雲南のクツォン人と北部インドシナ採集狩猟民 : 古い伝統か文化的退化か
著者 大林 太良
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 21
号 2
ページ 345‑389
発行年 1997‑01‑14
URL http://doi.org/10.15021/00004167
大 林 雲 南 の クツ ォ ン人 と北部 イ ソ ドシナ の採 集 狩 猟 民
雲 南 の クツ ォン人 と北 部 イ ン ドシナ の採 集 狩 猟 民 古い伝統か文化的退化か
大 林 太 良*
The Kucong in Yunnan and Hunter-Gatherers in Northern Indochina:
Do They Represent an Old Cultural Tradition or a Case
of Cultural Devolution?
Taryo OBAYASHI
The Kucong are an ethnic minority living in the Jinping and Luchu areas of South Yunnan, although the ethnic classification of the Chinese government does not afford them the status of a distinct minority na- tionality, but registers them as a part of the Lahu nationality. A branch of them moved into northwestern Vietnam where they are known as the Lahu or the Cosung.
The Kucong have attracted the attention of ethnologists because at least some of them were renowned as an ethnic group of migratory hunter-gatherers who practised a silent trade with surrounding peoples of an agricultural economy. The Kucong of today, however, practice swidden agriculture supplemented with some hunting and gathering.
The aim of this paper is twofold: one is to present an ethnographic overview, putting together data scattered in numerous publications, and the other is to place the Kucong in the ethnic and cultural history of the area covering South China and northern Indochina.
The latter constitutes no easy task. The problem is whether they are the last representatives of a cultural tradition based on a hunting and gathering economy, a tradition which may go back to the Upper Palaeolithic in this area, or whether they represent a case of cultural devolution, regressing from swidden agriculture to a hunter-gatherer
*東 京女子大学,国 立民族学博物館研究協力者
Key Words : Kucong, hunter-gatherers, Yunnan, swidden cultivators, cultural devolu- tion
キ ー ワ ー ド=ク ツ ォ ソ人,採 集 狩 猟 民,雲 南,焼 畑 耕 作 民,文 化 的 退 化
国立民族学博物館研究報告21巻2号
economy, as has been supposed for the Punan in Borneo and the Phi Tong Luang in northern Thailand.
The available materials, i.e., historical records, migration legends and ethnographic evidence, do not give a definite answer. The culture betrays few features suggestive of a hunter-gatherer tradition. We can cite only the worship of hunting deities, and the squirrel as a present from the bridegroom's side at betrothal, as well as actual hunting and gathering activities. The culture of the Kucong is very similar to that of their agricultural neighbors, particularly that of the Hani and to a lesser degree that of the Lahu. This is the case not only in subsistence economy and material culture, but also in religious rituals and mythology. Furthermore, the Cosung in Vietnam have a legend relating a cultural regression.
All these are in favor of cultural devolution. Nevertheless it seems to me appropriate to leave the matter undecided at the present stage of research, since the materials at our disposal are still insufficient for a final judgement.
1.は じめ に
一 資料,分 布,形 質,言 語 一 一 2,経 済生 活 と物 質 文化
3.社 会生 活 4.沈 黙交 易 5.宗 教
6.神 話
7.雲 南 の 他 の地 域 の採 集 狩 猟 民 8.ベ トナ ムの コス ン族
9,,ク ツ ォン人 の起 源 と東 南 ア ジ ア大 陸部 の採 集 狩 猟 民
10.結 論
1.は じ め.に 資 料,分 布,形 質,言 語
中 国 の少 数 民 族 に つ い ての 我 わ れ の知 識 は近 年 に な っ てか な り増 大 し,従 来 ほ とん ど知 られ て いな か った民 族 に つ い て も,か な りの情 報 を もつ こ とが で きる よ うに な っ た 。 そ の なか に は 近年 ま で移 動 的 な採 集 狩 猟 民 だ った といわ れ る ク ツ ォ ソ(苦 聡)人
もい る。 中 国で は 政府 か ら正 式 に 少 数民 族 と して認 め られ てい る民 族 は,○ ○ 族 と呼 ぼ れ る が,認 め られ て い ない もの は,○ ○ 人 とい う名 称 で 呼 ば れ て い る。 ク ツ ォ ソ人 もそ の一 例 で あ った が,1987年 に ラ フ族 に属 す る と公 式 に 認 め られ た。 しか し他 の ラ フ族 と区 別 す る た め に,中 国 の学 者 の用 法 【た とえぽ 王 酪 之 1990】 に 従 っ て本 稿 で
大 林 雲 南 の ク ツ ォ ン人 と北 部 イ ン ドシ ナの採 集 狩 猟民
は ク ツ ォン人 と呼ぶ こ とに す る。
本論 で は,雲 南 の ク ツ ォ ン人 に つ い て の資 料 を ま とめ た後,ベ トナ ム北 部 に住 む そ の一 派 につ い て の資 料 を 紹 介 し,最 後 に,中 国 南部 か らイ ソ ドシナ北 部 の採 集狩 猟 民 の 問題 につ い て,若 干 考 えて み る こ とに した い 。
私 は本 章 の も と とな った 旧稿 で30年 前 に クツ ォ ソ人 の文 化 に つ い て 考 え て みた こ と が あ る が1大 林 1965】,そ の と きは ク ツ ォ ン人 の民 族誌 的 資 料 と して は,わ ず か3つ の ル ポ ル タ ー ジ ュ,つ ま り黄 昌禄 の 「日の 目を み た ク ー ツ ォ ソ族 」 【黄 1960】と 『苦 聡 人有 了太 陽 』 【黄 19611お よび 郡 国平 の 「哀 牢 深 山訪 苦 聡 」 【郡 19621し か利 用 で きな か った。 そ の後 ク ツ ォ ソ人 に つ い て の報 告 もふ えた が,ま だ この 民 族 に つい て の 標 準 的 な民 族 誌 とい うべ き専 著 は 公 に され て い ない ら しい 。 ただ,宋 恩 常 『雲 南 少 数 民 族 社会 調 査 研 究 』 の 「苦 聡 人 的 原 始社 会 残 余 」 の章 で,ク ツ ォ ン人 の 民 族誌 が 要 領 よ くま とめ られ 【宋 19801,こ れ とか な り重 複 す る 内容 の 王軍 執 筆 の概 観 が雲 南 省 歴 史 研 究所 編 著 のr雲 南 少数 民 族 』 【王 軍 1983】に載 って お り,ほ ぼ そ れ らの要 約 と言 っ て も よい もの は,日 本 語 で も利 用 で き る よ うに な っ て い る 【王 酪 之 1990:こ とに 48‑55】。
この よ うに一 応 の概 説 は近 づ きや す くな った もの の,一 次 資料 と もい うべ き調 査 報 告 につ い て は,ま だ事 態 は それ ほ ど改 善 され て い な い よ うで あ る。 基 礎 的 な調査 報 告 書 と して 私 が利 用 で きた もの は,1959年 あ る い は1960年 の 調査 に も とつ くもの で,『拉 枯 族 社 会 歴 史 調査 』2に 収 め られ た3つ の 報 告1)く らい で あ って,あ ま り多 くな い 。 しか も3つ と も短 い報 文 で あ る。 した が って 私 は 資料 の多 くを二 次的 な編 纂 物 に 負 わ ざる を得 な か った。
以下 これ らの 資料 に も とつ い て,ク ツ ォ ソ人 の文 化 を一 瞥 す る こ とに し よ う。
記 述 の仕 方 と して は,原 則 的 に まず1965年 に ま とめ てみ た こ とを記 し,次 に新 しい 資料 で補 う形 で,ク ツ ォ ン人 の文 化,社 会 の 輪 郭 を 描 くこ とに した い。 この方 法 に よ って,過 去30年 間 に おけ る この 小民 族 につ いて の 知 識 が い かに 増 して きたか も示 す こ とが で き よ う。
ク ツ ォ ン人 は 雲 南 省南 部,北 ベ トナ ム との国 境 に 近 い 山地 の原 始 林 に住 ん でい る。
黄 昌禄 は昆 明を 出発 して雲 南 高 原 の 山 々 を越 え,紅 河 を 渡 り,中 国 の 西 南 国境 に あ る 金 平 県 を通 って,ひ きつ づ き西 南 に進 み,人 煙 稀 れ な哀 牢 山 の 中 を三 日間歩 きつ づ け た 後,ク ツ ォ ン人 の 住 ん で い る と ころ に た ど りつ いた と述 べ て い るが,こ れ は,後 述 1) 金 平 県三 区翁 当 郷 拉 枯 西 につ い て一 宋 【1981a],金平 県 茨 通癩 郷 大 塞 郭 周(黒 苦聡 人)に つ い て一 宋[1981b】,金 平 県 三 区 翁 当新 安 塞 黄 苦 聡(拉 枯 西)人 につ いて一 徐11981】。
国立民族学博物館研究報告 21巻2号 の新 しい村 であ るが,元 来 の生 活 環 境 も この附 近 であ った。1957年 現 在 の人 口は2177 人 とい う 【黄 1960:58‑60,1961:39】 。
そ の後 の調 査 に よ る と,ク ツ ォ ソ人 の 分布 地 域 は 思 茅,玉 渓,紅 河,西 双版 納 の 諸 地 区 で あ り,1982年 の人 口は,2万5千 人 余 りであ るか ら,1957年 の 数字 とは大 きな 相違 で あ る。 もち ろん 人 口が10倍 以 上 も 自然 増 した とい うの で な く,1957年 に は把握 され て い なか った もの も把 握 され た り,他 の民 族 と して登 録 され て い た もの が,ク ツ ォン人 と して登 録 され た結 果 であ ろ う。
ク ツ ォ ソ人 に は,(1)グ ー ツ オ(文 瑳)と 自称 し,ヘ イ ク ツ ォソ(黒 苦 聡)と 他 称 され る支 系 と,(2)ラ フ(拉 枯)と 自称 し,フ ア ン クツ ォ ン(黄 苦 聡)と 他 称 さ れ る支 系 の2つ に わ か れ る 【宋 1980:99‑100;王 軍 1983:263;王 諮 之 1990:48】。
ク ツ ォソ人 は 解 放 以 前 か らそ の存 在 が知 られ てい た 。r新 唐 書 』 の なか の 《鍋 鐘蛮 》 が,今 日の ク ツォ ソ人 を指 して い る可 能 性 が あ る。 清 代 の い くつ か の地 方 志 で は,ク
ツ ォ ン人 は 《果 葱 》 《苦 葱 》 《苦 宗 》 《小古 宗 》 と呼 ぼ れ て い る 【宋 1980:100;王 軍 1983:263;王 酪 之 1990:49】。
金平 県三 区翁 当 の ク ツ ォ ン(拉 枯 西)人 は,自 分 の故 郷 は 《高 頭 北 国》 だ と言 って い る。 《高 頭 北 国》 が ど こに あ る の か は彼 ら も知 らず,ま た いつ 北 国か ら来 た のか も は っ き りしない 。 ほ ぼ 百年 前 に一 部 の 拉 枯 西 は金 平 県 三 区翁 当郷 橋 在 坪河 頭 の地 域 に や って 来 た。 最 初 は 土 地 を探 し求 め,獣 の害 を避 け るた め で あ った 。 も っ と も早 くや って 来 た 氏族 は 《伯 透 》 で あ って,現 在 も来 住 老 の子 孫 が まだ 生 きて お り,年 はす で に80才 を 越 え てい る。 伯透 氏 族 に つ づ いて拉 透,亥 拍,楼 牙 とい う三 氏 族 の 成 員 がや
って 来 た[宋 1981a:821。
他 方,金 平 県 茨 通 煽 郷 大塞 の郭 周(黒 ク ツ ォ ソ)人 は 金平 に来 る前 に 緑春 県 の蟷 螂 一 家 に い た が,そ こか ら騎 馬 煽 を へ て 金 平 県境 内 の四 区 之米 地 方 に や って来,ま た之 米 か ら茨 通煽 の河 頭 一 帯 にや っ て来 た 。 郭 周人 は この 茨通 煽 河 頭 一 帯 に 生活 す る よ う
にな って か らす で に5代 の歴 史 が あ り,約 百年 た っ てい る。
郭 周 人 は付 近 の 諸 民 族 と密 接 な関 係 を 結 ん で お り,そ の うち ラ フ西 つ ま り三 区翁 当 郷 な どの ク ツ ォ ン人,ハ ニ族,タ イ族 と も っ と も関係 が 密接 で あ る。 郭 周人 は ラ フ西 と相 互 に通 婚 し,郭 周 人 と ラ フ西 人 とは 森林 中 で の焼 畑耕 作 とい う経 済生 活 も比 較 的 近 い 。 た ん に隣 り合 せ て い る ばか りで な く雑 居 してい る。
ハ ニ族(拉 米 支)と の 関係 も密 接 で 通 婚 す る し,郭 周人 はみ な ハ ニ語 が で きる。 服 装 な ど も全面 的 に ハ ニ族(拉 米 支)の もの を受 容 して い る。
タイ 族 との関 係 も非 常 に密 接 で,か つ て は政 治 的 に は タイ族 の 土 司 に隷 属 し,土 司
大 林 雲 南 の ク ツ ォ ン人 と北 部 イ ン ドシナ の採 集 狩 猟 民
制 度 の 圧 迫 と,経 済 的 搾 取 を 蒙 っ て き た 。 各 種 の 税 を 納 め,政 治,軍 事 上 の 支 出 の ほ か に,薪 と り,水 汲 み,阿 片 を 飲 む 費 用,さ ら に 家 屋 建 築 の よ うな 重 い 労 役 も課 せ ら れ て い た 。 他 方 で は,タ イ 族 の 進 ん だ 生 産 技 術 は 郭 周 人 に は 大 き な 影 響 を 与 え た 。 郭 周 人 は タ イ 族 か ら水 田 耕 作 や 紡 織 技 術 を 習 った の で あ っ た 【宋 1981b:108‑llll。
こ の よ うな 他 民 族 との 関 係 に つ い て の 資 料 も断 片 的 で あ っ て,そ の 他 の 地 域 で は ど うだ っ た か,詳 細 は 知 ら れ て い な い 。
ク ツ ォ ソ 人 の 身 体 形 質 に 関 し て は,黒 い 顔 色 を し て い る こ と を 除 い て は1黄 1960:61,1961:37‑381,よ く判 っ て い な い 。 彼 等 の 中 に は 長 身 の も の も い る こ と が 報 ぜ ら れ て い る が 【郡 1962:20‑21】,他 の も の の 身 長 に 関 して 記 載 の な い と こ ろ か らみ て,恐 ら く華 南 人 と大 差 な い の で あ ろ う。 ま た 今 ま で 発 表 され た 写 真 も,彼 等 の 人 種 形 を 明 ら か に す る の に は 充 分 鮮 明 で な い 。
近 年 の 報 告 も こ の1960年 代 の 報 告 に,つ け 加 え る も の は な い 。 お そ ら く詳 し い 自然 人 類 学 的 調 査 が ま だ 行 な わ れ て い な い た め で あ ろ う。 そ れ と 同 時 に,周 囲 の 雲 南 省 南 部 の 他 の 山 地 少 数 民 族 と,外 観 上 は あ ま り顕 著 な 相 違 が な い た め で も あ ろ う。 タ イ 国 や ラ オ ス の 山 地 の 採 集 狩 猟 民 ピ ー ・ ト ン ・ル ア ン族 と 同 様 に 【BERNATzIK 1939:200 (ベ ル ナ ツ ィ ー ク 1943:23‑24)】,モ ン ゴ ロ イ ドの 一 例 で あ る と い っ て よ い だ ろ う。
言 語 に 関 し て は,村 松 一 弥 は,「 ク ー ツ オ ソ人 の 話 す 言 語 が ど の 語 系 に 属 す る か は, 手 も と に 十 分 な 資 料 が な い の で い ま の と こ ろ は 何 と も い え な い 。 漢 字 表 記 され た,わ ず か の 単 語 例 か ら,強 い て 言 え ば,チ ベ ッ ト語 群,そ れ も イ(Lolo)語 系 に 近 い よ
うに 思 わ れ る 」 と述 べ て い る 【村 松 1963:17;cf.黄 1961:58】 。 し
昔 も 今 も,人 び とは ク ツ ォ ン人 を ハ ニ(恰 尼)族 の 一 支 系 と考 え て 来 た が,近 年 の 言 語 調 査 の 結 果,そ の 言 語 は ラ フ 語 に 近 似 して い る こ と が 明 ら か に な っ た 。 そ の た め ク ツ ォ ソ人 は 今 日ふ つ う ラ フ族 の1つ の 支 系 とみ な さ れ て い る 。 新 平,普 濁 の 地 の 大 部 分 の ク ツ ォ ソ人 は,長 期 間 イ 族,ハ ニ族 や 漢 族 と 隣 接 し,あ る も の は 雑 居 して き た の で,過 半 数 の 人 た ち は も う ク ツ ォ ソ語 を 話 さ な くな っ て い る[宋 1980:100;王 軍 1983:263;王 酪 之 1990:491。
2.経 済 生 活 と物 質文 化
ク ツ ォ ン人 の 生 業 と し て は,採 集 狩 猟 活 動 と 農 耕,こ と に 焼 畑 耕 作 の 双 方 が 報 告 さ れ て い る 。1960年 代 の 記 録 と,1980年 代 以 後 に 発 表 さ れ た も の 【た と え ば 王 軍 1983:264‑265;王 酪 之 1990:50‑52】 と は 基 本 的 に 変 ら な い 。
国立民族学博物館研究報告 21巻2号
まず1960年 代 に 採 集 狩 猟 活 動 に つ い て 記 さ れ た と こ ろ を 見 る こ と に し よ う。
彼 等 は 哀 牢 山 中 の 原 始 林 を さ す ら い,女 は 一 時 に は 男 も一 山 芋 を 掘 り,そ れ も な い と き は 野 生 果 実,野 草 を あ つ め,男 子 が 弩 や 元 込 銃 を 用 い て 狩 猟 を しな が ら生 活 し て い た1黄 1960:58‑60,1961:14‑15;郡 1962:201。 主 な 狩 猟 の 対 象 は,白 鵬, 脊 鶏,リ ス(松 鼠),廃,鹿,熊,猿 で あ る 【黄 1960:58,60,1961:14‑15】 。 中 に は 30余 頭 の 熊 を 仕 止 め た 優 秀 な 猟 師 も い た 【郡 1962:211。 猟 師 は 森 林 中 の 各 種 の 鳥 獣 の 生 活 習 性 と活 動 ル ー ル を 熟 知 し て お り,甚 し き に 至 っ て は そ の 言 語 を 理 解 す る も の も あ る と い う。 一 片 の 竹 葉 を 口 の 中 に 含 ん で,い くつ か の 音 を 吹 い て,リ ス,猿,廃 を お び き 出 す 。 ま た 口笛 で 斑 鳩,喜 鵠,黒 雀,一 種 の 白 頭 鳥 な ど,30余 種 の 鳥 の 暗 声 を 真 似 して お び き よせ る1黄 1961:51‑52】 。
そ の 後 の 報 告 で も よ り詳 細 が 知 られ る よ うに な っ た 。 こ と に 主 な 狩 猟 の 対 象 は リス (松 鼠)や モ グ ラ(地 鼠)で あ っ て,モ グ ラ 狩 に は 女 も子 供 も 参 加 し,女 は 石 板 を 用 い,子 供 は 小 さ い と きか ら 矢 を 作 っ て モ グ ラを 捕 る 。 ま た リス を 捕 る の に 弩 も 用 い ら れ る1宋 1981a:86‑87;な お 徐 1981:100も 参 照 】。
これ か ら 見 て も,ク ツ ォ ン人 の 狩 猟 活 動 は 一 般 的 に は 大 した も の で は な い 。 そ して 植 物 採 集 に 関 して は,掘 棒 を 用 い て の 野 生 の イ モ(野 薯)の 採 集 が 行 な わ れ て い た 【宋 1981a:85‑86;徐1981:99】 。
お そ ら く彼 ら が 移 動 的 な 採 集 狩 猟 の 生 活 を 送 っ て い た と き も,今 よ り も野 生 動 物 資 源 が 豊 富 で あ った に して も,狩 猟 よ りも採 集 が 生 業 活 動 の 中 心 で あ っ た ろ う。
しか し,彼 等 は 農 耕 も 行 な っ て い る 。 だ が,森 の 中 で 栽 培 で き る も の は ト ウ モ ロ コ シ だ け だ っ た 。 毎 年 春,雨 季 の 前 に,彼 等 は 森 林 中 の1ケ 所 の 樹 木 を 伐 り倒 し,そ れ か ら2ケ 月 ほ どた って,樹 木 が 乾 燥 す る の を 待 っ て,山 焼 き を した 後,先 の 尖 った 掘 棒 か,木 の 枝 で つ く っ た ク ワを 用 い て 地 に 穴 を 掘 り,そ こ に 種 子 を 埋 め,そ れ が す む と,鳥 獣 に 荒 ら さ れ な い よ うに 日夜 そ の 番 を し な が ら,秋 の 取 入 れ を 待 っ た 。 収 穫 の 一 番 多 い 家 族 で も ト ウ モ ロ コ シ で ,3〜4ケ 月 間 食 い つ な げ る の が や っ と だ っ た 。 そ れ で も 鳥 獣 に 荒 ら され る 分 と,人 間 の 手 に 入 る 分 とは 半 々 で あ っ た 。雨 の 多 い 年 に は, 伐 り倒 した 木 が な か な か 乾 か な い の で,山 焼 き も で きず,従 っ て ト ウ モ ロ コ シ も作 れ ず,木 の 実 や 野 獣 の 肉 で 飢 え を し の ぐ 外 な か っ た 【黄 1960:58,1961:14‑15;郡 1962:21】(郡 は 農 具 と し て 掘 棒 だ け を 挙 げ て い る)。60年 以 上 も森 林 の 中 で 暮 し た 老 女 は,米 や 塩 の 味 も知 ら な か っ た と い うか ら 【黄 1960:59,1961:171,稲 作 と塩 の 利 用 を 知 ら な か っ た と 見 て よ い 。 た だ し,郡 国 平 の 報 告 に は 一 に ぎ りの 稲 を 植 え て,祖 先 を 祀 る の に 用 い,献 祖 公 と い う と あ る が 【郡 1962:21】,こ れ を も っ て,ト ウ モ ロ
大 林 雲 南 の ク ツ ォ ン人 と北 部 イ ン ドシナ の採 集 狩 猟 民
コ シ 以 前 に 稲 作 が 主 と し て 行 な わ れ た 痕 跡 と見 る べ き か 否 か は 問 題 で あ る。 これ も 恐 ら く最 近 に な っ て 祖 先 崇 拝 と と もに 周 囲 の 農 耕 民 か ら 受 容 し た も の と 解 釈 す べ き で あ ろ う。 な お 後 述 の 十 臓 節 の 由 来 に よ る と(神 話9),ク ツ ォ ソ人 の 少 な く と も 一 部 は, 前 か ら トウ モ ロ コ シ と と も に 高 梁,蕎 麦 も作 っ て い た ら し い 。
そ の 後 の 報 告 に は,農 耕 に つ い て の 記 述 も あ る 【宋 1980:103‑104,1981a:82‑85, 1981b:109‑110;徐 1981:10(}‑101】 。 ク ツ ォ ン人 は 生 産 力 が 低 い の で,充 分 な 収 穫 物 が な く,近 隣 の ほ か の 民 族 の 村 に 行 っ て 農 作 業 を 手 伝 っ て く らす 者 も い る 。
注 目す べ き こ と は,2,3戸 の 協 同 活 動 で あ る。つ ま り1つ の 《血 縁 的 家 族 共 同 体 》 の な か で,2,3戸 が 一 緒 に な っ て 集 団 労 働 共 同 耕 作 や 生 産 物 の 平 等 分 配 を 行 な っ て い た 【宋 1980:103,1981b:109;王 軍 1983:264,267;王 酪 之 1990:51】 。 な お 土 地 所 有 の 形 式 に つ い て は,
(1)2,3戸 が 集 団 で 土 地 を 占有,耕 作 し,平 等 に 産 物 を 分 け る。
(2)集 団 で 土 地 を 占 有 し,焼 畑 を し た あ と,各 家 族 そ れ ぞ れ が 土 地 を 分 け て 耕 作 す る 。
(3)個 々 の 家 族 が 土 地 を 占 有 し,そ れ ぞ れ 耕 作 す る 。
こ の(3)が 新 中 国 成 立 前 に す で に 優 勢 に な り始 め て い た 。(1)と(2)は 労 働 力 と工 具 の 不 足 を 解 決 す る た め の 方 策 だ った 【宋 1981a:88;王 軍 1983:267;王 酪 之1990:51‑52】 。
ま た,こ の(1)は,さ き に 述 べ た,2,3戸 の 共 同 労 働 に 対 応 す る 土 地 所 有 の 形 式 で あ る 。 な お ク ツ ォ ソ人 の 農 耕 と 関 係 が 深 い の は,移 動 の 問 題 で あ る が,そ れ は 社 会 生 活 の 節 で 取 り上 げ る こ と に し た い 。
次 に 彼 ら の 生 活 を 見 よ う。1960年 ご ろ の 資 料 は 次 の よ う に 描 い て い る 。
彼 等 は 鉄 鍋 を 有 た な い の で,火 で あ ぶ っ て 焼 くか,竹 筒 中 で 煮 る の が 料 理 法 で あ る 。 山 の 芋 は,火 の 上 で 焼 い て,切 っ て 小 片 と し て 食 べ る。 狩 猟 は 不 安 定 な 生 業 で あ り, しか も 時 に は 危 険 に 遇 うこ と も あ る 。 野 生 植 物 の 採 集 も あ て に な ら ず,誤 っ て 有 毒 植 物 を 食 べ る こ と も あ る 。 従 っ て,餓 死 や 中 毒 死 す る 人 が い つ も あ っ た の で あ る 【黄
1961:15】 。
狩 猟 採 集 生 活 を 営 み,ま た 決 っ た 畑 と い う も の が な い ク ツ ォ ン人 に と っ て は,行 く 先 々 が 畑 で あ り,そ の 居 所 も転 々 と毎 年 移 動 し て い っ た 【黄 1960:58,1961:17】 。 彼 等 の 野 営 地 に つ い て の 資 料 は 少 な い が,森 林 の 中 の,急 に 明 る い 空 の み え る所 の 草 む ら の 中 に 一 軒 小 屋 が あ っ た 例 か ら み て,著 し く分 散 的 な も の ら し い 【黄 1960:60, 1961:17,29】 。 ま た 郡 国 平 も 金 竹 村 附 近(?)一 帯 に30余 戸 の ク ツ ォ ン人 が 分 散 居 住
国立民族学博物 館研究報告 21巻2号
し て い る こ と や 数 軒 の 小 屋 が 聚 落 を な して い る こ と を 報 じて い る 【郡 1962:20‑21】 。 し か し,森 林 か ら 大 平 原 に 出 よ う とす る 試 み も幾 度 か あ っ た が,い つ も 失 敗 に 終 った が,1940年 代 に は,4世 帯 で 森 の は ず れ の 近 くに 住 居 を うつ し,森 の 外 に 通 じ る 路 を 切 り開 い た こ と が あ る が 【黄 1960:59,1961:191,こ の よ う な集 落 は 例 外 的 な も の で あ っ た に 相 違 な い 。
彼 等 の 元 来 の 住 居 は,風 除 け と呼 ぶ べ き で あ ろ う。 そ の 後 の 資 料 に も ま た 金 平,緑 春 な ど の 辺 境 地 区 で は,清 代 に な っ て も,「 葉 で 小 屋 を つ く り」 移 動 生 活 を し て い た 。 家 屋 ら し い も の を 建 て る と こ ろ で は,そ の 家 屋 は 人 字 形 で,高 さ3な い し1メ ー トル, 床 は10か ら30な い し40平 方 メ ー トル の 大 き さ で あ る。 炉 に は 煮 炊 用 の も の,父 母 の 生 活 用 の も の,子 女 や お 客 さ ん 用 の 炉 の3種 が あ る1王 軍 1983:272】 。
1960年 代 の 報 告 を み る と,殆 ど の も の が,竹 や 木 の 枝 で 囲 い を 作 り,芭 蕉 や 竹 の 葉 で そ の 上 を 蔽 っ て 小 屋 を つ く る(郡 に よれ ば 芭 蕉 の 葉 の 塔 状 の 小 屋)か,ま た は 岩 蔭 や 大 き な 木 の 洞 穴 を 住 居 に し て い た 。 住 居 が こ うい う状 態 な の で,山 頂 は 白 雪 で 蔽 わ れ て い る ほ ど の 高 山 の 寒 い 気 候 に は 耐 え られ な い か ら,年 が ら年 じ ゅ う火 を 絶 や さ ず, 夜 は 焚 火 の ま わ りで 暖 を と り,同 時 に そ れ で 野 獣 を 近 づ け な い よ うに し,昼 間 は そ の 火 で 食 べ 物 を 煮 た り,肉 を 焼 い た り した 【黄 1960:58,60,1961:17;郡 1962:20]。
こ の よ う な 生 活 の た め,身 体 に は 火 傷 の 痕 が 絶 え な か った 【郡 1962:21;黄 1961:
18】。 彼 等 の 発 火 法 は,日 に 乾 した バ ナ ナ の 根 を 引 き裂 い て 細 い 糸 に して 地 上 に お く。
そ れ か ら2本 の 乾 燥 した 竹 棒 を 相 互 に 摩 擦 す る。 連 続 し て3〜4時 間 も摩 擦 し て い る うち に,火 花 が 生 じバ ナ ナ の 糸 に 引 火 す る の で あ る 。 こ の よ うに 苦 労 し て 作 っ た 火 で あ る か ら,引 っ越 し に 当 っ て も,豚 と犬,弩 箭,山 刀(欣 刀)の よ うな 全 財 産 の ほ か に,火 種 を も っ て 行 く こ と を 忘 れ な い 。 種 ま き や 狩 猟 の た め に 外 出 す る と き も,誰 か が 留 守 番 を して 火 種 を 見 張 っ て い た 【黄 1961:18]。
衣 服 と して は,子 供 の と き か ら裸 の ま ま で,成 人 す る と 腰 の ま わ りに 木 の 葉 を つ け る獣 皮 を ま と っ て い た 。(但 し,郡 に よ れ ぽ 木 の 葉 の ス カ ー トを つ け る の は 女,子 供 で あ る 。)ま た 交 易 に よ っ て,ハ ニ 族 や タ イ 族 の 古 着 が 多 少 入 っ て い た 【黄 1960:58,
1961:15‑16;郡1962:20‑21】 。 あ る 男 は,ざ ん ば ら 髪 を 肩 ま で た ら し,腰 の ま わ り に ポ ロ布 を ま い て い る だ け の 裸 に ひ と し い 姿 を して 木 の 実 を 拾 っ て い た し,そ の 妻 は, 身 に 何 も ま と っ て い な か っ た 【黄 1960:60,1961:28;郡 1962:20‑21】 。 黄 の 報 告 で は,猟 師 は ざ ん ば ら髪 で 腰 に 獣 皮 を ま と っ て い る。 そ して ク ツ ォ ソ人 は,彼 等 の 裸 行 を 他 民 族 に 対 して は 恥 じ て い る 【黄 1960:58,601。
も ち ろ ん,そ の 後 の 報 告 か ら 見 て も,多 く の ク ツ ォ ン人 は も っ と ま し な 服 装 を し て
大 林 雲 南 の ク ツ ォ ン人 と北 部 イ ン ドシナ の採 集 狩 猟 民
い た 。 とは言 っ て も,大 多数 の クツ ォ ソ人 は麻 も木 綿 も栽培 せず,解 放 前 に は 自分 で 紡 織 を して い なか った の で,布 と衣 服 を,ハ ニ族 と交換 で手 に入 れ る こ とが多 か った 。 そ こで 各地 の クツ ォ ソ人 の衣 服 は ウ ォニ(ハ ニ)族 と同 じだ と報 告 され て い た。 男 は 麻 布 の短 衣,女 は短 衣 と長 い ス カ ー トを着,綿 花 を 栽培 して い る地 区 で は,男 は 青 や 藍 の 木綿 の上 着 とズ ボ ソを つけ,女 は 青 や藍 の木 綿 の 長 い 上 着 を着,筒 形 の ス カ ー ト を は く。 ただ 金 平地 区 の ク ツ ォ ン人 の 女 は,こ の 地 域 の ハ ニ族 の女 と同 様 に,ズ ボ ソ を は い て,ス カ ー トは はか ない 。
若 い人 は男 女 と もに 異常 に装 身 具 を 好み,女 性 は 藤 の 皮 を着 色 した 髪 の箔 を用 い る が,上 に 白銀 泡,貝 殻,そ れ に 貨 幣 を つけ て美 観 を増 して い る。 腕 輪 や 珠玉 をつ け る こ とを喜 ぶ 。 男 子 は常 に野 獣 の 角 を 頭 につ け て,狩 猟 と勇武 にす ぐれ て い る こ とを 表 示 す る 【宋 1980:106;王 軍 1983:271‑2721。
3.社 会 生 活
ク ツ ォ ソ人 の 一 生 に つ い て の 報 告 は あ ま り多 くな い 。
1960年 代 の 報 告 に よ る と,原 始 林 の 中 で 子 供 を4人 生 ん だ 老 婆 の 話 で は,赤 ん 坊 が 生 ま れ る とす ぐに 芭 蕉 の 葉 を 火 で あ た た め て 子 供 を つ つ む 。 食 べ 物 が 少 な い の で,出
産 の 翌 日か ら,母 は そ の 子 供 を か ず ら で 背 負 い,山 芋 掘 りに 行 か ね ば な ら な か っ た 。 そ し て 食 料 の 不 足 の た め 乳 が 出 ず,生 ん だ 赤 ん 坊 は4人 と も飢 え 死 に さ せ て し ま っ た 。 男 子 は10才 に な る と父 が 作 っ て 与 え た 弩 を 習 い は じ め,17才 く ら い で,元 込 銃 を あ つ か う一 人 前 の 狩 人 と し て 自分 で 狩 に 行 け る よ うに な っ た 。 しか し も と は 弩 が,年 老 い .て弩 を 引 け な くな る ま で 彼 等 の 主 な 狩 猟 道 具 だ っ た の で あ る 【黄 1960:58‑59,1961:
16‑17,50】 。
ク ツ ォ ン人 の と こ ろ で は,か つ て は 父 系 氏 族 外 婚 が さ か ん に 行 な わ れ て い た 。 ど の 氏 族 も隣 接 した1つ あ る い は2つ の 異 姓 氏 族 と 通 婚 し,こ う し て 比 較 的 固 定 的 な 狭 い 通 婚 集 団 を 作 っ て い た 。 こ の 氏 族 外 婚 の1つ の 表 れ は,交 叉 イ トコ婚(姑 舅 表 婚)で あ っ て,兄 弟 の 子 女 と姉 妹 の 子 女,つ ま り交 叉 イ トコ 同 士 が 結 婚 した の で あ っ た 。 ク ツ ォ ソ人 の と こ ろ で は,妻 を め と る 男 は ま ず 妻 方 に 行 っ て,5年 か10年 住 み 込 ん
で 働 き,婚 資 に 当 る 分 を 労 働 で 支 払 う義 務 が あ っ た 。 ま た 夫 が 死 ぬ と妻 は 夫 の 兄 弟 と 再 婚 す る レ ヴ ィ レ ー ト,妻 が 死 ぬ と夫 は 妻 の 姉 妹 と再 婚 す る ソ ロ レ ー トの 俗 も あ っ た
【唐 ・彰 1988:231;な お 宋 1980:105‑106,1981a:89‑91;王 軍 1983:271参 照 】。 結 婚 に 至 る 過 程 と し て は,ま ず 婚 前 の 男 女 の 自 由 な 交 際 が あ る。 出 作 り小 屋 に 行 っ
国立民族学博物館研究報告 21巻2号 て しま った年 上 の人 の家 とか,村 内 の空屋 に毎 晩 若 者 と娘 が 集 ま り,焚 火 をた き,炉 を か こん で談 笑 しだ り歌 った り,な か に は笙 を 吹 い た り口琴 を弾 じた りして,愛 を 語 る。 この期 間 は,家 長 は 家 か ら出 て邪 魔 を しない よ うに せね ぽ な らず,大 風 や 暴 雨 で 外 に 行 け な い ときは,家 長 た ちは 若 者 に背 を 向け て,見 て見 ない ふ りを しな くて は な らな い[唐 ・彰 1988:241‑242;徐 1981:104参 照1。
結 婚 に 関 して は1960年 ごろ次 の よ うに報 告 され て い た。 若 者 が 森 林 中 で4匹 の リス (2匹 は雄,2匹 は雌)を 狩 りと って来 て,《 干 巴》 を つ く り,仲 人 に これ を娘 の家 に も って行 っ て娘 の 親 を説 得 す る こ とを乞 う娘 が リス の 《干 巴》 を 受納 した ら,そ れ は 同 意 の しる しであ る。若 者 は そ こ で4碗 の酒 を も って 娘 の家 に行 き戸 を しめ る。 彼 等 は 相 談 して 旧正 月 に 一 度,若 者 が 帰 り,若 者 の家 で 正 式 の結 婚 式 を あ げ る。 昔 は,結 婚 式 の宴 に も鶏 も肉 もな く,た だ 若者 自身 が 弩 を 用 い て とった リスが あ るだ け で あ っ た 【黄 1961:35‑36】。 求婚 や 結 婚 式 に お い て リス が重 要 な役 割 を 果 す こ とは,そ の 後 の 報 告 も ひ と し く指摘 して い る 【宋1981a:89,1981b:110‑111;徐1981:1051。 こ の こ とは,彼 らの 神 話 に お いて も由 来 が語 られ て い る(神 話10参 照)。 な お リス の 《干 巴 》 は ク ツ ォ ン人 が 客 を もて なす 最 も貴 い 食 物 と され てい る 【黄 1961:37,38】 。 こ の 結婚 式 の風 俗 は,リ ス が重 要 な 役割 を果 す 点 に お い て,狩 猟 民 文化 的 な面 を 残 して い る と考 え る こ とが で きるが,4が 聖 数 であ る ら しい点 が注 目され,こ の文 化 史 的 位 置 づ け は容 易 に決 定 す る こ とはで きな い。
そ して結 婚 式 の 当 日は,花 嫁 の 実 の 兄が 彼 女 を 新郎 の家 に送 りと どけ る こ とに な っ て い る。 も し,実 の兄 が い な けれ ば,花 嫁 が 自分 で誰 か 代理 に な る者 を 選 ぶ。俗 に 「妹 妹 出嫁 胞 兄 駄 」 とい う1唐 ・彰 1988:242;宋 1981a:89参 照]。
これ は 上 述 の労 役婚 の習 俗 と矛 盾す る よ うで あ るが,地 域 に よ る相 違 な のか,そ れ と も労役 婚 を 行 な わ な くな って か らの習 俗 な の で あ ろ うか?
近 年 の調 査 で は,ク ツ ォ ン人 の社 会 の基 礎 的 な 集 団 と して カ(辛)の 重 要 性 が 指摘 され て い る。
彼 らは 父 系3,4代 の近 親 家族 成 員 と,こ れ に 当然 少 々の 母 系成 員 を と どめ た一 個 の 家族 団 体 を 組 織 して い る。 彼 らの最 初 の 村 落 は この種 の団 体 だ った 。 彼 らは この種 の村 落 を カ と称 して い る。 そ れ ぞれ の カが も って い る家 の数 は大 変 少 な い 。
彼 らの 家 族 組 織 の特 徴 は,オ ウ ダイ の祭 祀 で あ る。 つ ま りす で に分 家 した 兄弟 も共 同 で1つ の オ ウ ダイ を祀 ら な くて は な らな い 。 オ ウ ダイ とい うの は,父 母 の 霊位 を表 わす 竹 牌 で あ って,長 兄 が 祭 祀 の責 任 を もち,出 産,引 っ越 し,病 気 に か か った と き な ど,必 ず まず オ ウダ イを 祀 らな くては な らな い。 こ のた め,オ ウダイ は血 縁 家 族 と
大 林 雲 南 の ク ツ ォ ソ人 と北 部 イ ソ ドシナ の採 集 狩 猟 民
若 干 の 兄弟 家 族 で組 成 され て い る村 落 の紐 帯 を維 持 して い る の で あ る。
新 平 県水 塘 地 区 では,一一部 の ク ツ ォ ン人 は 父系 と母 系 の 区分 に応 じて,そ れ ぞれ 自 己 の 祖先 を祭 祀 し,同 時 に これ が カ の規模 の限 度 に な って い る。 一 般 に 父 の世 代 の死 後 に は じめ て子 供 の 世 代 は だ んだ ん と分 離 を始 め,新 しい カ をつ くる。 そ して王 軍 ら が解 放 後 に 見 た カは,大 部 は異 姓(氏 族)と 通 婚 して,婚 姻集 団 にな って い た。
1つ の カの なか で は,大 半 は個 体 家 族 で生 活 を営 んで い る が,飢 餓 の と きに は一 緒 に食 事 し,一 緒 に住 ん だ りす る。 彼 らの 家族 は年 長 の男 子 が家 長 であ って,家 長 はふ つ うカの指 導 者 であ り,こ の こ とか ら も,カ が元 来 は 血 縁 近親 家 族 か ら成 って い た こ とが 判 る。 家 長 は 耕 地 を選 定 した り,引 っ越 しを決 め た り,紛 争 を調 停 した り,宗 教 祭 祀 を 主宰 す る責 任 を もち,ま た指 導 す る。 そ の ほか,村 落共 同体 を 代 表 し,重 大 な 事 柄 を 処理 す る に当 って は,必 ず まず 家 長 と相 談 し,そ の 同意 を 得 な けれ ば な らな い。
どの カ もみ な決 った 居 留地 が あ る の で な く,焼 畑 耕 作 を 行 な ってい るの で,古 い カ を捨 て て移 動 して行 って 新 しい カ をつ くる。 翁 当郷 の78の カの うち,い くつ か は で き てか ら数 か 月 か ら1年 で あ って,多 くは2年 に な ってい る。 彼 らは古 い 居 留 地 を カ コ ウシ(十 湘 斯)と 呼 び,そ こに また も ど るに は,少 な くと も3年 た た な い といけ な い 。 これ は 地 力 の 回復 に必 要 な最 少 年 限 と一 致 して い る。
各 力の 内部 には,は っ き りした血 縁 関 係 が残 って い る。 だ か ら,個 体 家 族 に分 解 し て も,カ は個 体 家 族 の連 合 体 に な る。 そ して 各 力の 間 には も と も と兄 弟 関 係 が あ った か ら,血 縁 関 係 の濃 い薄 い に応 じて,親 疎 を分 け る。 経 済 方面 で は,す べ て 互 い に ご く僅 か の 関 係 を もつ 独 立 体 で あ る。 定 期 的 に森 林 と土 地 を 換 え,定 期 的 に 引 っ越 しを 行 な い,い か な る条 件 の も とで も,カ は 固 定 的 な領 土 を つ くらな い。
クツ ォ ソ人 は周 囲 の ミャオ族,ヤ オ族,ハ ニ族 と平 和 な友 好 関 係 を も って い るの で, 開発 して い な い森 林 と土 地 は み な公 有 で,ど の 民族 の人 も開 墾 して使 用 す る権 利 を も ち,ク ツ ォソ人 自身 も原 始 林 を 求 め て引 っ越 し,森 林 が 土 地 を利 用 す る前 提 で あ る。
鎮 源,新 平,黒 江 な どの ク ツ ォ ン人 社 会 は搾 取 や階 級 対 立 の た あ,金 平 の黄 ク ツ ォ ソ人 社 会 に 残 って い る よ うな,動 物 の名 を 氏 族 名 とす る遺 習 は な い。 しか し,血 縁 家 族 で組 織 され た カが あ り,甚 だ しい場 合 に は,い くつか の カは,ク ツ ォ ソ人,イ 族, ハ ニ 族 ,漢 族 が 共 同 雑 居 す る村 落 にな っ て い る 【王 軍 1983:269‑271;な お 宋 1980:105‑106,1981a:89‑90参 照】。
ク ツ ォ ン人 の農 耕 と移 動 の 関 係 に つ いて,徐 志遠 は金 平 県 翁 当 の黄 苦 聡(拉 枯 西) 人 の 以前 のあ り方 を報 告 して い る。上 の記 述 と相 違 す る点 もあ るか ら こ こに紹 介 して お こ う。 解 放 前 の ク ツ ォ ン人 は 原始 林 中奥 深 く住 み,そ の生 活 は半 定 住 半 移 動 の 状態
国立民族学博物館研究報告 21巻2号 に あ った 。 そ の移 動 は季 節 的 な 性格 を もち,1年 に1度,多 くは秋 に移 動 した 。 も と も とは 甲地 に住 ん で い て も,乙 地 に到 って土 地 を 耕 種 し,秋 に トウモ ロ コ シが 成 熟す る時 を 待 って 甲地 を去 って 乙地 に赴 く。一 た び 去 る と二 度 と も ど って こ な い(た だ し, 別 の報 告 で は前 述 の よ うに2,3年 で も どっ て くる)。 乙 地 で は 収穫 しな が ら食 べ,
しか る後,丙 地 に到 って 土地 を耕 種 し,秋 に トウモ ロ コシが 稔 るの を待 ち,ま た 土地 を 出 て 丙 地 に行 く とい うふ うに,1年 で移 動 した。 しか し一 般 的 に言 っ て彼 らは 周 囲 ほ ぼ100キ ロの 森 林 の な かを 移 動 す るの で あ る。
移 動 に際 して 家 長 は 《祖 先 牌 》(つ ま りオ ウ ダイ か?)を 持 って行 き,家 族 は い く つ か の 家 具(主 と して生産 工 具)を も ち,鶏 や豚 もつれ て新 しい土 地 に移 った。 もと の 住 居 は 火 を放 っ て焼 い たが,焼 か な くて も よか った。 新 地 に到 着 した 後,ど こに家 を 建 て るか は家 長 が 土 地 占 い(地 卦)を して 選定 した。 この 占 い は,地 面 に3つ の小 さな 穴 を掘 り,そ れ ぞ れ に三 粒 の穀 物 の 種 子 を 入れ,そ の上 をバ ナ ナ の葉 で 蔽 い,ま た 葉 を取 って見 た と き,三 粒 が ぴ った り くっつ き合 っ てい れ ば吉 祥 で,こ こに家 を建 て て も良 い と い うので あ る。 駄 目な ら,別 の場 所 を 占 うこ とに な った 。
新 居 を選 定 した 後,木 や 竹 や バ ナナ の 葉 や 竹 の葉 でた ち まち家 が 出来 た 。 落成 す る と,鶏 を殺 し,飯 を炊 い て祖 先 に 供 え て 祭 り,祭 りお わ る と,家 財 を 運 び 込 ん で住 ん だ 【徐 1981:1061。
御 覧 の とお り,こ の移 動 に は 採 集 狩 猟 民 的性 格 は な く,焼 畑 耕 作 民 と して の移 動 で あ った。
ク ツ ォ ソ人 は一 夫一 婦 制 で 氏 族 外 婚 を 行 な って い る。 結婚 につ い て は,上 に もふ れ た よ うに,労 役婚 も行 なわ れ る。 つ ま り,男 は妻 を め と る前 に5年 か ら10年 の 間,女 の 実家 で働 か な くて は な らな い の で あ る。 鎮 源 や 新 平 な どの ク ツ ォ ソ人 の と ころ では 妻 方 居 住 が 行 な わ れ て い るが,ほ とん どす べ ては 夫 方 居住 で あ る。 また 漢族 や ハ ニ族 の影 響 で花嫁 代 償 を支 払 うこ とが 必要 に な っ てい る 【王 軍 1983:271;宋 1980:106 , 1981a:89;王 灘 之 1990:541。
4.沈 黙 交 易
後 に も指摘 す る よ うに,ク ツ ォ ン人 の社 会 と文化 を理 解 す るた め に必 須 の要 因 は, 他 民 族 との交 渉 の歴 史 で あ る。 王誌 之 に よれ ば,交 渉 の濃 度 と態様 に つ い ては,大 き
な地 域 差 が あ った 。
大 林 雲 南 の ク ツ ォ ン人 と北 部 イ ン ドシナ の採 集 狩 猟 民
鎮 源,元 江,新 平,墨 江,普 滑 な ど内地 の苦 聡 人 は 近 隣 の 恰尼,舞 族 な どの 影 響 を受 け, 明 清 代 に は 階 級 社 会 に 入 って い た。 封 建 的 搾 取 関 係が 出現 し,・舞,恰 尼,漢 族 の地 主 に地 租 を 納 め,労 役 に つ くほ か,さ らに そ の 地 の封 建 的 統 治 機 構 は 「歳輸 糧 賦 」,つ ま りそ の年 の 収 穫 物 を納 め る 【王 酪 之 1990:50】。
つ ま り,こ れ らの地 域 の クツ ォソ人 は,明 清 時代 か ら定 住 的 な農 耕 民 と して,他 民 族 の経 済,統 治機 構 に組 み 入 れ て い た の であ った 。
他方,よ り 《原 始 的 な》 集 団 もあ った。
金 平,勧 臓 な ど辺 境 の 苦 聡 人 は 多 くの原 始 的 要 素 を 残 して い る。 新 中 国が 成 立 す る前, 彼 らは 原 始 林 中 に散 居 し,焼 畑 を お こ な うほ か,「 猟 を 好 む 」 と いわ れ,「 山 芋 や 自生 の野 菜 を も って食 とす る」 採 集 もお こ な って い た。 農 閑 期 に は 炭 焼 きを した り,「章 才舞 」(草 を 組 ん で 編 ん だ もの)を 編 ん で,近 隣 の 民 族 との 間 で簡 単 な 鉄 製 農 具や 生 活 用 品 と交 換 した。
くわ
平 素,生 産 に お い ては 木 製 の鍬,鋤,掘 棒 と い った木 や 竹 の 工 具 を ひ ろ く使 用 す る 【王 酪 之1990:51】 。
これ に よる と,よ り 《原 始 的 な》 集 団 に お い て も,た とえ到 る と ころ で な い に して もす で に焼 畑 耕 作 が 行 なわ れ てお り,ま た 編 み 製 品 を用 い て他 民 族 との 交 易 を営 ん で い た。
この よ うな,よ り 《原始 的 な》 集 団 の少 な くと も一 部 で は,他 民 族 との 交渉 は主 と して沈黙 交 易 あ るい は 無 言 交 易 の形 を と って いた 。
クツ ォ ソ人 が圧 迫 され,不 断 に移 動 して いた 時 代,一 部 は哀 牢 山 の原 始 林 の な か に 分 れ 住 ん で い た。 彼 らは 珍 貴 な 山 の特 産物 を も ってい た が,あ え て 山を 下 りて 売 りに 行 くこ とは しな か った 。 また 彼 らは布 や 色 糸 や塩 を必 要 と した が,あ え て 山を 下 りて 買 い に行 け な か った。 クツ ォ ソ人 が 山を 離 れ る こ とは,小 鹿 が 川 の土 手 に来 る よ うな もの で,生 命 の保 障 が なか った か らで あ る。 そ こで彼 らは,山 の特 産物 を 山 の中 腹 か 川 の土 手 に近 い路 辺 に も って行 き,自 分 は 附 近 の 草 む らにそ っ と身 を か くし,弩 の弦 を は って,じ っ と見 ま も って いた 。 山 区 の ハ ニ族,イ 族 あ るい は盆 地 の タイ族 が や っ て 来 た と き,た だ 衣 服,1本 の山 刀,あ る い は1塊 の塩 を お い てい け ば,ク ツ ォ ソ人 が お い て い った品 物 を も って行 って よか っ た。
も し何 もお か な いで,ク ツ ォ ソ人 の 品物 を もっ て行 く者 が い る と,ク ツ ォン人 は弩 を放 って 懲 罰 した 【唐 ・彰 1988:392‑3931。
別 の報 告 に よる と,ご く少 数 の肝 の太 い もの だ けが,リ スや鹿 のふ くろ角,竹 細 工
国立民族 学博物館研究報告 21巻2号
な ど を 背 負 っ て,近 く に 住 む ハ ニ族 や タ イ 族 の 村 に 行 っ て 古 着 な ど と取 り替 え て い た 。 そ うい う と き で も,ク ツ ォ ソ人 は 自 分 の 裸 姿 を 恥 じて,じ か に よ そ の 村 へ は 行 か ず,
リ ス は 木 に つ な ぎ,竹 細 工 は よそ の 村 は ず れ の 道 ば た に 並 べ,自 分 は 草 む ら の 中 に ひ そ め て い て,通 りす が り の 村 人 に,「 ど うか そ の 品 物 を 古 着 と 替 え て 下 さ い 」 と 叫 ん だ も の だ っ た1黄 1960:58,1961:15‑16】2も こ の よ うに ク ツ ォ ソ人 は 他 民 族 と の 接 触 を 避 け て い た が,中 に は,金 竹 村 の ヤ オ族 の 女 が,ク ツ ォ ソ人 の 男 と 結 婚 し,ク ツ ォ ン人 と して 生 活 し て い る 例 も あ った1黄 1960:60;郡 1962:20‑211。
こ の よ うに 比 較 的 外 部 と の 接 触 の 少 な か っ た 集 団 に 属 す る ク ツ ォ ン人 が 周 囲 の 諸 民 族 と密 接 な 交 流 を 行 な う よ うに な っ た の は,国 民 党 に よ る 迫 害 の の ち,こ と に1953年
以 降 で あ り,1957年 の 春,金 平 県 の 共 産 党 組 織 と人 民 政 府 は,副 県 長 を 団 長 と して 第 三 回 の 訪 問 を 行 な い,そ の 結 果 と し て,ク ツ ォ ンは 原 始 林 か ら 出 て 来 て,ハ ニ,タ イ, ヤ オ な ど諸 族 の 影 響 下 に 水 稲 梨 耕 や 木 綿 の 栽 培 を 始 め る よ うに な っ た 【黄 1960:58, 61,1961:39‑68;焉 β 1962:21‑22】 。
5.宗 教
ク ツ ォ ソ人 の 宗 教 に つ い て は,あ ま り報 告 が な い 。 こ と に 採 集 狩 猟 経 済 に 密 着 し た 観 念 や 儀 礼 に つ い て の 報 告 は ほ とん ど接 して い な い の が 残 念 で あ る 。
ク ツ ォ ソ人 の 宗 教 に お い て 重 要 な 地 位 を 占 め て い る の は ネ イ(内)の 観 念 で あ る。
こ れ は 自 然 と社 会 を 超 え た 存 在 で,天,地,日,月,山,川,岩 石 な ど は す べ て こ の ネ ィ の 体 現 し た も の で あ る。 穀 物 の ネ イ,狩 の ネ イ も あ る 。 穀 物 が 災 い に あ い,人 間 の 疾 病 に か か る の は す べ て こ の ネ イ が 崇 りを な した 結 果 で あ る 。 ネ イ に 対 処 す る一 番 よ い 方 法 は,現 実 生 活 で 一 番 好 ま れ て い る 食 品,た と え ば 豚,鶏,米 と塩 を 使 っ て 祭 祀 を 行 な い,ネ イ に 妥 協 し友 好 的 に な っ て も ら う こ と で あ る。
ネ イ の 観 念 の 形 式 に 伴 い,ク ツ ォ ン人 の 社 会 に ネ イ を 理 解 す る ビ モ ウ(比 謀)と い う巫 師 が 出 て き た 。 ピ モ ウ は 占 い を し,祭 祀 を 挙 行 す る が,ま だ 生 産 活 動 か ら 離 脱 せ ず,専 業 で は な い 【王 軍 1983:273;な お 宋 1980:108,1981a:93‑94参 照1。
ク ツ ォ ン人 の 宗 教 儀 礼 に つ い て は,年 中 行 事 と して 行 な わ れ る儀 礼 に か ん す る 若 干 の 報 告 が あ る 。 地 域 的 相 違 が か な りあ る ら し い が,一 般 的 に 周 囲 の 農 耕 民 文 化 か ら の 影 響 が 著 しい 。
新 年 に つ い て は,春 節 に 当 る も の と,6月24日 の 《苦 聡 年 》 の2つ が 報 告 さ れ て い 2)な お沈 黙 交 易 に つ い ては 徐 【1981:102】も参 照 。
大 林 雲 南 の ク ツ ォン人 と北 部 イ ン ドシ ナの 採 集 狩猟 民
るが,そ の分 布 の違 い な どは 明 らか で な い。
黄 昌禄 に よれ ぽ,新 年 は,旧 暦 の1月 に 当 る。 何 本か の大 樹 を 伐 って跣 跣 板 を つ く る。 青 年 た ち は板 で遊 ぶ の を喜 び,子 供 た ちは,ぶ ち ごま(陀 螺)を 打 っ て廻 して 楽
しむ 。 鳥舞 を 踊 る も の もい る。 この 鳥笙 とい うのは,ク ツ ォ ソ人 の 楽器 で あ って,芦 笙 に似 てい るが,そ れ に比 べ る と1本 管 が少 な い。 この新 年 の風 俗 は 古来 の ものだ と 黄 は記 して い るが 【黄 1961:351,内 容 的 に み て 農 耕 民 文 化 か らの影 響 で あ ろ うこ と は ほ ぼ疑 い ない 。
この新 年 は次 に 紹 介す る劉 輝 豪 の記 す 新 年 の竜 神 節 と同 じな の で あ ろ うか?
つ ま り劉 に よ る と,ク ツ ォ ン人 の主 要 な年 間 の 儀 礼 と して 新年 の竜 神 節 とヤ騰 節 が あ る。 どち らも神 話 に よ って基 礎 づ け られ て い る。
クツ ォン人 の信 奉 して い る神 に竜 神 が あ る。 伝 説 に よる と,ク ツ ォ ソ人 の 男 女2人 が哀 牢 山 中 を い く途 中,大 風 大 雨,大 雪 に襲 われ,凍 え死 に そ うに な って しま った。
そ の とき彼 らの 背後 に突 然1本 の大 木 が 出現 し,風 雨 を さえ ぎ り,暖 か い空 気 を もた ら し,死 ぬ ところ を救 って くれ た。2人 は結 婚 後,子 供 を 育 て,こ の大 木 に感 謝 して 祭 竜 の風 俗 が 始 ま った。 祭 竜 の 時期 は毎 年 正 月第 一 回 目の 祭 中 日で あ る。村 中 で相 談 して 決 め た栗 の 大 木 を祀 り,鶏,米,肉,酒 を 供 え る。祭 の後,群 衆 は鶏 肉粥 を 食 べ, また 群衆 性 的 跳 竜 歌 舞 を行 なわ な くて は な らな い 【劉 輝 豪 1990:373】。
この 祭竜 の行 事 に 大 木 が 出て くるが,後 述 の神 話 に現 れ る宇 宙樹(神 話1,2)と は異 な る別 の もの であ る。 む しろハ ニ族 の竜 樹 神 と比較 で き よ う。 ハ ニ族 の竜 樹 神 も 人類 の保 護 神 だ といわ れ,ど の村 に も共 同 の竜 樹 が あ り,ど の家 庭 に も 自身 の竜 樹 が あ る。 ただ そ の 祭 日は クツ ォソ族 の場 合 と違 い,毎 年 旧暦 の2,3月 で,各 村,各 家 族 で 家畜 を殺 して竜 を 祀 る盛 大 な行 事 を 行 な い,酒 を 飲 んだ り歌 舞 を 催 して,2,3
日大 騒 ぎす る。 ハ ニ族 では 竜 祭 に は女 性 は 参 加 で きな い 【草 1993a:3881が,ク ツ ォ ソ族 で は ど うで あ ろ うか?
クツ ォソ人 が 祖 先 を祀 る儀 式 を 十臓 節 とい う。着 る もの もな く食 物 も少 なか った 昔, 祖 先 の圭 騰 が トウモ ロコ シ,高 梁,蕎 麦 とい う3種 の 作物 の栽 培 を は じめ,ま た イ 族 の老 人 か ら網 を つ く り,弓 をつ くる こ とを習 い,野 獣 や 鳥 が作 物 を 荒 さな い よ うに し た。 十 騰 の 死 後,ク ツ ォソ人 は彼 を 天 か ら下 され た 大 神 だ と して,毎 年 旧暦 の正 月 初 三 日に祀 る よ うに な った 。 現在 新 平 県 の ク ツ ォ ソ人 は,1本 の栗 の木 を 辛騰 の代 りと
して これ を 祀 る。 祭祀 の と き歌 舞 が あ り,歌 詞 に辛 臓 の功 績 を たた えた もの で あ る。
年 上 の者 は年 下 の者 を祝 福 して 糸 を縛 りつ け,そ の後 で村 中 の者 が一 緒 に 飲 酒会 食 す る 【劉 輝 豪 1990:374】。
国立 民族学博物館研 究報告 21巻2号
時 期 的 に は この十 臓 節 に ほ ぼ 相 当 す る のは,金 平 県 翁 当 の拉 枯 西 の過 年 た る 《拍 才L》
で あ る。 しか し聖 樹 は現 れ な い よ うで あ る。 宋 恩 常 の報 告 に よ る と,彼 らの 唯一 の節 日で あ っ て,こ の一 年 に お け る豊 か な収 穫 を祝 う。過 年 の期 間 は11月 か らは じま り, 翌 年 の1月 に終 るが,一 般 に11月,12月 が も っ と も多 い。年 越 しには まず 吉 日を選 ぶ 。
牛,羊 の 日,父 母 の死 ん だ 日は み な忌 日であ って年 越 しは で きな い。馬,蛇,虎,兎, 猪,鶏 の 日な ら よい。 拍 孔 は 一 般 に3日 間 で,豚 の あ る者 は豚 を 殺 し,親 族 友 人 に あ
らか じめ通 知 して 客 に呼 ぶ 。
年 越 しの第1日 に は鶏 鳴 の 前 に 水 を汲 ん で来 な け れ ば な らず,こ れ を 吉 利水 とい う。
鉄 碗 を も って い る者 は,2発 打 って,死 ん だ父 母 の 亡塊 に年 越 しに帰 って来 て 下 さい と乞 う。 年 越 しの宴 会 は,性 別 に よ って2つ の炉 の まわ りで行 な わ れ る。 男 は 右 側 の 炉,女 は左 側 の炉 で あ る。 始 ま る と き主 人 の挨 拶 が あ り,男 た ちは,食 べ,飲 み,歌 い,楽 器 の あ る もの は な ら し,踊 る。結 婚 して新世 帯 を もって3年 間 は,夫 婦 は毎 年, 年 越 しの ときに,4個 の餅,う ち2つ は大 き く,2つ は 小 さい のを持 って妻 の実 家 の
父 母 と兄 に年 賀 を しな くては な らな い 【宋 1981a:92‑931。
これ また 著 し く農 耕 民 的 で あ るが,若 水 汲 み の 習俗 【大 林 1992参 照]が 入 って い る こ と,ま た宴 会 で 男 女別 席 なの が 注 目 され る。
こ の よ うな 旧暦 の 正 月 ごろ の 年 越 しで な くて,6月 の新 年 もあ る。 《苦 聡 年 》 つ ま りクツ ォソ人 の正 月 と称 され る ものは 著 し く農 耕 民 文 化 的 色彩 をお び,か つ雲 南 に広 く行 な わ れ て い る火 把 節 つ ま り松 明祭 の 一種 に な って い る。
《苦聡 年 》は 毎 年 農暦 の6月24日 に 行 な われ,清 の 光緒 年 間 に 著 され た 『普 濁 府 志 』 に よる と,
苦 聡 人 は 六 月 二 十 四 日を 以 て 年 と為 し,十 二 月 二 十 四 日を歳 首 と為 す 。 期 に至 れ ぽ 羊 豚 を烹 て先 を祀 り,酔 飽 し歌 舞 す 。
とあ って,半 年 お き に新 年 が年 に2回 あ る こ とに な っ てい る。
新 平,鎮 源一 帯 の クツ ォソ人 は,ク ツ ォ ソ年 の この 日に は,各 家 の家 長 は早 朝 手 に 1羽 の 生 きた鶏 を 持 って,自 分 の家 の 田 の中 に行 き,石 塊 を積 ん で1つ の石 台 を 作 り, 梯 子 を1つ か け,上 に松 の 葉 を敷 き,1本 の 栗 の枝 を 挿 し,し か る後 に鶏 を 殺 し,そ の血 を 石 台 の 四 周 に そそ ぎ,口 の な か で 「五 穀 が ど うか も ど って来 ます よ うに,倉 に 入 って くれ ます よ うに,毎 年 食 物 が 沢 山 あ ります よ うに,新 穀 が一 粒 ず つ 順番 に 《梯 》 を通 って 穀 倉 に 入 ります よ うに 」 と祈 る。 そ して稔 った 新 穀 の穂 と トウモ ロコ シの 実