日本列島における勾玉の生産と流通
著者 湯尾 和広
雑誌名 金大考古
巻 41
ページ 1‑2
発行年 2003‑05‑01
URL http://hdl.handle.net/2297/2907
金 沢 大 学 考 古 学 研 究 室 2003年 5月 1日
金 大 考 古 第 4 1 号
「日本列島における勾玉の生産と流通」
修士論文概要
「西アジアにおける中央ユーラシア型服飾の研究」 湯尾 和広
古来より、日本列島では装身具の 1つとして勾玉を使用した。それも 約1千年以上という驚くべき長い期 間の中で製作し使用し続けられてい る。勾玉は装身具としての機能にと どまらず、威信財としての一面を持 ち合わせていることも注目すべき点 である。しかし、これまでの研究、
特に弥生〜古墳時代にかけての副葬 品研究の中にあって、勾玉をはじめ
とした玉類に関しての研究はあまり 三雲南小路遺跡の勾玉 柳生 俊樹
本論は、中央ユーラシア草原地帯の服飾文化が、西アジア 地域に伝播し、普及・定着していく過程に関する基礎的研究 である。草原地帯特有の衣服は、長袖で丈の短い上衣とズボ ンの組み合わせが基本であり、現在の「洋装」の原型と考え られているものである。本論では、上衣とズボン、それらに 伴う靴・外套・帯、その他装身具などの服飾品を、「中央ユ ーラシア型服飾」と総称し、分析の対象とする。
本論において、「西アジア伝播」が注視されるのは、以下 の理由による。すなわち、西アジアにおいては、東アジアや ヨーロッパに先駆けて、中央ユーラシア型衣服が導入され、
やがて正装化される。このことは、中央ユーラシア型衣服を 洋服の原型とする観点からは、その後、洋服が世界を席巻す ることの第一段階に他ならない。したがって、西アジア伝播 に関する体系的な研究が、まず重要となるのである。
進展していないというのが現状である。
本論では勾玉の形態に基づく分類案の提示を行い、その上で 縄文時代〜古墳時代前期にかけて遺跡から出土する勾玉の分 布状況からの地域性を見出し、また古墳時代において多様な 素材で作られる勾玉の組み合わせ関係から、勾玉生産と流通 状況の復元を行うとともに当時の社会状況の一端を再構築す ることを目的としたものである。
本論の内容は、1)中央ユーラシア草原地帯と西アジアにお ける服飾に関する資料を集成・分析し、その上で、2)西アジ アにおける中央ユーラシア型服飾の普及の背景について若干 の考察を加える、というものである。結論を略述すれば、以 下のようになる。
勾玉の形態分類は、頭部形態・尾部形態・胴部断面・穿孔 方法・大きさ・くびれ比率の6要素を用いて素材別に編年案 を提示し、各要素の変遷をもとにして素材ごとに段階を設定 した。その結果、各素材ともほぼ古墳前期後半と古墳後期前 半に画期を迎えることがわかる。古墳前期後半の画期は、そ れまで地域ごとにより独特の形態をとっていたものが日本列 島全域で均一の形態を示すようになるとともに、メノウ・水 晶など新たな素材の勾玉が登場する時期である。また古墳後 期の画期については製作技法面から追うことができ、特に蛇 紋岩・滑石および碧玉・メノウにおいては、古墳後期前半以 降の形態の変化を製作技法の省力化という側面で捉えること ができた。
西アジアにおける中央ユーラシア型服飾の諸要素を個別に 観察すると、パルティア時代に多様化が認められる。例えば、
上着形式における左衽(中央ユーラシア系)と丸首(西アジ ア系)の併存、ギリシア・ローマ系要素(e.g. マント)との 結びつき、などである。
このような「多様化」は、西アジアにおける普及と正装化 の背景についての、これまでの漠然とした理解(パルティア
=遊牧民の侵入による)に若干の修正を迫るものである。つ まり、草原地帯の服飾文化が、そのままの形で西アジアに持 ち込まれただけではないことを想定させるのである。
そこで、本論においては、パルティア時代における戦車の 衰退と騎兵の役割の増大、さらに、騎馬像(帝王騎馬像)の 流行に注目した。このことは、車行に対する騎行の「優位化」
を反映するものであろう。そして、新たに中央ユーラシア型 服飾の普及とのパラレルな展開を指摘した。実は、その騎行 の「優位化」に、「普及」を理解するためのポイントがある と考える。つまり、中央ユーラシア型服飾の普及(乗馬用衣 装→正装)に当たって、このような馬文化の変容(車行→騎 行)が、大きな要因の一つとなったのではないか。それが、
本論における結論であり、問題提起である。
各地の遺跡から出土する勾玉を素材・時期別に変遷を追っ ていくと次のような流れを捉えることができる。まず縄文〜
弥生時代の勾玉はヒスイ・滑石を主体とするが、地域性を強 く持っている。古墳時代に入り、列島的な流通が行われるよ うになるが、古墳後期前半を画期として2つの様相に分ける ことができる。その前半期は中部近畿を中心として各周辺地 域に勾玉が分布する状況がみることができ、素材別には前期 後半〜中期前半にかけてはヒスイ・滑石・碧玉、中期後半に はメノウ・ガラスがそうした流通形態の主体となっていた。
古墳後期以降になると、それまで分布の中心であった中部近
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畿で勾玉の出土例が減少し、各地域で素材を選択した様相が 捉えられるようになり、流通形態に変化が生じたと考えた。
古墳後期における流通の変化は製作技法にも影響を与え、
結果として碧玉・メノウなどを製作していた出雲玉作遺跡周 辺では大量生産化が加速的に進み、製作技法の省力化・工程 の省略といった形で勾玉未成品に表れてくるものと理解する に至った。
卒業論文概要
「縄文時代後・晩期の信越地方における土製耳飾りについて」
江口 麻美 縄文時代にはさまざまな装身具が存在した。その中の一 つに「土製耳飾り」と呼ばれるものがある。この土製耳飾り は、現在のピアスのように耳朶に穿孔を施して装着するもの であると考えられている。またこの遺物は、縄文時代後期に は盛んに製作されるようになり晩期には最盛期を迎える。そ して中には、精巧な透かし彫りが施された華麗な耳飾りも存 在している。
この土製耳飾りは主に関東・中部地方で多く出土している。
本論では、新潟県の中郷村籠峰遺跡においても大量の耳飾り が出土していることに注目し、新潟県上越・中越地方と長野県 の主に北信地方を対象として30遺跡775点の耳飾りを集成し、
この地方における土製耳飾りの特徴を指摘した。
耳飾りの分析に際しては、設楽博巳と金成南海子・宮尾亨 の分類を元に一部に改定を加え、形態と文様から分類を行い、
中でも特徴的なものを類型として設定した。その結果、11種 類の類型が設定できた。さらにもう一点、耳飾りの着用に関 わる要素として直径があげられる。そして直径については1cm 刻みで耳飾りを分け、その傾向を探った。
その結果、(1)土製耳飾りは、河川周辺の遺跡で多く出土し ている。しかしその出土点数には2,3点から1000点まで、
遺跡間で大きな差がある。(2)信越地方の耳飾りは1cm〜2cm 台の小型のものが多く、そのピークは2cm台である。さらに、
サイズが大きくなるほど各サイズでの点数は減少していく。
(3)設定した類型の中には、特定の地域にのみみられるタイプ があり、またそれぞれの類型にはサイズの偏りがみられる。
といった特徴が明らかになった。
そしてサイズの大きな耳飾りは、少ないながらもそれぞれ の遺跡に存在しているが、その数が限られることから、大き な耳飾りの着用は、限られた人物のみができたと考えられる。
4本の骨を採り上げる。この遺物は墓の中から発見されたも のであり、精巧な彫刻が施されていた。そのデザインはオル メカ文化・イサパ文化・サポテカ文化という3つの文化の美術 様式から影響を受けていると言われている。その3つの文化間 の関係について考察を進め、この骨に彫刻が施された時期を 絞り込むことを試みた。
第1章では、チアパ・デ・コル また籠峰遺跡周辺においては、関東地方でみられる華やか
な花弁様の耳飾り(本論の類型では11類にあたる)よりも、
この地域独特の耳飾りとして3類の耳飾りと、8類や10類の 耳飾りが使用されていたと考えられる。また7類の「工字文」
様の中には、地域性がみられた。さらに、10類の耳飾りは中 越地方から北信地方全域にいたるまで、最も広い範囲に分布 していることが明らかになった。
これらの類型から、信越地方には独自の「耳飾り文化」と いえるものが存在していたと考えられる。それは戸沢充則が 想定しているような、1県単位ぐらいの「宗教センター」が
存在したことを示しているのかもしれない。そして「耳飾り 文化」の影響は、信越地方の特に籠峰遺跡周辺において強く 及んでいたと考えられるのである。
籠峰遺跡出土の耳飾り
チアパ・デ・コルソ出土の彫刻の施された大腿骨について」
マヤ地域を含むメソアメリカ地域は多様な環 状
な量の文字資料が残されているにもかかわ ら
いて1957年に発見され た
ソの遺跡を紹介し、発見さ れ
整理した。ほとんどの研究 者
化の特徴について、それぞれの文化を 代
「
太田 真琴 境がモザイク に入り組んでいることから非常に多様な動物相・植物相が 存在し、また、多様な自然環境に応じて様々な鉱物資源が散 在している。そのような環境の多様性から資源の偏りが生ま れ、必然的にメソアメリカ各地での長距離交易を促したと考 えられている。
ところが、膨大
ず、メソアメリカにおける交易を含む経済活動の記録はい っさい残されていない。そのため、メソアメリカのかつての 経済活動・交易ルートを知るには、地域ごとやそれぞれの文 化の特徴を持った遺物の観察・研究に頼ることになる。現在 まで多くの研究者によってそういった研究・分析が行われ、
どういった範囲にどのようなタイプの交易品が流通していた のか、当時の交易ネットワークはどのような範囲に及んでい たのかが明らかになってきている。
本稿では、チアパ・デ・コルソにお
た4本の骨のうち彫刻が施されている2本の骨のデザインを 構成要素ごとに簡単に纏めた。
第2章では、先行研究について
は彫刻が施された骨の用途や図像そのものについて着目し ているが、その彫刻が施された時期についてはあまり述べて いないようである。
第3章では、3つの文
表する都市遺跡と共に記した。これらの都市遺跡が存在し た時期が、チアパ・デ・コルソの彫刻骨作成時期と重なると 考えられる。
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