一八世紀末イギリスの木綿需要
インド輸入品とランカシャー製品
浅田
喜貝
︑はじめに
一 八世 紀 末 イギ リスの木 綿 需要
3 東インド貿易との関連でイギリス産業革命による木綿工業の技術革新を︑何よりも雄弁に物語るものとして︑古くから
指摘されてきたのは︑ジョージ・アンウィンの次の章句であった︒
﹁産業革命の顕著な一局面は世界的に織物貿易の方向が一変したことである︒一世紀にわたって各種反物類はアジアから
ヨーロッパへ向って︑西へ西へと流れていた︒今やそれが東へ東へ︑ヨーロッパからアジアに向って流れ始めたのであ
(1)る﹂と︒
諸先学の研究が明らかにしているように︑ほぼ 八二〇年頃を転期として︑一七︑八世紀を通じてイギリスに流入して
いたインド産木綿キャラコの輸入額が減少して︑ランカシャー綿を中枢としたイギリス産木綿の輸出額が︑それにとって
(2)代って増大することとなった︒紡績︑織布を含めたイギリス国内での木綿製造の技術革新は一七七〇年代八十年代に本格
的になるのだけれども︑その結果としてイギリス国産の木綿が優位にたつのはようやく一八二〇年代になってからであっ
た︒じっさいクロムプトンが創案したミュールで一七七九年にはじめて実験的につくった八〇番手綿糸は︑四三シリング
(3)九ペンスかかった︒インド製に匹敵する上質綿糸だといわれていたが︑インド輸入品であれば九シリング三ペンスで購入
できたものが︑五倍近い制作費がかかったわけである︒ところが︑その後の機械の改良と工夫とによって一八一二年には
イギリス国産でも四シリング四ペンスで製造できるようになった︒
インドへの木綿輸出量が︑イギリスへの輸入量を凌駕するのはこのような技術革新の結果に他ならなかった︒だけど注
意しなければならないのは︑それが一九世紀のことであり︑一八一〇年代ないし二〇年代になってからのことであったと
いう点である︒
二︑インド産木綿の流入
﹁産業革命﹂とか﹁工業化﹂は︑たしかに世界史を画する重大事件であるには違いない︒けれども︑私どもはこのような
言葉に幻惑されて︑歴史の具体的な移りゆきを見落としてはならない︒普通一七七〇年代ないし八〇年代にはじまるとさ
れている技術革新によってただちに伝統を誇ってきたインド綿業が衰退したわけではなかった︒イギリス国内でのインド
綿織物模倣による技術革新が︑本格的にすすんだという一七七〇年代から九〇年代にかけての時代にも︑インド産木綿の
輸入額は二倍以上に著増していた︒一七七ニー四年の輸入は六九万七〇〇〇ポンドであったのに対して︑一七九四‑六年
(4)のそれは一四〇万七〇〇〇ポンドに達していた︒一反当たりの単価もある程度の値上がりをみたかも知れない︒したがっ
て︑輸入額が二倍以上になったからといって︑輸入量もまた二倍になったとはいえないかも知れない︒
しかし一七七二ー四年の際には︑輸入額の六九万七〇〇〇ポンドを上回る七〇万一〇〇〇ポンドの再輸出がみられたの
に対して︑一七九四‑六年には一四〇万ポンド以上の輸入に対して六四万一〇〇〇ポンドの再輸出しか記録されていない︒
一八 世紀 末 イギ リス の木綿 需 要
5 再輸出される際の販売価格については︑いずれも明らかでないのだけれどもK・N・チョードリーが研究した一七六〇年
(5)までの再輸出販売価格は︑いずれも二倍以上の単価となっていることから推測すると︑一七七ニー四年の場合でも︑輸入
量を上回る再輸出があったとは︑考えられない︒輸入総額六九万七〇〇〇ポンドの約%は︑国内での需要に向けられたと
思われる︒まして︑一七九四ー六年の場合には輸入総額一四〇万七〇〇〇ポンドのうちの相当部分が国内で消費されたに
違いない︒
インド産木綿の輸入は︑ランカシャーでの技術革新開始にもかかわらず︑むしろ隆盛に赴いていたのであり︑しかもそ
の相当量がなおイギリス国内に販路を見出していたのである︒いうまでもなく︑一七七〇年代から九〇年代にかけてのイ
ンド木綿の本国への流入は︑ベンガルでのディワーニー獲得による地税収入を元手としたいわゆる﹁インヴェストメン
(6)ト﹂制によるものであった︒インド現地で得られたブリオンがイギリス本国向けにインドから輸出される綿布の買付けに︑
﹁インヴェストメント﹂と称して用いられたのである︒つまり木綿輸入量の増大は︑ベンガル住民に対する搾取が強化さ
れたことを意味している︒ベンガル地方やその周辺に対する政治的支配権が確立していくと共に︑綿布を購入する際にも
インド商人を通じての契約によるのではなく︑奥地に赴いて直接生産者たちから前貸購入する場合が多くなった︒そして
現地商人たちの仲介をなるべく避けて農村的織布工を直接隷属させて︑安く大量に上質綿布を購入できるようにもなった︒
(7)このことに関連したウィリアム・ボルツの記述は︑その初期の事情を詳述したものであった︒ただここでは︑いかなる状
況であったにもせよ︑技術革新開始期とされる一七七〇年代以後にも︑イギリス国内へのインド木綿流入量は増加してい
たことに注意したい︒一九世紀はじめには︑一七九〇年代の一四〇万余ポンドを更に上回る一五一万ポンド分が輸入され
(8)ていたからである︒上質のインド産木綿︑キャラコの輸入は一九世紀はじめまで衰えはしていなかった︒
三︑国内産木綿織業の開始
ところが︑他方ではコ七九三年ごろにはインド製品に比べて外観上遜色がなくしかも柄もそれ以上によいイギリス国
(9)内産モスリンが前者の四分の一程度安価に︑どこの店でも売られている﹂ともいわれた︒インヴェストメント制によって
インド制綿布が前代以上に大量に輸入されていたにもかかわらず︑技術革新開始期というにふさわしく︑イギリス国内で
も国産木綿やモスリンの製造販売がみられはじめていたのである︒
すでに早く一七四〇年頃にマンチェスターを訪問したダニエル・デフォーは︑つぎのように書いている︒
﹁この町を大いに立ち上がらせている大マニュファクチャーは全くさまざまなコトンである︒コトンのマニュファクチ
(10)ヤーは︑ここ三〇年ないし四〇年の間にすごく増大した︒郊外の町にもコトンのマニュファクチャーがある﹂と︒一八世
紀半ばのこの頃英国の木綿製造業はマンチェスターを中心にようやく定着し︑まさに渓流より大河へと向う瀬戸際であっ
(11)た︒一七世紀後半の﹁キャラコ熱﹂以後︑イギリス国産のキャラコ類似品の製造と捺染加工業とが︑ランカシャー地方を
中心に盛んになったし︑国内需要も拡大していった︒
一七六六年にボスルスウェイトはつぎのように記述している︒
﹁マンチェスター製といわれる製造品は︑ファスティアンであれコトンであれ⁝⁝いずれもロンドン︑ブリストル︑リヴ
ァプールに輸出用として送られ︑あるいは国内消費用に小問物商卸屋に送られてそこから国内各地へ分配される︒マンチ
(12)エスターとかボルトンあるいはその付近は︑これらの商品を年六〇万ポンド分製造している﹂と︒といってもA・H・ジ
(13)ヨンによれば︑木綿やその類似品の取引では︑七年戦争までは海外市場は小さい役割しか果さなかった︑というから︑製
造された六〇万ポンド分は︑ほぼそのまま国内で消費されたものと思われる︒
一八 世紀 末 イギ リス の木 綿需 要
7 いずれにしても︑この一七六六年には︑二〇年前には二三二万五〇〇〇ポンドであった原綿の輸入量が六六八万七〇〇
(14)○ポンドに増大していた︒国内木綿工業の興隆は︑関連事業であるニットウェアやその他あらゆる種類の織物製造に素材
を提供した︒また新入りの紡績工を招きよせたし︑チェシャー︑ランカシャー︑ヨークシャー︑ノッチンガムシャーなど
の各地農村の家内工業用小屋での補助的仕事を拡大させた︒子供たちでさえ︑このような家内工業生産の隆盛の下でごく
小さいときから働きに出されるようになった︒サミュエル・クロムプトンのごく初期の記録にはこうある︒﹁コトンの当
(15)て木を積んで石けん水の洗い桶の中に立たされている子供がいる﹂と︒まだ工場制度ははじまっていなかった︒技術的発
明のずっと前の話である︒それでもこのような子供たちは早くも家内ユ︒日Φωけ8工業制度の下で賃金収入を得︑かれの母
さんと共に一家の家計を助けることができた︒このようにして技術革新は︑かつていわれてきたように毛織物の農村にお
ける家内工業の全般的拡延によってではなく︑木綿織物の農村家内工業の広範な展開によって準備された︒前節にみたよ
うに東インド会社を通じて主にロンドンに︑インド産木綿・キャラコが輸入されていたが︑そのかたわらで︑西インド産
綿布を利用しての木綿ないしは木綿類似品の製造業が展開されていた︒ベインズなど一九世紀の歴史家は次のように説明
している︒ランカシャー地方やチェシャー地方は︑東インド会社の商業独占のために︑東インドとの直接貿易から締め出
されていた︒このために︑勢い︑西インドやアメリカとの関係が密になった︒このお陰で製品である(インド)キャラコ
には縁遠かったこれらの地方は︑いよいよ西インド原綿の流入に好都合となり︑このために技術革新の先進地になること
(16)ができたと︒いずれにしても︑一八世紀から一九世紀はじめにかけてインド産木綿キャラコの大量輸入のみられるなかで︑
しかもイギリス国内産の木綿織物もランカシャーを中心に製造され︑技術革新による産業革命を準備していたのである︒