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公 立 学 校 と 良 心 の 自 由 ( 四 ) ー ド イ ッ 連 邦 共 和 国 に お け る 国 家 の 教 育 任 務 .

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(1)

公立学校と良心の自由︵四︶

ードイッ連邦共和国における国家の教育任務.    親の教育権・子どもと親の良心の自由1

  目 次序章問題提起

第一章国家の教育任務と親の教育権

第二章 公立学校と宗教

第三章 学校における世界観的問題

 第一節 二つの具体的問題

  一 性教育

  ニ ノルトライソ・ヴェストファーレソ政治教育指針

 第二節 教育目標・授業内容の決定

終章  問題解決の手掛かり

西 原 博 史

︵以上︑四〇号︶

︵以上︑四一号・四二号︶

︵以上︑本号︶

早稲田社会科学研究 第43号  91(H3).10

353

(2)

第三章 学校における世界観的問題

354

 前章までの考察により︑学校において子どもの良心形成を一定方向に引き込む意図で行われるイデオロギー的教化

は国家の教育任務からは正当化されず︑子どもと親の良心の自由に反するという仮説が成立する︒また︑宗教的.世

界観的含意を伴う学校行事も︑生徒の良心形成に働きかける目的を持つ場合は許されず︑国家の教育任務から正当化

される教育上の目的実現に資する場合も生徒・親に強制できないことが明らかになった︒しかしこれらの命題も︑授

業の領域ではイデオロギー的教化となる場合を識別する基準を明確化しなけれぽ机上の空論の域を出ない︒本章で

は︑学校での授業と親・子どもの良心の自由の対抗関係に関する問題を考察していきたい︒

第一節 二つの具体的問題

 授業の中で教師が国家の教育任務から直接正当化される知識伝達のみを行っても︑授業は必然的に生徒の思想.良

心の形成に影響を及ぼす︒新しい知識との相互作用の中で初めて信条が形成され︑様々な考え方が紹介される中で自

らの採用する見解が凝縮するからであり︑この点に教育を受ける権利の実現が思想・信条の自由の観点からも不可欠

とされる基礎がある︒さらに︑教師が純粋に客観的な情報伝達者の役割に徹することは困難で︑多様な見解を並列的

に提示する場合でも︑教師の選好は表情や声音まで関係する叙述の方法に影響し︑生徒は教師の無意識の評価を含ん

だ形で情報を摂取する︒そして︑そもそも教師が中立的な広達者であるべきか︑授業から価値に関する問題を排除で

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公立学校と良心の自由(四)

 このような点は︑基本的にすべての課目に関して問題になる︒本節では︑世界観的含意を持ちやすく︑そのため生

徒の良心形成に影響する可能性の強い授業をめぐる議論を手がかりに︑授業における生徒の良心に対する働きかけと

生徒・親の良心の自由に関する問題を考察していきたい︒その際の素材となるドイツ憲法学の議論は︑一つは性に関

する倫理観が混在しやすい性教育の授業︑一つは﹁社会の民主化﹂の課題を担うとされた政治の授業に関するもので

ある︒ この二つの授業領域は比較的新しく︑性教育は早い時期の詳細な性教育に対する親の懸念から︑政治の授業はその

目標に対する保守層の反発から︑それぞれ問題とされた︒こうした状況を考えれば︑それらの授業に対抗して良心の

自由に依拠することは︑ラント政府の改革的意図に抵抗する保守的契機を持つ︒この確認は︑一般に七〇年代以降の       ︵1︶教育改革に関する議論で憲法がまずは改革抑止的に用いられることが多かったという事態に対応する︒しかし本稿で       ︵2︶は︑政策的道具としての憲法理解を排斥する立場から︑良心の自由が保守のイデオロギーとして利用されたという事

実にもかかわらず︑実体的な内容の問題を離れ︑公立学校に許される授業のあり方を内容中立的な観点から規律する

規範としての良心の自由の意義を問題にしたい︒

        一 性教育

 a 性教育の道徳的含意  従来子どもの性的な行動は︑子どもに性に関する情報を与えない形でコントロールさ      錨れてきた︒そのため︑子どもが様々なメディアを通じて性に関する知識を断片的なまま興味本意で手に入れられる状

(4)

況になり︑学校における性に関する正確な知識伝達が課題となると︑どのような知識をどの段階で伝達するかは︑繊

細な問題と考えられることになり︑伝達される情報が子どもの発達段階に対応したものであることが要請されること

によって情報の選別が行われる︒

 この選別は︑必ずしも発達心理学的な観点のみに基づかず︑性教育の目的に規定され︑性教育を行う側の性に対す

る意識を反映する︒しかしこの性意識や性倫理的観念は︑十分に意識化され対象化されないまま︑多様な内容を持っ

て個人ごとに固定化している状態で︑社会における信条的対立の火種となっている︒そのような中︑仮に表面上は性

教育の授業が価値中立的な知識伝達を主眼として行われていても︑情報選択に性的行動に関する評価が入り込むこと

により︑親の視点からは学校における性教育が特定の性道徳あるいは不道徳を一面的に宣伝するイデオロギー的働き         ︵3︶かけに見える場合がある︒性意識や性倫理の問題が性教育の授業から排除できないことを理由に中立的知識伝達とい

う建前を放棄し︑特定の性的行動に関する評価を伝達することを目的として性教育が行われた場合︑この対立はさら

に激化する︒

 このような状況を踏まえれば︑性教育の授業に関する問題が︑子どもの良心の自由と親の教育権に必然的に関連す

ることは明らかであろう︒ドイツでもこの問題に関し︑ ﹁性教育の授業は︑どのような内容でどのような目標設定の      ︵4︶ものであれ︑法的に重要な程度で子どもの自己展開に作用し︑親の教育権に関係する﹂との確認が基礎に置かれ︑

﹁子どもの教育に関する全体的計画に対する親の責任の尊重﹂という連邦憲法裁判所がヘッセン進路指導段階判決で     ︵5︶定式化した観点から学校における性教育の限界が問題とされる︒

 b K巡Kの推薦と半数育の導入  ドイツでの性教育導入のきっかけは︑︸九六八年のラント文化大臣会議︵K

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(5)

公立学校と良心の自由(四)

     ︵6︶MK︶の推薦にあった︒この推薦は︑性教育をまず第一に親の任務と捉えつつ︑学校も教育任務に基づいてこの性教

育の課題に協力するものとし︵ω﹂︶︑単独の課目ではなく様々な課目や授業外の行事に跨る包括的な性教育を学校で

実現することを決定した︵ω.ω︶︒性教育の内容についてこの推薦は︑第六学年までには人間の生殖に関する生物学的

な基本事実や第二次性徴期の肉体的・精神的変化を︑第九・十学年までには人間の妊娠と出産︑性生活・家族生活の

社会的・法的基礎︑避妊・売春・同性愛・強姦・堕胎・性病などを含む人間の性に関する社会的問題を扱うものとの

指針を含んでいる︵のb︶︒それ以降各ラントで順次︑このKMKの決定の枠に従った性教育が実現されていく︒

 このKMKの推薦は︑性教育に関する親の優位を指摘して学校の任務を補充的に理解し︑親・子どもの信条に配慮         ︵7︶しているとも評価できる︒しかし問題は︑この親の教育権の優位が学校での性教育の具体的形態に十分反映せず︑単

に言及したに留まる感がある点にある︒KMKは︑性教育の目的を﹁人間の性に関する即物的で根拠のしっかりした

知識の獲得︵ω﹂︶しに限定せず︑性教育の任務として﹁若い人間が男性あるいは女性としての自らの任務を認識し︑

自分の価値観や良心を発達させ︑倫理的決定の必要性を洞察することに貢献する︵ω●H︶﹂ことや︑ ﹁責任ある性的な

行動と責任の意識への教育︵ω﹂︶﹂を挙げ︑性に関する生徒の良心や価値観に対する働きかけを明確な形で性教育の    ︵8︶目的とした︒

 このようなKMKの推薦を︑六〇年代後半の﹁性の解放﹂とAPO︵﹁議会外野党﹂︶の運動に支えられた若い教師

による子どもの関心を指向した性教育の探求に対抗し︑国家権力が自らの力を動員した保守的な性格のものと理解す     ︵9︶る見解もある︒少なくとも推薦の枠組は︑生徒の良心形成に対し特定の信条に基づいて介入する可能性を排除する構

造でなく︑むしろ伝統的な性倫理が授業に入り込むための裏口を用意している︒一方で性教育を伝統的性道徳を守る

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のに利用しようとする勢家あり︑他方で﹁性欲と快楽の承認﹂をも目的とした性教育を追求する見辮あるなら・

性教育は︑子ども.親.教師.学校行政・外部の社会的集団を巻き込んだ﹁正しい性意識﹂をめぐる妥協を受け入れ

ない対立の場となる危険がある︒そのような恐れの中︑特定の性倫理を前提とするイデオロギー的教化に対する防壁

を十分野形で準備することなく︑むしろ一定の狙いを背後に隠した感のあるKMKの推薦がその後各ラントで実現さ

れていったことは︑非常に困難な課題を憲法学に投げかけた︒

 c ヨーロッパ人権裁判所性教育判決  ほぼ同時期にヨーロッパ人権裁判所では︑デンマークで一九七〇年国民

学校法により導入された性教育が問題となった︒子に対する性教育の授業の強制が自らの﹁キリスト教徒としての信

条﹂を侵害することを理由に︑この性教育が教育任務の遂行にあたり親の宗教的・世界観的信条の尊重を国家に義務       ︵11︶づけたヨーロッパ人権規約付属議定書二条二文に違反すると主張する親の訴願に対し︑一九七六年一二月七日に判決

    ︵12︶が下された︒この判決は︑その後のドイツにおける議論に影響を与えていく︒

 もっとも判決は︑議定書二条は授業の中で宗教的・世界観的性格の情報や知識の普及を国家に妨げず︑親の宗教

的.世界観的信条の無視として禁じられるのがイデオロギー的教化の目的の追求に限られる︵Zo●0︒︒馳ω﹂︒︒㎝︶との前提

から︑道徳的観点を含むデンマークの性教育も民主的国家が公的利益と見ることができるものの限界を越えてないと

認定し︵Z︒・㎝駆︒︒①h・︶︑性教育の議定書二条二文違反を簡単に否定した︒その際︑﹁イデオロギー的教化の目的﹂の概

念は曖昧なまま残され︑判決が不可避とした授業の宗教的・世界観的色彩から識別する基準は示されていない︒

 この判決で興味を引くのは︑むしろフェアドロス判事の反対意見である︒彼も原則として学校で性教育が行われ得

る点は認めるが︑自然科学の対象としての知識伝達と﹁性的行動に関する情報﹂の伝達とを区別し︑後者が生徒の良心

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公立学校と良心の自由(四)

形域に段わることを理由に︑穎がその領域で性教育に反対する法的可能性を肯定する︒その上で︑判決が議定書二条

二文の意義をイデオロギー的教化の禁止に限定したことを批判し︑実際に性教育が親の宗教的・世界観的な信条を侵

害するかを良心的兵役拒否の審査機関のような形で審査することが裁判所の任務であったとする︒こうした審査を想

定せず︑親の宗教的信条を理由に生徒を性教育の授業への出席義務から解放する可能性を認めないことにより︑当該

デンマーク法は議定書二条二文に反するとの結論がそこから導き出される︵ω﹄︒︒︒︒hh・︶︒

 避妊に関する問題まで﹁性的行動に関する情報﹂に含め︵ω・虹Oo㊤︶︑学校の性教育に親が異議を唱えられる範囲を広

く認めるフェアドロスの見解は︑カトリヅク教会に代表される一部保守勢力の意向に好意的な理論構成とも言える︒

国家の教育任務がもっと広範な知識伝達を直接正当化するため︑ ﹁性的行動に関する情報﹂を基準としたこの二分論

には疑問が少なくない︒しかし現実に学校の性教育により子を自らの信条に従って教育する可能性を奪われたと感じ

る親がいる以上︑親の信条の侵害を認定する基準に関しては︑判決多数意見のような素朴な論法では解決できず︑厳

密な考察を必要とする︒信条の侵害は個々の親の信条内容により異なった現れ方をするため︑フェアドロスが良心的

兵役拒否に似た個別的解放の可能性を問題にしたことは正当と言える︒このフェアドロスの立論は︑一年後の一九七      ︵13︶七年一二月二一日にドイツ連邦憲法裁判所がハンブルクの性教育制度に対し違憲判決を下す際にもかなりの影響を及

ぼした︒ d 連邦憲法裁判所性教育判決  この連邦憲法裁判所判決は︑ヨーロッパ人権裁判所の事例と酷似した性教育に

反対する親の憲法訴願に答えるものであった︒この判決で連邦憲法裁判所は出発点として︑性教育︵Qり︒×轟涛ロ巳①︶       靭を︑性に関する知識伝達と︑その知識を前提とした性的人格教育︵ω①×ロ巴臼風︒げ§σ自︶に区分した︵ω●①①hh・︶︒問題と

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なるのは︑KMKの推薦で言う価値観や良心の発達への教育が該当する︵oD・Φoo︶後者の性的人格教育である︒ここで

判決は︑ヘッセン進路指導段階判決で採用された国家の教育任務の独立性を前提に︑学校の教育任務が知識伝達に限

られず︑ ﹁個々の子どもを自己責任ある社会の構成員へと成長させることをも内容とする﹂もので人格的教育にも及      ︵14︶ぶとする︵ω為トっ︶︒これは性教育にも妥当し︑性的人格教育も学校の領域に属し︑学校での性教育に対し原則的な憲

法上の疑念は提起できないとされる︵ω.認h・︶︒しかし連邦憲法裁判所は︑そこから直接に結論を導き出しはせず︑性

教育を国家の学校監督︵基本法七条一項︶・親の教育権︵六条二項︶・子どもの人格展開の権利︵二条一項︶の緊張

関係の場に位置づけ︵QD・①㊤hh・︶︑衝突を解決するための出発点を﹁性的人格教育が原則として学校部門よりも親の領

域の方に親和性を持つ﹂ことに求め︵ω・胡︶︑親や子どもの基本権との関係で性教育が憲法上許容されるための基準

造りに積極的に乗り出す︒

 まず判決は︑性教育の授業が親と学校の間の調整の上に計画され︑実施されねぽならないことを強調し︑親の共同

決定権こそ否定するが︑教育権に基づき適切な時期に性教育の内容と方法につき包括的情報を求める権利を親に認め

る︵ω.謡h.︶︒さらに親は︑性教育の実施に際し良心の自由などに基づき学校に自制と寛容を求められるとされる︒

  ﹁学校は特定の性的行動を擁護したり否定したりする目的で生徒のイデオロギー的教化の試みを行ってはならな

  い︒学校は子どもの自然な葦恥心を尊重しなければならず︑親の宗教的・世界観的な信条が性に関する領域に作

  用する限りでそれらの信条に配慮しなければならない︵ヒd<Φ鼠Ω国傘&︹ミ︺︶﹂︒

この確認により︑ヨーロッパ人権裁判所判決ではあり得べからざるものと措定されながら内容が明確化されなかった

イデナ呈露ー的教化の概念に関し︑適用可能な基準が設定された︒この限界蹟越を監視する義務はまずは学校監督宮

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公立学校と良心の自由(四)

庁に課されるが︑親も﹁必要な措置を講じることができる﹂とされ︑学校が服する憲法上の限界が単に客観三次元の

問題でない点が明らかになる︵Φ9●︶︒さらに判決は︑親の教育権と子どもの基本権の観点から︑親が反対する場合

に性教育の授業から解放される可能性も問題にする︒性教育の授業が自制と寛容の中で行われることを理由に親や生

徒の同意は憲法上は必要ないとの立場が一応採用され︑性教育が単独の課目を構成しないことによる解放の困難が指

摘されるが︵ω・ミh・︶︑性教育が独立の課目あるいは単元として行われる場合に関し判決は判断を留保し︑そうした場

合に親の教育権や良心的対立の可能性を考慮した規律を形造ることを立法者の任務とする︵ω︒刈Qo︶︒

 判決は︑基本権に関する実体的論点でこのような推論を経ながら︑最終的には学校法の領域における法律の留保の

意義を問題とし︑単なる知識伝達に対し親が異議を唱えたバーゲン・ヴュルテンベルクの事例で親の訴願を退けなが

ら︵ω・︒︒登︶︑性的人格教育の場面で法律による規律を欠いていたハンブルクの事例ではこの性教育制度を憲法違反と       ︵15︶判断した︵ω.︒︒Oh.︶︒

 連邦憲法裁判所がこのように国家・親・子どもの基本的権利に関する検討を踏まえた上で性教育に関する原理的指      ︵16︶針を設定しようとした努力それ自体は︑学説上も比較的高い評価を得ている︒しかし︑性的人格教育を行う権限を学

校に認めながら︑イデオロギー的教化の禁止をかなり厳格に理解するこの連邦憲法裁判所の立場に対しては︑なおも

様々な観点から批判がある︒

 e 知識伝達と性的人格教育の区分  連邦憲法裁判所の立論は︑人間の性に関する知識伝達と性倫理に関係する

性的人格教育が分離可能で︑性教育が純粋に知識伝達のみとしても行えることを前提にした︒しかしこの分離可能性

に関する疑念こそが︑性教育の問題を繊細なものにしている︒

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 教育学の側面からはケントラーが︑知識伝達と性的な人格教育の必然的関係を前提に︑連邦憲法裁判所によるこの       ︵η︶区別が価値中立的な﹁科学﹂観に基づく誤りであるとする認識論的な批判を投げかける︒憲法学の枠内ではべッケン

フェルデが同様に判決を批判する︒彼も︑知識伝達と価値に結び付いた意味付与とが性のように人格的・実存的・倫

理的に刺激的な生活領域に関しては不可分であると指摘し︑性教育の授業が単なる知識伝達に還元できず︑必然的に

性の人格的・倫理的意味説明をも含まざるを得ない点を前提とする︒そこから彼は︑キリスト教共同学校判決に手が

かりを求めて国家の教育任務の中に意味説明的な性教育の権限をも取り込むか︑あるいは性教育の授業を宗教の授業       ︵18︶との類推で自発性の基礎に基づかせるかの︑二つの選択肢しかないと見る︒しかし︑現実に性的人格教育を国家の教

育任務に含めた上で自制と寛容を要求する連邦憲法裁判所が進んだ道は前者の選択肢とほとんど変わらず︑知識伝達

と性的人格教育の不可分性に関するベッケソフェルデの指摘も性教育に関する具体的な憲法上の評価に違いをもたら

してはいない︒

 知識伝達と人格的教育を厳密な意味で区分しようとした場合︑その境界線は確かに存在しない︒しかしそれでも︑

確立した知識を価値中立的な方法で提示する試みと︑子どもの性的な行動や意識に影響を及ぼすことを目的とした働

きかけとの間に憲法上の観点から相対的な区分線を引くことは︑必ずしも不可能ではない︒そして実際の問題は︑こ

の区別それ自体の正当性でなく︑知識伝達を主眼とした授業と人格的働きかけを目的とした授業それぞれの憲法上の

    ︵19︶限界にある︒

 f 人間の性に関する知識伝達  連邦憲法裁判所は︑学校での性教育が知識伝達の領域にある限り︑親権に基づ

く影響力行使は原則として排除され︑憲法上の観点から唯一問題になみのは子どもの人格権に対する配慮である蔵す

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公立学校と良心の自由(四)

      ロね る︵q︒胡︶︒この領域に関しては︑通知を求める親の権利を承認する見解が主張される程度で︑連邦憲法裁判所判決

に対する根本的な批判は少なく︑学校が通常の授業に関する権限の枠内で人間の性に関する事実を扱︑兄ることを否定

する見解はない︒

 知識伝達に関しては︑通常の授業に関する国家の教育任務に加え︑子どもに対する国家の保護義務からの付加的な      ︵21︶正当化も試みられる︒連邦憲法裁判所判決も引用する一九七三年のシュトーバーの論文は︑基本的には性教育に関し

親の権利の保護を重視する立場に立つが︑知識伝達の領域では︑性に関する情報への興味がコントロールされない道

筋にのることを回避し︑子どもを性的危険から守る目的を認め︑性に関する授業に対する国家の権利と義務を基本法      ︵22︶二〇条の社会国家条項などから引き出す︵ω.ααco︷h・︶︒

 このように人間の性に関する知識伝達が学校で行われても憲法上問題ないと考える場合︑ ﹁知識伝達﹂の範囲には

若干の問題がある︒連邦憲法裁判所は︑この知識伝達を生物学的知識を中心としながら社会学的情報を含むものと理

解した︵ω①①h・︶︒この範囲は︑﹁性的行動に関する情報﹂との対比で知識伝達を語るヨーロッパ人権裁判所判決フェア

ドロス反対意見より明らかに広い︒しかしフェアドρスの想定する狭い範囲の知識伝達では︑シュトーバーの指摘す

る危険防禦のための性教育が不可能になるし︑学校教育による知識伝達を求める子どもの抽象的な権利の範囲も親の

偏狭な介入により狭められる︒フェァドロスの立論の裏には避妊具や堕胎の存在を認めないカトリック教会の立場へ       ︵23︶の配慮があるが︑一定の事実を隠蔽した知識伝達では子どもが信条を形成する素材として十分ではない︒

 しかし逆に知識伝達を過度に広範に理解した場合︑親と子どもの基本権による防壁が崩れる︒ケソトラーは知識伝       朧達と人格的教育の不可分性を前提に︑連邦憲法裁判所の区分で言う性に関する知識伝達の範囲を広く取り︑価値に関

(12)

       ︵24︶係する問題についても﹁適切な性的行動﹂に関する科学的基準に基づいた情報提供が可能であると主張する︒しかし

この見解は︑結局無内容な﹁科学性﹂を振りかざしたイデオロギー的教化に道を開く︒たとえ﹁解放的目標設定とイ

デオロギー的教化は全く相反する﹂として科学性に基づく解放的性教育を擁護する試みがなされようとも︑学校がこ

のような﹁科学的﹂価値伝達の権限により取得する力の危険性に変わりはない︒

 こう考えれば︑親権による影響力行使が排除される純粋な知識伝達の範囲は︑倫理的指向性を持たない価値中立的

な素材の選択と提示を追求する︑知識伝達それ自体を目的とした領域と理解できるであろう︒この領域においても伝

達される素材の選択が生徒の発達度などとの関連で適当なものであるよう配慮すべきことは︑連邦憲法裁判所の判決      ︵%︶や多くの文献で指摘されているとおりであり︑知識伝達として正当化されているものがその範囲を越えた場合に性的

人格教育と同様に親と子どもの基本権による制約に服することは言うまでもない︒このように︑性教育を行う側の目

的を一つの手がかりに領域区分を行い︑実際の効果によって基本権的保護の程度を分けることが︑唯一現実的な対応

と言えよう︒

 9 性的人格教育の一般的可能性  良心の自由という観点から見た場合︑性教育に関する主要な問題は︑知識伝

達を越えた所で学校が性的人格教育の任務をどの程度引き受けられるかという点にある︒連邦憲法裁判所は︑性的人

格教育の可能性を肯定し︑その権限を知識伝達に限られない国家の教育任務から引き出した︒それにより︑国家の教

育任務が学校における人格的教育の権限を含むことが明らかにされた︒これに対する学説の評価は︑大きく分かれる︒

 この連邦憲法裁判所の確認を支持する見解として︑オヅパーマンの指摘がある︒もちろん﹁イデオロギー的に寛容

な学校を求める権利﹂を主張する彼は︑学校における人格的教育を全面的に認めばしない︒むしろ彼の狙いは︑この

364

(13)

公立学校と良心の自由(四)

確認により現実に学校で行われている人格的教育を憲法上の正当化連関に取り込み︑それにより客観法レヴェルで教      ︵26︶育任務の公正な遂行の委託に服させようとする所にある︒また性教育の領域で学校の人格的教育任務を承認する見解

に︑親が実際は性的人格教育を行っていないことを手がかりに︑子どもをマニピュレーションから守るには学校での      ︵卿×28︶性的人格教育が必要であるとするディーツェの見解もある︒

 さらに︑人格的教育を基本法七条の学校監督から直接に正当化するのではなく︑国家の中立性の例外とされる憲法

の価値決定を手がかりに承認する見解もある︒エーヴァースは︑国家が性道徳の領域で拘束的価値観を自らの権限で

発達させられないとして憲法上の十分な正当化を要求し︑婚姻・家族の保障︵基本法六条一項︶や人格展開の限界と       ︵29︶しての道徳律︵二条一項︶などから学校で拘束的な性道徳を導き出す可能性を承認する︒

 それに対し︑性的人格教育を親の教育権の対象となる領域と構成し︑この領域での学校の権限を否定したり︑ある

いは親の教育権による制約に服させる見解が対立している︒最も厳格な立場を採用するのは︑シュミット・カムラー       ︵3D︶である︒価値に関連した政治的・世界観的・道徳的教育が学校では許されないとする彼は︑性教育の領域でもこの考

え方を維持し︑特定の世界観的方向を持つ性教育をすべての親が一致して希望しない限り︑学校での性教育は任意に       ︵31︶出席を決定できる自発的授業にするか︑あるいは価値づけのないものにするかでなければならないと主張する︒また

シュトーバーも︑国家・学校は親の宗教的・倫理的な基本的立場を尊重せねばならず︑良心の自由の問題となる性の

領域における善悪の決定に関し子どもに影響力を行使できないという前提から︑知識伝達を越えた性教育が学校に導      ︵鎗×詔︶入されるなら︑宗教の授業と同様に扱われ︑出席義務が否定されるべきであるとする︒

 もっとも︑連邦憲法裁判所も性的人格教育の権限を学校に無制限に認めたわけではなく︑判例を支持する見解も生

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(14)

徒.親の基本権による制約を考慮している︒また性的人格教育を批判する見解も︑参加強制が許されないと指摘する

に留まり︑学校での性的人格教育が一切許されないと主張するわけではない︒そのため︑問題はむしろ︑性的人格教

育の具体的な形態と︑それに関する生徒・親の参加決定権に関するものに移る︒

 h 性的人格教育の条件  連邦憲法裁判所は︑性的人格教育が許される条件として自制と寛容を挙げ︑特定の性

的行動に対する擁護・拒否を目的とするイデオロギー的教化が許されないとする︒この点に関しては︑エーヴァース

と同様に基本法の価値決定から学校で拘束的な価値を引き出せるとするオッパーマンの批判がある︒彼は︑婚姻・家

族の保障から出てくる﹁性の通常の目的性﹂を教えることが﹁特定の性的行動﹂の擁護につながるイデオロギー的教

化となるのかという疑問を判決に投げか岐判決が・の論点を落したことで不完全なものにな・たと主張す躯

 この疑問は︑確かに連邦憲法裁判所の判決を理解する上で困難な点を指摘する︒特定の性的行動の擁護がイデオロ

ギー的教化になり許されないという判決の原理は︑そもそも性的人格教育をすべて不可能にするだけの射程を持ち得︑

それを考えれば連邦憲法裁判所がこのイデオロギー的教化の禁止を本気で実現しようと考えているのかにさえ疑問が

生ずる︒・の謎を解く鍵は︑性教育の中での悪徒との対話Lを重視するKMKの推撃中に潜んでいるとも考えられる・

教師が一方的に壇上から生徒を教える性教育の授業をイメージする限り︑イデオロギー的教化の禁止された性的人格

教育は︑せいぜい教師が様々な考え方を並列的に紹介することによってしか実現できないであろう︒むしろ生徒同士

の議論やグループ作業を通じて生徒自身が自らの立場を獲得するような授業の進め方により初めて人格的教育が有意

義に展開し︑そうした授業形態まで可能性に含めた上でイデナロギー的教化の禁止を理解する必要がある︒

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公立学校と良心の自由(四)

 教師の権威により唱方的に特定の価値観を生徒に押し付けるイデオロギー的教化が禁止された上で︑生徒に自分で

考えさせることを通じて人格的な教育目標を追求する方法まで考えに入れて性的人格教育の許容性を問題にするな

ら︑そのような授業が生徒の良心形成に権力的に働きかける契機はさほど多くない︒そして連邦憲法裁判所の立場に

よれば︑このイデオロギー的教化の禁止に鮒する違反がないように監視する権限は︑学校監督官庁のみならず︑個々

の親にも帰属する︒客観法的な次元を考えれば︑このような形による性的人格教育の導入には︑憲法上の問題はない

と言えるであろう︒

 i 性的人格教育と生徒・親の基本権  最後に問題になるのは︑そうした形の性的人格教育の授業が生徒.親の

基本権とどう関わるか︑一般的に基本権侵害として憲法上禁止されることはないとしても︑個別の場合で生徒の良心

の自由や子の良心の発達に責任を持つ親の教育権を侵害する場合がないかである︒

 ドイツでは︑この観点の下で性教育からの解放可能性が問題とされる︒シュトーパーは︑性教育が宗教的.良心的       ︵%︶問題と様々な点で結び付くため︑学校に導入するなら宗教の授業と同様に扱われねぽならないとした︒フェアドロス

の反対意見も性教育が親の信条を侵害する場合の個別的解放の可能性を認める︒世界観的教育に関する親の単独での

管轄や︑知識伝達への国家の教育任務の制限を指摘して︑性的人格教育が学校に導入されるならそれは自由選択課目       ︵訂︶としてしかあり得ないとする見解もある︒

 このような考え方に対し︑基本法七条二項で保障された宗教の授業に関する親の決定権が基本法四条一項の信仰の      ︵認︶自由から派生し︑正規の教科である他の授業に拡張できないとする反論がある︒しかし︑宗教の授業も正規の教科と       矧して扱われることは前章で見た︒また︑性的人格教育も同じく基本法四条に保障された良心の自由に関係すること

(16)

は︑これまで強調してきたとおりである︒これらの点を考えれば︑この反論もさして意味をなさないと言える︒

 連邦憲法裁判所が親の参加決定権が憲法上必要ないとした前提には︑自制と寛容の枠内で行われる性的人格教育が

生徒に一定の倫理的態度を押し付けず︑従って子どもの良心の自由や親の教育権を侵害することがあり得ないとの想

定があると理解できる︒ただ︑判決が出席義務からの解放を全く問題にしなかったわけではなく︑性的人格教育が単

独の課目あるいは単元として行われる場合に﹁良心的衝突を考慮に入れた規律﹂を作成することを立法府の任務とし

た点は注意を要する︒連邦憲法裁判所も︑自制と寛容に支配された性的人格教育がなおも良心の自由と抵触する可能

性を否定せず︑そのような授業が親の意思に関わりなく貫徹されるべきであるとの立場を採らずに︑個別的な解放の

可能性に含みを残した︒

 ﹁自制と寛容﹂さえ守られれば親・子どもの信条に影響せず︑良心の自由の観点から問題が生じないとする想定

も︑ある意味で楽天的に過ぎるきらいがある︒ 一般的に問題になり得る性倫理的論点につき中立的であろうとして

も︑個人の倫理観はあくまで多様で︑特殊な信条を持つ親や生徒との関係で問題が生ずる可能性は常に排除できな

い︒純粋な知識伝達の領域で特殊な信条に基づく親の影響力行使が排除されるとしても︑国家が性的人格教育の領域

に踏み込めば︑親や子どもの意思に反して子どもの信条に働きかけることは許されない︒そして︑人格的教育の場面

で特定の行動の善悪に関する判断を差し控えることは困難で︑イデオロギー的教化の危険性が非常に高いことを考え

ても︑性的人格教育の授業に関する親・生徒の参加決定権は︑良心形成の自由を維持する上で必要であると考えられ

る︒超課目的授業原理としての性教育につきこの参加決定権の保障を不要とした連邦憲法裁判所の立場は︑なおも良

心の自由の観点から見て不十分と言える︒

368

(17)

公立学校と良心の自由(四)

 ﹂ 総括  性教育の問題に関するここでの考察から︑宗教的領域の問題を離れた通常の授業に関しても︑世界観

的・倫理的に争いのあるテーマを学校が扱う場合︑子どもの良心形成に作用する危険が高く︑子どもの良心の自由や

親の教育権などの基本権が学校に対して制約を課すごとが明らかになった︒

 まず第一に︑連邦憲法裁判所判決で理論化されたイデオロギー的教化の禁止が守られなけれぽならない︒性的人格

教育がイデオロギー的教化になるメルクマールは︑特定の行動に対する擁護・拒否といった評価が一面的に伝達され

る所に存する︒そのため︑仮に学校が特定の態度を生じさせることを目的として人格的教育の領域に立ち入る場合で

も︑授業で特定の価値観の一面的な伝達は許されない︒教師は︑生徒の間の議論の問題提起者か︑価値中立的な立場

に立脚する媒介者に徹しなければならない︒

 そのようなイデオロギー的教化の禁止は︑人格的教育の領域で学校の活動が許されるための最低限度の条件とも言

える︒イデナロギー的働きかけを防止する予防策のない所で人格的教育の領域に踏み込むことは︑国家の世界観的中

立性という客観法的原理からも︑また親や生徒の基本権からも許されないであろう︒

 その上で︑世界観的・倫理的色彩を持つ授業からの解放の可能性を考える必要がある︒授業に関する親・生徒の参

加決定権は︑基本法上は宗教の授業に関してしか保障されていない︒しかしここでは︑ドイツの学説上︑性的人格教

育が問題になる場面でもそうした保障の必要性が主張されていることを見た︒個人の良心内容が多様で︑親の信条が

必ずしも事前の予測の範囲内に収まり切らないため︑教師がいくら中立的であろうとしても限界がある︒そのため︑

性教育の授業が親や生徒の信条と衝突する可能性がある場合には︑その授業への出席義務から免除される可能性を考       鵬えなけれぽならない︒良心の自由に基づく授業への出席義務からの解放可能性という本稿の作業仮説が宗教の授業以

(18)

外でも一応考慮に価することが︑性教育に関するここまでの考察から明らかになった︒       m それでも性教育は︑倫理的・世界観的含意が比較的明白であり︑新たな問題として親にも省察を迫る契機となった 3

点で︑一種特殊な領域である︒もっと一般的な課目における子どもの良心形成の自由に関しては︑さらに具体例の検

討を続ける必要がある︒

        ニ ノルトライソ・ヴェストファーレソ政治教育指針

 a カリキュラム改革運動と政治教育指針  授業の内容や方法は︑ドイツでは伝統的に我が国の指導要領に当た

る︑学校行政官庁が策定する﹁指導計画︵い①げ6冨口︶﹂で規律されていた︒その際伝統的な指導計画は︑長い間の実       ︵39︶務から発達してきた課目の体系に依拠し︑教育目標と具体的素材の関係に関する詳細な記述を欠く場合が多かった︒

それに対し︑学習の目標を明確な形で意識した上で︑その目標を実現するための最良の教育方法の探求を目指す教師

と教育学の努力が︑カリキュラム改革運動に現れる︒ここで﹁カリキュラム﹂と呼ばれるのは︑学習の結果として取

得される能力・知識・技能を﹁資質︵O猛一叢冨ユ8︶﹂と呼ばれる学習目標の形で具体的に定義し︑その資質を実現

する学習方法を科学的に構想する際の︑目標設定・学習・成績評価を包括する一連の学習手続を総称する概念であ

︵40︶る︒

 このカリキュラムの観念は︑もとは規範主義的教育観に対するアンチテーゼとして生徒の﹁解放﹂と﹁成熟性﹂を      ︵41︶指向して﹁支配のない学習状況を可能にする﹂ことを狙い︑生徒の参加を実現した教師の共同研究により具体的な授      ︵覗︶業の方策を練るという方向性を持っていた︒しかしその後︑SPD︵社会民主党︶が政権を持つラントでこう上燗夢

(19)

公立学校と良心の自由(四)

法が採用され︑従来の指導計画に代おり学習目標としての資質のカタログを含むカリキュラムが学校行政官庁により

規範的指針として提示されるようになると︑この手法は憲法上の問題を構成する︒社会科学的な課目における学習が

特定の価値を体現する﹁態度﹂を指向することから︑国家・学校が資質という形で表現される価値的態度を生徒に押

し付けていいのかという問題が生ずるからである︒社会観・制度観は︑個人の信条形成の核となる︒思想形成の自由

をとりあえず問題にしない本稿の問題設定から見ても︑社会に対する特定の意識や態度の強制は自分の行動の善悪に

関する評価に結び付き︑必然的に良心形成の自由に関わる︒

 この問題は︑ドイツ憲法学でもまだ十分な考察を経ているとは言い難い状況にある︒ここでは︑この問題に関する

具体例をノルトライン・ヴェストファーレンの政治教育指針に求め︑この指針に対する批判の中から憲法上の論点を

拾っていきたい︒ただ︑性教育がある程度独立の問題領域を構成するのに対し︑この政治教育指針は教育目標や授業

内容の決定権限に関する広範な問題領域と密接に関わるため︑政治教育指針に関する全般的な評価は次節に譲り︑こ

こでは議論の中で現れた問題点を指摘するに留めたい︒

 b ノルトライン・ヴェストファーレン政治教育指針  ノルトライン・ヴェストファーレン文化省は︑一九七三

年に社会科や公民科などを統合して政治科を新設し・指導計画に代わる政治警指針を公表し塗翌年にはこの初版

に対する批判を考慮に入れ憲法や法秩序に対する政治教育の関係に関する説明等を補・た第二版が出され馨

 この政治教育指針は︑十の資質を政治教育の目標として設定し︑資質の内容となる第一次的学習目標︑第二次的学

習目標とをそれぞれ列挙し︑学校で扱われるべきテーマを資質との関係で設定する︒ここでまず問題となるのは︑資

質のカタログである︒初版と第二版ではこの点につき細かい相違しかない︒ここでは初版から引用してみよう︒

371

(20)

﹁資質一 強制や支配関係を含む社会的・政治的秩序を無批判に受け入れるのでなく︑その目的と必要性を問い︑その基礎に      72   置かれた利益︑規範︑価値観を批判的に吟味する能力と覚悟︒      3

資質二 社会的過程や支配関係に影響力を行使する機会を認識し︑利用し︑拡大する能力と覚悟︒

資質三 言語的・非言語的コミュニケーションのイデオロギー的背景を見通す能力と覚悟︒

資質四 代替的な政治的選択肢を考え︑立場を鮮明にし︑必要な場合には制裁の圧力にもかかわらず決定を実現しようとす

   る能力と覚悟︒

資質五 自らの権利や利益の状況を省察する能力︑他者と連帯しつつも要求を実現する覚悟︑及び︑社会的な必要性を自ら

   にとっての必要性と認識し︑必要な場合にはその社会的必要性を自らの私的利益の充足よりも優先させる能力と覚

   悟︒

資質六 対立の社会的機能を認識する能力︑及び︑適切な考え方を選択することによりその対立の調整に参与する覚悟︒

資質七 他者の妨げにならない限りで自らの幸福の要求を歪曲化から守り︑実現する能力︑及び︑このことを他者にも認

   め︑可能にする能力と覚悟︒

資質八 個人的・社会的な問題に関して自らのイニシァティヴを発展させ︑実現可能性を常に吟味しながら︑その実現に向

   けて適切な道を進む能力と覚悟︒

資質九 様々な社会的集団の構成員として働き︑その集団の要求や期待に対して開かれ︑自我像︵アイデンティティー︶に

   対する負担に耐え︑自我像の変化および拡大の可能性を利用し︑他者にも認め︑可能にする能力と覚悟︒

資質十 他の社会に対する偏見を打破し︑その相違の条件を認識し︑必要な場合には不利な状況にある者のために立場を選

   択し︑公正な平和秩序のために自らの社会の構造変革を受け入れる能力と覚悟︒﹂

このような資質は︑

になる︒ さらに学習目標に細分化される︒たとえば︑ ﹁資質一﹂の下での第一次的学習目標は以下のよう

(21)

公立学校と良心の自由(四)

﹁学習目標﹁・﹁

学習目標一・二

学習目標一・三 社会的強制と支配関係を分析する能力︒受け入れられる支配関係や社会的強制に適応する能力︒

受け入れられない支配関係や社会的強制に抵抗する能力︒﹂

 すでにここまでの引用から︑この政治教育指針で目標とされているものが︑単なる知識や技能の取得ではなく︑特

定の人格的な態度に関係することが明らかになる︒これらの人格的理念は︑人間を既存の社会的制度に服従させる方

向性を持つものでなく︑個人の解放と社会の民主化を指向している︒にもかかわらず︑これらの資質が他律的な規範

として生徒に押し付けられるなら︑本来の意図とは逆に︑生徒に一定の価値を押し付け︑生徒に対するイデオロギー      ︵45︶的教化を意味する可能性さえある︒この点が︑この政治教育指針が幅広い議論を巻き起こす原因となった︒

 c 政治教育指針と憲法上の教育目標  ラント法の次元で学校教育が問題になる場合︑ラント憲法で規定された

教育目標に関する規定の効力が問題になる︒ノルトライン・ヴェストファーレン憲法は︑七条に以下のような教育目

標に関する規定を置く︒

  ﹁第七条 ①神への畏敬︑人間の尊厳に対する尊重及び社会的行動への覚悟を呼び起こすことは︑教育の最優先

  の目標である︒

   ②青少年は︑人間性︑民主主義及び自由の精神︑寛容と他者の信条の尊重︑自然的生活基礎の維持への責任︑

  国民と祖国への愛情︑国際共同体と平和的信念へと教育されなけれぽならない︒﹂

政治警指針の特徴として︑・のラン・憲法の馨目標規定に一切の一言及がない点が指摘さ焔政治警指針がラ      73ントの憲法制定者や立法者の意思を飛び越え︑憲法上の正当性がないままに特定の価値を内在した学習目標の領域に 3

(22)

踏み込むものと批判さ輪・.また具体的には・社会的対立の過度の籍が博愛や寛容などの教言標をな誓りに

し︑ ﹁批判能力﹂や﹁解放﹂の名の下に社会的制度や義務を﹁強制﹂として問題卜する否定的態度への指導がラント      ︵48︶憲法の教育目標規定に違反する結果になる表面的な批判であるとされる︒もっとも︑この批判はラント憲法の教育目

標規定がラントの行政を拘束することを前提にするが︑教育目標規定の抽象度が高く︑様々な解釈を許すことを考︑隣

れば︑政治教育指針が憲法上の枠を逸脱したと断定できるかには疑問なしとしない︒

 d 政治教育指針と基本法の価値秩序  同様の批判は︑基本法との関係でも主張される︒学習目標一.三との関

係での資質一や資質四は︑法秩序への抵抗を煽動するものと理解され︑基本法の国家秩序に対する抵抗までが資質の      ︵49︶内容とされる点で基本法に反するとされる︒さらに︑資質七における社会的対立の強調に対しては︑社会的コンセン      ︵5D︶サスの意義や対立にもかかわらず維持される憲法改正の限界を無視するとの批判がある︒もっともこの点に関し︑対      ︵51︶立克服への教育が不可欠なことを指摘する反批判もある︒

 こうした実体的価値に関する批判は︑ラント憲法の教育目標規定に依拠した批判と同様︑政治教育指針の内容とす

る価値を憲法違反と指弾するのに急で︑価値の不一致の法的効果に関する論点を飛び越し︑必ずしも憲法上の評価と

して必要な論証手続を経ていない︒そこから︑このような批判が社会の民主化という目標それ自体に対する保守的意

識に規定された政策上の反論を越えているかに疑念が生じ︑政治教育指針に対するこうした批判が﹁誤解を招く表現       ︵52︶に対するあら捜し﹂に過ぎないとの指摘を許す結果を招いている︒

 政治教育指針も︑憲法上の正当化を考慮してはいる︒初版でも文化大臣による序文において︑ ﹁ドイツ連邦共和国      ︵53︶の自己了解から発展﹂した資質が﹁憲法を理解した上で解釈されるべき﹂ことが指摘される︒さらに第二版は︑批判

374

(23)

公立学校と良心の自由(四)

       ノ りしを意識し︑導入部に﹁政治の授業と憲法および法秩序の関係﹂と題された節を設け︑基本法秩序の意義を強調した︒       ︵駒︶確かにこれは︑ ﹁後づけの修正﹂の感を免れるものではない︒しかし︑これによってもなお政策論的な水掛論に陥る

ことなく教育目標の実体的価値それ自体の点で憲法違反を主張できるかには︑疑問がある︒

 e 政治教育指針と信条の強制  仮に政治教育指針が指向する価値の違憲性が問題になり得ないとしても︑価値

に拘束された態度を授業の目標とし︑成績の基礎として生徒に強制できるかどうかは︑別途考察を必要とする︒確か

に政治教育指針の第二版は︑上述の修正点の中で︑ ﹁イデオロギー的教化や説得は︑政治的なものを学ぶことの教育

目標に反する︒⁝⁝学習者が様々な価値を受け入れることができるのは︑当然である︒自由な学習は︑希望していた       ︵56︶価値が拒否される危険性を含む﹂と述べ︑政治教育指針がイデオロギー的教化を目的としていないことを強調する︒

しかし︑価値に拘束された﹁能力と覚悟﹂を授業の目標とするこの指針の性格は︑この修正によっても変化していな

い︒仮に政治教育指針が憲法上の教育目標を具体化したものとして提示されたなら︑問題は価値的態度を含む憲法上

の教育目標を生徒に対する直接の強制をもって実現する行政府の権限に関するものになり︑複雑な文脈に置かれたで

あろう︒しかし政治教育指針は︑最初からそのような正当性の主張を放棄していた︒

 この点に関し政治教育指針に対する憲法学上・教育学上の批判は少なくない︒この観点で国家の中立性あるいは非

同一化の原理の意義を強調するのがトムシャットである︒彼は︑信仰・良心の自由などの意義を指摘した上で︑国家

が現実に存在する政治的潮流に対して開かれている必要があり︑優位を争っている社会的集団に国家的手段をもって       ︵75︶介入し︑その中の特定の考え方と同一化することは許されないと主張する︒政治教育指針の初版に批判の矛先を向け       75たクローヴァインも︑同様の観点を寛容の原則から導き出した︒彼は︑ノルトライン・ヴェストファ!レン憲法の教 3

(24)

育目標規定を手がかりに寛容の意義を強調し︑そこから﹁対立する見解が存在する価値問題に関する内容的確定は︑

学校の授業では原則的に回避されるべきである﹂との原則を設定す麺薄塗シ・タルクは・基本竺条と二条の人      ︵59︶問の尊厳と人格展開の保障が国家の指導計画・枠組指針に自制を要求すると強調する︒       ︵69︶ 教育学の側面からも同様の批判がある︒玉戸ゼッケは︑カリキュラムを生徒操作のためのものではなく︑教師と生

徒の知的作業を共同で計画化するためのものと理解する︵ω.一トっOh.︶立場から︑政治教育指針を批判した︒その中では︑

政治教育指針の正当性の欠如という問題︵ω.︒︒温・︶と並び︑政治教育指針が個人のアイデンティティーの形成あるい

は変革を目的としている点が問題にされ︵ω.︒︒Φh・︶︑ ﹁国家は国民の思考を内容的に規律する権利を持っていない﹂こ

とが強調される︵ω・日bっO︶︒これには政治教育指針の策定に携わった指針委員会の構成員による反論が添えられてい

る︒しかしそこでは︑政治の授業が中立ではあり得ず︑ ﹁民主的社会の維持と改良の方向を示すこと﹂を課題として       ︵61︶いることが意識されており︑学校における生徒への直接的な価値的態度の強制が子どもの基本権や国家権力の客観法

的限界などの観点で問題になり得ることの意識が指針委員会に欠けていることを明らかにしている︒政治教育指針の

目指すものがイデオロギー的教化ではないと繰り返されるが︑資質や学習目標の習得を目的とする政治教育がイデオ

ロギー的教化にならないのは︑この政治教育指針に基づく授業が失敗した場合だけであるとも言える︒

 f 総括と次節の課題  ドイツでもノルトライン・ヴェストファーレン政治教育指針や︑それと類似の問題を含

むヘッセソ社会科枠組指針に関する議論から︑学校教育における子どもの人間の尊厳や人格展開の権利︑そして良心

の自由︑さらにはそれと関連して国家の中立性や非同一化の原理の意義が憲法学で再発見される結果となった︒第一

章で紹介した﹁イデオロギー的に寛容な学校を求める権利﹂︑なども︑一九七〇年代に登場したこのような問題を背景

376

(25)

公立学校と良心の自由(四)

に唱えられている︒

 政治教育指針は︑学習目標の価値指向性を明確化することにより︑価値指向性を持った授業の許容性と限界に関す       ︵62︶る問題を新たな形で設定した︒しかし︑伝統的な指導計画に基づく授業も︑その伝統の故にともすると見過ごされが

ちであったが︑国語のテクストの選択と解釈が特定の世界観や価値観から離れてあり得ないこと一つを例に取ってみ

ても明らかなとおり︑価値中立的ではあり得ない︒政治教育指針が投げかけたのは︑実は︑伝統的課目体系にも当て

はまる問題であった︒

 そのため︑政治教育指針に関して提起された問題は︑学校における授業がどの程度の価値指向性を伴い得るかとい

う一般的な問題領域の中に位置づける必要がある︒ここでは︑政治教育指針に関する議論で獲得されたこの問題を考

察する上での手がかりを確認するに留めたい︒

 まず第一に︑ラント憲法の教育目標規定の意義が問題になる︒上で見たノルトライソ・ヴェストファーレン憲法の

ように︑多くのラント憲法は一定の価値観を体現した教育目標規定を含んでいる︒そこから︑そこで表現される価値

観を具体化する点に正当化を求めながら︑授業の中で生徒に特定の価値観を強制することが許されるかが問題にな

る︒これは︑具体的な授業の中でも︑指導計画の策定の次元でも問われなけれぽならない︒

 第二に︑国家権力に対する基本法上の制約の問題がある︒ラント憲法の規定は︑基本法に反しないよう解釈されね

ばならない︒そのため︑仮にラント憲法の教育目標規定が一定の価値観を含んだ授業を授権するように読めても︑そ

れが基本権侵害という結果を招くなら︑そうしたラント憲法の解釈は許されない︒同様の点は︑ノルトライン・ヴェ       77ストファーレン政治教育指針の場合のように︑ラント憲法の教育目標規定に依拠せずに学校行政や教師が特定の価値 3

(26)

的・世界観的な方向性を持つ授業を実現する場合にも問題になる︒       78 そしてこの基本法上の拘束として考察されるべきなのが︑子どもの基本権︑人格の自由な展開の権利と良心の自由 3

であり︑非同一化の原理という意味での国家の中立性である︒政治教育の文脈では親の教育権という論点を指摘する

文献は多くないが︑宗教教育や性教育に関する問題と同様︑授業の世界観的指向性一般に関する問題においてもこの

論点は当然重要な意義を持つ︒ここで節を改め︑こうした問題の考察に進みたい︒

︵1︶ 竃・O巳房︒戸∪δ<o円貯ω叢話9︒♂諺自画話σqo傷興巴ω跨ぎ畠臼巳ω︷貯巳︒しd一置巨αqωお8﹁βZ㊦⊆o留巳巨巨σq一ω︵H竃ω︶噂

  ω.︒︒ら①hh●この論文では︑この時期に続き憲法から教育政策的な方向設定的意義を引き出す試みがなされる時期が続くこと

  も併せて指摘される︒

︵2︶ こうした﹁近視眼的﹂な憲法の利用を教育政策に関する議論の中で戒め︑内容的意図に距離を置いて議論すべき点の指摘

  に︑閏・9Φωoo屏ρヨ臼①ωg匿︒\○粛︒<野口oB霞\目8口ρ勺叫q蹟︒σq坊9①出口住O巳一器9Φ団口口吋白眉g︿o口男一6冥=巳ΦP

  Z窪Φω日巨巷αq置︵一ゆ置︶ω.︒︒︒︒⁝=・O口筐ω︒拝9︒・鉾Oごω・︒︒㎝O︵具体的な教育政策的要求にたどり着くことを量的にし

  た憲法解釈に向けられたものではあるが︶︒

︵3︶ この問題は特に︑避妊具の使用や堕胎を禁じ︑伝統的な意味で厳格な性道徳を信者に義務づけるカトリックを熱心に信奉

  する親に関して生ずる場合が多い︒この立場からは︑避妊具の存在や堕胎の可能性を示唆するだけで不道徳に陥ることにな

  るのであろう︒

︵4︶国曾と・拙くΦβb勘切さ吋蕊詠§勲§§Nミ舞岡轟§肉q§寧N§§讐Nミ§§職ミ黛ミミ⇔二塁§O§︑︑円きミさ

  切①島口おおω・H一ト⊃戸

︵5︶ 前掲︑第一章第三節一b︵本誌四〇号二六七頁︶参照︒

︵6︶国日嘗9ぎ躍︒昌N霞ωo×轟一2艮9β嶺置島︒口の島巳︒ロ曽謬︒匡島9﹃国巳ε︻自賠ω8艮8剛08自ぎ言ω﹂9日目㊥Q︒リヨ

(27)

公立学校と良心の自由(四)

  ω鋤ヨ日宣昌σq①口α卑切︒ωo黒門ωωΦα曾︒︒薮昌陸αqo昌国︒口h臼︒口N自①目国巳ε﹃ヨ一三2①﹁畠魯ピ邸昌山︒♪bd倉目︾守ωoげ一㍉Zさ①㎝ρ

︵7︶ 同様の評価を強調するものに︑↓FO宕︒﹃日き戸Oδ雪田ず巴げげΦ毛似一江αQ8ωo×口巴①﹁臨①げ§9q・旨N旨㊤﹃︒︒・ω・b︒ゆO・

︵8︶ 後述の連邦憲法裁判所性教育判決も︑KMK推薦にそのような意図があったことをあらためて確認する︒ じd<o焦O国心8

  &︵刈切︶・

︵9︶国・国8二①5ω①×轟δ戦臨Φピ凝い冨bdくΦユO短目儀︸bdHり︒︒9◎o﹂ミh・

︵10︶ 国①口菖︒き①げ畠.層ω●一〇〇〇・

︵11︶ ﹁国家は教育・授業の領域で受け入れた任務を行使するにあたり親の権利を尊重しなければならず︑親の宗教的・世界観

  的な信条に従った教育・授業を確保しなければならない﹂︒

︵12︶ 国O竃図局ゆ=夙器匡ω①Pじd窟ω ︼≦餌住ωo目三口住剛︒匹臼ωoPd二①旨く︒日﹃・愚レO♂噂凶ロ国賃O国N煙り刈①層ω﹄刈Go●

︵13︶ 切く︒匡O国ムメム①・

︵14︶ 判決の該当部分は︑第一章第一節二a︵本誌四〇号一=四頁︶に引用した︒

︵15︶ この学校法における法律の留保の意義と﹁本質性理論﹂については︑次節で触れる︒

︵16︶ この判決をベッケンフェルデは﹁ソロモン的裁き﹂と呼び︑オッパーマソはこの判決を﹁用意周到﹂と評価する︒切αo犀①亭

  hα﹁住Φ嘘固8同ロδoげけ1閑Φ6ぼけユ⑦o︒国ぎ島①の一男oo巨益Φ︒︒ω雷讐09ぼ国ω6︒oロ︒巴O霧づ感︒げoN障ヨ目ず①日pω富讐ロロ畠

  国冒︒げO噂切F辰︵δQoOソω.Qo㊤⁝O℃霊﹃ヨ9昌戸餌も●O﹂ω﹄Qo㊤.

︵17︶ 内︒昌昌05⇔・9ρ.Oごoo.HQ◎Ohh・

︵18︶ じdo80皆︒ロh驚住ρ9.戸Oごω.Qo㊤︷h・

︵19︶ 国く①諺讐凶b・O・讐ω﹂HGQ.

︵20︶ 国く︒﹁ω.oげ侮﹂ωレ置・

︵21︶ 閃.ω8げ︒おωo×ロ巴匿ロロ畠︒ロ貯像︒目ωoげ巳︒昌噌一UO<HO刈ω層ω・αα幽・

︵22︶ このような点は︑憲法上の正当化としてではないが︑性教育の機能として連邦憲法裁判所の判決でも指摘される︒鵠く9や

  O国駆メ腿①︵①刈︶・同旨︑ ピ・U凶①訂ρく︒蹴m日置ロoqωh﹁β︒oqΦβδヨ臨90ユ︒昌菖①﹁8鴇O霞ユ〇三ρ∪<切一・一⑩刈α・の.︒︒⑩︒︒●       79       3︵23︶ <o毎r︸.ω07ヨ津護国簿曇日冨↓●肉黛ミ識ミ︒ミ鷲ミ⇔轟ミ画院鼻霧肉︑畿罫畿例題︑ミミ§り隷§§O︑賦碁防ミきじ口〇二冒 OQoQ◎ω.OoH.

(28)

  ﹁基本法六条二項を通じて主張できる︑存在する事実を授業から排除するよう求める親の世界観的な権利は存在しない﹂︒       80︵24︶ 区OロニΦお⇔.O.Oごω﹂QQH.      3

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︵28︶ その他︑同様に性に関する特定の態度への教育を肯定するものに︑ 国・竃自︒さ∪冨竃︒言§σqωh円①ぎ︒謬qΦω冨寓①屋雪

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︵30︶ シュミット・カムラーの見解については︑第一章第一節二a︵本誌四〇号二一三頁以下︶における検討を参照︒

︵31︶ ωOげヨ騨マ国9菖日8きρ層・O・噂ω■oQbo・

︵32︶ ω8げ①お帥.僧○ごω陰㎝㎝①自.

︵33︶ その他︑同様に拘束的な性的人格教育の権限を否定するものに︑国㍉≦.ωo匡β肉︑肺ミミぎ恥肉︑N馬簿§題︑ミミ§叙無§㍗

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︵34︶ O℃弓㊦機8曽昌PP・僧Oごω・bo㊤H・

︵35︶ 国﹈≦国輝9◎.9Ω・Oごω●一・

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︵37︶ ωoげ巨け雫国曽日巨︒♪⇔﹄・O・りω・︒︒b︒齢同旨︑ω6巨昼餌・曽.O・−ω﹂目Oh・

︵38︶ 寓三冨♪β◎・鋤・Oごω・GQOQ.

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︵40︶ OF↓08二ωoげ讐讐∪興ω冨卑臨︒ゴαq①覧鋤巨︒切紆αq①5貯聞◎D.h.国﹂≦①昌N①国里︒ユ貯b刈αω.bっもoh・⁝い園霧︒﹃①二旧Oロ﹃ユ︒巳偉ヨー

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︵42︶ 〇一霧φoぎ︒層ρ僧Oごω︒◎oO⁝閃霧︒げ①二噸餌.POJω●ωbり覧h㌦.

参照

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