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ヘーゲル『法の哲学』の「欲求の体系」の『講義録』の比較・分析(1)

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(1)

はじめに

 周知のごとく,ヘーゲルは「法の哲学」の講義を七度にわたりおこなっている。それは彼自身がその講 義の「梗概」として執筆した『法の哲学綱要』 (1821)の刊行以前に三度, 『綱要』を手にして四度おこなっ ている。いずれも冬学期において講義されている。最後の第七度目は,最初の二回分の講義をおこなっ たのち,ヘーゲルは 1831 年 11 月 14 日コレラのために急逝した。

 本稿は, 『綱要』の「欲求の体系」 (§189 -§208)を中心に,各講義録の比較・分析を試みるものである。

とりわけ E. ガンス によっておこなわれた „Zusatz“(補遺)の完全な再現を試み, 「欲求の体系」の正確な 把握を目標としている。

Ⅰ G. W. F. ヘーゲル『法の哲学綱要』の成立事情   ─ 自然法および国家学に関する講義 ─

 ヘーゲルは「自然法および国家学に関する講義」 (「法の哲学講義」)をつぎの順序でおこなっている。

1 1817/18 冬学期 P. Wannenmann 手稿(ハイデルベルク) 全体 170 節。

2 1818/19 C. G. Homeyer 手稿(ベルリン) 全体 142 節。

3 1819/20 J. R. Ringier 手稿および Indiana 手稿(D. Henrich 編)

a )

(これらの手稿のみ編,章,節の区分けはない)。

 1821 Hegel『法の哲学綱要』出版 全体 360 節。

4 1821/22 Kiel 手稿 260 節まで ─(§261 以降は欠如)。

5 1822/23 H. G. Hotho 手稿 全体 360 節。

K. W. L. Heyse 手稿(§100 ─ §341 のうち,部分的に言及されている)

6 1824/25 K. G. Griesheim 手稿 全体 360 節。

7 1831 D. F. Strauß 手稿(最初の 2 回分のみ)。

学期はすべて冬学期であり,講義の場所は,第二回以降はすべてベルリンである。

 さて,われわれは各手稿の編別構成を見ておこう。第一回 講義は,全体が 170 節からなり,第二回のそ れは 142 節であり,第三回のそれは編・章・節による区分けがない。1821 年にヘーゲルは全体が 360 節 からなる『法の哲学綱要』─ 講義の梗概 ─をベルリンのニコライ書店より出版した。以後の各手稿はこ の区分けにしたがった講義録である。

尼  寺  義  弘

ヘーゲル『法の哲学』の「欲求の体系」の

『講義録』の比較・分析(1)

(2)

 各手稿の編別構成を見ておこう。それはつぎのとおりである

b )

     ヴァンネンマン手稿  ホーマイヤー手稿 リンギール手稿 『綱要』

インディアナ手稿 キール手稿

(D. Henrich 編) ホトー手稿 ハイゼ手稿 グリースハイム手稿

   序   § 1 - 10 1 - 16 編・章・節 1 - 33   抽象法  §11 - 49 17 - 57 の区分けなし 34 - 104    道徳   §50 - 68 58 - 73 105 - 141   人倫態  §69 - 170 74 - 142 142 - 360

 ヘーゲルの死後, 「故人の友の会」 ─ 彼の友人および弟子たち,Ph. Marheineke, J. Schulze, Ed. Gans, Lp. v. Henning, H. G. Hotho, R. Michelet, F. Förster ─ により,最初の ヘーゲル全集 全18巻(1832-1840)

が,ベルリンの Verlag von Duncker und Humblot より出版される。

 ソフォクレスのつぎの箴言が,開き扉,右ページ右下に記されている

c )

。    ─ 真理はつねにロゴスにおいて最大の力をもつ ─

 『法の哲学』は,E. ガンスの編集により,1833 年に,同全集,第 8 巻 として出版された。以後,この「ガ ンス版」が今日まで『法の哲学』の底本となっている。

 ガンスは,編集にあたり,上記のホトー手稿およびグリースハイム手稿をはじめて“Zusatz”として部 分的に取り入れた。

Ⅱ E. ガンスによる二つの手稿の編集上の問題点

 ガンスはどのように二つの手稿を取り扱い,„Zusatz“(補遺)

d )

として各節 § の末尾に掲げたのである か。われわれはまずこれらの手稿が補遺として取り上げられている量的な関係をみることにしよう。

 1 ガンスは,これらの手稿を参照したが,各節にある「全手稿」360 のうち,取り上げたものは 192 に すぎない。残り 168 は,最初から取り入れなかった。

 たとえば,第三篇「人倫態」,第二章「市民社会」は,§182 から §256 までであるが,それの全体である 75 節のうち,手稿を補遺として取り入れたものは 37 節であり,38 節は取り入れていない。

 ガンスはなぜこのような取捨選択をおこなったのか。その理由は彼による「序言」をみても定かなもの ではない。だが,手稿である以上すべてを正確に取り上げるべきであった。

 2 ガンスが取り上げている場合も,二つの手稿を翻刻・解読し,該当箇所の全文をそのまま取り上 げているのではない。

 ガンスの独自な判断で手稿の文章が取捨選択されている。したがって,たとえば,ホトー手稿のみ,あ

るいは,グリースハイム手稿のみが取り上げられていることが多い。

(3)

 3 しかもその場合も,全文ではなくて,一部のみの採用である。そして,適宜,彼の文章による繋ぎ が入っている。

 4 兩手稿を部分的に繋ぎ合わせている場合もみられるが,彼の取捨選択により,そして彼の文章で 繋いでいる。

 5 ガンスによるこれらの補遺の文章は,表現の仕方において,ドイツ語として読みやすくなってい て,文法的に見ても多くの場合,誤りが正されている。かくして手稿のもつ特有のごつごつとした粗野 な文章や,粗削りな文章や,解読不能な文章は影を潜めている。

 とはいえ表現の仕方の変更は,手稿のもつ独自な意義の変更やそれの消去につながらないであろうか。

 この点は,ガンスの補遺と手稿との逐一の比較・分析に委ねられることとなる。

 以上のことから,われわれが読んできた,ヘーゲル『法の哲学』は,ガンス版の影響を強く受けたもの である。なぜなら,ヘーゲル自身の書いた「主文および注釈文」は,きわめて抽象的・一般的であり, 「補遺」

を参照しつつその理解を深めてきたからである。

 「補遺」は,たとえば,当時のイギリスの経済の事情など,多くの世相・ファッションが取り入れられ,

ヘーゲルが学生に語った生の声が筆記されている。そのため,ガンス版の補遺がこれまで果たしてきた 役割は,以上述べてきたような多くの欠陥をもちながらも,それなりに一定の意義をもったものである。

 そこで,われわれはつぎなるテーマとして,完全な手稿を提示し,それらを比較・分析することである。

こうした基礎的な作業によってはじめて補遺は完成され,ヘーゲルの真意が完全に理解されることにな る。

 とはいえこの作業は多くの困難を伴うものであり,今日にいたるもなされてはいない。

 われわれは以下において,ヘーゲル『法の哲学』の「欲求の体系」というテーマにしぼりこの問題に接 近していきたい。

 基礎的な作業は,まずヴァンネンマン手稿,ホーマイヤー手稿,リンギール手稿,インディアナ手稿,

キール手稿,ホトー手稿,ハイゼ手稿,グリースハイム手稿,シュトラウス手稿の該当箇所を遺漏なく完 全に取り上げることである。つぎにヘーゲル自身が出版した『法の哲学綱要』の「主文」および「注釈文」

を軸にして,各手稿の比較・分析をおこなうことである。最後にガンス版の補遺との比較をおこなうこ とである。

Ⅲ 引用の仕方について

 1 )われわれは本稿の論究にあたり,各手稿および『法の哲学綱要』のテクストからの引用と訳文の所 在,それらの略字記号の例示等は下記のようにおこなう。

  P. Wannenmann 手稿: ─ Wa. S. 112., 『ヴァ』136。─

G. W. F. Hegel, Vorlesungen über Naturrecht und Staatswissenschaft, Heidelberg 1817/18, mit Nachträgen aus der Vorlesung 1818/19, Nachgeschrieben von P. Wannenmann, Hrsg. v . C. Becker et. al. Hamburg 1983.

G. W. F. へーゲル『自然法および国家学に関する講義』 ─ 『法の哲学』第一回講義録,1817/18 年,ハイデルベル ク および 1818/19 年,冬学期序説,ベルリン ─ 尼寺義弘訳,晃洋書房,2002 年。

 引用にあたり, 「Wa. S. 112., 『ヴァ』136。」は, 「上記原典 112 ページ。および上記訳文 136 ページ。」を指示する。

(4)

  C. G. Homeyer 手稿: ─ Hom. S. 308., 『ホーマ』121。─

G. W. F. Hegel, Vorlesungen über Rechtsphilosophie 1818/1831. Edition und Kommentar in sechs Bänden von K.-H. Ilting, Erster Band, Ⅱ. Naturrecht und Staatswissenschaft. Vorlesung 1818/19 nach der Nachschrift Carl Gustav Homeyers. Stuttgart-Bad Cannstatt 1973.

G. W. F. へーゲル『自然法および国家法』 ─ 『法の哲学』第二回講義録 ─ 尼寺義弘訳,晃洋書房,2003 年。

 引用にあたり, 「Hom. S. 308., 『ホーマ』121。」は, 「上記原典 308 ページ。および上記訳文 121 ページ。」を指示す る。

  J. R. Ringier 手稿: ─ Ri. S. 112. ─

G. W. F. Hegel, Vorlesungen über die Philosophie des Rechts Berlin 1819/1820. Nachgeschrieben von Johann Rudolf Ringier. Hrsg. v. E. Angehrn et. al. Hamburg 2000.

 引用にあたり, 「Rin. S. 112.」は, 「上記原典 112 ページ。」を指示する。

  Indiana 手稿(D. Henrich 編): ─ In. S. 147.,『イン』98。─

G. W. F. Hegel, Philosophie des Rechts, Die Vorlesung von 1819/20 in einer Nachschrift, hrsg. v. Dieter Henrich, Suhrkamp Verlag, 1983.

ディーター・ヘンリッヒ編『へーゲル法哲学講義録 1819/20』中村浩爾・牧野広義・形野清貴・田中幸世 訳,法 律文化社,2002 年。

 引用にあたり, 「In. S. 147., 『イン』98。」は, 「上記原典 147 ページ。および上記訳文 98 ページ。」を指示する。

  G. W. F. Hegel 『法の哲学綱要』: ─ He. 1. S. 160.,『綱要』413。─

G. W. F. Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts. Hrsg. v. K. Grotsch u. E. W.-Lohmann Hamburg 2009.

G. W. F. Hegel Gesammelte Werke Bd. 14, 1. 2. 3.

へーゲル『法の哲学』藤野渉・赤澤正敏訳,岩崎武雄責任編集『へーゲル』所収,中央公論社,1967 年。

 引用にあたり, 「He. 1. S. 160., 『綱要』413。」は, 「上記原典,第一分冊 160 ページ。および上記訳文 413 ページ。」

を指示する。

  Kiel 手稿: ─ Ki. S. 177., 『キ』189。─

G. W. F. Hegel, Die Philosophie des Rechts. Vorlesungen von 1821/22. Hrsg. v. H. Hoppe, Suhrkamp Verlag, Frankfurt a. M. 2005. S. 215 f.

G. W. F. ヘーゲル『法の哲学』 ─ 第四回講義録 ─ 1821/22 キール手稿,尼寺義弘訳,晃洋書房,2009 年。

 引用にあたり, 「Ki. S. 177., 『キ』189。」は, 「上記原典 177 ページ。および上記訳文 189 ページ。」を指示する。

  H. G. Hotho 手稿: ─ Ho. S. 565., 『ホ』340。─

G. W. F. Hegel, Vorlesungen über Rechtsphilosophie 1818/1831. Edition und Kommentar in sechs Bänden von K.-H. Ilting. Drittter Band. Philosophie des Rechts. Nach der Vorlesungsnachschrift von H. G. Hotho 1822/23.

Stuttgart-Bad Cannstatt 1974. S. 691 f.

G. W. F. ヘーゲル『ヘーゲル教授殿の講義による法の哲学 Ⅰ,Ⅱ』 ─ 『法の哲学』第五回講義録 1822/23 冬学 期 ベルリン ─ 尼寺義弘訳,晃洋書房,2005 年,2008 年。

 引用にあたり, 「Ho. S. 565., 『ホ』340。」は, 「上記原典 565 ページ。および上記訳文,Ⅱ 340 ページ。」を指示する。

  K. W. L. Heyse 手稿: ─ Hey. S. 60., 『ハ』57。─

G. W. F. Hegel, Philosophie des Rechts. Nachschrift der Vorlesung von 1822/23 von Karl Wilhelm Ludwig Heyse, hrsg. u. eingeleitet von Erich Schilbach, Peter Lang 1999. (Hegeliana: hrsg. v. Helmut Schneider, Bd. 11.)

G. W. F. ヘーゲル『法・権利・正義の哲学』 ─ 『法の哲学』 ─ 第五回講義録 1822/23 年 冬学期 ベルリン ─ 尼寺義弘訳,晃洋書房,2006 年。

 引用にあたり, 「Hey. S. 60., 『ハ』57。」は, 「上記原典 60 ページ。および上記訳文 57 ページ。」を指示する。

(5)

  K. G. Griesheim 手稿: ─ Gr. S. 472. ─

G. W. F. Hegel, Vorlesungen über Rechtsphilosophie 1818/1831. Edition und Kommentar in sechs Bänden von K.-H. Ilting. Vierter Band. Philosophie des Rechts. Nach der Vorlesungsnachschrift von K. G. v. Griesheims 1824/25. Stuttgart-Bad Cannstatt 1974.

 引用にあたり, 「Gr. S. 472. 」は, 「上記原典の 472 ページ。」を指示する。

  D. F. Strauß 手稿: ─ St. S. 917. ─

G. W. F. Hegel, Vorlesungen über Rechtsphilosophie 1818/1831. Edition und Kommentar in sechs Bänden von K.-H. Ilting. Vierter Band. Ⅲ. Philosophie des Rechts. Nach der Vorlesungsnachschrift von D. F. Strauß 1831 mit Hegels Vorlesungsnotizen. Stuttgart-Bad Cannstatt 1974.

 引用にあたり, 「St. S. 917.」は, 「上記原典 917 ページ。」を指示する。

  Ed. Gans の Zusatz について: ─ Ga. S. 338-339., 『綱要』412-413。─

G. W. F. Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts. In: G. W. F. Hegel Werke in 20 Bänden. Bd. 7. Suhrkamp Verlag Frankfurt am Mein 1970.

へーゲル『法の哲学』藤野渉・赤澤正敏訳,岩崎武雄責任編集『へーゲル』所収,中央公論社,1967 年。

 引用にあたり, 「Ga. S. 338-339., 『綱要』412-413。」は, 「上記原典 338-339 ページ。および上記訳文 412-413 ペー ジ。」を指示する。

 2)強調符号等について

訳文中・・・で示した強調符号は,手稿原文では下線が引かれている部分である。

訳文中(  )で示した記号は,手稿原文のままである。

訳文中〈  〉で示した記号は,編者による補足である。

訳文中[  ]で示した記号は,訳者による補足である。

Ⅳ 「家族」から「市民社会」への移行

 ヴァンネンマン手稿(§88) ─ Wa. S. 112., 『ヴァ』135。─

 「家族は自然の仕方で多数の家族に分かれていき,それらの家族の自由にしたがって自立的な諸人格 として互いに振る舞うのである。家族という実体的な統一から始まって,家族の個別性は同時に普遍性 の原理のなかに固定されたままである,しかしこの原理は,この原理からの分離ということのために,

はじめは形式的な普遍性である。家族のこの反省関係は市民社会

4 4 4 4

を形成する。

    家族にあっては普遍性が家族の構成員によって奪われる。普遍性の原理と普遍性の原理とが対抗 しあって登場する。普遍性の自立性のために普遍性の原理は本質的な普遍性ではない。一つの家族 は多くの家族へと生成する。そして同様に多くの家族は国民となる。家族の家父長的なものは家族 からなくなってしまう。ユダヤ民族は一家族より発した。しかしそれ以外の多くの分散した家族も,

たとえば一人の征服者によって一国民へとまとめられうる。」

 ホーマイヤー手稿(§89) ─ Hom. S. 307., 『ホーマ』120。─

 「家族は自然的な仕方で登場し,そしてさらに人格性の原理によって家族の多様性へと散らばってい

く,それは自立的な諸人格として,したがって外的に相互に関係しており,それゆえにその紐帯は単に

形式的な普遍性としてのみ存在する。この反省関係は市民社会

4 4 4 4

をなしている。

(6)

    人倫的なものはこの領域では人倫的なものとしてはもはや現存しない,普遍はわずかな作用しか しない,そして目的の特殊もわずかな作用しかしない。」

 リンギール手稿 ─ Rin. S. 111-112. ─

 「家族が自然的な仕方で多数の個人に解体するのをわれわれは見る。つぎの関係は家族の外面的な分

4 4 4 4 4 4 4 4

4

である。一国民はまさにその国民が天性によって,生まれによって一種族から発し,そしてその種族 は一家族から発しているということである。一国民には多くの自立した家族がある,その国民は尊大な 権力によっても,あるいは,自由な意志によっても結ばれうる。家族のかかる多数は市民社会を形成す るが,しかし人は市民社会を国家から区別しなければならない,その国家は単なる悟性の国家,単なる 必要の国家である。実体的なものが本質的に実体的な目的であるかどうか,ということが重要である。」

 キール手稿(§181) ─ Ki. S. 174-177., 『キ』185-188。─

 「一つの家族から再び諸家族が生成する。感情の仕方における第一の人倫的な統一は,自己を展開し なければならない,諸側面は互いに自立性へと自己を展開しなければならない。子供は自己を自立的と しなければならない,そのことによってより高次の仕方の理念が現れでる。このことはその場合には組 織化である。この第二の段階はかくして人倫的な理念のこの特殊性である。諸モメントは互いに分離す るが,しかしその分離は相互の関連を保持している。自己を自立化させるものは特殊である,それは普 遍に関連している。普遍はここではなおそれが普遍にしたがって存在しているところの現存在をもって はいない,そしてこの領域の傾向全体は特殊が自己を普遍とし,そして特殊はそれが普遍の理念にした がって存在するところの現実性(Realtät)をもたらす。人倫態はここではなおそれがそれの真の形式に 到達したところの理念ではない,すなわち理念はそれの概念が思考するもの,普遍である,理念はまた この思考するものを,自己を自由に知悉するものとして,それの形式としてもたねばならない。特殊は ここではしたがって現実性である,そして特殊は普遍によってたがいに関連づけられている。普遍はこ こではかくして特殊性への差し込み(ein Hineinscheinen)である。反省関係,特殊が土台である,諸特 殊はたがいに振る舞いあう,そしてこのことは特殊の現実性の規定である,そしてこの規定はその限り で人倫態の喪失である。人倫態は主体がそれの利害関心を普遍においてもつということに実在する,こ こでは主体は自己を特殊な主体として意志する,主体はそれの特殊な利害関心のために配慮する。人倫 的なものは仮象的であるがゆえに,それは抽象的である。われわれはここに人倫的なものの現象の仕方 をもつ,そしてこのことは市民社会である,そしてここでは人間の特殊化が対象である。特殊化はここ では自己を意志する,自己を妥当させることを意志する,生まれ,身分,能力,これらすべてはここで は自己を吐露する,そしてここではまず第一に大地が野生の偶然性であるように現象する。しかしこの 分野はまた理性性によって適性にされている(ist auch gemäßigt),そしてそれゆえにこの適性にされ ることは普遍の現象の分野である。しかしこの分野は現象であるのみならず,この分野は本質が特殊に おいて自己を示すということである。現象はまた自己においてつぎのことをふくんでいる,すなわち理 性的なものが秘密裏に内面からそれが特殊を意欲するところの人間を統治するということ,そしてまさ に特殊が人間を強いて普遍を承認させる,なぜなら人間は普遍の承認なしには特殊の充足を見いだすこ とができないからである。不和の,分裂の分野は,しかし分裂が大きくなればなるほど,普遍はますま す強力となっていく。貧困,堕落がここではかくしてその地位をもっている。そしてこの特殊性は,そ れがまさに普遍を < 自己 > から必然的に生みだすところの特殊性それ自体である。道徳的な不機嫌さが

(die moralische Verdrießlichkeit)ここにそれの風評をもっている。この不機嫌さはそこで,それは外の

ものであるべきである,と言う。あらゆることが特殊に由来する。この認識は今や,まさに特殊において

(7)

普遍の生成を把握することに,普遍の有効性およびこの神的なものを把握することに実在する,すなわ ちこの特殊が自己を普遍へと導くこと,かくしてこの特殊はふたたび条件であること,普遍が現存在に 来ることである。このことはこの特殊性の正当化である,すなわちどのようにしてこの特殊性が逆のも のに転変する(umschlägt)のか,つまりどのようにして理性的なものを現存在にもたらすのか,という ことを人は認識している。普遍の現存在はそれが自己を貫徹する特殊性である,それはこの特殊性がそ の権利を特殊性としてかように生みだし,特殊性が普遍の現存在となるということによってである。こ の生みだすことはこの領域の規定されたものである。 ─ 人倫的なもののモメントが,それが抽象的で あるように,ここに登場する,人倫的なものはその制約性にあるが,しかしこれはモメントであり,抽 象的なモメントとして存在する,これは始まりは法であり,厳格法である,そして主観的な自由と福祉 である。これらのモメントは人倫的なものの概念の現象に属しているそれである。これらのモメントが かくしてここに登場するが,しかしそれはつぎのようにである,すなわちこれらのモメントがここに定 立され,それがここに生みだされ,定有に来たり,それがここにもはやその直接性をもたず,自己を概 念から展開するものとして定立されるということである。この領域は概念の定立された成への,現存在 への昇華である。私の福祉はただ媒介されたものとして定立されている,そして同様に権利は他人の自 由によって媒介されている。したがってその場合には,私の福祉に関することが他人によって条件づけ られているということが生起する。そしてこれらの人々は自由でもある。各人はそれが自由であるとこ ろの他人の欲求に適合するように自己を造らねばならない。私の取得の私の特殊な仕方はそれが自由で あるところの他人への顧慮に適合していなければならない。私の福祉を促進する仕方は陶冶された技量

(gebildete Geschicklichkeit)である。かくして私はここに他人の欲求へ,他人の自由の欲求へ私を志向 させねばならない,すなわち私は陶冶された技量をもたねばならない。私のための配慮はその場合にも ここに属する。それはこうした仕方でかようにも規定されているところの私の利害関心である。主要な 規定は,諸個人の福祉が現存在に来り,そして同様に諸個人の権利が現存在に来るということである。

私の技量と権利は私の特殊性の条件である。最初に権利は概念から生成した,いまや権利は特殊性の欲 求から生成する,ここはこれらのモメントにそれの現実性の側面がそこで与えられるところの領域であ る。この領域一般に政治的な自由の根源が属している。政治的な自由が可能であるということがつぎの ことに属している,すなわち諸個人はその生計において自立していること,彼らはその生計は彼らの技 量によって獲得し,その技量によって他人の欲求に自己を関連させているということである。ここには 抽象法における取得の仕方とは異なる取得の仕方が登場している。他人の諸欲求は普遍である,そして 私の技量は主観性である,私はその技量によってまさに独立性にある,私は私の定有それ自体において 自由人(Freier)である,そしてこの自由人が政治的な自由の基礎をなしている。この段階においてつぎ に都市について論究されるべきである。法は主観的な自由に基礎づけられている。 ─ これはこの領域 の普遍的な位置づけである。遊牧民の国家において,封建制の国家において市民社会は本来的には現存 してはいない。家族と市民社会は本来の政治的な生活の二つの側面である。」

 ホトー手稿(§181) ─ Ho. S. 562-563.,『ホ』338-339。─

 「家族の市民社会への移行

1 )

 我々は家族の成員の規定からみて自立的な諸人格が生成し,かくしてその諸人格から自立的な家族の

多くが生成するということを見てきた

2 )

。これらの家族は相互に特殊な家族である。 家族は

4 4 4

─ 仕方

4 4

。 

普遍性は今やそれの条件として特殊なものの自立性をもっている,普遍性はかくして条件づけられたも

の,外的に単に普遍,単に必然的なもの,自由なものではないものである。この普遍性が出発点として特

殊の自立性をもつ。 この

4 4

─ 構成する

4 4 4 4

。 人倫態はここでは失われている,というのはその概念は,意

(8)

識にとって家族の同一性が(die Identität),第一のもの,神的なもの,義務を命ずるものである,という ことを含んでいるからである

3 )

。今やしかし特殊が,第一のものが私のために規定するものである,と いう関係が登場する,かくして人倫的な規定はもはや現存しない。しかし私は本来的に上述のことにつ いて混乱している,というのは普遍がつねに即自的に規定するものであり続けるからである

4 )

。普遍が 即自的に規定するものであり続けるということ,そのことが関連の必然性をなしている。私はここでは 一般に仮象の段階にある。私の特殊性は私にとって規定するもの,目的であり続ける,すなわち私は普 遍を手段におとしめる,かくして私は普遍を手段としてのみ妥当させる。私はかくして仮象の関係にあ る。普遍は自己のために何の保証ももってはいないで,普遍は固定した特殊性に対する関係にあるにす ぎない。かくして普遍がそこにあるところの諸個人のこの脆弱さをもっている。」

 ハイゼ手稿(§181) ─ Hey. S, 32-33., 『ハ』55-56。─

 「人間は成人となるように,自立的となるように定められている。そのことによって多くの家族が生ま れる。 (家父長的な関係においてはあらゆる[家族の成員は]未成年のままである)。

 家族の特殊性が根本条件である,関連は外的なそれに,条件づけられたものに,外的な普遍に,必然 的なものに,自由なものではないものにすぎない。人倫的なものは実体的な関連に基づいている,すな わち神的なもの,義務が第一義であり,この統一が運動するもの,規定するものである。ここではしかし 特殊が私に対して第一の規定するものとして現れてくる。特殊はしかし真実には絶対的に規定するもの ではありえない。普遍はつねに即自的に規定するものであり続ける。これが必然性の形式をなしている。

私はここでは仮象の段階にいる。私は普遍を私の特殊性のための手段に引き下げる。」

 グリースハイム手稿(§181) ─ Gr. S. 470-471. ─

 「以上のことは家族を考慮にいれた主要なモメントである。解消という側面からみて家族は市民社会 へ移行する。家族は自己を解消しなければならない,子供は自立的人格に生成しなければならない。他 の側面はつぎのことである,すなわち統一性,人倫的なものは,自然的な側面に存在し,愛として,信頼 として存在する,それはより高い姿態を,愛の姿態をもつのみならず,統一性であるという姿態を獲得 しなければならない,その統一性は自由な精神によって定立される,すなわち感情的な精神によってで はなくて自己意識的な,意欲する精神によって定立される。」

        [本文]

 「概念は具体的である,諸モメントは概念において観念的であり自立的ではない,概念においてたんに モメントとして含まれているにすぎないものが自立的となることは,ここではそれは家族の成員が自由 なものとして自立的に定立され,そしてかようにたがいに関係しあうということは,概念の真の現実化 に属している。」

        [本文]

 「私はすでに家族が感情の形式において統一性であるが,しかしこの統一性はこの形式においてのみ ならず,自立的な普遍性の形式においても存在しなければならないということに言及した。家族がかよ うになる開路は法的な人倫態である,このことは定立するということの対自生成(das Fürsichwerden)

によって生起しなければならない,そしてこのことはまさに人格的な,自立的な自由である。

 このことはまさに特殊性のモメントである,自由はそこで諸個人が家族において存在するところの統

一に対抗して開路のモメントにすぎないものとなる,自由はそこには存続されえない,思考の規定はこ

の自由な主観性に到達し,そのことによってかの統一は自由な自己意識の普遍性へと純化される。」

(9)

 ガンスの補遺(§181) ─ Ga. S. 338-339., 『ガ』412-413。─

 「普遍性はここでは出発点として特殊性の自立性をもつ,そして人倫態はこうしてこの観点において 失われたように仮象する,というのは意識にとって,本来,家族の同一性が第一のこと,神的なこと,義 務を命ずることであるからである。しかし,今や,特殊的なものが私にとって第一に規定するものであ るべきであるという関係が登場し,かくして人倫的な規定が止揚されている。しかし,私は本来これに ついて混乱にあるにすぎない,というのは私が特殊的なものをつかまえていると思うことによって,と はいえ普遍と連関の必然性が第一のことおよび本質的なものであり続けるからである。かくして私は一 般に仮象の段階にあり,そして私の特殊性が私には規定するものであり続けることによって,それはす なわち目的である,私はかくしてそれが本来私を支配する究極の力をもつところの普遍性に奉仕する。」

評注

 ヘーゲルの『綱要』について,以下のように論究する。

 Ⅰ 主文および注釈文の要約  Ⅱ 各講義録の特徴

 Ⅲ ガンスの補遺の比較・分析

『綱要』§181

 Ⅰ

 ヘーゲルは「家族から市民社会への移行」を説く本節において, 『綱要』の主文および注釈文は概略つ ぎのように述べている。 ─ He. 1. S. 158-159., 『綱要』412。─

 家族は多数の家族へと分岐していき,市民社会を形成する。その過程は「人倫的理念としての家族」が 家族の「統一」をなす諸モメントを解放し,そして諸モメントはそれぞれに自立した現実性(Realität)を 獲得する過程である。かくしてそれは,論理的に言うならば,同一から「区別(Differenz)」の段階に到る 過程である。この段階において理念のもつ普遍性と特殊性との直接的な統一は分裂し,特殊性が独自な 役割を果たす

e )

 この節の主文の末尾において,ヘーゲルは『エンチクロペディー』の「反省関係」 (Encykl. der phil.

Wiss. §64 ff. §81ff.) [Suhrkamp 版,Werke 8,§115 以下および §131 以下]の参照を指示している。

 『エンチクロペディー』 [Suhrkamp 版]§115 以下は,A 現存在の根拠としての本質,a 純粋な反省関 係,イ 同一性 ロ 区別 ハ 根拠 が取り上げられる。さらに同 §131 以下は,B 現象,a 現象の世界 b 内容と形式 c 相関 が取り上げられる。

 人倫的理念は,周知のように,即自 ─ 対自 ─ 即自・対自という関係で見るならば,家族 ─ 市民社 会 ─ 国家である。 「この反省関係は人倫的なものの現象界,すなわち市民社会をなす」。

 なお,ヘーゲルによる『綱要』の §181 の注釈文も特徴的である。すなわち家族の拡大は,家族 → 一民 族 → 一国民であるが,それは一つには a) 「共同の自然的な起源をもつ」 「静穏なる拡大」である。もう一 つは b) 「拡散した家族共同体の集合である」。 「この集合は,尊大な権力によるものか,あるいは,結び つける欲求とそれの充足の交互作用によって導かれた自発的な統合によるかである」。

 この注釈については,上述のリンギール手稿も参照されたい。 ─ Rin. S. 111-112. ─  Ⅱ

 各手稿の特徴としてまずキール手稿を取り上げる。

(10)

 キール手稿の要約 ─ 長文の手稿であり,内容上も主文のもつ論理学と法の哲学の関係について,独自 なニュアンスを明らかにしている。

 a) 「一つの家族から再び諸家族が生成する」。 「第一の人倫的な統一は,自己を展開しなければならな い,諸側面は互いに自立性へと自己を展開しなければならない。子供は自己を自立的としなければなら ない,そのことによってより高次の仕方の理念が現れでる」。 「この第二の段階はかくして人倫的な理念 のこの特殊性である。諸モメントは互いに分離するが,しかしその分離は相互の関連を保持している。

自己を自立化させるものは特殊である,それは普遍に関連している」。

 人倫的な統一 ─ 子供の自立化 ─ 特殊性,諸モメントの自立化と相互の連関。

 b) 「普遍はここではなおそれが普遍にしたがって存在しているところの現存在をもってはいない,そ してこの領域の傾向全体は特殊が自己を普遍とし,そして特殊はそれが普遍の理念にしたがって存在す るところの現実性をもたらす」。

 普遍の現存在の欠如 ─ 特殊が自己を普遍化する ─ 普遍の現実性。

 c) 「人倫態はここではなおそれがそれの真の形式に到達したところの理念ではない,すなわち理念は それの概念が思考するもの,普遍である,理念はまたこの思考するものを,自己を自由に知悉するもの として,それの形式としてもたねばならない」。

 「特殊はここではしたがって現実性である,そして特殊は普遍によってたがいに関連づけられている。

普遍はここではかくして特殊性への差し込みである。反省関係,特殊が土台である,諸特殊はたがいに 振る舞いあう,そしてこのことは特殊の現実性の規定である,そしてこの規定はその限りで人倫態の喪 失である」。

 人倫態の理念(普遍) ─ 普遍と特殊の反省関係 ─ 特殊が土台・特殊の現実性 ─ 人倫態の喪失。

 d) 「人倫態は主体がそれの利害関心を普遍においてもつということに実在する,ここでは主体は自己 を特殊な主体として意志する,主体はそれの特殊な利害関心のために配慮する」。

 「人倫的なものは仮象的であるがゆえに,それは抽象的である。われわれはここに人倫的なものの現象 の仕方をもつ,そしてこのことは市民社会である,そしてここでは人間の特殊化が対象である。特殊化 はここでは自己を意志する,自己を妥当させることを意志する,生まれ,身分,能力,これらすべてはこ こでは自己を吐露する,そしてここではまず第一に大地が野生の偶然性であるように現象する」。

 市民社会は抽象的である。─ バラバラで統一性のないもの ─。

 e) 「しかしこの分野はまた理性性によって適性にされている,そしてそれゆえにこの適性にされるこ とは普遍の現象の分野である。しかしこの分野は現象であるのみならず,この分野は本質が特殊におい て自己を示すということである」。

 「現象はまた自己においてつぎのことをふくんでいる,すなわち理性的なものが秘密裏に内面からそ れが特殊を意欲するところの人間を統治するということ,そしてまさに特殊が人間を強いて普遍を承認 させる,なぜなら人間は普遍の承認なしには特殊の充足を見いだすことができないからである。」

 理性性 ─ 本質と現象の統一 ─ 人間の統治。普遍と特殊の切なる関係。

 f) 「不和の,分裂の分野は,しかし分裂が大きくなればなるほど,普遍はますます強力となっていく。

貧困,堕落がここではかくしてその地位をもっている。そしてこの特殊性は,それがまさに普遍を < 自 己 > から必然的に生みだすところの特殊性それ自体である」。

 「道徳的な不機嫌さがここにそれの風評をもっている。この不機嫌さはそこで,それは外のものである べきである,と言う。あらゆることが特殊に由来する。」

 市民社会の不和,分裂 ─ 貧困,堕落と普遍の強力[富,贅沢] ─ 特殊性と道徳的な不機嫌さ。

 g) 「この認識は今や,まさに特殊において普遍の生成を把握することに,普遍の有効性およびこの心

(11)

的なものを把握することに実在する,すなわちこの特殊が自己を普遍へと導くこと,かくしてこの特殊 はふたたび条件であること,普遍が現存在に来ることである。このことはこの特殊性の正当化である,

すなわちどのようにしてこの特殊性が逆のものに転変するのか,つまりどのようにして理性的なものを 現存在にもたらすのか,ということを人は認識している」。

 「普遍の現存在はそれが自己を貫徹する特殊性である,それはこの特殊性がその権利を特殊性として かように生みだし,特殊性が普遍の現存在となるということによってである。この生みだすことはこの 領域の規定されたものである。 ─ 人倫的なもののモメントが,それが抽象的であるように,ここに登場 する,人倫的なものはその制約性にあるが,しかしこれはモメントであり,抽象的なモメントとして存 在する,始まりは法であり,厳格法である,そして主観的な自由と福祉である。」

 特殊に由来する社会の不和は回復可能であるか。普遍の有効性は,どのようにして特殊性が逆のもの に転変するか,どのようにして理性的なものを現存在にもたらすのか,ということにある。特殊性が普 遍の現存在となることによってである。それは人倫的なもの,厳格法と主観的自由と福祉の貫徹である。

 h) 「これらのモメントは人倫的なものの概念の現象に属している」。これらのモメントが定立され,生 みだされ,定有となり,自己を概念から展開するものとして定立される。

 「この領域は概念の定立された成への,現存在への昇華である。私の福祉はただ媒介されたものとして 定立されている,そして同様に権利は他人の自由によって媒介されている。したがってその場合には,

私の福祉に関することが他人によって条件づけられているということが生起する。そしてこれらの人々 は自由でもある」。

 「各人はそれが自由であるところの他人の欲求に適合するように自己を作らねばならない。私の取得 の私の特殊な仕方はそれが自由であるところの他人への顧慮に適合していなければならない。私の福祉 を促進する仕方は陶冶された技量である。かくして私はここに他人の欲求へ,他人の自由の欲求へ私を 志向させねばならない,すなわち私は陶冶された技量をもたねばならない。私のための配慮はその場合 にもここに属する。それはこうした仕方でかようにも規定されているところの私の利害関心である。」

 私の福祉と権利は他人のそれによって媒介されたものである。すなわち自由な諸個人は互い「他人の 欲求に適合するように自己を作らねばならない。私の取得の私の特殊な仕方は自由な他人への顧慮に適 合していなければならない。私の福祉を促進する仕方は陶冶された技量である。かくして私はここに他 人の欲求へ,他人の自由の欲求へ私を志向させねばならない,すなわち私は陶冶された技術をもたねば ならならない。」

 この記述については,A. スミスの『国富論』第一編,第二章「分業をひきおこす原理について」のつぎ の文章が参考になると思われる。

 「文明社会では,人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに,全生涯をつうじてわ ずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。他のたいていの動物はどれも,ひとたび成熟すると,

完全に独立してしまい,他の生き物の助けを必要としなくなる。ところが人間は,仲間の助けをほとん どいつも必要としている。だがその助けを仲間の博愛心(benevolence)にのみ期待してみても無駄であ る。むしろそれよりも,もし彼が,自分に有利となるように仲間の自愛心(self-love)を刺激することが でき,そして彼が仲間に求めていることを仲間が彼にすることが,仲間自身の利益にもなるのだという ことを,仲間に示すことができるなら,その方がずっと目的を達しやすい。他人にある種の取引を申し 出るものは誰でも,右のように提案するのである。私の欲しいものを下さい,そうすればあなたの望む これをあげましょう,というのが,すべてのこういう申し出の意味なのであり,こういう風にしてわれ われは,自分たちの必要としている他人の行為の大部分を互いに受け取り合うのである。」

f )

 i)諸個人の福祉と権利 ─ 私の技量と権利(特殊性の条件) ─ 政治的な自由 ─ かくして「諸個人はそ

(12)

の生計において自立していること,彼らはその生計は彼らの技量によって獲得し,その技量によって他 人の欲求に自己を関連させているということである。ここには抽象法における取得の仕方とは異なる取 得の仕方が登場している。他人の諸欲求は普遍である,そして私の技量は主観性である,私はその技量 によってまさに独立性にある,私は私の定有それ自体において自由人である,そしてこの自由人が政治 的な自由の基礎をなしている。この段階においてつぎに都市について論究されるべきである。法は主観 的な自由に基礎づけられている。 ─ これはこの領域の普遍的な位置づけである。遊牧民の国家におい て,封建制の国家において市民社会は本来的には現存してはいない。家族と市民社会は本来の政治的な 生活の二つの側面である。」

 ホトー手稿の要約

 a)市民社会の「普遍性は今やそれの条件として特殊のものの自立性をもっている,普遍性はかくして 条件づけられたもの,外的に単に普遍,単に必然的なもの,自由なものではないものである。この普遍性 が出発点として特殊の自立性をもつ。」

 普遍性と特殊性の直接的な統一 ─ 特殊の自立化 ─ 外的な単に普遍,単に必然的なもの,自由なもの ではないもの。

 b) 「人倫態はここでは失われている,というのはその概念は,意識にとって家族の同一性が,第一のも の,神的なもの,義務を命ずるものである,ということを含んでいるからである。今やしかし特殊が,第 一のものが私のために規定するものである,という関係が登場する,かくして人倫的な規定はもはや現 存しない。」

 人倫態の喪失 ─ 家族の同一性の喪失 ─ 特殊が規定する。

 c)とはいえ「普遍が即自的に規定するものであり続けるということ,そのことが関連の必然性をなし ている。私はここでは一般に仮象の段階にある。」

 特殊の規定にもかかわらず,普遍は即自的に規定する ─ 関連の必然性 ─ 仮象の段階。

 普遍性と特殊性の直接的な統一の解消と必然性の登場,そして仮象へ。

 d) 「私の特殊性は私にとって規定するもの,目的であり続ける,すなわち私は普遍を手段におとしめ る,かくして私は普遍を手段としてのみ妥当させる。私はかくして仮象の関係にある。」

 特殊性が目的をなし,普遍を手段とする ─ 特殊性と普遍性との,目的と手段との不一致 ─ 仮象。

 ハイゼ手稿は簡明である。

 グリースハイム手稿の要約

 家族の市民社会への移行にあたり,a) 「家族は自己を解消しなければならない,子供は自立的人格に生 成しなければならない。他の側面はつぎのことである,すなわち統一性,人倫的なものは,自然的な側面 に存在し,愛として,信頼として存在する,それはより高い姿態を,愛の姿態をもつのみならず,統一性 であるという姿態を獲得しなければならない,その統一性は自由な精神によって定立される,すなわち 感情的な精神によってではなくて自己意識的な,意欲する精神によって定立される。」

 統一性(人倫的なもの,愛,信頼,自然的なもの) ─ 自由な精神,自己意識的な意欲する精神による定立。

 b) 「概念は具体的である,諸モメントは概念において観念的であり自立的ではない,概念においてた

んにモメントとして含まれているにすぎないものが自立的となることは,ここではそれは家族の成員が

自由なものとして自立的に定立され,そしてかようにたがいに関係しあうということは,概念の真の現

実化に属している。」

(13)

 概念は具体的である ─ 概念の観念化と現実化 ─ 諸モメントの観念性と自立性 ─ 家族の成員の自由 の自立的な定立と相互に関係しあうこと。

 c) 「私はすでに家族が感情の形式において統一性であるが,しかしこの統一性はこの形式においての みならず,自立的な普遍性の形式においても存在しなければならないということに言及した。家族がか ようになる開路は法的な人倫態である,このことは定立するということの向自生成によって生起しなけ ればならない,そしてこのことはまさに人格的な,自立的な自由である」。

 「このことはまさに特殊性のモメントである,自由はそこで諸個人が家族において存在するところの 統一に対抗して開路のモメントにすぎないものとなる,自由はそこには存続されえない,思考の規定は この自由な主観性に到達し,そのことによってかの統一は自由な自己意識の普遍性へと純化される。」

 家族の統一性 ─ 感情の形式から自立的な普遍性の形式へ ─ 開路は法的な人倫態にある ─ 人格的な 自立的な自由の定立 ─ 特殊性のモメント ─ 自由は開路のモメント ─ 自由な自己意識の普遍性への純 化。

 以上のように,グリースハイム手稿は「家族の市民社会への移行」において独自の意義をもつ。

 Ⅲ

 ガンスによる「補遺」の比較・分析

 「補遺」は,概ねホトー手稿を要約しているが,末尾の四行 „ ,und indem meine Besonderheit mir das Bestimmende bleibt, das heißt der Zweck, diene ich damit der Allgemeinheit, welche eigentlich die letzte Macht über mich behält.“ はガンスによる文言である。

Ⅴ 第二編 市民社会

 ヴァンネンマン手稿 ─ Wa. S. 112-113., 『ヴァ』136-137。─

 §89

 「市民社会における普遍性というものは,さらに詳しく言えば,個々人の生計と福祉とがあらゆる他の 個人の生計と福祉とによって条件づけられており,そしてそのなかへと編み込まれている,という具体 的な規定をもっている。この共通の体系のなかで個人は自己の実在をもち,そして自己の現存在の外面 的な確実性も,その法的な確実性ももつのである。市民社会はかくしてまず外的な国家

4 4 4 4 4

,あるいは,悟性

4 4

の国家

4 4 4

である,というのは普遍性はそれ自体として即自・対自に目的ではなくて,個々人の現存在と扶 養のための手段であるからである,あるいは,市民社会は必要の国家

4 4 4 4 4

である。というのは諸欲求の確実 さが主要な目的であるからである。

    市民はここではブルジョアであり,シトワイアンではない,個人は彼の福祉を彼の目的とする。

彼は法的な人格である,法のモメントが普遍性において現れる。とはいえ個人の福祉と生計はすべ ての個人の福祉と扶養によって条件づけられている。個人は自己のことだけを配慮する,個人は自 己だけを目的とする。しかし個人は,彼がすべての個人のことを配慮し,そしてすべての個人が彼 のことを配慮しないことなしには,自己のことを配慮することはできない。利己心(Selbstsucht)と いう彼の目的によって彼は同時にまた他人のために労働する。ここではあらゆることが契約に基づ いており,所有のあらゆる獲得もそうである。いずれの生産物も多くの他の個人の生産物であり,

私の諸欲求を充足するところのそれぞれの生産物はこの鎖を前提する。各人は彼の労働が人によっ

て必要されるであろう,という信頼のもとに労働している。ここは個人の目的が一方で普遍性をも

(14)

もつという媒介の領域である。とはいえ普遍のための生命一般はなおここでは存在しない。ここで は個人の生計と権利が目的である。ここで妥当する普遍性は抽象的な普遍性にすぎないものであ り,単に手段である普遍性である,したがってこれは悟性の国家のことである。権利を獲得すると いうことの目的は欲求を充足することにある,すなわち特殊な所有のとしての所有の保護と確実性 が必要な国家の目的である。家族の統一は解体されており,家族の人倫的な関係は分解されている,

そして必要の国家は人倫的な国家ではない。家族は実体的なものであり,対立するものを克服する ことによって家族は,即自・対自に存在する人倫態へと自己を昇華しなければならない。家族の対 立するものの段階は必要の国家であり,抽象的な普遍性である。ここでは自立した者としての一方 的な者は,彼の欲求のために配慮しなければならない。この欲求が必要を構成し,そしてこの必要 は一般的な関連において充足のみを見つけだす。」

評注

 主文

 家族の実体的統一 ─ 多数の家族へ ─ 自立的な諸人格として互いに振る舞う ─ 市民社会 ─ 個々人 の生計と福祉があらゆる個々人の生計と福祉に条件づけられる ─ 個々人はこの共通の体系[普遍性]に 編み込まれる ─ 普遍性はそれ自体が即自・対自に目的ではなく,個々人の現存在と扶養のための手段 である。かくして市民社会は,外的な国家・悟性の国家・必要の国家である。

 注釈文

 市民はブルジョアである。個人は自己の福祉を,自己の生計と権利を目的とする。個人は自己のみを 目的とする。しかし個人の目的は媒介されねばならない。 「個人はすべての個人のことを配慮し,そして すべての個人が彼のことを配慮しないことなしには,自己のことを配慮することはできない。利己心と いう彼の目的によって彼は同時また他人のために労働する」。

 「各人は彼の労働が人によって必要とされるであろう,という信頼のもとに労働している」。

 普遍性は市民社会においては, 「抽象的な普遍性」, 「単に手段である普遍性」である。すなわち家族に おける普遍性・特殊性・個別性の人倫的な一体化の関係が分離し,各モメントが自立している状態である。

必要国家は人倫的国家ではない。

 ホーマイヤー手稿 ─ Hom. S. 308., 『ホーマ』121-122。─

 §90

 「この領域では個人はその特殊性のおよびその欲求の具体的な全体として自己を目的とする。しかし その目的はすべての他の人々の生計と福祉に絡み合っており,その絡み合いによって媒介されている。

かくして個人はその実在を,そして外的な現存在も合法的な現存在もこの共同的な体系においてもつの である。この体系は今や悟性の国家

4 4 4 4 4

,あるいは,必要の国家

4 4 4 4 4

をなしている。

    偉大な民族は,それが自然的な統一から成長したのではなくて,そして制限性にあり続けたので はなくて,種々なるエレメントから生成し,そして同時に対立を自己のうちにもっていた。

  ─

    国家の腐敗は ─ 市民がもはや普遍において生活するのではなくて,普遍を犠牲として彼らのも ののみを追い求めるという原理が現れてくる場合に[生じる]。 ─ 利己心,恣意がここではその基 礎をもっている。

   ルソー。─

(15)

    貴族の人倫態において, (それをわれわれは時に野蛮さの責めとする)なるほど実体性は存在する が,諸個人の特殊性が自己をなお普遍と調整していないし,この普遍にまで昇華していない,その ことが欠けている。そして人倫的なものにおいて単に権威に[基づいており],そしてそれは自己確 信によってではない。」

評注

 主文

 市民社会の個人は特殊性として,欲求の全体として自己を目的とする。しかしその目的はすべての他 の人々の絡み合いによって媒介されている。かくしてこの体系は,悟性の国家,必要の国家である。

 注釈文

 国家の腐敗 ─ 普遍を犠牲とする ─ 利己心と恣意,ルソー。

 リンギール手稿: ─ Ri. S. 112-113. ─

 「諸家族が生じ,諸家族が姿を消す,それは市民社会への移行をなす。この移行は概念の移行である,

それは別のことである。家族は実体的な統一であり,家族は何の対立ももっていない。人倫態全体は意 志の統一であり,それは家族のなかで分離されない実体的な仕方で自己において含んでいる。しかしさ らなることは,概念がその諸モメントを実現し,概念が対立するに至り,かくして人倫態が失われると いうことである。具体的な人格は対自的である。その人格に普遍性が,その人格の関連一般が対抗する。

家族において一つであることが,ここでは引き裂かれている。市民社会において目的は人格である。か くして利己心の原理が貫徹する。各人は対自的である。第二にこの区別されたものは即自的に同一であ る。即自的に存在する同一性は人格の意識に存在しないで,この区別されたものは対自的である。この 区別されたものの統一は内在的な,隠された統一であり,かくしてこの区別されたものは相互の関係に あるが,しかしその関係は自由の関係ではなくて,必然性の関係である。この区別されたものは同時に 即自的に同一である。自由とは,自己を他のものにおいて自己自身に関わらせるということである。特 殊性はこの区別されたものを自己に結びつける,なぜなら特殊性はその概念にしたがえば自立的なもの ではないからである,かくしてこの関連は外的な関連にすぎない。かくして私は特殊として目的をもち,

私の利害関心,私の諸欲求を配慮し,そのことによって私はしかし他のもろもろの私に

4 4 4 4 4 4 4

(Iche)到達し,

私はもろもろの私を他のもの

4 4 4 4

によってのみ充足しうる,ということが示される。他のものへのこの関連 は対自的に必然性の関連である,なぜならそれは自由の関連ではないからである。私が特殊として他の ものに私を関連させることによって,それは私が一度は引き受けざるをえないところの緊急の事柄であ る,私はそのことによって依存性にある。それは緊急の場面である。この他のものは再び特殊な利害関 心等々である,私からは独立したものである。この依存性においてさらに互いにかように振る舞いあう ところの人々の即自・対自に存在する同一性が基礎にある。彼らは一般に自己に同等である。あらゆる 絶対的に特殊なものが互いに妨げあうならば,彼らは動物のように振る舞う。」

評注

 市民社会 ─ 利己心の原理(もろもろの私) ─ 自由と必然。同一 ─ 区別 ─ 同一と区別の統一。

 つぎに「第二編 市民社会」という表題と §182 との間に短い導入部分が以下の二つの手稿にはある。

 ハイゼ手稿 ─ Hey. S. 33-34., 『ハ』57。─

 「『第二編。市民社会。』という見出しのために。」

(16)

 「市民社会は区別一般(die Differenz überhaupt)の段階である,家族は愛の国家であり,この国家に 対して国家それ自体が存在する。二つの国家のあいだに市民社会が存在する。市民社会の陶冶された姿 態は新しい時代の段階である。外的な現存在からみてこの世には国家は市民社会よりもより以前に存在 する。市民社会は対自的には存在しえない,なぜなら市民社会は真に人倫的なもの,自立的なものでは ないからである。市民社会はそれが基づくところのより高次なもの,より堅牢なものを必要としている。

市民社会の陶冶は現代に属している。 ─ 理念に存するあらゆるモメントは陶冶され,そしてそのこと によって自立的となる,このことは必然的である。個人のあらゆる能力を開発するということは,無意 味な企てであろう。

 ポリツァイ

4 4 4 4 4

は市民社会(外的な必要の国家として)の秩序を守っている。」

評注

 家族 ─ 市民社会 ─ 国家という論理は,同一 ─ 区別 ─ 同一であり,愛の国家 ─ 市民社会 ─ 国家 としての国家である。国家は市民社会に先行する。市民社会は独立したもの,人倫的なものではない。そ れゆえより高次なものを必要とする。市民社会の各モメントは陶冶されて,自立しなければならない。

─ ポリツァイは市民社会の秩序を守る。

 グリースハイム手稿 ─ Gr. S. 472. ─

 「市民社会はそれの基礎として,それの出発点として諸個人の特殊な利害関心をもつ。フランス人はブ ルジョアとシトワイアンの区別をつける,ブルジョアは共同体のなかの,個人の欲求の充足を考慮に入 れた個人の関係であり,それは何の政治的な関連ももってはいない,その関連をシトワイアンがはじめ てもつ。ここではわれわれは諸個人をブルジョアとしてのみ考察する。」

評注

 市民社会の基礎 ─ 諸個人の特殊な利害関心 ─ ブルジョア。 (ブルジョアとシトワイアンの区別)。

§ 182

 キール手稿(§182) ─ Ki. S. 177., 『キ』189。─

 「これは,どのようにして普遍が特殊性によって現象するのか,そしてどのようにして普遍が特殊性に おいて普遍の現実性と拠り所をもつのか,という過程である。」

 ホトー手稿(§182) ─ Ho. S. 565-569., 『ホ』340-343。─

 「第二編 市民社会  §182

5 )

 市民社会は区別の(der Differenz)段階である。われわれは市民社会を普通は家族と同様に,国家,全

体と考える,諸個人は彼らがそのために活動的であるところの共同体の市民であること,そのことに

もっぱら名声をもつのである。家族と国家のあいだに市民社会が来り,その社会の陶冶はのちに国家と

して登場する,というのは市民社会はそれが対自的に自立的なものではないことによって国家の前に

は実在しえないからである。それは理念のあらゆる規定にそれの権利を与える近代に属する

6 )

。もしも

人が,教育の目的とは何か,と問うならば,それはあらゆる素質の陶冶である,と答える,この答えは非

常に空なる表現である,しかし理念に関して言うならば,理念の諸モメントは最高の自立性へと形成さ

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