【学位論文審査の要旨】
1. 研究の目的
物質を構成する原子は電子と原子核からなり、原子核は核子と総称される陽子と中性子 で構成される。原子核は核子間に働く核力と呼ばれる電磁気力よりはるかに強い力によっ て形づくられる。陽子や中性子は基本粒子であるクォークとグルーオンによって構成され、
核子以外にもクォークやグルーオンで構成される粒子を総称してハドロンと呼び、現在300 種類の存在が確認されている。これらハドロン間に作用する強い力の源はクォークとグル ーオン間に働く自然界の基本的な力の一つである「強い力」であり、クォークとグルーオ ンの動力学は量子色力学によって記述される。量子色力学が強い相互作用の基本理論とし て確立して以来、ハドロンの構造や動力学を、下部構造であるクォークとグルーオンのレ ベルの力学の反映として理解することはハドロン物理の基本的課題の一つとなっている。
量子色力学の特徴は、低エネルギーにおいてクォークとグルーオンの結合が文字通り強い ことである。その強結合の結果として、ハドロンからクォークを単体で取り出すことがで きず、クォークがハドロンの中に閉じ込められる「クォークの閉じ込め」という現象を引 き起こす。また、クォークに対する対称性であるカイラル対称性は、強い力の真空(量子 色力学の基底状態)で自発的に破れ、量子色力学は非自明な真空構造を持つ。特に、後者 は、陽子の質量がクォーク質量の単純な和では説明できない事実、つまり、陽子の質量生 成機構を説明すると考えられており、強い力の真空構造の解明が求められている。
低エネルギーで自発的に破れているカイラル対称性は、宇宙初期や高密度天体中のよう な高温・高密度の環境下で回復していると考えられ、このような真空の相転移現象の機構 を理論的に明らかにすること、また、実験的確証を得ることは、現代ハドロン物理にとっ て重要な課題の一つである。その一つの方法は、高エネルギー重イオン衝突等によって高 温高密度状態を作り出し、破れた対称性を回復させ相転移現象を直接観測することである が、対称性を完全に回復させるような極限的な状況に至らずとも、対称性の破れの秩序変 数(クォーク凝縮)が有意に小さくなるような系で対称性の回復や破れのメカニズムを研 究することができる。このようなカイラル対称性が部分的(あるいは不完全)に回復した 状況は原子核密度程度で実現すると考えられている。ハドロンが本質的にクォーク・グル ーオンで記述されるので、クォーク凝縮の変化等の量子色力学レベルでの論理的帰結は、
必ずハドロン動力学に影響を与え観測される。その中でも、媒質効果による南部ゴールド ストーンボソンの波動関数再規格化(くりこみ)と崩壊定数の変化は、媒質中のクォーク 凝縮と関連することが理論的に示されており、それらの密度依存性を観測量から引き出す こと、あるいは理論的に予測することは、対称性の回復を理解する上で重要である。
現在、原子核中でのカイラル対称性の部分的回復は、自発的破れの南部ゴールドストー ンであるπ中間子と原子核の系でよく研究されており、深く束縛された π中間子原子スペ クトルの詳細な測定や低エネルギーπ 中間子原子核弾性散乱実験などの π 中間子原子核系 の実験的観測と理論的解析によって、30%程度の対称性の回復が見込まれている。今後の
課題として、クォーク凝縮の密度依存性を理論実験の両面から精密に求め、核密度でのク ォーク凝縮の値や密度依存性をより定量的に決定していくこと(部分的回復の定量的精密 化)、また、 π 中間子-原子核系で示されたカイラル対称性の部分的回復が他の系でも普遍 的に起こる現象であることを確認すること(部分的回復の系統的検証)が求められている。本 研究では、このような背景のもと、カイラル対称性の自発的破れの南部ゴールドストーン ボソンであるπ中間子とK中間子に対し、核媒質中の波動関数くりこみの大きさを理論的 に見積もり、核媒質中の自己エネルギーに対してどのような補正を与えるかを議論した。
2. 研究の方法および結果
著者は、まず、核媒質中における中間子の自己エネルギーに対し低密度展開を行い、核 子と中間子の弾性散乱振幅を用いて、中間子の自己エネルギーを記述した。その際に、核 子に対するフェルミ運動の効果を取り入れた。核子と中間子の散乱振幅は、カイラル摂動 論に従い低エネルギー定数(パラメーター)を用いて定式化し、パラメーターは散乱実験 データを用いてχ2乗検定により決定した。散乱振幅がエネルギーの関数として表現されて いるので、これを用いて記述された自己エネルギーはエネルギーの関数で与えられ、この エネルギー微分により波動関数くりこみを計算することができる。
このように定式化した波動関数くりこみを用いて、以下のような結果が得られた。π 中 間子については、既にπ中間子と核物質のS波相互作用による自己エネルギーのS波相互 作用項に対する波動関数くりこみの影響が議論され、その効果の重要性が指摘されている。
本研究では、部分的回復の定量的精密化の目的のため、P波相互作用の影響を見積もった。
P波相互作用による波動関数くりこみの影響は無視できるくらいに小さいことが分かった。
一方で、S 波相互作用による自己エネルギーの P 波相互作用項への波動関数くりこみの影 響がかなり大きいことが分かった。原子核中におけるπ中間子の光学ポテンシャルはπ中 間子原子等の実験により現象論的によく決まっているので、本結果が既存の数値結果に対 して変更を与えるものではないが、光学ポテンシャルの P 波相互作用項の理論的解釈の変 更を迫る可能性がある。K 中間子については、ストレンジクォークを持った中間子に対す る波動関数くりこみを初めて見積もり、その影響を評価した。その結果、自己エネルギー を5%程度増大させることが分かった。原子核中におけるK中間子核子散乱は媒質効果によ り 10%程度増大することが現象論的に指摘されているので、その半分を波動関数くりこみ によって説明できることになる。また、得られたK 中間子核子散乱振幅を詳細に調べるに より、著者は、K 中間子核子のアイソスピン0のチャンネルに幅の広い共鳴状態がある可 能性を新たに見いだした。この共鳴状態は反ストレンジクォークを一つ持つので、3つク ォークでは表現できないエキゾチックハドロンである。
3. 審査の結果
本研究において、著者は核媒質中おけるπ中間子とK中間子の自己エネルギーに対する
波動関数くりこみの影響を見積もった。それぞれの中間子に対し、波動関数くりこみの影 響は小さくないことがわかった。この結果は、今後、原子核中のハドロンの性質から、カ イラル対称性の部分的回復によるクォーク凝縮の大きさの減少を定量的に引き出す際の有 益な情報となり、大きな意義を持つ。また、π 中間子光学ポテンシャルの P 波相互作用の 起源に対する詳細な検討が必要となり、既存の解釈を変更する可能性があることは衝撃的 である。K 中間子に対しては、カイラル対称性の部分的回復の文脈に沿った理論的な研究 も現象論的な研究も進んでおらず、本研究において、K 中間子に対する媒質効果から波動 関数くりこみの影響を初めて見積もり、このような方向性を持った研究に道筋をつけたこ とは意義深い。今後、理論的にも実験的にも K中間子原子核散乱の詳細な研究が進むこと が期待される。さらに、本研究では、副次的に、得られた散乱振幅に反ストレンジクォー クを一つ持った幅の広いエキゾチックハドロンを発見し、その存在可能性を指摘した。本 研究におけるこの発見はハドロン分光として大きな意義を持ち、今後、理論と実験両面か らその存在可能性が検討されると期待する。
以上の結果、本論文は博士(理学)の学位に十分値するものと判定した。
4. 試験および試問の結果
本学の学位規定にしたがって、最終試験を行った。公開の席上で論文内容の発表を行い、
物理学専攻教員による質疑応答を行った。また、論文審査委員による本論文および関連分 野の試問を行った。これらの結果を総合的に審査した結果、合格と判定した。