菓子の過去現在及び将来
松
! 崎 宇
げ ハ
F 白
UH最一辺に於ける我闘の菓子はその質に於ても︑その量に於ても自費しい稜誌を一不し τ ︑
一 伺
年 の
製
産額正に七億闘を算するの盛運に達した︒それは︑園家産業上に極め℃重要な意義主持つものであ
b ︑夏に闘民生活上に至大な柴養的闘係を持つものである︒故に︑
一 一
般 園
民 に
向 つ
τ 菓子の本質に
闘する正しい認識を奥へる乙とは︑やがて闘力進展の基となるべき大問題である︒期信念︒乞以 τ ︑
五日冷は常に自ら鞭っと︑もに︑叉絶えず大衆は呼びかけ℃居るが︑辛以にし℃漸次一般の理解が進
み来った之とは快心に堪え攻い︒思ふに︑今後閤民の菓子に卦する心境の援化は文化の向上と相暗
じ℃盆斯業の躍進を促し︑吾々の理想宜現の日亦決し τ 遠さに非ぎる乙とを確信する︒
飴 と
和 市
然も我閤の菓子は偶然な現はれでなく︑遠さ/︵\班先以来の忍耐と努力とを以℃遺 b あげた日本
論 叢
菓子の過去現在及び将来
六 五
詩 i
毎 皇
論 議 第 五 意 昆
六 六
文明の華なのである︒
之を園史民徴すると︑神武天皇は即位前三年の九月に丹生川の畔で飴を造 b ︑天神主祭 b 給ムた
之とが日本書紀に記され℃あ b ︑叉古くから神前に供へる餅︵モチヒ︶や非常の場合の食料とする
精︵ホシヒ︶等があっ党︑それらは何れも後世に及んで菓子氏進化したもの\前身であるが︑営時
に於ける民族の生活蹴態とし℃はそれが直ちに菓子とし℃取扱はれたのであらう︒
﹁令義解﹄に﹃主菓餅二人︑掌菓子︑遺雑餅﹄とある︒− i 乙の菓子は今いよと乙ろの果寅であ
るが︑現在の菓子は雑餅といよ名稽を以 τ ︑果賓と
Lもに均等の取扱ひを受けた︒換言すれば︑菓
子は人魚の果買であ b ︑果買は天然の菓子であるといよ底の意味である︒それは︑組先以来の麹 b
なさ概念であるが故に︑絡に大賓令の制定に際し℃官職の上に表現詰れたのである︒
勿 論
時 同
時 の
産 業
は 甚
だ 原
始 的
で あ
っ τ ︑菓子とし℃の幼稚な工業も商業もなく︑穂℃が自給自足
であっ允︒そして品質は殆ど常用食料乞僅かに轄化した程度で︑金然略目好的要件を敏如したもので
あ る
ρ けれども︑乙の平々凡
A γ
たる菓子乙そ正しく我闘に於ける菓子の歴史を飾るべき殿粛な第一
頁でなければならね︒
唐 菓 子 の 停 来
奈良朝時代に及んで︑幾度か陥唐への使節が仮遣せられたが︑その 一行は数百人を以℃薮へら
れ︑それよ
Lの専門に就℃彼の図の文物を研究した結泉主我闘に持ち来した︒
111菓子の製造も亦
誰が特別に研究したといふ乙となしに︑支那に於ける製法を俸へたものであった︒
いはゆる店菓子︵カラ・クダモノ︶がそれで︑現に欧米の製法に依る菓子主洋菓子と呼ぴならは
してゐる如く︑昔時の日本人は新奇な支那の製法に依る菓子即ち店菓子とし τ
珍重したのである︒
その唐菓子︑がどんなものであったかといよと︑今も向その名主惇へられ℃ゐるものが十除種ある︒
試みにそれを列奉すると︑
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〈菓子の泡会現在及び帰来
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等で︑梅枝以下の圏喜に至る八口叩は平安朝時代になっ℃も八種の唐菓子と稀し︑饗膳用として重ん
飽
官
I︵ コ
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創
j宮 古
ぜ ら
れ た
︒
併しながら群書を綜合し℃店英子の製法を窺ふと︑大韓に於℃︑
一︑米の粉又は小委粉を乙ね℃或る物の形に詰 b 油であげるもの
二 ︑
米 の
粉 ︑
小 委
粉 ︑
一 旦
の 粉
を 乙
︑魚肉︑烏肉︑野菜をくるんで油であげるもの τ 外皮を造 b ね
の二系統に分つ之とが出来る︒そして︑着色の方法として豆類や胡麻を使用した b ︑甘味をつける
峰 崎
め に
甘 葛
や 蜂
蜜 を
使 用
し た
の で
あ る
︒
それは︑五口冷の眼で見ると︑寛氏草調なものであるが︑餅や締よ b 外に知ら無かった嘗時にあっ
ては︑兎にも角にも着色︑甘味及形肢等に略目好的要件を附した唐菓子乙そ驚異すべ 3 珍味であった
であらう︒故に︑それ迄は最も風味ある食物として見られた菓子︵某質︶になぞらへて︑唐菓子
︵カ−ア@グダモノ﹀と美揺したやうに解せられるが︑是が基となって︑還に現在の菓子といよ用語
例を聞くに至ったのであお︒
乙の意味に於 τ ︑我闘の菓子は支那の製法に依って啓蒙せられカといひ符られる︒
千 安 朝 時 代
平安朝時代は文物絢欄を極め︑各種の産業が礎遣し売のであるが︑菓子に於ては極めて接迂が錨
か っ
た ︒
彼の唐菓子の技巧を踏襲して︑木菓子郎ち桃︑栗︑柿︑梨︑柏︑柑橘等の果賓と︑もに︑饗膳の
珍味としたトことが多くの記録に惇へられて居る︒却もその名は唐菓子であっても︑最早完全に日本
のものにな bB つ℃しまった︒故に︑鳥羽川天皇の大饗にも︑盛菓子四種と木菓子四種とが二つの盤
に 盛
ら れ
た が
︑ そ
の 唐
菓 子
は 偶
側 ︑
桂 心
︑ 結
瞬 ︑
餅 端
棚 ︑
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た と
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︒ そし℃︑延吾式には粕粧︑︵オコシメ︶の名が見え︑﹃源氏物語﹂には亥の子併の名が詑遣れ︑﹃枕草
子﹂には青ざしの名が遣って居るのを見ると︑唐菓子の手誌に依つ℃純日本式の菓子が創造遣れ出
し た
乙 と
が わ
か る
︒
叉︑弘法大師は店に習皐しカ時亀甲煎餅の製法を習っ℃蹄朝したが︑それを偉授された山域国嵯
首 命 議
菓子の過去現在及び府系
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、
ゴ
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墜 論 叢
第 王 L 説
ー ヒ 。
峨の和三郎が製品を嵯峨天皇民献上して叡戚を蒙 b ︑後民亀屋和泉藤原政重と名乗って宮廷御用を
奉じたとい λ ︒是が
hwはゆる煎餅の起源であるが︑その製法は小委粉に葛根を和して果賓の糖汁で
風味を蹴へ︑火熱で焼いたもので︑ぞれが雲上の叡戚を蒙ったといムことは︑以℃嘗時の菓子︑が如
何に幼稚であったかを想像するに足 b
ゃ う
︒
蓋し菓子の原料とし τ 最も主要左砂糖は奈良朝時代に鑑真和向に依つ℃鷲ら遣れたけれども︑唯
そ れ
r けで︑普通の甘味料は廿葛にのみ依った営時として︑到底菓子の議定を期し得られなかった
の で
あ る
︒
鎌
A ‑ •=之島
Aι3
時 代
失で︑鎌倉時代から室町時代に及んで貼茶の趣味と﹂もに結心の流行を見るに至った︒
いよ迄も者く鎌合幕府は式力と倹素とを以℃起つだが︑
一 面
に は
宋 と
の 交
通 ︑
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て 各
種
の 文
物 主
総 入
し た
︒
現在我闘の大産業となって居る茶も鎌倉時代の初期に築西樺師が支那留皐の土宜として持ち来し
もので︑初めは薬用と見なされたのが・次第に大衆化し τ ︑上下一般に結茶の趣味が流行するやうに
なった︒然も乙の貼茶には菓子を用ゆると乙ろから︑俄然菓子の消費が盛んにな b ︑その製法の上
にも自賛しい礎達を示したが︑特に餅類に於℃その接達︑が頴著であった︒
日本に於ける菓子の大宗たる倍頭︑が初めて出現したのも賓に鎌倉時代である︒それは宋の林洋悶
が日本に蹄化して製造したもので︑その子孫相夫で停一本し︑以て今の盤瀬健一岐に及ぶと停説されて
居る︒その他種ιγなる支那の菓子がこの時代に停来した乙とはいよまでも無い︒
それで︑鎌倉武士の間には饗宴に除して風流菓子主用ゆるに至ったので︑還に北保泰時は武士の
職脊を抑える魚に禁令を殺し℃その使用を差止めたが︑嘗時の世相から考えると︑泰時の禁令が果
して目的を達したかどうかは頗る疑はしい︒
室
同 了
時 代
そ し
τ ︑室町時代に入ると盆ふ茶道が盛んになって︑総ての階級に茶の合がん柴しまれた結果︑そ
の貼心として直接的に菓子の殺遣を促したのである︒
蓋し姑心は支那古来の習俗である︒それは︑彼等の生活が一天雨飯︑即ち一日二食である魚に︑
その中聞に於て軽い食事を取るが︑之を稿して結心といよのである︒五日冷の蝿先も亦一日二食であ
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百
,,冊
̲叢 菓子の過去現在及び将来
七
商
尋 基
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副Hl
叢
第 五 : 競
七
ったので︑殆ど無僚件で支那に於ける姑心の習俗を受け入れる三左が出来た︒そし℃最初に於ける
結心の模倣者が尖端階級たる借侶であったが故は︑それに動茶の趣味を組み合せ℃立波な茶道の作
訟 を
編 み
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一 目
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支 那
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院 生
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取 b 入れられ︑究第に規則づけら
れて世の中に詮 b 出 3 れた評で︑字義その俸の間食が結局趣味の矯の間食に轄じたのである︒
従って日本に於ける貼心は最も技巧を凝し売もので︑糞類や麺類を以てその最上としたが︑殊に
薬類は四十八義と解せられた程に理類も多く︑且その食べ方もやかましいものであった︒勿論それ
らの製法は支那から停へられたもので︑義は即ち現在の羊葉の先駆であ b ︑麺は即ち伺鈍や素麺の
議現であるが︑麺類は後に専業とし℃濁立するやうになった︒
要するに︑室町時代に於ける茶道の杢盛は菓子製造の上に概めて重要在意義を持つものである︒
南鐙菓子の停来
戟園時代は我闘の菓子に革命を兆した時代であった︒
それは︑商班牙や葡萄牙の舶舶が漸次東洋航路を開いて︑我図の海港を訪れ来った魚に︑いはゆる
南畿の文物が渡 b 初めて︑支那の製法とは益然方式の建つ℃居る西洋菓子が轍入当れ︑五日冷の組先
を驚嘆せしめたのである︒
勿論初期に於ける南賢人の渡来は漂着であ h ︑次で布教であったが︑我圃から先方へ出かけて行
ったのでないから︑南瀞一人の驚らし来ったものだけが部分的に日本へ上陸したに過ぎない揮で︑何
時 ど
λ
な 菓
子 ︑
が 入
つ τ 束力かはわからね︒唯長崎夜話章に記 3 れた南賢菓子の種類を見ると︑
川
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カスザプラ ボヲル〆
花 ︑
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コンペイト
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バ ア ス 一 リ ノ
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タマゴソラメン ピスカウト
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等である︒それらの内で︑ ボウル及びア
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は葡萄牙の所博であ b ︑ カスア一プ及びコンペイトは
西班牙の所停であって︑何れも現に製造販買一治れ℃居る︒
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ピスカ 叢
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菓子︒過去現在及び駒来 七
商 事
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業 第 五 ー 披
七 回
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︑バン即ち食バンであるが︑その他のものは一克に日本に生長する乙と無く あ b
し て
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た ︒
南蛍菓子の九州停止
蓋し南盤の文物はその一舶来るごとに新奇なものを持ち来し τ ︑営時の日本人主肱惑せしめ︑織
同信長をし℃京都に南皆︑寺の創立を許すに至らしめたのであるから︑彼等の生活に必要な総℃のも
の が
五 日
λ
々の姐先の生活にも流れ込 λ いたと考えられる︒||例へば︑信仰方面に於℃︑有力な大名及
式士︑が熱烈な基督教信者となった如さ︑以て他ど推すに十分であらう︒
然も不幸なる切支丹禁制の騒ぎに遭遇して︑僅かに戎闘に根を浴ろした南蛍文物の芽生えは全く
主除 3 れ︑爾来車純な貿易舶とし℃の南盤舶も辛うじて九州の一角に寄港するのみで︑その文物の
普及は極めて遅冷売る肢態であった︒
戟閣時代の日本は一切を不安の渦巻に投げ込んで︑産業も荒藤し︑経済も破壊詰れてしまった︒
そ乙に菓子︑だけが特異な脱税遣を途げ得られやう筈もなく︑賞に混沌たる暗黒期に低迷した︒
そして噌好の相蓮と原料の絶無との魚に︑南盤菓子は嘗て唐菓子が首府の上流階級を第一着に占
閉じた後︑・次第に一般的に進展し℃行った自然当と自由さとを興へられないで︑空しく九州の片隅
に胸蹄し工︑容易に伸びるこ左が出来−なかったのであるから︑鵬格寓里︑進冷と東洋の天地に渡来
した幾多の種類の滅亡したのも買に巳むを得なかった︒
盟 太
閤 と
異 盛
一 口
ム
天正十一二年七月十三日に豊臣秀吉が参内した時の賜餐には九種の菓子が盛られたが︑それは
うすかは からは在
ゃなぎかは
b λ
ご 豆
あ め
昆 布
かも栗
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であったといふ︒叉桃山城に於ける秀吉の饗宴に出た菓子は
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論 叢
菓 子 の 過 去 現 在 及 川 目 崎 市 来
七 五
商
建 主
三 晶
画
,
, 業 第 五 披
七 六
三 ん
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であったと停へられて居る︒− i 却ち饗朕菓子としてもま︑穴木菓子が重要な位置を占めて居 b ︑
方菓子そのものも頗る高級で無かった乙とが知 h
特 ら
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︒
﹃嬉遊笑覧﹄に記ヨれた菓子の捕話に︑
青海苔をい b 一旦につけたる菓子︑太閤の御前へ出しければ︑幽寮公に向はせたまひ︑何と/\
と 有
し 時
︑
君が代は千代に八千代にさビれ石の
いはほとな
b て苔のむす豆
是︑今もあるしんせい豆といふもの在 b ︒
といふ一一節がある︒しんせい一旦は兼鹿堂雑録に依ると異盛豆と書くのであって︶元来京都北野の西
方寺の末寺なる異盛庵と栴する尼寺で︑黒一旦を妙って大根の葉を蔭干にした上に粉末にしたものを
衣にかけた豆菓子︑それを尼借が手製にして棺家への土産に持参したのが酷鰐で︑定政時代には京
阪地方で大流行を極めたといよ︒かやうな原始的な豆菓子︑か荷くも関白殿下の前に出されたとは
1現代人にとって寧ろ滑稽に戚ぜられるが︑事賓としては営時の菓子が如何に種類も賓質も貧弱至極
であったかを誼明すべき絶好の費料である︒
依って思ふ︑秀吉は二同に一旦る朝鮮征伐を試みだけれども︑菓子に閲する限 b は殆んど獲ると乙
ろが無かったのであらう︒
江戸時代の初期
斯︿℃江戸時代に及んだが︑その初期には昔︑た御朱印舶の活躍があったにも拘はらず︑著しい菓
子の楼達を示し τ
居 ら
ぬ ︒
勿論砂糖は慶長年聞から輸入され出し τ ︑引績当その輸入量を増加したが︑それは支那産の黒糖
が大部分であっ τ ︑然も嘗初は高債で且品不足で︑薬品扱以をし℃居ったのである︒従つ τ 之を思
日 切
っ τ τ の菓子に使用する乙とが出来なかったから︑唯或る一小部分のものに利用 れたむけ 穂
3で︑菓子全般として見れば接連遅々た b しものといよべきである︒
例へば寛永の初年に出雲の太守が幕命を奉じ τ 京都に上った時︑牛肥飴の美味に接したが︑江戸
に蹄つ℃からそれを求めたと之ろ末︑だ江戸には牛肥飴が無かった︒それで京都から中島浮雲と呼ぶ
菓子商を召して五人扶持を興へ︑その保護の下に江戸で閉店せしめたといふ記録が遺って居る︒ i
言 命
叢 菓子の過去硯在及び勝来
七七
商 墜 論 叢 第 五 銃
ヒ 八
ー三代将軍の時代になっ τ も︑江戸では牛肥飴さへ得られなかったのだから異に驚くの外ない︒
尤も江戸は建設時代であったから高事が京都よ b 遅れて居ったとも考えられる︒故に︑菓子にあ
つ τ も古さ歴史を有する京都を中心として観察すべきであらうが︑それとて徳川幕府成立に依る特
別 な
現 象
を 一
不 し
℃ 居
ら ぬ
︒
往々室町時代に於℃菓子に砂糖が使用せられたといひ︑江戸時代に入って俄然菓子の畿建を見た
と説く者もあるが︑それは宜際のり史賓と一致しない謬見である︒
鎖 問 以 後
次で鎖園となった︒けれども事貨は闘民の海外渡航を禁じた三けで︑通商の特詩を興へられた和
蘭及び支那の向般は年十長崎に入港した︒そして和蘭の手ど通じ℃欧洲各図の文物が絶えず轍入出
れ た
の で
あ る
︒
加之︑諸侯参親交代の制が始まつ τ ︑ 従来は多くの困難を伴うた交通も次第にらくになった︒
! i 即ち域下町の繁柴と
Lもに地方色の藤揮を促し︑真に各地に於ける文物の交換が行はれるやう
に な
っ た
︒
か ︑
︑ る
肢 況
に 依
τ つ ︑菓子の費達は安定した人心の上を流れ℃行ったのである︒
天和三年の京都本町一丁目北側桔梗屋河内大橡の商品目録を見ると︑
御菓子品々 六十六種
御 所
偶 店
頭 品
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五 種
御所菓子見布品々
種
御茶菓子丸蒸物類 五十四種
同御月蒸物類 四十四種
を掲げ℃ある︒そして御菓子品冷の部に南質菓子が左の如く加はつ℃居る︒
かるめいら なんぱん飴
あるへい糖 こんぺい糖
かす℃いら
はる℃い
どまほうる 花ぼうる
丸ぼうる
即ち南盛菓子は九州に上陸し℃から六七十年後に漸く京都迄東進した諜であるが︑乙の年数は若
論 叢
菓子の過去現在及び将来
七
ブ L
商 準 論 書 室 第 : I i
器 量
/\、
。
干短縮し τ も差支ないかと考えられる︒
そして桔梗屋の目録に依ると︑餅類の護法が特に目立つ℃居るが︑その何れも風雅な名稽を附し
たもので︑そ
Yろは貼心全盛の面影を偲ばしめる︒その一面に於℃︑唐菓子の名和が全滅してしま
った乙とは︑長さ/\図民の努力が支那の製法を消化しきって︑遺峨なく日本のものにした事賞を
詮 明
す る
も の
で あ
る ︒
有平糖の東漸した頃
然 も
南 盤
菓 子
は 目
的 覚
︑ ま
し い
勢 以
を 以
τ 間もなく江戸に進入した︒
即ち有平糖が先駆者とし℃江戸に停はったのは元職年問︑だといはれ︑次で正徳年聞に及んでカス
アラの東漸を見たといよことである︒例へば吉宗持軍が倹約令を政現した時の落首に︑
まづいものすきか︑むかしい公方様︑
あるへい拾℃︑松風にする︒
とあるが如き︑正しくア
Yへ イ
糖 の
江 戸
進 入
が 吉
宗 時
府 軍
以前であって︑どんなに江戸市民の味 よ b
畳を魅惑したかを察すべさ好資料である︒
それは砂糖が江戸にも普及した乙とを宜誼する意味になるが︑併しながら之を他の菓子にも使用
したとは遮断する誇にゆかね︒ア
Yへイは絶封に砂糖無しに造る乙とが出来ないけれども︑その他
の菓子に砂糖を使用すれば採算が取れなくなるからである︒
﹁ 嬉
遊 笑
寛 ﹄
を 見
る と
︑
今︿文政︶のよさ菓子どもは大かた昔︿正徳︶なか b しものな b ︒
とあるが︑要するに営時の菓子︑が技巧も幼稚であ b ︑風味も低劣であったと︑もに︑砂糖が使用さ
れ℃居ら攻かった之とを物語るやラである︒
試みに元職直前の延資年聞に於ける江戸の名物菓子主見ると︑
盤瀬の鑓頭と椋 高砂屋の縮緬鰻頭
松屋の煎餅 木下のゐ乙し米
助惣の毅の焼
芝 山
り 三
宮 飴
大師堂の源五兵衛飴 雨園のちむら糖
な ど
L
書
い て
あ る
︒ ︵
ち ピ
ら 糖
は ア
Y
へイ糖の一種であると説明したものがあるが︑然 b とすれば時
代に錯誤があるやうだ︶
論 議
菓子の遜去現在及び時前衆
/¥.
高 拳
論
議 第 五 畿
l¥.
. . . . . .
次で︑正徳直後に於ける亨保年聞の名物菓子主見ると︑
烏 飼
の 一
銭 頭
本 町
d
鳥 飼
平 日
J
ミ ;
菌の梅 本町
鈴 木 越 後
b
日円同11 守 H
A日 叫
b甘
巨︸ 旧長 一
十軒店
長 島
丹後
幾世餅
雨 園
小松屋喜兵衛
等 で
あ る
︒
以℃前読を裏書するに足 b
ゃ う
︒
やかましい上菓子
元来菓子は噌好的要件を持つ品川めに︑上から下へ流れ τ ︑大衆の問に庚まつ℃行く性質がある︒
江戸の菓子も部乙の原則に従つ τ ︑先づ献上菓子に目咽覚ましい接建を示して居る︒
即ち三百大名は正月の蹴儀としてそれ
4 L
自慢の名物を将軍に獄︑ずる習慣であったが︑その大部
分が菓子︑だったので︑普通に之を献上菓子と呼んだ︒或はア
Yへ イ
糖 の
大 賢
婚 ︑
或 は
蒸 菓
子 と
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菓
子との粋を世田した一珊宇揃ひ︑或は落雁の日の出に千濁鶴︑その他思ひ/\の趣向で︑金銭珊瑚ど惜
気もなくあしらふ︒そして警固の武士が威儀三千の行列をなし︑献上菓子を載せた釣牽を緯つ℃警 陣堂々と練って行為
JC
︑市民は土下座して見送ったのである︒
その風が下へ/\と移つ τ
︑ 大
名 届
敷 へ
出 入
す る
御 用
商 人
に も
及 ん
︑ た
︒
i i
i それで上菓子司は非
常 に
や か
ま し
い も
の と
な っ
︑ 列
︒
極端な事例を翠げると︑幕府御用︒大久保主水の如告は菓子を造るけれども市民一般に貢らなか
ったのである︒それは主水の組先藤五郎が五千石ど所領する直参の旗本とし℃︑菓子の手話 b
に 堪
能だったので︑徳川家康の御用を仰せ付けられ︑子孫代々その職を襲い︑た︒故に府軍一族の食べる
菓子は主水の遣っ︑たものに限られ︑その宇面に主水の菜子︑が世の中に販責主れる乙とは許きれなか
っ た
誇 で
あ る
︒
真に彼の白河奨翁︑が抜抱した日付議山孝盛の記すところに依ると︑旗本が初めて役に就けば先任 ︐ の同僚を自邸に招いて披露の宴ど張る習慣に攻って庇ったが︑その饗膳菓子は鈴木越後の羊義が例
になって居った︒ところが︑或藤本がそれに不詑意だった魚︑長島丹後の羊章一を用ゐたので︑役所で
公々一然と同僚から瑚笑の包閣を受け︑翌日わぎ/\関係者を歴訪し℃詑びたといよ乙とである︒
貞享四年に出版遣れた﹁江戸総鹿子﹄に︑営時の菓子商は桔梗屋和泉︑桔梗屋土佐︑松屋山誠︑
E』
語
R
泊霊 童
菓子の過去現在及び崎市来
/¥.
商 単 論 議
虎屋︑すわまや︑ゑぴすや︑その他二十六軒であると記してある︒江戸金市の菓子商が僅かに三十
第 互 L
1"¥.
四
量 定
かったからである︒ 二
軒 に
過 ぎ
ぬ と
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戚 ぜ
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︑ 皐
一 ・
一 寛
之 は
上 菓
子 に
属 す
る も
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みで︑それ以下は眼中にな
営時に於ける菓子商
然るに市民生活の安定と︑もに︑饗宴に︑贈答に︑叶地籍に︑菓子の需用が著しく増準し︑従つ℃
菓子商に多くの成劫者を見る乙・と︑在った︒
﹃江戸自慢あき λ どの大金﹄を見ると︑安永年間に於ける江戸の大商人二十軒を悲げであるが︑
第 七 位
その筆頭が三越の前身なる越後屋︑次位が白木屋であっ τ ︑菓子商とし℃は左の七軒が事げ℃ある︒
御用菓子 本石町
金
丹後棒
第 九 位 第 十 位
第十二位
第十四位
津 煎
w~照降町
翁
太兵衛
屋 幾 世 餅
雨
小松屋 喜兵衛
図 焼 鰻 頭
伊勢屋七郎兵衛
車 豆
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若荷屋九右衛門
浅
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第十六位
京 菓 子
浅 草
虎 屋
平日
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第十九位
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L" l n " 3 ,
忌
ι
現
京
橋
林 盤 瀬 斯くも江戸二十買市の中に菓子市が七軒迄襲へられた乙とは最も注目すベ
3 貼であるが︑同時
に︑乙の七軒中に上菓子ならゴるものも加はって居るのは︑特に興味多︿戚ずるのである︒それは
大衆市民の支持に佐一つ℃礎展したものであって︑菓子が必ずしも上菓子に限らない乙とを示し︑時
勢崎耐に一轄せんとするの兆を物語つ℃居る︒
天明年間に及ぶや︑萄山人の一議に依って江戸名物の食道柴の狂歌相撲が催 3 れた時︑左の菓子
が事げられた︒
最 盤 中 毒
月 頭
苛 川
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会 主
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作 中 ・
究 サ ︐ 1 4 4 H H 在 骨
御所ゐ乙し
目黒架餅
鹿 子 餅 大 傭 餅
市谷栗焼
翁屋街焼 今 川 焼
相 屋 飴 それよ A リ進んで享和年間に至 b ︑設に中流以下の市民にも徹底すべき駄菓子の出現を見たのであ
る論 叢
菓子の過去現在及び帰来
八 .
五
商 ー
き 主
議
第 、
五 :
号 髭
入 一 六
砂 糖 の 図 産
乙
Lに少しく砂糖の問題主連べなければならね︒
いよ迄もなく砂糖は我悶に無かったもので︑初めは支那の黒砂糖に甘んじたが︑やが℃和蘭の白
砂糖を轍入するやうにな b ︑年冷莫大な支梯を要するので︑いはゆる正貨流出に気づいた幕府は途
に轍入量を制限するに至った︒そし℃吉宗勝軍は砂糖製法役所を設け︑盛んに各藩に卦して園産奨
聞を行ったが︑風土の閲係から失敗に失敗を重点︑漸く寛政年聞に及んで紀伊及讃肢から白砂糖を
産出するやうになった
Q併しながら﹁塵塚談﹄の記すと乙ろに依ると︑
同︿文化﹀十年発自には江戸中のもの七八分倭製主用ゆ︒
と あ
τ ︑江戸に於ける消費ど自給し得たのは文化の末年なのである︒ っ
それで幕府は安永四年に禁令ど殺して上菓子司の軒数を制限し︑砂糖消費量の増症を抑えんと試
み た
程 で
あ る
が ︑
一史以砂糖に依つ℃向上し党菓子は大衆の噌好に喰ぴ込 λ で︑最早甘味の稀
f薄 な
無糖時代へ逆戻 b する乙とを許さなくな b ︑爾来菓子の需用は質的にも量的にも︑目︑きましい進歩
を 途
げ 介
︒
絡に上菓子は黒砂糖を捨て︑白砂糖を用以るやうにな b ︑品質改善と︑もに債格が引上げられた
ので︑大衆の需用に懸ずる必要から︑黒砂糖を使った安債な駄菓子が生れたのは極めて自然な成行
主 で
あ っ
た ︒
白砂糖の園産が賃現するや︑
文化元年の頃よ b して菓子の類に商人ども専ら用ゆ︒
と﹃塵塚談﹄に記してある如く︑砂糖の消費は菓子に依つ℃大部分を占められたのであるが︑鎌倉
時代に於ける茶の惇来が菓子に依って普及し︑以て日本の図産となった如く︑砂糖も亦菓子に依つ
て無よ
A Y 有を生み︑大なる産業を完成するに至った乙とは買に快心に堪えない︒
金 平 糖 の 挿 話
期く℃白砂糖の自給に伴ラ℃︑文化年聞に江戸でも金米糖が造られるやうになった︒それは﹃一
話 ゴ
一 一
一 ロ
﹄ に
載 す
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乙 ろ
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谷 志
摩 の
商 品
目 録
に 金
米 糖
が 見
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乙 と
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賓 謹
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﹃ 守
貞 漫
稿 ﹄
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文政年間よ A Y 製造し初めたと記したのは諜 b である︒之を京都に於ける金米糖製造に比較すれば︑
その還る︑乙と正に百有飴年である︒
論 叢
菓子の退去現在及び眼前来
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七
商 毒 主 論 叢 第 五 宮 髭
/ ¥ .
i¥.乙の江戸に於ける金米糖の出羽民間し τ 最も興味ある事買はジ
IポYトの訪問であった︒彼は丈
政九年四月十日に初めて江戸へ着いたが︑その日薩一廉の老侯島津重豪︑が中控侯奥平昌高︿貴子︶及
ぴ島津務彬︵曾孫︶を携へて︑郊南の茶屋に彼を迎へた︒その珍客接待に用ひた菓子が金米糖︑だっ
たといよから︑営時の金米糖が如何に珍重されたかを知るべ 3
で あ
ら う
︒
勿論幕府特詐の和蘭商舶は引績き長崎に入港し︑往冷英濁米の商船さへ和蘭のそれ正偽って来た
事賓があるけれど︑菓子に関する限 h は特別な品種や製法を鷲ら誌なかった︒叉支那の商船も年々
渡来したので︑
香 餅
大胡麻餅
火 縄 餅
賀 銀 頭 香 沙 撚
玉 箆 椋
胡皮牛皮
等が早い頃に停はった乙とが﹃長崎夜話草﹄に見えて居るが︑遠 BJ
よ 日
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菓 子
の 如
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か っ
た ︒
蓋し日本人の晴好趣味が殆ど固定して︑萄山人はコーヒーに封する戚想を︑焦げ臭く℃呑むに堪
えずとい以︑佐久間象山もバターに酔易した程であって︑その他は推して知るべきであった︒
名物菓子の普遍
天保年間に於ける調査に依ると︑江戸の菓子商は北番所の分が二十二軒︑だった︒偲に南番所の分
も略同じ位だとすれば︑都合四十飴軒に過ぎぬが︑貞享年間の三十二軒に艶照すれば︑約百五十年
を経過したにも拘はらず︑僅々十飴軒を増加したに過ぎない之とがわかる︒之は上菓子司の制限が
やかましかった関係であらう︒ー
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︑ 駄
菓 子
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の で
あ る
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併し君︑から嘉永年間には念搬社増加を示して︑現在の日本橋匿に屈する地域だけでも二十一軒を
算するに至った︒その主要製品は鐸頭︑羊葉︑前⁝餅であって︑特に煎餅は最も多種多様︑且ぞの襲
選 ︑
が 甚
︑ た
し か
っ た
︒
結局︑鎖闘と太平との結果︑自らのカで刻苦研究する之とに依って濁自の文物を創造するの鈴儀
なきに至ったが︑モミに︑菓子としては唐菓子の手法を基礎として南盤菓子の技術を按排し︑以て
海然党名日本趣味の菓子を築 3 上げ・たのである︒そして江戸の菓子は三百諸伎の参親交代につれて
順次金問の各城下町民普遍苫れ︑波生的にその地方事情に越する新意を加へて︑ずん/\左伸一ぴ τ
吾ノ、 両附
叢
菜子の過去現在及び将来
A
丸
商
F塾 前 叢
第 宝 玉 続
九
0行った
c 即ちいはゆる名物菓子がそれで︑到底枚翠するの煩に堪えないが︑大躍に於℃健頭︑羊妻︑
煎餅︑飴類を大宗とし︑千費高化の美ど謹し梓を極めたのであった︒
唯︑組℃は手工業に層し︑自製直買だったのである︒
明治時代の初期
還に鎗闘の悪夢は破れた︒
多難な時局に振墾された吐合制度は根乙そぎに襲草して︑新しき日本の力に満ち内躍準が始まつ
た の
で あ
る ︒
明治時代の初頭は買にあらゆる蹴米の文物を取 b 入れる乙正に多忙を極めたが︑京都は東京へ︑
長崎は横漬へ移つ τ ︑世界の新智識は以党/\左日本の首府へ打ち寄せた︒だから玉石同架の歎を
兎れ攻かったが︑そ乙に菓子の歩みを同顧すると︑
一︑慶臆三年十月の﹃寓闘新聞﹄第七集に横演元町一丁目中川屋嘉兵衛 ω バシ︑ピスケット︑ポ
ヅ ト
Y
︵ バ
タ ー
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の 贋
告 が
掲 載
さ れ
向 ︒
︺一︑﹃明治事物起源﹄に明治一五年六月風月堂から薩摩藩へ東北征伐用の兵糧バシ五千人分主納めた
と 記
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あ る
︒
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明 治
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木 村
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四︑明治八年風月堂米津松濃の次男恒次郎が洋行した結果︑乾蒸餅︵ピスケヅト︶を製造し明治
十年第一同内閣勧業博覧曾に出品し τ 名審銀牌を授興せられた︒
五︑明治十一年十一月二十四日の寵頁新聞応風月堂の貯肯齢糖︵チョコレートゴボン/\一︑ブロ
ンケーキ等の庚告が掲載苫れ τ
あ る
︒
六︑明治十七年新杵がシカプ大博覧舎に出品されたドロップス製造機械を購入した︒
等の事買があって︑その苦心と努力とは誠に敬服すべきもの︑がある︒
然もそれらが容易に大衆化しなかった之とは︑人心︑経済の安定を快いた営時として己むを得︑き
る 結
果 ︑
だ っ
た ︒
菓子税法の打破
明治十八年七月から菓子税法が官施せられたが︑それは使用人一人に就て二固五十銭︑製造高百
固に就 τ 五固を課税当れたもので︑全図の菓子商が一審に蹴起して反封運動を始めた︒現在の眼で
論 業 菓子の過去現在及び帰京
九
向 舟 需 主
" " "
·~司
議 第 五 競
先
A乙の税額を見れば何でもないやうに思はれやうが︑立探な鑓頭一一個が一一煙から三原で頁られた営時
としては︑買に死活に閲する章一説︑だったのである︒それで︑乙の運動の魚は菓子商は湘央閣結する
やうになったが︑第九議合に至って漸く菓子税法の際止が決定し︑魚に斯業将来の殺展を保誼され
?
然も営時の菓子は依然奮来のいはゆる和菓子が大勢を支配して居ったが︑日清戦争に前後して賓 ミ
京市一旦や金米糖の大流行主喚起した︒ヲぞれで東京の掛菓子製造家は明治三十年十月に組合主組織した
が︑その組合員数は約百二十人で︑市内は勿論︑益岡各地に販出して︑賓京市一旦年産相五十高圏︑金
米糖年産額四十寓同に遣し︑幾多の成金を生じた︒ 乙の賓飛成金︑金米成金は闘阿各地に私見られ
・たもので︑兎に角我闘の菓子として大量製産の先駆をなすものである︒
日露戦挙民於ける陸軍御用品は賀来一旦だった如 3 ︑如何にそれが流行を棋め︑且つ長期に豆った
かを知るに足
A Y
ゃ う
ο
併しながら前記の組令は製造家即ち問屋に従属する下職の闇韓だったので︑間もなく問屋側にも
組合が組識芯れたが︑組合員数は僅冷十八人であった︒||今日から見る左異に隔世の戚を禁じ符
な い
の で
あ る
︒
洋菓子の勃興
明治三十二年に及んで︑我闘に始め℃の菓子曾祉が創立遣れた︒それは志村吉蔵︑庚溺長吉︑岸
国某の出資に係るもので︑資本金六千回︑事業はピスケット製造であったが︑経営難の魚に僅々宇
個年で倒れ︑その後は士山村吉城の濁力経替となった︒現在も管業しっ︑ある木村屋製菓合資曾枇が
即 ち
そ れ
で あ
る ︒
次で翌三十三年に資本金二十高岡の束洋製菓株式曾枇が創立遣れた︒同祉は英闘人の技師を招聴
し︑ビスケット製造を行ったが︑後にはドロップも製造した︒︵羽在はドロヅプス製造主藤し℃ピス
ケ ッ
ト 製
造 ど
専 門
と し
℃ 居
る ︶
︒
いふ右もなく︑日清戦後に於ける事業の勃典が我闘の産業界主坦潤した︒その機運に乗じ究もの
が胡・ち前記雨枇であったが︑製品の消化は換想外な困難に遭遇し︑事業遅
AT
とし℃容易に進展しな
かった︒それは一般の噌好が嘗習に執着し℃牛乳の香を嫌仏︑ビスケットを石鹸臭いものと排尿し
たからでもある︑が︑叉和菓子商が新しい競争品の進出を惟んで︑之を店頭に陳列する乙とを拒んだ
からでもあ b
︑一見に曾一枇とし℃一般の噌好向上を誘導すベラ宣惇ど敏いたからでもある︒
論
貫 主
菓子の過去現在及び時前来
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高 警 主
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我が森永製菓株式合枇の森永一枇長が在米十年の修養を以 τ ︑覇気蹄冷︑製菓工場を開いたのは買
に明治三十二年であっ τ ︑その製品販買に日夜苦心を績け︑絡に我図の菓子に革命を奥へるに至つ
たことは最も記念すべ 3
劫 積
で あ
る ︒
海外聡出の増進
新く℃日露戦争を一轄機とし τ ︑総ての事業が膨脹し℃行くにつれ︑菓子も亦大飛躍を途げ℃︑
明治四十三年に森永製菓株式命日祉が資本金三十高固を以℃創立せられたのを初めとし︑漸次各地に
命日枇工場が出羽し℃︑大量製産の時代に入った︒
乃ち図民智識の進歩は新なる時日好を一思議して︑年一年加速度的に西洋菓子ゆ需用を喚起し︑怨に
舶 来
口 問
崇 拝
の 思
想 を
生 じ
τ ︑砂からぎる菓子の聡入を見たが︑之は唐菓子が草なる使節減遣に依る
製法の停飛であって︑製品の累年輪入が不可能であったのに反し︑西洋菓子が貯蔵総廷に適して居
b ︑殊に通商航海の自由な関係からである︒然も図民の自賛は図産振興を促しく︑漸次あらゆる西
洋菓子の製造を見るに至 b ︑一官に図内の需用を充たすばか b でなく︑選んで海外市場に向って輸出
する乙と︑な b ︑輪出入の卦照上完全に輪出超過の姿勢ど取る乙と
Lなったのは︑新業の接建が如
何に跳躍的であるかを賓誼するものである︒
試みに明治元年以降に於ける我図の一菓子輸入誼に総出を大成省殺表の数字に依って表示すると左
の 通
で︑そ之に︑場業の殺展が歴今とし℃居る︒ h J
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