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中央学術研究所紀要 第29号 062山本佳央「立正佼成会における「根本道場」の変化について」

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はじめに 一﹁根本道場﹂に関する規定等の意義について い﹁護持﹂の意義 ②﹁宗本一体の体制﹂の意義 ③﹁根本道場﹂の意義 二本部教会の東京教会への変更について い﹁護持﹂の観点から a﹁護持﹂意識の変化について b﹁巨大教会﹂性の喪失 C﹁大聖堂活性化推進会議﹂に見られる変化 .在京教会が大聖堂から地域道場に移転する

本佳央

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立正佼成会における﹁根本道場﹂の変化について

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筆者は、﹃中央学術研究所紀要﹄︵第二六号平成九年一二月一日刊︶に﹁立正佼成会会規・規則等に見られる﹃根 本道場﹄の意義とその変遷﹂と題する小論を発表した。その際、根本道場とは一、本山である。二、信仰の中心で はじめに ②﹁宗本一体の体制﹂の観点から ③﹁根本道場﹂の観点から a﹁本部教会の性格を教団が吸収﹂することの意義 一一立正佼成会本部を﹁根本道場﹂とする ⑩地域別支部組織への改編 ②布教組織と事務組織について ③﹁根本道場﹂の再編成 a﹁根本道場﹂はどうなったのか b布教本部の設置について C布教本部による﹁根本道場﹂再編成の展開 d﹁根本道場﹂としての立正佼成会本部への視点 あとがき 63 立正佼成会における「根本道場」の変化について

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64 ある。三、布教の淵源である。四、モデル機能を持つ。と考察していた。 そして、森岡清美博士から﹁本山である﹂ことに関して、立正佼成会本部教会は本山と言うよりは本部であると 言った方が実態に近い。また、﹁モデル機能を持つ﹂に関連して、根本道場の本質ではないが、根本道場は巨大教 会の性格を持ち、根本道場である本部教会が一般教会である東京教会に変更されたことにより、東京教会が巨大教 会の性格を継承した。そして巨大教会にモデル機能が対応していた、とご指導いただくことができた。 その後、二年余りの歳月が経過し、僅かではあるが考えを進めることができたように思えるので少しく論考して みたい。概略としては、根本道場とされた本部教会が東京教会に変更された後、東京教会が一般教会となっていく 過程と、新たに根本道場にされた立正佼成会本部への継続過程を通して、根本道場の変化を見ていく。 なお、記述にあたって次の方法によった。 一、立正佼成会の表記については、立正交成会とされていた時も含めて、全て﹁立正佼成会﹂と統一した。 二、本部教会を東京教会へ変更したことを検討するに当たり、立正佼成会教規︵昭和二七年一月二八口施行︶と立 正佼成会会規︵昭和三五年九月二二日施行︶の施行されていた時期に限定する。 三、昭和四四年一川一Ⅱから全国の支部が教会に昇格され、東京教会は種々に名称を変えたが、それらの名称は特 に必要な場合を除いて使用しない。それは、かっての東京教会が担っていた機能は実質的に東京教会に所属して いた各支部が担っており、支部が教会に昇格された時点においても大きな変更がないと考えられるからである。 そこで、支部の昇格後は東京教会の名称に変えて﹁在京教会﹂、﹁在京の教会﹂等と呼ぶことにした。その他の﹁教 会﹂という用語を使用する場合、特に断りがなければ支部から昇格した教会︵法人化はされていない︶を表す。 また、教規、会規及び法人規則は、できる限りその条文を掲げたが、宗教法人法第二条は確認の為にここに掲示

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﹁第四条 と規定している。 川﹁護持﹂の意義 伝統的な仏教宗派における規定の一例として、浄土真宗本願寺派の宗法では ﹁第五条本山は、一宗弘教の根本道場であり、全ての寺院及び教会の本寺である。宗門に包括されるすべ ての個人及び団体は、これを永世護持しなければならない。﹂ とし、法人規則である本願寺宗規には ﹁第四条本願寺をもって宗門の本山と定め、一宗弘教の根本道場とする。﹂ まず、根本道場について検討する場合、本末関係を教団の体制としている伝統的な仏教宗派の規定を考え、次に 立正佼成会において、根本道場が本部教会から立正佼成会本部へと変化した経緯を見ていくことにする。 ことを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。 第二条この法律において、﹁宗教団体﹂とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する 一礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体 二前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体 する。 伝統的な仏教宗派は本末関係を長い歴史を経た制度として体制の中に保有しているので、本山と末寺は決して同髄 ﹄根本道場﹂に関する規定等の意義について 立正佼成会における| 根本道場|の変化について

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②﹁宗本一体の体制﹂の意義 前節で見た本願寺派宗法第五条の﹁護持﹂とは本山を護持すべきことを定め、宗派や教団を護持することを直接 的に規定するものではなかった。 る。 を護持すべき責務があると規定することによって、本山の持つ信仰上の独自の地位を確保したと考えることができ まないので、聖なる部分を規定する宗法に、本山が根本道場であり宗門に包括されるすべての個人と団体は、本山 と末寺は対等或は平等ということになる。しかし、本山の宗教的な独自の地位を規定することは法人規則にはなじ 規定できない法構成となっている。そこで、本山の特別の地位を規定する方法を考えなければ、法人格からは本山 格と見ることができない。しかし、宗教法人法の第二条によれば本山も末寺も同じ一号法人として規定する以外に、 側﹁根本道場﹂の意義 ﹁根本道場﹂は、宗派における本山の特別の地位を明らかにするための用語と見ることができる。伝統的な仏教 66 ﹁近世においては、本末関係を有する伝統的な仏教宗派では、本山は即ち教団を意味し、両者は決して分離しえ なかったものであった﹂とされる。しかし、宗教法人法が﹁神社、寺院、教会﹂を一号法人とし、﹁教派、宗派、 教団﹂を二号法人として、本山と宗派を分ける法の構成をとっているので、宗派を護持する体制を宗教法人法の下 で確保する為には、宗派と本山を同一の役員で構成する戦前以来の﹁宗本一体の体制﹂を回復することにより、本 山護持が宗派護持になるようにしたものと理解できる。

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さて、立正佼成会について本部教会が東京教会に変更されたことを検討するが、立正佼成会と本部教会とは、上 に見た浄土真宗本願寺派と同趣旨の規定を備えていた。そこで本部教会の東京教会への変更について、﹁護持﹂、﹁宗 本一体の体制﹂、﹁根本道場﹂の観点から考えを進めることにする。 格を確保したと考えることができる。 源的な性質を有する根本道場であると定義付けることにより、本山の持つ﹁信仰の中心﹂﹁布教の淵源﹂という性 しての伝統ある歴史を信仰的にとらえ直して、教義、儀式、修行等の宗派における信仰上のすべての面にわたる根 宗派では、本山が末寺の統制・支配等を行ない教団を形成して来た、という歴史の一面がある。そのような宗派と 以上を整理すると、根本道場に関する規定等は、数百年に及ぶ体制を保有している伝統ある仏教宗派が、戦後に 新しく定められた宗教法人法の枠の中に自らの組織をあてはめるために、信仰の原点にたって考えを積み重ねてき た智慧の産物だと考えることができる。 川﹁護持﹂の観点から a﹁護持﹂意識の変化について 本部教会について立正佼成会教規︵昭和二七年一月二八H施行︶は、次のように規定していた。 ﹁第八条本教団発祥の根本道場たる立正佼成会本部教会を本部として信仰の中心とする。 第九条立正佼成会本部教会はこの教団の本部であって、支部教会及びすべての信者によって永遠護持され

二本部教会の東京教会への変更について

67 立正佼成会における「根本道場|の変化について

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ところが、昭和三五年九月に施行された会規︵教規から大幅に変更された︶には、この﹁護持﹂の規定はなくな り、同時に本部教会が東京教会に変更された。しかし、﹁本部教会が本部である﹂とされていたことから、東京教 会に変更された当初も、﹁護持一意識に大きな変化はないことが想像できる。次のような記述を挙げることができ る 「 本部教会は一号法人であるが、本部という特別の地位にあり、他の支部教会等によって﹁護持﹂される関係にあ ることが規定されたわけである。 なお、当初東京教会に包括された支部は二一一一区と三膳・豊田・西多摩・南多摩・川崎︵後に神奈川教区に移 る︶の二八支部で、︵略︶その中で二一一一区と三膳の二四支部が本部施設を道場とし、法座を本部で開く形にな っていた。したがって、東京の支部の中でもこの二四支部は、本部の宗教活動の中核をなすものであった。や や誇張していえば、在京二四支部の連合体が本部であるといっても過言ではない︵略︶・﹂︵﹃立正佼成会史﹂第 る C ー 一巻二三一一一頁︶ 68 これは、地域別支部組織の改編が実施され、本部教会が東京教会と名称変更された後のことである。東京教会に 所属する﹁二四支部の連合体が本部であるといっても過言ではない﹂と表現されているが、従来の本部教会の性格 を教団に吸収し、東京教会は宗教法人立正佼成会が包括するもう一つの単立法人茨城教会と同列に置かれているの で、正確には﹁本部である外観を呈していた﹂といった表現にすべきところであろう。 それはともかく、﹁東京教会が本部である﹂という意識だと言っても、それは法的な特権意識ではなく、いわゆ る﹁東京教会が本部の旗本八万崎である﹂という認識であったと考えられる。開祖の当時の法話に﹁旗本八万騎﹂

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という言葉を用いたものがある。﹁旗本八万騎﹂の意味として小学館刊行の﹁日本国語大辞典﹄では﹁徳川将軍直 属の旗本の数を俗に八万騎と称したもの・﹂とあり、﹁旗本﹂については、﹁大将の旗の下にあって、これを守護す る親衛軍。将軍、大名などの家臣。﹂などあり、東京教会が特別な位置付けで考えられていたニュアンスがよく表 東京教会に所属していた各支部は、それぞれの地区の名前を冠した教会に変更されて事務取り扱いの便宜上、関 東教区に入れられ、﹁立正佼成会東京教会﹂は名前だけの存在となってしまった。東京教会という意識は薄くなり、 在京の各教会が﹁本部お膝元の教会﹂と言われるようになった。 杉並教会について﹁支部発足の頃に比べて大きく発展した杉並教会ではあったが、十数年の間に、本部膝元の教 会としての位置は、相対的に小さくなり、会員の中でもエリート意識は薄れていた。﹂と表現されるような変貌ぶ りとなった門 を意味する。以下同じ・︶ その後、全国の支部が教会へ昇格するという変更が行なわれる。昭和四三年九月一四日の布教本部会で庭野会長 が発表した布教機構の改編は、翌四四年一月一日から実施に移された。改編の主な内容は、これまでの二一﹃教会﹂ 一七六支部制を廃止し、一七六の支部を教会に昇格させたのである。︵﹃教会﹂は支部が教会に昇格される前の教会 立正佼成会における|根本道場」の変化について されていると思う。 のように述べている。 また、在京の二四教会の会員が二九万世帯に達した昭和五六年頃には、地方会員の見方が変化していることを次 ︵略︶団参で地方から上京する会員の目には、在京二四の教会だけが大聖堂を自分たちの施設のように使っ ているかに見える。地方会員は宗教的な雰囲気に溢れる大聖堂で行事を開催したいと思う会員も少なくない。 69

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かる b﹁巨大教会﹂性の喪失 昭和四四年一月に実施された支部の教会への昇格について、﹃立正佼成会史﹂は﹁全国の支部が佼成会の教えを ひろめるための拠点であるという自覚を持ち、主体的な活動を展開することを要請﹂した改革であったと記述して いる。この昇格が持つ意義について考えてみることにする。 拙論﹁立正佼成会会規・規則等に見られる﹁根本道場﹂の意義とその変遷﹂に、森岡博士より﹁本部教会の属性 であった巨大教会の性格は東京教会に継承された﹂というご示唆を頂いた。当時の東京教会の規模等を表現して﹁東 京教会は、全国会員の三分の一を擁するマンモス教会で、教会単位の活動というと規模が大きくなり、従って、そ の活動は支部単位で行なわれることが多い。︵略︶﹂とあり、確かに﹁巨大教会﹂という表現がふさわしいことが分 また、本部のさまざまな当番の奉仕に加わりたいと思っても、在京教会に独占されてしまっているという感 じを抱いている会員も少なくない。東京周辺の多摩・千葉・神奈川・埼玉などの会員たちに、特にそうした感 が強い。︵﹃立正佼成会史﹄第二巻一一四三頁︶ という状況に変わっている。東京教会が教団本部の旗本八万騎であるという意識が、在京教会の人たちだけでなく、 地方教会の人たちの意識までも変化していることが分かる。 70 しかし、教会として結束のゆるい性格であった東京教会の各支部が、教会に昇格し主体的に地域における宗教活 動をすることは、東京教会を名前だけのものとすることになり、ひいては﹁巨大教会﹂という性格をなくすること に繋がっていたと言うことができる。在京の各教会は、規模の面でも全国の教会と横並びの存在となったのである。

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d在京教会が大聖堂から地域道場に移転する 昭和四四年に支部が教会に昇格されたが、これは教団が﹁地域社会への奉仕﹂を理念にかかげた﹃明るい社会づ くり運動﹄などの地域活動に力を入れ始めたことと無関係ではない。記録では、昭和四○年代に入ると教団が地域 活動を推進するようになったことを告げている。 在京の﹁各教会がそれぞれ独自の地域活動を進めようとすると、地域内の拠点が必要になってきた。︵略︶教団 在京教会の変化は次の﹃佼成年鑑﹄の記事にも見ることができる。 C﹁大聖堂活性化推進会議﹂に見られる変化 ﹁大聖堂の活性化﹂に関しては、数年前より本部関連部署と東京布教区・教会が合同で協議、検討を重ねて きた。特に五七年、東京布教区の東京地区二四教会の教会長、事務長の代表者によって構成される﹁大聖堂活 性化推進会議﹂によって、この件に関して検討され﹁一日一教会システム﹂の実施が決定された。すなわち、 一つには﹁聖堂当番・戒名当番を一教会または二教会で行う﹂、二つには﹁団参︵形式︶法座の実施﹂という ことであった。︵略︶以上のような検討の結果、大聖堂が全国教会、会員の根本道場であり、東京布教区をは じめとして全国教会で活性化を図っていく方向が確認された。︵﹃佼成年鑑﹄昭和五九年版二七頁︶ ﹁大聖堂活性化推進﹂は教団護持の一つの形態と考えられる。それに対し、本部関連部署と在京教会の代表によ り問題を検討した。結果として全国教会で活性化に対応する事に落ち着いている。大聖堂が教団の礼拝の施設であ り、全国の教会の根本道場であることから当然のことなのだが、在京教会は全国の教会と異ならない存在となって いることが分かる。 71 立正佼成会における「根本道場」の変化について

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本部も地方教会に準じて教団の施設としての教会道場を建てる方向へ進みはじめた﹂という変化が見られるように なる。﹁やがて昭和五六年ごろには、佼成会本部が在京教会も地元に道場を建設する方針を打ち出した。このこと によって、︵略︶地域とより強く結びついた宗教活動がさらに活発化することになった。﹂ もちろんこれは在京教会と教団で協議がなされたであろうと思われる。しかし、信仰を尊び教団を大切に思う点 では変化はないが、かって﹁旗本八万騎﹂と言われた当時とはかなりの変化が見られる状態となっている。 本部教会から東京教会に変更された後の東京教会は、﹁護持﹂の観点から見ると以上のような経過を辿っている。 これを要約すると、東京教会は当初教団の﹁旗本八万騎﹂と内外から認識される教会であったが、各支部が教会へ 昇格されることにより﹁巨大教会﹂性を失い、昇格した教会は﹁本部お膝元の教会﹂と見られるようになった。そ の後、地域に密着した主体的な活動をする為に在京の各教会が、大聖堂から地元へ拠点を移すことにより、全国に 地域道場を持って活動している教会と異なる所のない一般教会に変わって行った、と言うことができる。 東京教会がこのような変化を重ねるに伴い、立正佼成会本部を全国の﹃教会学支部の根本道場として再編成す る動きが展開されることになる。それは﹁三立正佼成会本部を﹃根本道場﹂とする﹂で見ていく。 72 似﹁宗本一体の体制﹂の観点から ﹁宗本一体の体制﹂は本山護持を宗派護持につなげる意義があった。立正佼成会においても﹁教団の理事長︵代 表役員︶・理事︵責任役員︶・顧問がそのまま本部教会の代表役員︵理事長︶・責任役員︵理事︶・顧問となると規定 ⑫ し﹂ており、教団中枢と本部教会中枢が未分化の状態であったことが分かる。これにより教団と本部教会とが連動 する体制となることにより、本部教会の護持が教団の護持になっていたと見ることができる。

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側﹁根本道場﹂の観点から a﹁本部教会の性格を教団が吸収﹂することの意義 根本道場である本部教会が、東京教会に変更されたことについて﹁本部教会を東京教会と改称するとともに、従 帥 来の本部教会の性格を教団に吸収し﹂た、という記述がある。これを伝統的な仏教宗派との比較で考えてみる。浄 土真宗本願寺派では、次のように考えられている。 ⑩浄土真宗本願寺派は、その宗法調査会において︵昭和五五・一○・一四総長への答申︶、本願寺が一般寺 院と同じく派の被包括寺院であることを、本願寺教団発生の原点からみて好ましい状態でなく、本山そのもの が包括団体となるべく本願寺、宗派という二重構造が法的であるとしても、一般には理解し難く、本山本願寺 の崇敬護持が護法愛山の根源であり、宗派意識は極めて薄いから、本願寺を核とした宗門であることを明示し、 本願寺を離れた包括団体はありえないことを法的にも整備して一体化して名実ともに本願寺宗門を具現すべき しかし、本部教会が東京教会に変更され、教団と本部教会の役員を兼ねていた九人の役員は、東京教会の役員に は就任せず、新しく別の役員が就任している。従って本部教会の護持が教団の護持に連動したという観点では、教 団と東京教会は分離されたと見ることができる。 ②法律上被包括寺院たる本山本願寺を包括法人たる宗派と一体化するためには、本願寺の資産を宗派法人の 資産とすることが要請せられるであろう。︵谷口知平﹁本山・末寺と包括・被包括宗教法人寺院l本山と宗派 一体化の問題についてl﹃民法論﹂第四巻四○九頁﹂ ことを結論している。 73 立正佼成会における「根本道場」の変化について

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74 特定の宗派ではなく、一般的な本山・宗派の関係を述べたもので次のような見解もある。 ︵略︶第二に、本山・別院の教団内部における位置づけの問題である。︵略︶法人法の現行制度を前提とした うえで本山︵別院も同じ︶を教団の内部に位置づけるためには、本山を単位法人としてではなく教団内の一機 関として構成する以外にないように思われる。或いは、両者の間の役員構成のあり方を考えることによって、 教団の信仰上の象徴たるに相応しい本山・別院の形態を考える以外にはなかろう。︵略︶︵安武敏夫﹁教団組織 と宗教法人制度について﹂﹃宗教法講座﹄第六号一○頁︶ 先に伝統的な仏教宗派がその歴史のある体制を、戦後新しく制定された宗教法人法の枠にあわせるために、信仰 を通した智慧の積み重ねをして来たと述べたが、ほかにもこのような不都合を感じる面があるのだと考えられる。 引用した見解は、種々の重要な意義を含んでいると考えられる。しかし、ここでは一応、本山が伝統的な本末関 係を通して教団の総合的な運営を行っているが、宗教法人法では本山が他の一般寺院と同じ一号法人として位置づ けられ、﹁教団の伝統的組織原則と重大な矛盾を示す﹂ようになっていること、また、﹁宗教団体としての実体と一 致したものといえる﹂かどうかという問題であるとしておく。 特に研究者であり弁護士である安武敏夫氏の、﹁本山を教団内の一機関として構成する﹂という考えは、筆者に とって極めて具体的なご示唆である。この安武氏の説に基づくならば、﹁地域別支部組織への改編を終了した立正 佼成会が、本部であり根本道場としていた本部教会を東京教会に変更することによって、本部と教団を一体のもの にした﹂と考えることができるのである。 立正佼成会の法人化の経過を振り返ってみると、最初に法人格を取得したのは宗教法人令の規定に従い、東京都 知事に届け出た単立法人立正佼成会であった。しかし、その後、多くの支部が誕生し、茨城の支部が修養道場を持

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つまでに成長する。そこから必要に迫られて法人にすることとなり、本部と茨城に法人の教会ができたわけだが、 この二つが所属する教団としての立正佼成会が設立され、単立法人立正佼成会が﹁発祥の根本道場﹂として本部教 会に、茨城の法人が茨城支部教会と名称変更されたと推測することができる。その後、支部を法人化することはし なかったけれども、本部教会を基として数多くの支部が誕生し教団を形作ってきた。そのことからみれば、本部教 会を本部として運営・活動していくことが教団の歴史的な組織原則にかなっていると考えることができる。 しかし、その後、明らかに﹁立正佼成会本部教会﹂ということよりは﹁立正佼成会﹂として活動していくように なっている。もともと会員の帰属意識もそこにあったように見一堂けられる。そこで、本部教会としてあった根本道 場としての性格を、包括法人である﹁立正佼成会﹂に統合することが考えられたのだと思う。 このことが﹁本部教会の性格を教団が吸収﹂することの意義だったのだと考える。これは二号法人である立正佼 成会と一号法人である本部教会を合併して一法人としたものではない。それは本部教会の持つ根本道場としての﹁信 仰の中心﹂・﹁布教の淵源﹂性を、立正佼成会本部が継承し、本部教会の持つ巨大教会性を当面、東京教会が受け継 ぐ形態になっていたと考えることができる。︵また、直接的関連は考察を要するが、庭野開祖が用いた﹁おたすき﹂ の﹃南無妙法蓮華経立正佼成会本部﹄の文字が、ある時期から﹃南無妙法蓮華経立正佼成会﹄となって﹁本部﹂の 二字が消えていることを付記しておきたい。︶ 75 立 正 佼 成 会 に お け る 「 根 本 道 場 | の 変 化 に つ い て

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価地域別支部組織への改編 会規第一九条は﹁立正佼成 ﹁根本道場﹂という言葉は使︵ 持つとする。では立正佼成会

三立正佼成会本部を﹁根本道場﹂とする

76 会規第一九条は﹁立正佼成会本部は、立正佼成会信仰の中心であり、教化活動の発する本源である﹂と規定し、 ﹁根本道場﹂という言葉は使っていないが、根本道場の持つ﹁信仰の中心﹂・﹁布教の淵源﹂性を立正佼成会本部が 持つとする。では立正佼成会本部における﹁根本道場﹂の継承は、どのような経過で行なわれたのだろうか。それ について本部教会が東京教会に変更される以前、地域別支部組織への改編の頃から検討する。 当時の在京支部の支部長たちは、本部において佼成会を運営する大幹部たちであった。教団の組織における 本部職員数は現在に比して極めて少なかった。いうなれば在京支部の連合体が佼成会の本部であり、中でも設 立の早い支部、つまり若い番号の支部が教団の中核を形成していた。したがってその整理統合を進めつつ、新 しい秩序を生み出すには幾多の困難があった。︵﹁立正佼成会史﹂第二巻二三二頁︶ これは、当時の︵本部教会の︶在京支部において考えられていた支部長の位置付けと、導きの親子関係に蕪づく 支部組織を地域別支部組織に改編する時の模様が述べられている。当時、﹁東京の区割りについてはさまざまな意 見が出されたが、ブロック制の区割りが地方行政区画を基本とするものとなったこともあって、東京には二三区の 区ごとに一つの区名を冠した支部を置くことになり、︵略︶東京の組織が作られることになった。したがって九○ を越す東京の支部長のなかで、三分の二をこえる支部長たちが地方の支部長として赴任し、または家業や家庭の主 副 婦として信仰をつづけることになった。﹂このような大変革であったが、﹁日敬会長の指示に従って︵略︶問題はほ とんどおこらず、新制度への移行は順調に行なわれたのである。﹂とされている。

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②布教組織と事務組織について 本部教会を東京教会に変更し、本部教会の施設を教団に統合したことをみてきたが、それは具体的にはどのよう な変化だったのだろうか。次の記録を見てみよう。 ︵略︶当時の﹁佼成年鑑﹄を見ると、立正佼成会は事務組織と布教組織という二つの組織から成り立ってお り、理事長の下に総務局と教務局を置く事務組織は、教団の管理機構であり、支部長の下に法座主任以下を置 く布教組織が、日常的な宗教活動を担うものであった。そして、その二つを統轄する位置に立つのが日敬会長 また、別の面からの記録として次のものが挙げられる。 昭和三五年には、﹁本部教会﹂の物的な面も、包括法人である﹁立正佼成会﹂の教団の方に併合いたしまし て、﹁本部教会﹂に所属しておりました会員、支部組織等を再編成いたしまして、﹁東京教会﹂というように名 称をかえてきておるわけでございます。この昭和三五年の時点での﹁本部教会﹂から﹁東京教会﹂への変更は、 地域別組織への組織がえによりまして、東京地区の会員は、本部直属会員のような意識があったのですが、全 国一律の観点から、﹁東京教会﹂というように名称を変更いたしまして、﹁本部教会﹂の従来の施設は全て﹁教 団﹂へ統合いたしまして、名実ともに、﹁本部﹂と﹁教団﹂は一体のものに、すなわち一法人という形態にし たわけでございます。もちろん、財産移転、登記等も、この時点で行っております。︵以下略︶︵宮部公男﹁新 宗教教団﹃立正佼成会﹄の組織と機能﹂﹁宗教法﹄第二号八三頁︶ これによると、本部教会のような特別の存在を認めず、全国一律に地域別に組織を組み替えると考え、さらに教 団を実体化するために﹁本部教会﹂の従来の施設は全て﹁教団﹂へ統合したことが理解できる。 77 立正佼成会における「根本道場|の変化について

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78 であった。︵略︶かつて二人三脚ともいうべき日敬会長・妙佼副会長が一体となって会を指導して来たが、ブ ロック制移行後の時期には、事務組織の統括者として理事長が位置づけられ、布教組織を担う全国の支部長は 会長に直属する形になっていた。 いつぽう、布教組織の方は全国に新しく編成された一二七の支部と、それを地方ごとにまとめる一○の教会 ︵後の教区にあたる︶に組織された。東京教会はその段階で、中核の二四の支部の他に、川崎、豊田・西多摩 ・南多摩・海外を包括することになっていたが、当時の教会は全国の支部を整理するための便宜的なもので、 実質的な機構はほとんどなかった。 教団本部を支える二四の支部の役割は、多岐にわたっていたが、その主なものをあげると、戒名当番であっ た。︵略︶はじめの頃にはそれに類するものとして方位・姓名鑑定をする当番もあった。 また、本部、第二、第三道場の受付、清掃などの道場当番、さらに本部施設周辺の交通整理などにあたる交 通当番が、支部単位で一日交代で割当てられた。︵略︶これらの当番は佼成会会員の修行実践の訓練の場とし て重要な役割を果した。︵﹁立正佼成会史﹄第二巻二三阿頁︶ 一○の﹃教会﹄とする記述は、昭和三五年版の﹁佼成年鑑﹄だと思われるが、それは、昭和三四年一月一日から 一二月末日までの一年間の教団の概要を内容としている。その年の一二月一五日に、地域別支部組織改編の締めく ⑰ くりとして在京一一五支部長などの人事が発令された。︵なお、昭和一一一五年一月五日、﹃教会﹄の数は一八に変更され 茨城支部教会は茨城教会となっている︶。ここでは当時の立正佼成会が事務組織と布教組織とから成り立っている と考えられていたことが分かる。本部教会が存在していた当時は、本部教会を布教組織とし、事務局を事務組織と するという体制がとられていたわけである。

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③﹁根本道場﹂の再編成 a﹁根本道場﹂はどうなったのか では、根本道場はどうなったのだろうか。ブロック制が施行され教団に総務局と教務局の二局制が設けられたが、 当時の佐野元章教務局長が次のようにコメントしている。 ︵略︶ここで、ちょっと注意しておきたいことは、従来の教務部︵本部教会が存在していた当時の事務局内 の部署名l筆者注︶というものの性格を一般会員や一部の幹部の人たちが誤った考えでみていたのではないか ということです。それは、すべての布教活動をとおしてのご法の指導を教務部がとっていたlという考え方で す。もしそういう考えがあればそれは誤解です。︵略︶ ところが、本部教会に所属していた会員と支部組織等を地域別支部組織改編の原則に従って編成しなおし、名称 も東京教会に変更し、本部教会の従来の施設は全て教団へ統合された。この時点では、東京教会を含む一○︵後に 帥 一八となる︶の﹃教会﹄が布教組織となり、事務所が事務組織と変わっていることになる。 引用文では、﹁教団本部を支える二四の支部の役割﹂と記されているが、これはかつての本部教会の印象に基づ いたとらえ方で、この時点で、大聖堂︵竣工後︶は立正佼成会会員全体のための、具体的には、全国の﹃教会﹄・ 支部の︵見える意味での︶根本道場となっていた。しかし、現実には東京教会は大聖堂に主たる事務所を置いて、 上に引用したような各種のお当番などの修行をしていた。そのことから、﹁在京の教会だけが大聖堂を自分たちの 施設のように使っている﹂と、地方教会の会員が見たように、大聖堂と東京教会および在京の教会に対する見方に 混乱を残すことになるわけである。 79 立正佼成会における「根本道場」の変化について

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昨年来、地方支部並びに在京支部の地域ブロック制が実施されてきましたが、これは会が今後飛躍的に発展 するための大きな体制をととのえることなのです。従って本部の事務機構もこれに伴なって大きく変わったわ けで、いわば二局制が採用されたということは地区ブロック制の確立を期するための必然的な産物だともいえ るのではないでしょうか。 80 教務局としては、もちろん布教を推進するための機関ではあるけれども、単に従来の教務部の延長ではなく、 各支部の布教面を大局的に見つめ、その方向をあやまらないように梶をとってゆくようなものです。そして各 支部の指導は支部長さんに任せ、それぞれの支部員は支部長さん自身が完全にはあくしていなければこれから の教勢の伸張はないと思うのです。支部長さん方は会長先生からの直接のご指導をうけてそれを支部員に伝達 するのです。教務局は、それを更に側面から補佐して布教の推進をはかるlこれが理想の形なのではないでし ょうか。私は永年地方支部長としてのお役を頂いていたので、支部長というものの責任がいかに重かつ大であ るかを経験してまいりました。従って、今までの教務部の在り方が、とかく地方布教などで末端会員への直接 指導をするという方向をとっていたようですが、それを改めて教務局としては主として幹部養成という点に力 を注ぐつもりです。︵教務局長佐野元章﹁布教活動の推進力として﹂﹃交成﹄昭和三五年六月号二○頁︶ 本部教会のあった当時の立正佼成会を次頁A図で示す。本部教会が﹁教団発祥の根本道場﹂として、ほとんどの 支部を誕生させて教団を形作ってきた。一応ここではこれを本末関係︵或いは親子の関係︶と呼ぶことにする。教 務部では、その本末関係を基に教団の運営に携わるとき、仏法を介した上下関係あるいは支配関係の色合いを帯び ることになる。筆者の先回の小論では、A図B図各々の上の図で教団と教会の関係を説明していた。 一応の説明は上の図で説明できるが、これを根本道場を説明するために円錐形にして横からと上からとで兇たも

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( A 図 関係が具体的な形となって表現されていると考える。 部布教班﹂が編成され派遣されたことなども言及されていると思うが、原理的には仏法を介した統制的・支配的な 解が生じかねない運営になっていたのだと考える。当時、地域に教えが十分に浸透していなかったことから、﹁本 そこから、上のコメントにおいて﹁すべての布教活動をとおしてのご法の指導を教務部がとっていた﹂ような誤 っている。しかもそれらの支部は独立した法人格を備えた形態にはされていない。 長直属とな﹂り、親である茨城支部教会との関係は道義的情誼的なものに止まるので、円錐形の背は低いものとな 水戸、日立、小名浜支部が、翌年に平支部が誕生しているが、それらの支部は﹁支部を結成した以上は公的には会 のとして示すと、本部教会は円錐形の頭部をしめることになる。この場合、茨城支部教会から昭和二七年四月に、 茨 城 支 部 教 会 81

上 か ら み る 本恥、、 末、、、 関

係 / 立正佼成会における「根本道場|の変化について

教会ノ茨耀餅

非 法 人 の 支 部 本 部 ( 茨 城 支 部 教 会 横 か ら み る

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図 を展開していくことになる。 任されている。支部長たちは立正佼成会本部を﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本源﹂として各地域で布教活動 大聖堂を見える意味での根本道場とし、そこに教団の本尊を奉祁し、会長からの指導を受けた各支部長に布教が いる、ということになる。︵B図では十六の﹃教会﹄を描けないので省略している。︶ 立正佼成会本部は、Bの横から見た図にあるように中央に根本道場としての場を占め、周りの教会を生かし育んで 会長に﹁直属﹂した形になっている。それとともに法人化されていない他の一六の﹃教会﹄も同列に並んでいる。 位置づけにあった本部教会のような存在の一号法人はなくなり、東京教会も茨城教会も対等・平等の存在として、 次に、本部教会が東京教会に変更された当時の立正佼成会をB図で考えることにする。ここでは信仰的に特別な 16のI教会」

/

茨 城 教 会 東 京 教 会

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″一一 、 、 ( 〆 B │世からみる 上 か ら み る

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1 J 82 、 中央をしめ、各『教会』を 生 か し 育 ん で い る

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、 非法人の16の『教会」

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剛 あるということになう。n 以上を考えると、教[ 立 正 佼 成 会 壁 化 に つ い て 信仰的に特別な立場に立つ本部教会のような存在がないために、教団の事務機構が﹁教会﹄・支部との関係で大 きな役割を担うことになる。根本道場としての機能は、共に﹁信仰の中心﹂﹁布教の淵源﹂という二つを担うわけ だが、本部教会の根本道場として機能する場合と、教団の根本道場として機能する場合においてこのような相違が AとBのそれぞれ横から見た図では、根本道場の位置が、前者は円錐形の上部を占めるが、後者は底辺にまで及 んでいる。しかし、底辺にまで伸びているからといって新しい教務局が﹁地方布教などで末端会員への直接指導を する﹂ようなかかわりはしないのである。底辺にまで及んでいることは支部長に活動は任せるわけだが、教務局は それぞれの支部の布教活動を大局的な見地から見て、誤りのない布教活動、活力のある布教活動が行なわれるよう に舵取りをし、﹁幹部養成という点に力を注﹂ぐことなどが行なわれるのである。 立正佼成会本部に根本道場としての教義や儀式行事あるいは修行形態を定めるにあたり、教務局がどのような内 容を盛り込むかによって、各支部の布教活動は異なってくる。また、立正佼成会本部で養成され、あるいはそこで 認められた人物が支部長に任命されるが、その養成や認定の内容によっても支部の活動は大きな影響を一受ける。こ のように各支部の日常的な活動は、根本道場の中身として教務局の盛り込む内容によって、活性化したり沈滞化し ニおける|根本道場」の 以上を考えると、教団の体制を森岡清美博士の言われる﹃おやこモデル﹂から﹁なかまl官僚制連結モデル﹄ @ 移行させようとしていた、と考えることができる。 では、根本道場はどのようにして立正佼成会本部に編成されていったのだろうか。 それを次に見ていくことにする。 たりすることが考えられる。 手﹂ 83

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のように解説されている。 9 布教本部は、①教[ b布教本部の設置について 布教本部は、①教団の基本方針が統一的に各教会・支部に伝達される機構を確立する、②教会・支部の実情 を把握して基本方針の具体化を図る機構を確立する、③教会・支部への指導・助言の徹底を図る、④教会・支 部の布教運営機能の開発を促進する、などのために設置された。教団の総務部・経理部を事務部門とすれば、 これは布教総合開発部門ともいうべきものであって、教団の二大機能が二つの部門に明確に分けて担当される 体制であった。︵﹃立正佼成会史﹂第二巻一五四頁︶ 布教本部長に就任した森岡延浩常務理事は、布教本部の理念について次のように語っている。 84 大聖堂が竣工する以前の昭和三八年三月に、教団では大聖堂完成以後の教団体制の確立と能率的な布教活動の昂 揚を図るため、総合的な見地から教団運営に関する基本的事項を調査審議する﹁教団運営基本問題調査会﹂の設置 四 が決められている。この調査会の答申のうち比較的採用しやすい部分は実施に移され、他は検討の後、数々の具体 的な改革が行なわれた。その改革の中で、本格的な根本道場の再編成という視点から﹁布教本部﹂が設けられたと 考えることができる。その設置及びその後の経過について見ていく。 ﹁布教本部﹂は昭和四三年一月一日付で新設された。この年は教団の創立三十周年にあたり、スローガンは﹁躍 進の年﹂と定められ、信行の目標として三指針が示された。これに基づいて﹁昭和四三年次布教基本方針﹂が発表 され、それを実践する具体案として﹁昭和四三年次運営基本計画﹂が決定された。この﹁昭和四三年次運営基本計 画﹂では、布教・建設・組織・人事・事業・研究開発・財務の七部門それぞれについて、目標と方針が示されてい 四 るが、本部機構改革の具体策により設置されたのが布教本部である。布教本部の設置をめぐる機構改革について次

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組織が大きくなれば、内部のコミュニケーションにも限界が生じ、意志の疎通が阻害される懸念が生じます。 そこで、会長先生のご指導や教団の方針を正しく速やかに会の隅々まで浸透させる、いわばパイプの役目が布 教本部であると思います。また、会の末端まで常にその動向を把握して、これを布教方針に組み入れてゆきま す。さらに、もし必要があれば援助・指導の手をさしのべ、相談に応じ、処理をかって出る、布教コンサルタ ントというべきものが布教本部です。︵﹃立正佼成会史﹄第二巻一五五頁︶ また、一月に開かれた初の布教本部会の席上、川手副本部長が布教本部の内容について次のように説明した。 布教に関連をもつ本部関係のすべての機関が布教本部に集約されたのであり、教会、支部へのすべての連絡 を統一的に行ない、連けいを密にして行きます。以前あった教務部等の機関はいわば布教事務部門でしたが、 今回の布教本部は総合布教開発部門でなければならないとされています。教会長さん方もこの会議には教会の 地域代表としてでなく、会長先生のご指導をより正しく伝えるためと、佼成会全体の布教をどう進めるべきか、 という全体の立ち場で考える会議としてご出席ください。︵﹃佼成新聞﹂昭和四三年一月一九H号︶ これらの説明で明らかなように立正佼成会全体の立場にたって、会長の指導や教団の基本方針を、﹃教会﹄・支部 の実情を把握しつつ具体化する機構を確立するための布教総合開発部門として布教本部が設置された。﹁布教本部﹂ という名称自体が、雄弁にその目指すところを示していると印象付けられる。安武敏夫氏の﹁本山を教団内の一機 関として構成する﹂というご見解のように、布教本部という一機関を通して立正佼成会本部を根本道場とすること が構想されていたと理解できる。 85 立正佼成会における|根本道場」の変化について

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C布教本部による﹁根本道場﹂再編成の展開 布教本部会は、庭野会長、森岡布教本部長、教団役職者、全国の﹁教会﹂長、等の出席で行なわれている。三月 剛 には、隔月に予定されていた本部会を毎月行なうように変更し、活発な討圭誠が繰り広げられた。かつて本部修養道 場やお山で、両先生から支部長たちがご指導をいただいた光景を祐桃として思い浮かべさせられる。 それとともに、全国を八ブロックに分けてブロック別の支部長会議を開催し、現状の報告と問題点の摘出を行な 固 い、具体的な解決策などのグループ討圭誌を進める、等の多角的な展開が見られた。 布教本部の昭和四三年次の活動を集約して、﹃佼成年鑑﹄は﹁その特徴とみられるのは、教会・支部における下 部組織の充実強化と人材登用について強力なバックアップの試みで、そのために主任、組長、班長の︿クラス別練 成﹀を目的とする︿本部間参﹀の年間計凹を立て、強力にこれを実施した﹂とし、また、﹁︿班づくり﹀と呼ばれた 人材養成﹂を行ない、活発な導き活動が展開されるとともに、全国から選出された四六○人にのぼる特別布教班員 ” を各地に派遣してきめのこまかい布教指導が行なわれ、地方会員の自覚を促したと評価している。 昭和四五年四月の普門館の完成によって、昭和四四年九月に完成した団参会館の宿泊施設を活用し、大聖堂・普 門館・団参会館を結んだ有機的な本部団参行事が展開されることになった。﹃佼成年鑑﹂は次のように記録してい 四五年次の本部団参は、文化の大殿堂﹁普門館﹂の完成を祝う﹁喜びあふれる団参﹂となった。信行の根本 道場である﹁大聖堂﹂に参拝し、﹁普門館﹂では、全国から集う五千人の会員が一同に会して一体感︵異体同 心︶を味わい、﹁団参会館﹂で宿泊する。これらの行事をとおして、それぞれ会員は信仰を語り合い、確認し 合い、今後の決じようを誓い合うという、本部団参になったのである。︵﹃佼成年鑑﹄昭和四六年版一九頁︶ 86 る

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f7TF佼成会における さらに昭和四六年次の﹁実践団参の推進﹂では、一一泊三日の宿泊と日帰り団参を含めて、約三五万人が参加し、 ” ﹁五千人法座﹂﹁信仰体験﹂﹁映画﹂などを盛り込んだ﹁並日門ライフ﹂が好評を博した。 このような布教本部の活動を通して、普門館・大聖堂を中心とした諸施設を全国の会員が修行の場として使用す ることにより、立正佼成会本部を﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本源﹂である根本道場として、着々と再編成 ところが、次のような変更が行なわれる。立正佼成会では創立三十周年にあたる昭和四三年を期して、会員百万 世帯を達成することを目標に五カ年計画を組み、年次計画を進めてきていた。昭和四三年の布教本部の設置は、そ の加速策でもあったのである。しかし、会員数の増加の実態はあまり芳しいものではなく、﹁例年会員獲得に重点 を置き、入会後の手取りがおろそかになっていたためか、四三年には大量整理があいつぎ、会員の純増加率はもち 四 ろん、純増加数も前年をかなり下回った。﹂とこの間の事情を説明している。 この事態に苦慮した教団首脳が、布教意欲を振るい起こさせて速やかに百万世帯の目標を達成させるために 思いついた対策は、会長長男庭野浩一を布教本部長に推戴することであった。こうして、四四年一一月、浩一 は輿望を担って布教本部長に就任し、これに伴い、森岡本部長は副本部長に、そして従来の副本部長は本部員 に降格となった。この処置は成功して、教勢は息を吹きかえし、四七年、ついにこの宿願が達成された。︵﹃立 正佼成会史﹄第二巻一六五頁︶ こうして布教本部が新設された翌年に、本部長と副本部長等の役員の更迭が行なわれた。 次に、少し異なった角度から布教本部に関連する変更を確認してみよう。それは、昭和四四年一月一日から実施 された布教体制の改編、すなわち、全国の支部を教会に昇格させたことをあげることができる。この改編に伴い﹁教 されていったことが伺える。 ところが、次のような変舌 87 艮 本 道 場 | の 変 化 に つ い て

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していることが分かる。 一一教区長が、﹁教会 さらに、昭和四六年一月には、八教区を一一教区にしたが、この新しい教区は教会の﹁上部組織﹂として教区長 が任命された。教区長は、﹁地域の実情に応じた布教活動を活発に展開し、本部と教会を結ぶパイプ役を果たす﹂ 脚 ものとされ、いままで八教区に派遣されていた教区事務長は﹁廃止され﹂ている。パイプ役だと考えられたものが、 ﹁布教に関連をもつ本部関係のすべての機関が﹂﹁集約された﹂布教本部から、教区事務長、さらに教区長へと変化 会﹂長は、職制廃止となり布教本部員、あるいは﹁教庁各施設の管理担当﹂として本部に集結されている。 侶 鋤 つまり、支部を教会に白升格させ全国を八教区に分けたが、この教区は事務連絡を主な目的としていたので教区長 剛 は置かず、それぞれに事務長を置いて、﹁本部と地方のパイプ役﹂を果たすことにしたのである。それは、﹁教区で 鋤 活動を統一するよりは教会長の自主的な判断に委ねる﹂方がよいと考えられたためだろう。 そして布教本部では、昭和四四年二月には﹁布教上の問題について担当地区の教会長の相談にあたる﹂ために布 倒 教本部員の担当地区が決められた。これは、支部が教会に昇格され教区が設けられたが、教区長は置かれなかった ことから教会長からの相談に応ずるために、担当地区が決められたものである。ところが同年一一月に発表された 布教本部員はそれぞれ、教育担当、団参教育担当、広報担当、布教開発担当、儀式行事担当、佼成学術研究所担当、 剛 と担当の分野が変更されている。 88 一一教区長が、﹁教会の上部組織として︵略︶任命され﹂、布教本部員と教区長が存在することになる。ついで、 田 昭和五一年になると、﹁ブロック制導入に伴い、布教本部副本部長制が廃止され、布教本部員制度とな﹂り、﹁六人 ⑰ の布教本部員︵一人は団参担当︶が任命され﹂、五人が各ブロック担当となった。支部から巨升格された当初は、教 区長が置かれず自主的な判断に委ねるとされた教会長は、ここでは教区長、さらにブロック担当の布教本部員を上

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剛 、ソ、布教本部が廃止された。 上 に つ い て d﹁根本道場﹂としての立正佼成会本部への視点 根本道場としての立正佼成会本部を、﹁大聖堂活性化推進会議﹂からさらに考えるならば、見える意味での根本 道場である大聖堂の活性化は、立正佼成会本部が根本道場として再編成され、﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本 源﹂としての活動を展開していった後に達成されるべきものであろう。さらには全国の教会や支部が大聖堂を修行 の場として絶えず活用することによって、根本道場としての﹁巨大教会﹂性をも復活させる性質のものであろう。 しかし、その根本についての検討が十分に行なわれたとは言いがたいものがあるように思われる。それは、百万世 帯の達成という目標の実現に、布教本部が実施してきたことへの検討・改善を経ずして、役員の更迭によって達成 したとする﹃立正佼成会史﹄に記述された対応に通ずるものではないだろうか。 ﹁大聖堂活性化推進会議﹂が、本部関連部署と在京教会の代表者で検討されたことなども、立正佼成会本部に根 本道場が再編成されなかったことの一つの証左とも思われる。さらに、そこでの検討が聖堂当番・戒名当番などの それはともかく、さらにその後も組織の改編、人事の更迭が行なわれたが、昭和五四年一一月末日をもって﹁庭 野日鍍布教本部長が、会長後継者として、庭野会長と一体となり、教団内外、国内外において﹂活躍することとな 立 正 佼 成 会 に お け る | 根 本 道 場 」 の 変 のではないだろうか。 で教会として担うべきこと、立正佼成会本部として確保しておくべきこと、などの観点から今後の研究が望まれる にもつ形になっている。このような﹁パイプ役﹂や﹁担当﹂の混乱ともいうべき変転をみると、教団の諸活動の中 以上が、立正佼成会本部に根本道場を再編成する意義を持つと考えられる布教本部の経緯の概略である。 89

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あとがき ようとした布教本部の所期の構想は、いつのまにか雲散霧消していたということになる。 では何が行なわれているか分からないと耳にする点などを考え合わせると、立正佼成会本部に根本道場を再編成し 確認に終わっていることや、在京教会が大聖堂から出て地域道場へ移った後、大きな式典・行事の日以外は大聖堂 90 立正佼成会において根本道場である本部教会が東京教会に変更された後の、根本道場の変化、さらに教団と東京 教会の関係及び変化等について見て来た。小論をまとめる作業のうちで次のような問題点に気づかされた。それは、 全国の教会が行なっている宗教活動は、立正佼成会の創立以来の宗教目的にそって形成されてきたものである。つ まり、本部教会が根本道場として各支部を誕生させる過程等で、その宗教活動の重要な部分が伝承され全国の教会 に受け継がれてきた。ところが、東京教会が教団と切り離され、在京教会が大聖堂から地元に移転していくことに より、立正佼成会本部の宗教活動をも変質させた面があると考えられる。そこから、立正佼成会本部が行なう宗教 活動を、教団の宗教目的という次元から見つめ直すことが望まれるのではないだろうか、ということである。 また本論では、根本道場が一号法人である本部教会から二号法人である教団に変化したことにより、﹁おやこモ デル﹄から﹁なかまl官僚制連結モデル﹂に変化していたと論述している。これは、森岡清美博士のご研究をその まま援用させていただいたことである。もちろん責任は筆者にあるが、誤解に基づいた見解になっていないことを 願うと同時に、稿を終えるにあたり博士から受けた有意義なご示唆に感謝申し上げるものである。

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山安武敏夫﹁教団組織と宗教法人制度について﹂﹃宗教法講座﹄第六号一四頁。 脚この当時の支部は教会に昇格されていない。ここでは、﹁宗教法人法で定める一号法人である教会となった支部﹂とい う意味である。 注 91 ③﹃立正佼成会史﹄第二巻九八頁。 ㈱東京教区ができるのは、昭和四六年一月一日からである。﹁立正佼成会史﹄第二巻二三六頁は﹁︵略︶支部を昇格させて 教会と呼ぶようになった。したがって、東京教会長は東京教区長に改められ﹂とするが、この時点では東京教区はなかっ た。また、教区には教区長は置かれなかった。注⑳参照。 て 列⑤ブロック制が実施され、杉並支部が発足したのは昭和三四年一二月であった。 酢⑥﹁立正佼成会史﹄第二巻一一五七頁。 1 唖例﹁立正佼成会史﹂第一一巻一一五五頁。 周⑧﹃佼成年鑑﹄昭和四一年版一○一一頁。 道 本⑨﹃立正佼成会史﹂第二巻五三四頁。 根 引⑩﹃立正佼成会史﹄第一一巻一一四三頁。 都⑪﹃立正佼成会史﹂第一一巻五七八頁。 鉢⑫﹃立正佼成会史﹄第一一巻四九頁。 ”⑬﹃立正佼成会史﹄第一一巻九八頁。 鉦⑭安武敏夫﹁教団組織と宗教法人制度について﹂﹁宗教法講座﹂第六号一四頁。

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⑮﹁立正佼成会史﹄第二巻二三三頁。 ⑯﹁立正佼成会史﹂第二巻一一三三頁。 ⑰﹁交成新聞﹄昭和一一一四年一二月二五日号。 ⑱昭和三五年九月二二日改正施行の宗教法人﹁立正佼成会﹂規則第二条は﹁この宗教法人は、事務所を東京都杉並区和田 本町二十七番地に置く﹂と規定する。そして、昭和四○年五月六Ⅱ変更認証の宗教法人﹁立正佼成会﹂規則第二条は﹁こ の宗教法人は、事務所を東京都杉並区和田本町九百三十三番地に置き、これを﹁立正佼成会教庁﹂という﹂とする。 ⑲﹃立正佼成会史﹂第二巻九○頁。 ⑩立正佼成会において教会の法人化に関する議論があり、法人化しない理由の一つとして教会の分派独立に関する危倶が あげられる。しかし、ここに見たように立正佼成会本部が根本道場として教会を生かし育むという機能があることを考え れば、それも教会を法人化しない理由の一つとして浮かび上がってくるのではなかろうか。なぜなら教会が法人化され独 立性を帯びてくると、教会の分派独立という極端な事態に至らなくとも、教団としては管理統制機能を発揮せざるを得な くなるだろうからである 92 ⑳森岡清美一新宗教運動の展開過程﹂一一一一二頁。同﹁日本における教団組織の諸類型﹂一宗務時報﹂肌七八一七頁。 四﹁立正佼成会史﹂第二巻一一○頁、一一九頁。 田﹃立正佼成会史﹄第二巻一五二頁、一五四頁。 例﹁佼成新聞﹂昭和四三年一一一月二二日号。 四﹁佼成新聞﹂昭和四一一一年五月一○日号二頁、﹁佼成新聞﹂昭和四三年五月一七日号二頁、﹃佼成新聞﹂昭和四一一一年五月一一 四日号二頁、﹁佼成新聞﹄昭和四一一一年六月七日号中部日本版、﹁佼成新聞﹂昭和四三年六月一四日号二頁、﹃佼成新聞﹂昭

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和四一一一年六月二一日号二頁。 ⑯﹁佼成年鑑﹂昭和四四年版三頁。 の﹃佼成年鑑﹂昭和四七年版二一頁。 田﹃立正佼成会史﹂第二巻一六四頁。 四﹃立正佼成会史﹄第二巻一五七頁、﹁佼成年鑑﹂昭和四五年版六頁。 ⑳﹃佼成年鑑﹂昭和四五年版三七頁には﹁事務取り扱いの便宜上、全国を八つの教区に﹂したとする。同五一頁には、﹁全 国八教区制が敷かれ﹂とある。しかし、七頁には、﹁新たにもうけられた九つの教区には、教区事務長が配置され、﹂とあ いまいな表現となっている。この頁の﹁教区別・教会一覧表﹂では、北海道・奥羽・北関東・関東・中部・関西・中国・ 九州と海外の教区をあげるので、全国では八教区となる。 なお、﹃立正佼成会史﹂第二巻一五八頁は、﹁全国を九教区に分け、本部の布教開発課が直接担当する関東・海外の二教 区を除いて、各教区に事務連絡のための教会を指定し、本部との中継点とした。﹂また、一六二頁は、﹁支部をことごとく 教会と改称し、事務取扱いの便宜のために国内一七三教会を九つの教区にまとめた。それは、北海道・東北・北関東・東 京・関東・中部・関西・中国・九州の九教区である。﹂とする。 当時の布教開発課員で教区事務長であった松本貢市郎元責任役員の確認では、東京教区は設けられていないので、全国で は八教区となる。なお、奥羽教区は、﹃佼成新聞﹂昭和四四年二月七日号には、東北教区と変更されて使われている。 ⑳﹃佼成年鑑﹂昭和四五年版七頁。ここでは、﹁教区事務長﹂とするが、五一頁は﹁教区事務担当﹂としている。また、 ﹁佼成年鑑﹂昭和四六年版六三頁には、﹁二年目を迎えた教区事務担当は本部と教会のパイプ役を努める﹂とする一方、 ﹁教区事務長﹂とする記述がある。人事課の確認では﹁布教開発課○○教区事務担当︵事務長︶﹂の辞令が出されたという。 93 立正佼成会における「根本道場」の変化について

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94 一応、﹁教区事務長﹂を使用する。 ⑫﹃立正佼成会史﹂第二巻一六三頁。 田﹁佼成新聞﹂昭和四四年二月七日号。 “﹃佼成新聞﹂昭和四四年一一月二一日号。 田﹃佼成年鑑﹄昭和四七年版一一一五頁。しかし、﹃立正佼成会史﹂第二巻一六七頁では、﹁昭和四四年、支部を教会に改 称したさい、全国を九教区に分けた。この教区は事務連絡を主な目的としたものであったから、教区ごとに事務連絡の拠 点が定められ、事務長は任命されたが、教区長の制度を欠いていた。この制度を実施してから二年後の四六年一月従来の 八教区を再分割して、南関東・東海・信越の三教区を新設し、関東教区を廃止した。この新しい教区は、︵略︶教会の上 部組織と位置づけられ、教区長が任命された。教区長は、地域の実情に応じた布教活動を活発に展開するとともに、本部 と教会を結ぶパイプ役となるべきものであった。﹂とする。﹁全国を九教区﹂については、注⑳参照。﹁三教区の新設﹂は 東京教区がここで新設されたので、﹁四教区の新設﹂である。 田このブロック制の導入とは、全国を五ブロックに分けたことである。五ブロックは次のようになる。北東ブロックが、 六教区四○教会。関東ブロックが、六教区五二教会。東京ブロックが、二教区三一一一教会。中部ブロックが、八教区四四教 会。西日本ブロックが、一一教区五二教会。﹁佼成年鑑﹄昭和五二年版一三頁参照。 町﹁佼成年鑑﹂昭和五二年版一三頁、四五頁。 田﹁佼成年鑑﹄昭和五五年版二○頁、五三頁。

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