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『戦争戯曲集三部作』

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Academic year: 2021

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本書は、世界恐慌の時期にロンドンの労働者階級の子として生まれ、第二次 世界大戦中に少年時代を過ごしたエドワード・ボンド(Edward Bond, 1934-)

の『戦争戯曲集三部作』(The War Plays: A Trilogy, 1984-85)の、本邦初訳であ る。本書のタイトルからも分かるように、ボンドの戯曲は、さまざまな社会 的抑圧から生じる暴力の不条理さを描き出している。本書の解説をしている ダヴィッド・テュアイヨン(David Tuaillon)によると、初期作品『救われて』

(Saved, 1965)は「イギリス演劇においてひとつのレファレンス」(291)となっ ているのだが、若者たちが乳母車の中の赤ん坊に石を投げて殺してしまうとい うショッキングな結末ゆえに、ただ暴力を見せるだけの挑発的な劇作家として 誤解を受けることも多い。だが、ボンドの主題は「非人間的な世界で人間的で あるにはどうしたらいいか」ということであり、彼は登場人物たちが直面する

「極限」の状況を通して、その問いを観客に投げかける(300)。『戦争戯曲集三 部作』もまた、この人間性についての謎を探求する作品になっている。

第一部の『赤と黒と無知』(Part One: Red Black and Ignorant)では、未来の 核戦争のために母親の子宮の中で真っ黒に焼け焦げた「怪物」という登場人物 の「生きることのなかった生涯」(22)が語られる。「両手は赤、胸は黒、頭は 無知の支配者のもとで生きるあなたたちよ」(64)と観客に呼びかける怪物の

冨 田   岳

エドワード・ボンド著 近藤弘幸訳

『戦争戯曲集三部作』

(あっぷる出版社、2018 年)

〈書評〉

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妻は、怪物やその息子と共に、現代の人間が未来に対して背負っている責任を 自覚させようとする。

第二部の『缶詰族』(Part Two: The Tin Can People)では、核戦争後に焼け残っ た無数の缶詰によって、労働から解放された人々の小さな社会を舞台としてい る。「地獄の跡地に天国が建設された」(76)かに思われた彼らの社会は、しか しながら、相次ぐ突然死の恐怖で集団パニックに陥り、再び何もかも崩壊して しまう。

第三部の『大いなる平和』(Part Three: Great Peace)では、核戦争による大 飢饉の結果、軍隊が口減らしのために子ども殺しの命令を兵士たちに下す。兵 士の一人である「息子」は、二人の子どもしかいない故郷の街で命令を実行し なければならず、隣人の赤ん坊と自分の母親の赤ん坊のどちらかを殺害しなけ れば銃殺刑になる。どうにもならない状況に強いられた息子は、一度は隣人の 赤ん坊を連れ出しながら「あの子を殺せなかった」(155)と言って帰宅し、他 人の子どもの命を奪うよりは自分の妹を手に掛けることを選択する。対照的に、

最初は赤子を二人とも守るべきだと息子に詰め寄った母親は、最終的に我が子 のためには隣人の子どもを犠牲にするしかないと思い詰め、息子の代わりに隣 の赤ん坊を殺害しようとする。だが、彼女は息子が自分の家の赤ん坊を窒息死 させたことから狂気に陥り、ぼろ布の包みを死んだ赤子と思って荒野を彷徨す ることになる。

ボンドの作品の文体上の特徴は、訳者あとがきによると、「台詞そのものに はほとんど句読点が用いられていない」(305)点である。したがって、本書の 訳もほぼこの方針に沿っている。例えば第一部で兵士としての訓練を受けた怪 物の息子が、軍隊から受けた命令について、父親に畳みかけるように説明する 場面を見てみよう。

新兵に命令が下ったのさ、帰省し各自一人の腐れ民間人を射殺しろって どれを殺すかは新兵次第

困難な決断から逃げるな 潜在能力をテストせよ 己を知れ

目を照準器に当て指を引き金にかけてはじめて己を兵士と呼ぶことがで きる

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第三部に登場する息子のように、怪物の息子も隣人と家族の命のどちらかを選 択せざるを得ないのだが、このスピーディーな文体の効果は、切迫した状況を 強調できる点である。不条理な暴力が止めようもなく押し寄せて登場人物を呑 み込んでしまう圧倒的な感覚が、句読点のほとんどない文体によって反映され るのだ。勢いのある日本語訳は、ボンドの文体の圧倒感を忠実に伝えている。

また、訳注によると、この戯曲の至る所で兵士たちに使用される「腐れ」と いう罵り言葉は原文では “corpse”(死体)なのだが、この訳によってボンドの 重要視する「腐敗のイメージ」が前面に押し出される(53)。そこから浮かび 上がってくるのは、民間人の体が生きながらどろどろと崩れ落ち、悪臭を放っ ているような視覚的、嗅覚的な生々しさだ。そのような言葉を吐く兵士と彼ら の悪態を浴びる民間人は、どちらも核戦争の生存者でありながら(と同時にそ の惨状の中で生き延びたからこそ)、おぞましい死のイメージに囚われてしまっ ていることを「腐れ」という訳語は強めている。

とりわけ第三部に登場する兵士たちは、通常なら名詞としてしか用いられな い “corpse” を「死体化する」という動詞として使う「死にとりつかれた人びと」

(129)だと訳注で述べられる。この強烈な訳語が照らし出すのは、人の命を奪 うことに無感覚になっている兵士のありさまだ。例えば、隣人の赤ん坊を殺し かねている息子に向かって、酒の誘いに来た同僚が「そいつを死体化しろ」(140)

と急かす箇所がある。この戯曲における子ども殺しが食糧の無駄を省く解決策 として採用されていることを考えると、「死体化」という訳の背後から「合理化」

という日本語の響きが聞こえてくるように思われる。子どもの命を奪うという 残忍な行為は、この劇では、あたかも企業の生産性を向上させるための人員整 理であるかのように平然と語られてしまう。そのように、子ども殺しを決まり きった仕事として処理する未来社会の恐怖が「死体化」という言葉によって高 まるように思われる。

だが、未来社会の恐怖といっても、それを「今、ここ」とは関係ない非現実 の出来事として捉えるような受容の仕方は、この劇の軽視につながることだろ う。訳者あとがきでも指摘されている通り、冷戦末期に執筆された作品である にもかかわらず、「世界が分断と憎悪に包まれ、戦争が現実味を増す中、『戦争 戯曲集』という作品がもつアクチュアリティは増すばかり」(307)なのである。

いつの時代も不条理な暴力が蔓延するこの世界で人間性を失わずにいるにはど うしたらいいのか、その問いを一人一人に突きつける『戦争戯曲集三部作』が 今般、日本語で紹介されたことの意味は大きい。

参照

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