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   〜西尾実「日本語の前線と銃後」

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   〜西尾実「日本語の前線と銃後」

小国 喜弘

 今や日本語教室は大東亜確立の根幹として日と共に伸展を続けてゐ る。この日本語教室を第一線とした,日本語の前線と銃後の関連を自 覚し,これを緊密化し,発展させることが,日本国民に課せられてゐ

る刻下の急務である 1。

 この文章は,一九四二年に発行された日本語教育振興会の機関誌『日本語』

という雑誌の巻頭言に西尾実が寄せた文章の一部である。「日本語の前線と銃 後」と題されたこの一文には,一九四〇年代前半の内地の国語教育の状況が端 的に示されている。日本の侵略が拡大し大東亜共栄圏の確立が文字通り国家の 命運をかけた課題となる一九四〇年代前半において,内地における国語教育は,

内地日本人の必要を満たすことだけではなく,むしろ外地における日本語教育 にとって何が必要か,という植民地教育の必要性からカリキュラムの構想を立 てるという新たな段階を迎えていたからである。内地の国語教育は,「大東亜 確立の根幹」として「銃後」の役割を果たすことにあったのである。そしてこ のような内地国語教育に対する新たな時代の要請に対して理論的側面から積極 的に応えようとした代表的国語教育研究者の一人が本稿で取り上げる西尾実で

あった。

 本稿の課題は,西尾実の言説に即して,一九三〇年代後半から四〇年代前半

にかけての国語教育の特徴を考えることにある。さらにいえば,西尾実は,国

語教育史の時代区分において一九四五年よりも一九三〇年前後を重視し,それ

以降を「言語教育期」として戦前と戦後を連続する過程として捉えていた。そ

(2)

のような西尾の議論を媒介することによって,今日にっながる戦後の国語教育 にっいても再検討することを課題としている。

 西尾実が生まれたのは一八九八年五月一四日,場所は長野県下伊那郡豊村和 合帯川という,飯田市から五十キロほど離れた山間の小さな古村であった。西 尾実自身の筆によれば帯川は室町時代の末頃から農家八軒でっくってきた「文 化欠絶の地」であっだ2。帯川は民俗学的に見れば重要な伝承文化の保存地で あり,その自らの出生地を「文化欠絶」と表現するところは,能・狂言などハ イカルチャーとしての古典芸能に傾倒すると同時に,近代文化への飽くなき希 求を見せたモダニスト西尾の思考をよく表わしているといえるだろう。長野師 範学校を経ていったん小学校の訓導となった西尾は学問の夢捨てがたく教職を 辞して上京し,一九一二年に東京帝国大学文科大学文学科選科修了後,淑徳高 等女学校・松本女子師範学校・成瞑高等女学校などの教師を歴任しながら研究 活動を続けた。西尾は国語教育の研究家として,一九三五年には中学校教科書 岩波『国語』の事実上の編集責任者を務め,一九三九年文部省図書局の大陸向

け日本語教科書の編集に嘱託として参加し,大陸各地の日本語教育の現場も視 察した。この視察経験が西尾の国語教育論に与えた影響は戦後を含めて大き かった。さらに一九四三年の中学校・高等女学校・師範学校の教科及修練指導 要目制定に際して委員に任命されている。

 戦後の西尾実は戦前に増して国語教育政策の中心にいた。西尾実は一九四八 年に設立された国語研究所の初代所長となり戦後の国語学をリードした他,さ

らに一九五一年学習指導要領国語科篇の中等学校・高等学校版を作成する委員 会の委員長を務めている*3。一九五〇年全国の国立大学に国語教育学講座が出 来る中で,国語教育学を樹立することに貢献した中心的人物として一九五四年

には日本国語教育学会の初代会長に就任している。

 西尾実に関しては既に詳細な伝記的研究,国語教育論の変遷を扱った研究が

存在している*4。伝記的研究には西尾の戦時下の活動が詳細に記述されている

一方で,国語教育論の研究では西尾の国語教育論と植民地での日本語教育との

関連にっいて,必ずしも焦点が当てられていないものが多い。例えば西尾の言

語活動主義を分析した桑原隆「言語活動主義・言語生活主義の探究一西尾実国

(3)

語教育論の展開と発展』は,西尾の国語教育論が戦前から戦後にかけて一貫し ていたことを詳細に明らかにしているが,そこでは戦時下において西尾が植民 地教育に積極的に関与した事実が語られていない。

 そのような中で植民地教育との関連を検討しようとした研究は,西尾の「戦 争責任」を問おうとしている。例えば熊谷孝は「リベラリスト」西尾が「生哲 学ふうの形而上的・非歴史的な 生 」を重視したことが「いともたやすく

ファッショ教育奉仕のことば(論理)に転化し得るもろさをもっていた」と発 言している。さらに松崎正治は「西尾実の戦争責任」という論文において,西 尾が国内において翼賛体制に積極的に加担したばかりか「中国や朝鮮の民族の 言葉を奪い,日本語を押し付けていって「忠良ナル臣民』づくりを進める日本 語政策に,大きく関わっていた」こと,さらには「あの戦争に,国語教育の指 導的立場から加担した責任については,何も言っていない」ことを批判してい る。松崎はそのような「戦争責任」を問うた上で,「それゆえに西尾実の国語 教育論が価値の無いものになるであろうか」と,戦前期における西尾の果たし

た理論的貢献の積極性を明らかにしようとしている*5。

 これら先行研究に学びっっ,本稿が問題にしたいのは,西尾の個人的責任や 思想の「もろさ」であるよりは,むしろ,大戦下の時代思潮に適合的なものと

して編まれた国語教育論が無反省なままに戦後においても発表され続けたこと,

しかもそれが戦後の国語教育論の代表的存在とみなされてきたことである。筆 者は,国語教育施策としても,大戦下における植民地の教育体験が内地国語教 育に持ち込まれ,それが戦後に連続していったのではないかという仮説を抱い ている。そのことが戦後の国語教育にもたらした意味にっいて考察したいとい

うのが本稿を執筆する動機である。

 ただし筆者自身の現在の力量や今回の執筆に許された時間的制約から,戦後 にっいての十分な考察がなし得なかった。その点からいえば,本稿は上記のよ

うな課題を解明するための第一歩,試論的な役割しか担い得ないことを予め 断っておきたい。

 本稿は四節において構成している。第一節では,一九三〇年代後半「言語活

動主義」の西尾実における成立を扱っている。第二節では,西尾の「言語活動

(4)

主義」が大戦下における翼賛的な内地の国語教育を,第三節では外地での植民 地教育への加担にっいて論じたい。続く第四節において,戦後を西尾がどのよ

うに迎えたのか,を検討したい。最後に,以上の検討を踏まえて,戦後の国語 教育の特徴にっいての現時点での仮説を提示してみたいと考えている。

第一節 一九三〇年代半ばにおける「言語活動主義」の成立

 西尾実によれば一一九一一年頃までの日本語教育は「翻訳語学」であり,外国 語学習の方法を参考にして「単語篇だの,会話篇だのという類の教科書が刊行

され,単語・綴字・会話・読本・文法というような課目が立てられ」ていた。

それに継ぐ「大正初年から昭和十年頃まで」が,「文学教育期」であり,文学 教材を通して「人間変革」を行うこど6,国語教科書編纂趣意書の言葉に則せ

ば「国民的趣味ノ酒養」を行うことを主眼としていだ7。

 それらを国語教育の前史とすれば,西尾実は,戦後につながる国語教育の起 点を一九三五年におき,それ以降を「言語教育期」と名付けていた。戦前の西 尾は,一九三七年に「岩波講座国語教育』の一篇として「文芸主義と言語活動 主義」を執筆し,さらに一九三九年に『国語教育の新領域』(岩波書店),一九 四〇年にr国語教育の問題』(古今書院)を発表し,言語活動主義に基づく国 語教育論を世に問うていった。

 文学作品の読解を中心に据えた「文芸主義」を主張していた西尾が,子ども達 の日常生活における言語活動の陶冶に中心を置いた「言語活動主義」へと自説を 転換させた背景には,二っの時代的要因があったと後に彼自身が回顧している。

 第一に「文芸の位置に変動が生じたこと」が挙げられる。すなわち西尾自身 の言葉に則すならば「新ローマン主義・新理想主義から新現実主義へ,新現実 主義から新感覚派等々へと進展をっづけるにっれて,いっのまにやら専門化し,

大衆と離れがちとな」り,「いわゆる純文芸と大衆文芸の対立を生じ」,「必ず しも,文化の王座を占あるものではなくなってきた」中で,「国語教育におい ても,文芸万能の風潮に反省を生じ,文芸研究のほかにも,国語教育の任務が あることが,だんだん自覚されてきた」のだという*8。

 一九三三年刊行の第四期国定国語教科書にも変化があらわれている。それ以

(5)

前の教科書が「イ」「エ」「ス」「シ」といった範語から始まったのと比較し,

第四期読本は,「サイタ,サイタ,サクラガ,サイタ」という教科書冒頭に象 徴されるような,「児童の生きた言語表現に出発した」教科書だった。編纂に 携わった井上赴は一年間の欧米視察を経て「教育の児童主義が,世界の大きな 動きであることをすでに知った以上,児童の心理,生理,生活を教育的に教科 書の正面に押し出さなければならないと考え」,「いはば読本編纂のコペルニク

ス転回」を図ったと後に回想している*9。

 付け加えれば,ラジオ放送が開始されたのは一九二五年であり,一九三五年 には放送開始十周年記念事業の一つとして学校放送がはじまっている。第四期 国定国語読本を台本として正しいアクセントを指導する番組も作成され,話す

ことの指導が,教室でもり上り始めたのもこの時期であった*10。

 第二に西尾にとってより大きな意味をもったことが「時代一般の傾向であり,

風潮」だったという。一九三〇年代前半は長野県での二・四事件など新興教育 運動に対する弾圧に見られるような,上からのナショナルな社会・思想統制が 強化されると同時に,上からの統制に呼応しっっ,郷土教育運動などのいわば 下からのナショナリズム運動も強まりつっあり*11,総力戦体制の基盤が実質的

に準備されていく時代にあたっている。

 西尾はそのような時代の中で一九三三年八月一九日ドイッのッェッペリン飛 行船が霞ヶ浦に着陸したとき,改めてナショナリズムに果たす教育の役割を実 感することになった。西尾はその飛行船の姿の「美しさと,力強さ」に感動し,

夕食後,町のラジオ店で,歓迎式典の模様を聞いたのだという。ッェッペリン 伯号の技師長をしているエッケナー博士のドイッ語の挨拶は,意味がわからな いながらも「その沈着な声と,澄んで底力のある響きには,深く打たれるもの

があった」。

 西尾がそのとき思い出したのはフィヒテの「ドイッ国民に告ぐ」であった。

フィヒテの『ドイッ国民に告ぐ』は当初帝国教育会から『時局に關する教育資 料特別輯』の第三巻として一九一七年に公刊されたのが最初で,一九二八年に

は岩波文庫から出版され,一九三八年には第一四刷を数える大ベストセラーと

なっていた。フィヒテは言う。

(6)

 本来の国語を引続き話してゐる国民が如何なる民族の出であるかといふ ことを問題とするのではなくして,その国語が間断なくその国民に依て常 用されてゐると云ふことを問題とするのである。蓋し言語が人間に作ら

る\よりも人間が言語に作らるsことが遙かに多いのである。

 発音器官に対する同一の外的影響の下に立って共同生活をなし,絶えず 思想を交換しっt)L己れの言語を発達せしむる人々の全体を一の民族と呼ぶ

ならば,この民族の言語は必然的に現在の如き形になったのであって,実 はこの民族が自己の認識を話すのではなくして,此民族の認識自身がこの 民族の口を籍りて自己を発表するのであると云はねばならない*12。

 フィヒテは同一の「発音器官の発音」こそが「国語」の証であり,その「国 語」が「民族」の精神と思想を作るのだと考えていた。西尾は,フィヒテを通

してドイッの学校教育が「ドイッ語に目ざめたドイツ国民教育であることにう たれていた」。そして飛行船に乗った「エッケナー博士のみごとなドイッ語」

は「一大警告」となっだ13。西尾は話し言葉としての「国語」が国民統合に持 っ意味が十分に理解されていない日本の現況を危惧し,話し言葉教育に力点を 入れることを通して,日々の「言語活動」をナショナリズムの資源として利用 することを構想しようとしていた。

 文学や国語読本における「文芸主義」の変化を敏感に感じ取り,さらにフィ ヒテから国民統合の実現のための言語教育の重要性を学んだことなどから,西 尾実は,「言語活動」を基盤に据えた国語教育論を展開していく。その際西 尾の議論の特徴は,話し言葉の教育による子どもの「全人教育」を目指した点

にあった。

 西尾は,「国語教育といはず,国民教育一般に,その方法に於て全人的陶冶 の欠如は現代教育に於ける著しい欠陥の一である」とした上で,「同じ『はい』

といふ一語にしても,その高低により,強弱により,遅速により,又音色によ

り会話の前後関係によって伝へる意味は同一ではない」と,ニュアンスや身振

りをも含めた言語活動を教育の対象に据えることを提言し,次のように述べて

(7)

いる。

(「過去のある時代に於ては」:引用者補注)一言の責任が一命にも関した ほど言語活動の本質が把握せられ,その真髄が発揮せられて,人々は一言 をいひ,一句を聴くにも全人格の具現とその修練を体験してゐた。しかる に何時の間にかさういふ言語活動の領域が忘れ去られて,地盤を失った頂 点的事実のみが注目せられるやうになり(国語教育における「文芸」:引 用者補注),国語教育のことも根のない努力に堕し去ってゐる。こXに国 民教育の全野に亘って地盤再建の急務が叫ばれなくてはならないと共に,

わけても国語教育が最も直接な責任の荷担者として立たなくてはならぬ所

以が存すると思ふ*14。

 ここで西尾は架空の過去に,外来語に侵されていない「純粋国語」の存在し た時代を仮定している。その上で,かって存在していたはずの「国語」を未来 において取り戻すこと,さらにそのような「国語」を子ども達に獲得させるこ とを通して「日本人」としての理想化された規範を内面化しようとした。その ために「大和言葉」を重視した「純粋国語運動」により「いのちの根との連 絡」を国語の言葉に取り戻すことが重要だと考えていたのである*15。

 このような論法は国民国家形成において登場した日本語論の典型の一っと捉 えることができるだろう。酒井直樹によれば,そもそも「一八世紀の日本列島 では,漢文,和漢混交文,いわゆる擬古文,候文,歌文,そして,俗語文とい

うように多数の異なった文体と書記体が用いられていた。これらの異なった雅 俗混交的な文体は,地方別の僅言あるいはお国ことばとともに混在しており,

それぞれを民族言語としてひとっの輪郭に収あることはできなかった」。故に

「日本語と日本語が普遍的に通用したはずの共同体の存在を古代に仮設するこ とによって,日本語が生み出された。しかも,日本語と日本民族の存在は,古 代には存在しても現在には存在しないもの,現在においてはすでに喪失された

もの,として仮設されなければならなかった。っまり,日本語の誕生は,日本

語の死産としてのみ可能であったゴ16。

(8)

 「話しことば」が「雑種性から均質性への変換の通路」として機能し,純粋 日本語の共同体の成員として,「主体は雑種性を抑圧するものとして組織され ることになる」のだったという酒井の発言は西尾の存在を念頭に置いたもので はないが 17,まさにこの西尾の議論にもあてはあるて考えることができるだろ う。西尾の国語教育論は,古代に日本語と日本民族の完全な姿を仮想し,漢文 化におかされていないものとして「やまとことば」と「話し言葉」を復権し,

それによってナショナルな統合を実現しようともくろむものだった。

 その際西尾の議論においても「話しことば」が「雑種性から均質性への変 換の通路」となり,文化・民族・階層・職業・性・年齢などの複雑な異種混清 性をもった「雑種性」が予め排除されていたのである。

第二節 「前線」としての外地・日本語教育から「銃後」としての内     地・国語教育へ

(1)「前線」としての外地・日本語教室の視察

 西尾実は一九三九年に日本語教室の海外視察を行っている。同年六月から文 部省図書局に大陸向け日本語教科書編纂のために週二日出仕していた西尾は,

一〇月末から一一月末までのおよそ一か月,朝鮮・満州・蒙彊・北支・中支を めぐり,その間,四〇余の学校,八〇余の日本語教室を観察し,新京・張家 口・北京・上海で日本語教育協議会を開催している。それは西尾実生涯ただ一 回の海外旅行でもあっだ18。

 西尾が見学した日本語教室では教師たちが様々な形で「聴方・話方」を子ど も達に教えようとする工夫をしており,話し言葉教育の重要性を再確認するこ とになった。例えば奉天の厚生国民学校では「女の満州人」の教師が「児童の 答にっいて,『もっと低い声で』といふ注意を二三回加へて,前の先生が,一 所懸命のあまり,知らず識らずのうちに高声に走らせてゐた調子を落着かせ,

会話気分に導いた用意には打たれた」。

 また,北京高等警官学校の別科の益田信夫の授業では,「益田先生ノ内ニハ

家族ガ六人ヰマス。先生ガヰマス。奥サンガヰマス。又子供サンガヰマス」と

いう簡単な例題から叔父・叔母など親族関係語の教授へと発展させようとする

(9)

様子を見学し,「教材の有機的関連の精しさに驚かされると共に,裸になって 露堂々と生徒の前に立っといふ覚悟が直説法による指導の要諦であることを教

へられた」。

 さらに出会った日本語教師の中で西尾が最も印象深かったのは,北京新民学 院予科の教授山口喜一郎だった。山口の教室では,「日本の南氷洋捕鯨出漁船 は去る八日に出発した」ことを切り出すところから授業を始め,出漁の由来か ら現状,漁の様子を生徒たちに話して聞かせ,「知らず識らずの間に,青年ら しい興味の世界に於ける日本の国力発展の目覚しさに緊張させる」手法に「日 本語教育の神髄」を見ることになっだ19。

 このような「前線」への視察は戦争が実は侵略にすぎないことを西尾に気づ かせることにもなったようだ。安良岡康作による評伝『西尾実の生涯と学問』

によれば西尾は「日本軍隊の行った暴虐さ(掠奪・暴行・放火・強姦・虐殺や 無差別な都市爆撃など)の実状も知ったし,祖国の優秀さ・強力さを誇って,

中国民衆を軽蔑してやまない日本商人たちの傲慢さをも実見し」,「日本人の行 動にっいて,ほんとうにこれでよいのであろうかという疑念に襲われざるを得

なかった」*2°。安良岡のこの記述には典拠が記されていないので改めて西尾自身

の言葉で確認し得ないが,西尾の知己森下二郎による『神と愛と戦争一あるキ リスト者の戦中日記』には,一九三九年一二月三〇日に次のような項目がある。

 この頃西尾君に会った時,君が北支・蒙彊,中支視察の話の中に,支那 の中堅となる様な人物は殆んど全部今なほ重慶政府の方に行っており,

残っている人達の中の重立った人たちに話をしたところでも,日本の支那 に対して行っているこの戦争を,いかなる説明にもかかわらず,日本の支 那に対する侵略とよりほか解する事は出来ないと言っていたとの事である*21。

森下の日記からも,西尾が日中戦争の侵略性に気づいていたことがうかがえ

る。この森下の日記公刊に尽力したのは他ならぬ西尾実であった。西尾によれ

ば,松本高等女学校校長であった森下は「応召軍人を送る列に並ぶときも,あ

の戦争を『聖戦』などと思えず,まして生徒の前で『聖戦』などといわなけれ

(10)

ばならない立場に耐えられない自己の真実のたあに,かれが悩んでいた」とい

う宰22。

 侵略戦争であることを知りながらも戦争協力を余儀なくされる矛盾に苦しみ 抜いた森下二郎。対して西尾実は,たとえ侵略戦争であることに視察を通して 気づいていたとしても,その視察後は以下にみるように時局迎合の発言を加速

させていったのである。

(2)「銃後」としての国語教育論の展開

 帰国直後の一九四〇年一月には『国語教育』誌に「国語教育の一大転回」と 題した一文を寄せている。その中で西尾は次のように述べている。

 これまでの国語教育は,国内の言語としてのそれであった。現在及び将 来の国語教育は,日本語の世界的進出といふこの掩ふべからざる現実に立 脚したそれでなくてはならない。更にいへば,日本語の世界的進出を有力 ならしめ有意義ならしめる原動力は,国内の国語生活わけても国語教育に 於て養はれることを自覚しなくてはならない宰23。

 「日本語の世界的進出」を目の前にした西尾は,より一層の日本語の「世界 的進出」のたあに「国内」の「国語教育」を再編成すべきであると考えた。そ れは何よりもまず,植民地での日本語教師を国内において大量に調達しなくて はならなくなったからである。西尾自身の言葉によれば,「その一っは,日本 国民はいっでも必要に応じて日本語教師たり得るやうな国民教育を確立するこ とであり,他の一つは,全国民をしてどこへ持出しても困らないやうな国語を 磨き上げさせるやうな国語教育を樹立することであ」っだ24。

 それだけではない。第二に,単に「国語の領域拡張」ではなく,国語の「資 質完成の上にも第一線」,別の機会に述べた西尾の言葉を用いるならば「日本 語の大陸への進出」は「国語醇化の地盤」としての好機であると認識されてい

た。西尾は言う。

(11)

 一旦外国に進出し,外国人に学習されるやうになると,生活事実も生活 様式も変り,生活感情も異なる為に,言葉が生活に甘えてゐるわけにはい かぬ。言葉としての表現性を尽し,言葉としての独立性を十分に獲得しな くてはならない。いはば,われわれは,,われわれの国語を,構造の上でも,

品位の上でも,われわれの眼で見るだけでなく,他人の眼でも見なくては ならなくなるのである。そして,それは国語を完成するための最後の立場

である*25。

 外部の目は言語活動主義を一層進展させるための好機であり,そのためには 外来語が蔓延している現状から,「大和言葉」を復権した「国語の整理統一」

を行うとともに,「話言葉」中心の国語教育を行うことが重要だった。

 私どもにとっての大和言葉の意義に目ざめ,大和言葉の純粋さを目ざし た国語の整理統一とその教育とを辛抱つよく確実に行ひぬきますならば,

神代この方の大和言葉の美しさと力強さをますます発揮し,これを大東亜 に及ぼし,世界に輝かすときが必ずくるであらうとおもはれます*26。

 「言霊の幸ふ国」である「日本の言行一致は言論即実践,言語即行為」とい う立場から*27,「大和言葉の美しさと力強さ」は,身体や心の美しさや強さを 創り出すのであり,その美しさや強さに結ばれた東亜共同体が完成する*28,と 西尾は考えていたようだ。「日本語総力戦体制」という一文において西尾は次 のように述べている。

 大東亜戦争の実体は思想戦である。思想戦の尖兵は言語であり,また,

その後陣も言語である。大東亜戦争完遂の眼目は,大東亜全域に日本語を 進出させ,普及させることでなくてはならぬ*29。

 戦争の尖兵が「国語」であることから,「国語の発展を期することが,現在

及び将来の日本国民に負わされている課題」であり,「国語の愛護」が国民に

(12)

要請される責務となるのであった 30。

 すでに見たように,「純粋」なる「国語」という仮定自体,内地における

「日本人」内部の文化的な雑種性(酒井直樹)への配慮を欠いた議論であった。

 植民地での日本語教育に西尾が出会ったことは,このような国語と国語教育 の特徴をさらに強化することになった。武力によって支配に服させるという植 民地的権力図式を前提とするならば,他者の文化や言語の異質性への配慮や,

「国語」を母語を異にする人たちに学習させるというたくらみに含まれる権力 性への配慮は不要なものと感じられたはずだからである。

 しかし日常生活場面における話方教育の重要性を主張していながら,学習者 の文化的関心への配慮を欠くことは,そもそも無理があったばかりか,滑稽さ すら伴っていたように思われる。以下,西尾らが作成した日本語教科書を手が かりにして,そのことを考えてみたいと思う。

第三節 「前線」としての日本語教科書の作成

 すでに述べたように,西尾実は一九三九年六月から文部省嘱託として大陸向 け(中国・満州・朝鮮・香港など)・南方向け(シンガポール・マレーシア・

インドネシア・ビルマ・フィリピン・カンボジア・ラオスなど)の日本語読本 とその学習指導書の執筆に携わっている。編纂には途中,外国人への日本語教 授経験が豊富な長沼直兄が加わり,一九四三年までに「ハナシコトバ」上・

中・下巻,「成人用速成日本語教本」上・下巻,「初等学校用日本語教本」巻一

〜三,中等学校用日本語教本巻一〜三,さらにそれらの指導書などを,文部省 による初めての日本語教科書として編纂・出版した。その出版部数は『ハナシ コトバ』上中下だけで一九四二年から四三年にかけて合計四五万部,その他の 教科書の発行部数を加えると七五万部に及ぶと推定されている 31。

 この教科書の第一の特徴は,口語教材を多く採り入れて音声言語を重視した 点にある。文字表記では『ハナシコトバ』上・中巻において「オトーサン」

「サトーサン」といった棒引仮名遣いを採用し歴史的仮名遣いを排している。

「日本語教科用 ハナシコトバ編纂趣意」には,「本書は卑近な日常学習が目的

であるから,その意味からも,話言葉を学習せしめることとした」という注記

(13)

がある 32。文部省作成による日本語教科書において棒引き仮名遣いを採用した のは一九〇〇年第一次国定国語読本以来のことであった。

 第二に,「日本事情,日本精神の理会に導くと共に,大東亜民族としての自 覚及団結を育成せしめる」こと,「身辺事物,日常生活の言表に習熟せしめ,

進んで日本精神の理解に至らしめる」ことなどが決められ,「身辺事物」や

「日常生活」の表象を通して「日本精神」を学習者に内面化しようとしたこと

である*33。

 ここで問題にしたいのは第二の特徴である。具体的に教材を見ていくと,学 習者のもっ文化状況への配慮を欠いたままに「身辺事物」や「日本事情」を教 材とした教授によって「日本精神」を会得させようとすることがいかに無理で

あったかを如実に示しているように思われる。

 紙数の関係もあるので二っの課文を取り上げてみたい。まず最初に掲げるの は『ハナシコトバ』上巻第二二課であり,「秀麗な富士山の写真によつてその 偉観に触れさせ,それに関する話言葉を修得させる」ことを主眼とした教材で

あった。

コノ シャシンオ ゴランナサイ。

コレワ フジサンデス。

マッシロナ ユキオ イタダイテ ソビエテイマス。

ナント ユウ リッパナ フジサンワ セカイイチノ

クモノ ウエニ

ヤマデショーo  ヤマデス。

この課文にっいて次のような会話を練習することが指示されている。

○どちらの はうが りっぱな やまですか。

△ふじさんの はうが りっぱな やまです。

○どちらの はうが りっぱな やまですか(他の山の描かれてゐる掛図

 と比較させて)

(14)

△ふじさんの はうが りっぱな やまです(一人々々に)

○さうですね。

ふじさんは たいへん りっぱです。

なんと いふ りっぱな やまでせう。

○ふじさんの やうな りっぱなやまが ほかに ありますか

△(ふじさんの やうな りっぱな やまは)ほかに ありません。

○では, ふじさんは にっぽんいちのやまですか。

△はい, ふじさんは にっぽんいちのやまです。

○ふじさんは せかいいちの やまでせうか(「せかいいち」といふ身振  を伴はせて)

△はい, ふじさんは せかいいちの やまでず34。

 学習者として想定されているのは,大陸や南方に住む人々,すなわち「ふじ さん」に対する観念を共有しない人たちであった。さらにいえば例えば南方の マレー半島に住む人たちにとってみれば,富士山よりも二倍以上の標高のある エベレストのほうが地理的にはよっぽど「身近」だった。そのような学習者に 向かって富士山の「りっぱさ」を,さらにはそれが「せかいいち」であること を説き聞かせても,何が「りっぱ」で何故に富士山が「せかいいち」なのか全 く説得力に欠いていただろう。にもかかわらず,ご丁寧にも「『せかいいち』

といふ身振」まで伴わせて内面化させることを指導書は指示している。

 さらに授業の最後には,次のように板書し,一人一人がその板書を読み上げ ることが指示されている。

○セカイイチノ ヤマ

 何が「りっぱ」で何が「せかいいち」なのかを理解することもなく,「セカ

イイチノヤマ」と子どもたちは唱和させられることになった。これが「日本事

情,日本精神の理会」と「大東亜民族としての自覚及団結」を目指して構想さ

れた授業の一コマだった。

(15)

次に上巻第二五課をみてみたい。第二五課本文には,

トーキョーワ ニッポンノ ミヤコデ セカイダイニノ ワタクシモ トーキョーエ イッテミタク ナリマシタ

ダイトカイデス

という文章があり,それに対して,次のような問答を行うことが指示されてい

た。

○とうきょうは にっぽんの なんですか

△とうきょうは にっぽんの みやこです。

○さうです。せかいで いちばん おほきい とくわいは  です。その っぎは とうきょうです。

○とうきょうは せかいだいにの

 かいだいにの だいとくわいは,どこですか。

△とうきょうです。

○さうです。とうきょうは せかいだいにの なんですか

△(とうきょうは せかいだいにの)だいとくわいです。

○本を開かせ符号をたどらせながらいふ。(繰返して)

△符号をたどりながらいふ。(一人々々に)*35

ニューヨーク

だいとくわいです。(わが小文字)せ

 教科書学習者の居住地には,フィリピンなど日本占領以前にはアメリカに よって支配されていた地域も含まれていた。当初から旧アメリカ占領地の子ど

もも使用することが前提であったにもかかわらず,さらに教科書を編纂した一 九四三年にはアメリカと激戦中であったにもかかわらず,ここでは,「とう

きょう」がニューヨークに次ぐ「せかいだいにの だいとくわい」であること を誇ってみせている。しかも「ふじさん」の学習の時と同様に東京が敵国 ニューヨークに次ぐ第二の都市であることを子ども達に繰り返し唱えさせ,記 憶させようとしている。

 西尾はかねて「真に聴くことが話すことだ,これが日本語の性格」であり,

(16)

「日本の言霊より考へうる国語教育の根本性格」であるから,「よくよく大東亜 の人々の心を握ってゆく説得よりはきいてやることが大事」であると述べてい た 36。しかし西尾の作成した日本語教科書が使われた教室でおこっていたこと は,相互理解の促進ではなく,「聴くこと」「話すこと」を通じての一方的な教 化ともいうべきものだった。

 これらの課文が掲載されたrハナシコトバ』上巻は,一九四三年度だけで一 五万部が印刷された。使用した日本語教師たちの反応はかんばしいものではな かったようだ。日本語教育振興会の相良惟人常任理事が「第四十六回常任理事 会」に提出した文書は,現地で教科書を実際に使用する「日本語教授担当者」

たちの次のような声を伝えている。

 あまり日本的なものばかりに過ぎはせぬか……日本から見たもののみで はなく中国的な日本語教科書を必要とす 支那事変の勃発原因等支那人を

して納得せしめる書方が望ましい*37。

相良の報告をきっかけとして,西尾らが編纂したこの日本語教科書はまもな く絶版の運命を辿ることとなったとされる*38。ただし戦争末期だったこともあ り,西尾らが教科書の出来の悪さを責められることはなかったのである。

第四節 「平和的革命」のための言語生活の教育

 一九四五年の敗戦を西尾実は東京で迎えた。評伝によれば荘然として,「何 も手にっかぬ状態」であったが,「ただ,戦時下の取り締りから解放されて,

街や家々の燈火が急に明るくなったことが印象的であった」という 39。西尾自 身は自らの教育論にっいて戦前から戦後への変化をどのように捉えていたのだ

ろうか。国語教育史上で大きな時代区分は一九四五年ではなくむしろ一九三〇 年頃にあった。西尾は一九五一年に出版した『国語教育学の構想』の中で次の

ように述べている。

国語教育にあっては,戦前に始まり,戦時下を経て,戦後に及んでいる

(17)

一貫の傾向とともに,戦後にあらわれてきた特性もたしかにある。わたく しは,この一貫の傾向のゆえに,昭和十年前後を言語教育期となし,その うち戦前と戦時下とを言語活動指導期,戦後を言語生活学習期と呼ぼうと

している*40。

 基本的には,戦前の延長の上に戦後を築こうというのが西尾の立場であった。

「言語活動指導期」から「言語生活学習期」への変化は,これから見ていくよ うに,基本的に「言語活動主義」をより一層進展させる時代という認識であっ

た。

 今日下伊那教育会に残された記録によれば,一・九四八年長野県下伊那教育会 で教師たちを前にした講演において,西尾は,新たな教育制度を戦前との連続 の中で考えるように教師たちを励ましている。

 新制度とは何か。一面には,これまでの制度のわくをはずすことであり ます。教育者がやりたくても制度上できなかったことが,できるように なったことであります。教育者の自主性をおさえていたわくをはずし,実 際教育者から沸きあがり,もりあがるものが本として行く,そこに新制度 の意義があります。

 今日の教育は平和的革命の一手段である,と思います。新しい民主社会 を建設して,文化日本をっくるということは,まさに革命であります。そ れは教育にまっよりほかはありません 41。

 西尾は教師が制度の制約によって戦前には出来なかったことを自由に行い得 るのだと,「教育者の自主性」を最大限に発揮させることによって国語教育を 通した「平和的革命」を実現しようと教師たちに呼びかけている。「平和的革 命」の向かう先は,「民主社会」としての「文化日本」であった。

 「日本語総力戦体制」を唱え,大東亜共栄圏確立を唱えていた西尾が一転し

て「民主社会」の実現を説く点にっいて,「変節漢と評し,いち早く進歩的な

(18)

文化人になりすました日和見論者と見なし,そのけろっとした豹変ぶりに驚い たと言った人は,東京にも,長野県にもいた」とされる 42。ただし時世に即し て教育の課題を考えるべきなのだという現実主義において西尾はむしろ戦前か

ら一貫していだ43。

 興味深いのは,国家の課題が侵略の拡大による「大東亜共栄圏」の確立から

「民主社会」の実現へと変化し,それに応じた国語教育を構想する必要を西尾 は唱えていたが,彼の国語教育の具体的内容や方法論がほとんど変化していな い点であろう。

 西尾が戦後の国語教育に必要だと考えていたのは,戦前以来主張し続けてい た話し言葉の教育を一層押し進めることであった。すなわち,西尾の言葉に則 すならば,「われわれは,話し聞くことばの生活を,もっとしっかりしたもの にするためにも,また,読み書くことばを,もっと有力なものにするためにも,

あらためて,話し聞くことばの教育に全力を傾けなくてはならぬ」のであり,

それこそが,「国語の現実態に即した生活の,また文化の,平和的革命」たり 得るのである 44。話し言葉教育における以下のような主張も戦前と基本的に変 化しなかった。

 第一に「言論即実践,言語即行為」という「言霊」信仰と同様の発想は次の ような発言の中で確認しえる。

 ことばは,そういう人間の根もとの,そのままのあらわれであるという ことができると思われます。ともかく,人間がりっぱになると,ことばが りっぱになり,ことばがりっぱになると,人間がりっぱになるという関係 になっています。そのうえ,ひとりの人間がりっぱになるということは,

けっして,その人ひとりで終るものではありません。きっと,その共鳴者 をっくります6そうして,その人々の生きている社会をりっぱにします。

ことばの生活をよくすることは,その人間をりっぱにし,その社会をりっ ぱにすることでありまず45。

戦後の西尾はさすがに「言霊」という言葉を使うことはなかったが,「りっぱ」

(19)

な言葉が「りっぱ」な人間を作り,「りっぱ」な社会を作ると考え,「りっぱ」な 言葉を子どもに獲得させることが,国民の団結と統合を促すと考えていた。

 第二にそのような「りっぱ」な社会,「りっぱ」な人間を作るために「国語 愛」が必要だと考えていたのも戦前と変わらない。

 われわれは,あらゆる間,あらゆる機会に,コトバを精一杯に生かし,

文字をありったけ働ふせるように工夫し,努力すべきである。それが,生 きだ国語愛であり,ほんとうの国語愛である*46。

 このような戦前からの思想の連続性を裏書きするのは,西尾が戦前の論文を 戦後の著書の中に再録していったことだろう。「文芸主義と言語活動主義」

(『岩波講座国語教育』,一・九三七年)は戦前において西尾が言語活動主義の意 義にっいて初めてまとまった形で述べた論文だった。その論文は,戦時下にお ける西尾国語教育論の理論書と目される『国語教育の新領域』(岩波書店,一 九三九年)に収録され,さらにこの論文は,日本における「戦後の国語教育学 研究の出発点の一っをなした」(野地潤家) 47とされる,西尾実著『国語教育 学の構想』(一九五二年)に再び収録されたのである。戦時体制下の教育と戦 後社会の教育とを連続して西尾が考えることができた背景として問われるべき

は,彼の民主主義のイメージだったのかもしれない。西尾は言う。

 ことばの問題を,われわれは,もうすこし,じぶんでも意識し,そして,

人とも話しあって,われわれの社会生活を,民主社会として,もっと,通じ あいのよいものにする必要があります。……もっと,国民のすべてに,した

しみやすく,やさしい,国民の国語にしていくことが必要であります*48。

 ここでは,実現すべき「民主社会」が人が自らの意思を「通じあいのよいも

のにする」ことができる社会として専らイメージされてしまっているように思

われる。言葉と社会がダイレクトに結ばれる中で,いかなる政治体制を,いか

なる権力関係を構築するのかといった問題は捨象されてしまっているのではな

(20)

いか。確かに意思を自由に表明できるたあの言葉を獲得することが重要なこと は論を待たない。しかし相互に折り合い得ない対立する意見が存在したとき,

異質なる他者がどのように共生し得るのか,少数者の言葉にいかに配慮するの かは西尾の議論からは一貫して欠けていたように思われる。そのような視点の 欠如は,植民地支配という圧倒的な権力的非対称の場において,植民地支配の 権力性を隠蔽した「共栄圏」を構想していた戦前の日本の植民地支配の在り方

を,そしてその植民地支配に適合的な日本語教授を構想していた西尾実の日本 語教育論を,改めて彷彿とさせるものであるように思われるのである。

終わりに

 本稿では,西尾実の「言語活動主義」が大戦下の時代状況にふさわしい議論 として提示されたこと,他者のもっ文化の固有性への配慮を欠くという特徴が 外地の日本語教育に関わる中で強化されたこと,さらにその議論が一九四五年

を画期とする戦後状況の中でも基本的性格を変化させることなく主張され続け ていったことを明らかにしてきた。

 西尾実は常に時代状況に即した教育の議論を提供することを課題としてきた のであり,さらに戦前から戦後にかけての国語教育政策に密接に関わってきた 国語教育研究者の一人であることは既に見た通りである。ゆえに,西尾におけ

る主張の連続性は,国語教育政策における連続性といえるのではなかろうか。

 ここで改めて国語の教育政策史を辿り直し,小論が西尾実を通して描き出そ うとしてきた事柄の外縁を整理してみたい。

 まず,内地において「国語」という言語の教育による国民精神の陶冶が条文の 中で明言されるようになるのは一九四一年国民学校令を待たなくてはならなかっ た。すなわち国民学校令施行規則には国民科国語が次のように規定されている。

 国民科国語ハ日常ノ国語ヲ習得セシメ其ノ理会力ト発表力トヲ養ヒ国民 的思考感動ヲ通ジテ国民精神ヲ滴養スルモノトス*49

一九四一年以前の国語教育を規定した条文は一九〇〇年第三次小学校令のぞ

(21)

れを踏襲して「国語ハ普通ノ言語,日常須知ノ文字及文章ヲ知ラシメ正確二思 想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼テ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス」と規定され*5°,

少なくとも条文上では国語教育は「思想ヲ表彰スル」こと,「智徳ヲ啓発スル」

という市民教育的な色彩が濃かったのである。

 さらにいえば,「国民精神」の「酒養」を目指すにあたって,文学教材など の文章理解を重視するのではなく通して,「日常ノ国語」の習得,「理会力ト発 表力」といった,西尾の言葉でいう「国語」の「言語活動」の作法の獲得に よって果たそうとする点に国民学校令の新機軸があった。一九四〇年八月の国 民学校教則案説明要領によれば,「在来『話シ方』は内容として認められては ゐたが,国語教授の一分節として立てられてゐなかった」のであり,「こSに 我が国語教授の弱点があった。今度『話シ方』が特に拾ひ上げられ,表面に押 出されたのは,大いに注意すべきこと」であり,「文字言語」の「地盤たる音 声言語としての国語が正しく豊かに培はれることが大切」であり,そのような 音声言語の教育こそが「国語を通じて国に報ずる」と考えられていた 51。

 日本放送協会編『文部省国民学校教則案説明要領及解説』(一九四一年)に よれば,「目的の中に『国民的思考・感動ヲ通ジテ国民精神ヲ酒養ス』といふ ことがあるが,これは言語と思考感動とを不可分とし,国語こそは国民的思考 感動の結晶体であるとする立場から国語教授の目的を關明したものであって,

この辺は現行の国語の要旨に比べると全然態度が違ってゐる」という。ナショ ナリズムの源泉として「国語」の「尊重愛護」「醇化」が重視されている点も 国民学校令の特徴だった*52。

 戦後の学習指導要領においても一九四一年国民学校令下の国語教育の目標と 次の点では変化がなかった。一九四七年版学習指導要領(試案)は,「児童・

生徒に対して,聞くこと,話すこと,読むこと,っつることによって,あらゆ

る環境におけることばのっかいかたに熟達させるような経験を与えることであ

る」と規定し,「聞くこと,話すこと」を「読むこと,っつること」に優先す

ると共に場に応じた適切なコミュニケーションにより「社会生活を円滑にしよ

うとする」能力を養うことを目指している。一九五八年版では「日常生活に必

要な国語の能力を養い,思考力を伸ばし,心情を豊かにして,生活の向上を図

(22)

る」こと,そのために「聞き話し読み書く能力をいっそう確実にするために,

国語に対する関心や自覚を保っようにする」ことを定あている。①話し言葉の 教育を重視し,②話し言葉教育により心性の陶冶を目指し,③「国語」自体へ の関心を高めようとしている点は,戦前の国語教育政策との連続性を思わせる。

さらに③に関していえば,一九六八年版からは「生活に必要な国語を正確に理 解し表現する能力を養い,国語を尊重する態度を育てる」こと,「国語を愛護 する態度を育てる」ことが掲げられ,戦前との連続性がより明確になっている。

一九九八年版現行指導要領においても「国語を適切に表現し正確に理解する能 力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養 い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる」として,「伝え合

う」コミュニケーション活動の重視と,国語の「尊重」という愛護精神の酒養

は続いている寧53Q

 このように改めて見てくると,西尾の問題はひとり西尾個人の問題ではなく,

西尾に体現された戦前・戦後を通じての日本の国語教育の問題であり,それは 現在にまで続いていることがうかがえる。

 かって西尾が作成した大陸・南方向け日本語教科書は,「国語」の愛護精神 酒養を通し,道徳的に純化された「日本人」を理想として植民地の子どもたち の精神を陶冶し,そして「日本精神」を共有する人々において構成される共栄 圏内部において「伝え合う」道具としての「国語」を植民地で教えようとした。

しかし現実には,日本が大東亜共栄圏を設定しようとした範域には多様な言語 と文化,慣習を持っ人々が居住していた。西尾らの企みは独善的であり,学習 者にとって説得力を欠いたものに過ぎなかった。

 翻って,日本国内の今日の国語教育にも同様の問題を見出すこともできるの ではないだろうか。「日本」内部に住む人々の文化と思想の異質性を前提とし た上で,いかに異質なる他者と意思疎通するのか,いかに容易に折り合えない 他者と協働するのか,そのためのコミュニケーションの技法は依然として教え

られていないように思われるからである。

 大戦下の植民地における日本語教育の特性を戦後の国語教育,さらには現在 の国語教育が基本的に引き継いだのだとしたら,われわれが慣れ親しんでいる

(23)

戦後の,さらには現在の国語教育の持っ問題性も問い直されなくてはならない のではなかろうか。国語教育をめぐる「戦後問題」を考えるとき,大戦下の植 民地教育は,いまだ清算されていない過去として改めて我々の前に浮かび上 がってくるように思われる。

*1 西尾実「巻頭言 日本語の前線と銃後」『日本語』第二巻第二号,一九四二年二月,一

 頁。

*2 西尾実・倉沢栄吉「幼き日のこと」『教科通信』第一二巻第一号,一九七五年,一頁。

*3 安良岡康作『西尾実の生涯と学問』,二〇〇二年,三元社,四五七頁。

*4 安良岡康『西尾実の生涯と学問』,三元社,二〇〇二年。桑原隆『言語活動主義・言語  生活主義の探究一西尾実国語教育論の展開と発見』,東洋館出版,一九九八年。松崎正治  「西尾実国語教育学の史的意義」「鳥取大学教育学部研究報告 教育科学」第三一巻第二  号,一九八九年。松崎正治「西尾実国語教育学の成立過程」鳴取大学教育学部研究報告   教育科学』第三三巻第二号,一九九一年など。

*5 熊谷孝「解説」『日本児童文学大系⑥一文学教育の理論と実践一』,三一書房,一九五  五年,三三一一三三三頁。松崎正治「西尾実の戦争責任」鳥取大学教育学部国語科教育研  究室『文学と教育研究報告』第五集,一九八八年,五九一六〇頁。

*6 西尾実「国語教育学序説」『西尾実国語教育全集』第四巻,教育出版,一九七五(一九  五七),一三〇頁。

*7 文部省「尋常小学読本編纂趣意書」『国語教育史資料』第二巻,東京法令出版,一九八  一年,二〇九一一〇頁。

*8 西尾前掲書二〇一ニー頁。

*9 古田東朔編井上赴著『国定教科書編集二十五年』,武蔵野書院,一九八四年,三七・五

 四頁。

*10古田前掲書五六頁。

*11郷土教育運動や生活綴方運動とナショナリズムとの関係にっいては,拙著『学校教育  と民俗学運動』(東京大学出版会,二〇〇一年)で論じたことがある。

*12文部省「フィヒテ述 独逸国民に告ぐ」(時局に関する教育資料特別輯 第三)山之  内靖監修『文部省編時局に関する教育資料』第14巻,一九九七(一九一七)年,二三〇一  二三一頁。

*13西尾前掲書二ニー二三頁。

*14西尾実「文芸主義と言語活動主義」『岩波講座国語教育』第一巻,岩波書店,一九三  七年,二九一三〇頁。

*15西尾実「国語国文の教育」『西尾実国語教育全集』第一巻,一二七一一三〇頁。

(24)

*16酒井直樹『死産される日本語・日本人』,新曜社,一九九六年,一八四一一八七頁。

*17酒井前掲書,二〇二頁。

*18安良前掲書を参照。

*19西尾実「大陸に於ける日本語の教室」『文学』一九四一年四月号,一ニー一一二五頁。

*20安良岡前掲書三二七頁。

*21森下二郎『神と愛と戦争一あるキリスト者の戦中日記』,一九七四年,太平出版,六

 五頁。

*22西尾実「森下二郎の人と思想一まえがきにかえて」前掲書一一一一二頁。

*23西尾「国語教育の一大転回」『国語教育誌』,第三巻第一号,一九四〇年一月,一二頁。

*24 西尾前掲論文一二頁。

*25 西尾前掲「日本語の前線と銃後」一頁。

*26 西尾「音声語とその教育」『伊那』一九四四年二月,二六頁。

*27 「西尾実先生の講演筆記にっいて」『伊那』一九四四年二月,六頁。

*28 西尾「音声語とその教育」『伊那』一九四四年二月,二七頁。

*29 西尾「日本語総力戦体制の樹立」『日本語』一九四三年一月,一頁。

*30 西尾「読方教材の研究」『西尾実国語教育全集』別巻二,(一九三七)年,二〇四頁。

*31山下秀雄「第二回復刻の原本一一冊と復刻版」言語文化研究所『日本語教育資料叢書   復刻シリーズ第二回 日本語教育振興会刊行図書一九四一〜四五』,言語文化研究所,

 一九九八年,一三頁。

*32「日本語教科用 ハナシコトバ編纂趣意書」『日本語教科用 ハナシコトバ学習指導書』,

 日本語教育振興会,一九四二年,一頁。

*33安良岡前掲書三七一頁より再引。

*34「ハナシコトバ学習指導書上凡例」『日本語教科用 ハナシコトバ学習指導書』

 上・中・下,日本語教育振興会,一九四二年,一七〇一一七一頁(言語文化研究所『日本  語教育資料叢書復刻シリーズ第二回日本語教育振興会刊行図書一九四一〜四五』,言  語文化研究所,一九九八年)。

*35「ハナシコトバ学習指導書 上 凡例」二〇一一二頁。

*36下伊那教育会国語委員「西尾実先生の講演」『伊那』一九四四年二月,六一七頁。

*37山下秀雄「日本語教育振興会と時代背景」前掲『日本語教育資料叢書 復刻シリーズ

 第二回」九〇頁より再引。この相良の報告文書によれば,『ハナシコトバ』が棒引き仮名

 遣いを採用した点も不評だったようだ。『ハナシコトバ」の次の教程にあたる『日本語読

 本』が歴史的仮名遣いを採用していたために,実際に使用した教師からは,「日本語読本

 は巻一より正式の仮名遣を使用し居るを以てハナシコトバを終了し読本に移行するに当

 り相違点の強調に骨折れる 即ち発音記号より正式の仮名遣に移る場合教師として非常

 に努力を要する」とし,「ハナシコトバの内容に対し歴史的仮名遣を使用してほしい」と

(25)

 の要望が出されていた。

*38山下前掲論文九〇頁。

*39安良岡康作前掲書四ニー頁。

*40西尾実『国語教育学の構想』,筑摩書房,一九五一年,四二頁

*41西尾実先生述『国語教育の構想』,下伊那教育会,一九四八年,一頁。

*42安良岡前掲書四五二頁。

*43次の文章からも西尾が常に国家の課題としていることがなにかを付度し,そこから国  語教育の課題を導き出そうとしていたことがうかがえる。

    文化日本の建設にあたつて,もっとも重大な問題は教育である。…  あらためて    問題にせられてきた教育は,これまで考えられてきた教育と,全然同じではあり得    ないことは言うまでもない。これまでの教育は,なんといつても,伝統的なものの    継承や,社会的遺産の相続を主要任務としていたが,いま求められている教育は,

   むしろ,革新や,創造を,主要任務としたものであるといってよい。こSに,おな    じ教育でありながら,著しい性格のちがいが注目されなくてはならぬものがある        (西尾「国語教育の構想」『国語の教育』一九四七年七月,五頁)。

*44西尾前掲論文六一七頁。

*45西尾「ことばの生活」『西尾実国語教育全集』第五巻,(一九五二)年,三〇四頁。

*46西尾実「ほんとうの国語愛」『警察広報』,第一巻第三号,一九五五年三月,四頁。

*47野地潤家『国語教育学史』,共文社,一九七四年,六九頁。

*48 西尾実『ことばと民主主義』IDE教育選書,一九五八年六月,六一八頁。

*49「国民学校令施行規則」『国語教育史資料』第五巻,東京法令出版,一九八一(一九四  一)年,一二九ページ。

*50 「小学校令施行規則」『国語教育史資料』第五巻,一九八一(一九〇〇)年,四九ペー  ジ。

*51「国民学校教則案説明要領」『文部時報』六九九号,一九四〇年八月,二六一三二頁。

*52 日本放送協会編『文部省国民学校教則案説明要領及解説』,日本放送出版協会,一九  四一年一〇月,三九一四〇頁。

*53以上,増淵恒吉編『国語教育史資料』第五巻(東京法令出版,一九八一年)を参照し  た。なお,中学校の場合は一九五一年版中学校・高等学校学習指導要領国語科編(試案)

 作成の際の委員会の委員長を西尾が務めていたこともあって,同指導要領が西尾の考え

 が最もよく反映されたものとなっている。そこには,「広く生徒の言語生活の必要を見わ

 たし,あらゆる生活の場面を国語教育の目標のために利用しようとするもの」であるこ

 と,「全人的な教育」を目指すべきこと,それらを通して「民主的な社会を作り,国際的

 理解と親善を増し,国民道徳を高めることに寄与するよう,常に心がけていなければな

 らない」ことを述べられている。

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