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藤 原 隆 信 考

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(1)

藤原隆信考

藤 原 隆 信 考

繁夫

︵昭和三六︑一一︑二〇受理︶

 隆信の歌合で今日残っている最も古いものは︑二十五才の時の永万二       ①年中宮亮重家朝臣家歌合であるが︑その前から歌合に加わっていたであ

ろう︒この歌合では右回権頭隆信は前中務少輔季経と番い︑俊成の判で

勝一︑持三︑三一と五分の成績であった︒この頃から彼は歌才を認めら       ②れるようになった︒隆信朝臣集雑一によると﹁法性寺殿で行われた歌合

に︑ ﹁関のみちの落葉﹂という題の歌が負けにされた際︑清輔が隆信を

支持してくれたが︑結局負けにされた時の清輔との贈答が載せられてい

る︒この歌合の歌は隆信朝臣集冬

   後白河院御熊野まうでのるすの間法佳寺殿にて人汝歌合せられし   に関路落葉といふことを

 をとは山紅葉散かふ梢よりあらしをこさぬ関もりもがなという歌である︒ところが︑この歌は嘉応二年十月十六日の丑紅門院北  ③面歌合の関路落葉七番

    左  勝      右中将実守朝臣

 紅葉ばを関もる神に手向おきてあふ坂山を過るこがらし

       右馬権頭隆信 不破の山もみち散かふ梢よりあらしをこさぬ関守もがな

にあたる︒俊成の判詞には 一〇

   左歌︑関守神に手向おきてなどいへる︒心すがたいとおかしくみ

   ゆ︒右歌︑もみち散かふ木ずゑよりあらしをこさぬなどいへる心

   よろしくは聞ゆ︒人汝も左様に侍しを︑紅葉すてに散かはんによ

   りては︑あらしをこさてことなるかはとおほゆるうへに︑ふはの

   山とをけるはしめの句︒心ゆかず思給へて︑以左為し勝とさだめ

   申侍しなり︒

と結局負けとなったが︑この時清輔は﹁ことに心よせ有てまくべくもあ

らぬよしたびたび申され﹂たのであった︒左右とも知的な趣向の勝った

歌であるが︑ ﹁不破の山﹂という初句の声調などの⁝難欠があったので︑

家集の方では﹁をとは山﹂と改めたものと思われる︒この時の歌合は隆

信は勝一負二であるが︑この歌が勝になれば成績は逆転するはずで︑随

分残念であったろうと思われる︒

 隆信三十一才の時の承安二年十二月八日広田社歌合は左右で五十八人

という大規模なもので︑判者は俊成であった︒隆信は左近衛中将実学と       ④番い︑持唄︑負一の成績であったが︑海上眺望十一番    左  持       右近中将実宗

 播磨潟須磨の晴れ間に見わたせば雲居に波の立つかとそ思ふ    右      右馬権頭隆信

 朝なぎに御前の沖を漕ぎ出てぞ雲をば海のものと知りぬる

に於て︑隆信の歌を俊成は﹁雲をば海のなどいへるけしき︑詠まんと思

へる歌と見え侍れ﹂と評している︒ ﹁この着想は︑俊成的であるよりも

むしろ定家的である︒雲をば海のものだとはじめて知った︑という飛躍

的︑超越的な表現手法は︑若き日のその名歌︑ 逢坂の関の清水のうす氷とくるは春のこゆるなるらむ      ⑤を更に一歩進めたものと見られる﹂といわれる峯岸義秋氏の言は同感せ

られるであろう︒       ⑥ 隆信と定長︵寂蓮︶は年令が接近し︑若い頃から義兄弟という仲でも

(2)

あり︑歌合で競い合い﹁ひとつがい﹂と言われていたが︑承安二年右大   ⑦臣家百首に至って︑出家直後十分推考出来た寂蓮が磨きあげた無題の百

首を提出し︑時務に追われていた隆信はこの時から抑えられるようにな  ⑨つたといわれている︒しかし若くから隆信は定長よりすぐれ︑隆信が二

十九才の嘉応二年五月二十九日の左衛門督実国卿家歌出は俊成判である

が︑隆信と定長の六番のうち四番まで隆信の勝であった︒負けた﹁九月

尽﹂八番は︑俊成は﹁左右ともにおかしく見給うる﹂と勝負つけ難く考

えたようであるが︑ ﹁右はたもとにしぐれそめたる︑めづらしき詞なる

うへに︑姿ゆうにきこゆるなど︑一方の申あはれたれば﹂と定長の属す

る右方の主張に従って負けにしたのである︒祝八番の負は﹁当氏の家の

歌合は︑春日山とよみてむことをば︑とかくいふまじとて︑右勝﹂とあ

るように︑藤原氏の氏神春日神社をかけた定長の歌が勝とされたのは︑

歌合の慣例上やむを得なかったのである︒同年十月九日の住吉歌合にお

いては︑隆信は月経︑定長は前遷宮大輔と番い︑比較するのは十分でな

いが︑定長が持一︑負二であったのに対し︑隆信は勝一︑持一︑負一の

成績であった︒ところが前述無題百首で適応の名声が高まって︑隆信は

﹁からきことにして︑早く死なましかば︑さるほどの歌仙にてやみなま

し︒よしなき命ながらへて︑かく道のはちをもあらはすことそ﹂と言っ

た︒隆信朝臣集雑三 後法性寺右大臣等時百首に述懐

 うき身とは思ふものからすてやらでこれさへ人に劣りぬるかな

は︑この時の心境を述べたものである︒

 若い頃の隆信の作風を的確に述べているのは歌仙落書である︒同書は      ⑩承安二年成立したと推定されているが︑時に彼は三十一才であった︒大

体同書は歌壇における位置に応じて歌数がとられていて︑俊成十五首︑

清輔十首︑頼政九首︑実定︑登蓮八首︑隆信七首で定長は四首︑二十人

の代表的歌人があげられている︒隆信については

藤原隆信考

 風体ひとへにさびたるやうなるべし︒若き歌読みの中にありがたく侍 る哉︒賀茂の河原の有明さえわたりたるとやいふべからん︒と新進歌人の中では高く評価されていたことがわかる︒

 歌人として有名な俊成皇女は俊成の養女で︑隆信の女であるといわれ  ⑪ている︒彼女が嫁した結論具との間の長男具定は︑公卿補任によると正

治二年生れであるから︑この時の彼女の年令を二十才と仮定すれば︑そ

の出生は養和元年︑隆信四十才となる︒尊卑分脈には長男隆範の生没は

見当らぬが︑弟の信実は治承元年生れであるから︑これより二才の年長       ⑫とすれば安元元年の出生となり︑同腹の母の死んだ翌年隆範は七才でそ

の母の没年は治承四年となる︒民部卿成範は隆範︑信実の母の結婚前思

いを寄せていた人で︑彼女の没した際哀傷の歌

 朝夕になれしをこふる君よりもよその別はなをぞ悲しき

を贈っているが︑成範の死去は文治三年三月十六日であり︑古大臣兼実もその右大臣辞任の丈治二年十月以前に﹁とぶらひ﹂の歌を贈っている

のから考えても︑隆範の出生以前すなわち︑安元元年以前正妻を迎えて

いたはずで︑建礼門院右京大夫が︑ ﹁ぬしつよく定まるべしとき︑しこ       ⑬ろ﹂を治承二年頃の隆信の正妻決定のことと考えるのは無理であって︑

その年には︑すでに隆範は三才以上であり︑信実も出生しているのであ

る︒ 尊卑分脈では隆信の女は三人あることになっており︑歌人俊成女にあ       @たるものは見当らないし︑俊成卿女集に

    ててのふくのおり

 いかにせん露さへ秋の夕とて泪の淵の袖のみだれは

は明らかに十一月三十日俊成の死にあたっての述懐で︑翌年二月二十七

(3)

藤原隆信考

査の隆信の死における歌がないのは不思議である︒俊成卿女がたとえ隆

信の女としても︑その母は﹁母の身まかりにけるをさがのほとりにをさ

め侍りける夜よみける﹂に対し︑隆範等の母は﹁くわん音寺といふかた

の山にをくり﹂葬った別人である︒ 隆信の父がいつ没したかは︑尊卑分脈では明らかでない︒また母親福

門院女房加賀がいつ俊成に再嫁したかも不明であるが︑定家の兄成家の

出生の久寿二年以前であり︑隆信朝臣集雑四﹁世をそむきて侍しを五条

の三位入道の夢かうつ︑かなど侍しあはれはなおつきせぬこ︑ちしてそ

ののちふつかみか有て申をくりし﹂と詞書のある隆信の長歌に対し俊成

は長歌を返し︑その一節に

 契ありてなれにし程をかぞふればいそじもすぎし﹂によって︑隆信出         ⑮家の建仁元年六十才から逆算すれば︑五十年は仁平元年俊成三十八才︑

隆信十才にあたる︒仕官の年も不明であるが︑尊卑分脈には上野介︑若

狭守︑越前守︑右京大夫︑右馬権頭の順に記されているが︑この順序が

正確でないことは︑右京権大夫が後で右馬権頭が前であることでも明ら    ⑯かである︒地方官のうち現地に出向いたのは越前で︑ ﹁としいまだいは

けなかりしにかむづけのかみにてくだるとてあふみのみつうみを舟にの

りて云汝﹂という詞書の旅だけが記されていることでうかがわれ︑ ﹁か

むづけのかみ﹂が実は﹁越前守﹂であるべきことは︑その一連の旅の歌

や詞書に﹁つるが﹂に泊り︑国内巡視のみぎり﹁音にきぐこしの白山﹂

を眺めていることで明らかである︒初任の頃が隆信朝臣集雑四﹁美福門

院のかくれさせ給いてのち  わが身ひとつしづみはてぬるかなしさ云

汝﹂の詞書のある長歌に﹁  山しろのとばのみかげをむねとしてこのえのみかどたてをきし春のあしたの花ぎかりやがてゆうべの雲となり

i﹂からすると︑母美感門院女房加賀の縁によって︑鳥羽后近衛生母

の美福門院の御恩によるものと思われ︑その時期は近衛天皇の崩御の久 一二

寿三年︵翌年鳥羽法皇崩︶以前︑隆信十三︑四才の頃であろう︒俊成と

母との間に成家︑定家が生まれて後は︑ ﹁わがみひとつちちかはりたる      ⑰身にていと心ぼそながら云汝﹂という淋しさであったが︑美福門院とい

う大きな柱を失ってから︑二十才程の彼は可なりの頼りなさを感じたこ

とと思われる︒しかしその逆境時代も過ぎ︑永万二年中宮説話家朝臣家

歌合には︑二十五才で右馬権頭として参加している︒二十八才の嘉応元       ⑲年には︑石清水臨時祭には定長︑成家などと共に舞人になり︑宮寺仕事

抄臨時祭︵上︶の承安三年︵三十二才︶にも舞人に挙げられている︒こ      ⑲の間︑成範卿家歌合︵嘉応元︶左衛門督寝腫田家歌合︵嘉応2525︶住

吉社歌合︵同109︶建春門院北面歌合︵同1016︶広田社歌合︵承安元10

17︶などに参加して︑着汝と歌壇の地歩を高めていった︒この時代の代表的歌人徳大寺左大臣実定卿はこの頃大納言で︑隆信の三才の年長であ

り︑ ﹁俊成卿のむご﹂である関係から特に親しく︑隆信歌集哀傷に﹁後

徳大寺の入道左大臣少将公綱におくれけるよしききて三つかはしつ︑﹂

という詞書から始まる一連の贈答があるが︑これは後日になってからの

甜述で︑公綱は尊曳分脈では実定の長男という記載だけであるが︑二男

の公団は文治二年五月十二日落馬のため二十五才で早死しており︑三男

公継は文治三年二月二十六日︑十三才で右近権少将に任官しているの

で︑公綱も谷底より二才年上として十三才で少将に任官したとすれば︑

承安二年隆信三十一才の時︑没したことになる︒その頃は実定は大納言

であった︒この詞書につづいて︑ ﹁同ころ八月十五日夜くもりたりしっ

きのあしたかの大納言のもとより﹂とあるのは︑実定と考えなければな

らない︒更にこれに続く歌の詞書に﹁わが身にも思ふこと侍しころに

て﹂ということは当時肉親の不幸のなかったはずの隆信のこの心境は︑

別項に述べる同年つまり承安二年の右大臣家百首において︑出家後推考

の時間をかけた面面の﹁無題の百首﹂で彼に名声を越され︑失意の中に

(4)

あったためと思われる︒この詞書の歌につづいて︑実定は﹁−一かやう

にきこえなれ諏ることもこのよひとつのことには侍らじ﹂などとねんご

ろに書きそへ

 をのつから世を背く身と成ぬとも憂きを厭はぬ友とならなむ

という歌を返している︒実定が後左大臣になっても歌合はもとより私的

にも親しかったことは隆信朝臣集雑部に散見する詞書や歌の贈答で知る

ことができる︒

 隆信の女性関係は多様で﹁よ人よりも色このむときく人﹂と建礼門院

右京大夫が記しているのはもっともである︒隆信朝臣集下巻恋四︑五︑

六は女性との交渉を語っている︒その最初の恋と思われるのは︑

   二条院東宮と申しし時おなじよはひなる人をしのびわたりし程に

   風儀あやしきさまにもてさはぐよしをききていひつかはしし

 春霞かすみの衣ほころびてしのぶの乱れあらはれやせん

である︒二条院の東宮期間は久寿二年九月二十三日から保元三年八月十

一日までで︑隆信十四才秋から十七才秋に至る︒この歌は彼の十五才か

ら十七才頃の間で︑同年輩の女性とのおそらくは初恋であったであろ

う︒その後越前守として下国した﹁いはけなかりし﹂時代の女性との交

渉を始め︑多くの女性との交情の贈答歌を見ることができる︒しかし詞

書の常として且ハ体的な名前や年月日を明らかに知ることはできないが︑

建礼門院右京大夫との関係は島田退蔵氏が旧観を検討することによって       刃ご初めて明らかにされ︑ついで本位田重美氏が究明せられておられるの

で︑限られた紙面では触れることができない︒ただ︑破礼門院右京大夫

集を見ると︑減資盛と隆信とが時期を同じくして右京大夫と交渉を持つ

たことは︑当時の男女関係においてしばしば見られることで︑隆信朝臣

集恋四には﹁おとこ有ときく女に時汝物いひわたりしをあやなくたえま

がちなりなど恨み侍しかば

藤原隆信考

 一すぢに靡かぬあまの煙をばたが恨みとかいふべかるらん    か へ し 人しれぬ思ひばかりは靡けどもけぶりは室にしられざりけりなど︑当時の貴族生活において︑正妻以外には男が通ってくる男女の交渉ではこのようなことは普通で︑女性としても近代ほど一人の男だけをという潔癖性は少なかったものと思われる︒殊に︑この歌の贈答につづいて︑ ﹁女のもとへまかりたりしに又おとこ有ける人にてきあひにけりとあさましくてもののはぎまにかくされてするかたなかりし程におとこいかが思けむやがてたちかへりにしかばはひいでて 狩人のいる野にたてる鹿だにものがるるみちは有とこそきけ    か へ し のがるべきかたなき野べの鹿よりも我こそいたく思ひ消ぬれというような事態に立ち至ることもあった程である︒ 隆信朝臣集の中で︑はっきりと名を挙げている女性は︑恋六の宜秋門院丹後である︒彼女は初め兼実に仕え︑治承三年十月十八日右大臣家歌合には﹁丹後 右府女房﹂とあり︑﹁九番月﹂に隆信と一っている︒これが後に一実女で後鳥羽天皇の中宮家子の宣秋門院女房となったもので︑建久六年正月二十日民部卿家歌合以下多くの歌合で隆信と顔を合わせている︒御鳥羽院口伝でも上皇は﹁女房の歌よみには︑丹後やさしき歌どもあまたよめりき1人の存知よりも︑愚意ことによくおぼえき﹂と仰せられた閨秀歌人である︒ ﹁1かのすみかをば西域といひて丈のうはがきにもかきてやりなどせし程にかれよりかく西のすみかの侍りけるも人をみちびくはしにもやなどざれいひて﹂ 願ふらん西へみちびくはしなればこのよひとつの契ならしをという彼女の歌を初めとして一連の贈答がある︒しかし︑ ﹁かやうにいひかはす程にれいならぬこと締てやいとをなどしたるに又この女もひるくふよしをききていひやりし

一三

(5)

藤 原隆信考

 朝露のひるまはいつぞ秋風によもぎのあとも思ひみだれぬ

    か へ し

 乱るらん蓬のあとのくるしさに露のひるまもいっとしられず

というように︑お互に疎ましく成って来た︒その後面汝歌のやりとりが

続いているが︑このような関係は丹後の方から打ち切られたようであ

る︒しかし歌人としての交際は隆信の出家後まで続き︑建仁元年三月二

十九日新宮撰歌合や︑同年八月三日影供歌合︑同年八月十五夜撰歌合な

どまで席を同じくし︑出家の際も雑器に

    女房たむごがもとより

 思ひやる秋の哀もかぎりかないへを結ける夕暮のそら

    か へ し

 老がよに家をいつるは習ひにてあきの哀ぞ猶尽きもせぬ

の贈答がある︒

 隆信の没年は︑尊卑分脈によると元久二年二月二十七日で六十四才で

ある︒しかし群書類従本の藤原隆信朝臣言上︑春上には       ⑳   建保元年和歌所歌合にかすみとをきうへきをかくすといふことを

   よめる

 霞たつふる河のへの薄緑みえ社わかね二もとの杉

   おなじころつちみかどの内大臣︵通親︶家にて人磨の影供に野分

 浅みどり霞にけりないそのかみふるのにみえし三わの杉村

夏には   建保元年和歌所歌合に郭公

 けふもなを山路くれなばほととぎすいかに尋ねむ一声の室

という詞書のついた歌がある︒尊卑分脈による元久二年は西紀一二〇五

年で︑建保元年は一一=三年で八年後であるから︑類従本の記事を正し 一四

いとすれば没年は更に延びることになる︒ところが建仁元年三月二十九

日新宮撰歌合に

    十一番  松下晩凍    左  持    散位隆信

 立よれば夕浪涼し住吉の松を秋風ふかぬものゆへ

の詠があり︑これは隆信朝臣集夏の﹁和歌所にて十首歌合侍しに松のも

とのゆふすずみ﹂と詞書のある歌と一致するものである︒新宮撰歌合は

﹁作者隠名褒疑﹂という自由な衆議判であり︑霞隔母樹など十題が出さ

れ︑歌集秋下の﹁建仁元年三月和歌所歌合に山家秋月﹂の歌もこの時の

出題であり︑前述の﹁かすみとをきうへきをかくす﹂の詞書の歌も︑こ

の時の﹁霞隔百夜﹂という出題によったのであるが︑ ﹁松下晩涼﹂の一題一首しか隆信のものは採られていない︒これによって建保元年という

詞書は建仁元年の誤りであることがわかり︑また土御門内大臣通親の内

大臣期間は正治元年から建仁元年死去までの三年間であるから﹁おなじころ﹂というのも一致する︒詞書の年号が隆信の記憶違いや誤記でなく

後人の誤記であることは︑家集夏﹁建保元年和歌所歌合に郭公﹂の歌が

実は正治二年九月十二日仙洞十人歌合の二十五番左勝散位隆信の歌であ

ることで明らかである︒正治二年を翌年の建仁元年と年代を記憶違いす

ることは考えられるとしても︑それから更に没後の年号である建保と誤

記することは本人にはありえないことである︒ ︵三六・九・七︶

注① ② ③ ④

 ⑤

 ⑥ ⑦ 群書類従八輯=二六頁 以下歌合は類従本による同   九輯九一九頁 以下隆信朝臣集はこれによる同八三一九三頁同     二〇八頁日本古典全書歌合集三〇六頁頭注寂蓮は建仁二年七月二十日没六十四才︑時に隆信六十一才

長崎大学学芸学部人文科学研究報告第七号拙稿俊恵の年令からの逆算によ

(6)

久曽神昇氏はその著顕昭・寂蓮三四二頁で文治初頃のものかと言っておられるが︑無名秘抄の言う無題百首はこの時のもので︑兼実右大臣期間の外に隆信散位以前を論拠とするなら︑隆信の散位は正治二年二月五日御室歌合︵右京権大夫藤原隆信︶以後である︒類従十輯無名秘抄七七四頁日本歌学大系二巻同書解説類従十輯八七・九頁東野州聞書及び日本文学大辞典越部禅尼の項類従九輯八九九頁隆信朝臣集哀傷本位田重美著︑評註建礼門院右京大夫集全釈一九四頁類従十輯一三八頁隆信朝臣集雑三﹁六十路あまり一﹂の歌による各歌合の官職の経過による類従九輯九〇〇頁兵範記仁安四年三月十四日の条夫木抄による類従十輯八七八頁東野州聞書国語国文昭和九年五月号評註建礼門院右京大夫集全釈筆者傍線

藤 原 隆 信 考一五

参照

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