明治期に恥ける学齢児童の疾病(特に伝染病)の実態
li和徳小学校の事例を中心に
ii
はじめに
1 i
本論文の意図
i i
私は今まで︑青森県弘諸市に明治六年生八七三)に創設された和徳小学校の
円 入
選 校
帰
h
を中心位︑同校関係資料をもとに生徒の中途退学の実態について分
析︑考察を行い︑次の三つの論文にまとめた︒
①﹁明治期小学生徒の中途退学に関する考察・
Il
ia
和徳小学校﹃入退校簿﹄の
分析ハその
1﹀
i i
﹂明弘前学院大学一般教脊学会誌同第五号
一 九
八 五
年 一
一 一
月
@
円入退校簿﹄等にみる生徒の転入・転出の実強
i i
明治期小学生
徒の中途退学に関する考察・
z i
l
﹂
一 九
八 六
年 一
⁝ 一
月
﹃弘副学院大学・短期大学粍要﹄第
号
。る中逸滋学の考察
i l
明治期小学生徒の中途
退学に関する考察
‑ E
i i
﹂ t ﹃弘前学院大学一般教育学金誌﹄第六時
一 九
八
六年三月 論文舎においては︑先ず明治期広おける青森県の就学状況を︑今一国との対比に
おいて明らかにし︑そうした背景のもとに和徳小学校生徒の中途退学について︑
その理出期内訳を明らかにした︒すなわち吋入退校糟
hの分析によると﹁転居・
軽 校
い が
最 も
多 く
︿ 昌
二 ・
一 一
一 %
) ︑
次 に
﹁ 見
習 ﹂
ハ 一
六 ・
六
w m ﹀
︑ ﹁
求 心
事 都
合 ﹂
ハ 一
一二一見﹀と統き︑残りが﹁病気﹂﹁死亡ハ窮死ど﹁欠席除名﹂﹁女学校進学﹂
蘇
千 織
生 明
﹁不明ハ無記入)﹂などであった︒したがって次に論文 φ においては︑退学理由
の第⁝位を占めた﹁転居・転校﹂の実態について︑その理由︑背景事情︑転府先
の地議別内訳等を明らかにした︒論文@においては滋学理告の第二註である﹁見
習いについて︑特に男子生徒の職業見留による退学の突諮について考察した︒そ
うした和徳小学校生徒の中途川崎学に関する一連の研究のひとつとして︑次は生徒
のウ州気﹂﹁州死﹂の実織について考察したい︑というのが本論文のそもそもの
執筆動機であった︒ところで︑以下本論でも指摘しているように︑
‑ 15
円 入
滋 校
簿 ﹄
に ⁝
記 載
さ れ
た 明
︑ 治
二 一
i 八年の滋学生徒総数日七五名中︑退学理由に﹁病気いな
い し ﹁ 病 死 ﹂ と 明 記 さ れ て い る 者 の 数 は 微 か 一 六 名 ハ 自 ・ 一 一 一 % ﹀ に 過 ぎ ず ︑ し か も
そのうち﹁退学願﹂等から病名が判明しうる者は一名だけであった︒就学河童の
うち病死したり︑中途退学する程の重病に催る数は町側めて少なかった︑というこ
とであろう︒したがって中途退学や死亡だけに限定するのでなく︑そもそも刻︑治
期において︑日本金階︑青森県︑津軽地方︑そして和徳小学校では一体いかなる挟
っていたか︑特に学齢児童の躍る病気はどのようなものが多かったか︑
という疾病の実服そのもの ι ついて考察しなければならない︑と考えた︒本務で
時和徳小学校の﹃入退校簿﹄の仙川﹃学校日記
h﹃記録簿い等︑持校関係資料を利
用することにより︑同校の事例を中心に考察を行っている︒
︿ 木
稿 の
ニ ﹀
この問題は当黙︑学校衛生 ι 閃する施策と関連してくる問題である︒学校衛生
に関する先行訴党をみると︑学校儒生施策︑法制︑説度︑関係文献等についての
考察が主としてなされており︑また教科教育史(特に侍育教育史)や教科書史の
北かで衛生思想︑川河鰭体育也恕︑韓胤教背の問題がとりあ↓げられたりしてい
本 棋 で は
︑ 入 れ つ つ も
︑ む し ろ そ の 背 景 と な っ た 疾
病の実態というところ
ι#
察の焦点をおいている︒
次にこ 問題は︑就学政液とも関連してくる問題である︒す
いく過紅において︑就学﹁猶子﹂
﹁ 祭
止
L
等に出する規定も昂常化していくが︑その中で疾いい川ハ特じ伝染病﹀がどの
ように取扱われているか︑という問題について︑先ず本稿の一で考察している︒
﹁ 免
除 ﹂
指針号
一︑就学猶予・免除・禁止の柴項としての媒病︿特に倍染病﹀の法制的確立過積
現行の﹁学校教育法
Lハ昭和二四年・一九四九年制定﹀においては︑第二十二
条 ι ﹁保設者︿子女に対して耀権を行う者︑親権を行う者のないとをは︑後見人
又は後見人の職務を行う去をいう︒以下同じ﹀は︑子女の満六歳に達した日の到
日以後における故初の学年の初から︑満十一一政広達した日の属する学年の終りま
弘前学院大学紀要
で ︑ こ い説務をね
と︑保護者に対して子女一の就学説務官規定するとともに︑次の第二十一一一条に
おいてつい閉山初︑発育不完全その的やむを得ない事山のため︑就学同難と認められ
る宥の保詑者 ι 対しては︑市町村の教背委員会は︑散骨
iげ
の 定
め る
規 制
柁 に
よ り
︑
前 条
第 一
一 明
︺ と
が
と規定している︒
すなわち現行法規においては心身障計者に関しては各々︑官︑時︑養護学校等へ
の就学が義務づけられており︑﹁病弱﹂﹁発育不完全﹂という身体的条件︑?での
地やむを川げない本山日が就学の肌郁子ないし免除の条件としてあげられている︒
掠り返るに︑ほ見出川学合方針として出発したわが凶明治以後の近代教育は︑就
学事向上のための保々な策が講じられる一方︑就学義務に関する法制も徐々に整
縮擁立されていくことになる︒そのなかには現然︑就学の猶予︑免除ないし禁止
に関する規利も合まれていくことじなるが︑それらの事項として疾病等の身体的
条件がかなり主.裂な校校を占めてきたのではないかと忠われる︒したがって先 ず︑その法制史的考察を行ってみたい︒ 什 ﹁学制﹂における﹁種痕﹂義務規定
( 一 八 七 二 ﹀ 八
月公布の﹁学儲﹂一 O 九立のなかには︑就学猶予︑禁止等に関する規定は何一つ
見 当 た ら な い が
︑ 一
O
臼︑文部省布述第七七サをもって追加された
﹁ 学
制 二
一 編
L
の第一一一一口に﹁小学ニ入ルノ男女ハ額控或ハ天然泣ヲ為シタルモ
qu
ノニ非レハ之ヲ許サ川﹂と規定されている︒額痘を入学条件とすることは︑教口封
建成機関たる師範学校 ι 対しても同掠になされている︒すなわち明治五年五月︑
文部省が定めた﹁師範学校校則﹂の中に﹁体質壮健一一シテ己ニ天然組織痘ナセ
whυ
シモノエ非サレハ入校ヲ許ササルオ﹂と種症を入学条件として義務づけており︑
したがって同校の党験願書にも﹁判才之部天然
z M ニ相躍中段成ハ何才之節柏痕仕
候﹂の一一慌を記入することが認求された︒
明治初期は﹁万事が草創の際であって学校街小一といふが如き事項に就ては︑何
叫 山 ﹁
肘 山
寸 の
規 定
も な
か っ
h L
と指摘されているように︑学校鰐生に関しては︑特に注目
すべき踏抜は行われなかったようであるが︑ただ減措対筑についてだけは政府は
件 ︒
早くから脚心していたようである︒石橋武藤著
Z M
身教科書に坑われた保鰭体育
思 同 村 山 の 研 究 ﹄ に 次 の よ う に 述 べ ら れ て い る ︒
﹁混とんとした状態にあっても症癒対策のみについては︑孜前は早くから熱意を
示し︑長く多紀氏の主宰した民学館を八月十五日︿明治ニ年;・引用者誌)経疫館
と改称し︑民学一昨に属さぜ︑九月一時からそこで韓痘在焔行実施した︒また明治
一一一年三月には︑大学東校に語痘館を設置し︑都痘普及のために大きく第一歩を進
めた︒たまたま一一一年海の種山胞の流行に対しては四月二十四時の太政官布告によっ
て種訟を掩行させた︒
そして同四年四月二十四日には太政一古連をもって各市藷県において繍設な実施
すべき起訴の通達が出され︑この年早くも︑全凶的に穏結実施の道が関かれた︒
明治剖年十月一一十九日には租泣館を廃止.し文部省内に鍾ぃ保持を泣いて︑種根底
免許と泣部︿新痘声︑ポ i ドイン前)の分記事務を行うようになっ
以後︑積痘行政に関しては︑明治七年(⁝八七
m m ﹀
一
O
月に﹁種蹴続出﹂が布
速され︑種痘法の持及が撒進された︒明治九年︿一八七六)には﹁種痘規則﹂を
改正して﹁槌般際規則﹂とし︑また同年丑月一八日には﹁天然痘予防規則﹂が布
達︑同規開の第一条には﹁小児初生七十日より満一年山内胞の間に必ず種痘すベし︒
もし事故ありてこの期に後るるものはその次第を罷務取締り︑もしくは区一 μ 長 に
持くべし︒ただし初種の後況年成は七年ごとに再三種を拭むべし﹂と語症な受け
る義務︑およびその義務違反に対しては比則合設けるなどして槌痔制肢の持及設
明治則における学議会兇議の疾病〈特に伝染病〉の実態 慌をはかっている︒なお別治問二年竺九
O
九﹀の﹁謹痘法﹂制定によって強制
種痘が実施されるようになる︒
‑天然織の流行
明治初期における︑かかるきめ細かな楠組行政の背景には︑当然天然痘の大流
行があった︒次は明治七年︿一八七詔﹀のぺ山本であるが︑その年が流行のピーク
であったようである︒
近
MM
天 然 凶 行 わ れ
︑ あ な ね く 耕 民 を 行 い 小
なして井九州に死せざらしめんとす︑しかれども四氏ややふすれば疑惑し︑或はその丹念
知めとも謀議を山川す役州り︑沼山慨すらの問にたもまむその討に
M
M m ゐ ︑ こ こ に 於 で い
一 戸
長 等
と く と 眠 不 識 し て
︑ 件 以 一 巡 し ん は い 川 院 に 日 て 山 れ い バ 下 知 代 怖 に て 附 ‑ ね な 持 せ し む べ し と の 主 訟 を あ 設 ね く 竹 知 せ よ と
︑ 科 (
﹁ 純 白 そ 伝 慨 す ら 名 総 え ず
﹂
﹃ 郵
便 品
知 ﹄
川 治
七 年
一 ︒
一
は じ く 明 治 じ い 干 の 記 事 で あ る が ︑
う町並思しく︑十中一点六人は死去す︑
然焔流行で種痘の普及な盟む﹂ ﹁四月米天然痘流行追々盛んに成り︑併に公
実に惜むべく京むべきの至りなり
O L
q
天
明治じ年五月匝註)
中 八
然 痘
による死亡おもかなりの数に立っている︒
な お 天 然 組 は ︑ 明 治 一 一
0年代にも流行し︑例えば明治ニ五年ハ一八九二)の金一 国患選数は二万近く︑ 4 さ ら ι
明 治 一 一
一
O年には忠者も全国に及んでおり︑ようやく 減少を治るようになるのは明治三
0年代以降の 青森県においても︑明治一
O年(一八七八﹀広公布された﹁小学校則い第四条
ωに﹁種痘或ハ加入惣痕吋ノ為セシ者ニアラザレバ入学ヲ許サズいと規定されている
が︑同年二月に弘前地方において天然躍の流行があったようで︑
ハ加徳小学校沿革史﹀︑つ一月︑弘前町に天然痘掠
ノ 河
川 人
熱 波
大 イ
ニ 諸
行 ス
い 一
TJ"で上
九
ノゾーLf
︐
4 2e
朝
なお︑この慌の弘前地方の天然般地者は 問小学校沿革誌)など
況 十 人 余
︑ う ち 死 亡 は 九 人 で
︑ の よ う に 人 が 大 勢 集 ま る 所 で は 感
殺も早かったようである︒なお小学校児童心種痘を実施するようになったのは明
治 二
O年三八八七﹀頃のようで︑川年二月七日の和範小学校沿革史に﹁此ノ誌
及 ビ 十 日 / 一 陶 器 生 徒 百 二 十 ん よ 名 目 ⁝ 対 シ 種 痘 ヲ ナ セ リ 必 レ 本 校 ニ テ 生 徒 同 一 組 桜 セ ル
ω始ナリいと話されている︒
17 ‑
﹁教育令﹂﹁改正教育令﹂︿明治二一・一一⁝一年﹀における就学猶予・禁止境程
以上のように明治初期は天然痘への対策が専らであったが︑明治一
0年代に入
ると伝染棋を時じめとする様々 それらが就学猶予
ないし禁止の条去としてな場するようになる︒すなわち川治二一年三八七九)
の﹁教背令﹂は全部で以内か四七条という町側めて鰭略なものであったが︑学校衛ル
学げい関しては︑第四十四染じ﹁凡児童ハ純波誠ハ天然痘ヲ壁タルモノニ非サレハ
A e
入学スルコトヲ何別いとの種痘の規定?いれは﹁学説﹂の税定を継承したもの﹀
A却
に加え︑第四十五糸に﹁伝染病エ慌ルモノハ学校‑一出入スルコトヲ得ス﹂ーと初め
ている︒これはわが掴応おける学技伝染糾規定の
は じ ま り で あ る
︒ こ の 二 つ の 条 文 は 翌 川 治 一 つ 八
八
O)
の﹁改正教脊令﹂
の諮問十四︑四十五条 ι もそのまま踏襲されており︑以後︑疾病︑特に伝染病が
一設して就学﹁禁止﹂の本山として一定の位蹴を占めていくことになる︒
さて﹁改正教官
A引いに基づいて明治一四年ハ一八八一﹀一月一一九呂︑
﹁ 就
学 督
責競剖粗草心待﹂ (達第一一一号﹀が文部省より各府県に布達されるが︑その第八条
には次のように規定された︒
第八条
米タ小学科ニ一箇年ノ課程ヲ卒ヘサル学齢児童ニシテ就学スル能ハサル
ノ事故アリト認ムヘキ者ハ概ネ在ノ如シ
疾 病 問 一 擢 ル 者
設族航船ニ擢リ能回一若議ノ人ナキ者
一家貧議ノ者 隣県ノ者
同
w 担此等ノ者ヲ待ツヘキ学校等ノ設嬬ナキ場合間一殿ル
第斜号
この﹁起草心得﹂をみると︑義務就学期間とされた初等科三ヶ年については︑
﹁山政ぃ約﹂﹁権総﹂といった身体的条件︑﹁質審﹂といった経済的条件が就学猶予
の主たる事山とされているが︑さらに一一一醤年の諜症を終えた者については︑第九
条に﹁既ニ小学科一一一館山サノ課程ヲ卒ヘタル学齢児童ニシテ就学スル能ハサルノ理
山アリト認ムヘキ者ハ信政ノ事紋アルハ勿論的出ノ学科ヲ移ムルカ清クハ職業問⁝就
ク等ノ者トス﹂とあり︑右に加えて職業従事等が就学猶子の事出とされている︒
このつ起草心得﹂に本づいて青森県では︑明治一思年三八八一﹀一一月七日 に﹁就学費責規開いを碍達しているが︑就学猶予
ι 凶して︑第十︑十一条に次の
弘前学技大学紀東;
ように却しく規定している︒
第十条
類
ノ 学
齢 山
山 出
土 星
︿ 引
加 者
証 ・
: 小
学 科
三 筒
年 の
課 程
を 終
ら ︑
ざ る
者 ﹀
‑ 一
シテ教育令第十五条一一拠リ己ムヲ得ザル事故ト称シ就学スル﹃
i能ハザルモノ
認ムベ々が唄ハ在ノ如シ
部⁝項
風純白痴若クハ持疾‑一慌ル者
第二項 親族中間内臓若クハ熔疾ニ椛ル者アリ其看議ニ絵待スル者
第 一
一 一
項
官日組蜘饗ノ慌抗ユ寵ル者
第四項
居住ノ地方人家稀議殆ンド無想ノ韓郷ニシテ就学ノ方使ナキ者
右ノ外家貧寵ニシテ学資支弁ノ途ナグ学区ニ於テ貧生件付別就学ノ方法設立セザ
ル際一一アリテハ暫ク就学スル能ハザル事故トス
先のつ就学督責規則畑一草心持﹂ ι おいてつ鋲病﹂とあったものが︑
﹁風機﹂﹁白痴い﹁潟疾いと︑また﹁心得﹂で﹁溌疾﹂となっていたものが﹁藤監
勝憲﹂というように詳しく規定されており︑全体として心身障害者の就学猶予と
同 刀
いう性格になっている点が注話されよ
h o
そして第昭摂は青森弗の地理的︑自熱
的環揖条件の特珠性が表われているところと言えよう︒
﹂ こ で は
次に初等科一一一ヶ年終了後の職業裁事に関しても次のように詳細じ規定している
第十一条
第二類ノ学齢克童ハ引用者註:::小学科五倍年を終りたる者﹀ニシ
テ教育令第十班条ニ拠リ仙相当ノ理由ト称シ就学スル寸一能ハザルモノト認ムベキ
‑ 18
事項ハ第十条部門記スル項々ノ外左ノ知シ
第 一
一 明
他ノ学科ヲ移ムル者 第 摂 幼雑弟妹ヲ若守スル者
第 一
一 ⁝
唄
商 宛
日 比
山 内
奉 公
二 抱
ル 者
第四噴
工監ノ徒弟二山ル者
第五唄 他家ニ一極仕スル者
第六項
ス ノレ
者総
常時不眠ニ家事業務ノ労ニ
明治則において職業見胃
ι よる中途退学がいかに多かったかは和懇小学校のふや
例で考察したところである︒(皆⁝矧掲出拙稿③﹀
なお右の﹁就学瞥寅規出いの龍
が布述されてお に青森県では明治一六年三八八一一一﹀一一月に
り︑第一牢﹁入退学いの卒中︑第.条に﹁入学ス可キ
ω
児童ハ男女ヲ論セズ満六年
以上十四年未満ニシテ種続若クハ天然痘ヲ震タル者ト
と︑また第正条に﹁生
徒者シ伝染組曲一躍リ γ ︿ハ其京挟中伝染
A柄ニ時ル者アル キハ其全癒一一奈ルマテ出
校ヲ禁ス
﹁ 教 育 令
﹂ お よ び の 第 四 十 四
︑ 四 十五条に規定されていた入学者の種痕識務︑およが伝染病擢患者の出校禁止は︑
︑) O
lv
ZF
V
青森県の場合ハ地府県の場合も同様であろうと思われるが﹀ ﹁校別﹂の中に規定
されてい
﹁小学校令﹂における就学猶予・免除・禁止捜定
ω第一次﹁小学校令﹂(明治一九年・一八八六﹀における就学﹁猶予﹂規定
わが冨戦前の教育体制の基礎がほ において︑
明治期における学齢究家の荻泌〈特に伝染病〕の実態
﹁語学校令﹂のひとつとして明治一九年︿一八八六﹀器月に公布された﹁小学校
令﹂においては︑就学つ義務﹂という用語が初め
史 ふ
い も
山 側
め て
汁 化
目 さ
れ る
も の
で あ
っ た
が ︑
就学義務法制
﹁猶予﹂についても第五条に次の
ように規定されている︒
疾 病 家 計 川 川 窮 其 仙 止 ム ヲ
ハストヰ延スルモノニハ川知事県令其期限ヲ定メテ就学猶予ヲ許スコトヲ得
ω m wサル心不説ニ治リ見童ヲ就学セシムルコ卜能 第五条
すなわち就学様子の条件として﹁侠病い
の一一一つが挙げられており︑必ずるに疾耕等の身体的条幹と家腐の総消的条件とが ﹁ 其 地 止 ム ヲ 件 サ ル 事 故 ﹂
猶予の主たる埋山と考えられていたことが窺えるのである︒以後の就学拍子等に
関する法制も︑それらを柱に︑より詳細に規定されるようになる︒全部で儲か一
六条という械めて簡略な第一次﹁小学校令﹂において誌︑学技術生に閲する規定
ωはみられず︑学校衛生に閣しては著しく縮小されたとみることができるが︑就学
猶予に川附してはその後の法規の法礎をなしているとみることもできるのではなか
ろ う
か ︒
さて川令第四条﹁其就学ニ閲スル規制川ハ文部大臣ノ認可ヲ経テ府知事県令ノ定 ω ムル所ニ依ル﹂との規定に法づき︑青森県の場合は何年八月二日﹁学齢児童就学
規出いハ県令第一号﹀が布達されているが︑そこでは一ヶ年以内の就学拍子の条 件として﹁一︑疾語ニ
一 ︑
家 計
国
ル 者
一 ︑
親 抜
疾 ハ
柄 ‑
一 服
リ 他
ニ 看
護 ナ
キ 者
鈎
一︑通学不便ノ者﹂となっている︒これをみる 難ニシテ就学シ詑ハスト認ル者
と就学猶予規定に関して︑﹁小学校令﹂にぷづきつつも︑青森誌の地域的特殊性
も考議されている︑とみることができよう︒例えば﹁小学校令﹂において﹁其能
此ムヲ得サル事故いとあったものが青森県の﹁規問﹂においては﹁通学一小槌ノ
者いとなっている︒私はかつて︑吋文部省第二十年報
hハ 明
治 一
一 五
年 ﹀
結 裁
の ﹁
学
事 統
一 一
昨 夜
﹂ よ
り ︑
未 就
学 山
思 議
の ﹁
貧 窮
い ﹁
疾 病
い ﹁
其 伯
い の
理 由
別 作
択 を
み て
︑ ﹁
其
他﹂の説
λげ が
ん ふ
舗 と
比 較
し て
青 森
県 は
鰍 端
に 向
い ハ
企 臨
一 一
一 一
一 一
・ 九
臨 海
︑ 者
森 県
七
五 ・
七 一
一 一
% ﹀
こ と
か ら
︑ 青
森 県
の 場
合 ﹁
﹁ 貧
鰐 ﹂
﹁疾病い以外の被雑多様な事由
織
による中途退学や未就学が一'多かったことが雌察される﹂と指摘したが︑おの資料
からそれは要するに﹁通学不便﹂によるものでめったこと︑しかもそれはただに
同県のれ然環境的条件と指すだけでなく﹁幼弱﹂といった児童本人の年齢的︑身
体的条件も関わっての﹁通学不便﹂であることが︑次の資料からも推察された︒
すなわち青森晃では︑明治一一五年(一八九二﹀三月︑県令第一
O号で﹁学齢克
意ノ就学及家難教膏等四一部スル規出﹂が出されているが︑その第八条に﹁学齢児
‑ 19‑
堂ノ就学ヲ猶予シ又ハ免除スルヲ得ベキ事山ハ大約左 として次のように
詳しく規定されている︒
一 ︑
貧 窮
ハ 山
間 企
紙 一
ブ シ
テ 就
学 セ
シ ム
ル 時
ハ 一
J
誕
生 活
ニ 品
川 品
交 ア
ル 場
合
一一︑決総ハ学年ノ始メヨリ二一節月以上就学ニ椛ヘスト認ムル
ノレ
時又ハ発育不完令一ナル場合
一一一︑巴ムヲ得サル事故ハ流行又ハ不時ノ此陣ノ為メ学年ノ始メヨ
一 一
語 月
以 内
日一就学セシメ難キ持又ハ児瑳幼弱ノ為メ通学
k著ルシキ不捷アル
(2)第二次﹁小学校令﹂ ハ明治二三年・一八九
O﹀における就学﹁議予又ハ免
除﹂︑出露禁止規定
第一次﹁小学校令﹂における就学猶予の三条件(疾病︑家計困窮︑其也止ムヲ
得 サ ル 事 故 ) は ︑ 明 治 二 一 一 一 年 ハ 一 八 九
O﹀ 一
O
丹七呂公布の第二次﹁小学校令﹂
ハ勅令第一⁝一五号﹀にも︑就学﹁猶予又ハ発除﹂の条件としてそのまま引き継が
れる︒すなわち同令の第二十一条弘次の如くである
第二十一条 貧窮ノ為又ハ児童ノ院総ノ為其他巴ムヲ得サル事故ノ為学齢児章一
ヲ就学セシムルコト能ハサルト中ハ学齢児叢ヲ保護スヘキ潜ハ就学ノ猶予又ハ
免ぬヲ市町村長ニ申立ツヘシ市町村長ハ龍一例ノ中立ニ紋リ必要ト認ムル
中
又
ハ前項ノ中立ナキモ猶必要ナリト認ムルトキハ学齢克意若クハ学齢児童ヲ保議
d
ω
スへ中者二就キテ検査ヲ行ブコトア件
﹁ 議 ﹂に加えて﹁免除﹂という舟一請が新た立つけ加わっているのが注目され
f弘前学院大学紀要第
24号
る︒但しここでは猶子の場什と免除の場合の区別が必ずしも明確に規定されてい
な い ︒ ( こ れ が 次 の 第 三 次 ﹁ 小 学 校 令 ﹂ ( 鴇 治 一 一 一 一 ニ ) に な る と 明 確 ι 規定されるよ
うじなる︒それについては後述する︒﹀ところでこの第二次﹁小学校令﹂におい
て特比政什されるのが︑次の第二十三条の規定である︒
第二十三条 ハ厭思スヘキ疾病問一昨ル完市又は一‑液中ニ伝染病者ア
ル川辺賢又ハ不良ノ行為アル児童又ハ課業ニ棋ヘサル児議等ハ小学校ニ出席スル
締スル規則ハ府県知事之ヲ定ム コトヲ許サス
船
積 、
日似染ぃ知について試すでに述べたようじ明治一二年の﹁教育令﹂にも﹁学校ニ出
入 ス ル コ ヲ得ス﹂と規忘されていたが︑今回は児童木入試もとより家族中にも
ヲ許サス﹂と側めて強い 伝染約済がいるような場介は︑ ﹁小学校ニ出荷スルコ
調子で学校への山山を禁止しているのである︒なお関連して第十四条広﹁:::伝染
キ ハ : : : 一 時 之 ヲ 間 サ シ ム へ ん
γ :
: グ
と 学 校 閉 鎖 民
病ノ流行其地非活変災アル
ついて規定しているが︑これは学校間的鎖について法文ル出した最初のものである︒
このように︑明治ニ去年三八九
O )
の第二次小学校令に至って︑教育令鰐当時 よりもさらに強く伝染病防止の掠躍が打ち出されている点が法目される︒そこに は当然伝染病の鮮明廷という状況が考えられる︒詳しくは次郎広おいて考察する が︑治時いかなる伝染病が流行していたかを如実 ι 示す資料として︑長野県にお
いて明治一一五年(一八九二)﹂月に布達された﹁登校禁止児荒規制制定につき県
令
し…
ハ全五条﹀を一不そう︒その第一︑二条に次のように賊名が舛記されている
ω第一条 一家中山一党列謡︑痕境︑発伏都内放扶期︑時空扶出︑必婦︑実布的監理病
患者アルトキハ其児議ハ小学校叩⁝出席スルコトヲ許サス
第二条信条ノ疾病若クハ水痘︑感感︑流行性感冒︑百日咳︑流仔性服柄︑株
鮮︑其能ノ読行州一一躍リ伝染ノ恐レアル児童若グハ撒病税寵等汚械近グヘカ一ブ
崎将
サル疾ぃ柿叩⁝拙ル児童ハ小学校山一出スルコツ許サス
当時いかに嬉々な種類の抵染病が流行していた ハ こ う し た 状
‑ 20ー
況が明治一一一一年の文部省令第二十号﹁学校伝染錦子初及消毒万法﹂の制定につな
がっていったと考えられる︒)かかる状況が︑一方で学校癒生に持する施策を保
がすとともに︑就学政策面からみると︑伝染病
M m 忠者の出校を禁止する︑すなわ
ち
H隔離
H
方式によって伝染を防止する策を採っていたことが指摘で
h河 じ よ う ︒
なお先制慌の﹁小学校令﹂第三十一一一条の条文をみると︑伝染病じ加え﹁巌懇スへ
キ腕約ニ擢ル山児童﹂﹁不良ノ行為アル児竜﹂﹁謀栄一一堪ヘサル児童特﹂の出露合も
禁止している︒それらは今日的に言えば非行少年︑問題児︑学業不賑児といった
頼いといえようが︑それらを学校教育の刈象から
H排除
Hしようとする︑いかに
も亦教育的︑管理主義的な戦前の教背政築の体質が感じられてなら仕いところで
あ る
︒ 一
一 一
日 わ
ば わ
が 持
戦 前
の 教
育 は
H
縞離
Hと
H排除
Hの論取と方式に貨かれてい
たといっても決して過苔ではないであろう︒
(3)
第三次﹁小学校令﹂ハ明治三二年・一九
OO﹀における就学﹁猶子﹂﹁免除ヘ
出席﹁待止﹂規定
第二次﹁小学校令﹂における就学の﹁猶予 X
ハ免除﹂および出結禁止の規定 は︑明治一ニ三年三九
OO﹀ の 第 ﹂ 一 次 ﹁ 小 学 校 令 ﹂
ιおいて︑より詳密に規定さ
れ る
こ と
に な
る ︒
す な
わ ち
同 令
の 抑
一 一
一 ト
一 一
A
条に次の加くある︒
第 十 条
学齢川町ん竜山総蹴白出又ハ不共蹴疾ノ為就学スルコト能ハスト認メタ
ハ位持官庁ノ認可持ノ受ケ学齢児殺保識者ノ執務ヲ免除スルコ
ル ト
キ ハ
一 ブ 得
明治期における学齢児童の痕的〈特に怯染病〉の災鰐
学 齢 山 川 ル 京 病 弱 又 ハ 先 符 一 小 完 全 ノ 為 就 学 セ シ ム ヘ キ 時 期 日 一 於 テ 就 学 ス ル コ ト 能 ハ
キハ前町村長ハ蛇管官庁ノ認可ヲ党ケ其ノ就学ヲ猶珠スルコ
コ え
メタルう7
持
市町村長ニ於テ学齢光資れ州議表貧窮ノ為其ノ児童ヲ就学セシムルコ卜能ハスト
川明
スハ椋点引用者﹀
川 総
メ タ
ル
キ 十
介 前
一 処
刑 判
自持︑不具焼疾等︑要するに心身障害等のため就学不能と見
なされる者については説学﹁免除﹂︒病弱︑発育不完全等︑ このよう
性 ︑
を 接
し て
い
回復後の就学の可能
﹁猶予﹂で︑貧窮に関しては︑その程度︑状洗に応じ
て免除又は猿予の南方の場合があるとしている︒そして伝染病等については次の
第
﹁ 静 止 ﹂ と し て い る ︒
第三十八条 一 躍 り 若 ハ 其 ノ 院 ア ル 児 童 又 ハ 性 行 一 小 共 同 一 シ テ
能ノ兇主ノ教育ニ紡ア
MW l p
e '
れ
h r
トぷメタル光度ノ小学校叩一出席スルヲ伴北スルコ
伝染病経忠者およがそのれのある光章とともじ﹁性行不良﹂の者の出席も﹁停
止﹂している
αこれは第二次﹁小学校
A引いじおいては﹁不良ノ行為アル山児童
LZ開業ニ堪ヘサル光章等いとあったものが︑今度は﹁性行不良﹂となっているわ
けである
α伝染病の場合も﹁性行革内政﹂の場介も︑要するに﹁他ノ児意ノ教育ニ
妨 ア ト認メいられるとの加山から出席﹁停止
Lとしているわけである︒なお筋
二十七換では次のよう北学校閉鎖じついて規定している︒
第二ナ七条:::伝染病子防ノ為必要アルトキ其ノ他非常変災アルトキハ監督官
畑山
庁ニ於テ器時小学校ノ閉鎖ヲ命ズベシ・:
なお﹁小学校令擁行規制約第八十四条
Lにより︑就学免除および猶予の際は涯部
の診挺書を揺することとされている︒
以上︑読学規定に関する止規上の変濯をみてきたが︑第三次﹁小学校令﹂に至
ってようやく就学の﹁免除﹂と﹁猶予﹂︑出席﹁停止﹂の各々の場合が法文上現
惑に左ったと言えよう︒なお文献等においてはどうであろうか︒例えば︑就学
免捺の場合と弟子の場合の区別について︑史子校衛生概論﹄ハ北豊吉著大正一
O年﹀には次のように述べられている︒
﹁設の締結核︑顕のおき摘出性にして治癒の部品みなきものは就学を免除すべきもの
とす︒又身搾ぃ虚弱にして罷に就学する拙は︑ざるもの若くは︑疾病のため加療摂議
の嬰あるものは品衛上就学を猶予し︑納問山似体となりて後に就学せし
hu o
急性伝染
病︑伝捺世成費約︑悪山県ある介泌物を排出する耳漏の如きは︑一伴に日衛上不利な
るのみならず︑他人に危容を及ぼす問あるな以て納子せざるべからず︒﹁レ
‑ M
ス
テ
リ i ﹂又は総織に見るが如︑ざ失神︑擁維の発作合数次郎すが如きは︑自日の教青
を 諒 ⁝
b
る上に時中⁝引を米ずのみならず︑的の児童に机倣的伝染を米すが故じ就学猶
9 hM
ヲ
この説明によると﹁治州憾の望みなき﹂誼い病気が﹁免除﹂で︑それ以外は﹁猶
予﹂ということになるが︑その場合︑加療棋義の必市ーなど本人自身の健聴度とい
う怒出と︑能の児童に﹁危山小一日﹂や﹁模倣的伝弛﹂を及ぼす等︑大きく二種類の理
出仁よると考えられていたとみてよいであろう︒伝染等の危害を及ぼす場合は︑
法理上では出話﹁停止﹂とされていたのであるが︑この書ではその場合も﹁猶予﹂
の中に合めて論じられている︒
明治四一一年︿一九
O九﹀刊町小学校ト衛生恥 (森閑誠太務﹀には︑病気の種額
一時停学
Lと措置すべきであるとしているが︑
一時時学
Lすべき娯病について︑激痛︑算出︑服鋭︑失神︑﹁陸々上倒ス
ル モ ノ
Lな︑ど登校不抱のもの︑狼山例︑火弱等﹁顔ぃ泌﹂見化物ノ如ク人ヲシテ喋然
タラシムルモ/﹂︑一別府︑ヰ柄︑厳丸等一忠良を放つもの︑臨端︑溜蛾等﹁奇ニシテ
笑ハシムルモノ﹂︑﹁帳轍頗発スルモ/﹂︑ヒステリi︑舗網︑持的必等の発作ある
もの︑硫黄浴するもの︑肝油を飲加するもの︑沃能勿諜を川
mいるものなど︑裂す
や程震によって﹁数
f ﹂ ﹁ 免 除
LU
ヲ る ι ﹁醜形甚シク或ハ怒川大技シグシテ撒思スベキモノ︑恋クハ青山間著シク人 特
A耳
牽グモノハ学友ノ妨山ぃ十日夕ルヲ以テ登校セシムベカラズ﹂としてい
ho
限 ぃ
似 し
た 本
人の能成同彼という観点からでなく︑学友等への危得︑それも病気の伝染等の突
出古というよりむしろ嫌悪感︑不快感等︑主として精神的危山れれを与えるとの理由か
弘前学院大学紀要焼鈍号 らの﹁停学
L
で︑こ三にも椛忠光哉の
M
隔離
μ U
排除
μ
という方策が強く感じら れてならないとこんである
α
明治主
0年 代 手 ば の 島 根 県 隠 岐 闘 は 人 口 制 慌 で 仇 討 が 割 と 県 箱
︑ 学 校 数 も 多
く︑仲沢氏子弟には学校︑務学
M M パ在約貸かしたり︑授業料を徴収しないなど就学
焚肋に力在入れたこともあってか就学率は﹁百人中九十六人に述し︑ふ中山凶無比の
と報じられている
G
そ し
て ︑
﹁不就学者は︑続的不日パ者のみと拐ふも漁⁝百
にあちす子?の如きも︑一様川んを守りしつ
L︑
いるが︑それはある判定︑全倒的な状況でもあったとみて
と指摘されて
い で あ ろ う ︒
二︑明治期における学齢克輩の疾薪(特に佳染病﹀の紫態
jii
和穂小学校の事桝 を中心に
ii
前牢で考察したよう
ι ︑明治一一一年三八七九﹀の﹁教育令
L
におして初めて
伝決心約が就学綿子および禁止の条項︑として設場して以氏︑ぃ快︐
μ川ハ特に伝染病﹀が
就学猶予︑免除︑数
JI
等の条項として確立していく選制な法制史的に跡づけるこ とが出米たが︑その苦渋には伝染病をはじめとする様々な桜病の癌延化という状 況が考えられる︒明治の各時期において︑特
ι 伝染病を中心にいかなる疾病が流
行したかを次に考察してみること
ι す
る ︒
け
明治期全般における伝染病の流行状況 江戸時代までの疾病
ι
関しては立川昭二強制吋日本疾病史匂
に詳しいが︑例えば一丘一戸持代における成人の平均死亡年齢が男六一・臨旗︑女六
0・
2一蔵であったにもかかわらず︑一千均お命は男ニ八・七裁べ女一一八・六識と
M m
端な低さであ
ω
ったことの限凶について︑民は飛騨の
O寺院の過去帳に記された人
等:
々の死凶ハ 須田壬一一むを分析することにより︑乳児
こ と
︑
二位を占めるのが小売
(鵠チフス﹀などの急性伝染泌で︑
それに椛る者の大半が乳幼児であったことを指臨してい地
α
明治初期に天然痘が流行したことについては先述したが︑明治じ入っても様々
その花田の一︑
ぃ折︑次が抱癖︿痘清川痢日前︿点的﹀︑
傷 痕 な訟染病が流行した︒特命全権大使岩倉具視の欧米訴事視黙が基礎となって完成
したといわれる﹁医制七十六ケ条
L
︿明治七都・一八七百年八丹公布)は︑防疫
はし
に関するわが凶故初の訟規といわれるが︑そこではチフス︑コレラ︑天然症︑麻
疹の四種が感性伝拾い糾にお山止されている︒そして庭師は﹁悪性伝染病アルコトヲ
︽吋w
hu
v
と規定された︒
‑ 22
察セハ急速伝務取締及区戸長ニい胎クヘシ
時治九年ハ一八七六)には︑伝染鋭治療に派遣された民師は︑患者の性別︑年
齢 ︑ 駿 菜 ︑ f
防方法域略を調査し内務省に報告すべきことが定められ︑ここじよ うやく伝法い知識査舘肢の碍立をみることができる︒次いで明治一
O
年 三 八 七
じ)八月
翠一一年三八七八)﹁ジフテリア予防心得
L
が
小山布されるが︑それらはコレラ︑ジフテリアの流行に対し応急的に定められたも
のであった︒特にコレラの流行は顕著であったようである︒
‑コレラの流行
明治初期の天然療に次レで別治一
O年ハ一八七七)応出国の度門にコレラが流
行
υこれが縞浜を経山して日本樹内にも拡まったようで︑当時の新聞記事にも
り 々 ︑ 砿 治 の 軍 般 に て は 隣 地 よ り 来 る し 納 入 時 守 合 み だ り に よ り 本 月 十
﹁ 地
問 浜
に で
九 月
上 旬
乗船するを詩さず︒い
二十八名にて︑内死亡は六百三
十五入︑全治は間百四十六人︑治療中の者四十七人︒﹂
的一月一五日﹀などと報じられた︒一て一八人の椛忠者中︑死亡六三五人と約半数
であるからかなりの死亡率℃ある︒コレラは当持か訟り恐れられたと思われる︒
明 治
一
O
年
一 明治期における学議会究家の疾病(特に転染的〉の災館
機浜より土搾したコレラは急援東京府内 ι も拡がり﹁府下コレ
初発ょっ本日正午十二時迄に総計二百間人︒ い の 内 死 亡 九 十 七 人 ︑ 地者九卜八
人︑全治九人心ハ﹁東京府の患者数﹂明治一
O年 一
O
月 一
O
日
いう有織であった︒コレラはさらに金川倒的に拡まり︑全国のコレラ患者数は明治
健三八七九)八丹までに七万六千人余︑制点九月には.一一一
、
wノと
ている︒なお明治一二年中のコレラによる.死亡者は一
O万人を突破してい
青森県においても︑特に弘前地方には明治一一一年九月頃にコレラの大流行があ
﹁九丹八日車列刺病流行ノダメ此ノ日ヨリ三
っ た
よ う
で ︑
週間同休業スいとなんと三週間もの休業を告げてい
なお育線路においては︑関治一
O年ハ一八七八﹀一
O月八日に県令をもってコ
ており︑そのなかで﹁虎列刺ハ怒搬猛烈
レ
蹴棉間的侯︑予防法等ノ儀ハ及 ナル伝染茂一一シテ︑東京及ヒ
施行次第有之怯へ
ザ セ
学 校
等 ノ
如 キ
多 人
数 移
築 ノ
川 例
区 ハ
殊 ニ
清 治
判 ノ
用志同旋ハ勿論︑ メ生気流通
ノ衣服嬬祥股引外資等総ベテ汚話 快適ナルベキ様︑
ノ 品 料 ハ 丁 明 日 ⁝ 都 撚 シ : : : ﹂ に 始 ま り ﹁ 虎 列 科 病 淀 一 行 ニ 付 校 舎 利 仰 除 等 ノ 心 得 議 い
を一一一一ケ糸川にわたって指示説明しているが︑これは県が小学校現場に対して依染
病予防訟を指導した最初のものであっ
コ レ ラ の 流 行 は
︑ 別 治 一 九 年 墳 に は 全 面 的 範 的 に 及 ん で い た よ 同 年 八 月
八日の﹁東京日日新開﹂には︑﹁現に日本全部にて虎列刺流行地は︑東京府︑神
奈川川県下各都︑長崎県︑新潟県︑千葉県︑福井削除︑島根県︑高知県︑福岡来︑金 釘弘︑大町年初︑京都府︑兵帰路︑持山県︑広島県︑和歌山県︑愛媛県︑五議謀︑
dd︐
山川県にして︑一二前十六県の多きに至れりにと報じられており︑さらにその直後 ι は北海道庁管下諸島鋼︑新潟県下佐渡回︑埼玉県︑茨城県︑出挺県︑長野県︑
青蒜州︑秋川県一十羽強属︑山形県︑石川黙の一道九県が流行地じつけ加えられて
︑る︒(明治一九年八月二九日
、
J明治一九年ハ一八八六﹀には青森時もコレラ流行地に加えられているが︑同年
の県記鉛にも﹁本県下コレ
に 劇
場 ︑
同
相撲︑寄席その能諸興業すべき衆人群集することを禁︑ず︒(暁
m m
・9・4県 日
記 録
) ﹂
とある︒なお次はは年の県下東津軽郡および上北郡の学事報道記事である︒
ハ本年(明治一九平:::引用者註﹀八月間附令第一号ヲ以テ得布逮
アレトモ持恰モ都内虎列刺非新ノ流行一一捺シ盃ル姑其協議ヲ逗フシタルヲ以テ
之 ヅ
実 地
ス ル
ノ 運
ヲ ナ
ス ニ
都 中
一 ブ
ス
本年中全郡忠疫流行シ学齢克ノ其災ニ照り死亡セシモノ百二十一名アレハ其内
23
説学生モ多少之レアルヘシト詰スルナリ
‑腸チフスの流行
コ レ
ラ に
次 い
で 凶
明 治
二
O与
ハ 一
八 八
七 ﹀
顎には腸チフスも流行したようであ
叶学校州論﹂と題する川教育時論﹄の論説記事 ι ︑
見出しで次の記述がある︒
﹁棋方医にては︑協捜扶断を腸史︑と称し︑民間にては︑之を熱病と一山へり︒蒸し
該州症たるや︑発熱甚しく︑忠者の苦脳饗ふるに物なく︑其桜終に自己の感覚を
失し︑州刑に機一訟を吐き︑所間人事不桝の有様に諮るなり︒人皆其熱痛の伝染せざ
らんことを希はざるはなし︒近米本邦にては︑法行熱と一広へる病症︑漸く繋廷し︑
絞初は部会の地のみなりしと患ひしに︑川川︑そ料らん︑遂に諏口巴避地にまでも伝播
し︑最初は交際社会のみに限りしと思ひしに︑脱近に至りては︑余諜の栖躍なる
AN匂
自
V