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「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ

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109

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ

杉 本   武

   (日本語学)

1.はじめに 2.完結性

3.「てしまう」の意味 3.1. 過程の完結 3.2. 無意志化

3.3.モダリティ的意味

4.アスペクト的意味とモダリティ的意味 5.おわりに

1.はじめに

 「てしまう」は、「完結相」とでも言うべきアスペクト的意味を持つ。

  (1)その本を 読んでしまった。

また、よく知られた事実であるが、次の場合のように、アスペクト的意味とは 異なった、「実現した事態は悔やむべきものである」というような意味を持つ

こともある。

  (2)太郎は 死んでしまった。

これは、話者による事態の把握のしかたを表しているという点で、モダリティ 的意味と言うことができる。仁田(1989)は、「テンスは、言表事態と言表態 度との分水嶺的存在である(p.1)」と述べている。これは、テンスを表す

「た」がモダリティ的意味を持つ場合があることによく現れているが、同様な

ことが、アスペクトである、この「てしまう」にも言えるのである。

(2)

 それでは、なぜ「てしまう」には、アスペクト的意味を持つ場合とモダリテ ィ的意味を持つ場合とがあるのだろうか。本論では、この問題に解明を与えた い。そのために、まず、井上(1976)において「てしまう」に関わる動詞の特 徴とされている「完結性」について見ていくことにする。また、高橋(1969)、

吉川(1971)では、「てしまう」の意味・用法についての包括的な分析がなさ れているが、次に、これを参考にしながら、「てしまう」の意味について考え ていきたい。

 なお、本論では、とりあえず、(1)のようにモダリティ的意味を持たない

「てしまう」を「完結相」の「てしまう」、(2)のようにモダリティ的意味を持 つ「てしまう」を「実現相」の「てしまう」1)と呼ぶことにする(「完結相」

「実現相」という用語は、井上(1976)に倣った)。

一   2.完結性

 井上(1976)では、「てしまう」は、動詞が[+完結]というアスペクト素性

(以下、単に「特徴」と言う)を持つ場合に完結相または実現相を表し、そう でない場合は実現相のみを表すとされている。例えば、次のような動詞が[+

完結]という特徴を持つ(井上(1976:150))。

  (3)読む、作る、散る、染める、植える、切る

さらに、この[+完結]という特徴は、動詞が[一状態,+動作,+継続]という 特徴を持つ場合(つまり動作動詞かつ継続動詞の場合)に限り持つ(cf.井上

(1976:150))。また、井上(1976:155)によると、「終わる」も[+完結]という 特徴を持った動詞に接続して、完結相を表すとされている。ところが、この

[±完結]という特徴には問題もある。まず、次の文を見てみたい。

  (4)a. この単語帳に出ている単語を 覚えてしまった。

   b. この単語帳に出ている単語を 覚え終わった。

この「覚える」は、井上(1976)では挙げられていないが、[+動作]という特

徴を持っているとは考えられない(つまり[+完結]という特徴を持ち得ない)

(3)

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       111 が、完結相を表し得る。また、次の「忘れる」も、「覚える」と同様、[+動 作]という特徴を持っているとは考えられないが、完結相を表し得る。

  (5)a.嫌なことは 全部 忘れてしまった。

   b.*嫌なことは 全部 忘れ終えた。

 また、[一完結]の動作動詞でも、「てしまう」が接続して完結相を表す場合 がある。

  (6)a.窓ガラスを 割ってしまった。   (実現相)

   b. 鏡餅を 全部 割ってしまった。  (完結相)

「割る」は瞬間動詞で、したがって[+完結]という特徴を本来持ち得ない。そ のため、(6a)は実現相を表す。しかし、(6b)のように、動作が反復して行わ れる場合は、完結相を表し得る。これは、反復によって、瞬間動詞が継続動詞 化するためであると考えられ、井上(1976:155)は、このようなものを「反復 完結相」と呼んでいる62)

 ところが、この反復完結相の存在は、動作の反復によって動詞が継続動詞化 することに負っているわけである。(4)(5)のような例とも考え合わせると、完 結相の成立に井上(1976)の言う意味での[±完結]という特徴が、果たして一 次的に関わっているのか、疑問が生じてくる。井上(1976:150)では、[一完 結]の継続動作動詞として次のような動詞が挙げられている。

  (7)降る、荒れる、待つ、働く、さわぐ、踊る、通る

井上(1976)は「完結性」に関して詳しい説明はしていないが、(7)の[一完 結]の動詞の中には、「終わる」は接続するが、完結相の「てしまう」は接続し ないものがある。

  (8)a.雨が 降り終わった。

   b. 雨が 降ってしまった。   (実現相)

  (9)a.花子は 踊り終わった。

   b. 花子は 踊ってしまった。  (実現相)

これとは逆に、先の(5)では、「終える」が接続しない動詞に完結相の「てしま

う」が接続している。このように、「てしまう」と「終わる」とでは、同じ特

(4)

徴が関わっているとは言えないようである13)さらに注目されるのは、(9)と同 じ「踊る」でも、次のような場合は完結相の「てしまう」が接続し得ることで

ある。

  (10)花子は その踊りを 踊ってしまった。  (完結相)

 さらに、この完結性に関して注目されるのは、(3)と(7)を比べてみると、

[+完結]の動詞には他動詞が多く、[一完結]の動詞には自動詞が多いことであ る。この観点から見ると、(9b)と(10)の違いも、「踊る」を自動詞として用い るか、他動詞として用いるかの違いであるとも考えられる。

 完結相の「てしまう」が接続するには、最低限、動詞に継続性が必要である ことは確かであるが、完結相と実現相の違いを生む動詞の特徴に関しては、再 考が必要であろう。これに関しては、3.1.で取り上げる。

3.「てしまう」の意味

 さて、これまでは、「てしまう」には、完結相と実現相の二つの場合がある としてきた。これに対して、高橋(1969)、吉川(1971)では「てしまう」の 意味・用法の包括的な分析がなされており、さらに細かい分類がなされている。

 まず、高橋(1969)、吉川(1971)の分析を概観しておきたい。両者では、

次のような分類がなされている(なお、高橋(1969)の「実現」は本稿の「実 現相」とは異なるものである)。

  (11) 高橋(1969:131f.)

    i) 〔終了〕うごきがおわりまでおこなわれることをあらわす。

    ii) 〔実現〕過程のおわりとしておこなわれる動作が実現する。

    iii) 〔期待外〕予期しなかったこと、よくないことが実現すること      をあらわす。

  (12) 吉川(1971:228)

    i)ある過程を持つ動作がおしまいまで行なわれることをあらわす。

    ii)積極的に動作に取り組み、これをかたづけることをあらわす。

(5)

        「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       113     iii)ある動作・作用が行なわれた結果の取りかえしがつかないとい      う気持ちをあらわす。

    iv)動作が無意志的に行なわれることをあらわす。

    v)不都合なこと、期待に反したことが行なわれることをあらわす。

両者の分析はほぼ次のように対応すると考えられる(c£吉川(1971:232))。

  (13) 「てしまう」の分類の対照

高橋(1969) i) ii) iii)

吉川(1971) i) ii)iii) iv)V)

なお、本稿では、吉川(1971)のi)ii)を完結相、 iii)iv)v)を実現相と考え

る。

 吉川(1971)は、高橋(1969)などの分析にふれて次のように述べている。

  (14) 「してしまう」におけるアスペクト的側面とムード的側面との関係     は微妙なので、人によっていろいろな分け方が出てくるのである

    (p.232)」

つまり、「てしまう」の分析には、アスペクト的意味とモダリティ的意味の関 係が大きく関わってくるのである。

 以下では、これらの分析を参考にしながら、「てしまう」の意味について考 えていきたい。

3.1. 過程の完結

 高橋(1969)では、本稿の完結相にあたるものを「終了」と「実現」の二種

L

類の用法に分けている。また、吉川(1971)においても、同様な分類がなされ ている。吉川(1971)では、この「終了」に相当するものとして「ある過程を 持つ動作がおしまいまで行なわれること(p.228)」、「実現」に相当するものと

して「積極的に動作に取り組み、これをかたづけること(p.228)」という意味

を挙げている。両者の例として、次のようなものが挙げられる((16)は、吉川

(6)

(1971:234)で挙げられている例である)。

  (15)手紙を 書いてしまった。       (終了)

  (16) かきの木を 切ってしまうんだってよ。  (実現)

 これに関して重要な役割を果たすのは、動作が「過程」を表すかそうでない かということである。吉川(1971)では、「過程」を表す動詞に「てしまう」

が接続すると、「終了」の意味になるが、「過程」を表さない動詞に完結相の

「てしまう」が接続すると、「実現」の意味になるとされている。さらに、吉 川(1971)は、「過程」を表さない動詞の場合について次のように述べている。

  (17) 「3.1では、一つの過程が問題になったが、ここでは、一連の動作     が問題になるのである。一連の動作とは、いくつかの動作の連なった     ものを言う。その一連の動作を一つの大きな過程と考えれば3.1での     説明がここにもあてはまる。一連の動作の最後の段階が行なわれると     いうことは、大きな過程のおわりの部分が行なわれるということだか     らである。(p.234)」

つまり、アスペクト的意味を持つ「てしまう」は、過程としての動作の最後の 部分に着目するわけであるが、動作が過程ではない場合、その動作に過程とし ての性質を与え、「実現」の意味になるということである。なお、文脈などか ら過程としての性質が与えられなかった場合は、「てしまう」は実現相の意味 になる。この点で、「終了」も「実現」も、完結相の下位類であると言うこと ができよう。

 この「過程性」ということは、2.で見た、動詞の特徴としての「継続性」あ るいは「完結性」を思い出させる。動作が過程であるためには、動詞は継続性 を持たなければならないであろう。また、過程性は、井上(1976)の言う完結 性に近い概念でもあるようだ。

 高橋(1969)では、「終了」を表す「てしまう」が接続する動詞に関して、

「進行性の継続動詞は、動きの量や位置がきまっているばあいに、この意味が 実現する(p.131)」と述べ、次のような例を挙げている。

  (18)ぶらぶらしているうちに 一週間ほど たってしまった。

(7)

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       115

  (19)それだけ はしってしまった 人は こちらへきなさい。

また、2.で述べたように、瞬間動詞であっても、動作が反復される場合は、完 結相(反復完結相)を表すことができる。これは、本来瞬間白な動作が過程性

を得るということであろう。

  (20)答えが 全部 わかってしまった。

  (21)a. ドアを 全部 閉めてしまった。

しかしながら、次の例のように、単に動作が反復するだけでは完結相を表すこ とはできない。

  (21)b. ドアを 次々と 閉めてしまった。 (実現相)

この場合、動作が反復し、継続性を得ているが、完結相ではなく実現相を表す。

(21)に見られる現象は、「ている」の「反復進行相」(cf.杉本(1988))とは 異なるものである。

  (22)a. ドアを 全部 閉めている。  (結果相)

    b. ドアを 次々と 閉めている。 (反復進行相)

「ている」の場合は、単に動作が反復していさえすれば、反復進行相を表すこ とができるのである。

 これらの点から、(20)(21a)のような文の成立には、「反復」が一次的に関与 しているのではないと考えられる。したがって、これを単純に「反復完結相」

と呼ぶことは妥当ではないだろう。

 それでは、「過程性」あるいは「完結性」というものは、一体何なのであろ うか。ここで、2.の(9b)(10)の文を振り返ってみたい(次に再掲する)。

  (23)a.花子は 踊ってしまった。       (実現相)

    b.花子は その踊りを 踊ってしまった。  (完結相)

同じ「踊る」でも、(23b)は完結相の意味になるが、(23a)は完結相の意味に はなりにくい64)この違いはどうして生じるのであろうか。二つの文で異なる のは、「踊り」という(同族)目的語をとっているか否かの違いだけである。

これは、「踊りを踊る」といった場合、その動作をひとまとまりのものとして

捉えているということではないだろうか。単に「踊る」といった場合には、ま

(8)

とまりのない動作であるが、「踊りを踊る」といった場合、「何かの踊り」とい う、あるまとまった動作になる。この違いが、完結相になるかならないかを決 めているのではないだろうか。

 この違いは、(21a)と(21b)にも認められる。「次々と閉める」という動作は、

まとまりのない動作であるが、「全部閉める」という動作は、ひとまとまりの 動作になる。また、(18)(19)が完結相として成立することにも、このひとまと

まりの動作という点が関与していると考えられる。

 このように、完結相の成立には、「ひとまとまりの動作玉5)という点が関与し ていることがわかったが、このことを井上(1976)の完結性の動詞についてみ てみよう。井上(1976)では、[+完結]という特徴を持つ動詞として次のよう なものが挙げられている((3)を再掲する)。

  (24)読む、作る、散る、染める、植える、切る

例えば、次の文の場合、「その本」という、動作の及ぶ範囲を限定する目的語 があり、そのため、ひとまとまりの動作を表し、完結相の意味になる。

  (25)a.太郎は その本を 読んでしまった。

しかし、同じ「読む」であっても、次のような場合、動作にまとまりがないの で、完結相の意味にはなりにくく、通常、実現相の意味になる。

  (25)b.太郎は 一日中 何かを 読んでしまった。

また、動作の及ぶ範囲を限定する目的語が存在しなくても、完結相の意味にな る動詞もある。

  (26)桜が散ってしまった。

この場合は、「桜」の木全体という動作のまとまりが存在する。

 それでは、[一完結]の動詞の場合はどうであろうか((7)を再掲する)。

  (27)降る、荒れる、待つ、働く、さわぐ、踊る、通る

これらの動詞の場合、普通はひとまとまりの動作は表さない。しかし、先の

「踊る」の例((23))のように目的語をとれば、動作の及ぶ範囲が限定され、

完結相を表すことができる。あるいは、目的語をとらなくても、何か、動作の

及ぶ範囲を限定する修飾句がつけば、完結相を表すことができる(次の「一日

(9)

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       117 中」と「ノルマ分」の違いに注目されたい。)

  (28)a.太郎は 一日中 働いてしまった。   (実現相)

    b.太郎は ノルマ分働いてしまった。 (完結相)

 また、「通る」のヲ格名詞句は目的語ではないが、同じように動作の及ぶ範 囲を限定することがある。

  (29)a.彼らは 国境線を 通ってしまった。  (実現相)

    b.彼らは その橋を 通ってしまった。 (完結相)

(29a)は経由点のヲ格名詞句で、(29b)は経路のヲ格名詞句である。経由点の 場合は、点的であるので、動作の及ぶ範囲を云々することができないが、経路 の場合は、経過が問題になり、動作の及ぶ範囲を限定することができるのであ る。ちなみに、(29a)の場合の「通る」は瞬間動詞であるが、(29b)の場合の

「通る」は継続動詞である。瞬間動詞の場合、動作が点的であるので、そのま までは、ひとまとまりの動作を表し得ないのである。

 ところが、次の「待つ」は目的語をとるにもかかわらず、完結相を表し得な

い;6)

  (30) 太郎は 花子を 待ってしまった。  (実現相)

これは、同じ目的語であっても、この場合、動作の及ぶ範囲を限定しているわ けではないので、完結相を表し得ないのであろう。

 以上の点から、2.で挙げた(4a)の文について見てみよう(次に再掲する)。

  (31) この単語帳に出ている単語を 覚えてしまった。

これは、[+動作]ではないために[+完結]という特徴を持ち得ないにもかかわ らず、井上(1976)の論に反して、完結相を表す動詞である。この場合も、

「この単語帳に出ている単語」という目的語が契機となって、ひとまとまりの 動作を表すようになっているのである。このことから、ひとまとまりの動作と いうことは、[±動作]という特徴とは無関係であると言えよう。

 この「動作の及ぶ範囲の限定」という点から目的語を捉えると、2.で述べた、

[+完結]の動詞には他動詞が多く、[一完結]の動詞には自動詞が多いという観

察もうなづけよう。また、完結相に目的語やある種の修飾句の存在が関与する

(10)

ことから、「てしまう」の意味を制約するのが、[±完結]というような動詞の 特徴に限らないということが言える。森山(1984)の言うように、「動詞句」

の意味によって決定されるわけである。

3.2. 無意志化

 次に、意志性の問題について考えてみたい。森山(1988)は、「意志的な動 作を非意志的な動作としてとらえなおす形式が、シテシマウである(p.221)」

と述べ、さらに、次のような文を挙げ、「失敗動作的に解釈できる(p.221)」

と注釈している。

  (32)私は 太郎のカバンを 汚してしまった。

この文の場合、確かに非意志的(本稿では「無意志的」と言う)であろう。し かし、これは、「てしまう」が実現相を表す場合で、次のように、完結相を表 す場合には、意志的な動作と解釈される。

  (33)私は 宿題を 全部 やってしまった。

このように、「てしまう」が完結相を表すか実現相を表すかによって、意志性 に違いが生じてくるのである。さらに例文を挙げる。

  (34) この本を 読んでしまった。     (完結相)

  (35) 洋服の汚れを 落としてしまった。  (完結相)

  (36) 会社側は 不正を 認めてしまった。 (実現相)

  (37)財布を 落としてしまった。    (実現相)

 いずれも、完結相の場合は意志的であるが、実現相の場合は意志的ではない。

ただし、(34)(35)のような文でも、完結相とともに、実現相の解釈もできる。

その場合には、無意志的な動作となる。もちろん、次のように、本来無意志的 な動詞に「てしまう」が接続した場合は、完結相の解釈でも意志的な動作にな

るわけではない。      へ   (38)花が散ってしまった。

つまり、実現相の場合には、無意志的な動作になるが、完結相の場合、意志性

に関して中立であるということが言える。

(11)

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       119  ただし、ここで区別しなければならないのは、動詞自体の意志性とそれに

「てしまう」が接続した全体の意志性である。例えば、(37)(38)のような文で は、動詞も無意志的であり、それに「てしまう」が接続した全体も無意志的で ある。それに対して、(36)のような文の場合、「認める」という動詞自体は意 志的であるが、それに「てしまう」が接続した全体は意志的とは言えないだろ

う。この意味で、実現相の「てしまう」は、森山(1988)の言うように、「意 志的な動作を非意志的な動作としてとらえなおす形式(p.221)」(傍点筆者)

なのである。

 ここで、(38)に関して注目されるのは、この文は完結相にも実現相にも解釈 できるが、どちらかと言うと実現相の解釈の方が強いということである。類例

を挙げる。

  (39)葉が 全部 落ちてしまった。

  (40)氷が全部 融けてしまった。

いずれの文も「全部」という、動作の及ぶ範囲を限定する修飾句をとっている ので、完結相の解釈を受けることに問題はない。それにもかかわらず、実現相 の解釈が強くなることには、動詞自体の意志性が関係しているのではないだろ うか。つまり、完結相は意志的な動詞と結び付きが強く、実現相は無意志的な 動詞と結び付きが強いのではないだろうか。言い換えると、無意志動詞に「て

しまう」が接続した場合、実現相の解釈が優先されるのではないだろうか。

 ここで思い出されるのは、完結相の「てしまう」の接続する動詞には他動詞 が多く、実現相の「てしまう」の接続する動詞には自動詞が多いという点であ る。もともと、自動詞には無意志動詞が多く、他動詞には意志動詞が多い。こ のことも関連しているのかもしれない。この点については、4.でふれる。

 この動作を無意志化する「てしまう」については、もう一つ注目すべき点が

ある。これまでは、実現相の「てしまう」が無意志化という属性を持つとして

述べてきた。ところが、次の例のように、動作を無意志化する「てしまう」で

あるにもかかわらず、モダリティ的な意味を持たない「てしまう」が存在する

ことである。

(12)

  (41) 出席者は 思わず 口を つぐんでしまった。

  (42)太郎は 驚いて 立ち止まってしまった。

これは、吉川(1971)で「無意志的動作をあらわす「してしまう」」と分類さ れているもので、本来意志的な動詞に接続して無意志化している。ところが、

これらの文は、特にモダリティ的な意味を持っているとは言えない。実現相の

「てしまう」は、動詞を無意志化するが、単に動詞を無意志化するだけの別の

「てしまう」が存在するのであろうか。この問題についても、4.で再び取り上 げたい。

 なお、以下の議論でも、無意志化の「てしまう」を、便宜上、そのまま「実 現相」の「てしまう」と呼ぶことにする。

3.3.モダリティ的意味

 実現相の「てしまう」は、「実現した事態は悔やむべきものである」という ようなモダリティ的意味を持つとされる。ここでは、このようなモダリティ的 意味について考えてみたい。

 このモダリティ的意味は、吉川(1971)では、「ある動作・作用が行なわれ た結果の取りかえしがつかないという気持ちをあらわす」「不都合なこと、期 待に反したことが行なわれることをあらわす」というように記述されている

  

((12)iii)v)を参照)。このモダリティ的意味は、文脈によって様々な形で現 れるであろうが、その根本的な意味とはどのようなものなのであろうか。

 まず、次の文を見てみたい。

  (43)気がつくと あたりは 暗くなってしまっていた。

  (44)彼は 突然 部屋を 出て行ってしまった。

  (45) こっそりと 教室を 抜け出してしまった。

  (46)太郎は 花子を 傷つけてしまった。

  (47)太郎は 花子と次郎が一緒にいるのを 見てしまった。

  (48)大雪で 交通機関が ストップしてしまった。

  (49)風で 書類が吹き飛ばされてしまった。

(13)

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       121

これらの文は、それぞれ何らかのモダリティ的意味を持つが、これらに共通し ているのは、実現した事態が「予想外」のことであったという判断である。そ

して、その中には「驚き」の気持ちが含まれている。

 さて、(43)〜(49)までのような文では、その「予想外」の事態はよくないこ とであったが、必ずしもよくないことに限らない。

  (50)太郎が突然やって来たおかげで 会が 盛り上がってしまった。

  (51)勘があたって 無理と言われていた大学に 合格してしまった。

  (52)思わぬ大きな取り引きをまとめて 課長に 昇進してしまった。

これらの場合、実現した事態は、必ずしもよくない事態ではない。むしろ、よ くない事態を予想していた(あるいは、よい事態を予想していなかった)のに、

それがはずれて、よい事態が実現したということを表している。このような文 の存在から、実現相の「てしまう」のモダリティ的意味を「実現した事態は悔 やむべきものである」とか、「ある動作・作用が行なわれた結果の取りかえし がつかないという気持ちをあらわす」「不都合なこと、期待に反したことが行 なわれることをあらわす」というように一般化してしまうことは妥当ではない だろう。実現相の「てしまう」は、このような価値判断に関しては中立的なの である。

 以上のような点から、本稿では、実現相の「てしまう」の意味を「予想外の 事態が実現する」というように捉えることを提案したい17)これに関しては、

寺村(1984)のように、実現相の「てしまう」を「「その事が起こって、もは や起こる前の状態に戻ることはできない」という心理を表わす(p.153)」とい

うように捉える見方もある。この見方の方が、完結相の「てしまう」とのつな がりを捉えやすいが、(50)〜(52)のような文の場合、元の状態に戻れないとい

うような意識はないであろう。しかしながら、この完結相の「てしまう」との つながりという点は、問題として残る。

4.アスペクト的意味とモダリティ的意味

3.3.では、実現相の「てしまう」のモダリティ的意味について見たが、実現

(14)

相の「てしまう」においては、このようなモダリティ的な意味がどうして生じ るのであろうか。ここでは、この問題について考えてみたい。

 ここで、まず問題になるのは、この実現相の「てしまう」のモダリティ的意 味と意志性の関係である。3.2.で見たように、完結相を表すのではない「てし

まう」は、動詞を無意志化するが、その中にも、モダリティ的意味を持つもの と持たないものがあるわけである。この現象は、どのように解釈したらよいの であろうか。この可能性として、次のようなことが考えられる(以下では、仮 に、モダリティ的意味を持つ「てしまう」をモダリティの「てしまう」、単に 無意志化するだけでモダリティ的意味を持たない「てしまう」を非モダリティ の「てしまう」と呼ぶことにする)。

  (53)i) 「てしまう」には、完結相の「てしまう」、モダリティの「てし      まう」、非モダリティの「てしまう」の三つのものがある。

    ii) 「てしまう」には、完結相の「てしまう」とそうでないもの       (つまり無意志化の「てしまう」)の二つのものがある。

しかし、i)の解釈では、完結相を表すのではない「てしまう」の共通性(無 意志化)を捉えることができない。ここでは、ii)の解釈の可能性について考 えてみたい。

 モダリティの「てしまう」と非モダリティの「てしまう」に共通する点は、

当然、無意志化である。両者を無意志化の「てしまう」と捉え、モダリティ的 意味は、何らかの原因で派生してくるものと考えてはどうだろうか。これに関

しては、モダリティ的意味を持つ「てしまう」に関する吉川(1971)の観察が 注目される。まず、(12)iii)のような「てしまう」に関して、「この場合には、

人の意志的な「動作」よりも、非情物のうごきである「作用」が問題になるこ

とが多い(p.237)」と述べている。また、(12)v)のような「てしまう」に関

しては、「不都合・反期待の意味になりやすい条件として、非情物主体、現在

形が考えられるわけである(p.249)」とも述べている。いずれの場合もモダリ

ティの「てしまう」であるが、非情物主体であることが一つの条件になってい

るわけである。非情物主体の動詞は無意志動詞である。また、「てしまう」が

(15)

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       123 接続して完結相を表す動詞には、意志動詞の多い他動詞が多く、実現相を表す 動詞には、無意志動詞の多い自動詞が多いことも、2.でふれた通りである。こ のことから、「てしまう」のモダリティ的意味が無意志性と関係していること が示唆されよう。

 もちろん、モダリティ的意味を持つ「てしまう」が接続する動詞の中には、

意志動詞もある。

  (54)太郎は 桜の枝を 折ってしまった。

  (55)花子は 太郎と 結婚してしまった。

「折る」も「結婚する」も、本来意志動詞である。しかし、(54)(55)の場合、

完全に意志動詞として用いられているとは言えないであろう。まず、(54)の場 合、ごく自然な解釈は、「太郎は桜の枝を折る」つもりはなかったが、それに 反して「折ってしまった」というものであろう。また、(55)の場合も、意志的

に「結婚する」ということが問題になっているのではなく、「花子が太郎と結 婚した」という事態が起こったことが問題になっていると言えよう。また、い ずれも、意志的な解釈を与えると、完結相の意味に近くなる。

 それでは、なぜ無意志化の「てしまう」から「予想外」というモダリティ的 意味が派生してくるのであろうか。まず、実現相の「てしまう」の基本的な機 能を無意志化であると考えると、無意志動詞にこの「てしまう」が接続した場 合、無意志動詞を無意志化するのは、あまり意味がない。したがって、「てし まう」が接続するには、何らかの別の機能が必要になる。そこで、別の機能が 派生してくるわけであるが、無意志的な行為とは意図的な行為ではない。意図 せずに実現された行為とは、予想外の事態であろう。このようにして、「予想 外」という意味が派生してくるのではないだろうか。

 つまり、言い換えると、実現相の「てしまう」のモダリティ的な機能は、言

わば、無意志化という機能に被せられた機能なのである。「てしまう」におけ

るアスペクト的意味とモダリティ的意味の対立は、本来的なものではなく、見

かけ上のものであると言うことができる。とは言っても、このモダリティ的な

機能が「てしまう」に被さってくるということは、アスペクトが命題よりもモ

(16)

ダリティに近い性質を持つということでもあろう。

5.おわりに

 本稿では、「てしまう」について、アスペクト的意味を持つ場合とモダリテ ィ的意味を持つ場合とを見てきた。その結果、「てしまう」には、完結相と、

無意志化としての実現相があり、この違いは、動作が過程性(8)を持つかどう かに因っていることを示した。さらに、実現相を無意志化という観点から捉え、

実現相においては、動詞の表す動作自体が無意志的である場合、「予想外」と いうモダリティ的意味が派生してくることを示した。以上のことは、次のよう にまとめられる。

これによって、実現相の「てしまう」において、なぜモダリティ的意味が生じ るのかが明らかになった。

 しかし、実現相をアスペクト論の中でいかに位置づけるかは、問題として残 る。アスペクトの different ways of viewing the intemal temporal con.

stituency of a situation(Comrie(1976:3)) という性格づけからは、この実現 相ははずれている。それと共に、アスペクトとしての完結相とこの実現相のつ

ながりも問題になる。さらに、モダリティ的意味を持つ場合と持たない場合の 実現相の「てしまう」の境界に関しても、さらに検討が必要であろう。

 また、本稿でしばしば言及したように、完結相の「てしまう」と実現相の

「てしまう」の違いには、意志性、あるいは自動詞と他動詞の違いとの相関が 見られる。ヴォイスとの関連を検討する必要もあるであろう。さらに、本稿は、

「てしまう」をアスペクトの側から見た分析であったが、逆に、モダリティの

側から見た分析も必要であろう。今後の課題としたい。

(17)

「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ       125

/注/

(1)ただし、のちに、モダリティ的な意味を持たない、無意志化の「てしまう」も実   現相の「てしまう」と呼ぶことになる。

(2) 「反復」については、3.1.で改めて述べる。

(3)本稿では、「終わる」については考察を加えない。

(4) (23a)も、「その踊りを」という目的語を読み込んで解釈した場合は別で、その場   合は完結相の意味になる。

(5) 本稿では、便宜上、「動作」に自動詞的な「作用」も含める。

(6)ある特別な状況においては、次のように、「待つ」に完結相の「てしまう」が接   続することもあるだろう。

    i)太郎は スタッフの全員を 待ってしまった。

  この場合は、「スタッフの全員」という目的語が「待つ」という動作の及ぶ範囲を   限定している。

(7)次の文のような場合、必ずしも、予想外とは言えないかもしれない。むしろ、

  「期待外」と言った方がよい。

    i) 思ったとおり 花子は 太郎と 結婚してしまった。

  これは、「思ったとおり」という文脈の影響はあるが、反例として残る。

(8) 「過程」という用語で「ひとまとまりの動作」ということを表すことにする。

/参考 文 献/

Comrie, Bernard(1976),.4功εcちCambridge University Press.

井上和子(1976)『変形文法と日本語(下)』、大修館書店 金田一春彦(編)(1976)『日本語動詞のアスペクト』、むぎ書房

杉本武(1988)「「動詞+テイル」の表すアスペクトについて」、『論集ことば』刊行会  (編)(1988)、pp.101−115

高橋太郎(1969)「すがたともくろみ」、金田一春彦(編)(1976)、pp.117−153 寺村秀夫(1984)『日本語のシンタクスと意味n』、くろしお出版

仁田義雄(1989)「現代日本語文のモダリティの体系と構造」、仁田義雄・益岡隆志  (編)(1989)、pp.1−56

仁田義雄・益岡隆志(編)(1989)『日本語のモダリティ』、くろしお出版

森山卓郎(1984)「アスペクトの意味の決まり方について」、『日本語学』3:12、

 pp.70−84

   (1988)『日本語動詞述語文の研究』、明治書院

吉川武時(1971)「現代日本語動詞のアスペクトの研究」、金田一春彦(編)(1976)、

 pp.155−327

『論集ことば』刊行会(編)(1988)『論集ことば』、東京都立大学人文学部国文研究

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126     杉本 武

室(くろしお出版)

参照

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