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「てしまう1におけるアスペクトとモダリティ(2)*

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「てしまう1におけるアスペクトとモダリティ(2)*

1.はじめに

2.杉本(1991)における議論 3.実現相の機能

4.実現相とモダリティ的意味

杉 本   武

   (日本語学)

5.アスペクトー「てしまう」一モダリティ 6.おわりに

1.はじめに

 「てしまう」は,「完結相」および「実現相」と呼ばれるアスペクト的意味

を持つ。

  (1)太郎は その本を 全部 読んでしまった。   (完結相)

  (2)私は 緊張のあまり 汗を かいてしまった。  (実現相)

さらに,実現相の「てしまう」の場合,次のように,ある種のモダリティ的意 味を持つことがある。

  (3)大事な会議に 遅れてしまった。

 前稿,杉本(1991)においては,完結相と実現相の成立の条件を示した。さら に,実現相のモダリティ的意味を「予想外」と捉え,なぜ,実現相において,

このようなモダリティ的意味が生じるのかを示した。しかし,実現相の「てし

* 前稿,杉本(1991)に関して,多くの方々から貴重な御意見,御助言を賜った。本稿

は,これを参考にしつつ前稿を発展させたものである。その全てに言及することはで

 きなかったが,御意見,御助言下さった方々に感謝申し上げたい。

(2)

まう」に関しては,まだ不十分な部分が多く残されていた。

 さらに検討すべき問題として,次のような問題がある。

  (4) i) 実現相の「てしまう」の機能を明らかにすることによって,「予      想外」というモダリティ的意味が派生してくる過程をさらに明らか      にすること。

    ii)実現相のアスペクトおよびモダリティの中での位置づけを明ら      かにすること。

本稿では,まず,i)の問題について検討し,実現相に関する杉本(1991)の記 述を修正,発展させる。さらに,ii)の問題について,解決の方向を示したい。

2.杉本(1991)における議論

 まず最初に,杉本(1991)における議論のうち,本稿に関連する部分を概観し ておきたい(詳しくは,杉本(1991)を参照されたい)。

 「てしまう」は,動作が「過程(=ひとまとまりの動作)性」を持つ場合は,

「ある過程が完結する」というアスペクト的意味(これを「完結相」と呼ぶ)

を持つ。これに対して,動作が「過程性」を持たない場合は,「ある出来事が 実現する」というアスペクト的意味(これを「実現相」と呼ぶ)を持つ。また,

「てしまう」は,次の例文の場合のように,「実現した事態は悔やむべきもの である」というようなモダリティ的意味を持つことがあることがよく知られて

いる。

  (5)のんびりしているうちに 成績が落ちてしまった。

  (6)ささいなことから 親友を 失ってしまった。

このようなモダリティ的意味は,実現相の「てしまう」の一部において生じる。

 従来,モダリティ的意味を持つ「てしまう」は,「取りかえしのつかない気

持ちを表す」とされたり,「不都合なこと,期待に反したことが行われること

を表す」というように記述されていたが,次の例に見られるように,必ずしも

よくない場合に限られない。

(3)

  (7)私は 思わぬ大きな取り引きをまとめて 課長に 昇進してしまった。

  (8)私は 株で 大もうけを してしまった。

このようなことから,杉本(1991)では,実現相のモダリティ的意味を「予想外 の事態が実現する」というように捉えることを提案した。

 また,杉本(1991)では,実現相の「てしまう」の接続した動詞が全体として 無意志的動作を表すことから,実現相を動作の「無意志化」と捉えた。

  (9)太郎は 驚いて 立ち止まってしまった。

さらに,先に述べたモダリティ的意味「予想外」の解釈が,動詞の表す動作自 体がもともと無意志的である場合に生じることから,無意志的な動作に「てし まう」が接続して,さらに無意志化することは,無意味であり,そのため,

「予想外」のことを表すという別の機能(モダリティ的意味)が生じてくると 結論づけた。

3.実現相の機能

 杉本(1991)では,実現相の「てしまう」からどうして「予想外」というモダ リティ的意味が生じるかについては,大まかに述べたにすぎなかった。ここで は,実現相の機能を再検討することによって,実現相の「てしまう」とモダリ ティ的意味の関係をさらに明らかにしたい。

 杉本(1991)においては,先にも述べたように,実現相の「てしまう」を「無 意志化」と捉えた。次のような,杉本(1991)で「実現相」の「てしまう」と呼 んだ場合において,「〜てしまう」全体が無意志的であるのは間違いがないで

あろう。

  ⑭a. 太郎は 財布を 落としてしまった。

  (1Da.花子は 花瓶を 割ってしまった。

  (川太郎は よそ見をしていて 立っている人の足を 踏んでしまった。

「落とす」も「割る」も「踏む」も,それ自体は意志動詞であるが,「てしま

う」が接続すると,それ全体としては,無意志的な動作になる。ただし,⑫の

(4)

場合,「よそ見をしていて」という無意志的動作を示す文脈があり,これによ り動詞が無意志化すると言えるが,これは,別の観点から見ると,実現相の

「てしまう」は無意志的であるので,意志動詞に接続する場合,無意志化を助 ける文脈が必要になるとも言える(1)。そのため,次のように,さらに「〜よ

うとした」の形にすると,完結相の解釈しかできなくなる(2)。

  ⑩b.太郎は 財布を 落としてしまおうとした。

  (1Db.花子は 花瓶を 割ってしまおうとした。

この点において,実現相の「てしまう」は,「無意志化」の機能を果たしてい ると言える。

 しかし,この「無意志化」というのは,実現相の「てしまう」の本質的な機 能なのであろうか(3)。それとも,もっとprimitiveな機能から導き出されるも のなのであろうか。

 まず,次のような例文を見てみたい。

  ⑬a.私は 高価な花瓶を 割ってしまった。

   b.太郎は 高価な花瓶を 割ってしまった。

これは,動作の主体を変えたものである。(13a)の場合,「私」に「花瓶を割 る」意図があって,その動作を行ったとは解釈しにくく,そのように解釈しよ うとすると,完結相の意味になってしまう。一方,(13b)の場合,「太郎」に その意図があってもなくてもかまわないだろう。なお,次の(14a)の場合,

「私」に意図があってもよいように見える。

  (10a.私は 気の進まないまま 会議に 出席してしまった。

   b.太郎は 気の進まないまま 会議に 出席してしまった。

この場合,「出席する」意図がないとは言えないかもしれないが,「気の進まな いまま」という修飾句が示すように,「出席しなければならない状況」などの 本人の意図とは別の原因の存在が示唆されている。そのため,意図があるとは みなされないのであろう。

 つまり,主体が話し手と一致する場合は,その動作を行う意図があってはな

らないが,そうでない場合は,意図があってもなくてもよいのである。この点

(5)

で,このような文は,話し手の関与する表現であると言える。

 それでは,なぜ,このような制限があるのであろうか。杉本(1991)で提案し た「無意志化」ということだけでは,この現象は説明できない。これは,実現 相の「てしまう」が,その事態を話し手にとってコントロールできないものと

して表現するものだからではないだろうか(4)(5)。そうあるならば,話し手と 動作の主体が一致する場合,話し手にとってコントロール不可能なのであれば,

当然,動作の主体にとってもコントロール不可能なはずである。このため,

(13a)の場合,主体にその動作を行う意図があってはおかしいのである(6)。ま た,話し手にとってコントロール不可能であるということは,話し手の手の下

しようがないということになり,ここから,「ある動作・作用が行なわれた結 果のとりかえしがつかないという気持ち(吉川(1971:228))」や「「その事が 起こって,もはや起こる前の状態に戻ることはできない」という心理(寺村

(1984:153))」が生じてくるのであろう。

 そこで,実現相は,「話し手にとってコントロール不可能な事態が実現する」

という意味を持つと仮定してみよう。この場合,あくまでも,「コントロール 不可能」なのは,話し手にとってであり,その動作の主体にとってコントロー ル可能であってもかまわないわけである。つまり,その動作の主体の意志性に 関しては,関知しないのである。このため,「〜てしまう」全体としては,無 意志化したように見えるのであろう。このように考えると,「無意志化」とい

うことは,実現相の「てしまう」にとって本質的なものとは言えなくなる。こ の意味で,杉本(1991)で,実現相の「てしまう」を「無意志化」と捉えたこと は,一面的であったと言える。また,主体の意志を否定するものではないので,

「てしまう」を,杉本(1991)や森山(1988)の考えるように,意志的な動作を無 意志的(森山(1988)の用語だと,「非意志的」)に捉えなおす形式であるとは言 えないであろう。

 さて,このように考えると,杉本(1991)でふれた,次のような現象もうまく 説明ができる(括弧内は,杉本(1991)での例文番号である)。

  ⑮花が散ってしまった。    (=β鋤

(6)

  (1θ葉が 全部 落ちてしまった。  (=倒)

  (1の氷が全部 融けてしまった。  (=㈲)

これらの文では,実現相の解釈とともに,完結相の解釈ができる。特に,(1綱 は,「全部」という,動作の及ぶ範囲を限定する修飾句をとっているので,完 結相の解釈を受けることに問題はない。しかし,それにもかかわらず,どちら かと言うと,実現相の解釈の方が強いであろう。これに関して,杉本(1991)で は,「完結相は意志的な動作と結び付きが強く,実現相は無意志的な動作と結 び付きが強いのではないだろうか(p.119)」と述べた。このような現象も,

先の実現相の「コントロール不可能性」から別の解釈を加えることができる。

⑮〜(1カに共通するのは,無意志動詞ということ以前に,自然現象を表すもので あるということである。自然現象は,いかなる話し手にとってもコントロール 不可能な現象である。このため,これらの文では,実現相となじみやすいと言

うことができるのではないだろうか。

 これと同様にして,杉本(1991)で述べた,完結相,実現相と他動詞,自動詞 の関係も説明できよう。杉本(1991)で述べたように;完結相の「てしまう」の 接続する動詞には他動詞が多く,実現相の「てしまう」の接続する動詞には自 動詞が多い。自動詞は,無意志動詞が多く,もともと話し手にとってコントロ ール不可能な場合が多い。このため,実現相となじみやすいのではないだろう か。次の文を見てみたい。

  (18私は すっかり 酔ってしまった。

  (19風邪で クラス全員が 倒れてしまった。

このような動詞はもともと過程性を持たないが,「すっかり」や「クラス全員

が」という修飾句によって過程性を得て,完結相を表してもよいはずだが,そ

のような解釈は非常にしにくい。これも,無意志的動作であり,話し手にとっ

てコントロール不可能な場合であるため,実現相となじみやすいのであろう。

(7)

4.実現相とモダリティ的意味

 以上のことをもとに,次に,この「コントロール不可能性」から,なぜ「予 想外」というモダリティ的意味が派生してくるのかを改めて考えてみたい。こ

こで,実現相の「てしまう」を「無意志化」と捉えるより,「話し手にとって コントロール不可能」と捉える方が,このつながりはすっきりとするだろう。

なぜならば,実現相の「話し手」という要素が,モダリティ的意味の派生の契 機となるのであるm。これで,なぜ実現相からモダリティ的意味そのものが 生じるかは,説明することができるが,そのモダリティ的意味は,どうして

「予想外」という形態をとることになるのであろうか。杉本(1991)では,「て しまう」の接続している動詞がもともと無意志的な動作を表すものの場合,モ ダリティ的意味が生じると述べた。本稿の記述に従えば,その動作の主体にと っても,コントロール不可能な動作の場合(この場合,話し手にとっても,通 常コントロール不可能であろう),モダリティ的意味が生じると言い換えるこ とができる。ここで,吉川(1971)の「不都合・反期待の意味になりやすい条件 として,非情物主体,現在形が考えられるわけである(p.249)」という記述 も注目される。先にも述べたように,「非情物主体」いうのは,話し手にとっ て最もコントロールしにくい状況である。意志的動作あるいは有情物主体の動 作であれば,(可能性として)話し手が主体に働きかけることによってコント ロールは可能であるが,無意志的動作あるいは非情物主体の動作の場合,コン

トロールの可能性はあまりないのである。

 さて,このような場合,もともとコントロール不可能な事態をさらにコント ロール不可能な事態として表現することになるが,これにどのような意味があ るのであろうか。これは,事態をコントロールしたかったが,できない(でき なかった)ことを表すことになるのではないだろうか。このため,「予想外」

というモダリティ的意味が生じるのではないだろうか。

杉本(1991)で指摘したように,実現相のモダリティ的意味は,「よくない」

(8)

事態が起こった場合に限らない。しかし,これは,「よくない」事態の場合が 多いことを否定するものではなく,実際,「よくない」事態の場合が多いよう である。つまり,モダリティ的意味を持つ「てしまう」は,典型的には,「よ くない」事態の場合に使われるのである(8)。このため,実現相のモダリティ について「不都合」「反期待」といった記述がなされることが多いのである。

これは,次のように考えられるだろう。コントロールしたかったのにできなか ったということは,望んでいた事態にならなかったということが多い。普通,

望んでいない事態とは,「よくない」事態であろう。このために,典型的には,

「よくない」事態を表すのである。

 ところで,先に述べたような,もともと動作自体がコントロール不可能な場 合でなくても,誤って,あるいは,意図せずにその動作を行ってしまった場合

も,やはりコントロール不可能であろう。このような場合も,モダリティ的意 味が生じる。

  ⑳私は 知らずに 太郎を 傷つけてしまった。

  ⑳私は ぼんやりしていて 赤信号を 渡ってしまった。

この場合,「傷つける」「渡る」という動作自体は主体にとってコントロール可 能で,しかも,話し手と主体が一致するので,話し手にとってもコントロール 可能である。しかし,この場合,意図的に行われた行為ではないので,コント ロール不可能とみなされる。

 しかし,このような場合に,必ず,モダリティ的意味が生じるわけでもない。

  ⑳私は 思わず外に 飛び出してしまった。

この文の場合,「飛び出す」という行為は,意図的に行われたわけではないが,

必ずしもモダリティ的意味は生じない。動詞の意味や文脈,常識に依存する部 分もあるのである。また,ここにおいて,「予想外」という基本的なモダリテ ィ的意味がどのような形(「とりかえしがつかない」「不都合」「反期待」など)

で実現されるかが決まるのである。

(9)

5.アスペクトー「てしまう」一モダリティ

 以上で行った実現相の「てしまう」の分析をもとに,「てしまう」のアスペ クトおよびモダリティとしての位置づけについて考えてみたい。

 完結相の「てしまう」をアスペクトとして位置づけることは,さほど問題は ないであろう。それでは,実現相の「てしまう」はどうであろうか。従来,実 現相は,アスペクトとして位置づけられてきた。例えば,金田一(1955)では,

本稿の「実現相」を「既現態」と呼び,アスペクトとして位置づけている。し かしながら,実現相の「てしまう」の機能を考えると,これをアスペクトとし て位置づけることは,全く問題がないとは言えないようである。

 まず,Comrie(1976)の different ways of viewing the internal temporal constituency of a situation(p.3) という定義に従うと,コントロール不可能性

という点は,アスペクトの概念には収まりきらないものである。もちろん,実 現相においても,その事態は終結(実現)した姿として見られているわけであり,

完結相の「てしまう」との類似性が見られる。この点で,実現相もアスペクト 的なものとも言えるが,実現相には「コントロール不可能性」という非アスペ クト的なものも含み持っているということである。この意味で,実現相は,ア スペクトと非アスペクトの中間にあるものと言うことができよう。しかも,こ の非アスペクト的な性格は,話し手の関与という点で,モダリティにつながっ ていくものでもある。

 次に,モダリティとしての実現相の「てしまう」について見てみたい。杉本

(1991)で述べたように,実現相の「てしまう」のモダリティ的意味は,あくま でも派生的なもので,「てしまう」自体をモダリティ形式とみなしているわけ ではない。しかしながら,「予想外」というモダリティ的意味は,モダリティ の中で位置づけられなければならないだろう。なお,以下では,単に「実現 相」と言った時は,モダリティ的意味を持つ実現相を示すことにする。

 ここで,まず,南(1974),南(1987)などの,従属節(9)による文の構造の段

(10)

階性を援用してみたい。これによると,どのような従属節の中に入り得るかに よって,文は,A(描叙段階), B(判断段階), C(表出段階), D(はたらきか け段階)の四つの段階に分けられる(1°)。Aが最もコト的で, Dが最もモダリテ ィ的である。これに従い,次に,継続の「ながら」による従属節(A段階)の中 に「てしまう」が入り得るかを見てみよう。

  ㈱a.花子は 食器を 片づけてしまった。 (完結相)

   b.花子は 食器を片づけてしまいながら 鼻歌を歌っていた。

  ⑭a.太郎は 足が 膝まで 泥に のめりこんでしまった。

       (実現相)

   b.太郎は 足が膝まで泥にのめりこんでしまいながら 何食わぬ顔     をしていた。

このように,完結相でも実現相でも,継続の「ながら」による従属節の中に入 る得るようである。ただし,実現相の「てしまう」は若干すわりが悪いが,こ れは,継続の「ながら」の制限(動詞に継続性を要求する)によるものであろう。

このように,「てしまう」は,モダリティ的意味を持っていてもいなくても,

A段階に属し,最もコト的であることがわかる(11)。

 また,モダリティとは,典型的には,「言表事態や発話・伝達のあり方をめ ぐっての発話時における話し手の心的態度の言語的表現(仁田(1989:34)」(12)

であるとされる。このうち「話し手の心的態度」という点に関しては,問題は ないであろう。「発話時点」という点に関して注目されるのは,吉川(1971)の  「不都合・反期待の意味になりやすい条件として,非情物主体,現在形が考え

られるわけである(P.249)」という記述である。実現相の「てしまう」は過去 形にもなるが,その場合,実現された事態は過去のことであっても,「予想外」

という判断は,発話時点のものであろう。

  ㈱ 私は ささいなことから 彼と 絶交してしまった。

この点においては,実現相の「てしまう」はモダリティ的な性質を持っている

と言える(13)。

 一方,実現相の「てしまう」は,否定形にもなるが,この場合,否定される

(11)

のは何であろうか。

  ㈱財布を 忘れてしまわなくて よかった。

  ㈲太郎は 風邪を ひいてしまわなかった。

もちろん,実現された事態は否定されるが,「てしまう」は,実現しなかった 事態に対して「予想外」と判断しているわけではない。何らかの形で「予想 外」という判断も否定されていると見るべきであり,モダリティ的ではない。

 このように,実現相の「てしまう」のモダリティ的意味は,モダリティ的な 部分と非モダリティ的な部分を合わせ持ち,必ずしも正当なモダリティとして 位置づけられるわけではない。この点で,モダリティ的意味を持つ実現相の

「てしまう」は,モダリティと非モダリティの中間にあるものと言える。

6.おわりに

 以上のように,本稿では,まず,実現相の「てしまう」の機能を検討し,

「話し手にとってコントロール不可能な事態が実現する」ことを表すことを明 らかにした。これによって,杉本(1991)の「無意志化」をより本質的な機能に 還元するとともに,「予想外」というモダリティ的意味がなぜ生じるのかにつ いて,より直接的な説明を与えることが可能になった。

 また,さらに,実現相の「てしまう」のアスペクトとモダリティにおける位 置づけを検討した結果,実現相の「てしまう」は,正当なアスペクトあるいは モダリティとは異なっているものの,アスペクトとモダリティの中間的な性質 を持つものであることを明らかにした。文法範疇が明確に区分されず,連続性 を示すことがあることは,さまざまな現象に関して言われることである。これ が,このアスペクトとモダリティにおいても見られるわけである。

/注/

(1)実際,実現相の「てしまう」は,このような文脈と共起することが多いようであ  る。

(2)ただし,「落とす」「割る」の場合,もともと「過程性」を持たないので,本来は

(12)

  完結相にはならない。しかし,意志の「ようとした」によって完結相の解釈が強制   される。そのため,過程的な読みが動詞に付加されると考える。

(3) この点は,田窪行則氏の指摘による。

(4) これについては,「てしまう」の「非アスペクト的用法」の働きは,「話者にとっ   て自己統制不可能(self−controlableでなくなること)」であるとする,中島平三氏   の考えを参考にした。

(5) 「てしまう」の本動詞の感動詞的用法「しまった」は,ものごとが話し手のコン   トロールから逸脱してしまったことを表すと考えられる。実現相の「てしまう」は,

  これとつながるものであろう。

(6) ただし,(13a)は,「割った」時点においては,意図があったが,発話時点におい   て,「なぜあんなことをしたのであろう」と後悔するというような状況(つまり,発   話時点においては意図がない)であれば,実現相の解釈を受け得るかもしれない。

  しかし,この場合も,過去における自分は発話時点の自分とは違うというニュァン   スが込められ,この意味で,発話時点の自分としてはコントロール不可能であり,

  問題とはならないであろう。

(7) これは,中島平三氏の指摘による。

(8) これは,小林賢次氏の指摘による。

(9)南(1974)などの用語だと,「従属句」。

(10)詳しくは,南(1974),南(1979)を参照されたい。

(11)そうであるとすると,「予想外」を「モダリティ的意味」と呼ぶのは誤りと考え   られるかもしれない。しかし,ここでは,「モダリティ」そのものではないとして   も,「モダリティ的」であるという見方から,引き続き,「モダリティ的意味」と呼   ぶことにする。

(12)仁田(1989)の「真正モダリティ」。

(13)あるいは,消極的には,モダリティの持つ性質と矛盾しない。

/参考文献/

Comroe, Bemard(1976), A功ε6 , Cambridge University Press.

井上和子(1976)『変形文法と日本語(下)』,大修館書店

金田一春彦(1955)「日本語動詞のテンスとアスペクト」,金田一春彦(編)(1976),

  pp.27−61

   (編)(1976)『日本語動詞のアスペクト』,むぎ書房

杉本武(1991)「「てしまう」におけるアスペクトとモダリティ」,『九州工業大学情報工  学部紀要(人文・社会科学篇)』4,pp.109−126,九州工業大学

高橋太郎(1969)「すがたともくろみ」,金田一春彦(編)(1976),pp.117−153

寺村秀夫(1984)『日本語のシンタクスと意味H』,くろしお出版

仁田義雄(1989)「現代日本語文のモダリティの体系と構造」,仁田義雄・益岡隆志(編)

 (1989), pp、1−56

仁田義雄・益岡隆志(編)(1989)『日本語のモダリティ』,くろしお出版

(13)

南不二男(1974)『現代日本語の構造』,大修館書店

   (1987)「現代語の文法」,山口明穂(編)(1987),pp.1−30

森山卓郎(1988)『日本語動詞述語文の研究』,明治書院

吉川武時(1971)「現代日本語動詞のアスペクトの研究」,金田一春彦(編)(1976),

 pp.155−327

山田明穂(編)(1987)『国文法講…座6時代と文法一現代語」,明治書院

参照

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