朴 琉 貞
I.は
じめ にⅡ
.韓
国 にお け る主 要 苑 池 遺 跡 の検 討Ⅲ。 日本 にお け る主要 苑池 遺 跡 の検 討
Ⅳ
.九
黄 洞 苑 池 の性 格V.考
察要
旨
韓回の古代庭園遺跡の全般的な流れに対 しては研究が進められてきたが、詳細な形式変化の 検討 を試みた例は大変稀である。 これは、発掘 された遺跡が多 くないという理由もあるが、庭 園遺跡が もっている多様性のためであるように思 う。多様性の原因としては、仏教、道教、神仙思想な ど、当時 の社会 を風靡 した哲学的な思想 と庭園を美 しく造 りあげようとする造成者の感性、そ して苑池が位置す る地域 の地形 と風景をあげることがで きる。 もちろん、その感性 と趣向は当時流行 した思想の影響 を抜 け出す ことがで きないだろうが、庭園遺跡が同時代に多様な様相を帯びていることも、 このような理由 のためである。多 くの遺跡が発掘 された日本の古代庭園の場合にも、方池を除外 した曲池の場合 は、い くつかの共通項 を除 き、多様 な形態 をみせている。韓国の古代苑池は、早い時期から方池 と曲池が同時 にあ らわれている。高句麗 と百済は、方池の比率が高 く、新羅は曲池の比率が高い。曲池は外形が華麗 なために、主に宮、王室関連寺院などのような重要な建物群 として採用 され、方池は造景用 もあるが、
主に宮、山城 などで貯水のため使用 された り、寺院内の影池 として採用 された りした もの とみ られる。
日本の場合、飛鳥時代 には百済の影響 を受けた方池が主流で、噴水施設や石造物 などで方池内部 を造 り、
造景の視野が方池内部に集中するように促 した。一方、韓国の場合は、周辺の自然と調和 をなす造景の 視野が苑池内部か ら周辺景観 までを含 む、 よ り広い視野をもっていた。 日本 も奈良時代 になると方池は な くな り、曲池一色にな り、 自然風景へ と変わっていった。九黄洞苑池は、このような苑池の変化の中 で水路が強調 されるとい う特徴 をもつ形態 として捉 えることができ、最近発掘調査 された百済王宮里遺 跡 と、 日本の飛鳥時代の苑池の一部 もやは り同 じ脈略で把握 しなければならない と考えられる。
キーワー ド
九黄洞苑池
庭 園
六角形遺構
国立慶州文化財研究所
朴 疏 貞
I。
は じめ に
現在 まで韓 国国 内で行 われて きた古代 苑 池 に対 す る研 究 は、苑池 その もの とい うよ りは、
苑池 を構 成 してい る庭 園 に対す る造景、 また は建築 的 な観点 か らの アプ ローチが 中心 で あ った。 む しろ、発掘調査 で検 出 された苑池 その もの に対す る考古学 的検討 は、発掘 調査 報 告 書 に収 録 され た内容 に過 ぎず、調査 され た遺構 に対 す る解釈 とい うよ りは、 出土遺物 に 対す る検 討 を とお した時期 的 な流 れや、 苑 池遺 跡 間 の編 年作 業 が行 われ て きた こ とが現 実 で あ る。苑 池 に対す る研 究が まだ十分 で ない上述 の よ うな点 に対 して は、 もちろん発掘 調 査 され た苑 池遺跡 の数が少 な く、 この中で報告書 が発刊 されてい ない ままの状態や、 また は発掘調査 が全面 的 に行 われてい ない な ど、遺跡全体 の状 況 を考察 して論議す るの に無理 が あ る点 も事 実 であ る。 しか し、発掘調査 報告書 が刊 行 されて も、報告者 の視点 に よって その 内容 に差異 が あ り、報告書 の内容 の粗 略 な どの ため に、調査 者 で はない第三者 が苑池 遺跡 の全貌 を検討 して考察す るのには役不足 なこ とが現実 であ る。
幸 い、去 る1999〜2004年の 間、 国立慶州文化 財枡 究所 に よる発掘調査が行 われた九責 洞 苑池 遺跡 は、 これ まで行 われ て きた苑池 関連研 究 に新 た な突破 口 を提供す る点で重要 な意 味 を持 つ 。特 に、造 景 や建 築 的 な面以外 に も、周 辺 遺 跡 との有機 的 な関係 の中で苑池 の機 能 を考慮 す る こ とがで きる資料 が確保 され、時期 別 の苑池 の運営 に よる修築作業 と管理 方 法 な どを検 討 す る こ とが で きる内容 を調査 す る こ とが で きた。特 に、 これ まで調査 され た さ まざ まな苑池遺跡 で不 明確 に確 認 され た部分 に対 して、補 充す る資料 が確保 され た点 で 重 要 な意 味 を持つ。 よって、 い まだ不 十分 で はあ るが 、 これ まで報告 された苑池遺構 を中 心 に取 り上 げ、九責洞苑池 との空間構成 を とお して、その性格 を比較す ることとしたい。
研 究対 象 は、苑池 とい う性格 に符合 す る遺跡 とす る。単純 な貯水用 であった り、集水 施 設 、 と くに 山城 で確認 され る池 な どは、 そ の役 割 を考慮 す れ ば生活用水 を調達す るため の 目的が主 で あ り、造景的 な性格 は皆無 で あ る もの と して、苑池 の対 象か らは除外す るこ と と した。 しか し、貯水 施設 として使用 した と言 って も、造景 的機 能が あ った遺構 は検討対 象 に含 めて詳細 な検 討 をお こな うこ ととす る。
Ⅱ .韓 国 にお け る主要苑池遺跡 の検 討 1.高 句麗
(1)安
鶴 宮 池安 鶴 宮 は 、 長 寿 王 十 五 年 (427)、 高 句 麗 が 首 都 を国 内城 か ら平 壌 へ 移 して造 営 した
4番
目 の 宮 城 と して 、 平 壌 市 大 城 区域 安 鶴 洞 の 大 城 山蘇 文 峰 南 麓 に位 置 す る。 城 郭 の一 辺 長 は622mで
あ り、 総 面 積 は約 38万 だ で あ る。 調 査 結 果 か ら、 安 鶴 宮 内 に は多 数 の苑 池 が 残 っ て100
お り、宮 内 に等 し く分布 して い る こ とが確 認 され た。安 鶴宮 内の苑池 は、 曲線 形 と方 形 、 大 き く二つ の類型 に分 け られ る。代 表 的 な遺構 を検 討 してみ よう。南宮 の西辺 の 回廊 に連 結 す る付 属建 物 前 に位 置 してい る苑池 は、平面形態 が東 西 に長 い落花生模様 で あ り、 そ の 長 さが
100mに
い た る。景石 が点在 してお り、 苑池 の北方 に隣接 した建物 の規模 でみ れ ば、宴会 お よび共 有 の空 間 と して利用 されて いた もの とみ られ る。安鶴宮 の東南端 には、 一辺 が
70mに
わた る大形方形池が検 出 された。深 さは1.5〜2.4mで、床面 は20cmの
厚 さで粘 土 と 小 石 で基礎 をな し、その上 に粘土 を10cm程
度 の厚 さで固めていた。そのほか には東宮 前 面 と北宮 内 に、一辺10〜20mの
長 さの方形池が あ り、 中宮 回廊外側 には一辺6.7mの 小形方 形池 があったことが報告 されている。報告内容 によれば、石積の痕跡が残 っていた とい うこと か ら、護岸は垂直にたちあがる石積 の形態であった と推定 される。(2)大
城山城の池大城山城は平壌市 に位置する高句麗山城 として、
4世
紀末か ら5世 紀初に平壌地域 を防衛 する目的 として建て られた。安鶴宮へ遷都 した後には、王宮 を守る役割を担 った。(3)真
珠池 (定陵寺址西辺苑池)定陵寺 は高句麗盛行期の寺院 として、平壌市東南側へ
22km離
れた力浦区域龍山里 にあ る。真珠池 は、寺址 の西方へ約
400m離
れた低 い貯水池に位置 している。平面形態は隅丸方形 に 近 く、南辺115m、 東辺75m、 北辺90m、 西辺70mで
ある。苑池の深 さは、5,4mを測 り、土 盛護岸である。苑池内部には4基
の島を造成 してお り、島の直径 は12〜16m程
度である。床 面 には砂利 を敷 き、入水回は西北側 に、つ二水 回は東南側 に位置する。真珠池 は、池内部か ら炭化 した蓮の種子 と「定陵寺」銘の瓦が出土 した点、『東国興 地勝 覧』 によれば、東明王陵を真珠陵 と呼んでいた とい う点 などか ら、寺院の主要 出入 口 に配 置 された影池の可能性が提示 されている。 このことか ら寺苑池 として推測 され ること もあ る1。 また、苑池内に渡橋 または神仙思想的な性格が強い島が造成 された点 を理 由 と して、
寺苑池 よりは安鶴宮 とは異なる離宮の宮苑池 としてみる見解 もある2。
2.百
済(1)扶
餘官北里苑池忠清南道扶餘郡扶餘 邑官北里 に位置 し、扶蘇 山の西南辺の麓にあたる。官北里遺跡 は百 済迦洸期の王宮地 として比定 される場所で、現在 までの10回にわたる発掘調査 をとお して、
王宮 に関連 した多様 な遺構 と重要 な遺物が出土 した。苑池 は1982年〜1983年 にわた って、
忠南大学校博物館の発掘調査で確認 された。
苑池 は、現在の国立扶餘文化財研究所前面 に位置す る傾斜面か ら確認 された。平面形態 は長方形で、東西10.6m、 南北
62mで
ある。護岸 は垂直に積 まれた石築で、人工的に加工 さ れた割石 を使用 し、主 に長手方向に積 み上 げている①苑池の深 さは1〜
1.2mで ある。苑池朴 琉 貞
第1表
大城 山城の苑池
北 辺 に2列の石列 と瓦 を利用 した入水施設が あ り、排水施設 は確 認 されてい ない。苑池 の東 側 と南 側 で は、 一 定 の間隔で列 をなす木柱 の列 が確 認 され てお り、苑池 と関連 した施設 と 推 定 され る。 苑池 の床 面 で は、蓮 の茎や根 が確 認 され、百済 時代 の造 景施設 と推 定 されて い る。
(2)益
山王宮 里苑池王宮里庭 園 は、講堂l■の北側 にある東西石積4の東側 末端 部 に位 置す る。石積 の高 さを活 用 し、板 石 で外 郭 を区画 し、 内部 には景石 と床面 に川砂 利 を敷 いてい る。石積 の北側 か ら 流 れ込 む水 を一 時的 に堰 き止 め、流 し込 む小規模 な苑 池 で あ る。北側 か ら水 が流入す る部 分 は、扁 平 な板 石状 の塊 石 を置 き、東側 と南側 には長大 な石 を立 てて、仕切 りを設 けた。
仕切 り施 設 をみ る と、庭 園の 中心 空 間 は3.2×2.8mに推 定 され る。北側 の入水部側 は、有機 物 層 が あ る こ とか ら、 木筒 で水 を引 き上 げ て い た もの と推 定 してお り、苑池 の南東 隅か ら 南側へ排 水路 の床面 と推定 される遺構 の痕跡が あ るこ とをみ る と、排水施設 と考 え られ る。
王宮里苑池 は、 ほかの苑池遺跡 とは形態 的 に差異 が あ るが、造景 と関連 した庭 園遺跡 であ る こ とは明 白であ る。樋 施設 と床面 に敷 いた川砂 利 は、水 が流 れ るこ とで生 じる床面 の凹 凸 を防止 す るの は もちろん、砂利 と水 のぶつか る音 まで念頭 に置 いてい るため、水路 形庭
102
号 数 位
置 平面形態 規
模 床 面施設 特 徴
1号 長寿峰南側谷 間 長方形
東西
37m
南北
34m
深 さ
1lm
砂利 を敷 く角石 は大変大 きな ものを使用 池 の外郭か ら中央へ向かって傾斜 をも ち池中央が深 くなるようにする 池 の周辺に東屋 を置 く
2号 長寿峰
南側麓 円 形
8m 加 径 さ 直
深 石 を敷 く 入水 口に小 さな石の築山を設置 ―浄化用
4層 護岸 ―梅雨期 に水が一斉に入ってこ ない ように、 また浄化用
3号 長寿峰
南側谷間 長方形
東西20m
南北25m 石 を敷 く 池の隅は円形に処理4層 護岸 5号 長寿峰
南側谷 間 長方形
m 前 西 北 東 南
6号 蘇文lle
頂上 長方形 東西
425m
南北 10m 2段 護岸入水 日に石の小 山を設置 7号 蘇文峰
頂上
二等辺 三角形
各辺15m、
8m、
8m
護岸 の東側隅が切断 されている 池の北方には石垣 (幅 120cm、 高さ30〜
40cm)を
設け、水が流れ込むのを防止10号
乙支峰 と 長寿 峰 間 の谷 間
長方形 一 辺 18.2m 粘土基礎 護岸 ―石築18段、高 さ
39m
16号 大城 山城 谷 間の 中心 円 形
径 さ 直 深 14 6rn
33m
護岸 ‑20〜 40cmの 大 きさの石 を城壁築 造手法 として積み上げる
池の西南側 に排水 口
池の周辺 に東屋があった と推定
園遺跡 とみなければならないだろう。 また、 この庭 園遺跡 と連結す る苑池遺跡が今後発見 され る可能性が高 いであろう。
3.新
羅(1)月
池新 羅 の宮 城 で あ る月城 の北側 に位 置 し、 東宮 に該 当す る場所 であ る。1975年 か ら1976年 まで 、 文化 財研 究所 古 跡発 掘 調査 団 に よって発 掘 され、 東 西200m、 南北
180mの
範 囲 に「¬」 字形態 の不整形 な苑池 と、苑池 に接 す る南西側 で建物址 群 が確 認 された。 月池 は直線 と曲線 が調和 をなす護岸 として有名であ り、船着場 と苑池 に繁がれた船が発見 された。
苑 池 の西 岸 は、壁 石 が建 物 の基lg‐の役 割 も兼 ね てい るため に直線 的で、南岸 は直線 的で はあ るが若干緩 やか な方であ る。東岸へ 行 くほ ど護岸 は曲線 を呈 し、西側へ 突 出す る
2基
の半 島が あ り、北岸へ至 る北東 隅 は深 い湾 の形 態 をなす。北岸 は西側 の直線 的 な護岸 が緩 やか にの び、 さ らになだ らか な屈 曲 をな してい る。護岸 の屈 曲が あ る東北側 には、恨 山が 造成 されて、苑池 内部 には
3基
の 島が位置す る。護 岸 はすべ て垂 直 に積 み上 が る石積 を してお り、加 工 した石 材 を使用 してい る。池 の床 面 は厚 さ
50cm前
後 で、粘土 と砂利 を混ぜ て石灰 を敷 き詰 め、 その上 に砂 と黒色 の砂 利 を敷 いた。池の中央 には、水草 を繁殖 させ るための一辺120cmの長 方形の木材枠があ る。3基
の島は、大 きさによって大 ・中 。小 に区分 され る。大 島 は苑池内南側 に位置 してお り、屈 曲 をもつ楕 円形 の形態 をなす。規模 は東西51m、 南 北
30mで
あ り、護岸石積 の周 囲が139m、 面積 が1,049∬ であ る。護岸石積 の高 さは1,7mであ り、石積 上 か ら3.5mの 高 さまで傾斜 しなが ら積 み上 が る小 さな築 山の形態 をな してい る。中 島 は苑池 の北西恨I隅に位 置 してお り、護岸 に屈 曲 を もつ不整 円形 の平面形態 を してい る。規模 は東西33m、 南北
30mで
あ り、護岸周 囲 は11lm、 面積596∬ である。護岸石積 の高 さは1.6m前 後であ り、石積上か らさらに2.9m程高 くな り、小 さな築 山の形状 をなす。小 島 は苑池 の中心部 に位置 してお り、発 掘 当時、堆積 土の 中 に完全 に埋没 していた。平 面形 態 は楕 円形 を してお り、規模 は長軸8.5m、 短 軸5.5m、 護岸 周 囲30m、 面積60だ で あ る。
護岸 石積 の高 さは
lm程
度が残存 してお り、島の上 には 自然石 を多 く置 き、 まるで石 の 島の ようにみ える ように造成 した。三 つ の 島 には多孔 質の石が多数置 かれ、 島 と護岸石積 の上段 に景石 が集 中的 に配置 され てい る。苑池 に使用 された景石 は、相 当数がホル ンフェルスである。
入 水 日は東北隅 に位置 し、外側 か ら直線 的 な水路 が二 回折 れ、
2基
の石組 に連結 し、再 度 石組 か ら曲線 の形態 をなす水 路 に連 結 し苑池へ と続 い て い る。 出水 口は北岸 に位置 し、 そ こには水位 を調節す る特殊施設が あ り、長大 な石 を積 み上 げた石溝 や木材水 口 な どで構 成 され て い る。築造年代 は発掘 当時「儀鳳 四年皆 土」銘文が印 された瓦が出土 し、新 羅 文武103
朴 疏 貞
王十四年 (674)に 推 定 されてい る。
(3)国
立慶州博物館敷地 内苑池1974年、新築 の 国立慶州博物館駐車場敷地 内 に対 す る発掘 調査 に よ り、敷地 の東北側 隅 で確 認 された。池 の平面形態 は、東西 に長 い月城 を模 したかの ような三 日月形で、長 さ15m、
幅5m、 深 さ1,3〜
2mの
規模 であ る。護岸 は石積 で、苑池 内 には南北方 向に堤 が二箇所 あ り、池 を二等分 してい る3。 東側 の堤 の幅 は2m、 西側 は0,9mであ り、堤 の両側 は河原石 を積 んで い る。苑池 の床 面 は、地 山上 に
10cm以
下 の川砂 利 を敷 いてい る。床面 は南倒 か ら北側へ傾 斜 して い き、南 側床 面 の端 は南壁 と接 してお り、長 い溝 が設 け られている とい う報告か ら、南側 の長 い溝 が入水 部 であ った ことを推 定 で きる。 しか し、堤 に よって分 け られた側 の池 に水 が どの ように流 れ ていたのか に対 して は報告 内容 が な く、 その状 況 を知 る こ とはで き ない。堤 の下部 に、暗渠施設 な どがあったのではないか と推 定す るのみであ る。
池 の南 側 には人工 の築 山があ った としてい るが、現在博 物 館 正 門の両側 にあ る小 さな小 山が そ れ にあた る。 よって、 この苑池 は築 山 を備 える庭 園遺 跡 であ った とい うこ とが推定 され、最近博物館 の位置が南宮 として比定 されて い る こ ととあ わせ て、 この苑池が南宮 に 属 す る庭 園遺跡 で あ った可能性 も同時 に想定す る こ とが で きる。三 国時代 末か ら統一新羅 初期 に比定 されてい る。
(4)龍
江洞苑池龍江洞苑池 は慶州市 の北側 に位置 し、行政 区域上、隆城洞 と龍江洞 の境界 にあ る。1998年 に嶺南文化財研 究 院 に よる発掘調査が行 なわれ、苑池 の一部 と道路遺構 な どが確認 された。
苑池 は、南北 方 向 に長 い隅丸 の平面形態 を持 つ もの と推定 され るが、北側 が確 認 されて お らず 断定す る こ とはで きない。南岸 の長 さは33m、 東 岸38.6m、 西岸が
65mで
あ る。調査 地域 内か らは、苑池 内部 に人工 島が2基
確 認 され た。 この人工 島は南北 に配置 されてお り、北側 の島は南岸側 か らご く一部が検 出 された。
苑 池 と島すべ ての平面形態 は、隅丸方形 を呈 してい るが、 苑池の護岸 は屈 曲が緩 やか な 方 で、南 側 の 島の護岸 は屈 曲が強い。苑池の護岸 は、川原石 や水 中 にあ る川砂利 と、若干 の加工 を加 えた長方形 の割石 を利用 し、垂直 に近 い角度で築 いてい る。残存 高 は
80cm前
後 で、石積 が5段
残 ってお り、遺 失が激 しい部分 は残存 高20cm前
後、石積 は1段
程 度が残存 して い る。西岸 部分 は南側 の島 と一定 間隔 を保 ち、緩 や か に続 き、 島の北側 で 島を取 り囲 む苑池 内部へ 湾入 し、再 度緩 やか に北側へ続 く。 この ような形態 に よって、西岸 の突 出部 は、二つ の島 を境 界 に しなが ら苑池 を三分す る印象 を与 える。 これ は、 九黄 洞苑池 と類似 す る様相 として把 握 され る4。 東岸 と南岸すべ て、直線 に近 い緩 やか な曲線 の形態 をみせ て い る。南側 の 島は規模 が南北25m、 東西20.5mで あ り、平面形態が隅丸方形で護岸 の屈 曲が強 く、
104
まるで リアス式海岸 を連想 させ る。 島の護岸 は、河原石 を用 いて垂直 にちか い ように築 き、
その背 後 を砂利 を利 用 して補 強 してい る。護岸 の突 出部 には、石積 に一定 間隔で細 長 い害J
石 を立 て、 護岸 の 高 さ も自然 な高低 を意識す るな ど、造景 に 自然 な姿 を演 出 してい る よう であ る。護岸 の様相 をみ る と、池 の床面 に残存す る石積 の最大高 は
60cm程
度 で、 これが本 来の高 さであ った とみ られ る。島 の東側 には方 形 の突 出部 が あ り、池床 面 には根石 が残 って い る こ とか ら、苑池 の東岸 に接 してい る建物址 (正面 3間 、側面 1間
)と
連結す る橋脚が あ った とみ られ る。橋脚 と関連 す る石 造物 が まっ た く検 出 されてい ない こ とか ら、木橋 であ った と推 定 されている。橋脚 施設周 辺 の池 の床 面 に は、50cmの
厚 さで瓦 の堆積 層 が形成 され てお り、木橋 に瓦屋根 を葺 いていた と考 え られ る。 池 の東狽1にあ る建物址 は、橋脚 と連結 す る もの とみ られ、楼 閣 として推定 されてい る。
南岸 中央部 には導水 施設 が ある もの と考 え られ、 ここが入水 区 と して推 定 され る。苑池 外 の南側 か ら若 千 離 れ た地 点 で入水施設が一部確 認 された。南岸 か ら
20cm離
れ た位置か ら 検 出 され た入水 施 設 は、 東側へ 向か い、苑池か ら5m離
れた地点か ら西側へ と折れ なが らの びるが、苑池 の南岸 中央部 にいた り、入水 区 と連結す る もの と推定 され る。苑池 の西岸 か ら3〜
5m離
れ、幅5.2mほ どの南北方向へ いた る道路遺構 が確 認 されている が、道路 の方 向 と苑池 の護岸 が 同 じ曲率 で連 なってい る。苑池 と道路 が 同時 に造成 されたもの と推定 されてお り、他 の苑池 と大 きな差異 をみせている。
韓 国の古代 苑池 は、平面形態 に よって方池系 と曲池系 に区分 され るが、一番早 い時期 の 高句麗苑池 をとお してみ る と、その平面形態 は方形、円形、三角形 、不整形 な どの ように、
方池系 と曲池系 が 同時 に
5世
紀代 に存在 していた こ とを知 るこ とがで きる。 もちろん、方池 系 の比 率 が際立 って高 いが 、貯水 が主 た る機能であ った と推 定 され る安鶴宮 の東南隅 に位 置す る方池 を除外 す れ ば、安鶴宮 の不整形 曲池が一番規模 が大 きい。 この苑池 は4基
の 島5 と宴会 を催 した建 物 の規模 、築 山な どの共有空 間か ら、安鶴宮 内で最 大規模 の施設 であ っ た と推 定 され る。 百済 の苑池 は、発掘調査 された資料 がすべ て方形 で あ るが、現在 まで宮 苑池 が調査 され て い ない た め に、発掘 調査 された資料 で推論す る には多少無理 があ る。 し か し、文献記録 にあ らわれ る百済 の苑池 関連記事 を詳細 に検 討す れ ば、辰斯 王 (4世 紀末)、東城王 (5世 紀末)、 武王 (7世 紀末
)条
に記載 された「築 山を造 り草花 を植 えた り、禽獣 を飼 育 した り、池 内 に島 を造 り舟 を浮かべ た。」 とい う内容 を とお してみ る と、 曲池系 の苑池が 存在 してい た可 能性 を推 定 す る こ とが で きる。 また、最近発掘調査 され た益 山王宮里庭 園 遺跡 の水路 は、 たいへ ん発 達 した形態 をみせ てい るが、 これ は水 路 の機 能 とともに造景 に 姑す る比重 が高 か った もの と推 定す る こ とが で きる。 また、導水 施 設 と景石 な どで水路周朴 疏 貞
辺 を華麗 に装飾 した形態 とみれ ば、王宮 里庭 園遺跡 は今後 、百済宮 苑池が発 見 され る こ と を期待 させ て くれ る。
新 羅苑池 の場合 には、
7世
紀 中頃 に編 年 され る最 も早 い時期 の遺跡 として、九黄洞1次
苑 池 が あ り、 曲池 の苑池 とともに直線 的 な水路 が調和 の取 れ た形態 をみせ てい る。 三 国末か ら統 一新 羅初頭 に編年 され てい る国立慶 州博 物館敷 地 内苑 池 は、三 日月形 のやや独 特 な曲 池 の形状 を して い る。 文 武王 十 四年 (674)に築 造 され た もの と推 定 され る この苑 池 で は、方池 と曲池の要素が 同時 に表現 され、 九黄洞
2次
苑池 、龍江洞苑池が造成 され る8世
紀代 に は、方池 の要素 は苑池形態 のモ チー フ と して残 ってお り、 出入が複雑 になる曲池 の特徴 を みせ る ようになる。九黄洞
2次
苑池 と龍江洞 苑池 は規模 で多少 の差異があ るが、全体平面が隅九方形 で あ る点 と、南側 の 島の形態が方形 に近 い点、南側 に入水 区が あ る点 な どか ら共通点 を見 出す こ と が で きる。 しか し、九黄洞2次
苑池 は水路 と広場 が組 み合 い、垣根 と築台 (堤)に
よ って空 間 を狭 く限定 してお り、 閉塞 的で静 的 な雰 囲気 を与 えてい る。 その反面、龍江 洞苑 池 は隣 接 した道路 遺構 、橋脚 と楼 閣が設置 され た点か ら推 涙1する と、 開放 的で動 的 な印象 が 強 い 点 で大 きな差異 をみせ てい る。外 形 的 な様相 で は、共通 で 同 じモチー フを持 ってい る と推 定 され るが 、苑池 を利用 す る主体 に よって、細 部的 な差異 がみ える もの と判 断 され る。最 近、伝仁容寺址遺跡では8世
紀 後半 に比 定 される方池が確認 されたが、新羅地域 で寺 院の主 要 な出入 口 に方池が造営 された初 めての発掘事例 であ る。 これ らの状況か ら、8世
紀 代 の新 羅地域 で は、多様 な形態の苑池 が多様 な場所 に造営 されたこ とを示唆 してい る とい え る。以 上 の よ うに、発掘事例 が多 くない ため に断言す る こ とはで きないが、高句麗 と百済 は 方池 の比 率が高 く、新羅 は曲池 の比率 が 高 い。現在 まで に行 われた調査 内容 をみ る と、方 池 と曲池 の 出現 時期 に対 してそれぞ れ差 異 を認め るこ とは難 しいが、二つ の要素 が 同時 に 用 い られ て い る。 また、 由池 は外形 が与 える華麗 な点か ら、宮・王室 関連施 設 な どの よう な重 要 な建物 で主 に採用 され た もの と推 定 され、方池 は官・ 山城 な どで貯水 用 目的 と して 主 に使用 された り、寺 院内の池 と して採 用 された とみ られ る。 これ は、 日本 にお い て も方 池 の 出現 す る遺跡が、宮 よ りも有力 豪族 の居宅 または官衛 な どであ る点で類似性 を うかが
つこ とがで きる。
Ⅲ。日本における主要苑池遺跡の検討
(1)上
之 宮 遺 跡庭 園遺 構上 之 宮 遺 跡 は奈 良盆 地 の東 南 部 に あ り、 苑 池 遺 構 は緩 や か な傾斜 面 下 に位 置 して い る。
長 方 形 の石 組 み と排 水 路 、 平 面 が 弧 状 の 石 組 溝 に区分 され て い る。石 組 は1.5× 2.6m、 高 さ
15mを
測 り、 床 面 に石 を敷 き、 北 東 側 で は幅50cmの
排 水 区 が石 組 の床 石 よ りも約 ユOcm高
く106
設 け られ、北東側へ
50cmほ
どいた る状況 を確 認 した。おお よそ40〜60cmの
大 きさの花 筒岩 を使用 し、5段積 み上 げ、つい水 路 は平均30cmの
大 きさの花 筒岩 を積 み上 げている。石組 を囲む弧状 の石 組 溝 は、 直径 が 約
6mの
範 囲で、幅約40cm、 深 さ30〜40cmで
あ る。石組溝 の北西 面 の一 部 は後 代 の建 物址 基壇 に よって一 部遺 失 してお り、 北 東 側 は調 査範 囲 を越 えてい るため、 そ の ま ま弧 状 にめ ぐるのか、つい水 路 と連結 す るのか確 認 で きなか った。
石組溝 の積 石 は
2段
で あ るが、長辺側 は横2段、弧 の外側 は縦1段で高 く立 て、その上 を小 ぶ りな石 で高 さを合 わせ てい る。 内側 は長辺allと同一 の横2段積 みで あ る。長方形 の石組 と石組溝 の 間 には、小 ぶ りの石 を全面 に敷 いていた もの と推 定 され、石組 か ら石組溝へ緩 や か に傾斜 を もっていた る。石組溝 は長方形 の石組 か ら流 れ込 む水 を排水 す る用 途であ った と推 定 され る。
排 水路 は北側へ至 った後 、
40m地
点 で東側へ 向か ってお り、 この付 近 か ら排水路 と接 して 敷 石 が検 出 され た。 この場 所 か ら西面全 面 に三輪 山 を眺望 す る こ とが で きるため、苑池 が 築 かれた と想定 で きる。入水路 は確認 されなか ったが、懸樋 な どを利用 して水 を引 き入れていた もの と推定 され ている。 このような形態の苑池では最古の もので、4〜
5世
紀の水 の祭祀 と関連 した城之越 遺跡や南郷遺跡 などとは差異 をみせている。年代 は7世 紀前半 に編年 されてお り、F日本書 紀』推古二十年 (612)五 月の条に、「百済国、路子工が来て宮の南庭 に須輛 山 と呉橋 を造 っ た」 とい う点 と運動 させ、推古朝の時期 に渡来 した多数の技術者たちに よって造 られた、新たな苑池 と推定 されている。
(2)古
宮遺跡 (小墾田宮)6玉石組池 と呼ばれるこの苑池は、南北2.4m、 東西28m、 深 さ
05mを
測 る。平面形態は不 整円形で、浅鉢状 に掘形 を設けた後、その内壁 に15〜30cm内
外の川原石 を積み上げている。石組が残存 している地点 は南壁 と東壁のみであ り、南壁 はほぼ垂直 に石 を積 み上げている が、東壁 は約20°の傾斜 で石の長軸側 を積 んでいる。図面か らわかるように、東壁の最上段 は南壁で使用 される大 きさの石 を掘形の縁 にそって置いているが、床面へ いたる部分 はそ れ よ りも小 さく、扁平 な石 を敷いている。池の西南隅には、排水路 の役割 をす る小溝が連 結 してお り、小溝の石積がそのまま池の南壁 と連結 している。
小溝は幅25cm、 深 さ
20cmで
、池の西南隅か ら南へ緩やかに蛇行 してのび、大溝 との交差 点か ら西側へ直線的に流れてい く。調査区域内か らは約25mの
範囲で確認 された。小溝の側 壁 は河原石 を1段
立てて整 え、部分的に小ぶ りな石 を積み上げて、上面 の高 さを合 わせて いる。床面は、大溝 との交差点以北では河原石で床面 を備 える反面、以南 では床石 を敷い ていない。大溝 を基点 とした築造上の差異が生 じた要因 として、当初、大溝以北のみが造 られたが、その後南側部分 を増設 し、継続 して使用 された点が挙げ られる。107
朴 琉 貞
小溝 の両側護岸 に接 して、幅10〜
20cmの
河 原石 の上 面 を揃 えて敷 いた敷石 が確認 され た。石 が残存す る部分 は、南北lm、 東西0.5mの範 囲である。周辺 には河原石 が多数散在 してお り、本来 はか な り広範囲に石 を設 けていた こ とがわか る。
池 の北 壁 と西壁 の石組 は遺 失 して残 って い ないが、小溝 と連結す る西壁 に南壁 と同一 の 様相 の河原石 が ひ とつ残存 してお り、 もと もとは西壁 は直線 的 な護岸 で、垂 直 で直線 的 な 形態 を呈 して いた と考 え られ る。北壁 は東壁 の 曲線 的 な護岸 が め ぐるので はないか と想定 され る。入水 路 は確 認 され てい ないが、懸樋 な どに よって給水 していた もの と推定 してい る。
7世
紀前 半 に編年 され る。この苑池 の形式 もまた類 例 はないが、 日本 で は稀 な百済系蓮華文辱 の出土 な どか ら、上 之宮遺跡庭 園遺構 と同様、『 日本書紀 』推古 天皇二十年 (612)是 歳条の記事 をとお して、韓 国 との強い関連性 を想定 してい る。 しか し、直接 結 びつ ける こ とは難 しく、 中国新 彊 ウイ グル 自治区 キ ジル千仏洞第77・ 92・
H8窟
の壁画 にその類例 を求めてい る。特 に、 第 118窟 (4世紀)の
石 窟天丼壁画で描写 されてい る不整 円形 の池 は、S字
状 の溝が設 け られて い る絵 で注 目され る。(3)島
庄遺跡庭 園遺構島庄 遺 跡 は、飛 鳥地域南東側 に位 置 し、東側 は多武峰 の 山塊 か ら連 なる尾根 、南 側 は高 取 山か ら続 く尾根 、西側 は雷丘、甘橿 丘 な ど、独 立小 丘 陵 に囲 まれた狭 い盆 地 にあ る。 盆 地 の南端 部、飛鳥川 とその支流 であ る冬 野 川が合流 す る付近 が古代以来 の ̀島
'と
呼 ばれてい る地域 であ り、蘇我馬子 の居宅 と嶋宮 の推定地 とされている。
2基
の池が確 認 された。 ひ とつ は方形池 で、平面 隅丸長方形 を呈 し、一辺42mを
測 り、最 大残存深度 は2mで
あ る。池の護岸 は長 さ50cmの
河原石 を垂 直 に積 み上 げ、池 の床面 は20〜30cmの
河原石 を敷 いている。 中央へ 向けて緩 やか な傾斜 が続 いている。池 は幅10cmの
堤 を め ぐらせ てい る。池 と同一 の平面 隅丸方形 であ る。 その外面 に石積が なされているが 、30〜
40cm程
の河原石 を約70°の角度で3〜4段
積 み上 げてい る。本来は堤全体 に石敷が あ った もの と推 定 されている。池北 岸 の中央部、堤 下 には排水用 の本樋 が設置 されていた。床石 の直上か ら出土 した土 器か ら、
6世
紀 末か ら7世紀初頭 に造 られ た もの と推定 された。奈良時代以後 に埋没 したが、平安時代 か ら鎌倉時代 には先 の護岸 の撹乱石群で護岸 を築 いた池が残存 していた。
もうひとつの苑池は、方形池の北東側 に位置 してお り、 自然河川を模 した水路 と月ヽ池で ある。小池は地山を平面半円形 に堀 り、その中央 に長 さ2.3m、 幅0,7m、 深 さ
03mの
石 組 を 設けて砂 を敷いた。懸樋か ら供給 された とみ られる水 は、石組か ら上が り半円形の鬱穴内 か ら西南方向へのびる溝 に流れ込んでお り、 この溝は直線状 に北西方向へのびる。石組 の 中央か ら土馬 2点 が出土 した。108
小 池 の北側 には、隣接 して南東 ―北西方向の水路 が確認 された。幅 5m、 深 さ
12mで
あ り、護岸 に石積 を設 けてい る。北岸 の石積 は中央部 が高 く、上 ・下流 部 は高 さを減 じ、北西部 には緩 やか な傾斜 をつ けて石 を敷 いている。南岸 の上流 部 の護岸 には、
lm程
度 の石 を一列 に配置 してい る。水路 の上流部 は勾 配が急 で、 下流 部 は緩 やか になってい る。上流部 には 小規則 に石 を敷 いてい る。水 路 の南 東 側 へ 少 し離 れた地点か らは、石組 暗渠 が確 認 された。 この暗渠 は石舞台古墳 の西側 隅付 近 まで確 認 されてお り、石 舞台古墳 の南側 にあ る飛鳥川支流 の冬野川か ら水 を 引 き入 れ て い た もの とみ られ る。暗渠 は石組 で、幅
40cmか
ら50cm、 深 さ40〜50cmで
、床 面 に は河 原石 を敷 き、天丼石 を横 に して覆 って い る。暗渠 の北側延長線上 に水路 が位 置 し てお り、本来 は一体 の ものであった と考 え られ る。小 池、小 池 か ら離 れた溝 、水路 の間の空 間 には掘 立柱 建 物 が位置 してい るが、小池 と水 路 の流 れ を鑑賞 した施設 と推定 され る。
方形池 が造 られ た時期 は、7世紀 第
1四
半期 、 方形池お よび小池 と水路、建物が造 られた 時期 は第2四半期 に比定 されている。(4)石
神遺跡石 神 遺跡 は、飛 鳥寺 の北西側 に位置 し、 日本 書紀 に よれ ば服属儀礼 の場所 、 または迎賓 館 と して の機 能 をな した もの と推定 され る場所 であ る。̀須爾 山石' と ̀石人像
'と
呼 ばれる奇妙 な石造物 の 出土地 である石神遺跡 は、1900年 代初 め に3回の発掘調査 があ り、石敷 き な どの存 在 が知 られた。 さ らに、1980年 か ら1993年にか けての余 良国立文化財研 究所 に よ る12次 にわた る発掘調査 では、7世紀 中葉 か ら藤 原宮時期 にいたる遺跡が複雑 に重複 して造 営 され た こ とが 明 らか になった。
石神 遺 跡 第
6次
調査 (1986年)で
は、長廊状建 物 に よって囲 まれた東側 区画 内か ら方形石 組池7が発掘 され た。 この石組池 は区画の南側 に位置 し、先 行す る掘立柱建物 を破壊 して造 られてい る。池 の形状 は一辺約6mの
方形 で、深 さ80cm程
度 で あ る。側壁 には河原石 を2〜3段積 み、 四隅 には石 を立 てている。側石 の裏込 め土 は粘土 と砂質土 を版築 の ように交互 に 押 し固め、池 の床 面 には地 山上面 に粘土 を敷 き、その上 に小 ぶ りの石 を敷 いている。
入水 、排水 施 設 は確 認 され ていない。 ただ、側壁 と池床 面 の構 築状 況 な どか ら、水 を貯 めた施設 であ る点 は疑 う余地 はな く、懸樋 な どの入水施設が全部削平 された可能性 もあ る。
また、 池 内部 には長期 間水 が貯 まっていた こ とを示 す堆積 層 が確 認 された。 この時期 の遺 構 変 遷 が無秩序 にな され、池 の中心 に多量 の砂利 が堆積 して い る こ とを勘案す る と、長期 間 にわ た る貯水 施 設 で はな く、一時的 な用途で使用 され た施設 とも考 え られ る。 断定 しが たいが、廃 棄 時、池 の 中心 に大量 の砂利が入 ってい るこ とをみれ ば、一気 に埋 没 した可 能 性 が高 い。石組池 の年代 は石神遺跡の最盛期 であ る7世紀 中葉 に位置す る とみ られ る。
朴 琉 貞
もうひ とつの方形石組池 は、石神遺跡 第
3次
調査 (1983年)で
発 掘 され た。 この石組池 は、幅40〜
90cmの
自然石 を一律 に立 て側面 を造 り、床面 には拳大 の石 を敷 いてい る。幅 は東西 3m、 南北32m、 深 さは約60cmで
あ る。池 の床面 は黄色粘土上 に砂利 を敷 き、その上 には灰 褐 色 の粘土層 が堆積 してい た。貯水 施設 と考 え られ るが、入水 ・排 水 施 設 は確 認 され てい ない。以上 の ように、石組 池 は石組 ・池床 面 の状 況 と入水 。排水 施設が確 認 されてい ない 点 な ど、前述 した方形池 と形 態上類似 してい る。 その一方 で、造営 時期 が7世
紀 後 半 で あ る点 と石神遺跡 の外 狽1に位 置 して い た とい う点 な ど、遺跡 の性格 上 、多少 の差異 をみせ て い る。(5)郡
山遺跡郡 山遺 跡 は、宮城 県 の ほぼ 中央部 に位置す る仙台市太 白区郡 山 に所在 す る官衛 ・寺 院遺 跡 と して、畿 内 を拠 点 と した王権 が東北 まで進 出 し、支配 を強化 した こ とを裏づ ける遺跡 である。
遺跡 は、飛鳥 。奈 良時代 の
I期
官行 、 コ期官衛、 Ⅱ期官衛付属寺 院 (郡山廃寺)、 官 人居 宅、関連 官行 な どで、 これ以外 に も、縄 文時代 か ら江戸 時代 までの遺構 が検 出 され た複合 遺跡 である。石組池 と石敷遺構 を含 む Ⅱ期官行 は、遺跡 内中央 の北側 に偏在す る。
石組 池 は、 Ⅱ期官行政庁正殿 の北東側
20m程
度 に位置 してい る。拳大 か ら人頭大の河原石 を積 み上 げた方形池 で、東西3,7m、 南北3.5mを 測 る。 ほぼ正方形 で、深 さは現存60cm程
度 で あ るが、 同一時期 の石敷遺構 上面 か らの深 さは80cm程
度 と推 定 され る。 四壁 は枕状 の横 長 の河原石 を端面が外恨Iに向 くように、4〜 5段に積 み上 げてい る。池床面 には拳大 の若千 扁 平 な円形 の石 を敷 い てい るが、床 面 の浚渫 を しなが ら、大部分 は掘 り上 げ られて しまっ た もの とみ られ る。床 面 と側壁付 近 の堆積 土 は、粘土・ シル トが主体 をなす。池 の北辺 中 央 には、給水用石組溝 が北 か ら一直線上 にのび、池 と連結 してい る。 また、池 の西辺 中央 で は排水用 の石組溝 が池 の南側 にあ る石敷遺構 の北偵1に並 行 して、直線 的 に西側へ のびて い る。同一 時期 に この池 と一体 で あ った と想 定 され る石敷遺構 は、正殿 の北側 に接 して、南北 13m、 東 西
1lm以
上 の範 囲 に広 が っている。石敷 き遺構以外 で、 この周 囲 に関連 した建物痕 跡 な どは発 見 され てい ない。池 の北側 には、給水用 の石組溝 と連 な る もの と推定 され る東 西 方 向の長 い石組溝 が 設 け られ てい るが、政庁地域 の北側境 界 と考 え られてい る。 また、東方 には政庁 の東側境界 と考 え られ る桁行7間の南北棟建物が、石組溝 か ら
27m離
れ て位 置 して い る。 この ように、正殿 の北側 には政庁 関連施設 はほ とん どみ られず、石敷遺構 と石 組方形池 な どに よ り構 成 され た、非常 に特異 な空 間が広が ってい る。年代 は、7世
紀 末 か ら 8世紀 初頭 に比定 され る。(6)飛
鳥京跡苑池遺構苑 池 は、飛 鳥 京跡 (飛鳥浄御原宮
)内
郭 の北 西 、飛 鳥川沿 い に位 置す る。堤 防 に よって区 画 され た池 と島、水路 、石造物 な どが確認 された。池 と水路 は部分 的 に発掘が行 われたが、全 貌 を確 認す る こ とはで きなか った。池 の全容 的 な平面形態 は、 直線 と緩 やか な曲線 で構 成 され る南 北 に長 い不整形 な ものであ った と推定 され る。池 の全体規模 は、南北100m、 東 西
50mほ
どで あ る。西岸 は直線 的 に北西側へ いた り、90° に折 れ北 東側へ のびる。池 の中心 部 に は東西 方 向 の堤 防が あ り、池 の西岸 は堤 防 を越 えて、北側へ 直線 的 にいた る。直線 的 な西岸 は北岸 にいた る と、緩 やか な曲線 を描 く。南岸 は、緩 や か な曲線 を描 きつつ西岸ヘ 連結 してい る。堤 防 を境界 として南池 と北池 に分かれ る。池 の護岸 は西岸 と南岸 一部が確 認 されてお り、
50cm前
後 の河 原 石 を積 み上 げてい る。残 存高 は最大 で130cm、4段
の石積 が残 っている。南池で確 認 された西岸 は比較 的垂直 に積み 上が り、北池 の西岸 は階段状 を呈す る。堤 防 は、 幅 5m、 長 さは
32mで
あ る。東岸 との連結部分 は調査 されていない。水平 に整地 して造成 されてお り、両恨‖面 には40cm前
後 の石 を積 んでい る。残存 高 は1.3mで あ る。南 池 にの み
2基
の 島が あ るが、 中島 は堤 防か ら南側へ約18m離
れ て位置 して い る。32×14mの
範 囲 に北 西 一南 東方 向に細 長 く、不整形の平面形態 を呈 しているが、その軸 は堤 防 と 同一 であ る。 護岸 は50cm前
後 の石 を垂 直 に積 み上 げてい る。高 さ12m、 4段残存 してお り、島の上面 か らは特別 な施設 は確認 されていない。
中島か ら南側へ約
18m離
れた地点 に、島状積石 と呼 ばれ る遺構 が ある。平面形態 は東西 に 長 い不整楕 円形 であ り、11×6mの
範 囲 に、 10〜50cm大
の石 を60cmの
高 さで積 み上 げてい る。上面 は平坦 に整 えている。池 の床面 には敷石 がみ られる。西岸 と南岸では護岸 の最下部 で
5m幅
の敷石が確認 された。堤 防の南側 に も敷石 が あ る。堤 防の北allには、西岸 か ら砂利 で固めた床面が
10m程
の範 囲で 確 認 され、 それ以外 は平坦面 として造成 されている。北池 は中央部か ら敷石が確 認 された。堤 防の南 面東側縁 には、30〜
40cmの
大 きさの石 を一列積 み上 げた、29× 1,4mの 規模 の段 状敷石 施設 が あ る。堤 防最 下段 には堤 防 と直交 して、南池 と北 池 の水 を連結す る木樋 が2 基確 認 されてい る。また、入水 部 に使用 された もの と考 え られ る流水 施設 の石 造物 が発見 されてい る。27×
2mの
大形石槽 と、水 の流 れ を円滑 にす る ように溝 を彫 ったの石 造物 、管 を さし込んで水が 噴 き出 る よ うに した石造物が、組み合 わ されて入水 区の流水施設 として使用 された。東北 隅で は、 南北 方 向へ 長 くの びる水路が確 認 され た。排 水 路 の役割 を した もの と推 定 され る。水路 の幅 は苑池 と連結す る部分が5.8mであ り、北側へ 向か い なが ら少 しずつ広が り、北側へ 折 れ る部分 で は約
10m程
まで確認 された。部分 的 に多少 の差異 はあるが、石積護朴 疏 貞
岸 で あ り70° 〜80° の傾斜 を もって い る。 この苑池 は斉 明朝 に完成 し、天武朝 に廃棄 された もの と推定 されてい る。
(7)平
城宮佐紀池庭 園遺構佐 紀 池 は、奈 良盆 地 の北端 部 にあ る平城宮跡 第一次大極殿 院の北 西部 に位 置 し、平城宮 の西復I付近 に位置 してい た と想 定 され る西池宮 と関連 した苑池 と推 定 され てい る。現在 の 佐紀 池 は、東西160m、 南北
150mの L字
形 を してお り、谷地形 を利用 した水 田に南堤 と西堤を造成 した用水地 と して利用 されている。
佐 紀 池 の発掘調査 で、奈 良時代 の池 の西岸 と東岸、北岸 を確 認 し、護岸 の状 況が明 らか になった。西岸 はほぼ南北 に直線 的であ るが、東岸 は現在 の池 の形状 に近 い屈 曲をみせ る。
護岸 は傾斜約10° の緩 やか な斜 面 で、人頭大 の石 を約
2m程
度敷 いて い る。特 に東岸 は遺構 の残存状 態が良好 で、敷石 の東側 には様 々な大 きさの 自然石 が配置 されて い る。現在住宅 地 に なってい る西岸南部 には、半 島状 に高い地点がみ られ るが、整地 はな され てお らず 自 然地形である と確 認 された。入水路 は池 の北岸 に位 置 した もの と推測 され、排水路 は南岸 で確 認 され てい る。 これは 平城官 の中心排水路 に連結す る。
池 の造成 時期 は、初期堆積 層 か ら和 銅 六年 (713)の紀 年が あ る木簡 が 出土 したため に、
平城宮造営 当初 と考 え られてい る。 さ らに、敷石 を破壊 した腐植土層 か ら天平 十八年 (746)
の墨書土器が 出土 し、洲 浜礫 敷 の造 成が、奈 良時代前半 には確 立 してい た こ とを物語 って いる。
佐紀 池 西岸南部 の小 台地西側 には、佐紀 池 と同一の「池 田」 の小学名 を もつ水 田があ り、
こ こまで苑池が拡 張 され ていた可 能性 が高 い。 また、佐紀池造成以前 の地籍 図 には、東西 の里道 が記載 され、平城宮 西面北 門推 定地 で東側へ のびる宮 内道路 に一致す る。 ここが苑 池南堤 の痕跡 であ る と考 える とす れ ば、苑池 は谷地形 を堰 き止 めた り、小 台地 を池 の 中心 地 か ら長 く出るひ とつの 出島 とす るな ど、 自然地形 を巧妙 に使 い なが ら、東 西約220m、 南 北約
150m程
度 の広大 な規模 を有 していた と推測す ることがで きる。加 えて、奈良時代前半 に洲浜礫 敷 と景石 を ともなった庭 園意 匠が存 在 した こ とを実 証 し た点で も重要 な遺構 であ る。
(8)平
城京跡左京一条三坊十五 。十六坪庭 園遺構平城 京左 京一条三坊 十五・ 十六坪 は、奈 良山丘 陵西部 の南側へ広 が る舌状 支丘 を利用 し て築造 された佐紀盾列古墳 群 の東側 末端付 近、奈 良山丘 陵麓 の緩 やか な傾斜 を有す る扇状 地 に立 地 してい る。 この地域 は、奈 良時代 には平城京 の北側 末端 にあ た り、平城宮 と も近 く、東側 の奈 良 山丘 陵の一部 を占め る不退寺裏 山、北側 の ウワナベ古墳 を眺望 す るこ とが で きる最高の高燥地であ った。
112
奈 良時代 、平城宮東側 の平城京北辺地域一体 は佐保 と呼 ばれ、 F万 葉 集』『懐風藻』 な ど、
当時 の文献 によって、高級貴族が在宅 をな した地域 であ った ことを推 定す るこ とがで きる。
平城 京跡左 京一 条三坊 十五・ 十六坪 は、 ウワナベ古墳 の南 東側 に位 置 し、平城京造営 当 時、東西側 に前方後 円墳
2基
(平塚1・2号墳)の
墳 丘 を削平 し、周 濠 を埋 め立 て平地 を造成 した。奈 良時代 の遺構 は大 き く3期に区分 され るが、 第1期の 開始 は平城遷都 の和 銅 三年 (710)頃 、 第2期は養老・神亀年 間 (717〜729)頃
、第3期は奈 良時代 末 か ら平安 時代初頭 に あた る。第2期か ら第3期の 間には大 きな空 白期 間がある点が特徴 であ る。十五 ・十六坪 は、奈 良時代 にひ とつ の敷地 と して利用 され、奈良時代初期 に該 当す る第
1期
と2期には、敷地 北側 に建物群、南側 に苑池 を配置す る居宅であった。苑池 は、 この敷地 内 にあ った平塚
2号
墳 の前 方部周濠西南 隅 を利用 した もので、東岸 は前 方部 に沿 って長 く突 出す る形態 の洲 浜 を造成 してい る。洲浜 の斜面勾 配 は3° 程 度 で、古墳 斜 面 の勾 配 の約28° に比 べ 、緩 やか な形態 を呈す る。 この洲 浜 を背 にす るように、6個
の石(約50〜
90cm)を
敷石 と して配置 している。 これ らの敷石 は、東南か ら西北方向約6mの
間隔 で3個ずつ2条
に施 されてい る。東南側 の ものは両側 に大形 の石 を配置 し、 中央 にやや小形 の石 を置いてお り、石 の節理 に よって波状 の招 曲をみせ る ように考案 して配置 されてい る。また、西北 の もの も若千原位 置 か ら動 いていたが、や は り中央 に小 形 の石 を置 き、両恨1に 大 形 の石 を配置 してい る。 これ らの景石 は、石 の底 面 が埋 め られ てい る
1個
をの ぞ いて、すべ て地 山面上 か ら検 出 され た。池 の東北岸以外 の苑池遺構 は明確 で はないが、東西18m、
南北
10m前
後 の規模 の池 が想 定 されている。池床面 は、粘土質の地 山を直接利用 し、砂利 な どを敷 いた痕跡 はない。水深 は20〜25cm程
と推 定す るこ とが で きる。 また、敷石 に用 い ら れた石 の材 質 として、3個
は黒雲母石英質片麻岩、石英質片麻岩で あ り、 これ らは奈 良市東 部 の高 円 山周辺 か ら産 出 した もの と推定 され る。 また、古墳 の葺石 の大 部分 はチ ャー トで、両輝 岩、安 山岩 、片麻岩 、花 商岩、石英斑岩 な どが混在 してい るが、 これ らは奈良坂付 近 の洪積層の もの とみ られ る。
苑 池 と しての給 水 は、 北 か らの導水路 に よる。 この導水路 は苑池北 方 にあ る中心建 物 の 北 東か ら、東西方向へ の び、 ほぼ直角 に折 れて南へ いた る。幅1.2m程度 の小 形 の溝 で あ り、
中心建物 の東側 を
2筋
に分 けなが らのび、 中洲状 の島 をな している。 この2筋が再 び合流す る地点 よ りも南狽1は古墳前方部西面 に沿 って流れ、苑池 に到達す る ようである。この苑池は、神亀六年 (天平元年、729)に 謀反の嫌疑で自決 した長屋王の居宅であった場 所 と推定 されている8。
(9)平
城宮跡東院庭園平城宮東院庭 園は、平城宮東狽Iの東南隅にある。南 と東 に築地塀 を具 え、北 と東 を板塀 で囲った区画の範囲は東西約70m、 南北約
100mで
ある。遺跡 はその区画の若干南側 に位置朴 琉 貞
して、東西 は最大約50〜60m、 南北約
60mの
逆L字
形 に近 い形態 を呈す る。東 院庭 園 は
3時
期 に区分 され 、最 下 層 苑池 (710年 720年頃)、 下層 苑池 (720〜767年頃)、 上 層苑池 (767〜784年頃)に
分 か れ る。 池 の規模 と位置 は当初か ら大 きな変動 はな く連 綿 と営 まれ て きた とみ られ、最下層苑池 の段 階 か ら東 院苑池 の基本 プラ ンは確 立 された もの とみ なければな らないだろ う。最 下 層 苑池 は、南半部 お よび東側 と北岸 の一部 で確 認 され た。池 の平面形態 は、単純 な 逆
L字
形 をみせ てい る。規模 は、南北66m、 東西北半分 は20〜25m、 南 半部45m、 深 さ0.5〜0.8mであ る。 護岸 は屈 曲が な く、緩 や か な直線 的 な形態 を呈 してお り、 隅丸 で あ る。護岸 石 は上 層苑池 に よって大部分が失 われ てい るが、部分 的 に残存す る もの をみ る と、大 きさ
30cm前
後 の石 を2〜3段
ほぼ垂 直 に積 んだ石積 部分 と、 同一の大 きさの石 を20°前 後 の傾斜 で斜 め に貼 った部分 とが あ る。池床 面 に敷石 は確 認 されてお らず、景石 も確 認 され てい な い。入水部 は池の東北 隅 に推定す るこ とがで き、幅1.1〜15m、 深 さ40cmで
あ る。 池 の水 深 は、全体 的 に20〜30cm程
度 で浅 く、つい水 区が あ る東南部 は深 さが60〜80cmで
あ った もの と 推 定 されてい る。下層苑池 は、最下層苑池 を埋 め立 てて造 られてい るが、最下層苑池 と大 きな差異 はな く、
平 面形態 は逆
L字
形 を呈 して い る。 しか し、護岸 に屈 曲が加味 され、 やや 曲線 的 で 自然 な 効 果 を与 えてい る。 しか し護岸 が緩 や か にの び る形 態 の ため、単調 な印象 を もっ て い る。護岸 は長 さ30〜
50cmの
石 を汀線 に沿 って一石 ずつ直立 させ、その上 に10〜20cmの
石 を斜 め に敷 いた洲浜 と、石 を直立 させ ず、斜 面 に敷 いた洲 浜部分が混在 してい る。州 浜斜 面 の勾 配 は約7° 程 度 であ る。池床 面 は護岸 に連 な り、北半部東・西岸 は1〜 2mの
帯状 の 範 囲で、また、北西部の護岸 の ように広 く屈 曲す る部分 は4〜
6m程
度の幅 で、30〜50cmの
扁 平 な安 山岩 の石 を敷 いている。 しか し、南半部 は少 し異 なる。池の西南部 には帯状 の敷石 はな く、護岸 の外 へ 突 出 した部分 の内側 にのみ石 を敷 いてい る。苑池 の南岸西 部、苑池へ 長 く突 出 す る建物 の前面 には、幅 3m、 東西長
20m以
上 の帯状 の範 囲 に敷石 を施 した可 能性 が高 い。池 の深 さは北側 が5〜10cm、 南側 は35〜
50cmで
浅 い ほ うであ る。景石 は1イ固確 認 されてい るが、 同時期 のほかの苑池遺跡 と比較 してみれ ば、景石 は もっ とあ った と考 え られ るが遺 失 した もの と推定 され る。入水部 は北東隅 に位 置 し、石 組溝 で床石 が一部残 ってい るが側石 は遺失 してい る。床面 は20〜
40cmの
扁平 な石 を敷 き、幅 は50cm、 高 さは20〜30cmに
推定 されてい る。排水路 は、池の東南隅 と西南 隅の
2箇
所 に位 置す る。池か ら8〜9m南
へ のび、南 面築地 の雨落滞 に合流す る。床面 には30cm前
後 の石 を2〜 3列敷 き、溝 の幅 は約60cm、 狽I石は遺 失 してい るが、深 さは20〜30cmに
推 定 され る。下層苑池では、2基の蛇行水路 が確 認 されてい る。 ひ とつ は南岸 の西側辺 に位 置 し、南西
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隅 にあ る排水路 か ら2.5m離れ た地点か ら、 曲流 して東側へ
37m程
度 の び、南面築地の雨落溝 に合流す る。側石 は遺 失 して床 面 の石 のみ残存 している。床面 は大 きさ30〜50cmの
石 を用 い、両側面 はやや高 く、 中央 は若干低 く2〜 3列敷 いてい る。上流部 に側石が ご く一部残 っ てい るが、大 きさ10〜15cmの
石 を床面 よ りも5cm高
く立 てて い る。残念 な ことは、苑池 と の連結部分 に石 が残 ってお らず 、苑池 との連結が どの ような形態 であ ったのか、その役割 が何 であったのか に対 して は明確 で はないが、水 量調節 のための施設 であった もの と推定 され て い る。 この蛇行水路 は、排水路 よ りも高い地点で苑池 と連結 してい る もの と推定 さ れ、水路 の形態 と してみれ ば、水量調 節 の役割 のみで な く、苑池 とと もに造景 の役割 もなしていた こ とは間違 いない。
もうひ とつ の蛇行水路 は、苑池 の西北側 か ら東狽Jへ曲流 して、
19m程
長 くのびてい るが、その様相 は南側 と同一 であ る。水路 の幅 は70〜
80cmで
あ り、上面が扁平 な20〜40cmの
石 を 2〜 4列敷 いて い る。南側 と同様 で両側 面が高 く、 中央部が低 い。 高低 差 は9cm程
で あ る。北 側 の蛇行水路 の際立 った特 徴 は、浄水施 設 と推 定 され る遺構
2基
が 、水路 の北端 に位 置 してい る こ とで あ る。す なわ ち、北側か ら流入 して くる水 は水路北端 の浄水施設 をとお り、蛇 行水路へ と流入 し、 これが苑池へ流入 した もの とみ られ る。水路 の北端 と連結す る浄水 施設 は、東西1.5m、 南北
3mの
範 囲 に、5〜15cmの
石 を床面 に敷 いてい る。 その北側 に連 な って もうひ とつ浄水 施設が あ るが、南側 の浄水施設 よ りも大 きな石 が集 中的に敷 かれてい る部分 があ る こ とか ら、残存 状 態が 良好 で はないが、水路形態 としてみ るのは難 しく、小 池 と して推定す るこ ともで きるか もしれない。上層苑池 は、下層苑池 の護岸 と水路 な どに用 いた石 の大部分 を破壊 して造成 された。池 の規模 には大 きな変化 はな く、池の東北部分が東側へ13×
10m程
度確 認 されている。しか し、池 の規模 には大 きな変化 はない。比較 的単調 な水路 であ った護岸 は、屈 曲 に富 む複雑 な様 相へ と変化 し、池 の北東側 の拡 張部 を除いて は、池床面、護岸 の傾斜 面 、護岸外狽Iまで全 面 にわた って数
cm大
の石 を敷 いている。護岸 は典型 的な洲浜 の手法 をな してお り、池 の深さは30〜
40cm程
で あ る。また、池の南西部 には、東 西約10m、 南北約
8mを
測 り北側 の中央部分 が若干 くびれた中 島 を造 り、築 山 を造 成 し、 護岸 と池 内部 に景石 を置 いてい る。東北 拡 張 部 の池床 面 に は、水 生植物 を植 えた もの と推定 され る円筒形 の木製品 (曲物
)が
発 見 された。上層苑池の入水 部 は、東北 隅 と池の南半部北岸 の2箇所 にあ る。 東北拡 張部の北側 には、
東 西 3m、 南北
6mの
小 形池 が連結 され、小形池の西側辺 には西か ら東側へ 直線 的 に流 れ る 入 水路 が連結 されてい る。小 形池 は、入水 部 の施設 とみ る こ とが で き、護岸 と池床面 には50cm前
後 の石 を置 き、池 と連結 す る部分 に石 を一段積 み上 げ、水 が流 れ落 ちる ように して い る。 この よ うな機 能 は、 また入水路 か ら流 れ込 む水 を一 回堰 き止 め る役 害」を してい る。115
朴 琉 貞
池 の西復‖辺 に連結す る入水路 は、幅40cm、 長 さ20〜
30cmで
、床面 に石 を敷 き、側面 に石 を 一段 設 けてい る。南 半部北岸 にあ る入水路 は、石 を詰 め た暗渠 であ り、若干西倶Iへ傾斜 し、北 か ら南 狽Iへ 直線 的 に繁 が る。幅60cm、 長 さ
25cmの
土坑 に5〜10cmの
石 を詰めてい る。排水 路 は池 の東南 隅 にあ り、木樋 暗渠 を設置 した溝 のみが残存 してい る。 しか し、 この 排水路 は他 の宮苑池 の排水構造 と比較す る と、平常時 に水 を流 し送 った もの とみ る よ りは、
池全体 の水 を排水 す る際 に使用 した もの と推 測 され、木樋 の上 に排水 施設が別途 に あ った もの と考 え られ る。
東 院苑池 に築 かれた建物 を詳細 にみ る と、最下層苑池段 階 に建物 は確 認 されず、 下 層苑 池段 階 には、 池西岸 の屈 曲部北側 と南 岸 に
2棟
の建物 が設置 されてい る。2棟
と もに蛇行 水路 と護岸 の 間 に位 置 してお り、池 の護岸 に接 してい る。 この配置 は、池 と蛇行す る水 路 すべ て を造 景す る配置 とい うこ とが で きよう。上層苑池段 階で は、池西岸 の屈 曲部 北 側 の 建物が池の方へ少 し長 く突 出 してお り、規模 も少 し大 きい。建物 は橋脚 (平橋)か
ら連 な り 池 の東岸 と連結す る。池の北東狽Iの拡 張 部 に も橋脚 (反橋)が
設置 され、 池 の北側 入 水 路外 側 に建物2棟
と、敷地南東隅 に逆L宇
形 の重 層 と考 え られ る建物が位置 している。東 院苑池 で、幅1lcm、 長 さ
56cmの
ミニチ ュアの木舟が 出土 したが、池 に浮かべ て いた も のであろ う。東 院苑池 は、飛鳥時代 の主流 で あ った方形 の石積 護岸 か ら、奈 良時代 の主流 であ る 曲池 と洲浜護岸へ 変化 す る状 況 をみせ る重要 な庭 園遺跡 の 中のひ とつであ る。 よって、 韓 国の 庭 園遺跡 と多 くの点で比較 され る遺跡 であ る。
(10)平
城京跡左京三条二坊 六坪宮跡庭 園遺跡 は、奈 良盆地北端部 の平坦 地 に位 置 す る。南へ 若千傾斜す る地形 にあ り、敷 地 の東 偵Iには佐保 川 の支流、菰川が南 に流 れ る。 平城宮東南 隅か ら東南へ約
300m離
れ た地 点 に位 置 して い る。 この坪 は、約124m四
方 の正 方形 を呈 す る。北側 の左京三条二坊 ―・二 ・七・入坪 は、奈 良時代 初期 に長屋 王 の居 宅 な どがおかれ、 この一帯 には上流 貴族 の居宅 が 造営 されて いた。
六坪 の発掘調査 は7回にわた って行 われ た。総発掘 面積 は約6,200だ であ り、 これ は六坪 の約
40%に
あた る。六坪 の中心部 と北半部が主 に発掘 され、奈良時代前期 、 中期、後 期 の 3 時期 に区分 され る遺構 が確認 された。苑 池 が造 られ る以前 の奈 良時代 前期 には、六坪 中央部 に菰川の旧水路 を踏襲 した浅 い流 路 が流 れて いた。 この流路 の堆積土 か ら出土 した木簡 の中に、「北宮」 と記録 された ものが 2点あ る。北宮 は長屋王室の吉備 内親王邸 を指 し、条 間路 を間に置 き、北側 に隣接 した長屋 王 邸宅 か ら流 れ出た もの と推 定 され てい る。 六坪 で も敷地 内の水 はこの流路 に集 ま り、南
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側へ排水 されてい る。流路 の西側 にあ る六坪西北部 には、「 コ」字形 に建物 が配置 されてお り、役 所 また は居 宅 と推 定 され て い るが、敷 地 内 に庭 園は整備 されてい ない。 時期 は遺構 内か ら出土 した土器か ら、和銅初年 (708)〜 天平末年 (749)に 比定す ることがで きる。
奈 良時代 中期 になる と、敷 地 中央 の蛇 行す る流路 を埋 め立 て て整備 した後 、従来の流路 に沿 って粘土 の上 に石 を敷 いた苑池 を築造 した。苑池 は六坪 を東西南北 にそ れぞれ
3等
分 、 す なわ ち9個の区画 に等分 した ときの中央 に位 置す る。この中央の東辺 と北辺 は板塀 を囲み、苑池 の西側 に は板塀 に東側柱 列 を揃 えた建 物 が建 て られた。 この建 物か ら苑 池 を眺望 して いた と推定 している。
苑池 は、幅2〜7m、 延長
55mで
緩 や か に屈 曲 してのび、水深 は上流部で20cm、 下流部 は 30cmと 浅 い。 苑池床面 は、直径20〜50cmの
扁平 な石 を敷いてい る。床石 は上 流部で は平坦 に、 中流部では凹状 に、下流部6mは
木樋排水路 に向かって一段低 く石 を敷 くこ とで、 自然 に水 が流れ るように考慮 されてい る。汀線 には床石 に接 して20〜30cmの
玉 石 を配置 し、 こ の石列 の外狽1にも苑池床 面 の様相 と同 じで、緩 やか な勾 配で扁 平 な石 を敷 い て い る。 その 幅 は、広 い ところで 2m、 狭 い地点 で は30cm程
度 である。 さらにそのタト側 に は1〜3mの
幅 で拳大 の大 きさの石 を敷 いた。汀線 に沿 って5箇所 、洲浜外縁 に沿 って4箇所 に石組 が あ り、池の 中央 には看 をひ とつずつ
3箇
所 に置 き、岩 島 を構成 している。石組 は海岸 、 または渓流 の景観 を考 えた 自然風 景 を模 写 した もので、後代 の 日本庭 園の基本形が大部分 ここにみ ら れ る。池床面、お よび護岸 に使用 された玉石 は三笠安 山岩で、石組 に使用 され た景石 は大 部分 が片麻岩、花 商岩 で、三笠安 山岩、石英斑 岩、チ ャー トも混 ざってい る。 また、池床 面 には木枠 で造 った「鍵手」形 の枡 が2箇所 検 出 された。水生植物用 の栽培用 枡 であ った と 考 え られ る。池へ の給水 は、池北端 に埋 設 され た木樋 暗渠 を とお して行 われていたが、 そ の水源 は暗 渠 の北 西側 に設置 され た井戸 で あ る。井戸 か ら木樋へ の給水 は、木樋 末端部 に設置 した縦 樋 を利用 した と確 認 され た。 木樋 を とお して供給 された水 は、池北狽1に造 られ た池水 浄水 用 の小池 に一度貯 め られ た後 に、小 池 の護岸 を溢 れ出 して池全体 に流 れ込 ませ る構造 を し て い る。池床面 に敷 か れた石 、床 面 が透 けてみ えるほ どの浅い水深、清浄 な池 の水 を確保 す るための考案 な ど、奈 良時代 の苑池の意匠 と技術 をみせている。
排水 は2種類 の形態で な されてい る。平常時 には池末端 の護岸 を越 えて流 れ 、南側 の排水 用 大溝へ流 れ、 これ と別 に、池全 体 の水 を排水 す るための木樋 暗渠が、池末端 部分の床面 に埋 設 されている。
以上 の建物 と苑池の配置 を維持 していた時期 は、天平末年 (749)〜天平宝 字 年 間 (757〜
765)に比定 される。
奈 良時代 後期 に入 る と、苑池 の東 、北面 の塀 には変化が ないが、西側 に塀 と建物が建 て
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