社會的分業と技術的分業
.前 川忠 良
序
ローゼソベルグは﹁資本論註解﹂に於て︑社会内分霊︵狭義︶と経営内分業とを社会的分業と技術的分業に帰一せしむる誤りを指摘した︒
然し乍ら︑吾国に於て未だ技術的分業の概念の明碓性を火ぐと恩はれる節がある︒
本稿に於ては︑社会内分莞︵広義︶の発展を辿る雄により︑社会内分業と経営内分票との把捉を充分ならしめんと
し︑叉社会的分業と技術約分葉の概念を小生の理解に従って明らかにしようと心掛けたものであるが︑マック升︑ウ
エーバーによれば﹁マルクスは技術と云う概念を定義した事はなかった︒﹂ ︵ゾン.ハルト﹁技術論﹂阿閉訳一六一翼﹃接術
と文化﹄に関する討論︶ と云ほれるが︑技術的分業なる用語は用いられて店数いようである︒従って︑敢て技術的分業
の概念規定を試みょうとする事も問題が当然存在すると判断せられ︑或いは誤りが存轟するかも知れぬと思いつ1︑
一の試論を試みょうとするものである︒
﹁︑ 社会 内分 業︵ 広義
︶の 発展 過程
人間は︑食物・衣服・住居等の生活手段︑及び生産用具を労働によって獲得し︑生産する︒労働は使用価倍の生み
の母として︑人間と自然との問の質料変換を媒介する為の永久的︑自然的必然である︒
社会的分業と撥術的分業六三
経 告 と 経 済
六回
叉︑人間労働は動物の本能的活動とは具り︑意識的︑合目的的活動である︒即ち︑人
mM
が動物の・不能的労働と区分
される労働過程は︑﹁その終りに当ってすでに労働者の表象のうちに︑かくしてすでに観念的に存花して居た一の成果
が出て来る︒彼は自然的たものふ形態変化のみを生ぜしめるのではたい︒役は自然的訟もののうちに︑同時に彼の目
的
l
l
即ち彼の知って居るととろの・法則として彼の行動の仕方様式を規定するととろの・・そして彼がその立志をとれに従属させねばたらぬ処の彼の目的ーーを実現するのであるこ(マルグス﹁資本論﹂日評版︑長谷部訳四七九瓦)
人間の生産は二つの側面
l l
社会的生内向力と人々の生産諸関係
l l
の統一である社会的生産としてのみ行はれ る ︒
ζの統一なしには社会的生陀は一般に存・和する事は出来ない︒即ち︑﹁社会主義制度であろうと︑他の社会的成体
であろうと︑生産の両側阿が存布して︑初めて社会的生陀が行はれるのであるo
﹂(
スタ
1リγ︑﹁社会主義の経済的諸問
題﹂
古木
文郎
防間
入一
瓦)
従って︑人間の生向
m m
刊は︑一般に︑人間と円然との問に於ける一行程としての︑自然的︑技術的側面と︑人間と人間去の悶係としての︑社会的︑限史的側同との統一として抱おせられ︑凡ゆる人間社会の発展過程に於て適用せら
れる︒即ち︑労倒辺ねは︑商品生陀様式に於ては︑次の如く犯おぜられる︒
﹁人はみる口│←さきに商品の介析から符られたととろの使用制似を例迭するかぎりでの労働と︑価航を創造するか
ぎりでの同じ労働との問の区別は︑いまや生産過程の相間決なる側聞の区別として現はれたと一氏う乙とを口労働過程と
価航形成過程との統一としては︑生産過程は商品の生産過程である︒労働過程と価純増殖過程との統一としては︑そ
れは資本制︑生産過程であり︑商品生産の浜本制的形態であるo﹂
(マ
ルグ
ス﹁
資本
論﹂
長谷
部訳
五一
七頁
)
従って労働過程は﹁諸々の使用価値︑あるいは財の生産は︑それが浜本家の為に︑旦ク資本家の統制の下で行はれ
ると一式うととによっては︑その一般的及本性を変じはしない︒だから︑労働過程は︑さしあたり︑どの規定された社
会形態からも独立に考察さるべきである︒﹂(マルグス﹁資本論﹂長谷部訳四七七頁)としても︑﹁生産力は決して﹁純技
術的﹂純時ではなく︑社会的飽障であるのと同様に︑生産関係も︑その﹁社会的形態﹂も︑との形態のうちに行はれる
物質的H技術的過程から決して介離して居るものではない(観念論者が考えるように)︒他方ではとの質的生産関係
は︑機械論者が考える工うに︑生昆の技術的組以長上び人間の配位に涜元されるものではない白マルクス主義は技術
的過程と経済的過程との︑生庫関係と生か川力との弁M法的統一の見地忙立ち︑両者の同一性を認めると共に︑その区
別をも指摘するよ(ミ1チγ
︑一
プズ
ウモ
フス
u r ‑ ‑
山門﹁史的唯物論﹂広島︑同井訳一一六瓦)浜本制生古川過程の一極としての
労働氾犯を︑伺似川前泊ねん一の対
IU
紘一川係におるものとして︑即ち︑それを独特の社会的ぺ歴史的労働過程とし
て
m
m
すろ引に依って一川めて︑向け川に介められ允二川の労働の一極の具体的︑有用的労働の独特の社会的︑歴史的性ねなつかみ似る口
社会に於け右中一山一泊料上り︑労働氾引いを州公すろ'にしても︑資本主義社会に於ては価値形成︑増殖過程とは明離し
て考へる事は山川米十︑社会的︑限史的制約の下にししらへられねばならない口従って分業︑協業を八月一析する場合に於て
も︑社会内介業としての浜本主義的介業と︑外刊六仁川判的介小川とは歴史的共貨のものであり︑同一の令業形態としてと
らへる事は出来友い︒﹁古き分業が泊減し︑その代りに刈しい生古川組織が生れる︒﹂(改造版エシグルス﹁反デユ1
リシ
グ
論﹂
四六
六頁
)
而して︑社会的生産力の発展と相関述する介治︑日常
ω
花川山口︑人間の生命維持の存続条件としての︑生活資料獲得の為の︐労働過程の社会的発展形態として見る取が川米ろと川時に︑人間社会の経済生活の発展はその結果であると
云へ
る︒
自然経済の下忙於ては︑社会は同種の経済単位(宗〆父一'長制的
m u N
小川政・以始決村共同休・封建領地等)の集団から
成立ち︑原始共同体問の剰余生産物の贈与・交換は︑物件一交ね
ω
限史的端初と一氏はれる︒叉同時に共同体内の性別︑年令別等の八刀業忙基く交換が発生し︑共同体問の令菜︑及び︑共同休内の介業の相互作用に基く八刀業の質的︑量的発
展は︑生産力の地大を随伴し︑生産物の交換を哨犬せしめた︒
マルクスは生産を区別するとすれば︑交換を目的としない生政と︑交換を目的とする生産に分類する︒交換を目的
とした生産は︑偶然的危剰余生産物の交換から︑佃別商品生産者としての交換へ発展する︒労働過程に於ける自然的
社会的分業と技術的分業
六五
経 営 と 経 済
じ ︑ し ︑
‑/‑/
条件の相具︑生産者の経験︑熟練等の相具︑社会経済的諮関係等に基く︑社会的介業は︑労働生陀他の別大と相侠ク
て︑拡大︑深化する︒労働生産性の増大に基く労働力の節約は︑人間の治費財に対する質的︑丑的桃山昭一を前大せしめ
た︒即ち︑農業と工業との八刀菜︑泊費財坐古川より︑泊費財︑生産財の二大生産部門へ︑更に個別生市川市門へと︑生産
諸力の増大が生産関係を適応せしめク
L︑社会的ハザ業は益々増大したと云う事が出来る︒
﹁商品生産とその絶対的形態たる
ll
本主詩的生向に於ては:::生産物は︑他の諾商品がそれにとって等価をなすm
限りに於て︑他の諾生昆物がそれに対して向口川・として︑叉価似として︑対立する限りに於てのみ商品である︒﹂
﹁即ち︑商品の談波に上クてのみ使川伺似となる処の生向物とじて生向される限りに於て商品である口之等の諸商品
に対する市場は粍会的介主の結果お述して行く︒芯し︑生向的労仰の件仰は︑その夫えの生産物をば︑交互商品に転
化せしめ︑'交正午仰に収化廿しめ︑・一父五十山均として役立たしめるからであるよ
独立の伺川町口川生仰に川く社会的介小川は︑市口川に内和する︑川机左使用州航との間の矛盾が︑二クの商品の問の外
的矛川として苅はれろ
nm
‑B
︑使川侃似としての一般市川口mと︑伺似んしての代限である︒貨幣の必然性は商品生産の
出矛川から不可避的に生れたものである︒
従って︑初期の小商品生向に法く社会的介業は貨幣を媒介とせるハー⁝ハポに発民した口即ち︑何依尺度たる貨幣によク
て表現せられた市場・価格を前提とし︑各商品の生産に要する社会的必持労仰時間は︑比較的容易に比較せられ︑商品
経済の自然成長的法則は︑個々人の願望と無関係に実現される口
伺似法則は商品生産の行はれる処でのみ作用する歴史的法別である︒との法則の諮問女求は︑商品の交換がその中K
合主れた社会的必要労働に応じて行はれると云う点にある︒
﹁侃似としては︑凡ての商品は︑一定令景の夜間した労働時間に外ならない﹂︒生産手段が私有であり︑競争と生産の
州政府性が社会た支配して居る浜本主義の諸条件の下では︑価似法則は生産の規制者である︒との法則に基く競争戦
の小での︑仙称変劫のメカニズムを通じて︑種えの企業︑及び生応部門間への︑社会的労働と資本の自然成長的配分
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干九 し
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JJ41ift司;
然し乍ら︑個別商品の総生産過程を︑佃人的乃至は︑家族成員のみの労働によジて行うとすれば︑.生産力の増大は
長期に一且り停滞せざるを得左かクた︒伝米的︑職人的技術の勘・コヅにとどまる限り︑技術の一般化も︑道具の発達
も行はれ符広い︒従クて︑生陀労働の自然的制限は生産力の発展を一定の限界に止めざるを得ない︒
社会内に於ける出品生山川の沈令︑日
ω山市引に対する怠慾は︑交通・運輸税関の発述に法く市場の拡大︑市品需要
の川大
'f
v生山泊引に於ける例人的労働力の自然的制約と矛盾するに至る口相伐クて︑巾一山口川ω
十人る矛川口︑一方に於ける出入院本の日
ω
門前初︑他方に於ける農業生産力の増大に基く農民間の分解即ち︑労働力の向品化︑及びそれに必く市一間口m生向泊犯の介業︑即ち︑経済内分業の実現によクて解決される︒従クて︑新し
い社会的生陀力の明大の技術的主従は︑経九日的介会の発速によクて飛躍的に増大せしめられる口
一一︑資本主義的経営内分業
社会的生産カの増大に起因する資本主義的協栄︑及び介業に基くマニユブアクチユアの発生は︑個人的生産を社会
的生産に︑個別的生産手段を社会的生産手段に︑自由なる農民をマニユ・プロレグリヤ化する︒
即ち︑商品の生産過程の弁解は︑商人民本家︑院川町北白木家に工る商品生産過程の各部分行程の有機的編成過程︑又
は混成的集中に基く再編成過程である︒従クて︑経営門に於ては︑生産千段の所有者たる資本家の意志に基く︑労働
者の生産過程への従属であり︑農民層の令解に上り発生したマニユ・プロレグリヤは︑所記ニクの意味に於ける自由
たる近代的プロレグリヤの萌芽形態である︒
﹁市場の拡大︑特一本の苔積︑諸階級の社会的地位に生じた変動︑多数の人えが彼の牧入の源泉を掠奪されるに至クた
事︑之れとそ工場子工業の成立に対する歴史的条件たるものであるo﹂(マルグス﹁哲学の貧困﹂木下半治訳一六入頁)
然し乍ら︑経営内八刀業は資本主義的手工業の第一段階たる資本制的単純協業の形態として現われるものである︒
﹁用具と労働者との訴積と集積が︑工場内部の八刀党の発達の先行条件であった口工場手工業の本質は労働の分解と専
門的労働者を極めて簡単な一の仕事に適応させる事に存したのでなくて︑慎一rろ多数の労働者︑並び忙多数の手工業
社会的分業と技術的分業六七
経 営 と 経 治
六入
が︑一浜本の支配の下で︑単一の場所に︑単一の部屋に結合されたと一式う事に存したのである︒﹂と云われるロ
グス﹁哲学の究悶﹂木下訳一六入頁)
マニユブブクチユアの発生起源は二種の郡一によクて︑即ち各え具クた手工業の結合によるものと︑同組の仕事をす
る千工業の集合から︑その作業を分担するものとによクて区別される︒
又その完成形態を生産過程の技術的側而から︑混成マ一一ユと有機的マ=ュとに区別する事が出来る︒
叉集中マニユ︑八刀散マ一一ユは︑生向技術上の理由からも理解する場合もあるが︑八刀散マニーは歴史的初期形態とし
て︑集中マニユへの中間段階として把川仰せられる︒即ち︑マニユの支配者が︑前期的商人資本であるか︑浜本主義的
市立件一本︑内小川内木であるかに上クて︑
パ休的には杭えの複雑な形態に於て把握せられる︒H a
マニユブプクチ九プの木円以︑八ハなに伏り生内行引いが特殊の初段附に八刀剖せられるが︑千工業上
ω
一活動が各種の叩介労仰にヘパ川吉ろ
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でお
り︑
. 1 山山川労似・米川純労仰に上る労倒の等級が生やるとは一式え︑作業は依然とし
て千工主的でおり︑人川た批判ししする生山川川であるn即
} h J政相労働村を作法強とし︑未熟紋労働者の役割が極めて僅
‑mJである限り︑伝刊的技術︑川州五︑子工治的泊
ハに伏る刊以仰と川に何一らねばならや︑生産過程への技術の応用は充分n .
に行
われ
守︑
氏以
・一
会派
によ
る労
似汗
のセ
川は
・米
だ光
八
7旅立されて川以いり
性(木家は生産手段の所有者たる一引に上って︑労働の社会的生内力はれ一木の生応力となり︑浜本の内在的生産力とし
て現われ︑要捜する処たき労働の社会的生陀力として件一本に牧引やされる円社会的労働休の合一と︑立志の性本家への
集中︑帰属の結果︑科学︑技術の生産上りの独立︑件(木家への集中が行われる口従クて︑利潤追求の為の資本家に依
ろ処の生産過程の科学的合理化︑特殊生産行程への分化︑夜雑労働の単純労働化が行われる︒然し乍ら︑﹁分業が適
用される程度の大小は財布の大いさに依存するのであって︑天才の大小に依存するのでない︒﹂ハマルグス﹁資本論﹂長
符叩沢八六六刊日七五)
マ一一ユに於ける生出過引の部介労働化は︑労働能率の明大︑労働生産力の発展をもたらし︑労働過程の細介化に基
く︑滋九の布川化︑市純化は税械導入の素地を作る︒ともλ
に機械制大工業の発展の技術的基盤を生み︑人間労働力の
(マ
ル
生産過程よりの解放の可能性を生ぜしめる
0.
即ち︑労働過程に於て︑労働を芥日切にするに過ぎなかクた処の道具に代クて︑人間労働に代位するものとしての機
械の発明︑及びその発肢としての
m w v N
ω
防法︑介業に基く桜︐械休系化︑自動的原劫肢の一時入に誌く自動体系化の可能
性が科学のお山に伏クて与えられろ
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然し乍ら︑門木︑川花的
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同日
行︑
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公に
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相対的刺余価依生産の手段として︑労働者に対立するものとしてしか現
われ次い円川も︑川門学のれ一本家に上る独内に北川く抑制械の採用は︑機械の生産に︑要する労働と︑その桜快によクて省か
れる労仰との比較に於ては行われ守︑
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M刊の使用は商品に移される機械の伺似の方が︑機械によクて節約される労働
力の仙似工りも低い時にのみ︑作本家にとって有利であり︑その場合に限クて使用される事は︑マルクスによっ明ら
かにされた処である︒
﹁次八木の利得は︑もともと︑充用される労働のでなくて︑支払われる労働の減少から生十るo﹂(マルグス﹁資本論﹂長
谷部訳九二二頁)
﹁マニユブアクチユプに沿いては︑社会的労働過程の編成は純粋に主観的であり︑部分労働者たちの結合である︒機 械休系においては︑大工業は労働者が出来上クた物質的生産条件として見出すところの一の全く客観的な生産有機体
た有する︒﹂(マルグス﹁資本論﹂長谷部訳九O
七瓦
) 経常内介業の労働者は︑独立生産者としての目的意識を持ク事を得十︑唯﹁資本家は労働力の購只により︑生きた 昨母としての労働そのものをば︑やはり彼に属するところの︑生産物の死せる諸形成要素に合体させたのである︒彼 の立場からすれば︑労働過程は︑彼によって購買された商品たる労働力の泊費に他ならねが︑しかし彼は︑乙の労働 力に諾生産千段を附加することによクてのみ︑それを泊費する乙とが出来る︒労働過程は︑海本家が購買した諸物の 問の︑彼に印刷する山印刷物の問の︑一過程であるQ﹂(マルグス﹁資本論﹂長谷部訳四九四頁) 安本家による目的意識的生搾過程は︑性一本家的利潤追求の過程であり︑その手段は過去の労働の体化した生産手 段︑労働対袋︑及び生きた生産手段としての労働力との結合に関する資本家的生産技術であり︑従クて生産方法の改
社会的分業と技術的分菜
六九
経 蛍 と 治 経
七O
議日により剰余何似の搾取率を加重じ得る労働者の剰余労働搾取の為の生産技術である︒即ち︑人間が労働手段を用い
て生産力を地大すると一式う技術的︑客観的合理性も︑労働力の節約の為の技術の採用も必宇しも行われなくなる︒
唯︑件一本家の関心は︑生産過程に主クて符られた剰余価値が︑流通過程の浜本家間の競争により如何に実現されるか
と一
式う
事に
ある
︒
一ニ︑社会的分業と経営内分業
以上の如き︑マニユ及び︑税同制大工業の経営内介業は︑社会的介業の一個別的介業として︑
式︑即ち︑労働力の向品化に於て現われる口
次川本主義下の社会的(門)介業は対立的二クの起泌を持ク口一は共同休内介業であり︑一一は交換による共同休問の
介主である︒前者は︑宗校内介業︑経営内介業等として深化し︑後者は山口川生陀者間の守一菜︑特殊専門部門聞の分業
と し て 拡 大 す る 口 .
両汗の机・⁝小的相川先は︑計画的︑技術的生産過程の直接的規川が行われるか否かの点に存する︒
経営内八刀支は︑労働力の向品化に上って発生した資本主義作有の一個別的介主であり︑発肢として見れば︑寧ろ︑
独立商品生応者の生産過程そのものの単一意志規制下の白木主犯的企主としての発民に他反らや︑目的意識的企業︑王
に対して︑無目的々生産用具・生きた道具として︑件(本円余の労倒泊料に︑作一木家に代位して労働者が現われる処の
経営であるからである︒資本家は科学技術を︑生産目的に行水との結合在計ると云う立味に於て技術的であると云
える
一般的社会的介業と経営内八刀業とは︑相互に影山押し合いつL ︒
拾え発民せしめ︑相互に移行し合う関係にある口即 ち︑交換は相共った各生産部商を相互関連せしめ︑社会的総生陀の相独立した各部門に転化せしめる︒従って︑従姉
に川独文してぽなかクたものが︑独立するように注り.︑又マニユブアクチユアの如く︑従前独立して居たものを経営
円八えしに集中せしむるが如きである︒
性本主義特有の形
﹁労働の生産性︑生産の量︑人口の量︑との生向様式を発展せしめる過剰人口の量がまさに︑遊離された資本と労働
をもって︑絶えや断た紅営業部門左呼び起すのである︒:::乙の過程は不断に起る口同時に性本主義的生産は︑まだ
・支配して尽ない:::限式部門左凡て征服し上う土ぷナ︒﹂(マルグス資本論断片第一返却六立﹁限接的生花泊程の結呆﹂岩波
文町︑向坂沢二O間以)
﹁そ
れω
みで
は以
い円
一川
一一
々は
一般
的に
次ω如く
11
川するととさえ出来る︑日く︑社会内部に・おいて強権が分業を支配
する引介上り少ければ少いだけ︑工川市川市にbいて介九五は上り一一回たど一人の強権の下に従属せしめられるものであ
る
kn
此に︑工川一叶内に沿ける品川根在︑・社会内にわけるそれとは︑ハす業に対する関係においでは︑相互に反比例する︒﹂
(マ
ルグ
ス﹁
哲学
の品
川附
﹂木
下訳
一六
六頁
)
﹁社会内の八刀業と作業場内の八玄米との
m
には汲多くの烈似があり︑また関連があるにも拘らや︑両者は︑たどに段階 的に相具するばかりで友く本質的にも相泣して川る
o﹂(マルグス﹁資本論﹁長谷部訳入四七頁)
独立商品生産者が目的意識的であったと同様に︑日比九円内八刀業は資本家の目的意識的統制下にある︒然し乍ら︑手工
業者が商品生産者であり︑価値の実現は流通過引に上って規制され︑社会的介業の椛成者として
J無政府的︑無統制・
であったと同様に︑白木主義的経営に上って生向せられた商品の価値実現は流通過程によって規制せられ︑個々の企 業を商品生産者とする︑社会的介業であり︑従って︑社会的観点上りすれば︑性本家的商品生産も又無政府的︑無統
制である事は当然である︒
単純商品生産に於ては︑価値と価格の背離は短期間に流通過程を通して調叫位される可能性を持クて居たが︑個別生
産の社会的生産化︑及びそれと私的所有との矛盾は一府政化せられた形態に於て現われる口
社会的令業は相独立した数多き商品生産者の聞に生声機関が八
74
散される事左前提とし︑彼等の独立した労働を相関 述せしむるものは︑その各々の生産物が商品として存在すると云う事実である口かくて社会的令業に於ては価値法則
に上り︑客観的合理性に一致する傾向を有する︒
浜本主義的経営内介業に於ては︑商品の突換が行われない以上︑伺航法則は作用したい︒然し乍ら︑各不変資本部
社会的分業と技術的分業
七
経 営 と 経 済
-~
八刀及び︑各部分労働者の可変資本部分が綜合せられた時︑初めて商品に転化されるのであり︑流活泊料に工る間接的
規制が︑件一本家的生産過程に於て︑生産費の法則として変貌せられた形態に於て︑れ・本家に上クてぷ一政せられては泊る
事は忘れられではなら怠い︒
次八木主義の基本的法則は剰余価値の法別であると云われる︒商品生産に於ける仙似法則は独立生向汗相互間を汎制
したが︑剰余価値の法則は経営内の労務︑関係のみを規制する法則ではなく︑労作一関係に工つて決定される次ハ本相互関
係を合むものである︒
決只木主義の基本法則たる剰余佃似の法則は︑マニユブアクチユアが被械制大工業に発民するにつれて︑より具体化
し︑工り発展する︒科学の発反に伴い︑生産過程は工り細外化され︑終決の介主に及ぼす切符は秘めて大きく︑生産
過程の一特殊行程の専門化︑独立化を促し︑経営内介業の社会的介業化の傾向明大し︑一般化する口而も︑一商品の
特殊生向過裂の独立化は︑他の生陀過程諸部内の独立化を促し︑一企業はにい一本の制約によって幾つかの独立企業に分担
隊さえする︒然し︑作木家に上る特殊生産行程の最初の独立化部門は︑生市川技術の改良により超過剰余価値を放も有
利に犯ぬしうる行程であり︑その独立化は利潤の回転率を高度化しうるからである︒且つ︑一特殊生産過程の独立
化︑大量生産化は︑他の同組企業を圧倒すると共に︑他の特殊生市川行ねの独立化した関連産業企業生産の商品に対す
る需要を増大せしめ︑関連産業企業の技術的改良に基く犬長生内化を促す︒然し乍ら︑他の関連産業部門に適用し得
ペき技術の未発達の場合は︑他部門は中小企業の形態で残存し︑向付川武の.叩川市文の増大は企業数の増大によって応ぜざ
るを得ない口か.ふる中小企業は完全に社会的に独立した生古川部門化し仰やノ︑形式上独立した形態をとっても︑金生産
行程の有力なる一行程を担当する資本家Jの実質上の支配を受ける事Tにたる︒一般に中心的な支配的浜本家は︑特殊生
向過程の犬規模化した犬資本家であり︑生産技術的には︑技術的改良の故も高度に発展し得︑且つ犬浜本を必要とす
るほ料部円であり︑生庄過程介化の初期形態︑叉は特殊商品に於ては批終生産段階の企業資本家である場合も存在す・'
uo
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然し乍ら︑中小企業の増大も一時的である事は忘れる事の出来ね事実であり︑大資本家に上って支配された他の特
殊生産行程の中小資本家も︑社会的浜本川市桜の地犬︑労働者階般の川犬︑市場の以大に伴い︑技術の発達は中小資本
家の集中により完全に独立化し︑社会的介業経営形態に成長する口然し現実は︑作枠内生市川過程の犬規特独立化に基
き︑一気に独占段階に突入し︑独占性︑木は巾小従犯企業の一技術的生出千段の改良を心叩け十︑凶則的尚北供︑木的収奪
の千段として山存し︑巾小企小川左労似力の的取千段とする下詰企業化する︒かLHO形態は仰に日本の如台後抗日国に
於て九休的に見る引が川米︑以内れ・山本の立秘的巾小企業品存の政策は︑社会的生爪力の川大を川川市勾引するも
ω
と公えよF内ノ︒
川も︑関川川に上る機械の生慌が可能になるや否や︑経営内介業の社会的介業化は茂川的に川大する︒即ち︑件一本家
的山出向佼術は一企業門に於て主要たる地位を占めたが︑今や︑機械に工る機械の生陀即ち︑技術の向品化曹とも規定し
うべき生古川総式の変化は︑個別経営内技術を社会技術化する︒市場の拡大と︑一向ム民生山伏術の一般化は︑各自主部門
を︑個別商品部八万産業部門化し︑生産技術の剖一位︑普通性は︑各個別企業生芦辺担在阪税にからみ合わせる︒
かtAる社会的八玄米形態の下に於ては︑社会的生産と私的所有の矛盾は高度に反川せざるを仰ない口一部介向口川は流
通過程を経過する事たくしては︑全生産過程た経過し符・子︑川取終泊費財たる事は川米ない︒川川五︑か
t λる
山口
川の
形態
をとれる部外品は︑それ自体として一般的使用価値たり符ない︒即ち︑且つては︑汁両的︑技術的生所過犯として資
本家に工クて規制せられたものが︑今や無計画︑無政府的商品流通に投げ込まれる︒即ち︑仙似尖現が他の生産部門
の仙
似市
一一
︿現
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雑に
から
み合
わざ
るを
符な
い︒
かえる市品生応形態の一般化は︑それが高度に達すれば達する程︑私的所有と社会的生内の矛貯は政成し︑恐慌の
可能性を明大︑深化せざるを符たい︒叉生産過程の相互依存性の拡ムへは︑白木衣川'川左作一本家階絞立識えと変ぜしめ
る︒従って︑元米何一政府的社会的介業に基く商品生産に︑総資本としての汁回的︑技術的観点を要求せざるを待なく
たる口レツセ・フェールの時代は過ぎた︒国家に工る経済政策はその市一川県性が却水せられる︒又一一回経営内に於ける
労働者と資本家との対立にすぎなかったものか︑労働者をして他企業の労働者と一
ω
悶述意識を生ぜしめ︑自由主義資本主義の浜本の平等の要求は︑労働条件の平等として反映され︑個別経営内労働組合意識の︑部門別︑産業別組織の
社会的分業と技術的分業
七
経 営 と 経 済
七 四
ム口同への意識を向からしめる︒
又相対的剰余価値の生産に於ては︑本来労働に印刷する諮問的性が資本の属性に転化して現われ︑労働点引は自己疎外在︑
続けるのであるが︑かふる段階に於て︑各生座部門の関連は︑結合労働者として社会的生産力の統一的判当者たる自
己立識を回復せしめ︑再び人間に復帰し工うとする口
叉経営内ハ玄ポの組級者︑たる浜本家は︑自己の社会全性本に対する部ハ
Th
本家へ転落し︑社会の会関連声業院本によ
め規制せられる事を認識する︒従クて︑次日本家の利潤の最大を求むる意絡は︑自己の経営内介業に適用した技術的合
理化を全関連産業部問への適用を意識せしめ︑性本家間の激烈な競争の結果は企業の集中︑独占化が推進される︒
﹁独占件一本主義除︑どんた利潤でも要求して居ると一式うのではなくて︑全さに故犬限の利潤を要求して居るのだと云う
ととを︑念頭に・おかたければたらない︒乙
4れとそ現代資本主義の基本的怪済法則であろう︒﹂(スタ1リγ
︑﹁
社会
主義
の 経 済 的 治 問 問
﹂ 古 木 丈 山 版 冗 四 瓦 ) と 云 わ れ る
︒ '
私的所有にだく︑市純向口川の目的意識的生産は︑社会的生産の無政府他K矛尻し︑資本主義的商品生産に於ては既
述せる如く︑上り拡大した形態に於ける矛府として現われる︒とのい払大せられた矛川左解決し工うvどする独占資本の
政府格力との癒着叉は支配に悲く︑経済政策への要望は︑一経品目内に対する日的立識的生向指劫を︑少数の独占資本
家に工る悶民経済えの駄犬︑泊用として現われる︒従って︑渋木︑主%の発反則に於ては︑剰余価航︑生限価格の法則
が経済法則として政治的関係を沿いて解明せられたが︑最大限利川の法則が北川本的法則とされる独占資本主義段階に
於ては政治的側而が重要ほさる点も以上の事から理解する事が川米る口然し乍ら︑目的意識的活動の国民経済的︑拡
犬は資本主義の円満な発展を約束し符宇︑逆に矛盾の激化として別われざるを得たい事は自明の理である︒即ち︑少
数の独占治木による目的意識的国民経済の運営は︑国民の生爪に於ける目的意識と矛居せざるを符ないからである白
山内的中火活苛の川大の結果︑今日の組織労働者の明日の失業清たらざる保証は何等存在しない口組織労働者と失業者
のイゾオロギ1的利共は完全に喪失する︒而も︑独占わ本主将段階に於ける利潤追求は相対的剰余価侃の生産より︑
約対的刑公仙似の生爪へ︑失業労働者人口の哨犬は︑技術の採用より年ろ︑手工業的労働搾取への傾向を強める︒
尚一品目えは生産技術的側面の他に︑件一本の側一川も観察せねばならない︒浜本家による経営内分菜︑科学技術の目的意
識的採用は︑浜本の諸積と労働力のいよ川加とによクて制約を受ける口既述せる如く︑分業応用の程度は財布の大小に懸
る︒即ち︑伺人の件一本許税には一定の限皮と相片山の時間とを要するが︑資本制生産および山市街が発反するのとおなじ
市川
︑人
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︑集
中の
以も
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次附
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打︑
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札つて門的統一的であるものが外的に自立化して行くが︑然し一叫び門的統一に引
. M とれかい次ら山一川口乙ω
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(本の銀行資本による支配結合︑独占資本と国家財政との結び付
さ年
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集中と天川ω
聞係に於てとらえる事が出来る︒以上︑経営内八刀川町れが作一本主義に特有な介主として︑社会内介業の一個別的介業として︑而も︑両者相類似した点在
有し乍ら︑本質的に共クた介業として現われj又げはかハ内分業の発展は︑逆に社会内分業に単純商品生産者聞の分業と
共クた側商を︑即ち︑価値法則によクて問扱的に刈制せられた商品生産者間の対立に︑他の側面︑即ち資本家対労働
者の対立を一般化せしめた形態に於て現われる︒即)hJ︑資本主義の基本法則たる剰余価似の法則は平に縦の関係のみで友く︑資本家間の関係を合むと解し得る︒即
ち︑次川本相互間の関係は平均利潤率の作用により︑生院内礼の法則が作用する口然し乍ら︑市場価格は生産者と泊費者
の関係を去現し︑商品需要を規制するものは階級関係であり︑剰余佃似の法別である口
又独占約︑本主張の段階に於ては︑国民経済の統一的規制が行われ約一本家間の競争が排除し得るとしても︑
取が行われる限りは生産と泊費の矛居は解決され得べくもない︒
皆汲内窄
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四︑社会的分業主技術的分業
ロ1ゼシベルグはマルクス﹁約一本論﹂第一巻第四篇第十二宰の相対的剰余価値生産の介業に就いて︑次の如く説明
する
︒
﹁マルクス主業文献では次の如き介類が設けられて居る口:::組織された分業を意味する技術的介菜︑及び社会的分
社会的分業と技術的分業
七
まi
経 営 と 経 済
七六
.4
公(即ち︑組織されてたい介業)之れである︒本文の筆者も長い間かL
る介類を採用して居た口しかし︑か
L
る八
刀類
は誤クて居る上に有害でさえある事を認めねばならぬ︒第一に︑それには階級的契機が欠けて居る︒乙の分類に於て
は︑程えの経済的柏造の相具は︑木賃上介業の形態に於ける相具に還元されて居る︒第二に︑技術的介業と一氏う用語
に工クて︑全然凶器只的反現象が混同されて川る︒しかし︑イシドの共同休に於ける分業と︑資本主義的工業又は︑マ
一一ユに於ける令市一品は全然界一(なる現公である引な一一心似せねばならぬ︒八刀誌は前の場合は共同体生活の基礎であるが︑後
の場合は件ハ木主義的関係.の県出である︒市三に︑この八刀測の前提もその根抵となクて居る思想も全く承認し難い︒即
ち︑有終的八刀誌は政術に服し︑非山刊れ的介立は村山析に目すると一式う事が前提と注クて居る︒そ乙で後者は経済学によ
って研究されるが︑山川才はそうで
MK
い口と一氏う明白な結論が生やる︒か上うに技術と経済を対立させる事が誤謬で
ある一引は︑防九日丸山リマ一一九一ブプクナユアの克介之を示して日はる口マニユブアクチユプに於ける八刀業は技術的でもあ
り︑
日日
前的
Jでもおお川公である︒﹂﹁従クてマニユの机織的H投術的英政︐│例治された生きた生産機悼の特殊性の一分
析花︑そしてて︑マ一一九
ω
社会的げは済的治契椛在︑その洪水主夫的形態ω
介析を注立深く追求する必要がある︒﹂(ロIゼンベルグ﹁白木市川川﹂淡
‑ m
井山三九二五)川らば︑マルクスは介主立如何に机定するか︒﹁もし労倒そのもの丈を山小にゐくたらば︑農業・工業等えの如き 大きな消火のおへの社会的生向の介一川は一般的介業と名付けられ︑初えの川一次び国杭への生産上のかL
る尽の分化は
特殊的介業と名づけられ︑一作業場内の介業は個別的介主と名づけられ作る︒﹂(マルグス﹁資本論﹂長谷部訳入四二頁)
向介業の発生旭川似によクて︑社会的介業
li
商品生産の共通的指泌
1!と経営内分業とに医別される︒
然し乙の二種の八点去の区別は︑把掠の基準を兵にして居る処の︑九︿休的概念しいしての介類であり︑次川本主義社会に
於ては︑一般的介業︑特殊的八刀業は社会的介業に包括し︑一作治坊の門部に於ける介業と蕊営内八刀法ボは一応一致して
川ると比て下支えないと思われる︒
﹁社会的介治﹂なるM川沼は︑﹁社会内介業﹂(経営内介小誌を合む広誌の立味に於て)左同義語的に用いられたりする
が︑一般にい刊行川内介弐との凡(休的対立概念として主要祝される白木杭前二節に於て用いられた用語も具体的概念とし
ての﹁社会的介業﹂であクた︒
マルクスが﹁社会的介業﹂を商品生陀の共通的主総として把挺すると同様に︑
いて﹂に於て︑社会的介業な市坊と一バう
WM
Aと不可八刀のものとして把握する︒
ル穴水九州の川川村川工法在九州じ穴山川で︑﹁竹内化された話機械の問への労働者の配分﹂に於て︑﹁か
る介業は純粋t λ
に政術的
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であ乙︒﹂しし川一一心してあるが放に︑技術的介業と規定する事は︑概念規定の厳特性を欠ぐと一民
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川(
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(い
い
)Lιげは営内分業の本質的相呉の説明として︑商品生搾の共通的基礎と
しての非加山的形符としての﹁社会的﹂介川市と︑日的双山市川的︑組般的形容としての﹁技術的﹂であり得る介業の意味
に用いたにすぎないと判断する︒
﹁か・ふる令部北は純粋に技術的である︒﹂と一氏う︑マルクスの立味は︑負本家にとクて︑目的資識的であり︑技術的であ
り符ると一式う立味であクて︑生産関係が合まれてMKいと一式う立味ではない︒生産に於ける人と人との関係が︑生産
手段の所有関係を全然無祝して考えられる告がない︒労似組織︑介菜︑協業等々も又︑労働過程の生産力の範時であ ると共に︑同時に︑歴史的︑社会的制約を合むも
ω
勺あるn主して﹁特殊化された話機械の間への労働者の配介﹂は
門本家を抜きにしては考えられない問題であろう︒
﹁椴械が一の蕊済的範鴎でない事は‑鋤を引クばる午がけ枕済的約院となり符ないのと同じである︒機械は一の生産力
にすぎない︒機快の応用の上に立クて居る近代的工場は一の社会的生山間係であり︑一の経済的範附切であるo
﹂(
マル
グス木下沢﹁古川午の社凶﹂一六二頁)に関するプハ1リシ的併釈の於りは︑レ1ニシによクて指摘せられ︑明確化せられ
た処である︒(川市部久政﹁価値論と史的唯物論﹂四六五)参照)
元来︑﹁社会的﹂なる用語と﹁技術的﹂なる用語は︑柏会的概念としては対立概念たり得ても︑具体的概念たる社
会的八万業に対交する概念として技術的なる用語は用い得たい事は明らかであるにも拘ら宇︑ロ1
ゼシベルグの指摘せ る誤まてる用語が︑否問に於ても倫用いられて居る︒乙の点に閲して︑マルクスが技術的分業なる用語を用いなかク
た事は注怠されねばたらぬ︒ レ1ニγ
も﹁いわゆる市場問題にク
社会的分業と技術的分業
七 七
経 首 と 経 済
, 七 Y¥
技術的介業を明らかにする為に︑一応︑介業及び技術の概念を明らかにする必要がある︒
社会に於ける八刀業は単に生産関係としてのみ把おさるべきでなく︑生産力的側面をも合むものである︒マニユに於
ける社会的生産力の増大は︑機械に於けるそれではなく︑労働力の介業による協業が生産力増大の契機であり︑マニ
ユ
AA
菜︑及び協栄は︑生産力的側而として
ω
必似迦引伐の諮問沢形態として︑技術的概念を合むものとして把抗される事が出来る︒
生産力の発足としての介会は︑労川山尚一川町ω
介川に法く︑人間労働力と人間労働力との分菜︑人間労働に代位する機
械と人間労働力との比例的介示日︑
'H
休ポ化した於快のみに上る介業︑協栄として把握する事が出来る口M
次に技術概ヘルは次ω
如く
州い
れさ
れる
︒ 既に沼一平に於て川広ぜられた如く︑人間労働は効物の木能的相劾とは具り︑意識的︑合目的活動である︒と同時
に︑物
ωn Mm
的山川町⁝︑及び山品川在︑九札会的形践︑及び辺助に変えるものであるJ
所前︑自然的法則の社会的再生産に 他以ら山口人川必似は円
M m 物としてのエネルギー的運劫であると同時に︑目的立識的泊勤であり︑叉社会的生産活動
でもあり︑又校山川は生向技術として︑生陀に結びつけて犯似されねばならぬ︒人間労働は本来的に社会的であるが︑
自然物は人間によクて働きかけられる弔に工って︑初めて紅会的性絡を持びる︒即ち︑自然物の存在︑運動は︑社会
的存在︑辺助化する伊
又︑技術は物的技術と人的技術との統一として把握さるべきであり︑技術の具体化せられた生産手段の体系ではな
︑ ︒
︑V
即ち︑人的技術は介菜︑協栄に於ても見られる処であるが︑又マニユル九八本家の目に映十る労働者が単なるエネルギ
ー支出の自然的生産要素に還元される如く︑労働力の量的︑町的介理化︑即ち︑劣働方法︑労働力配置の合理化︑労 倒力ω攻守等︑技術的生産力の概念として把握される口 又︑物的此術は容仰的合法則性の目的意識的適用としての︑佼術
ω
共体化せられた生産手段である︒従って︑具体 的比術以生山力が労似過程ω
三つの要素に蓄積せられた芯味に於ける生産諸力に労働の火が点ぜられるや︑労働の生産力として実現する処の実践概念として把捉すべきであろう︒
労働はもともと人間が寄り合って時んで居る状態に於ける︑もともと共通的である活動の事であり︑社会的概念を 合むものであり︑叉︑労働・生向・技術仕切り附して考える事の出来危いものであり︑従クて技術も又社会的概念で
ある
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一一
一枚
川汗
﹁椛
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川及
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概念
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従(
って
︑校
山川
ω
山れに川町て︑比術日小山内力ω
川公に招く︑エネルギー的運劫休としての人と物去の熱力苧的運動の
側同町比ろ引が川米ると川川に︑他州︑以史的︑社会的に規制せられた側面をも見る事が出来る口
然し乍ら︑校術は木米生応力的間企であり︑午一向力発一口民の概念である︒一般に用いられる﹁技術的﹂介一美に於ける
技術的曹とは︑生以川力発肢の為の・将仰的介法則性のH的芯識的適用の意図の含まれた一意味でたければならない口
以上の事に工り︑経営内令﹂弐左技術的ハザ↑主に知一せしむる誤りは次の如く指摘する事が出来る口
技術が実践概念であり︑生産諾力に労働の火が点ぜられるや︑労働の生産力として実現するものであり︑資本家的 経営内介業に於ては労働の火を点やるものは仇八木家である限り︑そとに実現される技術は資本家的技術にすぎないU
然し乍ら︑資本家に工る労働力の包摂としての絞件内外⁝会は生院力の増大を目的として居るのではたく︑利潤乙そ
目的危のであって︑技術に上る生産力増大はその千岐にすぎたい口性本家的目的立識的技術の適用は︑即ち︑昨日本家
にとって技術的であり得一るのは︑技術の適用に工る生内力の前大が︑剰余何侃の増大として現われるからである︒利
潤の哨大たき処に技術の適用は起り符ないし︑叉利潤の川大の為には生産力の減退さえ試みられる事は︑独占資本主 義時代の企業に於て見られる処である︒技術は前述の如く生産
F 力の発民概念であり︑技術的介業止は生産関係として
の刺余伺伯概念の介入すべき用語ではなく︑件(・本家的経営内外‑弐は生産カ増大日技術を日椋とするものでは注い︒従
って経営内外業を生応力的概念の技術的八月業なる用語左用うる一引は︑潜称と一式う可きであり︑そ乙に於ける技術は資
本家的目的窯識により規制せられて居る事を無視せるものと云わねばならぬ︒か
る誤りは︑生産千段の休系を以っt λ
て技術色なす事によって必然的に生じたものと考えられる︒従って︑敢て具休概念として技術的介業を用うるとすれ
ば︑
将に
性本
出家
的技
術的
令部
一式
と喝
なさ
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社会的分業と技術的分業
七 九