109
「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ
杉 本 武
(日本語学)
1.はじめに 2.完結性
3.「てしまう」の意味 3.1. 過程の完結 3.2. 無意志化
3.3.モダリティ的意味
4.アスペクト的意味とモダリティ的意味 5.おわりに
1.はじめに
「てしまう」は、「完結相」とでも言うべきアスペクト的意味を持つ。
(1)その本を 読んでしまった。
また、よく知られた事実であるが、次の場合のように、アスペクト的意味とは 異なった、「実現した事態は悔やむべきものである」というような意味を持つ
こともある。
(2)太郎は 死んでしまった。
これは、話者による事態の把握のしかたを表しているという点で、モダリティ 的意味と言うことができる。仁田(1989)は、「テンスは、言表事態と言表態 度との分水嶺的存在である(p.1)」と述べている。これは、テンスを表す
「た」がモダリティ的意味を持つ場合があることによく現れているが、同様な
ことが、アスペクトである、この「てしまう」にも言えるのである。
それでは、なぜ「てしまう」には、アスペクト的意味を持つ場合とモダリテ ィ的意味を持つ場合とがあるのだろうか。本論では、この問題に解明を与えた い。そのために、まず、井上(1976)において「てしまう」に関わる動詞の特 徴とされている「完結性」について見ていくことにする。また、高橋(1969)、
吉川(1971)では、「てしまう」の意味・用法についての包括的な分析がなさ れているが、次に、これを参考にしながら、「てしまう」の意味について考え ていきたい。
なお、本論では、とりあえず、(1)のようにモダリティ的意味を持たない
「てしまう」を「完結相」の「てしまう」、(2)のようにモダリティ的意味を持 つ「てしまう」を「実現相」の「てしまう」1)と呼ぶことにする(「完結相」
「実現相」という用語は、井上(1976)に倣った)。
一 2.完結性
井上(1976)では、「てしまう」は、動詞が[+完結]というアスペクト素性
(以下、単に「特徴」と言う)を持つ場合に完結相または実現相を表し、そう でない場合は実現相のみを表すとされている。例えば、次のような動詞が[+
完結]という特徴を持つ(井上(1976:150))。
(3)読む、作る、散る、染める、植える、切る
さらに、この[+完結]という特徴は、動詞が[一状態,+動作,+継続]という 特徴を持つ場合(つまり動作動詞かつ継続動詞の場合)に限り持つ(cf.井上
(1976:150))。また、井上(1976:155)によると、「終わる」も[+完結]という 特徴を持った動詞に接続して、完結相を表すとされている。ところが、この
[±完結]という特徴には問題もある。まず、次の文を見てみたい。
(4)a. この単語帳に出ている単語を 覚えてしまった。
b. この単語帳に出ている単語を 覚え終わった。
この「覚える」は、井上(1976)では挙げられていないが、[+動作]という特
徴を持っているとは考えられない(つまり[+完結]という特徴を持ち得ない)
「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ 111 が、完結相を表し得る。また、次の「忘れる」も、「覚える」と同様、[+動 作]という特徴を持っているとは考えられないが、完結相を表し得る。
(5)a.嫌なことは 全部 忘れてしまった。
b.*嫌なことは 全部 忘れ終えた。
また、[一完結]の動作動詞でも、「てしまう」が接続して完結相を表す場合 がある。
(6)a.窓ガラスを 割ってしまった。 (実現相)
b. 鏡餅を 全部 割ってしまった。 (完結相)
「割る」は瞬間動詞で、したがって[+完結]という特徴を本来持ち得ない。そ のため、(6a)は実現相を表す。しかし、(6b)のように、動作が反復して行わ れる場合は、完結相を表し得る。これは、反復によって、瞬間動詞が継続動詞 化するためであると考えられ、井上(1976:155)は、このようなものを「反復 完結相」と呼んでいる62)
ところが、この反復完結相の存在は、動作の反復によって動詞が継続動詞化 することに負っているわけである。(4)(5)のような例とも考え合わせると、完 結相の成立に井上(1976)の言う意味での[±完結]という特徴が、果たして一 次的に関わっているのか、疑問が生じてくる。井上(1976:150)では、[一完 結]の継続動作動詞として次のような動詞が挙げられている。
(7)降る、荒れる、待つ、働く、さわぐ、踊る、通る
井上(1976)は「完結性」に関して詳しい説明はしていないが、(7)の[一完 結]の動詞の中には、「終わる」は接続するが、完結相の「てしまう」は接続し ないものがある。
(8)a.雨が 降り終わった。
b. 雨が 降ってしまった。 (実現相)
(9)a.花子は 踊り終わった。
b. 花子は 踊ってしまった。 (実現相)
これとは逆に、先の(5)では、「終える」が接続しない動詞に完結相の「てしま
う」が接続している。このように、「てしまう」と「終わる」とでは、同じ特
徴が関わっているとは言えないようである13)さらに注目されるのは、(9)と同 じ「踊る」でも、次のような場合は完結相の「てしまう」が接続し得ることで
ある。
(10)花子は その踊りを 踊ってしまった。 (完結相)
さらに、この完結性に関して注目されるのは、(3)と(7)を比べてみると、
[+完結]の動詞には他動詞が多く、[一完結]の動詞には自動詞が多いことであ る。この観点から見ると、(9b)と(10)の違いも、「踊る」を自動詞として用い るか、他動詞として用いるかの違いであるとも考えられる。
完結相の「てしまう」が接続するには、最低限、動詞に継続性が必要である ことは確かであるが、完結相と実現相の違いを生む動詞の特徴に関しては、再 考が必要であろう。これに関しては、3.1.で取り上げる。
3.「てしまう」の意味
さて、これまでは、「てしまう」には、完結相と実現相の二つの場合がある としてきた。これに対して、高橋(1969)、吉川(1971)では「てしまう」の 意味・用法の包括的な分析がなされており、さらに細かい分類がなされている。
まず、高橋(1969)、吉川(1971)の分析を概観しておきたい。両者では、
次のような分類がなされている(なお、高橋(1969)の「実現」は本稿の「実 現相」とは異なるものである)。
(11) 高橋(1969:131f.)
i) 〔終了〕うごきがおわりまでおこなわれることをあらわす。
ii) 〔実現〕過程のおわりとしておこなわれる動作が実現する。
iii) 〔期待外〕予期しなかったこと、よくないことが実現すること をあらわす。
(12) 吉川(1971:228)
i)ある過程を持つ動作がおしまいまで行なわれることをあらわす。
ii)積極的に動作に取り組み、これをかたづけることをあらわす。
「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ 113 iii)ある動作・作用が行なわれた結果の取りかえしがつかないとい う気持ちをあらわす。
iv)動作が無意志的に行なわれることをあらわす。
v)不都合なこと、期待に反したことが行なわれることをあらわす。
両者の分析はほぼ次のように対応すると考えられる(c£吉川(1971:232))。
(13) 「てしまう」の分類の対照
高橋(1969) i) ii) iii)
吉川(1971) i) ii)iii) iv)V)
なお、本稿では、吉川(1971)のi)ii)を完結相、 iii)iv)v)を実現相と考え
る。
吉川(1971)は、高橋(1969)などの分析にふれて次のように述べている。
(14) 「してしまう」におけるアスペクト的側面とムード的側面との関係 は微妙なので、人によっていろいろな分け方が出てくるのである
(p.232)」
つまり、「てしまう」の分析には、アスペクト的意味とモダリティ的意味の関 係が大きく関わってくるのである。
以下では、これらの分析を参考にしながら、「てしまう」の意味について考 えていきたい。
3.1. 過程の完結
高橋(1969)では、本稿の完結相にあたるものを「終了」と「実現」の二種
L
類の用法に分けている。また、吉川(1971)においても、同様な分類がなされ ている。吉川(1971)では、この「終了」に相当するものとして「ある過程を 持つ動作がおしまいまで行なわれること(p.228)」、「実現」に相当するものと
して「積極的に動作に取り組み、これをかたづけること(p.228)」という意味
を挙げている。両者の例として、次のようなものが挙げられる((16)は、吉川
(1971:234)で挙げられている例である)。
(15)手紙を 書いてしまった。 (終了)
(16) かきの木を 切ってしまうんだってよ。 (実現)
これに関して重要な役割を果たすのは、動作が「過程」を表すかそうでない かということである。吉川(1971)では、「過程」を表す動詞に「てしまう」
が接続すると、「終了」の意味になるが、「過程」を表さない動詞に完結相の
「てしまう」が接続すると、「実現」の意味になるとされている。さらに、吉 川(1971)は、「過程」を表さない動詞の場合について次のように述べている。
(17) 「3.1では、一つの過程が問題になったが、ここでは、一連の動作 が問題になるのである。一連の動作とは、いくつかの動作の連なった ものを言う。その一連の動作を一つの大きな過程と考えれば3.1での 説明がここにもあてはまる。一連の動作の最後の段階が行なわれると いうことは、大きな過程のおわりの部分が行なわれるということだか らである。(p.234)」
つまり、アスペクト的意味を持つ「てしまう」は、過程としての動作の最後の 部分に着目するわけであるが、動作が過程ではない場合、その動作に過程とし ての性質を与え、「実現」の意味になるということである。なお、文脈などか ら過程としての性質が与えられなかった場合は、「てしまう」は実現相の意味 になる。この点で、「終了」も「実現」も、完結相の下位類であると言うこと ができよう。
この「過程性」ということは、2.で見た、動詞の特徴としての「継続性」あ るいは「完結性」を思い出させる。動作が過程であるためには、動詞は継続性 を持たなければならないであろう。また、過程性は、井上(1976)の言う完結 性に近い概念でもあるようだ。
高橋(1969)では、「終了」を表す「てしまう」が接続する動詞に関して、
「進行性の継続動詞は、動きの量や位置がきまっているばあいに、この意味が 実現する(p.131)」と述べ、次のような例を挙げている。
(18)ぶらぶらしているうちに 一週間ほど たってしまった。
「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ 115
(19)それだけ はしってしまった 人は こちらへきなさい。
また、2.で述べたように、瞬間動詞であっても、動作が反復される場合は、完 結相(反復完結相)を表すことができる。これは、本来瞬間白な動作が過程性
を得るということであろう。
(20)答えが 全部 わかってしまった。
(21)a. ドアを 全部 閉めてしまった。
しかしながら、次の例のように、単に動作が反復するだけでは完結相を表すこ とはできない。
(21)b. ドアを 次々と 閉めてしまった。 (実現相)
この場合、動作が反復し、継続性を得ているが、完結相ではなく実現相を表す。
(21)に見られる現象は、「ている」の「反復進行相」(cf.杉本(1988))とは 異なるものである。
(22)a. ドアを 全部 閉めている。 (結果相)
b. ドアを 次々と 閉めている。 (反復進行相)
「ている」の場合は、単に動作が反復していさえすれば、反復進行相を表すこ とができるのである。
これらの点から、(20)(21a)のような文の成立には、「反復」が一次的に関与 しているのではないと考えられる。したがって、これを単純に「反復完結相」
と呼ぶことは妥当ではないだろう。
それでは、「過程性」あるいは「完結性」というものは、一体何なのであろ うか。ここで、2.の(9b)(10)の文を振り返ってみたい(次に再掲する)。
(23)a.花子は 踊ってしまった。 (実現相)
b.花子は その踊りを 踊ってしまった。 (完結相)
同じ「踊る」でも、(23b)は完結相の意味になるが、(23a)は完結相の意味に はなりにくい64)この違いはどうして生じるのであろうか。二つの文で異なる のは、「踊り」という(同族)目的語をとっているか否かの違いだけである。
これは、「踊りを踊る」といった場合、その動作をひとまとまりのものとして
捉えているということではないだろうか。単に「踊る」といった場合には、ま
とまりのない動作であるが、「踊りを踊る」といった場合、「何かの踊り」とい う、あるまとまった動作になる。この違いが、完結相になるかならないかを決 めているのではないだろうか。
この違いは、(21a)と(21b)にも認められる。「次々と閉める」という動作は、
まとまりのない動作であるが、「全部閉める」という動作は、ひとまとまりの 動作になる。また、(18)(19)が完結相として成立することにも、このひとまと
まりの動作という点が関与していると考えられる。
このように、完結相の成立には、「ひとまとまりの動作玉5)という点が関与し ていることがわかったが、このことを井上(1976)の完結性の動詞についてみ てみよう。井上(1976)では、[+完結]という特徴を持つ動詞として次のよう なものが挙げられている((3)を再掲する)。
(24)読む、作る、散る、染める、植える、切る
例えば、次の文の場合、「その本」という、動作の及ぶ範囲を限定する目的語 があり、そのため、ひとまとまりの動作を表し、完結相の意味になる。
(25)a.太郎は その本を 読んでしまった。
しかし、同じ「読む」であっても、次のような場合、動作にまとまりがないの で、完結相の意味にはなりにくく、通常、実現相の意味になる。
(25)b.太郎は 一日中 何かを 読んでしまった。
また、動作の及ぶ範囲を限定する目的語が存在しなくても、完結相の意味にな る動詞もある。
(26)桜が散ってしまった。
この場合は、「桜」の木全体という動作のまとまりが存在する。
それでは、[一完結]の動詞の場合はどうであろうか((7)を再掲する)。
(27)降る、荒れる、待つ、働く、さわぐ、踊る、通る
これらの動詞の場合、普通はひとまとまりの動作は表さない。しかし、先の
「踊る」の例((23))のように目的語をとれば、動作の及ぶ範囲が限定され、
完結相を表すことができる。あるいは、目的語をとらなくても、何か、動作の
及ぶ範囲を限定する修飾句がつけば、完結相を表すことができる(次の「一日
「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ 117 中」と「ノルマ分」の違いに注目されたい。)
(28)a.太郎は 一日中 働いてしまった。 (実現相)
b.太郎は ノルマ分働いてしまった。 (完結相)
また、「通る」のヲ格名詞句は目的語ではないが、同じように動作の及ぶ範 囲を限定することがある。
(29)a.彼らは 国境線を 通ってしまった。 (実現相)
b.彼らは その橋を 通ってしまった。 (完結相)
(29a)は経由点のヲ格名詞句で、(29b)は経路のヲ格名詞句である。経由点の 場合は、点的であるので、動作の及ぶ範囲を云々することができないが、経路 の場合は、経過が問題になり、動作の及ぶ範囲を限定することができるのであ る。ちなみに、(29a)の場合の「通る」は瞬間動詞であるが、(29b)の場合の
「通る」は継続動詞である。瞬間動詞の場合、動作が点的であるので、そのま までは、ひとまとまりの動作を表し得ないのである。
ところが、次の「待つ」は目的語をとるにもかかわらず、完結相を表し得な
い;6)