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聞歌」をめぐって

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﹁石見

ノ目

相聞 歌 聞歌﹂をめぐって

内藤 明

  1 はじめに

石見の海角の浦廼を浦なしと 人こそ見らめ 柔なしと︵=ム﹁骨なしと﹂︶ 人こそ見らめ よしゑやし 浦       いさなはなくとも よしゑやし 潟は︵一望﹁磯は﹂︶なくとも 鯨とり 海辺をさして 和多豆の 荒磯の上に か歪

なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす

寄り寝し妹を︵一図﹁はしきよし 妹がたもとを﹂︶ 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万た      さかび かへり見すれど いや遠に 里は早りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 酔ひしなえて しのふらむ

妹が門見む 靡けこの山       ︵巻2.=一二︶

石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか       ︵一三二︶

さ  さ小竹の葉はみ山もさやに乱るともわれは妹思ふ別れ来ぬれば       二三三︶

73 早稲田人文自然科学研究 第44号  93(H5).10

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      ふかみ るつのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる いくりにそ 深海松生ふる 荒磯にそ 玉藻は生ふる 玉藻

なす 靡き寝し児を 深海松の 深めて思へど さ凝し夜は いくだもあらず はふ蔦の 別れしくれば 肝向

      わたり        もみちばかふ 心を痛み 思ひつつ かへり議すれど 大嵐の 渡の山の 黄葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも

         やかみ      むうかみ       あまった見えず 妻こもる 屋上の︵一指﹁室上山﹂︶山の 雲間よゆ 渡らふ月の 惜しげども 隠らひ来れば 天伝ふ

       ますらを       しきたへ入日さしぬれ 大夫と 思へるわれも 敷妙の 衣の袖は 通りて濡れぬ        ︵一三五︶

青駒が足掻きを早み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける︵一嘗﹁あたりは隠り来にける﹂︶

      ︵一一二山ハ︶

秋山に落つる黄葉しましくはな散りまがひそ妹があたり見む︵一云﹁散りなまがひそ﹂︶  ︵一三七︶

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 ﹃万葉集﹄に﹁柿本朝臣人麻呂従二石見国一別レ妻上来時歌二首井短歌﹂との題詞をもって載せられているこの﹁石

見相聞歌﹂は︑人麻呂作歌中唯一の相聞の長︑反歌である︒﹃万葉集﹄中︑相聞歌として収められている長歌がない

わけではない︒笠金村︑田辺福麻呂ら宮廷歌人と目される作者の作や︑丹比笠麻呂︑坂上郎女︑大伴家持などの作

が見られるほか︑巻十三には︑人麻呂歌集所出歌をはじめ︑歌謡的色彩の濃い作者未詳の歌がかなりの数収められ

ている︒しかし︑巧みな技巧と緻密な構成による豊かな映像喚起力を備え︑ある種の叙事性を持ちながら﹁われ﹂

の姿と情をくきやかに描き出していることにおいて︑当歌は万葉集中で傑出した︑特徴ある作であり︑和歌史上に

一回的に生まれた作品ともいえるだろう︒

 ところで近年の研究は︑二塁よりなるこの石見相聞歌を詳細に分析し︑異書︵第一長歌及び第二長︑反歌に注で

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「石見相聞歌」をめぐって

示されている﹁一台﹂︑右掲載では省略したが=一=の異伝としての﹁謡本反歌﹂=二四︑また第一群の異伝として

の﹁或本歌﹂︵=一天︑一三九︶に作者の推敲過程が残されていると考えながら一連の生成過程の復元を試み︑人麻呂      ︵1V        ︵2︶の創作の態度と方法をさまざまに描き出して来た︒松田好夫氏の推敲論をはじめ︑伊藤重氏︑及びその論を発展さ

せた神野志骨継躍は︑長歌一首反歌一首の﹁或本歌﹂︵一三八︑=一元︶を初稿とし︑それが第二群の長︑反歌にうた

い継がれてゆき︑その過程︵或本歌←一景←本文︶で語句が推敲︑改変され︑また第一群に第二反歌︵一三三Vが新       ︵4︶たに加えられていったことを想定した︒﹁一廓﹂については︑それを﹁或本歌﹂以前のものとする説があり︑また﹁或       ︵5︶本歌﹂に﹁二首長歌成立後の説伝﹂の可能性を見る説もあるが︑第一群から第二群への歌い継ぎ︑そして両州にお

ける一云から本文への移行はほぼ認められよう︒

 そして︑伊藤氏はこの生成︑成長に宮廷サロンにおける聴衆の要請を見て取って歌俳優としての人麻呂のありよ

うをとらえ︑また神野志望は﹁書くこと﹂を重ねる中で自己の歌を追求した人麻呂を描き出した︒また︑第一歌群

と︑それが歌い継がれていったと考えられる第二半群との内容上の相違や齪酷は︑両者が実際の旅程にそった時間

的︑空間的な推移ではないことを想定させる︒伊藤氏は︑第二群は第一群の内包していたものに立ち戻ろうとする       ︵6︶﹁求心的構図﹂を持つことをいい︑橋本達雄氏はそこに歌う視点を変えようとする方法的なものを想定し︑塩谷町      ︵7︶織氏は︑﹁別れ﹂の拒絶と受容という心的な状態の相違や推移を見ようとした︒また︑上野理氏は︑第一歌群は先行

作品としての航行不能の辺境の船歌︵巻13・三二二五︑六︶などの主題や方法を総合し集大成し︑第二歌群は︑山頂や

水辺で木の葉の散る中で人と別れる中国の詩文を下敷きにして細叙︑美化されたものであり︑一︑二群の背景に置       ︵8︶かれている季節も異なっていることを指摘した︒

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 このような作品分析と生成過程の分析は︑両型群から︑作者の一回的な体験としての事実を想定することができ

ないことを示し︑結果的にこの作の虚構性︑創作性を明かにした︒地名の意義が作品造形への関与から説かれてそ

の実在性が疑問視され︑一連を人麻呂の実体験と切り離して理解しようとする方向が考えられてきた︒﹁柿本朝臣人       ︵9︶麻呂従二石見国一別レ妻上来時歌﹂という詞書は︑後の享受のされ方のものであり︑一連の作に︑作者によって創造さ

れた文学空間を見ようとする方向が探られてきたわけである︒

 こういつた方向は︑作品自体の内部徴証から明かであるが︑このように︑人麻呂という創作主体の︑いわば創造

としての石見相聞歌をとらえるとき︑一方でこの一連の歌が極めてリアルに一人の個としての﹁われ﹂の像を描き

出し︑また読者に﹁飽くまで実感に即して執拗に歌っている﹂︵斉藤茂吉﹃万葉秀歌﹄︶︑﹁人麿独自の内部生活に深い根

ざしをもってのことで︑そこから必然的に発したもの﹂︵窪田空穂﹃万葉集評釈﹄︶といった印象を与えて来たのは何故

だろうか︒勿論そういった読みには︑近代的な万葉歌観が横たわっているが︑この一連が︑選ばれた主題の下で緻

密に構成されたものであり︑また﹁われ﹂の表出の方法に大きな特徴があることが︑こういつた読みの方向を導い

て来たともいえよう︒体験ではなく︑創造された空間であることが︑逆に強情と人間の造型を典型化︑純化させ︑

また﹁われ﹂の強い表出と中心性を促しているようだ︒

 人麻呂作品の﹁われ﹂︑・王体については︑すでに門倉浩氏が︑﹁献新田部皇子歌﹂の分析から創作主体︵作者︶と       ︵10︶表現主体︵言語表現上の主体︶との分離をいい︑三崎寿氏は挽歌を対象に︑作者と﹁話者︿われ﹀﹂との分離のもと       ︵11︶で︑どのような形で﹁話者︿われ﹀﹂が造型されているかを分析し︑また品田悦一氏は︑﹁主体とは特定の個人なり

とする発想﹂を疑い︑﹁実在の次元を越える座にあっていくつかの視点を包摂しつつ︑いわばある種の関数として機

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       ︵12︶能する存在﹂︑﹁叙述の総体を貫く統一的存在﹂としての﹁主体﹂を仮想しようとしている︒また森朝男氏は︑﹁神に

愚依され︑神の言葉を語る者﹂であった語り手が︑﹁神の資格を借りながら︑いわば人間的な内面の表現の契機をつ         ︵13︶かんでゆく﹂ものとして︑泣血舞働歌や石見相聞歌をとらえようとする︒石見相聞歌については︑もとよりさまざ

まな論があるが︑ここでは主として完成された本文の形での石見相聞歌の構造をいくつかの視点から分析し︑﹁われ﹂

の表現の位相を確認しつつ︑長歌︑短歌を含めた﹁歌﹂そのもののありよう︑その伝統と力を考︑える糸口を探って

いきたいと思う︒

「石見相聞歌」をめぐって

2

﹁人こそ見らめ﹂ll序詞における他者の視点

 三十九句より成る第一長歌︵;=︶の構成を特色づけているものは︑その長歌の半分以上を使って展開されてい

る︑対句を重ねた序詞にあるといってよい︒﹁玉藻﹂を導き出す二十二句は︑﹁我﹂と﹁妹﹂との愛の空間としての

﹁角﹂を提示し︑その﹁浦﹂﹁潟﹂の乏しさをいいながら︑﹁荒磯﹂の玉藻が風波によって靡く様を描出して︑﹁寄り

賦し妹﹂への官能的な比喩となしている︒序詞は古代の歌に特徴的な表現︑発想方法で︑とくに相聞歌の表現に強

く関わることはいうまでもないが︑ここでのそれは︑後半の主題部分と︑意味とイメージの両面で密着しており︑

重要な位置を一首中に占めているといえよう︒

 さて︑序詞はまず︑石見の角の海岸をいわば外部からの視線でとらえた賢臣より始まる︒ここでいう﹁潟﹂は山

田﹃講義﹄や窪田﹃評釈扇がいう︑砂洲により海と界している﹁戯湖﹂ととりたい︒日本海側の﹁堅甲﹂は︑古代

に進ん芸域文化を生み出途・﹁浦﹂︵海の湾曲して陸地に入り組んだところで・良港の存在を思わせる︶と同様

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に︑海辺における利便のよい豊かな土地︑人間の集まる場を暗示しよう︒そして一首はその浦や潟の欠落を一応は

認めながら︑それに代わるものとして﹁荒磯﹂︵人の寄り付かない︑自然そのままの磯︶の青々した海藻を提示す

る︒﹁海辺をさして﹂がどこにかかるか︑﹁斗米﹂を﹁寄らめ﹂と訓むか﹁寄せめ﹂とよむか︑﹁藻﹂を流れ藻ととる

か靡き藻ととるかなど︑解決のついていない問題があるが︑﹁海辺をさして﹂は︑海の彼方を起点として海と接する

陸︵荒磯︶に向けての意︑﹁寄る﹂のは風波で︑それが荒磯に成育する藻を靡かせているものと理解しておく︒人の

寄り付かない辺境の夷の地ではあるが︑藻はその逞しい生命力を誇示して繁茂し︑そこに海の彼方からのものとし

て風波が寄せることをいったものであろう︵ただしその藻は︑﹁沖つ藻﹂ともあるように︑海の沖︑深処からもたら

され︑海の彼方の常世の力によって活性化されるものと考えられていたと思われる︒森朝男氏は︑この冒頭より﹁波

こそ来寄れ﹂に至る二十句を前聖句︑後帯序句と分かち︑後者は海辺に常世から波が寄せることを歌う序の変形と

しての︑海藻の寄り来ることを歌う歌︑による序であるとする︒筆者は︑作品自体が示している藻は︑磯に育成し

て波によって生動する靡き藻と考えるが︑森氏の見解の方向は序の成立について示唆的である︶︒先の六句が外部よ

りの視線で石見の海岸をとらえていたのに対して︑﹁鯨とり 海辺をさして﹂以下は外部から内部へ向かって入り込

んだ視線であレ︑それは最終的に玉藻に収敏されていくのである︒

 ところで︑諸注の指摘にあるように︑この序の導入部分は︑巻十三の

 天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川は 浦甘みか 船の寄り来ぬ 磯育みか 海女の釣りせぬ よし

 ゑやし 浦は無くとも よしゑやし 磯は無くとも 沖つ波 しのぎ入り来ね 海女の釣り船

       ︵三二二五︶

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「石見相聞歌」をめぐって

と類似している︒右の歌は︑その主題が不明確であり︑人麻呂歌との先後関係も︑これを人麻呂歌に先行する歌謡      ︵17Vと取る前掲上野氏らの説と︑人麻呂歌を先行とする説があるが︑先後関係はひとまず措くとして︑三二二五番歌が

﹁浦﹂や﹁潟﹂がないとして寄り付かぬ船人や海女をいうのに対し︑人麻呂歌では﹁人こそ見らめ﹂という形で﹁人﹂

という他者の視点がいわれていることが︑両者の相違として注目されよう︒三二二五番歌の﹁海女の釣り船﹂の入

来を期待する三二二五番歌が直接﹁船﹂﹁海女﹂をいっているのに対して︑人麻呂歌における﹁人﹂という他者の視

点は︑主題との関わりという点では間接的といえるが︵人麻呂の序の展開の中で︑﹁海女の釣り船﹂に相当するもの

は﹁風波﹂に置き換えられていく︶︑しかし人麻呂歌が︑一首全体の構造の中に﹁人﹂という他者の視点を導入して

いることは注意されてよい︒

 ここでいう﹁人﹂は︑外部からの視線としての︑世間一般の﹁人﹂であり︑結果的には︑品田悦一氏がいうよう      ︵18︶に﹁﹃人﹄の視点を排除することと反照的に︑そこに主人公としての主体の存在を押し出す﹂ためのものであり︑そ

れは﹁癒する海女の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と﹂︵巻5・八五三︶などの﹁人﹂と同じ機能をもっ

ている︒しかしその﹁人﹂は享受の場にあっては︑享受者︵聞き手︑読者︶がそこに自己自身の一部を同化してい

くことが可能となる﹁人﹂であるともいえるだろう︒作品から立ち現れて来る﹁語り手﹂が必ずしも作中の﹁われ﹂

である必要はなく︑﹁語り手﹂と﹁聞き手﹂︵声を媒体としての実体的な存在でなくともよい︶とが白紙の状態で対

峙している作品の冒頭の序詞中にあるこの︸般的な﹁人﹂は︑外部の者としての聞き手が自己を投影できる記号と

しての意義を帯びているようだ︒勿論︑﹁人﹂すなわち﹁聞き手﹂というわけではないが︑作中の﹁語り手﹂の創造

者である作者人麻呂は︑聞き手を作品に参加させていくものとしての﹁人﹂を︑巧みに一首中に仕組んだのではな

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いかと考えられるのである︒だから語り手は﹁よしゑやし﹂と︑このような﹁人﹂の﹁石見の海﹂に対する観念を

一応諾う︒そしてその上で︑主人公の恋情ゆえに︑結果的にその観念を修正︑転換していく形で︑美しい海藻を提

示し賛美していく︒聞き手の﹁角の浦廻﹂への認識は︑強く否定されることなく︑しかしそれを反逆させていく形

で︑その視線は荒磯︑海藻と経巡り︑外部から内部に入りこみながら賛美の対象である妹へ向かっていくのである︒

このような重層的な構えば︑﹁船﹂﹁海女﹂という言葉を序と本旨とでともに有し︑それが比喩として展開される︑

歌謡的な性格をもった三二二五番歌には見られないところである︒また﹁浦なし﹂﹁潟なし﹂と見る﹁人﹂の視線

は︑逆に︑世間の目から遮蔽された場所に住む隠り妻としての女の存在を思わせ︑辺境の夷の自然の中に秘められ

た至福の愛の時間を彷彿とさせもする︒享受者を誘い込むと同時に︑﹁妹﹂を立たしめるものとして︑この﹁人﹂の

もつ意味は決して小さくはない︒渡瀬昌忠氏は︑この序が︑先行する歌謡の表現を使いながら︑﹁大きな詩的飛躍﹂      ︵19︶を遂げていることを細かく分析している︒歌謡の一般的な恋や賛美に拡散されない︑現実そのものであるかのよう

な一人の人間の像や︑一つの事象を際立たせていくところに︑人麻呂による新しい語りの形と方法があるように思

われるのである︒

3

﹁寄り寝し妹﹂1﹁妹﹂から﹁われ﹂へ

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 さて︑﹁人﹂の視線を介した外部の目は︑次第に角の内部に︑すなわち物語の内部に向けられて行くが︑序詞の叙

述自体は︑景の様相を様相として語ったもので︑語り手の立場はニュートラルなものに近い︒勿論﹁人﹂に対する

﹁われ﹂は意識されており︑﹁こそ﹂といった強調に語り手の感情移入は見られるが︑それは必ずしも作中主体とし

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「石見相聞歌」をめぐって

ての﹁われ﹂を全面的に顕在化させはしない︒当歌に限らず︑序詞のもっている表現自体の性格といえるが︑それ

が︑いわば白紙の状態の語り手の︑聞き手への語りかけとして置かれ︑展開されているといえよう︒

 第一長歌において﹁われ﹂が顕在化するのは︑﹁玉藻﹂を比喩として﹁妹﹂が示されるところにあるといってよ

い︒ここで︑品田悦一氏が︑﹁妹﹂と﹁児﹂との呼称としての性格の相違から︑第二長歌の﹁児﹂と比べ﹁妹﹂を用

いる第一長歌においては﹁妻は主体との濃密かつ親和的関係において位置づけられている﹂といい︑また﹁﹃主体﹄

は主人公としての立場に固定されているようでありながら︑その立場自体︑対象である妻との相対関係において微      ︵20︶妙な振幅を含む﹂と述べているのは︑重要な指摘だ︒﹁われ﹂を中心に置いてそこから発せられる言葉である﹁妹﹂

をいうことで︑逆に﹁われ﹂の中心性が示されているともいえよう︒舞台としての夷の自然︑対としての妹を通し

て︑語りの展開の中に︑いわば外から照射される形で﹁われ﹂が相対的に立ち上がって来ているのであり︑序詞か

ら本旨への転換の地点で﹁妹﹂をいうことで︑﹁われ﹂の位置は明確にされ︑﹁われ﹂の物語を語り手が披露してい

くという当長歌のありかたが示されている︒この段階で︑語り手は作中人物である﹁われ﹂に乗り移るかのような

形になり︑両者一体となって一首を領導し始めるのである︒

 こういつたありかたは︑基本的には第二長歌でも同様である︒ただ︑妹に対する比喩的な序が比較的短く︑﹁妹﹂

でなく対象の客観的指示性の強い﹁児﹂が使われ︑また﹁寄り属し﹂という自分への方向性でなく﹁靡き寝し﹂と

いう描写性の強い表現をもった第二長歌は︑第一長歌に比べ︑より客観的に女とわれを対象化して描いているとい

えよう︒また第一長歌が︑その﹁妹﹂を﹁置きてし来れば﹂と︑妹を起点として語っているかのようであるのに対

して︑第二長歌が﹁深めて思へど﹂とあくまで最初から﹁われ﹂を中心化して語っているところにもその差異は現

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れてこよう︒第二長歌では︑﹁われ﹂と女の存在を自明の前提として︑その上で﹁われ﹂の語りが展開しているとい      ︵21︶え︑それは第一長歌をすでに享受した聞き手の存在を意識してのことだろう︒

 このように︑石見相聞歌は︑その表現された言葉からは︑まず﹁人﹂の視線から出発し︑次に﹁妹﹂を提示しな

がら﹁われ﹂を立ち現わそうとしている︒それは辺境での別れという主題にそって︑まず辺境とそこにおける賛美

されるべき核としての女を提示し︑次にその愛の空間との間に増加してく距離を語り︑最後にその距離と反比例し

て昂進するわれの恋情を語っていくという構図にそったものといえる︒外部から内部へ聞き手の視線を潜入させな

がら︑主人公の顕在化と﹁われ﹂への語り手の乗り移りとがおこなわれているといえる︒ではそのような﹁われ﹂

は︑作中にどのような形で構成されていくのだろうか︒

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﹁万たび かへり見すれど﹂−行動と心情を通した﹁われ﹂の創造

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 長歌後半は︑いわゆる道行き体的な叙述によって︑その﹁妹﹂との距離を示すことで︑強く一人の男﹁われ﹂の

像︑軌跡を打ち出そうとしている︒地名を連ねて平板に移動を示すのではなく︑﹁置きてし来れば﹂﹁かへり馴すれ

ど﹂﹁越え来ぬ﹂など﹁我﹂の動作を示す動詞を重ね︑移動する男の位置を追うことで︑﹁我﹂の像とその心情が動

的に構築されようとしている︒いわば舞台の上の主人公の行動する身体を言語で表わすことで︑語り手が主人公﹁わ

れ﹂の身体に乗り移り︑﹁我﹂の情を﹁人﹂に見さしめているといえよう︒そしてその際︑別れの表現︑行動には︑

ある類型的なものが見られる︒能や人形浄瑠璃や歌舞伎役者の典型的な所作に︑現実以上にリアルに登場人物の心

情が付託され︑観客がそこから人物の心理を読み取れるように︑語り手の主人公への同化と︑聞き手の感情移入に

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「石見相聞歌」をめぐって

は︑過去の表現の蓄積の上に成り立つ典型化と純化の作用が強く働く︒人麻呂はそれを言語表現として巧みに行い︑

歌の中に構造化しているといえよう︒

 たとえば︑この道行きにおける﹁かへり見﹂の構図︑表現は︑﹁額田白下二近江国一時作歌﹂

 味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見

 つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや      ︵巻1・一七︶

と重なってくる︒額田王の公的な大和離別の歌は︑三輪山をあたかも相聞の対象であるかのごとくにとらえ︑それ

との距離を道行きとしてうたいながら︑山︑さらには雲による遮蔽を嘆く︒一方人麻呂は︑額田王の﹁山のまに い

隠るまで﹂﹁道の隈 い積もるまでに﹂﹁つばらにも 見つつ行かむ﹂という心情を︑﹁万たび かへり見﹂し﹁いや

高に 山も越え来ぬ﹂という﹁われ﹂の行動として描き︑﹁山﹂による﹁妹が門﹂との隔絶を拝上化していくのであ

る︒設定されている状況は異なるが︑人麻呂歌の額田王歌からの直接の影響を想定できそうだ︒そして︑第二長歌

では︑﹁雲﹂ならぬ﹁もみち葉の散りのまがひ﹂による視線の遮蔽をうたい︑序詞の中のものではあるが﹁雲﹂に隠

れる﹁月﹂をいいながら﹁妹﹂の姿の隠れて行くことをいう︒山路平四郎氏は︑夙に︑第二長歌の﹁雲間より 渡

らふ月の 惜しげども 隠らひ来れば﹂について︑﹁雲間より﹂は﹁渡らふ月﹂に係りながらも︑﹁雲﹂による﹁妹      ︵22︶が袖﹂の見えがくれが想起されていることを指摘している︒反歌︵=二六︶に﹁雲居﹂が出て来るのも︑﹁雲居﹂その

ものの意は彼方の空としても︑そこには妹の里が雲によって隠れていくイメージが置かれているといえるだろう︒

 そしてまた人麻呂は︑第一長歌末尾で﹁妹が色見む なびけこの山﹂と﹁山﹂に呼び掛け︑第二長歌の反歌で﹁な

散りまがひそ﹂と黄葉に命令するが︑ここも額田王が長歌末尾で﹁心なく 雲の隠さふべしや﹂とうたい︑さらに

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反歌で﹁雲だにも心あらなも﹂とあたかも雲に呼び掛けているかのごとくに歌っていることと重なる︒人麻呂は︑

視線を遮蔽する自然への呼び掛けを︑願望から命令に切り替え︑より積極的にドラマティックに行っているが︑拝

情が自然への呼び掛けへ高められる精神の構図と︑それが長歌の結末に集約されていく構造は両者に同等であると

いえよう︒山︵梢︶に対して﹁靡け﹂と命令するのは︑﹁⁝⁝わが通ひ道の おきそ山 美濃の山 靡けと 人は踏

めども かく寄れと 人は衝けども⁝⁝﹂︵巻13・三二四二︶︑﹁悪しき山こぬれごとごと明日よりは靡きてありこそ妹

があたり見む﹂︵巻12・==五五︶などに見られ︑前者は視線の遮蔽をいったものではないが︑後者は﹁見る﹂ことが

直接いわれている︒渡瀬昌忠氏は︑三二四二番歌︑十七番歌を結ぶ延長上に﹁靡けこの山﹂があるといい︑また人       ︵23︶麻呂に至る道行き表現の系譜を辿っている︒歌謡との先後関係は確実とはいえないにしろ︑氏の指摘にあるような

歌謡の表現の多くの蓄積が︑いわば発想と行動の型として︑当歌の言語化された所作の背後に横たわっているとい

えよう︒ このように︑人麻呂は﹁われ﹂の造型にあたって︑﹁額田南下二近江国一時作歌﹂のイメージを別れの典型的な型と

して生かし︑﹁かへり見﹂という言葉でそれを象徴させて﹁語り手﹂に﹁われ﹂を同化させ︑聞き手の脳裏にその像

を描かせようとしたということができるだろう︒そして巧みに構成された表現である﹁靡けこの山﹂という︑命令

調の強い願望表現によって︑心情を核とした﹁われ﹂の姿をありありと立ち上がらせ︑語り手の︑主人公﹁われ﹂

への感情移入を行っている︒人麻呂は近江荒都歌︵巻−・二九⊥一二︶においても︑この額田王の歌の道行きを利用し

て︑大和との別れを悲しんでいる︒それらは大和から夷︵一時の都ではあるが︶である近江へという方向で︑石見

相聞歌の辺境石見から京へという方向とは異なるが︑賛美されるべき心の中心との距離の増大を進行に沿いながら

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「石見相聞歌」をめぐって

嘆き︑後ろ髪を引かれる思いを︑﹁見る﹂ことの願望として表出するその方法は︑両者共通するといえよう︒

 また︑﹁夏草の 思ひしなえて しのふらむ﹂︵或本長歌では﹁嘆くらむ﹂︶という︑別れに耐え兼ねて打ちひしが      かむがたりれている様子を草のうなだれた様に託して表現するのは︑﹃古事記﹄﹁神語﹂の一首︑八千矛神が嫡后スセリヒメ命と

別れ︑﹁出雲より大和の国に上りまさむ﹂として︑﹁片つ御手は出馬の鞍に掛け︑片つ御足はその御詠に踏み入れて

歌ひたまひしく﹂と語られている歌謡の﹁⁝⁝いとこやの 妹の命 群鳥の わが群れいなば 野鳥の わが引け      ひともと    うなかぶいなば 泣かじとは なは言ふとも 大和の 一本薄 項傾し なが泣かさまく 朝雨の 霧に立たむそ 若草の

妻の命﹂との関係を想定させる︒人麻呂の﹁夏草﹂は︑﹁夏の草は日光に萎えるので次の﹃しなえ﹄にかけた枕詞﹂        ︵24︶︵澤潟﹃注釈﹄︶であるが︑それは人麻呂の独自性をもった枕詞の用例であり︑用言に係りながら︑一つの像をイメー

ジとして結ばせる用法である︒この﹁夏草﹂は﹁神語﹂の穂の出た秋の薄と同等のものではないが︑そこに造型さ

れているイメージは︑別れを悲しんで言うなだれて涙に暮れている女であり︑別れに際して︑草の撹え︑傾きに託

して︑一人残された女の姿を想像させることにおいて両者は一致する︒ここでも人麻呂は︑典型的な別れの発想︑

表現を援用し︑簡潔な比喩的枕詞の中にそれを凝縮することで︑別れの心情を描き出しているといえるだろう︒

 このように人麻呂は︑別れに際しての典型的な行動︑発想の型を利用し︑﹁我﹂をいわば劇の主人公の所作のよう

に純化して映像化し︑語り手がその典型的な人間の行動の型に同化することで︑﹁我﹂の五情としての悲しみを表出

しょうとしているといえよう︒その型の創出には前代︑当代のいくつもの表現が重なっていると思われるが︑たと

えば上野氏の指摘した︑第二長歌における漢詩文の秋の別れの表現との類似も︑そのような典型化を形成する一つ

の要素であろう︒そして人麻呂は︑あくまでもそれを﹁われ﹂の行動として描いていく︒第二長歌は︑﹁深めて思へ

85

(14)

ど﹂﹁別れしくれば﹂﹁心を痛み﹂﹁思ひつつ かへり冠すれど﹂と︑その動きと心情を道行きに沿いながら動詞を連

ねて語る︒また﹁妹が袖﹂が黄葉に隠れ︑入日が差し込んだあたかもその時︑涙が溢れ出して袖を濡れ通す︑とい

うように﹁われ﹂の像を劇的に創造し︑描き出し︑その中では﹁妻こもる 屋上の山の 雲間より 渡らふ月の﹂

とかつての愛の時間を絵画的に彷彿とさせる序詞をも挿入する︒第二長歌は︑第一長歌の序の部分を縮小凝縮して︑      ︵25︶その分﹁われ﹂の道行き︑心情表出が全面に出ていることは多く指摘されているが︑行動を通して﹁我﹂の像を劇

的に描き︑そこに情を付着させていくことは︑この第二長歌の後半に︑典型的に現れているといえよう︒﹁別れ﹂の       ︵26︶受容から始まる︵先掲塩谷論文︶第二長歌は︑﹁置﹂いてきた﹁妹﹂を叙述の起点に重く据えている第一長歌と比較し

て︑語りの上での﹁われ﹂の中心性を終始強くもち︑その上で﹁われ﹂を一度客体化しつつ︑その映像化が図られ

ている︒そして︑そこに︑涙に暮れる﹁ますらを﹂という︑一つの個の輪郭が明確に造型されているのである︒

 このように︑二つの長歌後半の本旨部分は︑ある典型化︑純化された行動によって主人公を立たしめ︑その行動

と密着した心情と同化することで︑語り手は主人公﹁われ﹂と一体化しようとしているといえよう︒聞き手は︑語

り手と一体化した﹁われ﹂の典型的な動きから主人公の姿︑心情︑全体像を想像力によって再現しようとするので

あり︑ここには言語による或る種の舞台空間の創造が見て取れるだろう︒

5

﹁われは妹思ふ﹂一﹁われ﹂からの発語

86

さて︑行動をとおして主人公の像を造型して行くという方法は︑両群反歌においても認められる︒第一長歌の第

一反歌は︑﹁妹﹂の姿を想像する長歌を受けて︑﹁妹﹂の視点を含みもちながら︑﹁われ﹂の袖振りという動作を描い

(15)

「石見相聞歌」をめぐって

て﹁妹﹂と﹁われ﹂とを一首中に定位させる︒そして﹁見つらむか﹂という推量に﹁われ﹂の心情を込めようとし

ている︒また後に付加されたと考えられている第二反歌は︑旅程の景を提示し︑﹁別れきぬれば﹂と動作を伴って状

況を措定しながら︑﹁われ﹂と﹁妹﹂との変わらぬ紐帯を︑﹁妹思ふ﹂我の心情として︑﹁われ﹂の側から訴えてい

る︒両首とも︑言葉としても直接﹁われ﹂と﹁妹﹂を含み持ち︑その間の距離をわれの行動を通して半ば叙事的に

描きながら︑主人公﹁われ﹂から﹁妹﹂に向けて発せられる声としてうたわれている︒また第二長歌の二首の反歌

も︑言葉として﹁妹﹂を持ち︑我の行動や意志をとおして﹁妹﹂と﹁我﹂との距離を構造化しながら︑﹁われ﹂の心

情を浮かび上がらせている︒﹁われ﹂という記号とともに︑行動と行動に伴う心情表出が︑語り手と﹁われ﹂との同

化を保証しているといえる︒

 このようにそれぞれの短歌は︑一連の一塩として︑行動を叙して一連の進行に関与するという叙事的機能をもち

つつ︑一方いわば劇中の台詞として︑内的独白を含めた﹁われ﹂の肉声を︑﹁妹﹂その人に呼び掛けるものとして創

造されている︒まさしく﹁われは妹思う別れ来ぬれば﹂の世界であり︑長歌が﹁人﹂の視線を取り込みながら︑多

角的に﹁われ﹂を立ち現わせ︑行動を通した時間的推移を構築しているのに対して︑短歌は一つの時間︑一つのシ

ーンに収敏し︑﹁妹﹂と﹁われ﹂との一対一の対峙のもとで︑﹁われ﹂から﹁妹﹂への現在の語りかけとして置かれ

ているといえよう︒短歌という性格のもたらすところといえるが︑ここにおいて語り手と主人公﹁われ﹂との同一

化は完成されている︒短歌自体がもっている︑その一人称的叙述の性格が︑語り手の﹁われ﹂への乗り移りを容易

ならしめ︑それによって︑逆に長歌を含めた一連の作が︑語り手イコール﹁われ﹂であるという印象を強く与える

ようになっているともいえよう︒

87

(16)

 そういう意味では︑長歌末尾の︑妹への情の集約とその高揚としての﹁夏草の 思ひしなえて しのふらむ 妹       ますらをが門見む 靡けこの山﹂︑また自己を客観化しつつ︑その情を行動をとおして表出した﹁大夫と 思へるわれも 敷

妙の 衣の袖は 通りて濡れぬ﹂という︑短歌と見紛う五七五七七部分に︑すでにそういった短歌的性格は体現さ

れていたともいえる︒この部分の上接する句は︑﹁山も越え来ぬ﹂﹁入り日さしぬれ﹂と︑完了の助動詞によって一

応閉じている︒また前者では﹁思ひしなえて﹂から﹁しのふらむ﹂への七︑五の続きが直接的で︑長歌のリズムを

壊して︑独立した短歌三国世界を構成している︒結末膏油は︑長歌の﹁われ﹂を凝縮しつつも︑その長歌本体の語

りと一線を画し︑短歌の独白ヘスムーズに移行していく効果をもたらすものとなっているといえよう︒先に触れた

ように︑﹁妹が量見む 靡けこの山﹂は伝統の上に巧みに生み出された人麻呂の創造的な表現であるが︑長歌内部

の︑いわば劇中劇ともいえるこのような方法は︑人麻呂の独自の︑またここでしか見られないものである︒ここに︑

叙事としての語りと︑直情としての﹁われ﹂の感情表出が滑らかに融合させられているといえよう︒そして長歌︑

反歌の枠組みが必ずしも固定的でなく︑序︑道行き︑結末五句︑短歌と緩急自在に展開されていくさまは︑︸連が

口諦のものとしての性格を止めていることを思わせもする︒このような流れを意識的に歌の上に構造化することに

よって︑石見相聞歌の立体的な世界が作られているのである︒

88 6

長︑反歌一連の構成とその構造

 見てきたように︑石見相聞歌の展開は︑主人公﹁われ﹂を徐々に︑くきやかに立ち上がらせて行く構造をもって

いる︒外部からのやや客観的叙述から始まって︑次第に内部へ潜入し︑﹁妹﹂の側から﹁われ﹂を立ち上がらせ︑行

(17)

「石見相聞歌」をめぐって

ロロ

早凸 

語 り 手︵枠 組︶

       悉

マ園÷

聞  き  手 動と心情によって﹁われ﹂を強く押し出して行く︒両群とも︑﹁序﹂﹁道行き﹂﹁結末の五句﹂と﹁われ﹂の表出の曲線を高め︑反歌において﹁われ﹂からの発語として行動と好情を集約して︑﹁われ﹂による﹁われ﹂の語りとしての世界を完結していくのである︒ではこういつた総体としての石見相聞歌の創作︑享受の場は構造は︑どう見ればよいか︑簡単にまとめておこう︒ まず︑﹁作者﹂人麻呂は︑基本的には作中に措定される﹁語り手﹂︵場における読み手ではない︶の創造者として考えることができよう︒石見相聞歌の場合︑作者と語り手は実質的には同じともいえるが︑﹁語り手﹂はあくまで作品内のものであり︑実体的な存在とは位相を異にする︒そしてこの語り手は︑他者の視点なども言葉の上で取り込みながら︑景や人物や状況を提示していくが︑その関係の中に主人公が立ち現れて来ると︑その主人公に乗り移るかのように主人公と一体化していく︒その記号は﹁われ﹂であるが︑様々な表現がその同一性を保証

していくのである︒一方︑聞き手は作者の作った語り手と対峙し︑語

り手の言葉をとおして事や心を追う︒作品から立ち現れて来る映像は

語り手と聞き手の磁場の中に︑聞き手の想像力を加えながら生まれて

89

(18)

くるが︑語り手が主人公に乗り移って行くに従い︑語り手は主人公そのものであるという幻想が︑いわば舞台の上

の役者への視線と同様に︑聞き手の中にうまれて来もするのである︒簡単に図式化しておこう︒

 そしてこういつた構造全体を見渡しているのが︑作者人麻呂であるともいえよう︒いわば演出を視野に入れた台

本の制作者といえるが︑歌自体で事柄を語るとともに︑主人公の立場になって拝情を表出︑独白するところにこの

作の特殊性がある︒そしてその内容は︑作者の現実の体験から様々な挾雑物を捨象して主題に収敏していくのでな

く︑あらかじめある主題に沿って︑行動と心情の型を典型的に作り上げ︑言葉で構成していくことによって成立し

ている︒ゆえに︑創造された我と妹という対の関係の中に︑劇的効果を狙いながら︑ある意味では自由に︑客観的

に﹁われ﹂の離別の悲しみを純化して描くことができ︑悲歌を求める聞き手の感情に合一化できるのである︒また

登場人物が英雄や七夕のような空想のものでなく︑また事柄が現実に起こり得るものであることは︑語り手が主人

公に自己同一化し︑また聞き手がその同一化の幻想の下に﹁われ﹂の像を想像することを容易にさせているといえ

よう︒こういつた様々な要因が重なって︑一連は︑﹁われ﹂または人麻呂の︑体験に基づく真率︑リアルな感情表白

として読まれてきたといえるのかもしれない︒

7

石見相聞歌の位相

90

 さて︑実際に︑この一連が聴衆を前に︑人麻呂によってうたわれたかどうかはわからないが︑たとえ記載のもの

としても︑一連は︑聴衆を対象としながら声によって語る︑という立場を︑その構造と表現の上に止めているよう

だ︒人麻呂の周辺には︑語りとしての歌謡があった︒例えば先に触れた﹁神語﹂もそのひとつであろう︒﹃古事記﹄

(19)

「石見相聞歌」をめぐって

の﹁八千矛神﹂を主人公とする﹁神語﹂四首は︑八千矛神が越のヌナカハヒメを妻問い︑ヌナカハヒメがその求婚

を一時は拒否するという問答の二首︑また旅立ちに際して嫉妬する嫡妻スセリヒメ命を宥める八千矛神の歌と︑八

千矛神を引き止めようとするスセリヒメ命の問答二首よりなる︒先の歌はその三首目だが︑一首目は︑

 八千矛の 神の命は 八島国妻多きかねて 遠々し 高志の国に 賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有

 りと 聞こして さよばひに あり立たし よばひに あり通はせ 太刀が緒も いまだ解かずして 襲をも

 いまだ解かねば 嬢子の 署すや板戸を 押そぶらひ 我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば 青山に

 ぬえ 鶴は鳴きぬ さ野の鳥兜はとよむ 庭つ鳥鶏は鳴く 心痛くも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ち止めこせね

 いしたふや 海女馳使事の 語り言も是をば

といった︑戯笑性をもった妻問いの歌である︒ところで︑この歌謡は︑神についての客観的な三人称的叙述からは

じまり︑﹁我が立たせれば﹂というように敬語をともなった一人称に転換されている︒このような転換の構造につい

ては︑一首の背景に演劇的要素を置き︑一人称を﹁歌い手または演者が上中の人物と合体し一つになったため﹂と       ︵27︶みる西郷信綱氏のような考え︑また一連を叙情詩として︑﹁前句に自然の景物を提示し︑後句で自己の心情を表現す       ︵28Vる﹂︑歌における序詞の方法との構造的類似としてとらえようとする土橋町氏の見解︑さらに潮れば詩の起源を巫観

による神の一人称的な独白︵託宣︶と見︑この一人称部分に本来の叙事詩の痕跡を見︑三人称に叙事詩の進歩錯乱        ︵29︶を見る折口信夫の考えなどがある︒広く構造としてとらえれば︑叙事︑景の提示から︑情の表出という歌の表現構

造は認められるところだが︑声を含めての身体性をもった歌による語りの披露︑伝達︑継承は︑享受の場の中で︑

語り手の語られる者への同化をもたらす︒﹃万葉集﹄七十三には︑右の﹁神語﹂に類似した天皇の忍笑的な妻問い

91

(20)

が︑品書において︑天皇を想定させる﹁われ﹂の一人称の歌︵三三一〇︑三三一︶と︑それへの女の一人称の答歌とし

て︵三三一二︑三三一三︶収められているが︑右の﹁神語﹂は︑形の上で︑語りの内部に歌の表現としての一人称性が

とりこまれた︑語りの歌謡ということができよう︒実態としての演劇をどこまで想定できるか︑神の懸依としての

一人称といったことを視野に入れるかどうかは別として︑他者︵神︶を演じるという劇的要素が︑語りの歌謡にこ

ういつた人称の転換をうながしているといえよう︒

 見てきたように︑石見相聞歌も︑大きな流れとしては︑序詞から本旨そして反歌という推移の中に︑一人称﹁わ

れ﹂を立たしめる方向に向かっている︒歌の表現としての序詞を大きく取り込みながら︑語りの歌謡の展開が︑緩

やかに︑しかし必然的に継承されていると思う︒人麻呂という作者に統括され︑意識的に方法が模索されながらも︑

こういつた語りの歌の展開が見られるところに︑人麻呂が時代の中で立っていた場があるだろう︒しかし同時に︑

このような語りの要素による歌の構造的特徴は︑叙事と好情を︑連続する一本のライン︑一人の﹁声﹂によって︑

一定のリズムを伴って表出せねばならない歌にとって︑宿命的なものであり︑ある意味で通時性をもったものとも

いえよう︒だから︑たとえば︑次のような憶良の歌においても︑同様な構造がうかがえる︒

    たなばたつめ 彦星は 織女と 天地の 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安け

 なくに 青波に 望みは絶えぬ 白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ かくのみや 恋ひつつあら

 む さ丹塗りの 小舟もがも 玉巻きのま擢もがも︵一台﹁小聖もがも﹂︶ 朝なぎに いかき渡り 夕潮に︵一

 云﹁夕にも﹂︶ い漕ぎ渡り ひさかたの 天の川原に 天飛ぶや 領巾片敷き ま玉手の 玉手さし交へ あま

 た夜も 寝ねてしかも︵一癖﹁寝もさ寝てしか﹂︶ 秋にあらずとも︵一夏﹁秋待たずとも﹂︶

92

(21)

︵巻8・一五二〇︶

「石見相聞歌」をめぐって

    反 歌

 風雲は二つの岸に通へども我が遠妻の︵一思﹁愛し妻の﹂︶言そ通はぬ        二五二ご

 たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき       二五二二︶

 ﹁山上憶良七夕歌十二首﹂の内のもので︑﹁天平元年七月七日夜 辛子仰二観天河一 一甘子家作﹂とある︒長歌

は︑語り手が彦星を主人公として三人称的に歌い始めるが︑﹁かくのみや 息づき居らむ かくのみや 恋ひつつあ

らむ﹂でその語り手は彦星に感情移入していき︑﹁さ丹塗りの 小舟もがも 玉巻きの ま擢もがも﹂は彦星その人

になりきっているかのように読める︒﹁かく﹂という語とそれと呼応する﹁息づき居らむ﹂﹁恋ひつつあらむ﹂の臨

場感と当事者性︑﹁もがも﹂という願望の助辞の一人称性がそのような読みを導くが︑それは﹁てしかも﹂という願

望表現に収められていく後半においてさらに顕在化する︒そして反歌においては︑﹁我が恋妻﹂と﹁我﹂を提示し︑

また彦星の場に立って歌うことで完全に彦星の一人称としての表出となっている︵二首目は︑﹁彦星は﹂という主語

を補うことが不可能ではないが︑﹁あまたすべなき﹂という拝呈の表出に︑語り手の彦星への感情移入が濃厚であ

る︶︒長歌は語り手の立場で状況を叙事しながら次第に語り手は主人公に乗り移って行き︑反歌では︑一人称﹁我﹂

による感情表出がおこなわれており︑先の﹁神語﹂と類似した経過をたどっているのである︒

 ﹁倭歌﹂を︑中国詩文との関わりの中で︑文字で表記する︑いわば記載のものとしてのレベルに引き上げていっ

た憶良の歌中にも︑歌という形による語りの中に︑語りの歌謡の展開が継承されているといえよう︒憶良歌におけ

る異伝は︑﹁帥家作﹂というおそらく披露の場と︑憶良の創作工房との差異を思わせ︑そこに文字を媒体とした推敲

93

(22)

を推測させる︒しかし︑享受者との場をも推測させる当職が︑語りの世界を必然的に引き継いでいることは︑歌に

おける語りの要素が︑口諦文学の時代にとどまらぬ︑ある通時性をもつものであることを示していよう︒

 さて︑先にも述べたように︑石見相聞歌は︑神︑英雄や︑彦星︑織女といった伝承の人物の語りではないので︑

語り手の主人公への自己同化は比較的容易で︑叙事の三人称性は主人公﹁われ﹂に干渉され必ずしも明確ではない︒

しかし︑基本的な構造が︑語り手による叙事的要素と︑主人公による独白的要素の両面性をもっており︑その意味

では︑神語︑七夕歌といった語りの歌謡の流れを汲んでいると思われることは︑述べてきたように大枠で認められ

るだろう︒叙事によって語りの枠を作りながら︑その中に﹁われ﹂の好情が形成され︑﹁好情する﹃われ﹄﹂が語ら

れているのであり︑われの内部に語るべき病的体験としての事柄と拝情があって︑それを告白的に表出していく︑

といった形での拝情詩とは異なった歌のありかたがそこにあるといえよう︒

 ただ︑特定の人物ではない︑ある意味では無名の男︵と女︶を想像したところに︑この歌の特色も存しよう︒確

かに石見相聞歌は︑語りの歌謡の重要なテーマである遠方における妻問いの要素をうかがわせる︒また﹁つのさは

ふ 石見の海 言さへく 辛の崎﹂という第二長歌の設定は︑行き難く︑異質な一つの異郷︑または異郷に繋がる

地ともいえ︑両群ともに︑境界としての山の向こうの世界における婚とその至福の時間︑といった神話的な枠組み

のもとに展開されている︒しかし歌自体の場は別れた後の時間に限定され︑すべて﹁われ﹂の心の中で︑逢瀬の時

間が追想され︑悲しみが増幅され︑愛が確認されていくのである︒叙事は臆病を引き出すためのものといってよく︑

その・王人公には﹁神語﹂に見るような烏涛︑笑いの要素や︑﹃伊勢物語﹄の﹁昔男﹂が東の果てで見せたような︑雅

意識と一体化した夷への蔑視は見られない︒神や英雄といった貴種でない︑ある意味では普遍的な存在としてのこ

94

(23)

「石見相聞歌」をめぐって

の世の人間の心の様相︑現実の悲しみを歌で表現しようとするところにこの作の特別な位相があり︑近代人にある

種の写実性を読み取らせた︑新しさがあるといってもよいだろう︒      ますらを おそらくこのような︑新たな文芸意識をともなったある現実への指向には︑律令制の創生期における﹁大夫﹂意

識がかかわっているだろう︒木村康平氏は︑この歌の背景に︑律令制への移行に伴って拡大した交通をあげ︑都鄙

を往反する官人達の求めに応じての作歌を想定している︒作者人麻呂が︑人麻呂というそういった抽象的な一官人

を創造して︑その役を演じたともいえるが︑このような現実的な人物が歌の主人公として歓迎される背景には︑個

        ますらをの自覚をもった﹁大夫﹂として︑官命をもって地方をめぐるあまたの人々が存在しはじめたことを思わせる︒人麻

呂の歌と伝えられるものには﹁覇旅歌八首﹂をはじめ︑旅と結び付く歌が散見される︒﹁荒忙の藤江の浦に櫨釣る海      ますらを女とか見らむ旅ゆくわれを﹂︵3・二五二︶のように︑その行旅は苦汁を伴いながら︑逆にそこには官人としての大夫

意識がうかがえる︒原郷としての氏族共同体の紐帯から離れて︑王権と律令の秩序の中で個の資格によって異郷を

旅する人間の姿がそこにあるといってよいだろう︒後世の伝承の中での人麻呂は︑漂泊︑流離のイメージを伴いな      ますらをがら物語の中に伝説化されていくが︑基本にあった像は旅する﹁大夫﹂であり︑一官人のそれだったろう︒地方を

巡行して妻問いをする神の姿や零落する神の姿とは︑自ずから異なった性格がその出発点にはあったと思われる︒

稲岡耕二氏は︑当歌にみる﹁別離の悲愁を二首の連作に詠む先縦﹂に︑﹃文選﹄行旅詩に収められた陸士衡の﹁赴レ

洛道中作二首﹂などをあげている︵﹃万葉集全注﹄︶︒先掲上野氏の指摘と合わせて︑中国の詩文を受容する中で︑旅や離

別が大夫︑官人意識とも関わりながら︑シリアスな現実性をもった主題として浮上してきていたことが想定されよ

・つ︒

95

(24)

       ますらを このように︑﹁大夫﹂の涙を歌う石見相聞歌は︑語りの歌︑物語の性愛の世界の伝統の上に︑新しい形での旅や別

離といった主題意識が合体されて︑現実の旅を視野に入れながら結晶したものといえる︒神の妻問いや異郷での婚

といった世界と深層で触れ合い︑語りの歌謡の展開を揺曵させながら︑それを新たな方法で更新し︑現実の個の運

命のドラマと︑少し身勝手な男の悲しみを描きだしている︒見てきたように︑一連の歌では徐々に﹁われ﹂を浮き

上がらせる手法が取られていたが︑それは無名の﹁われ﹂が語りの歌に位置を占めて行く過程であり︑いわば人間

の発見へむけての声の表出であるといってよい︒近代的な個や人間と位相を異にしながらも︑﹁われ﹂の表出を求め

る様々な方法が︑﹁われ﹂の実感や強い自己表出を︑後の読者に強く感じさせるのだろう︒おそらくこの主人公の背

後には︑語り手でもあり︑また享受者でもあり得る︑多くの歌わざる︿人麻呂﹀が潜在的にいたはずだ︒その中で

一人︑人麻呂がこのような作を成し得たところに︑伝承の世界にも精通した︑宮廷歌人としての人麻呂の並外れた

力量があり︑この歌の和歌史における一回的な位置と︑その共感の地盤があるといえるだろう︒

 さて︑その後の和歌史は︑長歌の変質衰退もあって︑石見相聞歌の世界を継承したとはいえない︒しかし深層

の物語に通早しながら個を求めて行くその﹁われ﹂の位相は︑歌のみならず︑人間の存在様式についても︑いろい

ろな示唆を与えそうだ︒定型の力とともに︑考える問題は限りない︒

 注

 ︵1︶松田好夫﹁人麿作品の形成﹂︵﹁万葉﹂25号 57年︶

 ︵2︶伊藤博﹁石見相聞歌の構造と形成﹂︵﹃万葉集の歌人と作品 上﹄所収 75年V

 ︵3︶神野志隆光﹁石見相聞歌論﹂︵﹃柿本人麻呂研究﹄所収 92年︶

 ︵4︶松田注︵1︶論文︑渡瀬昌忠﹁柿本人麻呂の詩の形成﹂︵﹁日本文学﹂58年8月︶

96

(25)

「石見相聞歌」をめぐって

︵5︶木村康平﹁﹃石見相聞歌﹄小論﹂︵﹁帝京女子短期大学紀要﹂4号 84年︶

︵6︶橋本達雄﹁石見相聞歌の構造﹂︵﹁日本文学﹂77年6月︶

︵7︶塩谷香織﹁石見相聞歌の構成﹂︵﹃五味智英先生追悼 上代文学論集﹄ 84年︶

︵8︶上野理﹁石見相聞歌の生成﹂︵﹁国文学研究﹂79集 83年︶

︵9︶ただし︑﹃万葉集﹄にこのように記されていることは︑︼連が後には人麻呂の実体験として享受されてきたであろうことを物語っ

  ている︒また︑いわゆる﹁人麻呂作歌﹂の範疇でとらえられているものの中で︑題詞に﹁作歌﹂と書かれていないものは巻一︑

  二においてはここだけである︒題詞がつけられたとき既に︑この一連の創作主体としての人麻呂は︑人麻呂という一人物の伝記

  的興味と一体化されながら受け入れられていたことを示していよう︒当歌を載せる濫訴相聞の登場人物は︑天皇︑皇子︑皇女を

  主とし︑宮廷を舞台とする歌語りの世界が展開されている︒人麻呂︵及びその妻∀とい・ス正史に登場しない一臣下の歌がその

  巻末を飾っていることは︑人麻呂という人物の特殊な受入れ方を思わせる︒

︵10︶門倉浩﹁﹃献新田部皇子歌﹄と表現主体﹂︵﹁古代研究﹂第13号 81年︶

︵11︶三崎寿﹁明日香皇女殖宮挽歌試論﹂︵﹃文学・語学﹄第93号 82年 他︶

︵12︶品田悦一﹁人麻呂作品における主体の複眼的性格﹂︵﹃万葉集研究﹄第18集 91年︶

︵13︶森朝男﹁柿本人麻呂とその︿語り歌﹀史﹂︵﹃古代和歌の成立﹄所収 93年V

︵14︶森浩一﹁潟と港を発掘する﹂︵﹃海を越えての交流﹄日本の古代3 86年︶

︵15︶森朝男﹁人麻呂と序歌﹂︵﹃古代和歌の成立﹄所収 93年︶

︵16︶注︵8︶上野論文に同じ

︵17︶曽倉岸﹁石見相聞歌と巻十三﹃天冠の影さへ見ゆる﹄の歌﹂︵﹃論集上代文学 第十六冊﹄ 88年︶

︵18︶注︵12V品田論文に同じ

︵19︶注︵4︶渡瀬論文に同じ

︵20︶注︵12︶品田論文に同じ

︵21と云﹁はしきよし 妹がたもとを﹂は︑﹁玉藻なす 寄り堅し妹を﹂の別伝でなく︑その二句の後に置かれて繰り返されたものと

  思われ︵澤潟﹃注釈﹄︶︑﹁寄り坐し﹂はこのままの形で活きている︒また﹁或本歌﹂︵=二八︶では﹁靡きわが寝し 敷妙の 妹

97

(26)

  が手本を﹂と﹁われ﹂と﹁妹﹂が直接言葉で示されている︒﹁靡きわが証し﹂は︑妹とわれ︑一聯と第二長歌が混合したかのよう

  で︑表現として熟さないが︑﹁われ﹂と﹁妹﹂との定位がまず求められており︑一つの独立した小世界としての或本歌の性格をう

  かがわせる︒

︵22︶山路平四郎﹁人麿の方法﹂︵﹁国文学研究﹂第十二年第一号 44年︶

︵23︶渡瀬昌忠﹁柿本人麻呂の詩の形成 四﹂︵﹁日本文学﹂65年9月目

︵24︶稲岡耕二氏は﹃全注﹄で︑夏の草が秋になって萎えることをいった枕詞とするが︑現在を秋とする必要はとくには認められない︒

  夏の熱さと光に萎れてうなだれている草を想像すべきだろう︒

︵25︶中西進﹃柿本人麻呂﹄他

︵26︶注︵7︶塩谷論文

︵27︶西郷信綱﹃古事記注釈﹄76年

︵28V土橋寛﹃古代歌謡全注釈 古事記編﹄72年  ﹃古代歌謡の生態と構造﹄88年 他

︵29︶折口信夫﹁国文学の発生﹂︵﹃折ロ信夫全集﹄第一巻︶

︵30︶この長歌は巻十三の﹁見渡しに 妹らは立たし この方に 我は立ちて 思ふ空 安けなくに 嘆く空 安けなくに さ丹塗り

  の 小舟もがも 玉巻きの 小海もがも 漕ぎ渡りつつも 語らふ妻を︵愛着歌頭旬云 こもりくの 泊瀬の川の 彼方に妹ら

  は立たし この方に 我は立ちてと︵三二九九︶と類似した部分を持つ︒三二九九がこの形で完結していたかどうか疑問を残す

  が︑おそらくまず泊瀬を舞台とする川を隔てた男女の恋を男の立場でうたう﹁或本歌﹂の形での歌謡があり︑それを本文のよう

  な形に改変転用することで七夕歌としての享受がなされていたのだろう︒以前考察したように︵拙稿﹁人麻呂歌集七夕歌の成立

  とその和歌史的位置﹂﹁古代研究﹂第17号 84年︶︑七夕歌は︑旧来の恋歌の表現類型に乗りながら︑それを転用改変して成立し

  て行く︒憶良歌と三二九九との先後関係は確定しがたいが︑おそらく憶良は三二九九に類した川を隔てた恋の表現を取り込みな

  がら︸五二〇を創作したのだろう︒憶良歌は︑長歌自体で︑七夕歌としての自立︑独立を目指して三人称的な叙事を行うが︑そ

  れは述べたように感情移入を経て︑一人称の恋の歌の表現に置き換えられ︑さらに一人称発想の反歌を導いていく︒一人制を強

  く指向する歌の力が︑事を叙し始めた憶良の長歌を︑主人公.の一人称発想へ導いていったともいえよう︒なお︑これと対照的に︑

  高橋虫麻呂は﹁詠水江浦嶋子﹂や﹁見馳駆処女墓﹂などの物語的長歌において︑語り手は語り手に徹し︑三人目で事を叙し︑会

98

(27)

  話を﹁語らく﹂﹁いへらく﹂として独立させるような方法をとっている︒

  に︑﹁われ﹂の別な形での参入が見られる︒

︵31︶木村注︵5∀論文に同じ︒ しかし例えば菟原処女を﹁我妹子﹂といっているところ

「石見相聞歌」をめぐって

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参照

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