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庭 園ス タイルの模倣 と創造 ―苑池の空間デザインと古代 日韓 ―

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(1)

―苑池の空間デザインと古代 日韓 ―

粟 野 隆

I。 は じめ に

Ⅱ。 日韓 にお ける造 園・造景 の基本 的技法

Ⅲ。模倣か らの出発 一百済か ら飛鳥 に持 ち込 まれた「方池」

Ⅳ .日 本的スタイルの創造 ― 「曲池」か ら「池泉」ヘ

V.む すび

 

  

古代 日本のラン ドスケープ・アーキテク トが、白紙 を目の前 に して「日本庭園」 とい う姿 を 描いた とは思 えない。作庭 にかかわらず創作 という行為 は参照 されるべ き何物か と、ある相対的な「関 係」 を取 りとすぶ ことによって しか成 り立ちえないか らである。それは形 を真似 る模倣の対象であった り、創造のための差異化の対象で もあった りするような、創作行為 における「模範

/反

模範」 とい う関 係に置 き換 えられる。本稿では、飛鳥・奈良時代 におけるわが国の苑池 と韓国の苑池 との空間デザイン を比較検討 し、「模倣」 と「創造」 という対立概念 を基本視座 としてわが国における古代苑池のス タイ ルの変容 を論 じた。飛鳥時代に登場 した方池、飛鳥時代末期か ら奈良時代初頭 にみ られる方池か ら曲池 への推移形、そ して奈良時代の曲池 という苑池スタイルに通底する空間デザインは、百済の方池 と新羅 の曲池の模倣 を基調 とした点に特徴が看取で き、 日韓 における方池か ら曲池 に至るまでの展開には、半 世紀の時期差 をともなった様式史的相同性が認め られた。 また、東 院上層苑池 は、雁鴨池の平面計画 を

「縮小」 して トレース した ような点 において、韓 国苑池 を模倣 した極致 ととらえられるが、それはいっ ぼうで 日本庭国 としての独 自性 を規定す る「縮景」とい う創造的技法 を結果的に見出 したことで もあ り、

東院上層苑池の空間デザインは模倣 と創造の両義性 をはらんだ ものであると指摘 した。

キーワー ド

  

古代苑池

 

方 池

 

曲 池

 

平城宮東院庭園

 

雁鴨池

奈良文化 財研 究所

 

都 城発掘調査 部

(2)

粟野

 

は じめに

F作庭記』 とい う日本庭園史学の立脚点

 

近代 に始動 した 日本庭園史研究の創始は横井時冬 による F園藝考』(1889)1だが、 これ を皮切 りとして小澤圭次郎、龍居松之助、外 山英策、

吉永義信、重森三玲、森蘊、久恒秀治な どの庭園史家によって様式研究が展開され、現在 の 日本庭園史研究 にお ける様式史観の礎が築かれて きた。彼 ら庭園史の先達が指摘 して き たことは、世界各国の様式 のなかで もわが国の伝統的庭園は、縮景、借景、写景に代表 さ れる景観の構造化技法、池庭、枯 山水、露地などにみ られる空間の構成技法、飛石、石組、

延段、滝組 など細部技法 に、「 日本庭園」 というスタイルの特異性・独 自性が認め られると い うことであ り、それは現在の 日本庭園史研究において も、 もはや疑われる余地のない通 念 として定着 している。 日本庭園が世界で も独 自の様式 として特異性 を獲得 したことを確 たるもの と指摘で きるのは、立石、池泉、島、滝など日本庭園特有の設計言語 を詳述 した、

日本庭園史学の立脚点 とで もいうべ き平安時代 におけるわが国最古の造庭書『作庭記 (前栽 秘抄)』2の存在があるか らである。

これまでの 日本庭 園史学 は、平安時代 における貴族邸宅や寺院などの敷地空間に「様式 化 された 日本庭 園」が存在 したことを文献的にも裏づける本書 に、あ ま りにも大 きく依拠 して きた といって よい。その理由は、本書が平安時代以降連綿 とつづ く日本庭園の史的延 長線上 に確固たる方向づ けをお こなっているか らだが、逆 に平安時代以前の庭園を具体的 にどの ようなかたちで この 『作庭記』に結 びけるのか とい うのは、いまだ研究途上の問題 となっているの も、歴然 とした事実 としてわた したちは自覚 しはじめている。

庭園様式の成立前後 をめ ぐる問題

  

ただ しわた したちは、「庭園の成立前後」 についてい くつかの観点か らこれ まで試論的考察 をお こなって きた。そ こでは環状列石、古墳の葺石、

磐座・磐境 などを取 り上げ、立石、州浜、石組 な ど自然石 による各種庭 園技法に収敏 され る「造形的類似性」 と「技術的背景」 として参照 して きたのである3。 この ような諸説の真 否は今後の研究成果 に期待 されるところだが、本論文が着 目している問題の所在は「庭園

様式

"の

成立前後」 にある。

庭園様式の成立前後 をめ ぐる問題一― それは、『作庭記』に記述 された特徴 を具備 してい った 日本庭園 とい うものが、具体的にどの ような過程で独 自性 を獲得 していったのか とい う点にある。古代 日本 においては、都市 餡

̀城

)の

計画原理 としての条坊や、宮殿・寺院の 建築 などにみ られる環境お よび空間デザイ ン、 また政治、祭祀、経済その他の社会 システ ムは、中国・韓国を中心 とする東アジア文化圏の影響か ら生成 された ものであることが指 摘 されている。その ような構 図の前提 に立てば、 日本庭園 という存在 もまた同 じ延長線上

にスタイルを形成 した と容易 に考えることができるだろう。

(3)

ス タイルの模倣 と創造―一 その ラ ン ドスケ ープ史 的考 察

  

本論文 は以上 の前提 をふ まえ、

日本 にい とな まれた庭 園が 「 日本庭 園」 と しての様 式 的独 自性 、す なわち「 日本 的」 なス タイル を獲得 す る前夜 の様相 を古代 苑池 とい う空 間装 置 を用 いて解 き明か し、論 じよ うと す る もの だ。 その考察 にあた って は、「模 倣」 と「創造」 とい う概念が、重要 な意 味 を帯 び て くる と思 われ る。 なぜ な ら、 日本庭 園 とは中国・韓 国 とい う東 アジア文化 圏の ラ ン ドス ケー プが わが 国に持 ち込 まれ た段 階で、 あ る部分 は模 倣 され、あ る部分 はあ らた に創 造 さ れつ つ 、一定 のス タイル を獲 得 して い った と考 え られ るか らだ。 ル・ コル ビジェが 白紙 を 目の前 に して「輝 く都市」 を構 想 した こ とが わた した ち 日本 人 には想像 のお よば な い こ と で あ ったの と同 じように、古代 日本 の ラ ン ドスケー プ・ アーキテク トが 白紙 を 目の 前 に し て 「 日本庭 園」 とい う姿 を描 いた とは到底 思 えない。作庭 とい う創作 行為 は、参 照 され る べ き何 物 か と、 あ る相姑 的 な「 関係 」 を取 りむすぶ こ とによって しか成 り立 ちえないので あ る。 つ ま りそれ は、 ソ ック リに写す模 倣 の射象 で あ った り、創造 の ための差異化 の対 象

でもあったりするような、創作行為における「模範 /反 模範」という関係とでもいえるだ ろう。本論文では、いかなる部分が模倣され、また新たなスタイルとして創造されたのか、

その点をまずは日本と韓国との関係に絞 り、考察していくこととしたい。

Ⅱ。 日韓 にお け る造 園 ・ 造 景 の 基 本 的技 法

上記のような問題意識 をもとに論考 をすすめるにあた り、 まずここでは、 日本 と韓 国に ついての風景の意匠化、つ ま リラン ドスケープ 。デザインの基本的技法を概説 し、両者の 相違を↓巴握 してお くこととしよう。

錦繍江山 をうつす庭苑―一韓国の造景技法

  

韓 国では「錦繍江山」 とい うことばが存在 す るように、 自然その ものを美 しい風景 として愛でる自然観が基盤 として形成 されていた。

その価値観の成 り立ちについては、李朝時代の支配層が意図的に儒教文化の受容 を誇示 し たことが誤解 を招 く一因であろうが、梶村 の指摘4にあるように、韓国の文化 は中国文化の コピーのみではな く、 また朝鮮半島は中国文化の 日本への単なる伝播の通路で もない。そ れはラン ドスケープの変遷か らも明白な事実であることがわかる。た とえば三国時代か ら 李朝時代 に至 るまで、往 々に してあ らわれた露壇園 (築

)や

花階などの造形 は韓 国で独 自 に形成 された意匠で もあるが、 ラ ン ドスケープの構成技法 に通底する哲学 は中国の 園林、

日本の庭園 とも基本的に異 なっている。 この点について李御寧は韓国の庭苑 について、「庭 園 とい う感 じが しない 自然その ままの錯覚 を抱かせ るのが、ほかな らぬ彼 らの理想 とす る 造園術」だと説明 している5。

韓国では、造園には「造景」の文字 を用 い、庭園 も「庭苑」 としているが、 これ は 日本 の庭園の ように敷地 を囲続 して理想的な空 間・風景 をしつ らえるのではな く、すで に存在

(4)

栗野

 

す る風 景 そ の もの を生 け捕 るが ご と く場 を設定 し、「視 点場 一視対象」 との間に成 り立つ 関 係 を ラ ン ドス ケー プ と して顕在化 をはか るのであ る。 これ は実際 に意 匠化 された空 間・風 景 をみれ ば、雄大 なスケールを もった造景 とか庭苑 とい うことばが妥当なことがわか る。

韓 国庭 苑 が独 自のス タイル としてその姿 をあ らわす の は三 国時代 以 降だが、特 にその特 徴 は高麗 時代 に入 ってか ら明確 な輪 郭 を帯 び は じめ る。 10世 紀 初頭 に高麗朝 を樹 立 (912)

した王建 は、 自己の本拠 地 開京 を国都 とさだめ、宮殿 の造営 、坊 里 に もとづ く都城 の建 設 をすす め、太祖 の建 国 よ りわずか2世 紀 の間 に文化 国家 としての姿 をあ らわ した。そのなか で は、都 城 内 に十大寺刹 を建立 して建 築様 式 の確 立 もすす めた ほか、権 臣 に よって紀綱 の 素 乱 した時期 には文字 ・芸術 が栄 え、 こ こに世界 最古 の活 字 印刷 もは じまったの だ った。

芸術 の なか で は高麗青磁 の発達が よ く知 られ てい る よ うに、造景 にお いて もめ ざま しい展 開 をみ た。 時 の王 第18代 毅宗 の統治時代 (1146‑1170)を 中心 と して、韓 回造景 にひ とつ の 到達 点が示 され るのであ る。 当時の施主 は、新 羅 時代 と同様 に王族が筆頭 にあげ られ るが、

権 臣の私 邸 に も造景 が な されたほか、 こ とに隠退 した高官 らが江湖 の名勝地や 山間部 を選 んで 山荘 や別荘 を造営 し、 そ こにひ とつ の境 地 をつ くった こ とが特 に注 目され るの だ。具 体 例 をあ げ る と、宮苑の筆頭 としては高麗 の正宮 だった延慶宮 (満月台

)が

あ る。 開城 は も ともと松 都 とも称 されていたが、 この地 には松 岳 山 をは じめ と して南 山、万寿 山な ど四方 を松 山に囲 まれてお り、延慶宮 はその松岳 山麓北 の高 台 に造営 されてい る。宮殿 の東西 に は2つの川が流 れ、竜首、子男、進風 な どの諸 山がみ え る景勝地 その もの を庭苑化 した もの だ。松 林 に囲 まれた場所 には、賞春亭、 山呼亭 な どの 四阿が配置 され、建築 その もの を庭 苑 の唯一 の 点景物 と設定 し、 さらに四阿 を視 点場 に して雄大 に広 が る天然風 景 を庭 苑 の祝 対 象 と してい る。 この よ うな庭苑技 法 は高麗 時代 に定着 し、美郎増 の城南別些 (lo16)、 李 資謙 の 山斉 (1112)、 李公升 の園中柔亭 (1182)、 李公遂 の別量 (1367)で も同 じ方法が こころ み られてい る。李朝 時代 に入 ってか らも、原寸大 の 自然 を庭 苑 と して造景す るス タイル は 昌徳 宮 の秘 苑 な どに継承 され、宮殿 で は特 に「後苑」 とい う空 間が重要 な意味 を帯 びてい くの で あ る。 また、全羅南道渾 陽郡 の別 竪浦混 園 は韓 国庭 苑 に通底 す る 自然主義 的かつ風 景式 を基 調 としたス タイルの極致 であ る。本庭 苑 は築壇 式 と しつつ も自然 の地形 を最大 限 に生 か して、渓流や滝 な ど水 景 をダイナ ミックに表現 した場 と して築造 されてい る。苑 内 で渓流 、滝 、水碓 な どの風 景 を楽 しみ、詩 を詠 んで 日々 を暮 らす とい うのは、文字 どお り 山荘 生活 にお ける理想 的 な環境 を実体化 ・具現化 した ものであ り、 自然 に基本 をお いた造 景 であ った こ とは間違いない。。

以 上 、韓 国庭 苑 に通底 す るラ ン ドスケー プの哲 学 は、 自然 そ の もの を苑 内で実体 化 し、

亭 や橋 な どの人工物 は最小 限に とどめ る とい うこ とが造景の基本 的考 え方だ と指摘 で きる。

生得 の山水 をお もはへ て一一 日本 の造園技 法

  

次 に 日本 の庭 園様式 史 を概観す る と、平

(5)

安時代 には仏教 とのかかわ りとして浄土思想が庭園に大 きな影響 をお よば し、寝殿造系造 園の誕生以降はあ らたな展 開 として平等院鳳凰堂庭園、毛越寺庭 園な どに代表 される浄土 庭園 とい うス タイル を確立 した。その後鎌倉時代か ら室町時代 にかけては夢窓疎石 を中心 とした禅僧の作庭家 によって構想 された天龍寺や西芳寺に代表 される禅の庭 を生み出 した。

そのいっぽ う、中世 は善阿爾 など山水河原者 とい う造園の技術家集団が勃興するなど、数 多 くの庭園史的事象が顕現 される時代で もあった。そ して江戸時代 に至 って確立 された桂 離宮、浜離宮 な どの回遊式庭 園は、 これ までの庭園文化 を総合化 した様式 として、 日本庭 園のひとつの到達点 を示 している。

そのような日本庭 園に通底する一貫 した造園への基本的態度は、「 自然を縮める」 ことに 集約 される。先述 した『作庭記』にもこのことが明快かつ端的に示 されている。たとえば、

「国々の名所 をお もひめ くらして、大姿 をその ところになす らべ て、や はらけたつへ き也」

とか、「生得の山水 をお もはへて、その所 々は、 さこそあ りしか と、思ひよせお もひよせ立 つべ きな り」 とい う記述だ。 これ らは立石 に関する記述だが、すべ ての作庭 という行為は ダイナ ミックな自然の要所 をシッカリと把握 して、庭園の規模 に応 じて縮小 し、空間化 を 図ることが基本 となる。つ ま り「縮景」だ。

縮景 とは、平安時代 に確立 され、中世・近世 にも通底す る手法 として継承 された ものだ が、その原初的形態 は「海景表現」にあった といえる。すなわち、池の岸辺に「入江」(湾)、

「州浜」(海)、「荒磯」(海

)と

いった海景にかかわる風景を、文字 どお り縮小 してあらわ す技法 をい う。縮景は海景表現のみにとどまらず、山岳 としての築 山、 日園 としての野筋、

瀑布 としての庭滝 な どといった ように、風景のあ らゆるものが平安 時代後期か ら室町時代 に至 るまで作庭 の題材 として咀疇 されてい くのだった。以後 この技法 は江戸時代に至 り、

桂離宮 における天橋 立、小石川後楽園における大堰川 。西湖 。小雇 山・白糸滝、六義園の 和歌浦、水前寺成趣 園における富士 山な どの ように、各地の名所風 景 を縮小化 して、庭園 に取 り込む技法に変容 してい くのだった。

日韓のラン ドスケープにお ける自然 と造形の構造

  

この ように、 自然その ものを原寸大 で表現する韓国の庭苑 と、内部空間に自然の要所 を象徴的に抽出・縮小 した風景をつ くる わが国の庭 園 とは、実 はまった く異 なるベ ク トルによって成立 してい ることがわかる。つ ま り自然 と造形へのアプローチの違いこそが、 日韓それぞれの ラン ドスケープにおけるス タイルの独 自性であると指摘で きるだろう。

韓国のス タイルが定着す るのは高麗建 国の10世紀頃 と考えて間違 い な く、 また 日本の縮 景 とい うス タイルが一般化す るのは、平安時代 において貴族邸宅や寺 院に優美 な庭園が登 場 した9世 紀頃 とみ られる。以上か ら、おおむね 日韓両国の様式は

9〜

10世紀前後 にそれぞ れの独 自性 を獲得 していった ものと考えられる。

(6)

栗野

 

それでは、 日本庭園がス タイルにオ リジナ リテ ィを獲得する以前の7〜

8世

紀 の庭 園 (苑

)は

、具体的にいかなるかたちを有 していたのだろうか。実は、韓国における古代苑池 と 比較 してみると、「模倣」 と「創造

Jと

いう対立概念が実に混沌 としたなかで誕生 した もの であったことが女日実に物語 られていたのである。

Ⅲ .模 倣 か らの 出発― 一 百 済 か ら飛 鳥 に持 ち込 まれた「 方池 」

百済 の帰化 人・ 路子工 が示 した須弥 山 と呉橋

  

物 部氏 との戦 い に勝 利 した蘇我 馬 子 は東 ア ジア文化 圏 に急速 に浸透 しつ つ あ った仏教 を正式 に導入す るため、崇峻元年 (588)、 飛 鳥 寺 の建 設 にふ み きった。 わが 国最 初 の仏教伽藍 の建 設 であ る。 そ して翌年 、隋が 中 国 を統 一 した ことを契機 としてわが 国 と朝鮮 半 島の三国 (百済 。新羅・高句麗

)と

は急 速 な国際化 の 波 にの まれてい くのだった。飛 鳥寺 の建設 とい うのは、渡来系のひ とび とを配下 に擁 し、

国際情勢 に敏感だった蘇我氏 の とった行動 として飛鳥時代 を象徴す る出来事であった とい える。 なぜ な ら飛鳥寺の造営 は、寺工 ・鑢盤博士・瓦博士・画工 など百済の渡来人 によっ て建築・仏像・絵画・工芸 な どあ らゆる大陸文化の受容 をすすめるきっかけ となったか ら である。

大陸文化の受容 は、苑池の空 間デザ イ ンについて もその例外ではなかったことが 5日本 書紀』、『万葉集』などの文献資料 に示唆 されている。た とえば、推古天皇の宮殿 として造 営 され、奈良時代 に至るまで離宮 として存続 していた小墾田宮 については、推古朝 時代 に おける宮苑の記事が 『日本書紀』 にみ られる。

"令

構須弥山形及呉橋羹南庭①時人号其人 回路子工。亦名芝者麿 呂」(『日本書紀』推古 天皇二十年是年条)

路子工 とは、百済か ら渡って きた飛鳥時代の帰化人である。彼はその顔や身体 に白い斑点 があ り、 白頗であったためにひ とび とか ら嫌われ、海中の島に捨て られそ うになった。 し か しその男 は「もし自分の自斑 を嫌 うな らば、 白斑 の牛馬 を国中に飼 うべ きではない。 自 分 にはい ささか才があって、 よ く山岳の形 を構 えることがで きる。 自分を とどめて用 いれ ば、 きっ と国のために利があるであろ う。 どうして海中の島へ捨てることがあろ うか」 と いった。そこで彼 を許 し、「須弥 山の形」 と「呉橋」 をつ くらせたのである。

この記事か ら、推古天皇の小墾 田宮南庭 には呉橋 とよばれる橋 と須弥山の造形が あった ことがわかる。須弥山とは、 山の頂上が広 く四隅に山岳 をもち、法隆寺の玉虫厨子や東大 寺の昆底遮那仏台座蓮華彫 にも描かれているように、仏教では世界の中心 たる聖 山 を意味 す る。須弥山頂上の中央 には炉羅綿でで きた善見城があ り、その四辺 には衆車 。艤 悪・相 雑・歓喜の各遊苑がおかれ、宴進のために欠かす ことので きない装置 としての役割 も担 っ ていた。 また善見城外の北東隅 には、花 と葉の香 りが遥か彼方 まで届 く円生樹 が植 栽 され

(7)

ているなど、人間の理想的環境がイメージとして重ね られ、庭 園のモチーフに移行す る潜 在性 を十分 に具備 した ものだった7。 路子工が小墾田宮南庭 につ くった須弥山が どういうも のかは明確ではない ものの、「呉橋」 とい うことばが示唆す るようにこの場所 には池が存在 していた と考 え られる。つ ま り宴遊の一装置 としての須弥山、視点場 となる装置 としての 呉橋 を百済出身の路子工が示 したことを考 えると、わが国の古代苑池の先駆的姿景は、朝 鮮半島三国のなかで も百済 との関係か ら成立 した可能性が指摘で きる。

百済 と飛鳥の「方池」デザイン

  

それでは、百済 と飛鳥地域の苑池 には どの ような特徴 があるのだろうか。この2地域の苑池 を比較すると、その平面計画に奇妙な一致がみ られる。

「方池」 とよばれる四面 を直線護岸で構成 した方形パ ター ンの苑池である (第1表)。

百済の苑池 にかかわる最初期の記述 は『三国史記』辰斯王七年条の「春

 

正月

 

重修宮 室

 

穿池造山

 

以養奇禽異井」 とい うものだが、不明の点が多 く造営地 について も漠江流 域の夢村土城 と風納土城が候補地 として議論 されているだけだ。

苑池の形態が発掘調査で確かめ られた事例 には公山城がある。『三国史記』東城王三二年 条には「春

 

起臨流閣於宮東

 

高五丈

 

 

穿池養奇禽」 との記述があ り、 さらに1987年 の発掘調査の結果、長方形の石築苑池が確認 された。 また、同 じく扶余の宮南池 について も、『三国史記』武正三五年条に「春

 

三月

 

穿池於宮南

 

引水二十余里

 

四岸植以楊柳 水中築島嶼

 

擬方丈仙 山」 とあ り、方池 にヤナギを植栽 した ものであった。ほかにも百済 で確認 された苑池 には定林寺跡 (第1図)、 扶余王宮跡推定地 (第2図)、 益 山弥勒寺跡の3つ がある。これ らのうち、定林寺跡 と益 山弥勒寺跡は境内地に2つ の方池 をともなうものだが、

いずれ もその平面計画は方池 を基調 としているのである。

第 ヽ表

  

韓 国 と日本 の方池

名 称 築造年代 規 模

(東 西南 北m) 深さ(m) 護岸構造 池 底 備 考

韓 国

︵百 済

定淋寺跡東池 定林寺跡西池 扶余王宮跡推定地 益山弥勒寺跡東池 益山弥劫寺跡西池

6世紀中頃 6世紀中頃 不詳(百済時代)

7世紀末 7世紀末

153×112 112×11.0 106×62 510×480 545×410

0(

0〔

10〜1, 1, 1(

石積み+素掘り 石積み+素掘り 雑害J石野面積み 素掘り(一部石積み)

素掘り(一部石積み)

地 山 地 山 地 山 地 山 地 山

達 池 蓮 池 蓮 池

島庄遺跡 石神遺跡方池A

石神遺跡方池B 坂田寺跡 平田キタガワ遺跡 雷丘東方遺跡 飛鳥池遺跡

,世紀末〜7世紀初雰 世糸E中

'世紀後半 世紀前半

下詳(飛鳥時代)

F詳

'世紀後半

420×420 60×60 30×32

6以 上 ×10以 上 250以 上 ×未確 認 未確 認 79×89

1.0‑

08 06 10 15内 15〜20 16

川原石 野面積 み 川原石 野面積 み 石列 (部 分的 に2石 積 み)

石積 み+素掘 り 川原石 野面積 み 川原 石石 張 り 石積 み

石 敷 石 敷 石 敷 地 山 石 敷 未確 認 石 敷

水 池?

水 池?

(8)

栗野

 

飛鳥地域 において も、石神遺跡 (第 3・ 4図)、 島庄遺跡、飛鳥池遺跡、坂 田寺 など、方池 とみ られる苑池遺構が多数確認 されている。

 

このうち、島庄遺跡 と飛鳥池遺跡で確認 され た方池は水深が

lm以

上 と深いことなどか ら貯水用の池であった可能性 もあるが、石神遺跡 の方池は給排水 にともなう施設がみ られず、池中内の堆積土か らも常時水が溜 まっていた ものではない とい う発掘調査知見 と、F日本書紀』にみ られる蝦夷あるいは外 国か らの使節 来訪 との記述が数回にとどまるとい う一致か ら、服属饗宴にともなう苑池だ と推定 されて いるほか、坂 田寺の方池が池底 に石敷 をともなわないため、仏教思想 にもとづ く蓮池だ と 推定 されて もいることか ら8、 ゎが国で も百済 と同 じように、方池 としての苑池が造営 され ていた と考えてよかろう。

日韓の方池の比較 をこころみた高瀬 によれば、飛鳥にみ られる方池はその池底が坂 田寺 を除 きすべて石敷 となっているのに対 し、百済の ものではすべて地 山面 を池底 としている とい う相違が指摘 されている。そ して定林寺跡、扶余王宮跡推定地か らは蓮の葉や茎が出 土 してお り、池 として存続 していた時期 は蓮池 とした空間で、池底 に石敷 をともなう多 く の飛鳥の方池 とは異 なる側面 を持 っていた とい う。 また、飛鳥では石組の水路や掛樋 を用 いて導水 した と考えられる例が多いのに対 して、百済の方池は人工的な導水施設 を設けず、

湧水や谷水 を水源 としていたようだ9。

この ように、飛鳥 と百済の方池はその意匠・構造 において相違 も認め られるのだが、 日 第 1図

 

定林寺跡方池 第 2図

 

扶余王宮跡推定地

第 3図

 

石神遺跡方池

A

4図

 

石神遺跡方池B

(9)

韓両国において方形の平面計画 を有す る池があま りに も 多数み られるのは奇妙 だ といえないだろうか。つ ま り飛 鳥 に立 ち現 れた方池 とい う空 間デザ イ ンは、都市・建 築・美術 。工芸等 にみ られる飛鳥の諸造形が大陸の文化 を多分 に引用 した ものである以上、方池のみがわが国オ リジナルの造形 だ と指摘す るのは困難であ り、飛鳥の方 池 は百済か ら持 ち込 まれた可能性が高い とい う考 え方が 成 り立 ちうるとい うことだ。その傍証 として、百済の方

第 5図

 

須弥山 (中央の正方形)

池について築造年代の最古 といえるのが定林寺跡の

6世

紀中頃Юで、飛鳥では最初期の島庄 遺跡の方池が6世 紀末〜7世 紀初頭。、坂田寺跡の方池が7世 紀前半であ り9、 まず方池の出現 年代 は百済の方が早 く、時期的な矛盾点が ない。かつ路子工が須弥山 と呉橋 をしつ らえた 苑池 をともなう小墾田宮推定地が古宮遺跡か ら雷丘東方全体 に射程幅が拡大 され、 さらに 近年の研究ではむ しろ方池が確認 された雷丘東方遺跡が小墾田宮南庭 の可能性が高 ま りつ つある8とぃぅ点 もこの点 を補強 しているといえるだろう。 したがって本論文では、飛鳥の 方池 は当初百済 において確立 された空間デザイ ンが路子工 など百済出身の渡来人によって 導入 され、7世 紀前半 を中心 に流行 したとい う仮説 を提示 してお きたい。

思想的力学 による現象 と しての方池

  

飛鳥を通底す る方池の起源については、 これ まで 秋 山と外村、そ して高瀬 による論考がある。秋 山は島庄遺跡の方池が蘇我馬子の嶋宮の池 としては じめにつ くられ、後 に中大兄皇子、大海人皇子、草壁皇子の嶋宮 として伝領 され ていった とまず考えた。そのうえで方池の起源 は、① 観音経曼茶羅に描かれている浄土世 界 にある水面の形、② 方墳や飛鳥水落遺跡などにみ られる方形区画が施設の基本 となって いた、 とい う2つ の背景 によって成立 した と考察 したH。 外村 は、 7世 紀初期 においては浄 土思想や浄土教絵画がいまだ流行 していなかった として、方池デザ インの起源は中国の天 円地方説に関連す る土木設計技術 に由来す ると考察 したレ。高瀬は方池 に通底す る空間デザ インは仏教思想 にもとづ くものであると仮定 し、浄土世界に描かれた水面の取 り扱いが反 映 した造形 と理解 している。辞土変相 図に描かれた広大 な水面 に浮かぶ多 くの建物基壇 に よって区画 されたネガテイブな形 としての方形の水面図象か ら、方池や蓮池のデザ インが 実体化 されたと考えたのであるB。

また、苑池 との強い結びつ きが考え られる須弥山について も、 これは仏教世界 における 世界の中心 たる聖 山だが、その平面計画は完全 な正方形であ り、苑池 という空間存在 と正 方形 との強い結びつ きが看取 される (第5図)。 いずれにしても、正方形 を「水面」 というヴ ォイ ドとして空間化 をな したことの背景 には、東アジア文化圏のなかで一定の国家的地位 を獲得 しようとしたわが国にとって、ある意味導入せ ざるをえなかった古代東アジアの思

(10)

粟野

 

想 的力 学 が 、 大 きな うね りを もっ て空 間形 成 に作 用 した こ とは 間違 い ない だ ろ う。

Ⅳ .日 本的ス タイルの創造一―「山池」か ら「池泉」ヘ

移 行 す る ブーム タ ウンーー 韓 国 と日本

  

新 羅 は建 国 当初 は高句 麗 、百 済 よ りも発展 が遅 れ たが

6世

紀 か ら急 速 に発 展 した。660年に は百済 を減 ぼ し、668年に は高句麗 をあわせ 、 676年 に三 回 を統一 した。新羅の三国統一 はそれ まで分裂 していた種族 、文化 、言語 の統一 を促 進 した点で、 きわめて重要 な事象 であ った とい える。新羅 は、政治・経 済 。軍事等 に かか わ る諸制度 を再編 成 して安定 した社 会基盤 を築 きつつ、唐文化 を積極 的 に摂取 し、建 築 ・美術 ・工芸分 野 にお いて韓 国独 自の卓越 した文化 を創造 したか らだ。仏 国寺 、海印寺 、 浮石 寺 な どの寺 院建 築 や石 窟庵 の十一 面観 世音 菩 薩 や本尊像 な どの仏像 に代 表 され る仏教 美術 、 そ の他 金銀 の細 工 品や螺 釦漆 器、絹織 物 な どは、統 一新 羅 時代 にお け る文化水 準 の 高 さを物 語 る もの で あ る。 国都 に定 め られ た慶 州 で は、規 則 的 な道 路 配 置 を基 調 に宮殿 、 官行 、寺 院 な どの建 築物 が配置 され、 巨大都 市 ・新 羅王京が建設 された。7世紀後半 にお い て建 設 ラ ッシユを推 し進 めた慶 州 は、韓 国 にお けるあ らゆる都 市文化 を生成 し、情報 を発 信す るブーム タウ ンとなったのであ る。

そ して わが 国の宮都 の変遷 をた どってみて も、韓 国 と同 じようにブー ム タウ ンは移行 し てい る。その特徴 はスパ ンが きわめて短 い ことだ。6世紀末 に本拠地 を飛 鳥 に移 した蘇我氏 が推古天皇 を豊浦宮 で即位 させ て以来、小 墾 田宮 、 岡本宮 、 田中宮 、百済宮 、板蓋宮 な ど 狭 い飛 鳥 の地域 に次 々 と宮 が造営 され た。大化 改新 (645)の 一 時期 は難波 に、 白村 江 の敗 戦後 (663)の 戦 時体 制化 で は近江 大津 に移 され るが、壬 申の乱 (672)の 後 はふ たた び飛 鳥 に戻 ってい る。その後持統 天皇 の代 において、朱鳥九年 (694)に わが 国初 の都城 として藤 原京 の成立 をみ た。 そ して さ らに和 銅 三年 (710)に は奈 良 の平城 京 に遷都 して 中央 集権体 制 を整備 してい る。 この ように7〜

8世

紀 にお ける国都 は飛 鳥・ 藤原・平 城 の よ うに移行 し て きたのだが、その過程 のなかで7世紀 を中心 と して、唐 の建築様式 と技術 を積極 的 に取 り 入 れ た百 済大寺、 山田寺 、川原寺 な どの寺 院建築、薬 師寺金堂薬 師三尊像 や薬 師如 来像 な どの仏教彫刻、法隆寺金堂壁画 な どの絵画 に代表 され る白鳳 文化が形成 され、その後8世紀 に至 り、唐招提寺 、東大寺正倉 院宝庫 な どの寺 院建築、興福寺 阿4笏羅像 、唐 招提 寺 鑑真像 な どの彫刻 な どに代 表 され る天平文化 を生み出 したのだった。

慶州 にお ける「曲池 」 の登場

  

さて、上 記 の ように都市建設 ラ ッシユがすす め られ、 ブ ーム タウ ンとな り飛躍 的 に文化 レベ ルを向上 させ た韓 国の慶州で は、統一新羅時代 の3箇 所 の苑池が確 認 されてい る。雁鴨池 (月池)、 龍江洞苑池 、九黄洞苑池 だ。 これ ら3苑池が百済 の もの と異 なるのは、百済 において支配的 な空 間形態 であった方池 ではな く、「山池」 とよ ばれ る池の汀線 に自然 曲線 を特徴 的 に用 いた タイプだった点 にあるユ。

(11)

まず慶州 で確 認 された3苑池 の概要 を整理 してお こう。雁 鴨池 は、慶州盆地の中央部やや 南 よ りの平 坦地 に立地 してい る。『三 国史記 』 に よれ ば、文 武王 十 四年 (674)条に「 二 月 宮 内穿 池造 山

 

種 花 草

 

養珍 禽奇獣」 とあ り、 同文献 の文武王十 九年 (679)条 の記述 にみ られ る「東宮」 と考 え られている。 これ ら『三 国史記』 の記述 は、1975〜 1976年 にお こな われ た発掘 調査 の 出土遺物 の なかで 「儀鳳 四年皆 土 」 (679)と 書 かれた瓦や、「調露二年」

(680)と 書 かれた銘樽 に よって も裏づ け られてい るため、苑池の築造 時期 は674年 とみ て間 違 い ない。苑池の全体構成 は、東西約200m、 南北約

180mの

池 を中心 として、その西側 と南 側 に建物 を配置 した ものだ。池 中には3つの 中島 を配置 し、池の北側 お よび西側 は築 山が連 なる よ うに造成 されてい る (第 6・ 7図)る

龍江 洞 苑池 は、慶州盆地 の北部 を流 れ る北 川 の さ らに北側 の平坦 地 に立地す る。発掘 調 査 の結果、池の築造年代 は統一新羅時代前半 の

8世

紀 と推測 されて い る。苑池の全体構成 は 発掘調査 が部分的であ るため不 明の点が多 いが、池 を中心 として池 中に2島を配置 し、池 と 連続性 を持 たせ るような形で橋 と建物 を池 の西側 に設置 してい る点 に特徴がある (第8図)`

九黄洞苑 池 は、慶州盆地の北側、芥皇寺 の東側 に隣接 してお り、敷地 は南か ら北 に傾斜 しつつ 北 川 とも隣接 してい る。苑池 は敷 地 の南西 に存在 した建物跡 の北端 を構成す る築台 を境 界 と してその北側 に展 開 し、池 中には2島 の 中島 を有す る。 また、敷地の北側お よび西 側 は塀 で囲続 されていた ようだ (第9図)▼。

これ ら3つの苑池 に共通す る特徴 は、汀線 に 自然 曲線 を用 い るこ とに よって 自由な平面 を 獲得 した とい うことだけで はな く、池 中 に中島 を配置 して景趣 を ととのえ、建物 や橋 な ど

第 6図 第 7図

雁 鴨池航空写真 雁 鴨池遺構検 出状況

(東岸の護岸状況)

(12)

栗野

 

八   性 ̲̲葺 上 ̲翌 μ ̲̲̲̲̲̲̲一 m

第3図

 

龍江洞苑池遺構平面図 第 9図

 

九黄洞苑池遺構平面図

の構築物 を有機的に苑池 に配置す ることにより、視点場 (構築物

)と

視舟象 (苑池の意匠

)と

の「関係」 を顕在化 している とい う点にある。特 に苑池の細部意匠に関 しては、池の護岸 な どは方形の加工石 による布積み、あるいは自然石 による野面積 み とする単純 な部分 を基 本 とす るが、屈 曲す る汀線の突端部分 に自然石 を立石 として点景的に使用す る点や、雁鴨 池、九黄洞苑池ではそれぞれ導水、池尻部分に水流 を しつ らえ、「水景

Jを

意識 した観賞的 な造形態度が十分みて とれる点にその特徴が指摘で きる。

慶州 におけるこの ような曲池は、新羅が三国統一 をはかった

7世

紀第4四半世紀 に登場す るものである。ただ し最初期 に目される雁鴨池の様式・意匠をみ るか ぎ り、 きわめて完成 された形で空間化がはか られている点に奇妙な疑い も生 じてはこないだろうか。すなわち ここで浮上す る疑惑 とは、雁鴨池 にあるような完成 された苑池のス タイルが突如 として立 ち現れるとは到底思 えない ということであ り、完成 されたス タイルヘの移行過程 に築造 さ れた「不完全 な曲池」 あるいは、「曲池スタイルヘの推移形」 とで もいうべ き苑池 は存在す るのか とい うことだ。 しか し残念 なが ら韓国ではその ような苑池 は確認 されていない。わ が国ではどうか。

飛鳥にお ける「曲池」 スタイルヘの推移形一一 飛鳥京跡苑池遺構

  

飛鳥の苑池 は方池が 支配的なス タイルであったが、小ぶ りの 自然石で流 れ と小 さな池 を しつ らえた遺構 として 上之宮遺跡、古宮遺跡 など数例が確認 されている。た とえば古宮遺跡では、幅が

25cm内

の蛇行す る流れ と長径約2.8m内 外の不整円形の小池が確認 されているが、相原 も指摘 して いるように、水 を使用 した祭祀・儀式の場である可能性 も高 く、 この タイプの ものは苑池

(13)

であるという断定はできない

S。

しか し、飛 鳥浄御 原官 に関連 した施 設 と して きわめて興 味深 い遺構が平成11年(1999)

に発 見 され た。 飛 鳥京 跡 苑 池 遺構 で あ る。

 

本 遺 跡 は従 前 よ り苑 池 と して周 知 され てお らず、奈 良県 立橿 原考古学研 究所 の発掘 調 査 に よって確 認 され た ものだ。 なお、 この 場所 につ いて は大 正5年 (1916)に 水 田の水 路 を掘 削 中 に この場所 か ら自然石 に流水 の た め の加工 を施 した出水 石造物 が偶 然 出土 し、 その後京都 。野村 氏碧 雲荘 に運搬 され た こ とは よ く知 られている ところである。

本 苑 池 につ い て検 出 され た遺構 の状 況 を

  │

み て み よ う。橿 原考古 学研 究所 の報告 に よ

れ ば、池 は渡堤 に よって北 と南 に三分 され 第10図

 

飛鳥京跡苑池遺構平面図 てい る こ とが わか る。池 の平面形 に着 目す る と、北池 。南池 ともに直線 を基調 と した地割 構 成 で石積 み に よって護岸が意匠化 され てお り、おお むね池底 の敷石 か ら石積 みの天端 に 至 る まで は、 自然石 を4な い し5石を胸高程度 まで積 んでいる。北池 は護岸 の部分 的 な位置 が確 認 で きるのみでその他 の庭 園構 成要素 につ いては不 明だが、南池 はやや いびつ な東西 に長 い 自然 曲線 に よ り造形 された中島 を浮かべ 、その南側 には岩 島の原型 とも思 われ る よ うな楕 円形 の 島状 石積 み を配置 してい る。 た だ し、 中島の護岸 は 自然石 に よる直立気味の 単純 な野面積 み で あ り、慶 州 で確 認 され た龍江洞苑池遺跡 、九黄洞苑池遺跡 の基本 的護岸 形態 とほぼ同 じ様相 を呈す る意匠である (第10図)憾。

飛 鳥京跡苑池遺構 の平面計 画 は直 曲線形 の混交 に よ り空 間デザ イ ンが な されてい る点 に 特徴 が認 め られ る。 しか しなが ら、池 の護岸 にみ られ る直線形 と中島にみ られ る曲線形 と が 、少 な くとも美 的調和 に優 れた もの とはいいが た く、風景 と してのバ ラ ンス を欠 いた も のにみえて しまうのはなぜか。 これを7世 紀前半に流行 した直線形 を基調 とする方池スタイ ルか ら、 7世 紀第4四 半世紀か ら8世 紀 にかけて慶州で流行 した曲池ス タイルヘの移行過程 を示す直線 と曲線の分裂的折哀空間 として解釈で きないだろうか。本論文が この ような仮 説 を提示で きるのは、その傍証 に飛鳥京跡苑池遺構の池の最初期の築造年代、そ して新羅 と日本の国交関係に時期的符合が指摘で きるか らだ。

まず池の築造年代 については、南池の池底 は石敷が二重になっている箇所があ り、改修 の可能性があることが指摘 されている。 ここで池の当初年代 と改4多年代 の指標 となる出土

(14)

粟野

 

土器 に着 目す る と、南池 の石敷 が二重 と一重 になってい る部分 のそれぞれ上面 よ り出土 し た土器群 の時期相 は飛 鳥か ら平安 時代 に至 るまでの大 きな範 囲 にあ り、 その 中心 は飛鳥 Ⅳ に該当する7世 紀第4四 半世紀である。いっぽ う、二重の石敷間に出土 した土器は少量 なが ら飛鳥Ⅳに下 るものはな く、 7世 紀半ばか ら第4四 半世紀 に該当することか ら、二重の石敷 間か ら出土 した土器群 は池の築造当初年代か ら改修直前 に至 るまでの ものを含 んでいると いえるB。 以上の出土土器群 と石敷 との関係か ら想定 される苑池の当初年代 は天武朝以前 と 指摘することがで き、 したがって飛鳥京跡苑池遺構 は慶州で曲池スタイルが流行す る7世 紀 第4四 半世紀か ら8世 紀 よ りも先立つ築造事例 ということが確定 される。

次 に、 7世 紀 半 ばか ら第4四 半世紀 における日本 と新羅 との関係 をみてみると、天智二 年 (663)の 白村江の戦いで大敗 した 日本 は新羅 とは しば らく国交が途絶 えていたが、天智 七年 (668)年 9月に新羅使が来 日し、 日本はそれに応えて国交を再開 している。 これは百済 お よび高句麗 を減ば したのち、その領土の直接支配 を企図す る唐 との間にズ レが生 じつつ あった新羅 と、当時唐の動向を恐れていた 日本 との利害が一致 したか らだが、両国の使節 はほぼ連年あるいは隔年 に往来 し、天平六年 (734)に至 るまで密接 な交流が展 開されてい る。 このように、

7世

紀第4四半世紀以降は新羅 と日本が密 に行 き来 した時期であ りや、 この 過程で慶州の曲池ス タイルが持 ち込 まれた可能性が十分考 えられる。その曲池ス タイルの 初歩的模倣段階で築造 された苑池のあ りようを飛鳥京跡苑池遺構 は如実 に反映 した空間 と 考えられるのだ。

つ まりわが国の苑池は、 7世 紀前半 を支配 した方池ス タイルの ものか ら、7世 紀半ばか ら 第4四 半世紀 にかけてその平面計画 に若干の 自然曲線 を加味 してい くとい う変容が起 こっ た。その空間計画に射程 される模範対象は新羅の苑池に向け られていた と本論文では考え る。 しか しなが ら天武朝誕生前 において造営 された苑池 は、飛鳥京跡苑池遺構 をみるか ぎ り完成 された曲池 とはいいがた く、直線 と曲線の分裂的折衷あるいは、「擬 曲池風庭園」 と でもいうべ き、方池か ら曲池への移行過程に示 されたデザインだったのである。

奈良時代の苑池 と平城宮東院庭園

  

上記の擬 曲池風庭 園 とで もい うべ きスタイルは、奈 良時代 にどの ように変容 してい くのか を次 に考えてゆこう。奈良時代の苑池遺構 には発掘 調査か ら26例が確認 されているが、 この うち21例が平城宮および京域 に所在 してお り(第 2

)、 宮殿・離宮・貴族邸宅 などにともなう施設のひとつ として多数の苑池が築造 されてい たことがわかる20。

ここで奈良時代苑池の特色 として指摘で きるのが、池の汀線 に屈 曲を加 えることによっ て 自由な平面 を獲得 した「曲池」が支配的なス タイルとなっていることだ。 また、特 に平 城宮東院庭園 (第11図)、 平城京左京三条二坊六坪宮跡庭園 (第12図

)で

は、池の護岸 に州浜 や景石 を用いた複雑 に出入 りす る汀線 を基調 としてお り、いびつな平面 をもった飛鳥京跡

(15)

2表 平城宮・京域 における苑池遺構

名 称 種 別 築 造 年代  平 面 形 擢亀商】m)深(m) 護 岸 構 造 池 底 中 勝   立地 など 平 城 宮 東 院庭 園最 下層 苑 池 宮 殿 8世 糸己初期 逆 L宇 形45×60   04〜 10

平 城 宮 東 院庭 隠 下 層 苑 池  官 殿 8世 紀 中頃 曲 池 45×60   04〜 06 平城 宮 東 院庭 園 上 層苑 池  宮 殿 8世 紀 後半 由 池 60×60   03〜 04 平城 宮佐紀池 官 殿 神 亀 年間   曲 池 220×140   未 確 認

地 山 な し   丘 陵下段の低 地

鞘 節慧温贅なし

?  

丘陵下段の低地

礫 敷 き     不整 形 丘 陵下段 の低 地 玉 石 積み・玉石

張 りと素掘 りか? 玉 石縁石・州浜 州 浜 州 浜(幅2n) しが らみ(南)

素掘 り 州 浜(葺石 転用)

州 浜?(葺石 転 ?) 州 浜(葺石 転用)

州 浜(葺石 転 )・景石 護 岸 玉 石 張 り? 素 掘 り(中島 は一 部 礫 敷 き)

玉 石縁石・玉石 張 り。州 浜 州 浜

素 掘 り 素 掘 り 素 掘 り(一Iし らみあり)

未 発 掘 玉 石 張 り。礫 敷 き (幅lm) 玉石 張 り。景石 素 掘 り 77×105  023以 35×65以 02〜03 幅 2〜7、55 01〜03

×Ю以 2

3〜

似 。

9

E5〜9X30以 05〜

7

55×20    未 発 掘 27以上 ×10 04

40以 上X50?03以 21×75    10

なし   網 解 争

な し   丘 陵上 の平坦地

なし    痛 庭古 墳外濠を 転 葺号 が中猫塚古墳濠を転用 資号 が中

姦需

20号

古 墳濠を なし    善毯 嚢蔚 方部斜 なし    三遷 冦琴 軍蝦 流路 あり   舞 聾

i留

示 語揺を の

平城 宮 西 南 隅庭 園遺 構    官 殿 8世 紀 後半?I詔奪 髯22以X iO以15 平城 宮 大膳 職 庭 園遺 構    宮 殿 8世 紀後 半 由 池 18×17   08

遜響 郵

飽 地 域 庭 園遺憮 市

宮 殿 鯉 紀 中頃 由池?お X″以 上 α6 松林 苑 跡 庭 園遺構(猫塚 古墳 宮 殿 8世 紀 前半?由未確 認    未確 認 警蜜守

猟 却 宮 殿 難 締 伴 ?眸 ?幅4〜 妥鋒庭雷曇羅条 三 坊fI・

鼻 整 囃 紀 初 期 曲 池 硝 ×Ю   α%

地 山 地 山 地 山 地 山 地 山

地 山 地 山

地 山

地 山 蓮 雷 懸 癌

京 二 条 二 坊 十二 坪 離 宮?8世紀 中頃 曲 池 遥 替 径 窪

京 三 条 一 坊 十 四坪

轟 墜 8世 紀初 期 曲 池 雷笹 轟 腑

坊 六坪 庭 宮 殿 8世 紀 中頃 曲 池 旨饉 轟 肺

坊 二 坪 庭

轟 甕 8世 紀初 期 曲 池 旨磐 羅 肺

坊 七坪 庭

轟 墜 8世 紀初 期  行 流

通 督 彊癌

京 三 条四坊十二坪

轟 整 8世 紀 中頃 由 池 旨毯 羅

左 京 人粂一坊 三坪庭

 轟 整 8世 紀前半 由池?

孫 櫂 棗 宣 馬 冨 金 遊 嵩 鰹 権 伝   離宮

8世

紀 後 半   曲 池

?

法華寺 旧境 内庭 園遺構    寺 院 8世 紀後 半 曲池? 法華 寺阿弥陀浄土 院     寺 院 8世 紀後 半 由池? 百堪 寺遺跡 庭 園遺構     離 宮?8世    曲 池

玉 石敷き(一 なし(岩島 旧流路を埋 め、同位 敷石 なし)   あり)   置 に池 を築 造 地 山

地 山

鶏 宏 歩 賃 に 玉 砂   なし    平 坦 地

な し   平坦地 な し   菰川 旧流路を利用

地 山

なし    瀑架遍策貯 を 利用。

未 発 掘     あ り   谷 奥 に築 堤 し池 造 成 地 山 未確 認 平 坦 地 玉石 敷き(一 あり、東 西 低丘 陵下段の低湿 敷 石 なし)  125m  

地 山 な し   舌 状 台 地 先 端 部

六    性 ̲4̲型 ̲̲̲̲̲型 甲

12図

 

平城京左京三条二坊六坪宮跡庭園 遺構平面図

11図

 

平城宮東院庭園遺構平面図

(16)

栗野

 

苑池 遺構 とは まった く異 な る様相 が み て とれ る。 余 良時代 の苑池 の空 間デザ イ ン上 の全体 的 な特徴 を概 観 す る と、平 城京左 京 三条二坊 六坪 宮跡 庭 園や平 城京左 京 一条 三坊 十五・ 十 六坪苑池遺構 、法華 時阿弥陀浄土 院苑池遺構 な どの事例 の ように、立石 。景石 に よる護岸 石組 と州 浜 との組 み合 わせ に よ り土留 め だけで はな く景趣 を もととの え よう とす る「観 賞」

を重視 した空 間設計、 また苑池 の しつ らえを効果 的 に見せ る場 (視点場

)と

して池 を臨む よ うな形で建物 を配 し、その建物 もまた庭 園か ら臨んだ際の風景の一構成要素 としての機能

(視対象

)も

兼備 させ るとい う「庭 園建築」の登場、そ してその景観美 に配慮 された苑池 に ついては、外部の異 なる文脈 において成立 している施設群 との視覚的関係の切断のために、

また反対 に庭園の背景 として効果的な構成要素 とな りうる山並みな どの視覚的顕在化のた めに、築地塀・板塀 といった遮蔽施設 をピクチュア・フレームのごとく用いた空間の「囲 続化」、などの諸点が特筆すべ きこととしてあげ られる。 この ように苑池の空間デザインは 飛鳥時代か ら奈良時代 にかけて劇的に変容 してい くわけだが、その具体的推移過程 を実態

として示 した興味深い苑池遺構が存在する。平城宮東院庭園だ。

東院庭園 とは、平城宮が東 に張 り出 した南半部分、すなわち平城宮東院地区の東南隅に 位置す る苑池である。東院庭園 とい う名称 は便宜的によばれているもので、苑池部分 を特 定 した奈良時代の名称 は不明である。ただ し『 日本書紀』 には「楊梅宮南池生蓮。一茎二 花」 と記述 されてお り、 ここにみ られる「楊梅宮南池」が東院庭 園の池 にあたる可能性が 高い と考 え られている。発掘調査所見 によれば、苑池は藤原官か ら平城宮 に遷都 (710)後 の和銅六年 (713)頃 か ら存在 し、養老四年 (720)頃 の東院地区の大垣 の構築 と同時期 に改 造 されたことが明 らかにされている。その後天平勝宝年間 (729‑749)に もう一度大 きく改 造 され、苑池それ 自然 は平安時代初頭 まで存続 した。苑池の空間変遷 はその平面計画や建 物配置などの相違か ら5時 期 に区分 されるが、養老四年頃 と天平勝宝年間の2度 の改造 によ って大 きく3時 期 に大別す ることがで きる珈。本稿ではそれぞれ時期の古い ものか ら、最下 層苑池、下層苑池、上層苑池 とよぶこととす る。

以下、東院庭 園の各時期の苑池の様相 を概観 しつつ、その変容によって顕現 された空間 姿景が庭園ス タイルの系譜 とい う座標のなかでいかなる位置 にプロッ トされるのか を考え てい きたい。 なお、東院庭園の空間デザインの系譜 については、特 に池の護岸工法に着 目 した本中の先行研究が存在する22。 本稿で も本中論文 を適宜引用 しつつ、若千の史的考察を 加えてい くもの としよう。

東院最下層苑池にみる方池的空間

  

最下層苑池は発掘調査所見別によれば、和銅六年 (713)

にはその姿景 をととのえ、その後養老四年 (720)に改造 されるまではあった もの と考え ら れている。存在期間はわずか7年 ときわめて短い。苑池規模 は東西約43m、 南北約

57mで

直 線 を基調 とした汀線計画 をな し、排水施設は苑池の東南隅に取設 している (第13図)。 その

(17)

護岸 は人頭大 の礫 を2、 3石積 み上 げ た部 分 と斜 面地 に貼 り付 けた部分 とが あ るが 、 いず れ に して も単純 な しつ らえ とな って い る。 池 の北側 には、

15m内

外 の 空 閑地 をは さん で南 に片庇 を付 け た桁 行

9聞

梁 間

3間

の 東 西 棟 建 物 が 存 在 す る の み で 、 塀 な どの 囲続 施 設 も苑 池 周 辺 に は存 在 せ ず 、現 在 復 原公 開 され て い る よ うな装 飾 的 な空 間で は なか った こ とは確 か だ。 こ こで指摘 で きるの は、苑池 の平 面 計 画 が 護 岸 の端 点 部分 を円弧 状 に処 理 す る部 分 を除 い て、 きわめて単純 な直線 形 を基 本 とす る逆L字形 をな し、 あ る意 味空 間デザ イ ンとしては方池ス タイルに近 い とい う 点だ。 また、その護岸の土留 め手法 も飛 鳥時代 か らつづ く野面積 み と してお り、

最下層苑池が築造 された8世紀第 1四 半世 紀 は依然 として、苑池の形態が方池か ら 曲池へ の移行過程 にあった とうかが われ るのだ。

東院下層苑池にみる日本的意匠の萌芽 養老四年頃に改造 された東院庭園の姿 は、

当初の逆

L字

形の平面形 を基本 としていた ものが池の南岸や東岸 な どに屈 曲 を加 え て本格 的な曲池ス タイルを具現化 してい る点が注 目される (第13図)21。 その護岸 意匠 に着 目してみると、基本構造 は玉石 の縁石 による単純 な土留め を基本 としつ つ も、部分的に護岸 には州浜 を採用 し始 めたのが特徴 だ。護岸 の土留 め に州浜 を 採用す るとい う変化の背景 として、古墳 の周濠 を改修 して苑池 とす る とい う行為 が奈良時代 に定着 していた とい うことを

下層 苑 池 養老4年 (720)頃

※図 はI期の もの

天平勝宝年間に改造

※ 図 はⅢ‑3期の もの

A

0      50m

13図

 

東院庭園の変遷

(18)

栗野

 

本 中は指摘 してい る22。 その例 には、市庭古墳 外 濠 を改修 した平城宮北辺地域庭 園遺構 や、

平塚 二 号墳前 方部斜 面 と濠 を改修 した平城 京左 京 一条三坊 十五 ・十六坪庭 園遺構 な どがあ るが、本 中は古墳 葺石 の苑池護岸へ の転用 につ いて、「古墳本来の機能が忘れ去 られた時 に、

水 と山 を象徴 とす る材料 として優 れて造 園的 な取 り扱 いが な され ようとした」22と考 察 して い る。苑池の護岸 に州浜が定着 して くるの はおお むね8世紀 の 中期 であ り、 この頃にわが 国 の 曲池 ス タイルのあ り方 に州浜 とい う方法が加 え られてい ったのだろ う。 この ような護岸 形 態 は韓 回 は もとよ り、 中国で も確 認 され てお らず 、 日本独 自の苑池意匠 と目され る もの だ。つ ま りわが 国で は平城京域 に多数存 在 して いた古墳 の周濠 とい う既存土木的意匠 と海 景表現 を志 向 した造 園的美意識が奇妙 な連 関 を もって結 びつ き、 その延長線上 に見 出 され た手法 が州浜 だったので はないか と考 え られ、従 来 の土木的意匠の造園的解釈 による空 間 デ イテー ルの創造 とい う行為 に展 開 しつつ あ った と指摘 で きるのだ。

東院上層苑池 と雁 鴨池 との空間デザ イ ンの関係

  

で は、天平勝宝年 間の改造 では、東 院 庭 園 は どの ようにその姿景 を変容 させ てい くの だろ うか。 まず平面計画 に着 目してみ る と、

池 は各所 に合計7箇所 の出島状 の突端部 を設 け、北端 の ものは中央 の直立 した立石 を中心 と した須弥 山石組 を据 えた築 山を配 して苑池 の 中心 的点景物 と し、 そのほかの ものは突端 に 腰 高程 度 の立石 をあ しらって荒磯 を表現 した岬 とす る。 また、汀線護岸 は旧来 の玉石敷 を 全面的に埋 め立ててそれよ りも小ぶ りの礫 を敷 き詰めた州浜敷 とするというダイナ ミック な変化がみて とれる (第 14・ 15図)。 池の南西 には緩傾斜の州浜護岸 とする中島を浮かべ、池 の中央部 には平橋 を設置 してその延長上 に饗宴機能 を具備 した臨池建物 を設けている。 ま た、池の北 には反橋 を設けるのである別。 この ように複雑化する苑池デザインは、同 じ区画 内での改造であるにもかかわ らず、池の面積が下層苑池では約1640∬であった ものが上層 苑池では約1780∬ とな り、汀線の延長 は下層苑池が約

2642mか

ら上層苑池では約

3338mと

数値的に も飛躍的に大 きな値 を示 しているこ とか らもうかがわれる。 このことは苑池が観 賞的に も十分配慮 されたうえで改造がなされた ことを物語 る ものだが、橋や臨池建物の充 実 という現象に看取 されるように、「歩行」 とい う行為のデザ イン、つまり回遊性の確保 に

14図

 

東院上層苑池北岸の築山 と石組 第15図

 

東院上層苑池東岸の岬

(19)

よる接客 。宴遊機能の充実 を意図 して再構成 された ものだ と指摘すべ きだろ う。 またここ で、多 くの先行研究23が共通 して指摘 して きたことは、慶州の雁鴨池 との関連だ。 この苑池 は池の西岸 と南岸が建物の基壇 を兼備 した直線形態 をなす ものだが、東岸 と北岸 は曲線の 方形 に加工 した切石の布積み をめ ぐらし、その上部には随所 に景石 を配って 自然的な汀線 意匠を表出 している。本中論文では、雁鴨池 と東院上層苑池が方位 と規模 こそ異 に してい るもののその平面形が きわめて類似 していることか ら、東院上層苑池は「雁鴨池の ミニチ ュア」だ と指摘 している22。 東院上層苑池 と、雁鴨池の平面計画 を回転 した もの とを比較 し てみると、確かに酷似 していることがわかる (第16図)。 岬や入江 などの屈曲形状 にみる池 の平面構成、そ して池中に浮かべ られた中島の位置関係 など、東院 と雁鴨池の面積比は

1:

35だ

が、雁鴨池が東院において箱庭化 された ようであ り、 これを偶然の一致 と考える方が 難 しい。おそ らく東院庭 園の平面計画は、雁鴨池 を模範対象 として創作行為 をお こなった 廷長線上 に顕現 された苑池空間と考えるべ きだ一一

ここで もう一度本論文の問題意識 に立ち戻 りたい。 日本庭園が 日本的なス タイル として の独 自性 を確保す ることがで きたのは何 によってであっただろうか一― すなわちそれは本 論文の導入部で述べ た ように、 ダイナ ミックな自然の風景 を庭 園の規模 に応 じて縮小 し、

象徴的に表現 しようとす るもの、すなわち「縮景」であった。わが国の庭園は縮景 とい う 技法 を獲得す ることによって、独 自のス タイルを創造 して きたのである。そ して東院の上 層苑池で立ち現れた空間 とは何であろうか―一 これ もまた、雁鴨池の縮小表現ではないか。

つ ま り東院上層苑池 は、雁鴨池 を確 固たる模範対象 として、ある意味模倣をきわめた「写 し」の苑池だった といって も過言ではない。 しか しその行為 は原寸大の コピーをつ くろう とす るのではな く、要所 々々を縮小 して表現 しようとす るとい う、 日本庭園が独 自のス タ

16図

 

東院庭園 と雁鴨池 との関係

参照

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