心 理 の 分 析 ご 自 由
(二)
松 尾 正 路
五
十九世紀の爲實主義や自然主義の作家たちが作品のなかで﹁私﹂を語らなくなつたのは︑人間の曾嚴が︑封象の認
識という知的行爲のなかにしか存在しなくなつたからである︒﹁私︒﹂の感動で世界を包み︑世界を﹁私﹂の中心とし
たロマン主義的な﹁私﹂が︑封象の前に膝を屈したからである︒自已を養う主人は︑もはや︑﹁私﹂ではなく︑ 私﹂
にかわつて現れたのは︑現實という非情の主人である︒﹁私﹂を失つた文学は,生活の断片Lを描くことによつて︑
﹁私﹂からの純潔と現實への忠誠を示し︑この純潔と誠實とが文学それ自身に向けられ︑文学の目的となる場合.文
・学は﹁藝術のための藝術﹂となり︑文学が文学の主人となつたのである︒象徴主義は樹象(物象)への尊敬を通して
イデイマージユアルシミイ観念と像の純粋さを保とうとする言葉の詩精聯にほかならない︒したがつて象徴主義時代に青年期を過した作家
は︑文学の猫立と純潔を保持しようとする藝術の信仰とともに︑他方︑科学的︑分析的な精神傾向によつて消極的
に︑抽象的に︑現實と結びついている︒しかし︑この場合︑現實と﹁私﹂との關係は︑そのいすれが主人であるかと
心理の分析と自由
人丈研究第八輯
いう意味を全く失つている︒冒私﹂は︑現實が現實であることによつて{,私Lであり,﹁私﹂の自由は︑現實や自己
に封する支配者としての主人の自由ではなく︑自己の内にも外にも︑世界の何庭にも主人を持たない﹁私﹂の自由で
ある︒﹁私﹂の存在は︑自由の意慾を通してはじめて可能となり︑﹁私﹂は﹁私﹂ではなく︑自己の可能性にすぎな
,いものである︒第一次大職後の文学に現れた不安は︑このような﹁私﹂の表情にほかならない︒そしてこの不安は︑
世界と自己に絶之す目を開いている︑いわば︑目の醒めた不安である︒アンドレ・ジイドの文学は︑その代表的なも
のではないかと思う︒
ジイドの場合︑一つの不攣の﹁私﹂に仕える忠實は︑自己の自殺に等しい︒誠實とは︑このような自殺行爲をしな
いことである︒ジイド丈学の﹁私﹂は︑やがてその場所を他の﹁私﹂に譲る誠實な﹁私﹂としてその義務を絡えるの
であるが︑これらの﹁私﹂は︑相互に断絶された﹁私﹂ではなく︑自己の實膿を照らし出す幾つかの鏡のような役割
を果している︒﹁私﹂は︑自己の一部分でもなく︑全艘でもなく︑そこから自己に通する口實として創られている︒
﹁畳金造り﹂は︑このような口實と現實の多角的な組合せを試みたものではないかと思う︒この小読もまた現實に封
する人間の謙譲を小詮作法の根本精紳としているが︑自然主義時代のように︑人間を自然法則の塊偏と考えた
バアテルミニスム決定論や﹁生活の断片﹂を爲しとる爲眞師的な忠實さに從つてはいない︒このような忠實さは︑現實と人間の組合
せから成る生の動的な︑力学的な︑即ち︑自由の眞實に忠實でないからである︒同様に︑作者が人物の行動や蓮命を
最初から絡りまで自分の手中に握つている超越的な特椹も取去られなければならない︒ジイドがバルザックの小読
を非難しているのは︑人物の未來が豫め推測される鮎にある︒小読のはじめに現れる人物の目や額の描由局がすでにそ
の人物の性格のすべてを物語り.その人物の生成の脇結となつているのは︑出焚を結論から始めているようなもの
で︑すべてロマン主義精称の出焚の仕方である︒現實と自己への誠實さにおいて︑ロマン主義は出嚢というものを持
一32一
つてはいない︒未來に目を向けながら︑自分の手で未來を暗殺している︒
﹁贋金逡り}の小読作法は︑この小読の回韓軸となつている作家エドアールが自ら語つているように︑時間のなか
に豫め設定される既成の筋道を持たないことを原則としている︒﹁このような書物にプランを設定するのは︑物質的
に許されないことです︒もし私が︑何か豫め決定したとすれば︑何もかも嘘になつてしまうでしよう︒プランは︑現
實が私にそれを授けてくれるのを待つています︒﹂
﹁賢金造り﹂という小読は︑實は︑この作家エドアールがこのような小読作法にしたがつて書こうとしている小説
のこと費あつて︑同時にまた︑その﹃贋金造り﹂を書こうとしているエドアールを取園む現實が︑様々な登場人物の
覗野に吸牧され︑交錯しながら︑アンドレ・ジイドという作家の﹁贋金造り﹂になつているのである︒エドアールは
ジイドの分身ではなく︑ジイドによく似たジイドの口實であり︑同じ意味でジイドの﹁贋金造り﹂は︑エドアールが
書こうとしている﹁蟹金造り﹂によく似た實燈となつている︒それ故︑以下エドアルーの言葉は︑そのま玉ジイドの
﹃贋金造り﹂の内容となつているものである︒
﹁私の小読は︑主題というものを持つていない︒それは︑たしかにおかしなことです︒しかし︑或る特定の主題と
いうものはない︑と考えてもよろしい︒自然主義派の作家は﹁生活の断片﹂と言つていたが︑この派の大きな敏︑陥
は︑その断片をいつも同じ方向に切断したととです︒つまり︑時間をその長さに切噺するだけでした︒なぜ︑幅や深
さの方向に切つてはいけないのか?私としては︑すこしも人生を切断したくはない︒何もかもこの小読のなかに入れ
てしまいたい︒あそこ漏りもこ﹂を切るとい鋏は不要です︒⁝⁝L
エドアールの言葉をこのま﹂受取るならば︑小読は︑﹁生活の断片﹂ではないにしても︑現實の渾沌の再表現とし
て絡る︒小読が個人の創作であるかぎり︑その個人の現實の受取り方︑即ち︑スタイル(︒︒ξ冨)を逃れることはで
心理の分析と自由
人丈研究第八輯,
きない︒そこで︑
﹁私が望んでいるのは︑一方では現實を表現しながら︑他方︑その現實をスタイル化すための努力を描くことです
︑:⁝﹂とエドアールは言う︒彼の﹃贋金逡り﹄即ち︑彼が理想として望んでいる小読は︑主題も筋もない最も純粋化
された小読であるが︑未だ小説にならない小設︑創られつ玉ある小読︑スルイルを持とうとしている未來の小読であ
である︒固定した不攣絶封の眞實(愚昌ま)そのものが存在しないかぎり︑小論の眞實もまたこのような生成
(価①︿oβ冒)の途上にしか存為しないことになる︒七たがつて︑小読は︑未だ出來上らない場合にだけ本當である︒人
生に主題そのものが存在しないかぎり︑小読の主題もまた最初から主題としては存在しない︒
﹁私は作品の中心人物として一人の作家を考案します︒作品の主題は︑強いて主題と呼ぶならば︑現實がその作家
に提供するものと︑作家がその提供された現實から創り出そうとするものと︑これら二つのものの間の闘いこそ︑正
に主題というべきものです︒﹂とエドアールは言う︒
作家にとつて︑唯一の︑最後の自由の場所は︑このような主題の裡にしか存在しないように思われる︒しかし︑ジ
イドはエドァールに自由という言葉を使わせない︒おそらく︑すべてを言い現す一つの言葉として︑神という言葉と
同檬に︑避けたのだろう︒棘と同様︑われわれは自由の全貌を手中に捕えることができないのであるから︑目に見え
ない全艦を一つの言葉e現すことは︑最も非小論的である︒エドアールの主題の原理にそむくことになる︒特殊性尊
長主義者(娼鴛菖︒包鴛蓉Φ)としてのジイドは︑エドアールに︑次のように語らせる︒
﹁私は︑時々︑およそ文学というもののなかで︑たとえば︑ラシイヌのミトリダ'ートとその息子の論争ぼど賞歎す
べきものはないように思われることがある︒父と子がこんなふうに話し合わないことは誰もよく知つている︒しか
し︑むしろそのために一暦.この封話のなかに︑すべての父とすべての息子が見出されるのである︒われわれは︑局
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ρ
︑ 限し特殊化することによつて集約する︒心理の眞實も︑特殊なものとしてのみ存在する︒しかし藝術は一般性におい
てのみ存在する︒問題はすべてこ㌧に露着する︒つまり︑特殊によつて一般を表現すること︑特殊をして一般を表現
せしめること︑です︒⁝⁝﹂
こ㌧では︑文学の特殊性と一般性をとりあげているが︑文学の一般性は論理的な普遍ではなく︑具膿的に限られ
た︑いわば︑藝術的な事實として︑作品から生れる現實的な結果であつて︑相樹的な意味しか持つていない︒ジイドが
ジイドの一般性しか持たないように︑個々の作品は︑それぞれの不明確な限られた廣がりのなかに生きている︒した
がつて︑作者が抽象的な一般性から具艦的な特殊性に向うことは藝術の本質にそむくことになる︒嚴密な意味では︑
藝術に關するかぎり︑一般性なるものは存在しない︑︑と考えらるべきである︒全艦と個別の關係においても同檬であ
る︒宗教小論︑または︑思想小読やテーマ小説が︑細部の優れた描爲にもか曳わらす︑全艦として︑最後的に失敗し
ているのは︑このような藝術の本質に樹して逆の方向に道をとるからである︒作品の中心入物エドアールに︑一般性
という不用意な言葉を使わせたジイドは︑しかしながら︑この﹁蟹金造り﹂に現れる人物の会話の絡りに︑ー︑と
彼は言つた︑考えた︑感じた︑など︑從來の小読会話の脅慣を捨て︑演劇のように語らせている︒生活のように姪は
ない︒会話もまたスタイル化された文学にほかならないからである︒しかるに︑li︑と彼は言つた︑考えた︑など
と書くのは︑一つの会話を埋葬する説明であつて︑作者は小読のなかで無数の短い小読をつくつているようなもので
ある︒のみならす︑作者のこのやうな任意の干渉は︑時間と運命の外にあつて人間を照覧する紳のような超越的な立
場を示すことになる︒エドアールが主張するような主題のない小読のなかでは︑会話もまた会話それ自身として猫立
した︑自ら足りる存在でなければならない︒この鮎では︑カミュの﹁異邦人﹂に關するナルトルの興味深い解読があ
る︒ρω詳葺暮ざ昌"目嚇国図娼崔O費けご昌伽①.白堕国貯欝声σq①㌦導)
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