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柿本人麻呂の吉野宮讃歌について

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(1)Title. 柿本人麻呂の吉野宮讃歌について. Author(s). 土田, 知雄. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 8(1): 13-30. Issue Date. 1957-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3626. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第8 巻 第i 号. 北海道学芸大学紀要 (第一胡 ~ ). 2年8月 昭和3. 柿本人麻呂の吉野讃宮歌につ いて 土. 田. 知. 雄. 北海道学芸大学旭川分校国文学研究室 Chikao THUじH[DA : on. Kakinomoto-no-Hi tor ロ ーaro’ s. ’ ’ i iol Cat 1 of the ”Yoshino Palace Poems for glorif .. 柿本人麻呂の作品が、 古来の謡いものの伝統を多く受入れ、 しかも大陸女芸の影響を加えて成立. して い る こと は、 り す で に 武 田祐 吉 博 士 の 指 摘 さ れ た と ころ で ある。 しか し、 それ だ け 原 始 と 開化. との薄融が見られ、 伝統と創造との融合が認められることも事実である。 今 人麻呂の代表作の一 、 といわれる 「吉野の宮に幸 しし時、 柿本朝臣人麻呂の作れる歌」 ( 38・3 9) を中心に考察を試み、 ) 自軍池」 を 明か に して み た い ・さか 彼の作 品 の2 いさ 。. これらの吉野の離宮を讃美した歌は、 言うまでもなく行幸従駕の作で、 その制作動機にかなり開 化的な色彩をもっている。 そもそも持統天皇の三十余回に上る吉野行幸は、 前後に比類のないこと ) 「壬申以来の苦悩と勝利を分った亡き夫君への思慕と 時代を生んだ源泉への回想の であって、3 、 情熱の然らしむるところ」 であるとする犬養孝氏の説も一応もっともであるが、 やはり白風女化の 意欲が中国宮廷の生活を版入れようと したために行われたものであろう。 従って、 人麻呂の讃官歌 が、 かかる際の中国詩賦の影 響を受け易かったことも当然と言えよう。 )全作品117首中、 侍宴従駕の作は34首に上 万葉集とほぼ時代を同じくする懐風藻においては、4 2 2 り、 譲集の 首がこれに次いで居り、 実にこれらの作品は4 8%に達している。 この種の 詩 の 盛 行 は、 六朝以来の風尚で、 暗唐にも続いていたので、 白鳳期の貴族がこれらの風尚を模倣して かよ 、 うな風流韻事が多かったものであろう。 ことに著しいのは吉野関係 の作品で、 1 6首 (作品番号31,. 32・45・46・47・48・72・73・80083・92・98・99・100・102・116) に上 り 作 者 も13人 に及 ん で 、. いる。 このような白風的雰囲気の中にあって、 人麻呂だけが中国詩賦の影響に対して孤立 していた とは、 とう て い 考 え られ な い。 彼 は む しろ 中 国女 芸 に対 して、 相 当 の 理 解 を もっ て い た と いう べ き. )「失望の書」 として、 その文芸的価値が疑われている である。 ここで問題とすべきは、.懐風藻が5 のに対して、 彼はいかに中国詩賦を受入れて、 多くの古代文芸の伝統を包蔵 しながら 彼独自の文 、 学 を 創 造す る こと が でき た か と いう こと で あ る。 以 下 この 点 につ い て 考 察 を進 め て みよ う 。 註 1) 2 ) 3) 4 ) 5). 武田ネ 有吉氏 国文学研究 柿本人麻呂ぢ文 p.310~311 斎藤茂吉氏 柿本人暦 p.177 犬養 孝氏 第二期の歌 風と作家 (日本文学史上代) p .388~389 杉本行夫氏 懐風藻 p .310~311 (作品番号は同書による) 神田秀夫氏 漢文学 (日本文学史上代) p 2 .54 2. やすみしし. ァ こぎ. わが大王 神ながら 神さびせすと 芳野川 激つ河内に 高殿を - 13 -. 高知りま.

(3) . 土 せ. 田. たたな. 知. 雄. 青垣山. 国見を為 せば. 持ち. 秋立てば. 黄葉かざせり 逝き副ふ 川の神も. 下っ瀬に. 鵜川を立ち 反 山 川も. 小網さし渡す. 山川も. まっ. みつき. 山神の 奉る御調と 春 べは ず Eかざし. 登り立ち. もみち. 畳はる. やまつあ. して. みけ. 大御食に. 寄りて奉れる. 仕へ奉ると 神の御代かも. 上っ瀬に 3 8 ( ). 歌. 寄 りて奉 れ る. 神ながら. た ぎ っ河 内 に. 船 出 せす か も. 39 ( ). ) )「奇抜」 とさえ評せられる特殊な表現法は、 何にもとづくのであろうか。2 先ず、 この讃富 歌の1 「 属御方 文選の班固の東都の賦に 山 において 山霊護 すでに契沖阿闇梨が万葉代匠記初稿本 。 、 、 「 珍 とあるを引き 獄修 致 揚雄の甘泉の賦 」 同じ宝鼎の詩に 貢今川 」 神。雨師足園。風伯清塵。 、 。 、 、 ・ i 榊年の 「車駕幸二京 に、 「八神奔而警輝号。 振段麟而軍装。 蚤尤 倫帯二千将- 。 而素 玉戚号。」 、 顔? ′ 」 の 「山紙曝 帰 路-。 水 若 警;槍 流-。」 等 を 引 用 して い る のは、 38 E ロー三月三日侍二遊曲阿後湖‐1 番の長歌の 「畳はる 青垣山」 以下 「下っ瀬に 小網さし渡す」 までの表現に類似が認められるの ) その粉 本に擬したものと思われる。 また、 魯 ・の霊光殿の厭に、 「神之営 之。 瑞 我漢室‐ で、3 。 永不 朽分。」 な ども注意す べきである。 これらの詩句は確かに人麻呂の作に、 多少類似するところ がある。 しかし、 類似という点からは、 顔淵年の前掲の作な どには、 もっと広い範囲にわたって類. 似を指摘する ことが可能である。 すなわち、 虞風載コ帝狩- 。 山紙輝二崎路‐ 。水若警;槍流- 。 。 望 幸傾二五州- 。 春方動二哀 駕- 。 夏諺頚;王遊- 庚蓋 祥鷺被 繰梼 千翼泥飛浮 彫雲麗 江 藻舟 方軸胤行術 神側田二雑鯵- - 二 コ 。 → 。 - 。 。 。 天 鞠峰二. 南進訓弔艶- - 。 街様観=緑時・ 。 。 矯鼓震コ榎州- 。 貌勝湖二青崖- 。 金錬眠ニ海浦- 。 河激南た組謎- i H岳編懐柔 徳札即普治 傍点筆者 淵丘 ( ) 鱗翰聾 民霊塞二都野- 。 。 . - 。 。 36~3 9 ) との間に明かに類似がある。 「徳礼即普拾。 川岳編懐 傍点の部分は、 人麻呂の讃宮歌 ( ′ こ、 山川の神が天子に帰順奉 仕するという点で相通じ、 「車軸胤 」 は、 先人も指摘 しているように 柔。 3 吾並めて 朝川波り 舟競 9 番の歌 は 」 、 行衛。 千翼泥飛遊。 、 36番の 「ももしきの 大宮人は ブ 」 も、 「登り立ち 国見を為せば 畳は ひ 夕河渡る」 に類似があり、 「競艇湖青崖。 街様観緑時。 「 は うであり 天儀降藻舟 」 る 青垣山」 に関係がありそ 。 、 39番の反歌に一脈相通ずる。 しかし、 、. 」 な どのように、 彼の感情に相容れぬ ここに注意すべきは、 人麻呂は 「民霊塞都野。 鱗翰餐淵丘。 ものの影響は受入れていないことである。このような例は、 班固の西 都の賦においても認められる。 管条。 於 是天子乃登二属玉之館} 。 原野気 。 観二三軍之殺獲- 。 覧二山川之体勢- 。 歴二長楊之樹- 目極二四蕎- 。 禽相鎮圧。 獣相沈籍。 を叙したものであるが、 こういうあく どし・表現は、 人麻呂の 獲物が甚大であること これは狩猟の. 採 ら ざる と こ ろ で あ る。 次 の. 茂樹蔭 蔚。 芳草被 堤。 蘭蕉発 色。 嘩嘩狩狩。 若 乳錦与; 布赤請。古屋二煙乎 鶏製- 。 35番の歌と類似が認められ、 「春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり」 の これは、 32. 讐-稔も、 これ に 多 少 学 ぶ と こ ろ が あっ た か も しれ な い。. 方も是後宮栗二戦略- 。 柱韮繊維- 。糟 。 建二華旗- 。 鏡二清流-。 所長微風一 。 登二竜舟-。 張二鳳蓋-. 淡 浮。 こ こ は、 39番 の 歌、 ま た36番 の 「も も し き の. 大 宮 人 は」 云 云 と い さ さ か相通 ず る。. 長女調。 鼓吹震。 声激越。 讐腐 天。 鳥群潮。 魚窺 淵。 招ニ白鴎- ネ ¥ 。 下ご饗鵠-。 輪=女竿- 。 方 楽 汗獅驚 髄仰極 出二比 目-。 撫二鴻 晋一。 御二精 微- 。 。 。. 8番の内容 とかなり相通ずるものがあるにもかかわらず、 その発想法には両者の間に相 ここは、 3 」 の如きは、 人麻呂の作品のそれとは相容れぬものが 当の距離 がある。 ことに 「鳥群潮。 魚窺淵。 あろうし、 「招白鴨。 下愛鵠。 論女竿。 出比目。」 も人麻呂の好まざるところであろう。 かくて、 彼 - 14 -.

(4) . 柿本人麻呂の吉野讃富歌について. の中国詩賦に対する態度は、 自主的であり批判的であった言うことができよう。 次に懐風藻においては、 吉野の風土を文学的にネ 申仙境に見立てようとする傾向が顕著である。 す 45 ) には 「此地即方丈。 誰説桃源賓。」 なわち、 中臣人足の 「遊二吉野宮- 」( 、 大伴王の 「従二駕吉. 73 48 ) には 「此地仙 ) には 「欲 訪二神仙述- 」( 野-応 詔」( 」 、 紀男人の 「遊コ吉野川- 。追従吉野婦。 仙境に擬した 吉野の山川を 姑射の故事によって とあるのも 霊宅。 何須姑射倫。 」 、 、 方丈・桃源・ 串仙の思想を喜び、 彼等の想像を現実の吉野の山川に定 のである。 これは醜晋時代に流行した老荘ネ. 着させようとしたものである。 それゆえ、 その詩中にあらわれる風土は、 必ずしも現実的のもので はなく、 彼等の胸中に描かれた仙境を形成する山川という べきであろう。. ) 「孔子嘗て日く、『智者楽 水、 仁者楽 山、 智者動、 仁者静、 知者楽、 また、 岡田正之博士は、4 仁者寿、』 (諭語) と。 是れ仁智の性格が、 山水の自然美と一致契合する所あるを説かれたろが、 之 を詩に見はしたるは六朝時代として、 独り晋の王済の 『仁以山悦へ 水為智欲、』 の句あるのみ。 然 るに本集には非常に多し。」 として、 懐風藻64人の作者中13ノ \までもこの詠あり、 15例を挙げて居 られる。 当時いかに儒雅を喜んだかが知られる。 なお、 15例中、 吉野の場合が8例も見出されるの は重視すべきである。 こういう傾向は、 万葉集にはほとんど認められない。 わずかに大伴池主の長 397 3 ) の序に、 「智水仁山、 既に琳郡の光彩を臨み」 云云とあるが、 これは用法がやや相違し 歌( )懐風藻の作者が桃源の奥に求めたものは、 「雲を餐 ている。 さらに津田左右吉博士の説の如く、5 ひ霞を吸ふ 真人とは違って窺宛たろ仙女」 であったとしても、 こう いう傾向は万葉集全体を蔽うこ とはできない。 まして、 人麻呂の作品にあらわれる世界とは大いに懸隔があると言わななければな らな い。. 今、 試みに懐風藻 ‐から次の作品を選んで考察してみよう。 中臣 人足. 遊二吉 野宮一 其一. 地 仁。 方代無二挨所‐ 惟山且惟水 能智亦能・ 。 風波転入 曲。 魚島共成し倫。 此 。 一朝逢二招民- 47 ) (. 即 方 丈。 誰 説 桃源 賓。 同. 其ニ. ) 48 (. 仁山 秤.鳳 閣-。 智水 啓コ竜楼-。 花 島 堪二沈翫-。 何 人 不=滝 流-。. これらにおいては、 その短小な詩形にもかかわらずいずれも山水をもって 仁智に配し 擬 し て 居 り、 神仙の住む 「方丈」 の語が出て来て居り、 「無疾所」 も単に清かな所でなく、 幽遮の意が相当 」 にわずかに人麻呂の作品の 」 や 「花島堪沈翫。 加わっている。 ただ、 「風波転入曲。 魚島共成倫。 発想に近いものもあるが、 その雄 大な結構情辞に比す べくもない。 かくて、 懐風藻の作者は、 中国 詩賦の長所を必ずしも範とせず、 無批判に模倣した跡がある。 これに関連して、 懐風藻中 「山川」 「山水」「嶺河」 (この中には熟語としてではなく、 対句に分 け用いられたものも含む) という語を用いたものを検するに、 作品中に用いているもの2街首、 題詞 3首に達し、 山水を賞美している に用いているもの1首であるが、 この中神仙思想に関係あるもの1 と見られるものでも、 俗塵を離れた幽隠の地の構成要素である場合 が少くない。 山 斎言 志. 大柿安麻呂. 欲 知二閑居趣。 来尋.山水幽. 浮沈畑雲外。 掌翫野花秋。 稲葉負 霜落。 蝉声逐 吹流。 ・. 紙 為二仁智 賞-。 何 論二朝 市遊-。. 39 ) (. この詩は、 懐風藻中においては、 自然の風物についてかなり細く叙べているが、 「何論朝市遊」 あたりは清談者流の風趣が感ぜられる。 春日応 詔. 其ニ. 巨勢多益須. 埋巌素二神仙 姑射遁。太賓M QI. 党若聴覧隙。 仁智寓=山川 。 神衿弄二春色。 清輝腰二林泉 ー 1う.

(5) . 土 田. 知. 雄. 登 望二紬翼 径- 。 隆二臨 錦 鱗 淵- 。 ……. 20 ) (. 山中に神仙を求めるよりも、 人間界にあって自由に視聴を楽しませる閑雅な遊びに河川に臨み、 景物のさまを叙 べようとて しいるが、 まだ対象把握が十分でなく、 1 山室開二明鏡- - 1 。 松殿浮二翠煙- 。 幸陪激州趣。 誰論上林篇。. ここではね =仙より脱しようとして、 未だ離脱し得ない状態にあると言えよう。 このように、 懐風 藻中の 「山水」 「山川」 の語を 含む作品は必ずしも少しとしない。 ことに、 吉野関係の作品には 6 例も見出されるから、 人麻呂もあるいは、 こういう漢詩の用法に多少ヒントを得たかもしれない。 しかし、 その用法は懐風藻のそれとは異り、 儒教的な色彩や神仙的な臭味は感ぜられず、 38・36番 の長歌中の 「山川」 は、 「激つ河 内」 「清き河内」 の代表的風物として挙げられている。 筆者はその. 用法に、 彼の創意を認めたい。 懐風藻の作品中、 「山川」 そのものの状態について叙べているもの は、 前掲の安麻呂の作を除けば、 わずかに次の3首に過ぎない。. 秋日言 志. 釈智蔵. 欲 知二得 牲所- 。 来尋二仁智情- 。 気爽 山川麗。 風高物候芳。 燕巣辞二夏色-。 雁渚聴二秋声-。 因 妓 竹 林 友。 栄 厚 莫二相 警-。 9 ) (. 従二駕吉野宮‐応 詔 其ニ 大伴王 山幽仁趣遠。iH浄智懐深。 欲 訪二神 仙 迩-。 追 従 吉 野 捧。 吉野之作. 48 ) (. 丹塀広成. 高嶺嵯峨多=奇勢- 。 長河紗漫作二廻流- 。 鐘池越躍凡類。 美稲逢ソ仙同二洛州- 。. o l o ) ( 広成の作の如きは、 相当に自然を写実的に叙しているが、 三詩ともいずれも神仙境中の自然とも 言うべきものであって、 神秘的風韻を漂わせている。 かくて、 自然に対する両者の態度の相違を見 出 す こ と が でき よ う。. 次いで、 人麻呂の歌中 「激つ河内」 「畳はる青垣山」 に見られる 「山川の」 清き美しさを、 懐風 藻の 「清」 の用例と比較するに、 両者は異質的であることを認めざるを得ない。 「清輝歴二林泉- 」 。 20 ) 3 ( ) 2 2 「 4 1 」(2 ) 九域正清惇 「 . ) 清絃入 」( 」( 化経 、 「時泰風雲清。 、 「松下清 風信難 鰯 二三 。 、 。 、. 89 歳-” ( ) 等を見ても、何か観念的であり、形式的であると言えよう。 また、 「水清蔦池深。 4 0 )、 」( 「川浄智懐深。 48 「 4 ) 「 」( 9 1 0 風池秋水清 ) 8 「 0 ( 松下有 5 清風 ) 霞竹葉清 ) 」 含 」( など 」( 、 = 。 - 、 、 。 。 が、 一応万葉の 「清 し」 にやや近いと言ってよかろうか。 しかし、 「智懐深」 には儒教的な色彩が 認められ、 「綿池」 や 「鳳池」 にはやはり神仙的な臭気を感じないわけにはゆかず、 次の 「清風」. も讐輪的である。 そうすると、 「竹葉清」 だけが、 自然の美を認めた 「清」 という べきであろう か。 しかし、 この詩全体の雰囲気から言って、 これも純粋写実の 「清」 とも断じ得ない そうする 。 と、 高木市之助博士の説の如く、6 」その存在はまことに微々たるものといわなければならない。 そ れゆえ、 「清し」 についても、 人麻呂が呪的な意から女 学的な意味に昇華させるに当って、 何等の 示唆をも漢詩文から受けなかったとは言えないが、 彼は懐風藻の作者が中国詩賦の形式的模倣に汲. 汲と して、 未 だ到達 し得なかった美の殿堂に早くも参入し得たと言うべきであろう。 高木博士は、 7 〕万葉の 「清 し」 は懐風藻などの日本の漢文学を介 して大陸から移入されたものではないとさえ説 かれている。 かくて、 人麻呂は古代女芸の伝統を多く受入れ、 これを女学的に向上させ荘厳化するに中国詩賦 に学んではいるが、 あく まで自主的態度をもって一貫し、 彼の長を採り短を捨て ることを忘れてい なかったのである。. 註 1) 鴻巣盛広氏 万葉集全釈第一冊 p .54 2) 契マ I P全集 第一 p 05 .304~3 6- 一1.

(6) . 柿本人麻呂の吉野讃宮歌について. 3 繊 茂吉氏 ) 斎藤茂 柿本人 噸 姪 p 4 8 8~4 8 9参照 吉氏 柿本. 4 ) 岡田正之氏 近江 近江奈良朝の漢文学 p 0 ,219~22. 5 ) 津 津田左右吉氏 田左右吉氏 姦 繋 署国民思想の研究 第一巻. p 174~176. 6)~7 ツ肋氏 吉野の鮎 p ) 高木市 高木市之肋氏 .357~369. 3. 先ず、 この長歌は、 始めから 「小網さし渡す」 までが第一段で、 吉野の河内に離宮が建造された ことを叙し、 その宮殿において天子が国見されることを讃え、 次いで国見する天子の視界に入り来. るものを叙するという手法によって、 嘱目の風物をほめ、 山川の神神が帰順し奉仕すると歌って、 宮殿の繁栄と帝徳の宏大とを讃美し、 これをもとにしてゞ 第二段において作者の祝福の詞をもって 歌い 収 め て い る。 こ の長 歌 は、 「高 殿 を. 高 知 りま して. 登 り立 ち. 国 見を為 せ ば」 に よ っ て、 国. 見の歌の系統をひいていることが認められ、 国ぼめ・宮ばめが巧みにからみ合わせてあり、 山川の 神神の奉仕は、 忠誠を誓い服従を表わす寿詞本来の形式であり、 嘱目の風物をほめて行くのは、 こ れも寿詞の伝統的発想法である。 かように、 この長歌は多く古代文芸の伝統を遺存している。 これ は、 吉野讃宮歌のーなる36番の長歌、 また人麻呂の作に擬せられている 「藤原の宮の 御 井 の 歌」 5 2・5 3 ( ) においてもひとしく 1同様の性格が認められ、 これらがともに宮廷寿詞に発することは疑. )「行幸遊宴の歌には、 かうした姿を 持 いない。 折口信夫博士は、 「藤原の宮の御井の歌」について、1 ったものが事実多い。 結局其等のものも、 宮殿ぼめの一分化だと言ふ事 が出来る。 」と して、 古い時. 代ならば、 単に寿詞叉は鎮護詞を以ってすべきところを、 此の期には長歌を以ってする方法も出来 たと説かれたのは動かし難い高説である。 よって、 筆者はこれらの作品の伝統的性格の 基 盤 と し. て、 国見の歌と宮oまめの詞章との二つを認め、 両者の重なり合った微妙な交響の美を重視したいの くにみ である。 これを 「天皇 (箭明) の香具山に登りて望国し給ひし時御製の歌」 (2) な どに比較すれ. ば、 人麻呂の作品はいかにその内容が複雑であるかが容易に明かになろう。 次に、 2番の 「ぅまし 国ぞ 鯖蛤島 大和の国は」 は、 記紀歌謡の 「隠り国の 泊猟 の山は ま 出で 立 ち の 宜しき山. 差り出の 宜しき山の 隠り国の 泊瀬の山は あやにうら麗し. あやにぅら麗し」 (紀77) な. どの発想にいくばくも距離を感じられない。 しかるに、 人麻呂の作の自由発想の部分は、 いかに彼 独自の感動を強く躍動させていることか。 しかも、 彼の作には伝統的性格 が、 太くたくま しく背骨 と して 貫 い て い る こ と を 看過 す べ き で は な い。 註 1) 折口信夫全集 第九巻 p .73~75. 4. さて、 人麻呂の長歌は中国詩貝 i Eの影響よりも、 むしろ古来の国見の歌の伝統に多く負っているこ とは前述の通りで、 しかも国見の歌のきわめて古い形式を豊富に遺存 している のである。 この点を 間明するにために、 先ず国見の意義について考えよう。 国見が女献に見えるのは、 神武紀に 「三十 かれ す ・きかみ ほぼま. 有一年の夏四月の乙酉の朔の日、 皇輿巡り幸し給ひ、 因廠上の瞬間の丘に登り給ひて、 国状を巡ら 厚ぜ み 小ふ おなにや あきィ と力 うっー まき し望りて宣り給ひ しく、『餅哉回し獲っ。 内木綿の真逢き国といへども、鯖蛤の轡晒せるが如きもあ るか。』と宣リリ給ひき。 是に由り秋津洲の号あり。 」とあるのが初見である。 また、 豊後 国 風 土 記 . に、 「同 じ天皇 (景行) 、 この村に在して、 勅り給ひしく、『この国は道路遥に遠く、 山谷阻険しく、 往還 疎 稀 な り。す な は ち こ の 国 を 見 る こ とを 得 っ。』と富 り給 ひ き。 因 り て 国見 の 村 と い ふ。」 云 云と. ) 「わが国の国見らしい行事は、 単に、 天子巡狩の義 ではな ある。 この語について、 折ロ博士が、1 いのである。 叉、 農村の出来秋を御覧ずる為でもなかった。 先に述 べた高処より降臨する聖者-- 神の資格に於て臨む所の---が、 邑落に近い高処に立って、 土地の精霊及び、 土民に命令を宣下し - !? -.

(7) . 土 田. 知. 雄. て行かれる風が あった。 」と説かれている。 恐らく、 国見の発生的意義は、 春の初めその年に耕作す べき水田を ト定するに当り、 それらの水田を見はるかすことのできる高処に立って、 農産の豊銃を 将来するために、 邑落の司祭者、 長老が土地の精霊と土民とを鼓舞しようとした呪術宗教的行事と 見 る べ き で ある。. それゆえ、 それらが記紀に見られるような国見の形体に .展開するまでには、 多くの段階が考えら であったが、 それが記紀に見られる すなわち 国見を行う高処に立つ者は 元来邑落の聖者 れる。 、 、 ように天皇または、 これに準ず る高貴な者となっているところに、 変化の跡を認めなけれ ばならな. 2・琴 い。 今、 記紀等における国見の歌の作者と伝えられる者を検するに、 景行天 皇 (歌謡番号紀2 ) 等であ ) ) ) 歌譜12 )、 倭建の命 (記31 、 雄略天皇 (紀77 、 仁徳天皇 (記77 、 応神天皇 (記42・紀34 る。 これらによっても、 記紀の国見の歌は、 大和朝廷が全国統一を進めていた4・5世紀ごろに定着 したものであることが推定される。 それゆえ、 高処に立つ者が、 天皇または高貴な者と伝えたので あろう。 それ以前においては地方豪族の族長、 さらに遡れば邑落の司祭者として伝えられたであろ う。 それが農事に関係ある呪術宗教的な部面は田ばめの歌に残り、 他方では豪族の領土をほめる歌 となり、 やがて大和朝廷の領土をほめる歌に展開したものと考えられる。 これらの変化を少しく辿 ってみよう。 先ず、 雄路天皇の吉野行幸の際の作と伝える次の歌謡は、 呪術宗教的な性格を遺存す るも の と して 注 意 す べ き で あ る。. 倭の. . 鹿猪伏すと. 小村の岳に おご ら. 纏きの 胡床に立たし. Lつ. 誰か. 倭女耀きの. たふくら. と. …に 我が立たせば 手刷. ふ. 汝 が 形 は置 かむ. 走行. 此の事を. 大前に奏す. 大君は. 我がいませば. 胡床に立たし 鹿猪待つと. 虻かきつき. その虻を. 其を聞かして. 鯖蛤はや噛ひ. 昆ふ虫も. 玉. さ猪待っ 9つ. 大君に奉ら ) (紀75. 靖峠島 倭. 「あきづ しま」 は、 本州を古事記では 「大倭豊秋津島」 、 日本書紀では 「大日本豊秋津洲」 と称 しているのを見ると、 本来収穫のゆたかな国土の義で、 国ぼめに用いられたものと考えられる。 そ おき づ れが音韻の類似から、 「鰭峠」 に関係づけられ、 神武紀の 「鯖蛤の轡嘘」 というように、 昆虫の生 殖から農産の豊錠の祝福に用いられ、 鯖峠が害虫を捕 食するところからこの歌謡のように悪虫圧服 の呪詞に用いられ、 神武紀やこの歌謡の場合のような地名起源伝説をも生んだのである。 やがては. 語源が忘れられて、 単に大和の枕詞となるが、 国ほめの歌に用いられることが多いのは、 古い伝統 を残存したものである。 それゆえ、 この歌謡も国ぼめの性格を有することは疑いなく、 さらに農耕 を妨害する鹿猪や悪虫を圧服する呪詞としての性格をも見逃してはならない。 古い国見の歌には、 確かにかような性格を存していたのであるが、 高処に立つ者が族長や天子に転化するに伴って、 国. ぼめの面をますます強化して行ったのである。 た 博がひびと 38 85 886 )を このことは、 農耕を妨害する鹿や蟹が降服して奉仕を誓う内容の 「乞食者の詠」( .3. 参照すると一層明かになる。 この歌謡と 「乞食者の詠」 は相通ずるところがあり、 ともに農事の作 始 め の 呪 詞と して の 係 が し の ば れ ると 同 時 に、 寿 詞 と して の性 格 も 認め るこ と が できる。 こ とに 後. 者は、 この傾向が強く、 殿ばめ・家貨ばめ等 の形式をも併存している。 ) 武田博士 ・小島憲之氏が記4 3番の歌を挙 次に、 「乞食者の詠」 と親近関係があるものとして、2 いづく げられたのは注意すべきである。 この歌謡で、 「この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去ら ふ 何処に到る 伊知遅島 美島に着き 鳩鳥の 潜き息衝き 級だゆふ 佐佐那美道を すくす )契沖が厚顔 くと わが行ませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子」 と蟹が現われることについて、3. ) 諸 註 みな こ き少に 「是ノ・御 肴 ニ 蟹 ノ 有ケ ル ニ 託 テ カ ク ョミ 出 サ セ タ マ ヒ テ」 云 云 と 述 べ て 以 来、 4. ) 「やはり手振足振を件つた歌のやぅに恩はれる。 」 と説 れに従っている。 ただ、 中島悦次氏は、5 6 」 が伴なっ と言われたのは まことに卓見 た 然るに 武田・小島両氏がこの歌謡に蟹の舞 た かれ 。 、 、 - 18 -.

(8) . 柿本人麻呂の吉野讃富歌について. である。 この歌謡に先ず蟹が出て来るのは、 農作を妨害する悪虫の代表としてであり、 その帰服 の さまを示して悪虫を圧服しようとするのである。 次の段の 「後方は 小楯ろかも 歯並は 椎子菱 みつぐり. まよ. なす……三栗の その中っ土を 頚着く ま火には当てず 肩画き 濃に書き垂れ 遇はしし女」 は、 美女を点出 して、 その美を強調し、 第三段において、 その美女と共にいる歓喜を叙べている。. 筆者は、 その次の 「かくて御合まして生みませる御子、 宇渥の和紀郎子なり。 」とあるのと合せて考 えると、 ここで地霊を鼓舞する演技が美女とともに行われていたのではなかろぅかと思う。 すなわ ち、 悪虫が圧服された後、 美しい 「さをとめ」 が出て来て、 それを中心に田遊 びをするという歌謡 であろう。 かくて、 この歌謡の各段は遊離することなく、 有機的に結合する。 田辺幸雄氏は、7 〕最 ・. 近興味ある考 察を示されたが、 あるいは氏の想定され たように演出きれたかもしれない。 しかし、 その演奏の目的は、 農作の豊銃を期 して、 悪虫や地霊を圧服鼓舞するところにあ っ た ろ う。 そし て、 地霊をかまけさせる性的な行事があったことは、 歌謡の次に付加された前掲の文章によってう ) 「古 代 に 於 て、 蟹 が、 滑 稽な 小 動 か が う こと が でき る。 折 口 博 士 が、 「乞食 者 の 詠」 につ い て、 8. 物として、 或は性欲を聯想せしめるものとして、 叉邪鬼の象徴として見られてゐた為に、 かうした 歌 が 出来た 訳 で あ る。」と 説 かれ た の は参 考 と す べ き で あ る。 この ゆ え に、 「乞 食 者 の 詠」 を、 9 )い. たらぬくまなき 律令制の搾坂を認刺したもので、 寿詞 どころではないとする説には、 偏向を認めざ るを得ない。 この作は楓刺よりもむしろ滑稽感が強いのは、 その生い立ちのゆえである。 o )すでに佐佐木信綱博士が指摘され また、 「乞食者の詠」 と顕宗前紀の室寿ぎの詞との類似は、l たが、 筆者はその末にある次の句を特に重視したい。 かたやま きをじか. た方そこ. あしひきのこの傍山の牡鹿の角挙げてわが舞はらば、 旨酒餌香の市に直もちて買はず、 手掌 やらら お とこよメ こ も惨亮に、 拍ち上げ賜べ、 わが常世等。 1 )この場合の鹿舞は本来室寿ぎとは別のもので、 鹿頭をかぶって 鹿が帰服 武田博士に従えば、1 、 するさまを演じて、 農作を祝うものであると説かれた。 よって、 鹿舞が室寿ぎに転用されたものと 言 う べ きで あ る。 こ の 舞 に 次 い で、 さ ら に 「殊 舞」 を した と あり、 訓 註 に 「立 ちつ 居 っ の 舞」 と あ 2 )折 ロ 博士 は、 「殊 舞」 は 「俵 舞」 の通 用 あ る い は誤 字、 訓 註 も 「た づ つ ま る。 これ に つ い て、 1. ひ」 の誤解であろうとし、 もと家屋の精霊と考えられていた像儒の舞であると説かれた。 かくて、 国ぼめ・富ばめの詞章が互に交渉しつつ展開して行ったことが明かになるのである。 このように、. 原始的な国見の歌には、 きわめて呪術宗教的な色彩が濃厚であると言わなければならない。 しかる に、 国見が邑落の司祭者から地方豪族の族長、 さらに天子へと移るに伴ない、 次第に呪術宗教的色 3 )政治的性格や女雅な色彩を添加して行ったものと考えられる 彩を稀薄に して、 かえって1 。 3 82 「筑波の岳に登りて、 丹比真人国人の作れる歌」( ) に、 「二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山」 とあるによれば、 いかなる形体で あるかは不明であるが、 常陸地方に奈良中期まで、 国見が行われていたことを示すものであろう。. また、 土屋文明氏は、 か 雨間関けて国見もせむを故郷の, 花橘は散りにけむかも. ) (1971. 4 ) 「フ ル サ トは 明 日香 であ ろ う そ こ に 田 庄 な ど有 す る 者 の歌 と 見 え る 」と 説 か こ れ につ いて、 1 。 。. れたが、 この場合の国見は相当に後代的変化を遂げているようである。 しかし、 当時の貴族が自分 の私有地の国見をしていたと見ることができよう。これは族長時代の遣習を伝えたものであろうか。. かように、 国見には時代的変化が認められる。 次に考うべきは、 国見が天子行幸の際に行われたと伝えられ、 国ぼめ・宮ばめの歌がかかる際の 5 )古 代 人に とっ て は、 一山 越 え 作 と 伝 えられ て い る こ と で あ る。 こ れ に つ い て は、 原 田 敏 明氏 が、 1. た向うの世界や、 海の彼方の世界は、 見馴れない行き馴れない世界として極度に恐れられ、 ただな - 19 -.

(9) . 土 田. 知 雄. らぬ荒ぶる神の世界と信ぜられたと説かれたのが参考になる。 また、 神代記に、 天の浮橋に立った 」 と言われ 天の忍穂耳の命が、 「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、 いたくさやぎてありなり。 き曙へ かがや 神 蝿なす邪しき 蛍火の光く神また たと伝え、 神代紀に、 同じく豊葦原の瑞穂の国を、 「彼の地多に あり。 複草木成能く言語ふことあり。 」としてし・るのは、 異境に対する古代人の感情を示すものであ ろう。 旅行の際の国見は、 未 だ知られざる国に充満する神霊や精霊に対する恐怖の情 から、 それら. まぎも、 これに合流する可 を鎮撫圧服する手段であると見るべきであろう。 さらに旅の宿りの新室を 6 )古代人はわずか一夜の仮小屋でも、 新室ほぎをしないでは、 能 性が十分 にあった。 折ロ博士は、1. 安らかに寝ることはできなかったと説かれている。 かくて、 行旅の際に、 国見の歌・室ほぎの歌の 現われる理由も明かになろう。 かづの. 千葉の 葛野を見れを. 百千足る. 難波の埼よ. おしてるや. ゃには. 家庭も見ゆ. 出で立ちて. ほ. 国の秀も見ゆ. わが国見オ慎ま. 粟島. (記42) 布ぢ穿き. お の ごろ. 槙郡の島も見ゆ. 澱能碁呂島. ) (記54. 佐気都 島見ゆ そ ら みっ. 大 和 の国 は. 神 か らか. あ り が 欲 しき. 国からか. 住 みが ほ しき. ) (琴歌譜12. 鯖 輪島 大 和. 国は. あ り が ほ しき. これらの歌謡は、 第一首目は応神天皇の淡海行幸、 次は仁徳天 皇の淡道島行幸、 次は景行天皇の 日向行幸の作と伝え、 いずれも旅行の際の作と しているのが注意される。 これらは未だ対象の注視 が十分でなく、 その把握も幼稚であって、 国ばめの城を脱していない。 見 が 欲 しも の は. 倭辺 に. 朝 じも の. 御 木 の さ 小橋. 忍海 の. まへっぎみ. 廷臣. 此 の高 城 な る. い 渡す も. ) (紀84. i 角買 リの 宮. ) (紀24. 御 木 の さ小橋. これらは、 ともに宮ばめの歌で、 いずれも素朴単純な表現によっている。 後者は景行天皇の筑後 行幸の作と伝えているのが注意され、 前者は時人の歌と伝えているのはこの歌謡の発生動機を考え る 手 が か りと な ろ う。. つぎねふ. 山背河を 富のぼり. 見 が 欲 し国 は. 我が. 葛 城高 宮. 我が振れば あをによし 郷羅を過ぎ. わぎへ. をだて. 倭を過ぎ. ) (紀54. 我 家 のあ た り. これも仁徳天皇の后砦の媛の命の遊行の折の作と伝えているが、 その主題は紀84番のそれと同様. である。 これには、 道行き風の詞句が先行していることが注意される。 さらに、 この歌謡に次いで 7球目機貞三氏 」の文章がある。 これによって、1 「更に山背に還りて、 宮室を筒域の岡に興てま しき。 がこの歌謡は新室ほぎの歌と説かれたのは、 なお一考を要するであろう。 しかし、 これ ら の 歌 謡. 8 J元来宮殿・ 国土・郷土の讃美を内容とする民謡的なものが宮廷に版上げられ、 それらの詞章 は、1 は互に交渉しつつ展開したものであることは疑いない。 やすみしし わご大皇 高照らす 日の皇子の, 聞し食す ・御僕っ国 神風の 伊勢の国は 国見ればしも す. 島も 名高 し. の原 に. 山見れば. こ こを しも. う ち 日 さす. しな ひ 栄 えて. 高く責し 河見れば. 大宮仕へ. 秋山の. ま ぐは しみかも 朝 日 なす. 色な つ か しき. かけまくも. ま ぐは L も. も も しき の. 山辺の. 五 十師. うらぐはしも. 春山の. 日月 と 共 に. 方代 に. あ やに 恐 し. 暮日なす. 大宮 人は. 天地. (3234 ). もが やまのべ. さやけく清し 水門なす 海も広 し 見渡. 反. し ・ L. 歌. 2 35 ) (3 山辺の五十師 の御井はおのづから成れ る錦を張れる山かも 9 )本居宣長翁は持統天皇時代の作としているが、 これはその発想法から見て、 この歌について、1 それよりもやや古い作ではなかろぅか。 作歌動機は明かでないが、 伊勢の国への行幸の際、 行富を - 20 -.

(10) . 柿本人麻呂の吉野讃富歌について. 讃美 したものである。 人麻呂の讃官歌に先行する作品と して注意すべきであろう。. 記紀歌謡の素朴さからはすでに脱して、 それらの各種の要素を合流させている。 人 麻呂の作品に. 比すれば、 前半の国ばめは集中が不十分で散漫であり、 後半の廷臣奉仕の描写は具体的でなく 作 、 者の感懐も迫力がない。 しかし、 その発想は人麻呂の作品に相当近づいて居り 恐らく両者は親縁 、 があろう。 かくて、 人麻呂の讃宮歌は確かに開化的な制作動機も相当もっているが 以上のように 、 種種の前代文芸の伝統を受入れて開花したものであることは忘れてならない一面 である と 言 え よ う。 なお、 上来の考察によれば、 人麻呂の作品の制作動機には 伝統的な要素も混在しているのを 、 認めざるを得ない。 すなわち、 吉野の河内の神霊を圧服鼓舞 して 宮廷の永遠の栄光と繁栄を祝福 、 し祈 念 しよ う と して い る の であ る。. 註 1) 折口信夫全集 第九巻 p .106. 2) 武田祐吉氏 記紀歌謡集金諦 p 11 5 . 2~11 小島憲之氏 古代歌謡の彼方 (国語国文30年1月) 3) 契沖全集 第五 厚顔抄下 4) 本居宣長 古事記伝 (本居宣長全集) 内山真龍 古事記言 辞歌註 (日本歌謡集成) 、 、 橘守部 稜威言別 (橋守部全集) 5) 中島悦次氏 古事記評釈 p 2 .39 6 ) 武田祐吉氏 前掲書 p 5 .11 , 小島憲之氏 前掲書. 7) 8) 9 ) 10) 11). 田辺幸雄氏 この蟹やいづくの蟹 (古事記大成2)1 6~327 ) .31 折口信夫全集 第九巻 p .222 高野辰之氏 改訂日本歌謡史 p 6 .67~70 , 川崎庸之氏 記紀万葉の世界 p .88~9 佐佐木信綱氏 上代日本文学史 下巻 p,563 . 武田楯吉氏 前掲書 p 1 .31. 12) 折口信夫全集 第七巻 p 2 , 4~25 13) 北住敏夫氏 万葉の諸相 p 2. . 万葉集私注巻十 p 0 5(ただし第一句の副=法は、 これに従わず全註釈による) .1 原田敏明氏 万葉 集と宗教信仰 (万葉集大成8) p .66 折口信夫全集 第一巻 p 33 .4 相磯貞三氏 記紀歌謡新解 p .523 沢潟久孝氏 万葉より見たる古事記 (古事記大成2) p .40~43. 14 ) 土屋文明氏 15) 16) 17 ) 18 ). ・宣長全集 玉勝間 巻三 19 ) 本居. 5. 前節において考察 したように、 人麻呂の讃宮歌はき っめて濃厚に前代女芸の性格を包 蔵 し て い. る。 その 「奇抜」 とさえ感ぜられる表現も、 主としてその古代的性格の然らしめるとこ ろ で あ ろ う。 すなわち農耕の事始めに地霊や害虫、 悪獣が帰服するさまを演じて、 それらを圧服する行事、 また家屋の精霊が家主に帰服する舞を伴なぅ室ほぎの行事の詞章の系譜を受け継いでい る の で あ る。 前掲の記98・紀75・記45番等の歌謡が、 かように雄大な讃宮歌に展開したことについては、 い うまでもなく人麻呂その人の天才と、 讃歌の対象たる古代帝王の権勢が与ること大であろう。 当時. の宮廷の勢力は異常なる伸長を遂げ、 森厳なる空気がみなぎっていたのである。 かくて、 「山神の 奉る御調と」 「川の神も 大御食に 仕へ奉ると」 というような農耕または漁猟関係の呪詞として の生い立ちを示す詞句が、 律令制国家の宮廷のかかる荘厳な雰囲気の中において、 成長して来た過 程が しのばれよう。 「御調」 は農民にとって重大関心事であるとともに、 律令国家の宵人にとって も等閑視することができないものである。 かつて畏怖の対象であった山川の神神が、 今や庸調の対 - 21 -.

(11) . 土. 田 角 - 雄. 象として表現されているのは、 当代の宮廷の荘厳な状勢を反映したものと言えよう。 当時の宮人に とっては、 かかる形式で山川の帰服を表わすことが、 もっとも適切に宮廷の繁栄を表示するに効果. 的であったのである。 何となれば、 古代国家の理念は中央集権と言えよう。 そして、 その中央集権 は、 全国から納入される租税によって支えられていたのである。 それゆえ、 収鰍が円滑に行われて. いる限り、 それによって古代国家の権力は維持することが可能であり、 またそれがその権勢の輝か しい徴証ともなったのからである。 祈年祭の祝詞に、 おぢゐ たたぴ かき そぎ はる 皇神の見霧かし坐す四方の国は、 天の壁立つ極、 国の退立っ限、 青雲の霧く極、 白雲の墜坐 ; もかお. へ. つ づけ. くが. 向 伏す限、 青海原は樺桂干さず、 舟の纏の至り留る極、 大海原に舟満ち都都気て、 陸より往 ぢ ひま きく み く道は荷の緒縛ひ堅めて、 磐根木根履み佐久弥て、 馬の爪の至り留まる眼、 長道間無く都都 気て、 狭き国は広く、 峻しき国は平らげく、 遠き国は八十綱打柱けて引き寄する事の如く、 のさき 皇大御神の寄さし奉らば、 荷前は皇大御神 の大前に、 横山の如く打積み置きて、 残をば平け く 闇 し看 さむ。 … … …. これによっても、 古代国家の中央集権の実現に対するただならぬ熱意がうかがわれる。 このよう 8・紀75番の歌謡で大君に 鰭齢が奉ろうという形式を展開させ、 その な律令国家の官僚意識 が、 記9. 結構を拡大させるに救果的であったと考えられる。 ) 彼は歌物語を多く伝承し宮廷に奏上演奏した家 次に考う べきは、 人麻呂の神話的教養である。1. 柄の春日 (和適) 氏と同族で、 古伝承を尊重した天武朝に生を受けたのであるから、 彼の懐古的神. 話的傾向も故なしとはしない。 しかし、 この傾向は彼において特に顕著である。 . 大 王 の遠 の御 門 と あ り通 ふ 島 門 を 見 れ ば神 代 し念 ほ ゆ. 04 ) (3. この歌も、 彼のかかる、 傾向を示す力作である。 それゆえ、 このような作風を有する人麻呂の創 意がなくしては、 この讃宮歌は生れなかったであろう。 かくて、 そこに見られる擬人的表現は、 主 として前代文芸の伝統的発想に加えられた彼の創意であると言えよう。 次いで、 彼が伝統を活 かすに当って試みた創意の跡をそ.の詞句に即して考察しよう。 先ず、 「や すみしし わが大王」 は、 記紀歌謡等にも見られるほめ詞である。 彼が中国詩賦の事事しい頚徳の 句に学ばず、 古来のほめ詞を襲用したのは注意すべきである。 この詞句は、 古代信仰に基づく 呪詞. であろうが、 次第に原義が忘れられて、 単なる枕詞となったのである。 本集におい て は、 こ の 語 ) 「八隅知之」(集中2 0例)、 「安見知之」(集中6例) を2 、 「安美知之」(集中1例)、 の字面で表わし ている。 古事記では、 「夜須美斯志」 (4例) 、 日本書紀では、 「夜輸弥始之」「野須綱斯之」 「野須美 矢矢」 「夜須弥志期」 (おのおの1例)、 続日本続では、 「夜須美斯志」 (1例) と、 いずれも音仮名 を用いているに対 して、 万葉の筆録者はこの語に対して、 八方を お治めになる意 (釈日本紀・仙. 覚・代匠記の説) 、 または安らかにお治めになる意 (冠辞考・記伝・古義・美夫君志・正訓の説) として合理的な解釈を加えて、 前掲の字面を用いたものであろう。 これらの語句が宮廷人の間に用 いられているうちに、 彼等の天皇に対する考え方が反映したものと考えられる。 枕詞に対して格別. 6番においては、 鰐明期の作 (3) 以来の 「八隅知之」 (この外に人 の関心をもっていた人麻呂が3. 麻 呂 の作 で は45・199・239・261) を 用 いて い る の に、 38番 に お い て は 「安 見 知 之」 を新しく用い. ) 「一面先例に従ひながら、 別に新例を開い」 たもので 葛久孝博士の説のように、3 始めたのは、 沢? 筆者はそこに彼の時代感覚の鋭さを看取すべきであると思う。 そして、 この語によって修飾される 「大 君」 は、 「神ながら 神さびせすと」「山川も寄りて奉れる 神の御代かも」 等と照応して、 実 に 力 動的 に そ の 尊 厳な る 性 格 を 表 わ して い る。 こ と に、 「神 な が ら. 神 さ び せす と」 (38・45) の詞. )人麻呂作品に特 有のものであると武田博士は指摘しておられる。 「神ながら」 の語も、 古 句は、4 代信仰に基づき、 祝詞等にもしばしば用いられ、 本集においても、 次の柿本朝臣人麻呂歌集の歌の 2- -2.

(12) . 柿本人麻呂 の吉野讃宮歌について. 如きは、 比較的古い用例であろう。 葦原の 水穂の国は 神ながら. 言挙げせぬ国 然れども. 言挙げぞわがする…… ( 3 2 3 5 ). 集 中 こ の語 を も っ とも 多く 用 い た 人 麻 呂 は、 い ず れ も (38・39・45・16701 99 ) 天皇の尊厳をた. た え る た め に、 これ を 採用 して い る。 彼 以 後 の 作 者 でこ れ を用 いた 主 な も の は、 赤 人 の1例 (938)、. 4003・4004) 等 が あ る が、 赤 人 ・ 家 持 は 人 家 持の 4 例 (4094・4254・4266・4360 )、 池 主 の 2 例 (. 麻呂を模して迫力に乏しく、 池主の如きは立山の神秘性を表現するのに、 これを用いている。 「神 さ ぶ」 の 語 は、 古 く は 次 のよ う に、 か な り 広 い 用 法で あ っ た ろ う。 す な わち、 「か しこ さ」を 感 じさ. せる物 が、 その 「かしこさ」 を発揮すると感じた時に、. 伊夜彦のおのれ神さび青雲の棚引く日らに課そぼ零る三陸話縁あ. 388 3) (. こ の よ う に用 い られ た もの と考 え られる。 これ は次 に かはごろも. 伊夜彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮服著て角附きながら 84 ) (38 と、 山を直ちに神と歌っていることから見ても、 越中の民衆の伊夜彦に対する感情がう か が わ れ る。 人麻呂は、 この語ももっぱら天皇の尊厳を表わすものとして活用している。 これらの作品( 38・. 45・199) に 比 して、 や は り赤 人 の 作品 ( 317・322 ) は そ の表 現 が 繊 弱 で ある。 な お 彼 に は 富 士 山. 317 の神秘性を表わしたもの( )さえある。 他の作家は、 福麻呂・池主 o 家持等いずれも自然の風物 の荘厳なさまを表現するのに用いているのである。 かく見来ると、 彼の両語に対する用い方は独自 のも のが あ り、 しかも、 彼 のも のに は、 強 い 信 念 と 激 しい 感 動 と が 溢 れ て い る かよ うに 人 麻 呂 が 。. 強力にして、 壮大な讃嘆を献呈したについては、 その契機としては先ず何よりも当時の大和朝廷の 未曽有の繁栄を考えなければならない。 壬申の乱を克服 して国内・ の矛盾対立を解消した天武朝は、. その後ひたすら律令国家完成の方向に進むとともに、 その権勢はすばら しく強化された。 そして、 天皇はあらゆる 可能性を一身に集中して、 何物をも恐れはばかることなく天下に君臨 し、 尊貴・森 おほきみ 厳な性格を明 確 にした。 大将軍大伴御行は、 「壬申の乱の平定せし以後の歌」 で、 「皇は神にし はら段. みやこ. 坐せば赤駒の同国ふ田ゐを京師となしっ」 ( 426 0 ) と歌った。 これは飛鳥の浄御原の宮の造営を祝 っ たも の で ある が、 こ の 「大 君 は 神 に しま せ ば」 の 詞 句 は こ の歌 に 姶 り、 いず れ の歌 (205・699・. 2 35・24 5 4 261番は作者未詳) この種の歌は、 壬申の ) も宮廷人が作者であることから考えても、 ( 乱を勝利に導き、 大化改新の理想の達成に努めていた貴族官人が、 飛鳥・藤原の宮の隆昌を仰 いで 抱いだ感激であり観念であると言 えよう。 これに対して 「大君の命かしこみ」 の詞句が防人等の庶. 民の歌にも見出されるのに、 この句が貴族官人の歌のみに見出されることからも、 天皇神観は一般 庶民の与り知らぬところであったかもしれぬ。 人麻呂も 「天皇の雷の岡に 御遊しし時」 に 「皇は 、 神に しま せ ば天 雲 の雷 の上に 慶す る かも」 (235) と歌 っ て い る 5 。 ) これ を 一片 の 蕨 諺 の 言 とす る 説. もあるが、 一首に生動す感動から見ても、 先ず当代の絶大な皇権に裏づけられたものであるとする )「貴族層の力の充実感の投影された一種 ことが自然であろう。 そ して、 それを中心に形成された6 の自己調歌の表現」 とも言えよう。. かくて、 かような天皇に対する観念は、 古来の自然に対する恐怖や畏怖の情をいたく減退させ、 次第に自然に対する観照の態度を発生させ、 展開させたのである。 すなわち、 山川の風 物 に 対 し. て、 畏怖や恐怖の対象としてでなく、 安んじてそれを凝視し得る段階に到達したのである。 常陸国 風土記に、 「俗日。 謂 蛇為二夜刀神- 。 其形蛇身頭角。 率紀免難。 時有二見人‐者。 破二減家門- 。 子孫. 不 継。 凡此郡側。 郊原甚多所往之。 」 とあって、 夜刀の神に対する恐怖が記されている。 これに対 して、 箭括氏麻多智は武力をもってしても、 その神秘的勢熊を如何ともなし得なかった。 然るに後 に現われた壬生連麻呂は、 「何神誰紙 不 従二風化- 」 という一片の宣言によって、 一 指を動かす 。 ことなく、 恐るべき邪神を退散せしめている。 古代帝王の絶大なる権勢を背景とせる官僚の意気正 一 23. ..

(13) . 土 田. 知. 堆. に 当 る べ か ら ざる も の が あ る0 自 然 の 脅 威 に 「か し こ さ を」 感 じて い た 時 代 は す でに 去っ て、 古 代. 帝王の権威が何よりも 「かしこき」 時代になったのである。 かくて、 「高殿に 高知りまして 登 り立ち 国見を」 される帝王に対して、 「神ながら 神さびせすと」 の讃嘆となり、 「山川も寄 りて. 奉れる」 世として、 栄光の時代を生むに与って力あった舎人の意気と感激をもって歌い上げたので ・. あ る。. 9番の反歌は、 実に堂堂たる ことに末段における 「山川も 寄りて奉れる 神の御代かも」 と、 3 「 「 詞章で、 冒頭の やすみしし わが大王」 神ながら 神さびせすと」 に照応して、 過去への追慕. と、 現実への讃美と、 未来への切願が、 二重にも三重にもからみ合い重なり合って、 高く強く奏で られている。 このような天皇に対する考え方は、 大化期を境に勃興し、 その後飛躍的に 伸長した政. 治的権力に裏づけられて培養されて来たが、 人麻呂によってもっとも力強く開花させられたと言う べきである。 それは、 記紀や 「藤原の宮の役に立っ民の作れる歌」 ( 50 ) に見える考え方を継承し 発展させたもので、 新な現実的追求は見られないが、 その展開に際しての彼独自の創意は認む べき で あ ろ う。. 註 1) 武田祐吉氏 国交学研究 柿 に人麻呂 牧 p .224~232 氏 増訂万葉集全註釈 二 p , 2) 同 .55~56 3 ) 沢瀦久孝氏 万葉の作品と時代 p 3 「八隅知之」 は箭明期の作から人麻呂・赤人を総て橋麻呂・家 .7 特に及び、 「安見知之」 は人麻呂にはじまり、 赤人・福麻呂は両者を併用 している。 4) 武田祐吉氏 前掲書 p 23 o~1 .li. 5 ) 細 左右吉氏 審議 贈 国民思想の研究 第1巻 6) 井上光貞, 関晃氏. p 221. 4 古代社会 (新日本史大系第2巻) p ,3 6. )人麻呂の自然観をも呪縛してしまった とする さて、 この長歌に おける以上のような考え方は、 1 の は、 どう で あ ろ う か。 36番の長歌とこの長歌とは、 思想的にさほ ど距離のあるもではなく、 その 立脚点はほぼ同一であると言ってよかろう。 前述のように、 国家権力の伸長は、 自然に対する畏怖 の情を減退させて、 これを凝視しようという態度を生ぜしめ、 伝統的な修辞法に客観力を付与し、 これを写実化する機会を馴致しているのである。. ) すでに武田博士の指摘され 本集においては、 叙景にいたる経路を朴直に表示していることは、 2. た とこ ろ で ある。 かく て、 36番 の 「水 ぎ ら ふ. 滝 の 宮 処は. 見 れ ど 飽 か ぬ か も」 も、 もち ろ ん自 然. 観照に関係なしとは言えない。 この長歌は、 前代呪詞の伝統的発想形式によることは明 か で あ る が、 そこから抜け出して女学作品としての長歌に展 開させたものは、 主として長歌の第二段におけ る自由発想の部分でなければならない。 それゆえ、 この部分の 「見れ ど飽かぬかも」 の句は、 どう ) 相 聞 歌 に お い て、 愛 人 の美 を 認 めた こ とに よ っ て 生 して も 看過 で き な い。 も と も とこ の 語 句 は、 3. じた愛情を表現したものである。 向ひ坐て見れども飽かぬ吾妹子に立ち離れ行かむた づき知 らずも ま そ 鏡 見飽 か ぬ 妹 に 逢 はず して月 の 経 ぬ れ ば 生け りと も な し. 6 6 5 ) ( 29 8 0 ) (. これらにおいて、 ゆたかな 愛情の流露を見 ることができる。 かかる親愛の情を移入して、 「見れ ど飽かぬ」 と歌われた自然は、 作者の愛情によって見つめられた自 然であると言えよう。 これは、 明かに山川を 「か しこし」 と感じていた段 階とは遥かに差違が認められる。 かくて、 「山川の 清. き河内」 の美 しさを見出すこともできようし、 これを描こうとする態度も生 じるのである。 さて、 この 「清し」 も、 古くは先宗教的な意義に多く用いられている。 この語は、 書紀に用例が - 24 -.

(14) . 柿本人麻呂の吉野讃富歌について. 多く、 15例中において 「 C 」 の連体修飾語に用い, 0例見えている。 それらの字面は ・ られたものが1 , 、 「清心」(3例) 「 平心 「 「 「 」 赤心」 明心」 「丹心」 丹誠」 「清身意」 (いずれも1例) で、 これらの 、 字面からも、 万葉の 「清し」 とは異質であることは容易にうかがわれ る。 「清し」 について 石井 、 )「儒教的な道徳的な意識よりも もっと原始的な宗教的意識を多く認める 」 と説かれ 庄司氏は、4 、 。 たのは注意すべきである。 古事記においては、 書紀の 「清き心」 に当るものは 「清明き」 をもって 、 J「清白意」「清白心」 「清白忠誠」 に対して アキラケキココロ 表わしている。 書紀でも、 「清白」 、 と訓んでいる例が見出される。 それゆえ、 記紀の 「清」 は 石井氏の説のように 儒教的な清廉 、 、 、 貞潔のそれではなく、 濁、 悪、 邪、 黒に対するものと して用いられたものである 次いで遷却崇神 。 の祝詞には、 うずけき. 此の地よ り四方を見轟かす山川の清き地に遷り出で坐して、 吾が地と字須波伎坐せと………. とあ る の も、 一 見 万 葉 の 「清 し」 に 近 い よ う で あ るが そ の用 法 は 呪詞 的 で あっ て む しろ 記 紀 の 、 、. それにそれほど運庭のあるものではない。 万葉のそれは 少くとも自然に対する注視によって 山 、 、 水の美を認めているところに意義があるのである 万葉において この語は人麻呂前後から用いら 。 、 れて来たようである。 これは、 当時すでに自然に対して凝視し得る段階に到達していた か ら で あ る。 試みに全巻の使用度数を集計すると、 次の如く である 。 T 十 ▲. 江 m IV ▽ W m m ] 0. 0. 3. 0. 18. 亘区. X. 1 5i4 2E6. mlxm i x v XV XW‐Xwix”gX甑1XX l. T t i. 1言3 ド. 5. 0. , 310 413. 巻7は作者未詳で年代は不明であるが、 人麻呂歌集や古歌 集の歌を多く収め そのうえ叙景歌が 、 多い。 従ってこの巻に 「清し」 が多し ・のは当然である。 巻6では著名歌人がこれを用い 福麻呂歌 、 集 6、 赤 人 5、 金 村 3、 車 特 千 年 2、 家 持 1 の順 で あ り、 巻17では 家 持12 池 主 1 であ る 全 体 と 、 。. 3が最高である。 これらによっても 「清し」 の美が人麻呂前後から次第に広く認め しては、 家持2 、 られて来たことがわかる。 それゆえ、 「清し」 に人麻呂の新しい用法を認めなければならない こ 。 の 「清し」 によっ て修飾される 「河内」 の語も、 後述のように対象の凝視と愛情なく しては生れて 来な い。. ふ. これらの詞句に見られる自然美に対する志向は、 さらに他にも指摘できる すなわち 「花散ら 。 、 秋 津 の 野辺 に」 と あ る 「花 散 ら ふ」 を 挙げ た い。 こ の 語 に つ い て は、 5 ) 枕 詞 と す る 説と 然 ら 、. ずとする説がある。 筆者はこれを実景を描写 したものと認めたい。 仮に枕詞としても 実景をその 、 まま用いた人麻呂独自の用法で、 相当に写実力を有する。 玉 藻 刈 る 敏 馬 を 過 ぎ て 夏 草 の 野島 が 埼 に船 近 づ きぬ. 25 0) (. この 「夏草の」 の例に相通ずる。 次に花についても、 秋の草花とする説と 桜 花とする説とがあ 、 るが、 後者に従うべきであろうか。 「秋津」 は、 大和のほめ詞の 「鯖蛤島」 に何等かの関係があろ う。 それゆえ、 必ずしも秋草と限定する必要はない。 ここも、 伝統的な発想の中に作者′ の自然に 対 する凝視を認めたい。 「花散らふ」 のフは、 「花散る」 の継続的状態を示す助動詞であるが こうい 、 う用例も時代の新しい歌 に多く見られることが注意される。 なお、 比較的古い相聞歌においても 、 三諸の 神奈備山ゆ との曇 り 雨は降りきぬ 雨霧ひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原 ゆ. 思ひつつ. 還 り に し人. 家 に 到 り きや. (傍点筆者). 3 268 ( ). これにおいても、 すでに自然 に対する注意が見られる。、これは フが継続的状態の表示であるか 、. ら、 その前提として対象の動作・作用の継続状態を時間的に把握する凝視が必要なのである それ 。 で、 「花咲く」 状態よ りも、 「花散る」 状態がーそう動的であって 万葉人の注意をひ き易く 「花 、 、 散る」 よりも 「花散らふ」 状態が時間的であって、 凝視にたえることができたのである 山上憶良 。 - 25 -.

(15) . 土 田. 知 雄. 892 ) に、 このフが多く用いられているのは、 彼が声調を整えるために動詞 の 「貧窮の問答の歌」 ( )彼が人事を写実しようとしたために、 凝視が必要 であったのでは にフを付加したと見るよりも、6. なかろぅか。 ここにも、 単なる枕詞的類型的な修飾語としてではない、 律動的な使用法を見出すの であ る。. かくて、 「山川の 清き河内と」 「花散らふ 秋津の野辺に」 という清新な詞句を中心とする嘱目 発想法による国ばめの部分が、 写実的に活かされている ことは注意すべきで、 それに先行する 「国 、 滝の宮処は 見れど飽かぬか はしも 多にあれども」 と照応して光彩を放っている。 「水ぎらふ も」 は、 宮廷詩人たる彼の自由発想を許された部分であって、 ここにおいて彼は自己の感懐を吐露. して 歌 い収 めて い る。 「見 れ ど飽 か ぬ か も」 は、 次 の 「ま た 還 り見 む」 とと も に、 当 時 に あっ て は、. す こぶる斬新な詞句であったろう。 それゆえ、 後人をしていたく模倣せしめたのである。 1 41 ) に見えるが、 大宝元年の行幸 「また還り見む」 という詞句は、 すでに有間の皇子の作品 ( 10・1 11 11 4 1 91 ) を除けば、 巻7に3首 ( 1 668) と人麻呂を模倣した笠金村の作 ( ぎしての作 ( に従す 3056 )、 巻13に 2 首 (3240・3241) あ っ て、 い ず れ も 口 詞 性の 豊 か な相 聞 歌 .1183)、 巻12に 1 首 ( に 見 出 さ れ る。 こ の こ ともま注 意 す べ き で、 例 組 ま、 かへ. 巻 向 の 痛 足 の 川 ゆ 往 く 水 の 絶 ゆ る こと なく ま た 反 り見 む. 人麻呂歌集. 1100) (. ) 「其処には作者をして永久に忘れかねさせる或る物 トに、7 について、 武田博士は、 川の面白さのタ があらう。 其処に あるのは、 やはり妹ではなかったか。」 と言われたのは、 まことに紙背に徹する 高見と言うべきである。 これらの相聞的契機 から生れた句を、 その親愛の梢とともに自然に移入 し て新しく用いたことは、 当時の人麻呂の同僚たる舎人たち--彼等も宮廷奉仕のため夫婦の同棲 が 自由でな かった一一の喝釆を博したものであろう。 かくて、 これらの作 が、 国ばめ・宮ぼめの伝統 は注目すべきである。 に従いながら、 彼がすでに人事に自然に写実 の先駆をしていることに. このような自然に対する彼の関心は、 38番においてはまったく現御神の呪縛を深くうちかけられ てしまったであろうか。 いかにも、 この長歌における自然への関心は、 律令官人の文学的修飾の陰 に隠れてはいるが、 消失してしまったのではない。 この歌は、 前の長歌に対して どうしても特異性 を示さなければ、 存在の理由を失う。 そこで、 彼は国見の歌、 室ほぎの歌のもっとも古い形式を活 用して発想し、 前の長歌に対比して、 バラエティを与えたのである。 そこに彼の創意が 認{め ら れ る。. なお、 人麻呂は古野の河内を形成する自然の代表として、 前の長歌 で山川を持ち来った。 彼はこ の長歌 で、 吉野の河内の神霊を挙げるのに、 この山川に よっているではないか。 また、 その長歌で 天子の視野に入り来るものは、 やはり一度は作者の注視と選択とのふるいにかけられいて、 そこに 集中 が試みられていることを忘れてはならない。 この歌中にある 「激っ河内」 は、 前の長歌の 「清き河内」 「水ぎらふ 滝の宮処」 に相通ずるも ま、 恐らく人 ′ ので、 吉野の渓流の美をいみじくも表わした詞句といえよう。「激っ河内」 という用例に ) 「河 内 の 語 は、 か く の如 く、 河 を 中 心 と した 麻 呂の 創始 で あ ろ う。 こ れ につ い て、 武 田 博 士 は、 8. 一帯の地をいうと推考されるが、 それは地図の上でいうような概念的な言い方ではない。 河のほと りに立って四顧する時に、 初めて河内の語が使用される。 ………河を中心としてこの語が使用され る時に、 その風光に対する愛情が、 この語の表現の中に存在 していることを見逃してならないので 9 あ る。」と 説 か れ た。 集中、 万 葉 人 は 自 然 の 「消 さ」 の美 を い た く 感 じて い るが、 ) そ の 中も っ とも. 多い のは水辺の風物である。 ことに紺青の渓 流に咲き散る 「白木綿花」 の美 しさには、 圧倒的に感 動 して い る。 人 麻 呂 も 芳 野 の 河 内 の 美 し さ を 表 わす のに、 この 語 を用 い た と い う べ き で ある。 次 の. 「高殿を 高知りまして」 は、 離宮の造営 を意味するとともに、 殿ばめの意がこめられている。 こ -2 6-.

(16) . 柿本人序持 }の吉野讃高歌々 こっいて と の語句は、 古事記に、 「高天の原に氷木高知りて」 、 祈年祭の祝詞に、 「高天の原に千木高知りて」 、. 同 じ祝 詞 に、 「賜 の ヘ高 知 り」 と い うよ う に用 い ら れ て い るが、 こ こ では、 「高 殿」 の 語 の提 示に. よって、 吉野の河内に離宮を 点出し、 「高知る」 との頭韻をきかせるなど、 やはり彼の創意による も の で あろ う。 こ れによ っ て、 離 宮 の 建造を 高 大 に 表 わ す こ と に 成 功 して い る。 「登 り立 ち」 は、. 国見の歌において、 ぜひ必要な伝統的詞句であるが、 上の 「神ながら 神さびせすと」 を受けて、. 天子 の 姿 を 壮 大 に 描 いて 居 り、 他 の国 見 の 歌 にそ の比 を 見 な い と こ ろであ る そ して こ れ ら の詞 。 、. 句は、 後続の呪的発想に相当写実力を付与していることは注意すべきである。 「畳 は る 倭は. 青 垣 山」 は、 す で に 国 ば め歌 に しば しば用 い ら れて い る 詞句 であ る。 国 のま ほ ろ ば た た な づ く 青 垣 山 ご も れ る 倭 し美 し やまと. 1 ) (記3. 淡海は水淳る国、 倭は青垣、 青垣の山投に坐す市辺の天皇が御足末、 奴津らま。 (播磨国風土記) この外にも、 記紀・万葉・出雲国造神賀詞・出雲国風土記等にも用いられていて 大抵回ばめに 、. 用 い られ て い る こ とを 見 て も、 そ れ が 発 生 的 に は 呪 詞 的 な も の で あ る こと が わ か る しか し 人 麻 。 、 f o 呂はノ Tの 清 さ を 白 波 に認 め た と同 じよ 動こ、 山 の 清 さ を 青 垣 山 に 認 めて い るの で ある。 l ) 「白 波」. と 「青垣山」 の清さは、 背景意識に冷覚の存在すること によっても、 相通ずるものである。 かよう に、 人麻呂は、 「青垣山」 を新しい意味に用い、 かつ 「花かざし持ち」 「黄葉かざせり」 の 句 と の. 対比によって、 色彩の対照をさえねらっているのではなかろぅか。 これらの句は彼の明日香の皇女 の挽歌 ( 1 9 6 ) にも 「春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし」 とあるように、 彼の好んだ 詞句で、 これをほめ詞に用 いたのである。 ほめ詞は、 その物の最上最高の状態を将来することを祈 念するので、 どうしても最上最高の状態が類型的に表現され易い。 人麻呂の作品においても、 類型 的 図案 的 な き ら いが な い で も な い が、 天 皇の 視 界 に 入り 来 るも の と して 叙 せ ら れ て い る の で、 一 応. 対象が客観視され、 作者の注視と選択とを経過する結果となっている。 「上っ瀬に 鵜川を立ち 下っ瀬 に 小網さし渡す」 も、 ほぼ同様の傾向がうかがわれる。 この詞章も、 あるい は 「隠り国の 泊 瀬 の川 の. 上 っ瀬に. 斎 代を打 ち. 下 っ瀬 に. ま 機 を 打 ち」 (記9 1.万葉3 263 ) の詞 句 に 学 ん だも. の で あろ う か。 た だ、 「斎 状」 「真 紀」 と 同 様 な意 味 の 語 を 反 復 して い るの に、 ここ は 対 句 と して い. るところは、 修辞上の一進歩である。 以上の詞句は、 いずれも・「登り立ち れ て 生動 して 来る。 か く 見 来る と、 こ の 長歌 に お い て も、 「畳 は る. 国見を為せば」 に導か. 青 垣 山」 あ た り か ら、 自 然 の. 描写があるべきところであったろうが、 神霊の奉仕という形式によって表現されたので、 彼の自然 観はその擬人的な誓喉の陰に隠れただけで、 決して呪縛されていないと見るべきであろう。. 註 1) 北山茂夫氏 万葉の低紀 p .45 2) 武田祐吉氏 増訂万葉集全註釈 四 p .62~63 3) 拙稿 古代和歌における微光の美感 (国学院雑誌武田ネ 有吉i 専士古稀記念号) 3 40 4 3~2 ) 石井庄司氏 古典研究記紀篇 p .2 5ノ 「草花ノ散野トッヅケタリ」 (代匠記) 、 「是も枕詞ながら秋の花どもの散るにかけたれは猶活きてあ. 6) 7) 8 ) 9 ). を所の物もてかざりとする事もあれど、 こは猶時のさまをいひしものぞ」(考) り」(桧嬬手)、「; 、「吉 野は真純と花に名ある地なれば即チ花散相てふ詞もて彼処の秋津野の枕詞とせるなり」(古義) 森本治吉氏 万葉集の写生美 (創元社万葉集講座第二巻) p .57~60 2~247 武田祐吉氏 柿本人麻呂 (歴代歌人研究1) p .23 00~lol 同氏 増訂万葉集全註釈 二 p .1 拙稿 前掲書, 「きよし」 と 「きらきらし」 と (本学紀要第4巻第1 号). o l ) 拙稿 前掲書.

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