律令国家における「大学」創始の企図(今井) 三三 律令国家における「大学」創始の企図
今井 陽美
はじめに
日本古代の律令国家において、官人を再生産するための官人出身法の整備は、律令体制を維持し、発展させるため の重要な課題であったと思われる。この律令国家の官人出身法については、これまでも野村忠夫氏をはじめとする数 多 く の 研 究 が 積 み 重 ね ら れ て き て お り
(1)、 律 令 国 家 の 官 人 出 身 法 が、 蔭 位 制、 ト ネ リ 制、 学 制 の 三 つ か ら 成 り 立 っ て いたことが明らかになっている。そして、この蔭位制、トネリ制、学制の三つの制度が、いかに補完的に機能し合っ て官人を再生産していたかについては、拙著別稿においてすでに詳論し、中国の官人出身法とは異なる在り方であっ た こ と を 明 ら か に し て い る
(2)。 ま た、 学 制 の 核 と な る「 大 学 」 の 位 置 づ け に つ い て も、 中 国 の 学 制 と の 比 較 検 討 か ら、 日本の「大学」は中国のような「官吏養成・登用機関」ではなく、大学就学と官人登用とが必ずしも結びつかないと い う 日 本 的 特 質 よ り、 「 経 学 伝 播 機 関 」 で あ っ た こ と を 明 ら か に し て い る。 し か し な が ら、 拙 著 前 稿 で は、 こ う し た 中国とは異なる特質をもつ「大学」が何故に設置されることとなったかについては、詳論するに至らなかった。
そ こ で 本 稿 で は、 日 本 の 律 令 国 家 に お い て、 「 経 学 伝 播 機 関 」 と し て の「 大 学 」 が、 何 故 設 置 さ れ る こ と に な っ た かについて、日本における「学制」の創始期を概観しながら、その企図について見て行きたいと思う
(3)。
人文学報 第四六〇号 二〇一二年三月 三四 一、
日本における学制の創始は、次の二つの史料より、天智期であったと考えられている。ここであらためて、二つの 史料を詳しく見ておこうと思う。
まず、 『日本書紀』天智十年(六七一)正月是月条には、 以
二大 錦 下
一授
二佐 平 余 自 信。 沙 宅 紹 明
一。 法官 大輔。 以
二小錦下
一授
二鬼室集斯
一。 学職 頭。 以
二大 山 下
一授
二達 率 谷 那 晋 首。 閑
二兵 法
二。 木素貴子。 閑
二兵 法
一。 憶禮福留。 閑
二兵 法
一。 答 春初。 閑
二兵 法
一。 日比子。 賛波羅。 金羅金須。 解
レ藥。 鬼室集信
一。 解
レ藥。 以
二小 山上
一授
二達率徳頂上。 解
レ藥。 吉大尚。 解
レ藥。 許率母。 明
二五 經
一。 角福牟
一。 閑
二於 陰陽
一。 以
二小山下
一授
二餘達率等五十餘人
一也。 と あ っ て、 こ こ で は 余 自 信、 沙 宅 紹 明 ら 二 人 の 法 官 大 輔 と と も に、 多 く の 学 に 長 じ た 人 々
(4)に 冠 位 が 授 与 さ れ た こ と が見られる。そして、この学に長じた人々の筆頭人として「鬼室集斯」が見え、そこに「学職頭」の職名が記されて いることが確認できる。従来、この「学職頭」という名称に注目して、令制の大学寮の前身であることのみが説かれ てきた。だが、この史料を詳しく見るならば、最初に記される「法官」とは、周知のように、大宝令の「式部省」に つながる官であり、大宝令制の大学寮は式部省の統属官である。つまり、ここで「法官」に連なる形で「学職頭」の 職名が見られるということは、大宝令制における式部省と大学寮の統属関係のような形で、学に長じた人々を束ねる 組織があったことがわかるのである。さらに、法官として名をあげられている二人は、ともに渡来百済人であり、特 に 沙 宅 紹 明 は、 『 懐 風 藻 』 で は「 学 士 」 と し て 名 を 連 ね て い る こ と か ら
(5)、 こ の 頃 の 法 官 の 職 掌 と し て、 「 礼 儀 」 に 携 わる面が多かったであろうことも推察されるのである
(6)。
次に、 『懐風藻序』には、 逮
二乎 聖 徳 太 子
一。 設
レ爵 分
レ官。 肇 制
二礼 義
一。 然 而 専 崇
二釈 教
一。 未
レ遑
二篇 章
一。 及
二至 淡 海 先 帝 之 受
一レ命 也。 恢
二開 帝 業
一。 弘
二闡 皇 猷
一。 道 格
二乾 坤
一。 功 光
二宇 宙
一。 既 而 以 為。 調
レ風 化
レ俗。 莫
レ尚
二於 文
一。 潤
レ徳 光
レ身。
律令国家における「大学」創始の企図(今井) 三五 孰先
二於学
一。爰則建
二庠序
一。徴
二茂才
一。定
二五礼
一。興
二百度
一。 とあって、ここでは、聖徳太子の時代より、爵位や官職を設けて「礼儀」を整えてきたが、なお仏教を専らとしてい たことを述べ、天智の時代に至ってようやく、学問の重要性が理解され、学校が設けられたことが記されている。だ が、この史料においても、重要なのは天智に至って学校が設けられたということのみではなく、聖徳太子の時代を黎 明期、天智の時代を創始期として位置づけ、爵位や官職や礼儀、法令制定といった律令体制の基盤整備とともに、学 問の重要性が理解されるようになったという認識が記されている点である。つまり、この史料より、学制は律令体制 の基盤整備とともに、その創始の必要性が生じたということがわかるのである。 以 上、 二 つ の 史 料 よ り、 天 智 期 に、 「 礼 儀 」 の 制 定 に 携 わ る 法 官 の 下 に、 令 制 の 大 学 寮 の 前 身 と な る 組 織 が 設 け ら れ、 そこには学に長じた人々が属していたこと、 彼らは律令体制の整備とともに必要とされるようになり、 「風俗教化」 や「法令制定」につくし、学問の重要性を広めていったであろうことがわかるのである。 ところで、 この後の 『日本書紀』 記事を見て行くと、 天武四年 (六七五)
(7)には、 「大学寮」 の名称が初見するとともに 「諸 学生」の記載も見られ、大学寮に属して学問教授をこうむる「学生」の存在が確認できる。さらに、天武六年(六七 七 )
(8)に は「 大 博 士 」、 持 統 五 年( 六 九 一 )
(9)に は「 大 学 博 士 」「 音 博 士 」「 書 博 士 」 な ど、 大 宝・ 養 老 令 制 と 名 称 を 同 じ くする諸博士が確認できるようになる。こうしたことから、大宝・養老令制につながるような「大学」組織と、それ を官人制内で機能させるための「学制」は、天智期に創始され、天武 ・ 持統期に整備されたと考えられるのであるが、 これはまさに日本の律令体制の整備過程と軌を一にするものであることがわかるであろう。 では、 天智期以前、 すなわち律令体制の整備が進められる以前の学問教授は、 どのように行われていたのだろうか。 また、天智期以前に「学生」はいたのだろうか。次章では、天智期以前の「学生」と、学問教授の在り方について確 認し、天智期以降の展開について見て行く。
人文学報 第四六〇号 二〇一二年三月 三六 二、
『日本書紀』には、天智期以前にも「学生」の語が確認でき、大学が創始される以前にも、
「学生」と呼ばれる人々 がいたことがわかる。では、 「学生」とは、どのような人々の呼称であったのだろうか。
*律令国家における「大学」創始の企図(今井) 三七 表1を見ていただきたい。この表からわかるように、天智期以前の「学生」は、その全てが遣使に随行して中国や 朝 鮮 半 島 に 渡 っ て 学 問 を 修 め る 僧 侶 以 外 の 人 々 の こ と で あ っ た。 つ ま り、 こ の 時 期 の「 学 生 」 の 呼 称 は、 「 学 問 僧 」 に相対するものとして用いられたのであり、ここで注目されるのは、彼ら以外に「学生」と称される人々が存在しな か っ た こ と で あ る
(めるには渡航することが不可欠であったためであろう
(。 こ れ は、 当 時 の 体 制 と し て、 学 問・ 文 化 は 周 辺 諸 国 か ら 摂 取 す る こ と で 成 っ て お り、 学 識 を 深
10)。
11)では、こうした状況下において、子弟たちに対する学問教授はどのように行われていたのだろうか。まず早くに確 認 で き る の が、 廏 戸 豊 聰 耳 皇 子 が 博 士 覚 哥 に 就 い て 儒 教 の 経 典 な ど を 学 ん だ と い う も の で あ る。 『 日 本 書 紀 』 推 古 天 皇元年(五九三)夏四月庚午已卯条は、廏戸豊聰耳皇子(=聖徳太子)を皇太子に立てたことが記されており、この 記事の中で皇子の聡明さを示す言い伝えの一つとして、 且習
二内教於高麗僧恵慈
一。学
二外典於博士覚哥
一。並悉達矣。 というものが見られ、 皇子は内教すなわち仏教を高麗僧から学び、 外典すなわち儒教を覚哥から学んだとされている。 こ の 覚 哥 と い う 人 物 は、 百 済 か ら 渡 来 し た 五 経 博 士 の 一 人 と 考 え ら れ て お り、 皇 子 は 覚 哥 と い う 渡 来 人 を 師 と し て、 経学の学識を研磨したことがわかるのである。
そして、こうした例が廏戸豊聰耳皇子に限られたものではなかったことは、
『懐風藻』淡海朝大友皇子の項からも
確認できる。ここには、 皇 子 博 学 多 通。 有
二文 武 材 幹
一。 始 親
二万 機
一。 群 下 畏 服。 莫
レ不
二肅 然
一。 年 二 十 三。 立 為
二皇 太 子
一。 広 延
二学
*人文学報 第四六〇号 二〇一二年三月 三八
士 沙 宅 紹 明。 塔 本 春 初。 吉 太 尚。 許 率 母。 木 素 貴 子 等
一。 以 為
二賓 客
一。 太 子 天 性 明 悟。 雅 愛
二博 古
一。 下
レ筆 成
レ章。出
レ言為
レ論。 とあって、 大友皇子が学を好み、 広く古事に通じ、 才能があったことが記されるが、 それとともに、 大友皇子の周りには、 沙宅紹明、塔本春初、吉太尚、許率母、木素貴子といった百済から渡来した人々が皇室付きの学士として侍り、皇子 に学を授けていたであろうことがわかるのである。さらに、 『日本書紀』白雉元年(六五〇)二月庚午朔戊寅条には、 「新羅侍学士」というのも見られ、これは新羅出身の皇室付きの学士と解されるであろう
(。
12)一方、諸臣の学問教授の例として、 『家伝上』には、 嘗群公子。咸集
二于旻法師之堂
一。講
二周易
一焉。 とあって、蘇我入鹿や中臣鎌足を初めとする多くの貴族子弟が、旻法師のもとに通って「周易」の講義を受けていた ことが知られる。また、 『日本書紀』皇極三年(六四四)春正月乙亥朔条には、 而倶手把
二黄巻
一。自学
二周孔之教於南淵先生所
一。 とあって、中大兄皇子と中臣鎌足が連れ立って、南淵請安のもとで周公・孔子の教えを学んでいたことが記されてい る。ここで師として確認される旻法師と南淵請安は、ともに推古十六年(六〇八)に学問僧として隋に赴き、数十年 の留学期間を経て、 旻法師は舒明四年(六三二)に、 南淵請安は舒明十二年(六四〇)にそれぞれ帰朝した者である。 つまり、蘇我入鹿・中臣鎌足を初めとする諸臣の子弟たちは、中国において学識を深めてきた者たちに就いて、経学 を学んでいたことが知られるのである。
このように、天智期以前の学問教授の在り方は、渡来人たち、或いは周辺諸国に学生・学僧として派遣された経歴 をもつ者たちに直接師事するという方法で行われていたのであり、周辺諸国との交流の中で成り立っていたことがわ かる。そして、このような学問文化の摂取・教授の在り方に変化の兆しが見えるのが、天智期以降ということになる だろう。
律令国家における「大学」創始の企図(今井) 三九 三、
先にも述べたように、 『懐風藻』 の記述や 『日本書紀』 天智十年 (六七一) 正月是月条に 「学職頭」 が見られることから、 天智期における学校の創始がうかがわれる。そして、 天武四年 (六七五) には 「大学寮」 の名称が初見するとともに、 「諸 学 生 」 の 記 載 も 見 ら れ、 こ れ が 渡 航 し な い「 学 生 」 の 初 見 で あ る。 そ し て、 天 武 六 年( 六 七 七 ) に は「 大 博 士 」 が 見 られ、持統五年に至ると「大学博士」 「音博士」 「書博士」等の、大宝 ・ 養老令制と名称を同じくする諸博士が出揃う。
と こ ろ で、 こ れ よ り 以 前 の 大 化 元 年( 六 四 五 )
(国 博 士 に 任 じ ら れ た 高 向 玄 理 の 帯 す る 冠 位 が 高 位 で あ る こ と
(というように、 「国博士」 は 「左右大臣」 「内臣」 とともに改新政府の中枢を担うものとして位置づけられており、 また、
二一二一故進退廃置。計從事立云々。以 沙門旻法師。高向史玄理 爲 国博士 。
二一二一レ二一二一二一授 中臣鎌子連 。 爲 内臣 。 増 封若于戸云云。 中臣鎌子連。 懷 至忠 之誠。 據 宰臣之勢 。 處 官司之上 。
二一二一二一二一二一二一以 中 大 兄 爲 皇 太 子 。 以 阿 倍 内 麻 呂 臣 爲 左 大 臣 。 蘇 我 倉 山 田 石 川 麻 呂 臣 爲 右 大 臣 。 以 大 錦 冠 。 この「国博士」は、 令制にも見える官職であり、 学校の創始時期との関連で注目される。だが、 大化元年の記事では、 に「 国 博 士 」 と い う の が 見 え、 高 向 玄 理 と 僧 旻 が 任 じ ら れ て い る。
13)ど か ら、 こ こ で 見 ら れ る「 国 博 士 」 は 令 制 の「 博 士 」 の 前 身 で は な く
(る と、 教 学 に 関 わ る 活 動 が な い こ と、 そ し て こ の 時 期 に は 学 校 組 織 の 存 在 が う か が え る よ う な 記 事 が 一 切 な い こ と な 、 さ ら に は 彼 の そ の 後 の 活 躍 を『 日 本 書 紀 』 で 追 っ て み
14)顧問、 「国政一般の諮問」担当というように解するのが一般的である
(、 政 策・ 立 案 の た め の 知 識 を 提 供 す る 国 政 上 の
15)。
16)さて、 大学の正確な創始年代や具体的な制度整備の過程は明らかではないが、 天智期に学校が創始されたと見て、 『日 本書紀』より確認可能な大学関係者・博士を整理すると、表2のようになる。
人文学報 第四六〇号 二〇一二年三月 四〇
この表からわかるのは、草創期の大学関係者は、百済滅亡後に亡命してきた渡来百済人が中心であり、渡来人への 依存度が極めて高かったということである。だがこのことは、先に見たような、大学創設以前の学問教授の在り方か
**
*
()
)
律令国家における「大学」創始の企図(今井) 四一 ら考えるならば、当然の経過と言えよう。 こ う し た 創 始 期 の 大 学 の 状 況 も、 八 世 紀 に な る と 変 化 す る。 次 の 表 3 は、 『 続 日 本 紀 』 で 確 認 可 能 な 大 学 関 係 者・ 博士を整理したものである
(
。
17)()
()
()
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*
人文学報 第四六〇号 二〇一二年三月 四二
天 平 宝 字 五 年
神 護 景 雲 元 年
神 護 景 雲 二 年
神 護 景 雲 二 年
神 護 景 雲 三 年
律令国家における「大学」創始の企図(今井) 四三 この表よりわかるのは、八世紀に至ると、大学関係者における渡来人への依存度が下がるということである。 ところで、学令に規定される大学への入学資格
(18
)
を見ると、 凡大学生。取
二五位以上子孫。及東西史部子
一為
レ之。若八位以上子。情願者聴。~(後略)~ となっており、大学の学生は五位以上の子孫と東西史部の子から取ることとされている。五位以上の子孫といえば律 令 官 人 の 中 で は 上 位 の 官 人 の 子 孫 で あ り、 東 西 史 部 と い え ば 代 々 文 筆 を 業 と し て 仕 え て き た 史 姓 を 有 す る 渡 来 系 の 人々のことである。すなわち、大学は、上位官人子孫と専門的に学問を志す人々を中心とした就学の場であったので あり、こうした大学を創設することによって、自国内で学問教授を行う専門家を育成しようとしたことがうかがわれ るのである
(19
)
。 そして、 その結果として、 表3のように、 渡来人への依存度が下がったであろうことが確認できるだろう。
以上のことからわかるように、天智期以前は、学問は周辺諸国への遣使や渡来の形で摂取し、学問教授は渡来人や 周 辺 諸 国 で の 留 学 生 に 託 さ れ て い た。 そ れ が、 天 智 期
(20
)
に 至 っ て 学 校 が 創 設 さ れ る こ と に よ っ て、 自 国 内 で の 学 問 教 授体制が創始されたのであり、学問・思想の自国内での育成・継授の可能性が開かれたのである。そして、ここで注 目すべきなのは、学制は天智期に創始されて、天武・持統朝に整備されて、大宝令で確立するのであって、これはま さに、律令国家の成立過程と軌を一にすることである。
おわりに
従来、 学制創始の企図については、 律令制の一部を必然的に占めるものとして
(21
)
、 あるいは律令国家のイデオロギー を 身 に つ け た 事 務 官 僚 の 必 要 性
(22
)
を あ げ る こ と に よ っ て 説 か れ て き た。 つ ま り、 律 令 制 導 入 に 伴 う 付 帯 的 な 評 価 し か なされていなかったと言える。しかしながら、学制の創始によって、それまでの外部依存的な学問摂取・教授の在り 方が大きく変化することから考えるならば、積極的な評価が必要ではないだろうか。
人文学報 第四六〇号 二〇一二年三月 四四
私は、学制の創始が律令国家の成立と軌を一にすることに注目し、次のように考える。律令制を継受して国家体制 を確立して行くに際して、支配層のイデオロギーを形成・統合するための機関が必要となった。そこで、学制が創始 され、学問教授を自国内で行える体制の確立が図られたのである。従って、ここで最も必要とされたのは、支配層に 属する形での学問教授機関の設置であり、そこから専門家を輩出する構造だったのである。つまり、五位以上子孫を 就学者の中心とした大学を設定し、 登用試によって専門家を輩出していく経路を用意したのは、 まさにこのためであっ たと考える。こうして、日本の大学は「官吏養成・登用機関」ではなく「経学伝播機関」として位置づけられること となったのである。そして、 学制に託された役割は、 まず第一には律令国家体制を支える儒家思想の意義づけであり、 さらには体制維持のためのイデオロギーの形成と正当化、そして継承だったのではないだろうか。
註 (
(
1)野村忠夫『律令官人制』吉川弘文館 一九六八年
(
2)尾崎陽美「律令国家と学制~官人出身法における大学就学~」 『日本歴史』六五五号 二〇〇二年
( (『万葉集研究第七集』塙書房 一九七八年) 、岩澤豊「律令官人の出身と大学寮」 (『国史談話会雑誌』二六号 一九八五年)他、 一九六七年) 、高島正人 「日唐両学制の一考察」 (『社会文化史学』 七号 一九七一年) 、早川庄八 「奈良時代前期の大学と律令学」 不 昧 堂 書 店 一 九 五 三 年 )、 利 光 三 津 夫「 奈 良 時 代 に お け る 大 学 寮 明 法 科 」( 『 律 令 制 と そ の 周 辺 』 慶 應 義 塾 大 学 法 学 研 究 会 マ ル 出 版 会 一 九 六 八 年( 改 訂 増 補『 日 本 古 代 学 校 の 研 究 』 玉 川 大 学 出 版 部 一 九 九 〇 年 )、 多 賀 秋 五 郎『 唐 代 教 育 史 の 研 究 』 桃 裕 行『 上 代 学 制 の 研 究 』 吉 川 弘 文 館 一 九 四 七 年( 修 訂 版 思 文 閣 出 版 一 九 九 四 年 )、 久 木 幸 男『 大 学 寮 と 古 代 儒 教 』 サ イ
3)学制に関しては、左記の論文を参照した。
( 皇子が立太子の後に、五人を招聘したことが記され、その際には「学士」と記されている。
4) こ こ に 名 前 の あ が っ た 人 々 の う ち、 沙 宅 紹 明、 木 素 貴 子、 答 本 春 初、 吉 大 尚、 許 率 母 は、 『 懐 風 藻 』 淡 海 朝 大 友 皇 子 の 項 に、
(
5)『懐風藻』淡海朝大友皇子の項
臣上伝田事。 内 外 文 武 官 名 帳。 考 課。 選 叙。 礼 儀。 版 位。 校 定 勲 績。 論 功 封 賞。 朝 集。 学 校。 策 試 貢 人。 禄 賜。 仮 使、 補 任 家 令。 功
6)『令義解』より式部省の職掌を見ると、
律令国家における「大学」創始の企図(今井) 四五 と あ り、 主 た る 職 掌 は「 官 人 の 考 選 」 と「 朝 廷 の 礼 儀 」 と「 大 学 管 理 」 で あ る こ と が わ か る。 こ の う ち「 官 人 の 考 選 」 に つ いては『日本書紀』天武七年(六七八)十月乙酉条に、 詔曰。 凡内外文武官毎
レ年史以上属官人等。 公平而恪懃者。 議
二其優劣
一。 則定
二応
レ進階
一。 正月上旬以前。 具記送
二法官
一