこの︿興和﹀の﹁根療を解きあかしてくれる﹂論
は﹁なきにひとしい﹂とさえいう︒氏の力宮沢賢治序説﹄は凡百の
賢治論に対して私の鳥取も推損するところである︒恐らくこの間うと
ころをくぐらずして繁治の︑賢治叢話の本質に迫ることはできま
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iと ︒
佐藤氏はこのように︑菅谷規矩雄の逮捕﹁宮沢賢治論
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兄弟の
物語
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現代詩手帖恥4﹀と︑かの吋宮沢賢治序諒恥(大和番組問﹀
に対持することから始まり︑更には吉本隆明﹃宮沢賢治恥︿筑欝醤
葬﹀
や別
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品︿
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iハト!ポゆき軽便鉄道﹄︿
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プロポiト﹀にも
鷲及して︑突に端的に︑鋭く︑賢治研究の本費問題を泉今出してい
く︒菅谷氏の提示する︿異和﹀の根源のなかに︿借﹀をめぐる‑課題
を読みとり︑それを賢治における︿磐﹀と︿修繕﹀の意識に絡め︑
︿'倫理﹀の場へと引き寄せたところで吉本論文を組分し︑AV
﹂ の
︿儲
﹀と
︿倫
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もの
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﹀そ
の
ものへの合一が賢治童話をつらぬくエロスで・あり︑魂の額動であっ
たとすれば︑いまひとつ︑賢︑拍童話の背後にうごめく影の部分V︑
すなわちA賢治童話をつらぬくドラマツルギーともいうべきものを
探っ
Vたものとして別役論文を引き合わせ︑最後に︑以下のように
結ん
でい
る︒
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最後見筆者自身の覚える︿賢治童話の魅力﹀とは何か︒それは倫理とおロス︑あるいはアガペーとエロスとの無限
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の交鏡︑また津散であり︑遺された課題は︑菅谷氏が賢治童話の試
しがたい文学的魅力二ロス﹀思想的魅力︿課題﹀への批判︑異和
をあえて二分化して論ぜんとした︑その融和がいま遺稿序章に始ま
っていたとすれば︑その︿興和﹀の援をくぐって菅谷氏の目ざす
︿予望﹀の輝きに我々もまた新たに拳加してゆくことであろうて
私がここで敢えて佐麓氏の晃識を持ち出すのは飽でもない︒殊に
富沢賢治研究にありがちな加熱した靖勲の多くの中に︑﹁解説﹂と
は名ばかりに︑︿読み﹀を初めから指一台した︿読み﹀の鰭々たる横
狩を認めないわけにはゆかぬからで︑むしろ︑かかる対象に対持す
る文学的アプローチ
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研究方法﹀の真に容易ならざる現実のゆえ
に︑反って研究の場を世界市場のよう花開け放っている現状の無残
日繁栄を︑自に余るものとして受けとめるからだ︒いや︑自に余ると
は余りに恥ずべき妄言だとしても;:・思争えば︑研究文献への自説り
はおろんのこと︑根本の対象である文学現象にさえ端から関心をも
たぬことが︑どうして賢治研究の情熱たりうるのかという素朴な疑
問を︿或る学生の指導を通して﹀痛感した記壌が蘇る︒しかもこれ
は︑決して例外などではない宮沢賢治現象の一つに思えるのだ︒
宮沢賢治を読む︿社研究する﹀ことが︑ついにそれを読みおおぜ
ねことの肯定すべき告白(討研究﹀と援した現状の多くを︑はたし
て︑研究の話︑出と暗んで喜んでいればいいのだろうか︒対象を透明
にし︑その構造や創造の原理を簡明に明かすことも︑吾︑それこそ
が︑文学の研究としての宮沢賢治輸の︑現在最も要諒されている姿
勢ではないかと患わず
κ
はい
られ
ない
︒
i弘前大学助教授i