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Vol.67 , No.2(2019)081田中 裕成「『サウンダラナンダ』16. 30-33にみる二つの系統」

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『サウンダラナンダ』

16. 30–33

にみる二つの系統

田 中 裕 成

1

.はじめに

Hartmann 1988は2–3世紀のものと推定される中央アジア出土の写本断片SHT 921 (以下,中央アジア写本と称する)がSaundarananda(以下,SauN.)の四諦説の一部 (SauN. 16.21–33)であると同定した.そして,八正道における正精進の扱いについ て,Johnston 1928が基づいたネパール写本と異なる読みがあることを指摘した

(以下,Johnston 1928はネパール写本と称する).Hartmann 1988の発見を受けて,Choi

2010は,ネパール写本の正精進の扱いは有部の経典(「法施比丘尼経」等)と対応 し,中央アジア写本の扱いは南伝ニカーヤ(MN 44 (Vol 1, p. 301))と対応すること から,ネパール写本が古説を保っているかについて疑問があり,馬鳴が必ずしも 有部所属とは言い切れないと述べる.このようにSauN.のサンスクリットテキス トについては問題が提起されている.さて,SauN.はまとまった形では漢訳され ていない.しかし,松濤1954を始めとし,近年では上野2016等の研究によって, 鳩摩羅什訳出資料中に多くの馬鳴詩が見出されることが指摘されており,SauN. に関しては現時点で40偈程回収されている.そのなか,鳩摩羅什の携わった漢 訳文献に『禅法要解』という書物がある1).本書は『坐禅三昧経』と対をなす書 物であり,主に世間道について述べられた書物であるが,菅野2002が かに触 れるのみで,本書を積極的に取り扱った研究は存在しない.今回,この中に SauN. 16.6–40に相当する漢訳が散文の形で埋め込まれていることを新たに発見し た(T.15.294b3–295a18).これは既存の発見総量に相当する量である.そして,幸運 にも今回の発見箇所は中央アジア写本の発見によって問題となっている箇所であ る.そこで,本稿では新発見の『禅法要解』の中,道諦と八正道の関係を述べる 箇所(SauN. 16.30–33)の対応箇所を援用して,ネパール写本と中央アジア写本は どちらがオリジナルSauN.に近しいのか,また,その差異にはどのような意図が あるのか,という点について分析を行う.

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.三本の対応関係

さて,前述の通り,SauN.の道諦と八正道の関係(SauN. 16.30–33)はネパール写 本と中央アジア写本とで異なる.異読点を整理すれば次の通りである. 異読点 ネパール写本 中央アジア写本 『禅法要解』 (I)正精進の位置付け 慧蘊所摂 定蘊所摂 定蘊所摂 (II) 30偈c句の主語の数 単数(道) 両数(定・慧) 両数(定・慧) (III)偈の順序 戒→慧→定 戒→定→慧 慧→定→戒 そこで,これら三点についてそれぞれ分析を加えてみたい. 2.1. 正精進の位置付け まず,(I)「正精進の位置付け」について分析を行う.SauN. 16.30–33では八正 道は戒定慧の三蘊にまとめられるとする.その際に,正精進をネパール写本では 慧蘊に収めるが,中央アジア写本では定蘊に収め,両者には差異がある.この点 についてChoi 2010は経論を検討して,ネパール写本の読みは有部の「法施比丘 尼経」や『倶舎論』などの記述と対応し,中央アジア写本の読みは南伝の中部の 経典と一致することを指摘する.さて,今回新たに回収された『禅法要解』の SauN. 30偈対応箇所では「得涅槃方便道.定分有三種.慧分有二種.戒分有三 種.住是戒中修行定慧」(T.15.294c9–10)と規定し,SauN. 31偈相当箇所では「正定 正念正精進.是名定分三種」(294c12–13)と規定し,正精進は定蘊に収められる とする.すなわち,中央アジア写本と呼応する.また,SauN.の第十六章の末 (16.87–98)では精進について述べるが,その末尾の偈では「寂静のために制御さ れた精進をなせ」(16.98d)と述べられ,精進が寂静のためのものであると記され る2).ここでいう寂静は定のことにほかならない3).この点からSauN. では本来, 正精進は定に資するもの,定蘊所摂のものと考えられ,そのように構成されてい たことが窺える.つまり,中央アジア写本や『禅法要解』の読みはSauN. の文脈 にそぐうものであるといえる.つまり,中央アジア写本や『禅法要解』の読みこ そが,本来のSauN. の姿であり,ネパール写本は有部正統派の法相解釈,いわゆ る「法施比丘尼経」に基づく『倶舎論』等に見られる「慧蘊は正見(慧)を自性 とし,正思惟(尋)と正精進(勤)は正見に資するから慧蘊に摂められる」とす る解釈4)によって改定されている可能性が見いだせる.

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2.2. 30偈c句の主語の数

次に(II)「30偈c句の主語の数」について分析を行う.SauN. 16.30はc句でネ パール写本と中央アジア写本で主語となる数が異なる.ネパール写本の当該箇所 を示せば次の通りである.

asyābhyupāyo dhigamāya mārgaḥ prajñātrikalpaḥ praśamadvikalpaḥ / sa bhāvanīyo vidhivad budhena śīle śucau tripramukhe sthitena // SauN. 16.30 //

ネパール写本では下線部は単数(sa bhāvanīyo)であり,a句の「道(mārgaḥ)」を 示しているように読み取れる.一方で,中央アジア写本では下線部が両数(tau bhāvanīyau)となっており,道の有するふたつの性質である「二種の慧」と,「三 種の寂静」とを示しているように読みとれる.この点についてはHartmann (1988, p. 69, fn. 3) は,両数(prajñā, praśama)とする中央アジア写本の読みのほうが簡潔で あると指摘し,他の研究者もそれに追従し,思想的問題については言及しない. たしかに,『禅法要解』の対応箇所でも「修行定慧」(T.15.294c10)として両数が想 定されており,Hartmann 1988の想定は正しいものであろう. 当該箇所は一見すれば他愛もない異読である.しかし,この修習されるべきも の(bhāvanīya)の内容は有部と譬喩師で見解を異にする箇所であり,当該の異読 は思想的問題に基づく読み替え,すなわち譬喩師的要素の有部化とも見られる. 有部と譬喩師では無表業を巡って大きく見解が異なる.入定者が備える徳目に 戒蘊(無表業)が含まれるか否かについて,有部は無表業として戒蘊が含まれる と主張する.その一方で,無表業を認めない譬喩師は「大分別六処法門[AKUp 4006]」5)という経典において,「正語,正業,正命(≒戒蘊)」が既に清淨となっ た行者が,そのうえで「正見・正思惟・正精進・正念・正定(≒慧蘊・定蘊)」を 修習する旨が述べられることを根拠として,戒蘊は入定前に有するのであって, 入定中は含まれないと主張する6).すなわち,有部は道諦を八正道全てと理解 し,譬喩師は戒蘊の三支を除いた定蘊・慧蘊の五支と理解するのである. 以上のことをふまえて,あらためてネパール写本と中央アジア写本との違いを 見てみれば,中央アジア写本において両数となっているのは定蘊・慧蘊の二つが 意図されているからである.それは譬喩師の主張とまったく同じである.そし て,ネパール写本では道を示すのみで,八支とも五支とも取れるように曖昧化さ れているといえよう.つまり, SauN. 16.30は中央アジア写本や『禅法要解』に見 られる形こそが本来の形であり,譬喩師の主張や,「大分別六処法門[AKUp

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4006]」の理解と対応するものであった.しかし,有部ではそのような解釈は認 められず,ネパール写本に見られる形に改定を図った可能性が見いだせる. また,このような道諦の内容に関する曖昧化は《婆沙論》の四諦説に関する大 徳・法救説においても見出すことができる.《婆沙論》の四諦説において譬喩師 の道諦理解は『新婆沙』『旧婆沙』『 婆沙』のいずれにおいても「止観(定蘊・ 慧蘊)」と述べられる7).この譬喩師の見解と呼応する大徳説8)であるが,3つの 《婆沙論》の中で最古の『 婆沙』では法救の説として「止観を修習し,興廃す る法を理解すれば,生存(有)の原因が尽きることとなる.以上のことと〔五蘊 の〕結合が有れば,〔その五蘊を〕道諦として観察すべきである」9)として,譬喩 師同様,道諦としては戒蘊を含まず,定蘊・慧蘊からなる五支が意図されてい る.しかし,対応する『新婆沙』・『旧婆沙』では「浄戒と定を修めて,生滅を正 しく観察する」10)として戒定慧の八支が意図される.このように《婆沙論》で も,道諦の内容を五支とする説が排除される傾向が見いだせる. 2.3. 偈の順序について 最後に(III)「偈の順序」について分析してみたい. SauN. の道諦の八正道の説 示箇所(16.30–33)では,諸本で偈文の順序が異なる.ネパール写本では「戒→慧 →定」であり,中央アジア写本では「戒→定→慧」であり,『禅法要解』では「慧 →定→戒」である.漢訳に関しては他の対応箇所においても意味内容に準じて順 番の入れ替えが多く,さらには逐語訳ではないため,判断しがたい.そこで今 は,ネパール写本と中央アジア写本の順序の違いについて分析してみたい. さて,戒定慧からなる三つの徳目は,一般的に広くこの順序に定まっており, 中央アジア写本の順序のほうが一般的であると言えよう.一方で,ネパール写本 (SauN. 16.31–33)では「戒→慧→定」という不規則な順序である.これに続く SauN. 16.34–36では戒定慧の順序で譬喩が述べられるため11),ネパール写本は文 脈にもそぐわない.しかし,この異読も無意味なものでなく,五蓋に関する有部 法相に基づく改定として説明することが可能である. 有部では煩悩はいずれも「蓋(妨げるもの)」であるのに,①欲貪,②瞋恚, ③惛沈・睡眠,④掉挙・悪作,⑤疑の五つのみが五蓋と呼ばれる理由として,こ の五つは,三蘊を妨げるから五蓋であるとの説明を行う.その際に,①欲貪, ②瞋恚は戒蘊を妨げ,③惛沈・睡眠は慧蘊を妨げ,④掉挙・悪作は定蘊を妨げ, 定と慧がなければ⑤疑が生じると解釈を行う12) この解釈について世親は『倶舎論』において,「五蓋が戒→定→慧の順序と対応

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すべきならば,③惛沈・睡眠,④掉挙・悪作ではなく,「④掉挙・悪作」→「③惛 沈・睡眠」の順序で説くべきであり,順番が不当であり,不適切な解釈である」 と批判し,自説と前軌範師の説を紹介する13).このように,通常どおりの記述 順序であれば,有部の法相に問題が生じることが確認できる.しかし,ネパール 写本の述べる「戒→慧→定」という順序であれば,五蓋と順序通り対応し,問題 は発生しない.つまり,ネパール写本の偈の順序は三蘊と五蓋の関係の矛盾を解 消すべく改定された可能性が見いだせるのである. 3

.結論

以上,本発表では『禅法要解』中に散文の形で埋め込まれたSauN.(16. 6–40相 当)の発見を契機に,SauN. 諸本の比較を行い,その意味を考察した.その結果, 中央アジア写本は,ネパール写本に比べ,文脈に適っている点が認められた.ま た,新たに発見した『禅法要解』の対応箇所はネパール写本ではなく,中央アジ ア写本を支持するものであった.また,ネパール写本が中央アジア写本と異なる 点はいずれにおいても,ネパール写本が有部の法相と対応することが明らかと なった. これらのことをふまえれば,SauN. は中央アジア写本や『禅法要解』の形が原 形に近しく,それを有部の法相に基づいて部分的に改定したものがネパール写本 はである可能性を指摘できよう.すなわち,ネパール写本には他の点でも有部の 法相に基づく改定が存在する可能性があり,今後のSauN. の研究においては,有 部法相への傾斜を注意深く伺う必要があると言えよう.そして,その際には鳩摩 羅什訳資料に散在する対応漢訳が貴重な助けとなるであろう. 1)なお,『禅法要解』の詳細については,第69回佛教史学会(2018年11月24日)にて発 表し,同機関誌に投稿予定である.また,『禅法要解』とSauN.の対応箇所については,『佛 教大学仏教学会紀要』に投稿予定である.必要に応じて参照されたい.   2)この他に も精進が定のためとして位置付けられることはSauN.では多く認められる.例えば, SauN. 17.1–12では,SauN. 16.98を受けて,寂静の為に努力を得る旨が述べられる.特に SauN. 17.9は顕著である.   3)また,SauN. 17.13では寂静のための努力(SauN. 17.1–12) の結果,寂静に至った旨が述べられ,以後,四念住に相当する観察行が行われる(なお, 以後のSauN. 17.13–22が有部四念住説に相当する旨は田中2016においてすでに指摘した).

このことからもSauN. 16.98で示された寂静(śānta)とは涅槃などではなく,観察の前提行

としての寂,則ち奢摩他の事であり,定のことであるとみなして問題ないであろう.    4) AKBh 55, 14–15や,『大毘婆沙論』[T.27.306b27–307b2]等を参照.   5)本庄(2014, 517–519),『雑阿含』三〇五[T.2.87a–c];MN 149(Vol. III, 287–290).   6) AKBh 196,

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20–24.なお,当該の議論に関しては本庄(2014, 519)に詳しい.また,経と譬喩師の立場 の関係については『佛教大学大学院紀要』(47)に投稿を予定している.   7)『新婆沙』 [T.27.397b2–4];『旧婆沙』[T.28.296c2–4];『 婆沙』[T.28.470b18–20].   8)譬喩師の 説には大徳・法救の説が付随する傾向にあることは宮本1929等によって既に指摘されてい る.   9)『 婆沙』[T.28.471c12–14].また,大徳の四諦説の詳細については,別稿を 『佛教大学大学院紀要』(47)に投稿する予定である.   10)『新婆沙』[T.27.399b8–9];『旧 婆沙』[T.28.298a11–12].なお『 婆沙』は法救説として登場するが,『新婆沙』は大徳説, 『旧婆沙』は覚天説として紹介される.三者が同一人物であるにせよ無いにせよ,それぞれ が譬喩師説を支持する立場として登場することは注視すべきである.   11)中央アジア 写本は33偈冒頭までしか無いため判断できないが,『禅法要解』[T.15.294c14–19]の譬喩は 戒定慧の順序で説かれる.   12)『倶舎論』の梵本・蔵本,および《婆沙論》(『新婆沙』 [T.1545.27.250a09–18];『旧婆沙』[28.195a17–20];『 婆沙』[28.430c17–21])では,五蓋は 三蘊(戒定慧)と対応するとする.一方で,漢訳『倶舎論』(『玄奘訳』[29.110c27–29];『真 諦訳』[29.264a16–18])では三蘊ではなく,疑蓋は解脱蘊・解脱智見蘊を損なうとして, 無漏の五蘊と対応すると述べる.しかし,当該箇所ではそのような解釈は不適切であろ う.   13) AKBh 319, 8–10. 〈略号表〉

AKBh: Abhidharma Kośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Reserch Insti-tute, 1967.

SauN.: Saundarananda. 〈参考文献〉

Choi, Jin kyoung. 2010. The Eightfold Path in Aśvaghoṣa s Saundarananda. Bukkyō daigaku daigakuin kiyō 38: 31–38.

Johnston, E. H. 1928. The Saundarananda of Aśvaghoṣa critically edited with notes. London: Oxford University Press.

Hartmann, Jens-Uwe, 1988. Neue Aśvaghoṣa- und Mātrceṭa-Fragmente aus Ostturkistan. Nachrich-ten von der Akademie der WissenschafNachrich-ten in Göttingen 2: 55–92.

上野牧生2015「アシュヴァゴーシャの失われた荘厳経論」『インド論理学研究』8: 203–234. 加藤純章1989『経量部の研究』春秋社. 菅野竜清2002「鳩摩羅什訳禅経類について」『仏教学仏教史論集』77–90. 田中裕成2016「有部系論書における四念住と四顛倒」『印仏研』65(1): 347–344. 本庄良文1987「馬鳴詩のなかの経量部説」『印仏研』36(1): (87)–(92). ― 2014『倶舎論 ウパーイカーの研究(下巻)』大蔵出版. 松濤誠廉1954「瑜伽行派の祖としての馬鳴」『大正大学研究紀要』39: 191–224. 宮本正尊1929「譬喩者,大徳法救,童受,喩鬘論の研究」『日本仏教学協会年報』1: 117–192. 〈キーワード〉 馬鳴,四諦,三学,五蓋,説一切有部,経部,鳩摩羅什,『禅法要偈』 (佛教大学大学院)

参照

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