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公 立 学 校 と 良 心 の 自 由 ( 三 ) i ド イ ツ 連 邦 共 和 国 に お け る 国 家 の 教 育 任 務 ・

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公立学校と良心の自由︵三︶

iドイツ連邦共和国における国家の教育任務・

    親の教育権・子どもと親の良心の自由1

西 原 博 史

  目 次

序章 問題提起

第一章 国家の教育任務と親の教育権

第二章 公立学校と宗教

 第一節 国家・学校・教会

  一 問題状況

  二 国家の宗教的中立性と学校

  三 公立学校と国家の宗教的中立性

 第二節 学校領域における宗教的問題

  一 宗教の授業

  二 学校の宗派的形式

  三 学校における始業の祈り

  四 その他の宗教的問題 ︵以上︑四〇号︶︵以上︑四一号︶

早稲田社会科学研究 第42号  91(H3).3

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 第三節 中間考察−学校儀式と良心の自由

  一 第二章のまとめ

  二 良心の自由と世界観的学校行事

    一我が国における問題との関係で

第三章 学校における世界観的問題

終章  問題解決の手掛かり ︵以上︑本号︶

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        二 学校の宗派的形式

 国家の教育任務︑親の教育権︑信仰・良心の自由︑国家の宗教的・世界観的中立性などの論点が複雑に絡み合い︑

ドイツ戦後憲法学の最大の論争点となった問題の一つが︑公立学校の宗派的形式の問題であった︒六〇年代後半に頂

点に達するこの議論を理解せずには︑学校領域における良心の自由に関するドイツ憲法学の到達点を正確に掴むこと

はできない︒

 とは言え現在この問題は︑以前ほど尖鋭な形で争われていない︒多くのラントで共同学校︵∩ΨΦ5PΦ一コωOげ拶h一ωωOげ二一①︶

が唯一の学校形式となり︑宗派学校︵ゆ①閃①コ三巳ωω︒げ巳①︶支持者は私立学校を利用する方向にある︒宗派学校制度に

よる教育効率の悪さへの批判には︑宗派学校に固執し続けたカトリック教会も反論できなかった︒また︑他宗派の宗

派学校への通学強制による良心の自由の侵害状況も︑六〇年代における憲法意識の高まりを背景に等閑視できなくな

っていつ蔦ドイツ国民の脱教会化や寛奮心寄に友好的な雰囲気の醸成献肇の遷あ魏3九七五年の連邦憲法

裁判所判準キリスト教共同学校にお墨付きが与えられ・議論は沈静化の方向に向かう︒      ︵4︶ しかし︑学校形式と関連した良心の自由の問題がすべて解決したわけでもない︒また︑基本法が宗派学校制度を許

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公立学校と良心の自由(三)

容していた点についても評価が定まっていない︒

 a ラントの学校形式決定権  基本法は︑この問題の解決にさほどの手掛かりを提供していない︒そこでは︑ラ

ントの文化高炉︑学校制度に関するラントの管轄権を前提に︑公立学校の学校形式もラント立法者が定めるものと考     ︵5︶      ︵6︶    ︵7︶えられている︒ ヴァイマール憲法一四六条一項のような共同学校を通常学校︵園︒ひqΦδoげ三〇︶とする規定は︑基本法

にはない︒

 唯一学校形式に関係する基本法の規定は︑私立国民学校が許可される条件の一つとして︑教育権者の希望する共同

学校︑宗派学校︑世界観学校︵芝Φ一雷づωo冨仁巷σqωωoげ巳︒︶がその地方自治体にないことを挙げる七条五項である︒そ

こでは︑公立学校がその三つの形式で設置し得ることが前提になっている︒そこから連邦憲法裁判所も︑それらの学      ︵8︶校形式が基本法上は許容されていることを導き出した︒

 しかし︑だからと言ってラント立法者が公立学校を好きなように形造れるわけではない︒基本法やラント憲法の基

本権条項がラント立法者を制約しており︑基本権を侵害するような学校制度は許されない︒学校形式の問題に関して

は︑基本法四条の信仰・良心の自由と六条二項の親の教育権が特に問題となる︒

 b 公立学校の宗派的形式と良心の自由  宗派学校では︑カトリックまたはプロテスタントの精神に基づいて授

業・教育が形造られる︒そこではまず︑国家が宗派学校を設置し︑特定教会の伝道活動を援助できるか否かが問題に

なる︒仮にドイツの特殊な国家と教会の関係を考慮してこの問題を除外しても︑そのような宗派学校が親・子どもに

強制され得るかは厳格な吟味を必要とする︒学校制度の仕組みによっては︑親が自分の宗派と異なる宗派の宗派学校

に子を行かせざるを得ない場合も生じる︒また︑自らの宗派の偏狭な精神による教育に反対する親や︑キリスト教に

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基づく宗教教育を一切拒否する親もいる︒

 前章で考察したように︑宗教的・世界観的な教育は基本法六条二項に保障された親の教育権の核心的部分であり︑

四条一項の信仰.良心の自由とも密接に関連している︒学校領域で親の教育権が排除されるという理論的構造が克服

された現在では︑国家が学校形式を一方的に定め︑それを無条件に貫徹することはできない︒さらに︑親の意思にも

反する宗教的指向性をもつ学童強制されれば︑子どもの信仰良心の自答直接侵害され菊そのような点賎連

邦憲法裁判所の判決でも︑議論の出発点として確認されている︒

  ﹁ラント立法者は︑関係する親と子どもの基本法四条の基本権に配慮しなければならない︒この基本権は︑自ら

  正しいと考える宗教的.世界観的教育を子に施す親の権利と︑そのような教育を求める子どもの請求権を保障し

  ている︵切く︒篭O国自噂︒︒︒︒︹μO呂●同旨︑切く①篤O国自.卜︒㊤偶鴇h.︺︶﹂︒

 それだけの問題なら︑公立学校を宗教性を持たない共同学校に統一すれぽ解決する︒しかし︑積極的自由の観点薬

取り込むと問題は単純ではない︒カトリック教会は︑教会法によりカトリックの親が子をカトリックの学校に行かせ      ︵10︶るよう義務づけ︑信者の良心を拘束している︒そのためカトリックの親は︑他宗派や無神論者と一緒に教育が行なわ

れる共同学校に子を行かせることを︑良心に反するものとして拒否していく︒

 c 特定の形式の学校を求める権利?  にもかかわらず︑特定の宗派的形式をもった公立学校を要求する積極的

請求権が基本法により認められていないことが・議論の前提とな・てい菊

 その理由としてまず指摘されるのが︑前章で見たように︑基本法の制定過程で親の学校形式決定権の承認を求める      ︵12︶      ︵13︶提案が拒否され︑        そのような形の宗派的親権を否定した基本法制定者の意思が明らかな点である︒それを受けて連邦

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公立学校と良心の自由(三)

憲法裁判所も︑親の学校形式決定権の存在を否定する︒

  ﹁親が国家に特定の宗教的・世界観的な形の学校を設置するよう求めることが可能になるような積極的決定権

  は︑基本法六条二項一文の親権からも︑基本法の他の条文からも出てこない︵切く︒跳O国幽一りb︒O冒①︺⁝自サ︒︒︒︒ロO昌・︶﹂︒

信仰・良心の自由を根拠にしても︑親はそのような学校形式決定権を主張できない︒特定宗派の宗派学校といった特       ︵14︶別な国家的制度を要求する積極的請求権が良心の自由から引き出せないことには︑学説上一致がある︒       ︵15︶ そのため公立学校制度を形態づけるラントの権限は︑親の学校形式決定権に制約されない︒そのような親の権利が

あるとしても︑それは基本法の基本権保障に基づくものではなく︑ラントにおける学校制度のあり方から生じてくる         ︵16︶反射的利益に過ぎない︒信仰・良心の自由も親の教育権も︑親が希望する形式の学校を国家が設置しないことによっ

て侵害されるものではない︒

 そのような状況の中︑親と子どもの良心の自由に対する配慮を要求する連邦憲法裁判所の立場は︑どのような意味

を持つのであろうか︒ ﹁積極的信仰の自由﹂を前提にすれば︑宗教教育を望む親の意思も︑学校制度を形造る際に配      ︵17︶慮され︑宗教的な教育を拒否する親の﹁消極的信仰の自由﹂と調整されることになる︒それでも︑基本権として保障

された信仰・良心の自由に対する直接の侵害は憲法上許されない︒以下︑宗派学校と共同学校に関連する問題を考察

してみよう︒

 d 宗派学校の歴史と概念  ﹁宗派学校は︑西ドイツ学校制度の邪魔物であり︑遅れの原因である︒教会に真剣

に好意を寄せる者は︑宗派学校が過去の遺物で︑長期的には維持できないことを認めねぽならない﹂︒これは︑宗派      ︵18︶学校にこだわり続けたカトリック教会に近い位置から憲法論を展開するグルントマンの六七年の言葉である︒共同学

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校を反教会勢力に委ねることに対する危機感から出たこの言葉は︑当時の宗派学校擁護論者の追い詰められた状況を

端的に表している︒

 実際に宗派学校は︑過去に根拠を有する制度である︒H・ヘッケルが一九五三年の段階で︑基本法七条五項に言う

宗派学校を実質的な意味で捉え︑ ﹁同一宗派の教師と生徒のために作られ︑授業全体がその宗派の精神で行なわれる     ︑19︶学校﹂とした際に根拠とされたのは︑ドイツ学校法の伝統であった︒

 そのような立論に対しては︑レーデルベルガ!の批判がある︒彼は︑国家が教会の手から学校制度を取り上げよう

としていた一八.九世紀プロイセンにおける理論状況を手掛かりに︑宗派の精神に基づく授業・教育が教会学校のメ

ルクマールであり︑国家の宗派学校では全般的な宗教的授業が行なわれていなかったとし︑宗派学校の特徴を特定宗       ︵20︶派の生徒がその宗派の教師により授業・教育を受けるという形式的要素のみに求めた︒

 ここから︑実質的宗派学校概念と形式的宗派学校概念の対立が生じた︒しかし︑レーデルベルガーの歴史理解に対

しては︑通常学校としての共同学校を前提としたヴァイマール期の宗派学校が理論的には特定宗派の親・生徒のため

       ︵21︶の特別な施設であり︑宗派の精神に基づく授業・教育を許容していたとするフィッシャーの反論がある︒また︑宗派       へ22︶学校が存在するラントでは︑宗派学校が実質的なものと理解されており︑レーデルベルガーの批判もその実務に対す

る影響力を持たなかった︒そのような中︑連邦憲法裁判所は︑コンコルダート判決でドイツ学校史に立ち入ることな      ︵23︶く簡単に︑宗派学校が形式的要素と実質的要素の両者を含むとした︒学説上もその判決以降一致して︑宗派学校は形       ︵24︶式的・実質的両要素を兼ね備えたものと理解されている︒

そのような宗派学校監置擁護す乏あたり・形式的要素が貫徹できないと指摘されることがあ菊地域の宗派的

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公立学校と良心の自由(三)

構成により子どもが他宗派の宗派学校に通わざるを得ない状況が生じ︑形式的要素が純粋には維持できないことに鑑

みてである︒にもかかわらず宗派学校が実質的な意味で理解され︑宗派の精神による授業.教育が行なわれるなら︑

信仰・良心の自由の観点から重大な問題が生じる︒

 e 宗派学校許容性論  そのような問題を孕んだ宗派学校制度の存在が許されるのは︑どのような理由によって

なのであろうか︒       ︵26︶ 六〇年前後までは︑宗派学校の存在は当然視され︑共同学校の方が例外であった︒子を宗教的に教育したい親の意       ︵27︶思に支えられ︑家庭教育と学校教育との一貫性が要請されていく︒カトリックの学校で子を教育するカトリックの親       ︵28︶の良心的義務を指摘して︑宗派学校制度の整備が基本法四条に由来する国家の義務であるとさえ言われていた︒

 その後議論が深化する中で︑宗派学校は特定の親のための施設と把握されていく︒六七年にカンペンハウゼンが︑       ︵29︶宗派学校のイニシァティヴは親に由来し︑国家の学校行政は自発的に宗派学校を設置できないと主張したことが︑議

論の一つの転機となった︒宗派学校を親の積極的信仰の自由に対する国家の配慮と把握し︑その正当性を親権に求め      ︵30︶る方向は︑宗派学校に好意的な見解の一般的傾向となる︒親権との関係では︑国家の教育任務との同列性に関係づけ︑

家庭教育の宗教的要素が学校教育でも尊重されるべきであるとの観点から︑公立学校の枠内で特殊な教育プログラム      ︵31︶や教育目標を追求する学校の余地を認めるべきであるという︑ガイガーに代表される見解が唱えられ︑宗派学校がそ

のような特別な学校の一環と理解される︒

 宗派学校の条文上の根拠は︑基本法七条五項が公立宗派学校の存在を前提とする点に求められる︒ヘッケルが当初

それを指摘した時には︑この条文が︑他の基本権規定に対する特別法として︑宗派学校強制に対する信仰.良心の自

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      ︵32︶由や親の教育権に基づく異議を排除する役割を負わされていた︒その後︑基本権侵害を無視して宗派学校強制をやみ

くもに貫徹するこのような論法はさすがに影を潜めるが︑国家の宗教的・世界観的中立性を根拠とした宗派学校に対       ︵33︶する批判に応えようとする場合︑この実定憲法による宗派学校の容認は必ず引き合いに出される︒

 f 宗派学校非許容性論とその批判  それに対しフィッシャーは︑宗派学校の存在それ自体が国家の宗教的・世      ︵鈎︶界観的中立性に反するとして︑宗派学校の違憲性を主張する︒前述のように国家と教会の関係につき分離論を前提と

する彼にとり︑宗派学校は﹁国家が特定宗教団体の利益を実現﹂するもので︑国家と教会の分離原則に反する︵.o①−

ω・ω︒︒2①覧ご↓話口2眞魑の.b︒母hh・︶︒基本法七条五項も︑分離原則の例外を設定する規範的効力を持つには私立国民学

校設置の要件に関する副文で列挙されることでは足りず︵⇒o目琶oqりω﹄①旨.︶︑この原則を打破する根拠にならない︒

さらに積極的信仰の自由も︑特定の形式の公立学校を求める権利につながらず︑私立学校の自由を行使することで満

足できるため︑公立宗派学校を支持する理由とは認められない︵︑①㊦一ωα刈hh・⁝ 日﹂HO旨ロロロαqり ω●N①幽︷h︒︶︒そこから彼は︑宗

派的・宗教的に中立な共同学校のみが︑基本法公許される唯一の学校形式であるとする︵酒﹃同O三口⊆口oq嚇 ω・b◎①O・︶︒

 分離原則を基礎とするこのようなフィッシャーの宗派学校違憲論に対しては︑前述のように分離原則を緩和された

形で捉え︑キリスト教大教会に有利な国家の援助を広範に認める通説の立場から反論が加えられる︒

 第一に指摘されるのは︑国家と教会の分離が宗教的要件事実と結び付いた国家の規律を排斥せず︑国家と教会のあ      ︵あ︶らゆる結び付きを禁じてはいない点である︒特定宗派の親・子どものために親のイニシァティヴに基き設置され︑選

択の自発性が確保されている宗派学校が存在し得ることは︑厳格な政教分離を規範化しないドイツの憲法構造を前提

とする限り︑憲法上禁止されているとは言い切れない︒その限りでフィッシャーの宗派学校違憲論は︑日本国憲法の

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公立学校と良心の自由(三)

厳格な政教分離を前提とし︑宗教的領域での国家の活動が現代国家の本質を逸脱するとの認識を持つ我々の目から見

て間題の本質を唯一正当に理解しているとは言え︑ドイツの憲法構造の把握に無理がある︒

 さらに︑フィッシャーに対する反論として︑基本法が学校形式の決定をラントに委ね︑共同学校を唯一の学校形式

としていない点が指摘され馨宗派学校が上の条件の下で許容される・とを述べる限りでは︑・の指摘も正しい︒た

だ︑それを理由として宗派学校が信仰の異なる者に強制されても問題がないと言うのであれば︑問題は別である︒

 g 宗派学校強制の許容性とその条件?  六〇年代までの現実では︑宗派学校通学の自発性は保障されてなかっ

た︒むしろ︑生徒数の少ない農村部で宗派混合の地域では︑宗派的少数派の子どもが多数者の宗派の宗派学校に通

い︑異質な宗派の精神に基づく授業・教育を受けることの方が普通であった︒しかし︑宗派学校の存在を支える論拠

も︑宗派学校強制から生ずる信仰・良心の自由や親の教育権に対する侵害を正当化しない︒

 にもかかわらず当時の憲法学には︑そのような現実を追認する主張もあった︒その典型が︑連邦憲法裁判所のコン

コルダート判決である︒この判決は︑ ﹁すべての親に対し希望に則した種類の学校を利用に供することは不可能であ

る︒場合によっては︑親が子を世界観的形態につき親の希望に沿わない学校に委ねざるを得ないことは避けられな      ︵訂︶い﹂との理由で︑他宗派の宗派学校が強制されても良心の自由に反しないとした︒ライヒ.コンコルダートのラント

に対する拘束性が問題になった事例における︑良心の自由や親の教育権に対する侵害状況を真剣に考慮したとは思︑兄

ないこの宗派学校強制の許容性に関する無論は︑判例としてその後の議論を縛っていく︒       ︵認︶ 基本法七条五項が特別法として他の基本権に優越すると主張するヘッケルの見解も︑宗派学校強制に対する基本権

侵害の主張を排斥する意図であった︒また共同学校も宗派学校同様に中立ではないとする前節で見た中立性の虚構性

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︵39︶論を前提にコンコルダート判決を敷衛し︑共同学校を求める親が私立学校を利用できること等を指摘しながら︑信仰      ︵40︶の異なる老への宗派学校強制が良心の自由に反しないとする考え方が学説上も唱えられていく︒

 そのような見解も︑宗派的少数者の子どもが多数者の宗派の精神で教育されることを是認するのではない︒寛容の

意義が常に強調され︑寛容原理を通じて宗派学校における少数者に対する信仰.良心の自由の侵害ができる限り防止      ︵1弓︶       ︵42︶されるべきことが主張される︒教師は寛容の精神に従って教育を行なう義務を負い︑少数者の宗教的確信に対する攻      ︵43︶撃を禁じられる︒一定数の少数者がいる場合︑少数者に宗教の授業を行ない︑また他の課目の授業も担当し︑職員会      ︵44︶議の正規の構成員となる少数派教師の制度が学校法上設けられるのも︑この寛容の原理に配慮した結果と言える︒

 しかし︑寛容の原理によっては︑信仰・良心の自由に対する侵害を完全には除去できない︒寛容が命ずるところは

厳密に規定できず︑宗派学校の混合クラスでどのような授業が行なわれれば良心の自由の侵害にならないかは︑寛容

原理を云々しても明らかにならない︒

 寛容原理が良心の自由の侵害を防止する上での限界と︑拓︑の限界にもかかわらず寛容原理に頼り宗派学校制度を擁

護する憲法学老の本音は︑六八年憲法改正以前のバイエルンで原則的地位にあった宗派学校における少数者保護の問       ︵45︶題を扱った︑一九六七年のバイエルン憲法裁判所の二つの判決に端的に現れる︒

 キリスト教両宗派の関係に着目した三月二か日判決は︑ ﹁子どもはどんな場合にも︑教育権者の意思に反して他の

宗派の原則に従った授業・教育を受けることがあってはならない﹂との原則を設定した︵㊥−ω﹁&刈・︶︒そこから︑宗派

学校の授業が宗派の精神に基づくことを規定したバイエルン憲法一三五条二項︵六八年憲法改正で廃止︶も︑宗派的

少数老のいるクラスで授業・教育が多数者の宗派の原則に従って行なわれるという意味では理解できなくなる︒ ﹁信

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公立学校と良心の自由(三)

仰・良心の自由が︑宗派混合クラスで授業・教育に際し多数者の宗派の特殊性が退くよう命令する︒宗派混合クラス

の生徒は︑両宗派に共通のものを基礎とした授業・教育を受けなければならない﹂とされ︑少数派教師の制度が憲法

上正当化されるとともに︑宗派混合クラスでの授業がキリスト教共同学校に接近することが確認された︵㊥−ω・腿零h・⁝

㊥−ω為Q︒儀h・︶︒

 信仰・良心の自由に重きを置くかに見えるこの立場も︑わずか四ヵ月後の七月一四日判決で本音を露呈する︒この

判決は︑三月二〇日判決の原則を引用しつつも︑キリスト教的教育を拒否する親・生徒との関係では︑キリスト教的

教育を望む多数の親の教育権と良心の自由を理由に︑宗派学校からキリスト教の精神を排除できないとした︒キリス

ト教に基づかない教育を望む親が少数派であり︑少数派の利益が退くことが期待できるとして︑キリスト教を拒否す

る世界観・宗教を信奉する生徒が存在しても授業・教育のあり方には影響ないとされる︵㊥−ω為ω①・︶︒

 結局︑宗派学校が宗派学校である限り︑いかに寛容原理が強調されようとも︑宗派的教育︑少なくともキリスト教

的教育を求める親の権利−実は︑反射的利益1が優先的に配慮され︑少数歯の良心の自由は犠牲にならざるを得

ない構造なのである︒

 h 宗派学校強制の違憲性  このような状況の中︑六〇年代における憲法学の通説は︑信仰の異なる者への宗派       ︵46︶学校強制を子どもの︑そしてそれを代弁する親の良心の自由の侵害と認め︑連邦憲法裁判所のコンコルダート判決を

乗り越えていく︒宗派の精神で授業・教育を行なう宗派学校に行くよう信仰・世界観の異なる老が強制されれぽ良心      ︵47︶の自由が侵害されることは︑カイムも指摘するように︑本来理由を挙げるまでもない︒ポートレッヒの相対的中立性      ︵48︶論を採っても︑宗派学校は異なる信条に基づく教育と積極的に矛盾するため︑憲法上許容される余地はない︒

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 宗派学校への通学強制を擁護する立場が指摘する様々な点ではこの明白な良心の自由の侵害を正当化できないこと

も︑通説により論証されていく︒寛容命令の強調によっても良心の自由の問題が解決しないことも指摘される︒オー

バーマイヤーやカイムは︑良心の自由が寛容命令以上のものを要求し︑自ら拒否した精神による授業.教育や︑それ      へ49︶を通じた影響力行使を一切排除すると主張する︒宗派学校における少数者が何年間も毎日自分の宗派.世界観と異な

る信条に基づいて組織された施設に通い︑有形無形の影響を受けざるを得ないことを考えれば︑この確認は当然であ       ︵50︶る︒カイムが宗派学校強制と教会に行くことの強制を本質的に同じとすることも︑あながち非現実的ではない︒       ︵51︶ さらに︑良心の自由が基本的には少数老保護のための権利であることが指摘され︑バイエルン憲法裁判所のような

少数者に侵害の受忍を求める議論が批判される︒少数者に対する侵害状況が生じるならば︑学校形式が多数決によっ      ︵25︶て決定されてはならない︒信仰・良心・世界観の問題が多数決で決せられ得ないのは当然であり︑地域の多数者が少

数者に自分たちの宗派の精神に基づく教育を強制できないことは言うまでもない︒

 その点と関連して︑宗派的多数者の親権に依拠した宗派学校擁護論にも批判が加えられる︒オーバーマイヤーは︑      ︵53︶﹁親は︑基本権的に保護された他者の信仰・良心・信仰告白の自由を侵害する規律を求められない﹂とする︒積極的

信仰の自由が配慮されるとしても︑そのことは少数者の良心の自由に対する直接の侵害を許容しない︒

 親権が積極的に自らの希望に則した学校形式を求める権利というニュアンスで理解されることが多いため︑宗派学

校への通学強制を親の教育権の侵害と構成する見解は多くない︒ただ︑宗派学校強制の違憲性の基礎として︑親の教

育権との関係で基本法七条二項が挙げられることがある︒宗教の授業に関する参加決定権を保障したこの条文は︑宗       ︵54︶派学校における授業が特定宗派の精神に基づくなら︑そこに対しても主張できることになる︒さらに︑宗派学校での

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公立学校と良心の自由(三)

特定の信条に基づく教育に対抗するのに︑基本法六条二項の親の教育権に直接依拠することも可能であろう︒宗教教

育を自分でやる必要が出てくる共同学校に反対する権利と︑自分の信条と異なる精神に基づく宗派学校の教育を拒否

する権利とは自ずから質的に異なり︑自由権としての親の教育権が給付請求権的意味でのこの権利に優越すること

は︑理論的には十分考えられる︒

 このように宗派学校への通学強制の違憲性を論証する通説は︑宗派学校が許される条件として︑地区に共同学校が      ︵邸︶存在し︑宗派学校を拒否する生徒が共同学校で中立的な教育を受けられることを要求する︒宗派学校は︑他者の良心

の自由均整ならない限りでのみ存在が許さ塙学区に天でも宗派学校を拒否する親・子どもがいれば︑その学       ︵57︶区の学校は宗派学校として組織されてはならない︒

 i 宗派学校とカトリック  六〇年代における論争の結果︑宗派学校への通学強制が違憲であるとのコンセンサ

スが成立し︑宗派学校は多くのラントで廃止された︒それにより︑カトリックの学校で子を教育する義務を守る熱心      へ関︶なカトリック教徒は︑私立学校を利用するしかなくなった︒この事実は︑憲法学でも一般に容認されている︒

 カトリヅクの精神での授業・教育を求めるカトリック教徒の良心的立場が配慮されない理由は︑彼らが少数老であ

ることでも︑彼らが良心の自由の侵害を受忍すべきことでもない︒カトリックが要求するのは︑世俗的国家の任務を

逸脱した国家給付であった︒そして︑共同学校への通学を強制されても︑共同学校が反カトリックの宣伝を行なえな       ︵59︶いため︑家庭教育の場で宗教的教育を継続する余地が十分に保障されている︒教会法の存在は国家の政策決定には本

来無関係であり︑盲目的に教会法に従う老が私立学校を利用せざるを得ないことは︑国家の関知するところではな

噛い︒国家的助成を求める私立学校の権利が保障されるため︑カトリックの良心的立場に対する配慮はそれで十分と言

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える︒      62 ﹂ 通常学校形式としての共同学校  ここまでの考察で︑宗派学校が異なる信仰・世界観を持つ者に強制されて 一

はならず︑その強制を回避するために地区に共同学校が必要なことが明らかになった︒この共同学校は一般に︑教師

も生徒も宗派・世界観の別なく受け入れる学校とされる︒しかし︑その共同学校における授業・教育の具体的なあり

方は︑まだ解決していない︒そして実際に共同学校は︑ラントにより様々な形態を与えられている︒

 共同学校を評価する際に前提となるのは︑宗派学校と異なり︑共同学校では生徒を特定宗派の型に嵌め込む偏狭な       ︵60︶教育が宗教の授業以外では行なわれないことである︒カンペンハウゼンは︑共同学校が﹁無宗教的ではなく︑逆に宗

教に対して友好的で︑寛容で︑キリスト教徒と非キリスト教徒を結び付ける態度の自由主義性により形造られる﹂こ

       ︵61︶      ︵能︶とを出発点とする︒特に︑寛容が共同学校で実現されることには一致がある︒

 この点を基本法四条の良心の自由との関係で掘り下げたのが︑ナーバーマイヤーの提唱する﹁基本法の倫理的規準      ︵63︶を指向した学校﹂という考え方である︒基本権や民主制などの価値が通常学校における教育の基盤となるべき点は︑      ︵餌︶広い支持を獲得している︒

 しかし現実には︑このオーバーマイヤーの構想はかなり論争提起的であった︒彼は︑宗派的開放性を実現し︑良心

の自由が侵害されない条件として︑共同学校での教育活動が基本法の倫理的規準を指向した最小限のプログラムしか       ︵衡︶含むべきでないと主張した︒そこから︑最大公約数を基盤とする教育では十分でないと考え︑共同学校でも伝統的に

行なわれてきたキリスト教的性格を伴う教育を擁護する者の反論を呼ぶ︒この議論は︑共同学校においてどの程度キ

リスト教的要素が取り込まれ得るかという論点に収敏していく︒

(15)

公立学校と良心の自由(三)

 k キリスト教共同学校  宗派学校が原則であった時代には︑例外たる共同学校もキリスト教的性格を持つこと

     へ66︶が前提とされ︑学校がキリスト教的価値の伝達に奉仕することには何らの問題提起もされなかった︒現実にいくつか

のラントでは︑通常学校形式は現在もキリスト教共同学校と呼ばれている︒

 上で引用したカンペンハウゼンの言葉は︑共同学校での教育がキリスト教を指向することを理論化した六七年の著

︵67︶作に出てくる︒彼は︑共同学校が﹁両宗派が共通に受け容れられると考えるキリスト教的な基礎﹂に基づくとし︵ω・

H罐︶︑子どもを共同体に取り込むための必要性からそれを正当化した︵ω・H8︶︒学校の統合単機能を前提に︑ドイツ

の社会をキリスト教の影響を色濃く受けたものと認識し︑そこに子どもを取り込むのにキリスト教的教育が不可欠で

あるとする推論は︑キリスト教共同学校を擁護する立場に共通する︒

 しかし︑キリスト教の倫理を基盤とする授業が共同学校で行なわれれば︑宗派学校と同様︑世界観的少数者の良心      ︵68︶の自由の侵害が問題となる︒ツェチュヴィッツは︑キリスト教共同学校が広い意味での宗派学校であるとし︑一般的       ︵69︶授業の宗教的指向性が信仰・良心の自由の侵害になるとする︒またカイムは︑キリスト教共同学校の違憲性までは導

き出さないものの︑キリスト教共同学校における宗教的指向性が国家による特定の信条との同一化を意味する点を指

  ︵70︶摘する︒

 このような疑念にもかかわらずキリスト教共同学校を支持する論拠として︑再び国民多数派の積極的信仰の自由が

挙げられる︒キリスト教的教育に反対するのは少数であり︑その者たちには教師が寛容命令を遵守することで十分な       ︵71︶保護が与えられるとされる︒確かに︑共同学校での教育は原則として様々な信条に対し開かれており︑寛容の精神に      63      1対応しやすいため︑宗派学校とは問題のレヴェルを異にする︒それでも︑キリスト教を指向した共同学校に対して

(16)

は︑良心の自由を根拠に批判が加えられ︑積極的自由の問題を中心的な争点とした議論が繰り広げられていく︒

 一 キリスト教共同学校と﹁積極的信仰の自由﹂  確かに基本法の倫理的規準を指向した学校は︑全面的な人格      ︵72︶形成を提供できず︑人格形成の際に必要な価値観・世界観の伝達を親あるいは親の委託を受けた社会的団体に委ねる︒

国家の学校で実現されるのは︑基本法の倫理的規準の内容となる自由・寛容.民主制など︑共同生活に際し必要な

﹁最小限﹂の基本的価値の伝達にすぎない︒H・ヴェーバーは︑特殊性との同一化を戒めるクリューガーの非同一化

論との関係でその点を敷回し︑ ﹁基本法のエトス﹂を完結的な倫理的・世界観的規範でなく︑特殊性による補完が可       ︵73︶能な開かれた一般性のエトスと把握し︑それに基づく学校は誰にでも期待可能であるとする︒

 このように基本法の倫理的規準を指向した学校が非同一化論に依拠するため︑それに対する攻撃は︑ ﹁最小限﹂で

満足しない積極的自由の観点からの中立性論批判という形を取る︒ホラーバッハは︑キリスト教的教育を求める国民

の大多数の希望を無視するよう基本法が求めていないことを理由に︑ ﹁憲法の基本的意図に最も対応するのは︑低次

の最大公約数を指向する妥協でなく︑積極的自由の最大限を実現する妥協である﹂とする︒少数者保護の問題に関し

彼は︑寛容命令の実効化による保護を重視し︑少数者保護のために最大公約数を追求する道か﹁少数者の独裁﹂につ       ︵47︶ながると指摘する︒

 前節で紹介した中立性論の虚構性の指摘も︑そのような文脈で出てくる︒その中心的論者︑ミュラーは︑ ﹁公立学校

を多数者の信条と一致させ︑同時に完全な寛容の制度的確保を通じて反対者の権利侵害や差別を排除する道﹂を追求

す礁これは・キリスト教共同学校のキリス量的馨を求める権利と共同学校の中立的教育を求める権利を同列と

した上で︑公的制度の中であらゆる者の権利制限が不可避であることを前提に︑そこでの実践的整合を探る理論的出

164

(17)

公立学校と良心の自由(三)

発点に由来す輪脚積極的自由論に基づき擬制的な中立性を批判し︑基本法の倫理的規準を指向した学校を攻撃し︑キ       ︵77︶リスト教共同学校を擁護するこのような見解は︑ある程度の広がりを見せている︒

 しかし︑ここで注目すべきなのは︑基本法の倫理的規準を指向する学校が無宗教的なものとして構成されてない点

である︒オーバーマイヤー自身︑キリスト教の教義が授業全体の基礎となるキリスト教宗派学校とならない限り︑キ      ︵78︶リスト教の精神的意義を適切な形で配慮するキリスト教共同学校の設置はラントの権限の範囲内であるとしている︒

 m 教養的キリスト教共同学校と信仰的キリスト教共同学校  この議論には︑キリスト教共同学校の概念の混乱

に由来する若干の擦れ違いがあった︒そこを整理してポートレッヒは︑歴史的文化事象としてのキリスト教が授業の

対象になる教養的キリスト教共同学校と︑宗教的教義としてのキリスト教が伝達される信仰的キリスト教共同学校を      ︵79︶区別し︑後証への通学義務につき宗派学校と同じことが妥当するとした︒この考え方は︑フィッシャーを始めとする      ︵80︶幅広い支持を獲得している︒価値・世界観・信条の伝達に関し教養的キリスト教共同学校は︑閉じたキリスト教の教

義を追求せず︑開かれた基本法の倫理的規準を指向することになる︒

 この構図で整理すれば︑積極的信仰の自由を根拠にキリスト教的教育を支持する上の見解は︑信仰的キリスト教共       ︵81︶       ︵82︶同学校の擁護に主張の主眼がある︒しかし︑共同学校とキリスト教共同学校の同列性を指摘する︑・・ユラーの主張も︑

キリスト教的信条教育を擁護するものとしては筋が通らない︒世俗的共同学校が反キリスト教の宣伝をしないなら︑

親が家庭的領域でキリスト教的教育を子に施すことを妨げるものはない︒信仰的キリスト教共同学校を求める親の利

益は︑自ら行なうべき宗教的教育を学校に期待するもので︑信仰的キリスト教共同学校で生じる少数者に対する良心

の自由の侵害から守られる利益と同列で衡量・調整され得るものではない︒

165

(18)

 それに対し︑基本法の倫理的規準を指向した学校という考え方が追求するのは︑少数者の良心を侵害するキリスト

教的なイデオロギー的教化が行なわれないことの確保で︑学校を反教会的なイデオロギー的教化の場にすることでは

ない︒非同一化論への依拠がそれを強調する︒基本法の倫理的規準を指向した学校は︑無宗教・反キリスト油墨の世       ︵83︶界観と同一化するものではない︒そのため︑キリスト教盲教育を求める親の利益とキリスト教を基礎としたイデオロ

ギー的教化を拒否する親の権利を同列で衡量するホラーバッハやミュラーの見解は︑問題の本質を外している︒      ︵別︶ 皿 連邦憲法裁判所の解答  この論争は︑一九七五年一二月一七日の連邦憲法裁判所の三つの判決で一応の決着

を見る︒バーゲン・ヴュルテンベルクとバイエルンのキリスト教共同学校に異議を唱える非キリスト教の親の憲法訴

願と︑キリスト教に属し宗派学校を望む親によるノルトライン・ヴェストファーレン共同学校に対する憲法訴願に関

するこれらの判決は︑信仰的キリスト教共同学校の憲法上の許容性を否定しながら︑なおも積極的自由/消極的自由

の構図を前提にし︑良心の自由については問題を残した︒キリスト教共同学校の問題を解決する際の連邦憲法裁判所

の基本的な立場は︑バーゲン・ヴュルテンベルクの事例に関する第一判決で示される︒

 連邦憲法裁判所は︑親と子どもの基本法四条の権利に配慮するラントの義務︵上述b︶から出発する︒しかしその

際連邦憲法裁判所は︑基本法四条の意味が防禦権に尽きず︑ ﹁信仰的確信の能動的行使や世界観的・宗教的領域にお

ける自律的人格実現の余地を保障するよう︑積極的意味で命令する︵国芦b︒O︹お︺︶﹂とし︑子に宗教教育を受けさせ

たくない親の希望と受けさせようとする親の希望が同列で対立すると把握する︒

  ﹁学校領域で不可避な消極的宗教の自由と積極的宗教の自由の緊張関係の解決は︑公的意思形成過程で様々な見

  解に配慮しつつすべての者に期待可能な妥協を発見すべきラント立法者の義務である︒その際ラント立法者は︑

166

(19)

公立学校と良心の自由(三)

  ︑方で基本法七条が学校領域で世界観的・宗教的影響を許容し︑他方基本法四条が特定の学校形式を決定する際

  に世界観的・宗教的な強制をできる限り排除するよう命令することを指向し得る︵ヒd<臼お国自・卜︒㊤︹㎝Oh︺︶L︒

突然出てくるこの基本法七条の解釈を前提に四条と七条の調整・整合を追求すれば︑キリスト教共同学校の許容性は

簡単に出てくる︒問題は︑その具体的なあり方である︒

  ﹁上述の点から︑少数派の教育権者が宗教的教育を望まないとしても︑ラント立法者は公立国民学校の形態づけ

  に際しキリスト教的連関を導入することを一般に禁じられてはいない︒しかしその前提条件は︑選択された学校

  形式が︑子どもの信仰的・良心的決定に影響力を持つ限りで︑最小限の強制的要素しか含んではならないことで

  ある︒そのため学校は︑伝道的学校であってはならず︑キリスト教的信仰内容の拘束性を主張できない︒また学

  校は︑他の世界観的・宗教的な価値に開かれでなければならない︒⁝⁝世俗的授業におけるキリスト教の肯定

  は︑まず第一に︑ヨーロッパの歴史の中で形造られてきた決定的な文化的・教養的要素の承認に関係するのであ

  り︑信仰的真実に関係せず︑そのため︑非キリスト教徒との関係でも歴史的所与が継続していることにより正当

  化される︵MW<O﹁︷O団U駆一噂悼O︹αHh●︺⁝駆r8︹刈︒︒剛.︺︶︒﹂

これにより︑信仰的キリスト教共同学校の強制が許されなくなる︒学校のキリスト教的性格は︑キリスト教の﹁文化

的・教養的要素﹂が配慮される限りでのみ認められる︒       ︵衡︶ この点を前提に連邦憲法裁判所は︑パーデソ・ヴュルテンベルクのキリスト教共同学校を上の枠内にあると捉え︑

キリスト教共同学校で﹁キリスト避暑宗派の共通の原則による授業・教育﹂が行なわれると規定するバイエルン国民       ︵86︶学校法の規定には合憲限定解釈を施した︒ノルトライン・ヴェストファーレンの共同学校についても︑それが一連の

167

(20)

       ︵78︶宗教的連関を取り込んでおり︑キリスト教的宗教教育を望む親と子どもに良心的葛藤を引き起こさないとした︒

 この判例は︑先例としてコンコルダート判決を引用するが︑もはやその枠内に留まらない︒ここでは︑信条の異な

る者に対する学校の影響力行使が信仰・良心の自由の観点から問題とされ︑そこから特定の宗教.世界観に基づく信

条教育が強制され得ないことが強調される︒積極的自由/消極的自由の対立の構図を採りつつも︑信仰的キリスト教

共同学校における非キリスト教徒の良心の自由に対する侵害に妥協せず︑そのような侵害を回避することを目指して

整合・調整を行なう︒

 しかし︑連邦憲法裁判所が高らかに謳い上げた原則の適用に関し︑問題は少なくない︒十字架が掲げられ︑賛美歌

が歌われるバーゲン・ヴュルテンベルクのキリスト教共同学校は︑最小限度の信条的働きかけしか含んでいないとは

簡単に認定できない︒バイエルンのキリスト教共同学校に関しても︑カトリック︑プロテスタント両教会とラントの       亀

間で行なわれている調整作業を法的に無視できるかどうかにはかなりの疑問の余地がある︒

 このような点から︑連邦憲法裁判所の立場にはなおも批判がある︒バーゲン・ヴュルテンベルクとバイエルンの事

例で訴願入側の訴訟代理人を務めたフィッシャーは︑判決の原則を一応承認した上で︑判決の﹁極めて疑わしい合憲

限定解釈﹂を批判す樋場合により華が圧倒的多数の宗派の精神で行なわれることにつながり得聾・妄容認

する判決の最後に付け加えられた譲歩に連邦憲法裁判所の本音を見︑ ﹁まず第一に﹂文化的・教養的要素に関係づけ      ︵﹂9︶られたキリスト教が第二︑第三の意味として信仰的なものに拡大するための裏口が用意されている点を指摘する︒シ

ュミット・カムラーも︑判決の根本的問題点を国家と親の協働・整合の定式が持つ危険に見て︑それにより個別的基      ︵91︶本権が切り詰められていることを確認する︒

168

(21)

公立学校と良心の自由(三)

 連邦憲法裁判所が文化的・教養的要素としてのキリスト教を学校に取り込むか否かの決定をラント立法者に委ねた

ことには︑本稿の立場からも異を唱える必要はないであろう︒ただ︑その際に前提となる積極的/消極的信仰の自由

の対立という構図には︑ここまで確認してきた両老のレヴェルの差を考えれば︑問題が残されたと評価せざるを得な

い︒確かに信仰的キリスト教共同学校の強制をも容認する見解に比べれば︑連邦憲法裁判所の行なった調整は支持に

価する︒しかし︑具体的に侵害される信仰・良心の自由ではなく︑抽象的な積極的/消極的信仰の自由の整合・調整

を基調に据えたことにより︑実際の法適用過程で判断の甘さが出たことは否めない︒

 o 総括  連邦憲法裁判所の判断の甘さは︑バーゲン・ヴュルテンベルクのキリスト教共同学校でも見られる学

校での始業の祈りといった︑宗教画を持つ学校行事の問題にも関係する︒この問題は︑四年後に連邦憲法裁判所の判

断する所となる︒その考察を次項に譲り︑ここでは︑主に授業が関係する領域につき︑宗派的学校形式の問題に関し

て得られた結論を示しておきたい︒

 宗派学校が特定宗派の親・子どものための︑親のイニシァティヴに基づく特殊な施設として憲法上許容されること

は︑国家と教会の関係についてのドイツ憲法構造の特殊性からくる問題である︒政教分離の観点からは︑宗派学校制

度は問題が少なくない︒しかし︑厳格な政教分離を実定法上規定していない所では︑議論はそこで止まるほかないの

であろう︒

 本稿の立場から注目に価するのは︑そのような宗派学校が信仰の異なる者に強制されてはならないとするドイツ憲

法学の出した結論である︒特定宗派の精神に従った授業・教育は︑何人にも強制できない︒子どもの信仰.良心の自

由︑また親の信仰・良心の自由︑教育権の侵害になるからである︒特定の信仰を植え付ける目的で行なわれる授業

169

(22)

は︑宗派学校を自発的に選択するという親・子どもの明示的同意がない限り︑憲法上許されない︒

 同じ問題意識を踏まえれば︑信仰的キリスト教共同学校も通常学校としてはやはり許されない︒ドイツでは﹁キリ

スト教﹂という単独の教義体系は存在せず︑あるのは各宗派の教義体系だけだとされている︒それでも︑一定の方向

性を持つキリスト教という名のイデオロギー体系が授業を通じて生徒に強制されることが許されない︒授業がイデオ

ロギー的教化となり︑良心の自由の侵害と認められるためには︑既製の完結的教義体系を指向する必要はなく︑漠然

とした形で意識される一定の規範体系を指向していれぽ十分である︒

 このことは︑中立性論批判が懸念するあらゆる世界観的問題の学校教育からの排除を意味しない︒文化的要素とし

てキリスト教がヨーロッパで強い影響を持ってきた点の紹介は可能である︒また︑宗教的・世界観的な問題提起も授

業からは排斥されない︒ただ良心の自由の観点から国家の学校制度に許されないのは︑授業で提起された問いに教師

が自ら答え︑一定の価値観・世界観に基づく唯一﹁正しい﹂解答を提示することであり︑そのような指向性を持つ学

校のあり方である︒

 宗教・世界観という個人の信条に関わる問題に学校を通じ国家が影響力を及ぼすことは許されない︒子どもの信条

形成・良心形成を直接に指導することは︑子を教育する権利と義務を有し︑子どもの良心の自由を代弁する親の責任

であり︑国家の任務ではない︒少なくとも宗教的問題に関して︑この点はドイツ憲法学の成果によって確認された︒

170 学校での祈り 三 学校における始業の祈り︵ωOげ¢一σq①σ①け︶に関するドイツ憲法学の対応は︑ドイツ憲法の特殊性を典型的に示している︒周知の

(23)

公立学校と良心の自由(三)

ようにアメリカ合衆国連邦最高裁は︑強制の要素の存在いかんにかかわらず︑学校における評議会が作成した祈りの

唱和︵国昌σqo一事件︶や聖書の朗読と﹃主の祈り﹄の唱和︵QDo﹃Φ含難事件︶が修正一条の国教禁止条項に反するとし

︵92︶た︒アメリカや我が国のような厳格な政教分離を前提にできれぽ︑学校での祈りの違憲性は論証しやすい︒ドイツで

言う積極的自由の論拠に対しても︑ ﹁国教禁止条項は︑多数者が自らの信仰を実現するために国家の機構を利用でき      ︵93︶るという意味であったことはない﹂と言え︑学校での祈りの禁止が﹁世俗主義の宗教の国教化﹂になるとの批判も退

   ︵94︶けられる︒政教分離の視点を取り入れれば︑祈りに反対する生徒に不参加の可能性が保障されていても︑学校で祈り      ︵95︶を組織化することが合憲にはならない︒

 しかし︑厳格な政教分離を前提にできないドイツでは︑学校での祈りは生徒・親の信仰・良心・信仰告白の自由の

問題とされ︑強制の要素がどのような場合に存在するかが主要な論点となる︒ドイツの論争状況は︑政教分離の観点

では明らかに理論的遅れを示している︒しかし︑宗教以外の世界観的領域で良心の自由の意義を探る手掛かりは︑む

しろこの遅れの故に︑ドイツの議論にちりぽめられている︒

 a 判例の流れ①ーヘッセン国事裁判所判決  学校での祈りに関する憲法上の議論をリードしたのは︑学説よ

りも判例であった︒ここではその判例の検討から始めたい︒

 議論の火付け役は︑ヘッセンの公立国民学校で授業開始前に教師に唱和して行なわれた祈りの憲法上の許容性に関      ︵96︶するヘッセン国事裁判所一九六五年一〇月二七日判決である︒祈りに反対する生徒は教室外に出たり教室内で沈黙し

たりできたが︑判決は参加を時間的・身体的同席と捉えて参加強制があったとし︑祈りが憲法違反になると判示し

た︒その際の手掛かりは︑信条の表明を強制されない権利としての沈黙の自由である︒判決は︑沈黙の自由の無条件

171

(24)

的妥当性を前提に︑この権利が対国家のみならず他の国民との関係でも主張でき︑宗教行使の自由も沈黙の自由に対

抗できないとして︑積極的なものに対する消極的信仰告白の自由の優位を承認した︵ω.︒︒oh・︶︒

 学校での祈りを消極的信仰告白の自由と積極的信仰告白の自由の対立という文脈で見るこの構図は︑その後の議論

に決定的な影響を与えた︒ただ判決の前提とする理解は︑学説上の把握とは一致していない︒消極的信仰告白の自由       ︵97︶が他者の行為に対する否定的評価を表明せざるを得ない状況に置かれない権利まで拡大された点︑私人間での沈黙の       へ認︶自由の絶対性から沈黙の自由が他者に沈黙を強制する権利となった点は︑様々な論者が繰り返し批判する︒判決を批

判する学説は︑消極的信仰の自由の絶対化でなく︑寛容の意義を考慮した消極的信仰の自由と積極的信仰の自由の問

の適切な調整によってのみ問題解決が可能であり︑そのような手法を採れば参加の自発性が確保された学校での祈り       ︵99︶には憲法上の問題はないとする︒

 ヘッセン国事裁判所判決をこう批判する見解は︑消極的自由と積極的自由の構図に囚われるあまり︑学校での祈り

を生徒と教師の自発的宗教行使と捉える判決の黙示の前提を承認する︒しかし︑判決に誤りがあるなら︑まさにこの

点こそ問題である︒授業時間外に生徒の一部が自発的に祈り︑別の生徒がそれに反対する場合なら︑寛容原理を指向

した両者の権利の調整が必要となる︒しかし問題になったのは︑教師が学校の権威を背景に組織した祈りであり︑学

校側の承認を受けた国家行為としての教師の提案である︒ここで積極的信仰告白の自由と呼ばれるものは︑私的領域

における宗教行使の自由でなく︑国家の直接的宗教活動を通じた自らの宗教行使に対する援助を請求する権利であ

る︒このような主張はもはや基本権とは呼べず︑憲法上は︑国家の宗教的行為に参加を強制されない権利としての信

仰の自由と同列で調整できない︒

172

(25)

公立学校と良心の自由(三)

      ︵oo1︶ このような点は︑判決の結論に賛意を表する見解で前提とされる︒そこからまず︑祈りの挙行が国家の宗教的中立      ︵101︶性に違反していたと指摘される︒さらに判決の沈黙の自由論に関しても︑強制主体が国家であることを意識した修正       ︵20︼︶が加えられながら︑支持が表明される︒

 ヘッセン憲法の解釈に関わるこの事例は国事裁判所の判決が確定して解決したが︑学説上の論争点となったこの問

題に関してはさらに判決が積み重ねられていく︒

 b 判例の流れ②ーミュンスター上級行政裁判所判決  同様に学校での祈りを憲法違反とする判決に︑ノルト

ライン・ヴェストファーレンのキリスト教共同学校における法律上規定された授業時間中の祈りに関する︑・︑ユンスタ      ︵301︶i上級行政裁判所一九七二年四月二七日判決がある︒この判決は︑学校のキリスト教的性格から﹁キリスト教的価値

観を指向した態度への指導﹂を学校の任務と認めて授業の一環として祈りを挙行する国家の権限を肯定し︵ω・=1=︶︑

祈りの間生徒が教室を離れることは生徒の授業出席義務と矛盾するために構造上不可能と見て︑反対する生徒.親が

いる時には祈りが基本法四条一項の信仰告白の自由やヴァイマール憲法一三六条四項︵基本法に編入︶の宗教儀式へ

の参加強制の禁止に違反すると判示した︵ω.=山高︶︒そこでは︑基本法四条が国家的行事に影響を及ぼす手掛かりを

与えず︑国家が宗教儀式を挙行できないため︑授業時間中の祈りを求める請求権は存在しないとされ︑授業時間中の

祈りがなくても祈りを希望する者の積極的信仰の自由に反しないことが強調される︵ω●ミh・︶︒

 この判決は︑積極的信仰の自由というスローガンの内実をおさえた上で祈りを基本法四条の問題としており︑その

点では評価に価する︒しかし最大の問題点は︑学校法律上の就学義務を憲法上の権利に優越させ︑生徒が祈りを回避

﹂できないとした所にある︒その前提から生徒の強制回避可能性の論点を飛び越したことは批判を受けざるを得ず︑ヴ

173

(26)

アイマール憲法=二六条四項を宗教儀式への参加強制の禁止から他者の宗教的行為を妨害する権利へと解釈変更した      ︵401︶とする消極的/積極的信仰の自由の構図に囚われた論者の批判に手掛かりを与えた︒さらに判決が前提にした祈りを

学校の任務との関係で正当化する考え方も︑国家の教育任務に個人の信条に対する直接の介入を含めるもので︑生徒       盆︶や親の基本権から許されない︒この判決は︑一年半後の一九七三年一一月三〇日連邦行政裁判所判決で破棄される︒

 c 判例の流れ③一連邦行政裁判所七三年判決  その判決で連邦行政裁判所は︑就学義務に対する基本権の優

位を承認し︑学校での祈りへの参加強制があり得ないことを出発点とした上で︵ω﹄㊤︒︒︶︑参加強制がなければ学校で

の祈りも基本法上許されるとした︒

 判決はまず︑基本法が学校制度の宗教的・世界観的形態づけをラントの権限と認めている点︑国家の宗教的中立性

が公立学校における宗教援助を排除しない点を前提に︑学校での祈りの許容性を基本法七条で承認された非宗教的で

ない学校の許容性から導き出す︵◎D﹂㊤Q◎h・︶︒そして︑退席や沈黙などの期待可能な方法で祈りを拒否する生徒が参加

を逃れられれぽ︑生徒・親の信仰の自由は侵害されないとする︒判決はその点を敷面し︑すべての教育権者に祈りが

行なわれる事実と不参加の可能性を通知することが自発性の保障にとり必要なことを指摘し︑また期待可能性の問題

として祈りが長さと頻度の点で適切な限界を越えないことを要求する︵ω・一㊤ゆh・︶︒

 学校での祈りの許容性を導き出すこの判決は︑ヘッセン国事裁判所判決を批判する学説同様︑積極的信仰の自由と

消極的信仰の自由を同列で調整しようとする立場に由来する︒

  ﹁学校での祈りの挙行は︑祈りを拒否する生徒の消極的信仰告白の自由を侵害しない︒基本法四条一項は︑合法

  的に行なわれる他者の信仰告白行為を妨害する権利を保障せず︑そのような行為から期待可能な方法で逃れる権

174

(27)

公立学校と良心の自由(三)

  利を保障するのみである︒⁝⁝基本法四条は︑消極的信仰告白の自由のみでなく︑その積極的側面︑妨害されな

  い宗教行使をも保障する︒積極的なものに対する消極的なものの優越は基本法からは引き出せない︵ゆく︒.毛O国

  蔭蔭噛一㊤①︹鱒8︺●︶﹂︒

 この判決に対し︑祈りの権限認定に関し不十分であり︑祈りの自発性保障の方策についてはむしろ問題隠蔽的であ       ︵061︶るとの批判が提起されている︒

 d 判例の流れ④一連邦憲法裁判所判決  連邦行政裁判所判決の基本線を維持しつつ︑その不足を補おうとし      ︵701︶たのが︑連邦憲法裁判所一九七九年一〇月一六日判決である︒

 ここでは︑連邦行政裁判所が立入らなかった祈りの位置がまず問題とされる︒ミュンスター上級行政裁判所は︑祈

りを学校の教育任務と関係づけて授業の一環と捉えたが︑この把握は直接的なイデオロギー的教化を国家の教育任務

の枠内と認めるもので︑ ﹁伝道学校﹂を否定する連邦憲法裁判所キリスト教共同学校判決と相容れない︒国家の教育

任務と親の教育権の同列性を強調する︵の・b︒ωの︶本件判決は︑一方で祈りの許容性を判例上承認された公立学校におけ

る宗教的連関の許容性から導き出すが︵ω・卜QG︒Q◎︶︑他方で祈りを国家の教育任務の枠外に位置づけ︑先例の認めるキリ

スト教的な文化的・教養的価値の問題とも無関係とした︵匂陪.b︒ωQ︒h.︶︒そこから連邦憲法裁判所は︑祈りが特定の信仰

的観念に基づく信仰告白行為であり︑すべての生徒を拘束し得ず︑希望する生徒に積極的信仰告白の自由を保障した

ものであると捉える︒祈りが国家の責任による﹁学校行事﹂である点は維持されるが︑参加の自発性が出発点となる

︵ω.b︒ωOhh・︶︒もっとも判決は︑祈りの挙行を求める親の積極的決定権がないとして祈りを許可する国家の義務を否定

し︵ω﹄凸h・︶︑祈りが基本権行使の文脈で捉えきれないことも明らかにする︒

175

(28)

 ここには論点のすり替えがある︒先例が認めたすべての生徒に拘束的な宗教的連関を越えた所に︑生徒の私的行為

とも異なる﹁学校行事﹂という第三のカテゴリーを作り出すことにより︑国家がイニシァティヴを持つ宗教儀式が生

徒の基本権行使という観点から正当化される︒実際に判決は︑祈りを学校行政︑校長︑教師が提案しても親.生徒が

提案しても同じに捉え︑また︑祈りが行なわれるのが授業中であろうと授業外であろうと同じ評価を下していく︒ベ

ッケンフェルデは︑判決が祈りを国家の教育任務から切り離した点を一応の進歩と評価しながら︑この論法を一貫さ

せるなら祈りの授業からの分離は組織的に具体化されねばならないと指摘し︑ ﹁連邦憲法裁判所は︑授業から祈りを

切り離すことを本気で考えておらず︑それを単に国家の中立性に基づく反論を退けるための目的的議論として利用し        ︵801︶ている﹂と推測する︒

 このトリックにより学校での祈りの問題は︑国家的宗教行事対信仰の自由の構図でなく︑祈りたい生徒の積極的信

仰の自由対反対する生徒の消極的信仰の自由という土俵に位置づけられ︑課題は思量の調整に設定される︒その調整

を参加の自発性の確保に求める︵ω.b︒凸︶判決は︑ヘッセン国事裁判所判決に対し消極的信仰告白の自由を私人間に拡

大し︑積極的信仰告白の自由に優越さぜた点を︑ミュソスター上級行政裁判所判決に対し基本権より就学義務を優越

させた点を批判し︑反対する生徒の消極的信仰告白の自由から祈りの非許容差を導き出す見解を退ける︵ω﹄齢︷h・︶︒

 こう考えれば︑問題は参加の自発性を確保する方策に尽きる︒この点に関し判決は︑教室外への退出や教室内での

沈黙といった回避可能性を考察し︑祈りを回避することで生徒が仲間外れになり︑クラスで差別されるならその回避

可能性は期待可能でないとする︒それでも判決は︑連邦行政裁判所が指摘した長さ・頻度に関する限界と親への通知

という条件を加味し︑さらに教師が寛容と信条の相互的尊重という観点で生徒に働きかけるべきことを指摘し︑差別

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(29)

公立学校と良心の自由(三)

的な仲間外れの地位が通常は恐るに足りないと認定する︒宗教の授業などの場合にも存在する不参加からくる特別な

地位は︑考えの異なる生徒が耐えるべきものとされる︵ω●bこ亟Q◎Ib∂㎝トり︶︒

 連邦憲法裁判所のこの判決は︑連邦行政裁判所判決との比較から明らかなように︑積極的/消極的信仰の自由の構

図に則りつつも︑表現上は祈りに反対する少数老に手厚い権利保護を及ぼす︒しかし現実にはそれらの指摘も︑学校

での祈りの合憲性を真剣に精査する際の原則を示したものと言うより︑既存の制度を正当化する道具として用いられ

ている感がある︒自発性の論点に関してもベッケンフェルデは︑祈りを拒否することで不利益が生じないことの立証      ︵90正︶責任を国家の側に求める︒判決の前提から出発するなら︑不利益の不存在は現実の事例に照らしてもっと厳格に審査

されるべきであり︑判決のような概括的判断はできなかったのではなかろうか︒

 ベッケンフェルデの理解に対し︑ショイナーが判決を擁護する立場から︑ ﹁学校行事﹂としてのキリスト教的要素      ︵01︸︶も学校の宗教的連関に属すと主張して反論した︒この論争は︑積極的信仰の自由の理解に関わる︒ショイナーはこの

概念を広く捉え︑本来基本権と言えない信仰的要求まで取り込んだ上で︑先例であるキリスト教共同学校判決が国家      ︵m︶に積極的信仰の自由への援助を要請していたと捉える︒それに対し︑判決が祈りを授業から切り離しながらも祈りの      ︵1︶許可をラントの裁量とした点に矛盾を見るベッケンフェルデは︑積極的信仰の自由を私的領域で展開する宗教行使の

自由と捉えている︒ベッケンフェルデが以前の判例評釈で繰り返し学校での祈りを積極的/消極的信仰の自由の調整      ︵B1︶という文脈で見るべきことを主張したにもかかわらず︑連邦憲法裁判所判決批判の中で再び彼本来の自由主義的基本       ︵411︶権理論に忠実に﹁整合﹂批判を展開するのも︑ポートレッヒの言う﹁社会的構成体﹂としての学校という非国家的領      ︵511︶域で祈りを可能にしょうとする問題意識があった︒

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参照

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