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On the Decay of Shi-Jing-style AssociativeExpression in Yuè Fŭ in the Han Dynasty

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

On the Decay of Shi-Jing-style Associative Expression in Yuè Fŭ in the Han Dynasty

小西, 昇

https://doi.org/10.15017/2332821

出版情報:文學研究. 61, pp.89-111, 1963-03-20. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:

権利関係:

(2)

この小論は︑漢代楽府詩の表現方法が詩経に対してどのように

変化したか︑また漢代楽府詩に新しい表現方法が生まれたかどう

かという点について述べようとするものである︒

詩経は﹁周朝のごく初期から︑東周に遷って後︑春秋時代には

いってしばらくの間まで︑およそ前後数百年と思われる間の︑上

は朝廷の祭礼や饗宴に奏せられた歌︑下は各地方の民間の歌謡な

ど︑あわせて三百余篇の詩を集めた﹂もので︑﹁そのなかでも周

室東遷前後のものが比較的多いように思われる﹂という︒周が都

を鏑京から東方の洛邑に遷したのは︑

B. c

0年である︒こ

れに対して漠代楽府詩は︑前漢の興った

B.

ニニの滅んだA•D0年までの間の、武帝によって創設された楽 c0六年から後漢

府という役所で採集︑保存したもので︑郊記歌・安世房中歌など

の貴族文人の作ったもの︑鼓吹曲・横吹曲の外国からはいったもの、相和歌•清商曲などの民間から採集したものをいう。そのな

かでも︑現存する漠代楽府詩は後漢の作と見なされるものが多い︒

以上両者を比較してみると︑共に宗廟の祭り︑朝廷の饗宴に奏さ れた歌を含み︑特に両者が各地方で採集した民歌民謡を含むことを最大の特色とし︑またそれらを詩経●漢代楽府詩の最も興味ある対象と現在考えられている点で共通する︒

古来︑詩には六義というものがあって︑風雅頌という詩の性質

上の分類のほかに︑賦比興という表現上の分類が言われて来た︒

このなかで賦と比とはあまり問題はないが︑興は詩経の表現上の

最も大きな特色である︒この興︑またそれから派生した興的な表

現方法が︑漠代楽府詩にどのような影響を与えたか︑あるいはどの

ように変化していったかという点を先ず検討してみたいと思う︒

もともと興という字は︑おこすという意味で︑何かをいいおこ

し︑それによって主題を連想させる方法である︒すなわち興と主

題との間には︱つの連想関係が成立している︒そしてその連想関

係は︑はじめ必然性をもったものであったが︑後には公式化観念

化されて遂にはその連想関係がなぜ成立するのか分らなくなって

行く︒この時以後その連想関係的表現方法は衰滅して行くと思わ

れる︒詩経の興はおおよそこのような運命を辿ったであろう︒そ

小 酉

漢代楽府詩における詩経の連想的表現方法の装滅

(3)

彼采瘤分一日不見

如三秋分

彼采文分 してこの連想関係が特に古代的な民俗的な習俗に基いて成立たものは︑その風俗習慣の変化梢滅に従って又変化し衰滅して行ったように思われる︒例えば草摘み歌︑川渡り歌︑柴刈の歌︵伐薪・束薪︶などがそれである︒しかし衰滅といっても︑これらの興的表現方法が罰俗の衰滅と共に簡単に消えて行ったというのではない︒それは多様な変呪の過程を示しているのである︒あるものは残滓を止めながら新しい輿的表現方法として生れ変り︑又あるものは何らの影もとどめないままに亡んでしまっている︒今わた<しは︑それぞれの歌についてその変化と衰滅の多様な過程を追究してみたいと思う︒

まず草摘み歌から取り上げたい︒そもそも草摘みは︑草を摘ん

で宗廟に供えたとも︑あるいは春の生命力を得ようとして食用に

供するために若菜を摘んだものともいわれる︒が︑﹁女たちが冬

から解放されて︑野外に春草をつむ︑その女たちに男が言い寄

る﹂機会にもなったのであろうか︑草摘みを興とする恋愛詩が多

く作られている︒王風﹁平葛﹂に

彼こに淵を釆らん

一日見ざれば

三秋のごとし

彼こに文を釆らん 彼采葛分一日不見

如三月分

彼こに葛を釆らん

一日見ざれば

三月のごとし 一日見ざればとさ

︱ 歳 分 三 歳 の ご と し

とあるのは︑朱子のいうように逢瀬を待ちこがれる恋人の歌であ

る︒また周南﹁巻耳﹂の第一章に

巻耳を釆り釆りて

頃 筐 に 盈 た ず

磋 我 人 を 懐 う て

彼の周行に直<

とあるのは︑ぜんまいを摘みながら遠く離れている人を思いした

う歌である︒このように草摘みの文句︵特に興︶は常に遠く離れ

ている人を思う歌のうたい出しになっている︒そして﹁采ロロ﹂

とか﹁采口采﹂という形式で表現されることが多い︒これは興

として用いられるほかに︑句中に歌われることがあるが︑興とし

て用いられた詩の方が草摘み歌の本来の姿を留めていると思われ

る︒このような詩は︑先に挙げたもののほかに︑周南﹁末攻﹂︑

庫風﹁桑中﹂︑魏風﹁扮吼湘﹂︑唐風﹁采苓﹂︑小雅﹁采芭﹂︑

小雅﹁采薇﹂などがある︒

ところで︑草を摘むといえば︑遠くにある人を思うという連想

関係が︑漠代楽府詩の中でも存在し成立しうるのであろうか︑草

摘み型の文句をもつ詩を列挙してみると次の如くなる︒1江南可採蓮︑蓮葉何田田︑魚戯蓮葉間︑魚戯蓮葉東︑魚賊痙

葉西︑魚戯運葉南︑魚載蓮葉北Q

︵江

南︶

2日出東南隅︑昭我秦氏椀︑秦氏有好女︑自名為羅敷︑羅敷喜 采采巻耳不盈頃筐磋我懐人興彼周行 一日不見

(4)

. ︐  

一作竺鱈桑︑採桑城南隅︑青絲厄節係︑桂枝侶砕叫2詞︑頭上佐堕

膨︑耳中明月珠︑細綺為下耳︑紫綺料上糾︒︵酌上桑︑関係部

分の

み︶

•••••

3仙人騎白庇︑髪短耳何長︑噂我上太華︑釈芝獲赤怖︑木到主

人門︑奉薬一玉箱︑主人服此薬︑身体日康弧︑髪白更黒一作製臼

復還忠︑延年壽命長︑︵長歌行三首︑その二︶

. .  

4教勅凡吏受言︑採取紳夢若木端︑玉兎長詭括蝦薬斜丸︑奉上

陛下一玉在︑服此薬可得神仙︒︵螢逃行︑第四解︶5上山知靡蕪︑下山鋲故夫︑長齢問故夫︑新人復何如︑新人雖

言好︑未若故人妹︑顔色顔相似︑手爪不相如︑新人従門入︑故

人従間去︑新人工織鎌︑故人工織素︑織輝日一匹︑織素五丈

餘︑貯紐米比素︑新人不如故︒︵上山米隙蝋︶

6

十五従軍征︑八十始得蹄︑道逢郷里人︑家巾有阿誰︑病看 一 作

5是君家︑松柏家蜻燥︑免従狗寅入︑妍従梁上飛︑中庭生旅

••

穀︑井上生旅葵︑春穀持作仰︑採葵持作'汐︑受飩一時熟︑不知

附阿誰︑出門東向看︱作咀︑涙落泊我衣︒︵十五従軍征︶7洛陽城東路︑桃李生路傍︑花花自相封︑葉葉自相常︑春風東

北起︑花葉正低品︑不知誰家子︑提伽行採桑︑鐵手折其枝︑花

落何瓢圏︑請謝彼妹子︑何協見損傷︑高秋八九月︑白露始為

霜︑終年曾颯堕︑安得久馨香︑秋時自零落︑春月復芥芳︑何時

盛年去︑歓愛永相忘︑吾欲邸此曲︑此曲愁人腸︑蹄来酌美酒︑挟砧上高聖3︵菫嬌饒詩︑宋子侯作︶

ここでそれぞれについて検討したい︒

田﹁江内連を採るべし︑蓮葉何ぞ田田たる︑魚は戯る蓮葉の間︑

魚は戯る連葉の東︑魚は戯る蓮葉の西︑魚は戯る蓮葉の南︑魚は 戯る蓮葉の北︒﹂江南といえば揚州附近︑池や湖の多いところである︒これは彼の地のはす取りの歌︒終りの四句は︑はすを取る人たちによって合唱されたのであろう︒魚は隠語で︑詩経の中でも常に愛情を象徴するものとして用いられたが︑ここでは恋人の比喩として用いられている︐従って﹁魚は戯る﹂というのは︑恋人たちがあとを追いふざけあう様を形容したものであろう︒蓮は余冠英によると︑陣関の悶語で︑述と同じ音の憐の字を暗に指し︑採蓮とは恋人を探し求めることを暗にいったものだという︒ところで詩経の草摘み歌で採取の対象となる植物は種類も多いが(例えば、若菜・葛・巻耳•土企日・楚・媛・警・蕨・頻・藻・廿棠•梅・莉・非・唐・慈i•速・蘭・文。杞・葵・頁・変・桑・薪

・苓・苦・荼・薇●荻・芹・緑・藍・卯・韻葉・室など︶︑述が

採取の対象として考えられ歌われたことはない︒そしてこの詩に

おけるように蓮に恋人を賠示させる︑すなわちある植物にある特

定の意味をもたせるといった表現方法もない︒従って﹁釆﹂と

いう表現が︑それ自身直接に何らかの意味︵採蓮で恋人を探し求

めることを意味させたような︶をもつこともない︒詩経の草摘み

の興は︑ある主題を述想させるはたらきをもったもので︑それ自

身特定の意味はない︒ここに詩経の草摘み歌とこの詩との違いが

ある︒ところで︑この詩のように採取する草そのものに特定の慈

味をもたせるに至ったのは何故であろうか︒それは︑ただ単に草

を摘むといっただけでは既にある主題を連想させることが出来な

くなり︑その結果その草に特別の邸味をもたせる必要性が生じた

ためではないかと思う︒すると︑この詩のこれらの表現方法は︑

詩経の連想的表現方法の退化現象であると考えられる︒

(5)

②﹁日は東南の隅に出で︑我が秦氏の楼を照らす︑秦氏に好女

あり︑自ら名づけて羅敷と為す︑羅敷蚕桑を喜び︑桑を城の南隅

Qに採る︑青絲を籠係と為し︑桂枝を籠鈎と為す︑頭上に倭堕の

髯︑耳中に明月の珠︑細綺を下料と為し︑紫綺を上饂と為す︒﹂

これは旧上桑︵日出東南隅行︶のはじめの部分である︒附上桑

は︑通行く人をしばし立止らせる程の美人である秦羅敷が︑城の

南で桑摘みをしていると︑州の長官が車で通りあわせ︑一緒に車

で行こうと誘ったが︑﹁使君一に何ぞ愚なる︑使君自ら婦あら

ん︑羅敷自ら夫あり﹂と拒否されるという顧末を物語風に描いた

詩である︒ここで問題にしたいのは﹁採桑﹂のことである︒詩経

にも桑を摘むというかたちの草摘み歌があり︑しかも桑は︑採取

の対象となる植物の中で最も多く歌われていて︑四回出てくる︒

例えば︑魏風﹁扮咀加﹂の第二章に﹁彼の扮の一方︑言に其の桑はなを栄る︑彼の其の子︑美なること英の如し︑美なること英の如く

して︑公行に殊異す︒﹂とある︒この場合扮の川のほとりで桑の

葉を摘む文句は︑衛士の中でも一極目立ってうるわしい彼を詠い

起すために用いられているQしかし伯上桑の場合を考えてみる

と︑城の南で桑の葉を摘むことが︑直接人を思う文句を詠いおこ

すために用いられてはいない︒ただ桑摘みが州の長官の誘引とい

う事件のきっかけにはなっているが︒つまり桑畠は幾分詩経の桑

中・桑林の男女野合の意味あいを感じさせないわけではないが︑

桑を摘むということは︑この詩に於て後の事件の契機であって

も︑草を摘むといえば人を思うという連想関係とは何らの関係も

ない

③﹁仙人白鹿に騎る︑髪短くして耳何ぞ長き︑我を導きて太華

に上り︑芝を撹り赤賢を獲る︑来りて主人の門に到り︑薬一玉箱

を奉る︑主人此の薬を服し︑身体日に康悩︑髪の白きも復黒きに

還る︑延年寿命長からん9﹂この長歌行は祝頌歌の︱つで神仙長

寿のことを絞べている︒ここにいう﹁芝﹂﹁赤韓﹂はともに霊草

で︑芝はきのこの一種で︑根なくして生ずるといい︵正字通︶ま

た名山には神芝が生え︵博物志︶青赤黄白黒紫の六色があるとい

う︵婢雅広要︶︒赤種は赤い芝草で︑その形が車蓋に似ているた

め幌といったという︵余冠英︶︒古代人はこれらを食べると長生

きすると考えた︵さいわいだけ・ひじりだけの和名がある︶︒こ

れを採るというのは長寿を願うためで︑同じ草を摘むとはいって

も全く詩経のそれとは関係がないQ

さづ④﹁凡吏に教勅して言を受け︑神薬を採取せしむ若木の端︒玉兎

. つ ・

長詭して薬を揖<蝦藻丸︑陛下に奉上す一玉袢︑此の薬を服すれ

ば神仙を得べし︒﹂この詩は前の長歌行と同じく神仙のことを説

く︒若木というのは︑離騒王逸の注に﹁若木は昆術の西極に在

はな

り︑其の華下地を照らす﹂とあり︑山海経の海内経に﹁南海の

内︑黒水青水の間︑木あり︑名づけて若木と曰う﹂とある︒つま

りは神霊の木である︒そもそも神薬をもとめることは︑奏漢時代

に流行したことであった︒秦の始皇帝と漢の武帝は特に仙人を招じよふつ

き不死の薬を手に入れるという方士の言葉に迷わされた︒徐市

と髪大はともに秦皇帝と武帝に仕えた有名な方士である︒秦漠朝

延の神仙的気風は各階層の人々の間にもあらわれた︒この輩逃行

長歌行の詩はこのことを物語るものであろう︒草を摘むといって

も︑不死長寿の神霊の草木をとることであって︑詩経の遠くにあ

る夫や妻︑恋人を思う草摘みとは全く異るものである︑長歌行や

(6)

この詩のような神仙のことを述べた詩︑すなわち秦漠的時代色の

強い作品には︑特に詩経の影響が少いといえる︒

固﹁山に上りて靡蕪を米り︑山を下りて故夫に迎ふ︒長詭して

故夫に問ふ︑新人復如何んと︑新人好しと言ふと雖も︑未だ故人

の妹きに若かず︑顔色類相似たるも︑手爪相如かずと︑新人門従

り入り︑故人閤従り去りしにと︒新人はエに鎌を織り︑故人工に素を織る︑緩を織る日に一匹︑素を織る五丈余︑鎌を将って来

りて素に比すれば︑新人は故に如かずと3﹂この詩は︑楽府詩集

には収めず玉台新詠には古詩としてあげ︑太平御覧には古楽府ともとして引いている︒夫に離縁された元の妻が山の筒でその夫にあい

脆いて尋ねる︒﹁新しい奥様は如何ですか﹂﹁新しい女房はいい

ことはいいが︑元の女房には及ばんよ︐顔は似たりよったりが︑かた仕事の点では到底及ばんね﹂﹁新しい方が表玄関からいらっしや

った時︑古い妻の私はお勝手から出ていったのですよ﹂﹁新しい

女房は黄絹を織るのがうまいが︑古い女房は白絹を織るのがうま

かった︒黄絹は一日にやっと四丈︑白絹は値段も高いのに一日に

五丈余り︑黄絹と白絹と比べてみても︑新しい女房は到底古い女

房には及ばんね﹂と︐この夫と元の妻の問答の前に﹁山に上りて

靡蕪を米り︑山を下りて故夫に逢ふ﹂の二句がある︒この二句の

うち下句はもとの夫に逢った場所の説明に必要と考えられるが︑

上句の﹁山に上りて膨弛を米る﹂は︑二人の問答と直接的な関係

もないし︑特に必要な文句とも思えないQとするとこの句はこの

詩の主題を詠いおこすはたらきを持たせられているのかも知れな

•••••••••

Q山に上りてもとの夫をしのんで飾蕪を米るとQまた﹁靡蕪を

来る﹂という表現は詩経草摘み歌の形であるQ︵靡蕪が採取の対 象として歌われてはいないけれども︶靡蕪は香草の一種でその葉を風乾して香料を作るQ和名を﹁おんなかずら・せんきよう﹂と

いう︒古代人はこの草が子供のできる薬だと考えていた︒︵余冠

英︶︒詩経にもこの種の草として﹁末官﹂︵おおばこ︶が歌われ

ている︒ところで︑山に登って草を摘むことが歌われる詩は詩経

にも見える︒それは召南﹁草虫﹂︑小雅﹁杖杜﹂﹁北山﹂の三篇

で次のように歌われる︒h

﹁彼の南山に陣りて︑言其の蕨を釆る︑未だ君子を見ざれば︑憂

心撥檄たり︑亦既に見︑亦既に隈えば︑我が心則ち説ぶ﹂︶︵草

虫︶﹁彼の北山に捗りて︑言其の杞を米る︑王事慌きこと靡く︑

我が父母を憂へしむ︑棺車孵憚たり︑四牡疱疱たり︑征夫遠か

らじ﹂︵杖杜︶前の草虫の詩は︑相手に別れている間の淋しさ︑

やっと途えた時のよろこびを述べた歌であり︑後の杖杜の詩は

︵北山詩のはこれに似る︶︑行役︵政府の命により土木の仕事や

国境守備に出されること︶に出た夫をしのぶ妻の歌である︒とも

に山に登って夫や恋人をしのびながら草を摘むという形をとって

いる︒この形はこの詩﹁上山米廓蕪﹂と似ているQ違うところと

いえば︑詩経のこれらの詩では︑このことが二句で詠われている

のに︑この詩では一句で詠われていることである︒この詩はやや

詩経の草摘み歌のかたちを留めたものと言えようか︒

⑥﹁十五にして軍に従ひて征き︑八十にして始めて帰るを得た

り︑道に郷里の人に逢ふ︑家中阿誰か有る︑病かに看ゆるは是れ

君が家︑松柏あり家燥嵌たり︑兎は狗夜より入り︑雉は梁上より

飛ぶ︑中庭に旅穀生じ︑井上に旅葵生ず︑穀を春き持して飯と作

し︑葵を採り持して羮と作す︑羮飯一時に熟すれども︑知らず阿

(7)

訛にか阿らん︑門を出で東に向ひて望めば︑訳落ちて我が衣を油 ほす︒﹂この詩は︑前に八句を加えて紫麟広歌辞として楽府詩集 巻︱‑+五横吹曲辞五梁鼓角横吹曲に見える︒従軍久しくして郷見 に帰っては来たけれども︑象にともに食事をする人もないのを傷 む詩である︒ここで閻題にしたいのは﹁釆葵持作党﹂の句であ

9

︵この釆葵は一往草摘みのことであるから︶︒ところで葵は 野菜の名︵説文に葵は菜也とある︶せつぷ

そうを菟葵︑せりをI v

楚葵︐あさぎを発葵というと

Q

するとこの句はこの野菜をとって あつものを作るの意味になる

Q

上の句の﹁穀を春きて持して飯と 作し﹂と対をなして︑庭に自然に出来た投物をとって臼でついて 御飯をたき︑井戸のまわりに自然に出来た野菜をとって来てスー プを作るということになる

3これは老兵の誰もいないわが家での

行動を写したもので︑"癸を釆るのもただ羮を作るためであって︑

それ以上の意味があるとは考えられない︒詩経の草摘みの歌とは 全く関係がないものである

3m﹁洛陽城東の路︑桃iふ叩位に生ず︑花花自ら相対し︑葉虹白

ら祖当る︑春風東北に起り︑花葉正に低口叩す︑知らず誰が家の子 詈籠を提げて行きて桑を採らんとす︑繊手其の校を折れば︑花 落つる何ぞ瓢罵たる︑請ふ彼の珠

fに謝せん︑例為れぞ損傷せらかならお

ると

P ]

回秋八九月︑白総始めて霜と為る︑終年会ず颯堕せん︑

安んそ馨香を久しくするを得んと︑秋時自ら零落するも︑脊月復 芥芳たり︑何れの時か盛年去り︑歓愛水に相忘れんと︑凸此の仙 窒克へんと欲すれども︑此の由人の陽を愁へしむ︑帰り来りて美 酒を酌み︑愁を挟みて凶常に上る﹂この詩の作者呪手伏は後次の 人らしいがその臭世についてはわからない︐この董嬌隙という占

は︑ルと娘の間答の形をかりて︑娘のいのちの花にも及ばないこ とを傷んだもの︑あるいは作者が己が身の薄幸を自ら傷んだもの であろう︒この詩の桑摘みは︑先のい上桑のそれと全く同じであ る︒この桑を採るの文字は︑直接人を思う文句や主題を辿想させ るために用いられているのではない︒ただ桑摘みが女の仕事とし て描かれ︑その︷串は︑洛陽城東桃七の咲きほこる道を偶然に歩

き桃f1

と問答するきっかけとして用いられているにすぎない

J

およそ詞経の草摘みとは関係がない﹁:とであろう︒

改代楽府詩の中から草摘みに関する資料をあけて検吋を加えて 来た°それを帷理してみると︑一︑訂鍔の阜摘み歌の形をそのま ま料めたもの︒﹁上山玉靡脈﹂︒二︑叶経草摘み歌の影響を受け

ながらも変狐したもの3﹁江南﹂︒三︑事実を述べただけで︑詩

中の草摘みのことが詩経の草摘み歌と何かの関係があるとは思わ

れないもの9﹁防し桑﹂﹁十止従軍征﹂﹁蛋矯饒﹂︒四︑神仙長

寿のことを述べたもので︑詩経の草摘み歌と全く閃仔かないも

Q﹁長歌行﹂﹁中逮

[ I J

一ご目の.一﹂︒と分類することかでぎると

息う3これらを通じて次のことがいえる3すなわち草を摘むとい

えは必ず遠くにある夫や妻︑又は恋人和思うという主題を歌いお こすといった︑詩経草摘み歌独特の沖的︐ぷ現方法が︑没代楽府詩 に於ては︑﹁上山悉靡熊﹂のようにそのままその形を留めたもの も見出すことが出来るけれども︑しかし全体的に考えてみると︑

やはり衰退して来ており︑特に翠漢的時代色の強い

T nl

にはこのよ

うな使い方は見られない3

次に漠代楽府詩と同時代の作晶である涙代古詩についてこのこ

とを検討してみたい3

度代占詩の中で草摘みの文句をもつものあ

(8)

げると︑︵関係部分に限ってあげる︶

.  

ー渉江釆芙蓉︑蘭澤多芳草︑采之欲遺誰︑所思在遠近⁝︒

詩十九首の一︶

..

 .

2新樹蘭慾把︑維用杜衝草︑終朝采其華︑日暮不盈抱︑采之欲

遺誰︑所思在遠道⁝︒︵古詩三首の一︶3採葵莫傷根︑傷根炉不生︑結交葵羞貧︑斎貧友不成︒︵古詩

二首

の一

となる︒それぞれについて検討を加える︒

田﹁江を渉りて芙蓉を米る︑蘭沢芳草多し︑之を米りて誰にか

遣らんと欲す︑思ふ所遠迅に在り︑

. . . . .

﹂芙容は5連の花︑蘭はふ.  

じばかまのこと︵古典に闇というはみな閻︵藤袴︶を指すと本草

綱目に説く︶︒川を渡って述の花を取り︑沢に入ってふじばかま

を摘み︑これを誰に贈ろう︑賠りたいと思う人は遠く逝るかな土

地におる︑という意味である︒本来草摘みは食用とか薬用とか実

用的目的をもって行われ︑観貨のために花を摘むなどいうことは

なかった︒また草摘みの草を︑息う所の人に贈るなどということ

はない︒男女が湊や泊の川のほとりで遊びたわむれながらふじば

かまを摘む歌︑鄭風﹁湊侑﹂に於ても︑摘んだ草は対手に賠ら

ず︑﹁之に贈るに勺薬を以てす﹂と別なものを賠るという︒また愛の贈りものも、詩経では木爪●桃・李・椒•据・瑶●玖・勺

薬︒雑侃・形管であって︑述の花などの花ではない︒ちなみに他

の漢の楽府詩古詩の中で愛の贈り物とされたのは︑有所思の﹁雙

珠埼珀の鰐︑玉を用つて之を紹綴す﹂るもの︑張衡の四愁詩の美

人が我に贈った金錯刀・金浪肝・詔櫓楡・錦繍段︑之に報いて贈った英遁瑶●雙玉盤•明月珠•青玉案●秦嘉が妻に贈った宝叙.

︵古

明鏡・芳香・素琴の四種︑羽林郎の青銅鏡などである︒この詩で

川のほとりや沢で摘んだ述の花やふじばかまを贈りものにしたい

という表現は︑一面で詩経の草摘み歌と相異なる︒しかし他面蓮

の花を取りふじばかまを摘むことが︑遠い土地にある人を思うこ

とにつながっていくことで詩経の草摘み歌と相似る︒この両面を

考えあわせてみると︑この詩は︑詩経の草摘み歌の影愕を受けな

がらも︑それから少しく変貌を遂げたことを示したものといえよ

う ︒

図﹁新たに蘭懃の他を樹え︑雑ふるに杜葡草を用ってす︑終朝

其の華を釆り︑日暮れて抱くに盈たず︑之を釆り誰にか逍らんと

欲す︒思ふ所遠道に在り︑:・・:﹂葛は和名かおりぐさ︑杜荀草は

和名かんあおい︑ともに香の強い草である︒ふじばかま︵蘭︶を

含めてこれらの香草や花を植え︑そして摘むというのであるか

ら︑野外に出てする詩経の草摘みとちがったものである︒第三四

句の﹁終朝其の華を釆り︑日慕れて抱くに盈たず﹂というのは︑

詩経小雅﹁釆緑﹂の第︱二章の第︱二句と似ている︒すなわち﹁

終朝緑を釆り︑一菊に盈たず﹂ー﹁夜明けから食事までの間か

りやすを刈ったけれども両手でかかえる程にもならない﹂ー︑

﹁終朝藍を央り︑一檻に盈たず﹂││﹁夜明けから朝の食事まで

の間あいぐさを刈ったけれども前飛れ一杯にもならない﹂ー︒

この詩の第三四句は︑釆緑のこの草摘みの興をまねて作ったもの

と推測される︒︵そのため草摘み歌の形をなしている︶︒第五六

句は先の古詩十九首﹁渉江米芙蓉﹂のそれと同じ句である︒つま

りこの詩は草摘み歌の体をなしてはいるけれども︑一に自ら植え

た花を摘むという点で︑二に摘んだ花をそのまま遠くにある人に

(9)

贈りたいという点で詩経のそれとは少しく異なるものである︒た だ詩経の草摘みの文句に相仰する句がこの詩に見出されること は︑この詩が詩経の影饗を強く受けていることを物出る︒またそ の句が遠くにあゐ人を思うことにつらなって行くように用いられ ていることは︑詩経草摘み歌に対するかなり正しい理解とかなり 強い関心がこの作者に存在したことを端的に示すものであろう

3

③﹁葵を採るに根を傷ふこと莫れ︑根を傷へば葵牛きず︑交を ぶに貧を羞づること莫れ︑貧を羞づれば交成らず﹂この詩は結勢 利によって交りを結ぶを刺った詩という︒﹁交は消義を以て本と 為す︑貧を差ぢて勢利を逐へば︑其の本失わる︒故に葵をモり根 を傷ふを以て比出す﹂︵張ヤ殻︶と°葵を採るといっても全く草

摘み歌とは関係がない︒

以上草摘みの文句をもつ漠代古吋について見た来たが︑⑱の教 訓詩の全く関係のないのを別とすれば︑田岡の詩は︑全体が草摘 歌として発想され詠われているという点で詩経草摘み歌の影蒋を 強く受けているといえる︒特に︑草を滴むことが遠くにある人を 思うことに結びつけられていること︑また詩経の草摘みの文句に 類似する句が︑その詩中に抑入されていることは︑叶抒の彩響の 強いことを物語るものである︒しかし︑一︑草摘みが花つみに転 化していること︑一<摘んだ草や花がそのまま贈り物として歌わ れていることの二点では︑詩経の草摘みの興の本来の性格からか け離れたものである︒特に詩経の草摘みの句が本来興として遠く にある人を思うという主題を詠いおこすために用いられていて︑

いうならば主冦の句に対して間接的な結合関係にあるのに対し て︑この漠代古詩において草滴みの句は桐接的な結合関係すなわ

ち賦的な骨格を持たされている︒これは詩絆の草摘みの興の本来 の形と意義から遠く距ったものと考えることが出来る︒

草摘みの文句をもっ没代の作品楽府詩と古詩について検討を加 えて来た︒もし両省に対する詩経の影評ということになれば︑概 して古詩の方がその影讐を怖く受けていると思われる︒すなわ ち︑草を摘むことが人を息うという主題につながる草摘みの句の 本来のはたらきが︑古詩においては明確に現われている︒それは 古詩が︑詩経に対してより深い教義をもった漢代知識人によって 作られたためではないかと思う︒しかしこれらの漢代の作品と詩 経と比べるときそこに大きな距りを見出すことができる︒先す誇 経国風・小雅に対して漠代楽府詩古詩には︑草摘みの文句をもっ 詩が非常に少ないことである︒しかも詩経の草摘み歌的な詩と考 えられるのは︑楽府詩では﹁上山悉靡蕪﹂と﹁江南﹂︑古詩では

﹁渉江乎芙石﹂と﹁新樹蘭翌間﹂の四首に限られる︒これを訪経 国風に見てみると︑関肌など十四首︵句数にすれば一二十六句︶が 草摘みを詠い︑あるいは興にする︒これに小雅を加えると可成り の数に達する︒第一一に討中に草摘みの文句があっても許峠の草摘 み歌と全く関係がないものが多いこと︒不死長生のために霊草を 摘むことを餞べた詩︑ただ単に女の仕事として桑摘みが描かれる 詩︑またあつものを作るために野菜を取ることが描かれる詞︑比 喩として用いられただけの教訓詩などには︑草摘歌の詩経的使い 方は全く見られない︒第三に草摘み歌としての要素の検い作品に 於ても︑草摘みが花つみに変り︑摘んだ花や草がそのまま贈り物 として歌われる詩があること︒以上の点から考えてみると︑許経 の草摘み歌あいは草摘みの輿は︑漢代になってその本来的な性格

(10)

や意義︑又はそのはたらきを失って来たと判断することができ る︒野に出て草を摘むという興が︑常に遠くにある人を思うとい う主題をひきおこす︑すなわちその興とその主題との間にある一 つの連想関係がその本来の形で次第に成立しがたくなったことを 物語っていると思う︒

では何故その連想関係が次第に成立しがたくなったのであろう か︒それは成立の条件が失われて来たからではないだろうか︒一 体︑興と主題の間に︱つの連想関係が成立する時には︑そこに成 立しなければならない必然性がある筈である︒草摘み歌の場合も そうであった︒草摘みは古代人の生活の中では必要欠くべからざ るものであった︒草を摘んで宗廟に供へ︑又野菜のない当時摘ん でそれのかわりにしたという︒そして草摘みを興とする詩経の詩 は概して夫婦の情愛詩か若い二人の恋愛詩である

Qそれは︑女た

ちが長い冬の生活から解放されて野外に出て若菜を摘むことが︑

若者たちが思いを寄せ言い寄る機会になったためであろう︒とす れば︑この女たちの草摘みは︑草摘み歌が成立するための重要な 条件であると思われる︒

しかし︑栽培農業の発達によって野菜類の生産が可能になり容

易になったならば︑女たちが野外に出て若菜を摘む必要がなくな るであろう°女たちが野外に出若菜を摘むことがなくなること は︑草摘み歌が成立し存続するための重要な条件が失われること になる︒そして成立条件が失われると共に︑主題と肌の間に成立 していた連想関係が︑何故成立するのか分らなくなって行くと考 えられる︐総じて詩経の輿はこのような過程を経るものと思われ る︒既に見て来たように草摘み歌は衰滅の一途を辿っていると思

われる︒それは衰滅の一途を辿っただけであろうか︑この疑問に ついて考えてみたいと思う︒先ず次の漢代楽府詩を見てみたい︒

青青河過︱作畔草青青たる河辺の草 蒋 縣 思 遠 迫 師 縣 と し て 遠 適 を 思 ふ 遠 道 不 可 思 遠 道 思 ふ べ か ら ず 宿 昔 夢 見 之 宿 昔 夢 に 之 を 見 る

・ 夢 見 在 我 傍 夢 に 見 れ ば 我 が 傍 に 在 り 忽 畳 在 他 郷 認 ち 覚 む れ ば 他 郷 に 在 り 他 郷 各 異 県 他 郷 各 県 を 異 に し 展 韓 不 可 見 展 転 し て 見 る べ か ら ず 枯 桑 知 天 風 枯 桑 も 天 風 を 知 り 海 水 知 天 寒 海 水 も 天 の 寒 き を 知 る 入 門 各 自 媚 門 に 入 れ ば 各 自 媚 び

誰肯相1

言 誰 か 肯 て 相 為 め に 言 は ん 客 従 遠 方 来 客 遠 方 よ り 来 り

ぉく

追 我 雙 鯉 魚 我 に 双 鯉 魚 を 遺 る 呼 兒 烹 鯉 焦 児 を 呼 ん で 鯉 魚 を 一 芯 せ し む る に 中 有 尺 素 書 中 に 尺 素 の 書 有 り

長跨して索書を読む

長脆讀索書

' し

書 中 斌 何 如 書 中 覚 に 何 如 上 言 加 餐 食 上 に は 餐 食 を 加 へ よ と 一

・ 日 ひ 下 言 長 相 憶 下 に は 長 く 相 憶 ふ と 言 ふ この府は最も早くは文選に見え﹁楽府古辞﹂と誌す︵李善は古 詩というのは作者が分らないからだといい︑五臣注では名字摩滅 してその作者を知らず︑故に古辞と称すという︶︒宝台新詠もこの

(11)

詩を載せ︑察畠の作と誌す︒楽府詩集は相和歌辞に収め相和曲に 属させる︒この詩は題を﹁飲馬長城窟行﹂という︒その意味につ いて李善は次のように述べる︒﹁征戌の客長城に至りて其の馬に

みずか飲ふ︑婦之を思ふ︑故に長城窟行と為すと言ふ﹂と

3

郭茂情の説

いわや

もこれと大体同じである︒しかし詩の中では馬に長城の窟で水を 飲ませることは出て来ない︒そこで五臣注では次のようにいう︒

﹁長城は秦の築く所︑以て胡に備ふる者︑其の下に泉窟有り︑以 て馬を飲ふべし︒征人路此に出でて傷悲す︒言は天下の征役︑軍

うた

戎未だ止まず︑婦人夫を息ふ︑故に是の行を作る﹂と︒結論とし てこの詩の題名とその内容との矛盾については次のように考える べきであろう︒﹁思うに秦漠の時代︑遠く長城の守備につくこと は︑兵士たちにとって最も苦しいことであった︒それでそれ以後 次第に困難で苦しい行役生活の︱つの代名詞になった︒本篇は馬 に欽う事には言及してはいないけれども︑その妻が兵士である夫 を思う詞であることは︑確かに動かすことの出来ないことだ﹂と︒

︵﹁両漠文学史参考資料﹂︶作者については︑文選の説を取る陳坑 の論が適正であると思う︒﹁則ち祭邑と題すは︑未だ其の必ず然 るを見ざるなり。疼蓋

g伝ふる所の琴歌・奨恵渠歌•翠鳥詩、詞並

びに質直︑此の詩の高妙古宕に視ぶれば︑殊に相類せず﹂と︒こ の詩の中の鯉魚のこと枯桑•海水の喩えなどは民歌らしい特色を 示したものである︒

ところでこの詩をあらまし解釈してみる︒

﹁一面に青く広がっている川辺の草︑その草の青さが涯しなく遠 くへ続いている︒そしてそのはてるところに私の思う人がいる︒

はるかな思いは川辺の草のように遠くへはせて行く︒しかし遠く

にいる人のことを思ってみても︑所詮無駄なこと︑思い及ぶもの ではない︒ひと夜その人を夢に見た︒夢の中では私の傍にいるの に︑ついと目を覚ますとその人はやはり異郷の身︒異郷ではこちら とあちらで県もちがって︑その上あの人は転転と居所も定まらず 逢うこともできない︒冬枯れした桑は葉はなくとも風の吹いてい るのを感ずることができるし︑海の水は凍らないけれども天の寒 冷を知ることができる︒よそ目には空吹く風や寒さもわからない ように見えるけれども︒それと同じようにはたの人にはそう見え なくとも︑私は独り寝の淋しさと苦しさを感じている︒世の人は それぞれ家に帰って自分の家族を愛するだけで︑誰一人私のため に言葉をかけてくれる者もない︒そんな時旅人が遠くから来て︑

私に鯉の形のふばこを届けてくれた︒召使を呼んでふばこを開け させたら︑中に一尺の白絹の手紙があった︒ひざまづいて︑それ を読む︑手紙には一体何と書いてあったのだろうか︒始には﹃沢 山御を食べて元気でいなさい﹄とあり︑終りには﹃いつまでもお 前のことを思っていますよ﹄とあった︒﹂

この詩は遠く異郷に在る夫を思う妻の詩である︒この妻が夫を 思うという主題に対して︑第一句の﹁青青河畔草﹂は如何なる

あお

はたらきをしているのであろうか︒青青とした川辺の草が何故﹁

綜縣として遠道を思ふ﹂の句を引き起こすのであろうか︒李善は この始めの二句に注して﹁良人の行役︑春を以て期と為す︑期至 りて来らざるは思を増す所以なり﹂と︒これによって訳してみる と︑﹁一日一日青さを増して行く川辺の草︑もう春だというの に︑帰って来る筈の夫はまだ帰って来ない︒だからあれこれと遠 くの夫のことが偲ばれる﹂となる︒つまり青青たる河辺の草は春

(12)

の季節の至るを感じさせ︑更に春に期満ちて帰って来る筈の夫を 思い起させるというのである︒ついで五臣注では﹁此れは自ら春 にして相思ふを謂ふなり﹂と︒これによって訳すと﹁河辺の草も 青くなった︑そして草の色は辟々として活か遠くの地へと続いて いる︒私の思う遠くの人はまだ帰って来ない︑そのためその人を 思い媒う情が又青々とした草の色のように︑遠くの地へと飛んで 行く﹂︵両漢文学史参考資料︶と︒五臣注は春になるとおのずか ら人を思う情が起ると述べて︑李善注の︑春は良人の行役の期限 が満ちて云云のことには触れていない︒李善は題名に﹁飲馬長城 窟﹂とあることに掛けてこのように注したと思われる︒そして両 者は以上の相異はあるけれども︑春という季節が遠くにある人を 思わせるに至るという解釈のしかたに於ては一致している︒春が 人を思う情を起させることも一狸あると思うが︑遠くにある人を 思う情を起させるのは︑莫然と春という季節というよりは︑川辺 の青青とした草によるのではないかと思う︒また﹁青青河辺草﹂

が春を感じさせるというならば︑この詩に近い表現の首句をもっ 次の詩はどうであろうか︒

青 青 陵 上 珀 青 青 た る 陵 上 の 柏 謡 慕 澗 中 石 苺 癌 た る 澗 中 の 石 人 生 天 地 間 人 天 地 の 間 に 生 れ 忽 如 遠 行 客 忽 と し て 遠 行 の 客 の 如 し 斗 酒 相 娯 楽 斗 酒 相 娯 楽 し 珈 厚 不 為 薄 柳 か 厚 し と し て 薄 し と 為 さ ず 謳 車 策 驚 馬 車 を 駆 り て 駕 馬 に 策 う ち 溜 販 宛 輿 洛 宛 と 洛 と に 滸 戯 す

洛 中 何 鬱 鬱 洛 中 何 ぞ 鬱 鬱 た る 冠 帯 自 相 索 冠 帯 自 ら 相 索 め 長 衝 羅 央 巷 長 衝 央 巷 を 羅 ね 王 侯 多 第 宅 王 侯 第 宅 多 し 雨 宮 造 相 望 両 宮 途 か に 相 望 み 雙 閾 百 餘 尺 雙 脚 百 余 尺 極 宴 娯 心 意 宴 を 極 め て 心 意 を 娯 ま し め ば 戚 戚 何 所 迫 戚 戚 と し て 何 の 迫 る 所 ぞ この詩は古詩十九首の一首で︑時を憂い己れを傷んだ感興の詩 である︒人生の忽ちのうちに過ぎ行くことは︑いつも青青として いるひの木や︑積み重なっている谷間の石が長久のいのちを留め ているのと異なってはいるが︑だからといって之を悲しんでも仕 方がない︒むしろ運命に従って行楽するにこしたことはない︒そ うすれば憂いも身に迫って来ることはなかろう︑というのが詩の 大意である︒そして首句の﹁青青陵上柏﹂は第二句と共に︑人生 の須央なるに対して長久無変のものという反比例的役目︑つまり 反興として用いられている︒すなわち︑青青たる悛上の柏はいつ も青青としていることをいおうとしたもので︑春という季節とは 何らのかかりもない︒また﹁青青﹂で始まる句であっても︑﹁河 畔草﹂と続かないこの詩は︑遠くにある人を思うという主題を導 き出さない︒

次にあげる﹁青青﹂で始まる﹁長歌行﹂はどうか︒この詩は楽府 詩集の相和歌辞平調曲に属する︒

ひまわり的

青 青 園 中 葵 青 青 た る 園 中 の 葵

かわ

朝 総 待 日 稀 朝 蕗 日 を 待 ち て 眺 く

(13)

陽 春 布 徳 澤 陽 春 徳 沢 を 布 き 萬 物 生 光 輝 万 物 光 輝 を 生 ず 常 恐 秋 節 至 常 に 恐 る 秋 節 の 至 り 燿 衷 華 葉 衰 慨 黄 と し て 華 槃 の 衰 ふ る を 百 川 東 到 海 百 川 束 の か た 海 に 到 り 何 時 復 西 蹄 何 れ の 時 か 復 西 帰 せ ん 少 肛 不 努 力 少 壮 に し て 努 力 せ ず ん ば 老 大 徒 傷 悲 老 大 徒 ら に 傷 悲 せ ん これは光陰の惜しむべきを述べた詩である

Q

﹁一日一日青さを 増してゆく庭のひまわり︑その葉の上におりた朝露も勘の光を受 けて忽ち乾く︑暖い春の光はめぐみを施して︑自然界の万物は すべて生命に光り輝く︑しかし生き生きとしている現在も︑秋に なって花や葉がしぽみ︑黄色くなるのが心配だ

Q

すべての川が東 に向かって流れ海に注いで︑永久に逆流することがない︒そのよ うに若い時は一度去って行くと再び帰って来ない︒人は若いうち にもし努力しなかったならば︑年老いてむなしく悲しみ嘆くだけ である︒﹂この詩の首句﹁青青たる園中の葵﹂は︑第三句に陽春 という字があるから春の季節にかけたものと思われるが︑それも この青青とした庭の日まわりも秋になれば萎んでしまうことにつ らなっていて︑遠くの人を思うという主題を引きおこしてはいな

Q

以上の二詩は︑ともに﹁青青﹂の文字ではじまるけれども︑一 ヽ >

は春と関係がないし︑他は関係はあるが人を思うの主題を興さな いのである︒故に﹁飲馬長城窟行﹂において遠くにある人を思う 情を起さもるのは︑ばくぜんと春ではなくて︑川辺の青々とした

草と考えられる

3

このことに就いて張玉穀はその﹁古誼賞祈﹂の

たと

中で﹁首句は比興兼有す︑草を以て思に況ふるは比なり︑草に即い

︑︑︑︑︑︑︑︑︑

て思を引くは興なり﹂と述べている

Q

すなわち︑草が一日一日生 い茂ることを思いのつのることに喩える点が比的表汎方法であ り︑草によって遠くにある人を思うことを引きおこしている点が 興的表現だというのである︑と

Q

ところで︑﹁青肯河畔草﹂(‑本に﹁青青河辺草﹂に作る︶で はじまる他の詩について更にこのことを検討してみたい

Q

宵 青 河 畔 草 青 青 た る 河 畔 の 草 鬱 塵 園 中 柳 昆 慰 た る 園 中 の 柳 盈盈愧上女︐盈盈たる楼上の女 餃 餃 当 屈 伽 餃 餃 と し て 記 刷 に 当 る 蛾 峨 紅 粉 粧 蛾 蛾 た る 紅 粉 の 粧 繊 繊 出 索 手 繊 繊 と し て 素 手 を 出 だ す 昔 認 侶 家 女 昔 侶 家 の 女 た り 今 訪 蕩 子 婦 今 蕩 子 の 婦 た り 藻 子 行 不 蹄 蕩 子 行 き て 帰 ら ず 空 肱 難 獨 守 空 肱 独 り 守 り 難 し この詩は︑文選に古詩十九首の中の一首とし︑玉台新詠には枚 乗の作となすものである︒あらまし訳してみると︑﹁川のほとり に青青と草が生い茂っている︑にわにはこんもりと柳が茂ってい

Q

楼上にはみずみずしくふくよかな女が︑色白くつややかな顔 をして窓辺に立ち︑なまめかしく紅や白粉をつけ︑か細い白い手を 出している

Q

昔はうたうたいの家の女であったが︑今は四方に旅 ばかりしている男の妻となっている︒が︑その夫は旅に出て家に

(14)

帰って来ない︒夫のいない寝床をひとり守っているのはむづかし

い﹂と︒この詩のはじめの二句﹁青青たる河畔の草︑鬱鬱たる園

中の柳﹂が︑三句以下の主題部分に対していかなる関係にあるか

ということで諸家その説を異にしている︒まずそれを列挙する︒

李善は﹁草河畔に生じ︑柳園中に茂るは︑以て美人の閥扁に当る

に喩ふるなり﹂︒張銑は﹁草柳とは春の盛んなる時に当るを言ふ

なり﹂︵五臣注︶︑李因篤は﹁起二句の意全篇に徹る︑藍し閏情

惟春にして独り遣り難きなり﹂︵漠詩音注︶︑方廷珪は﹁物の時

に及ぶを以て︑女の時に及ぶを輿す﹂︵文選集成︶︑別履は﹁青

青の草包鬱の柳と言ふは︑其の枝葉茂らざるにあらざるなり︑然

れども貞限の操無ければ︑一たび歳寒に至れば則ち衰落して自ら

保たず︑以て世俗軽進の人自ら衡ひて以て信を求むるに輿す︑其

のオ質美ならざるにあらず︑然れども素学識無く自修の追を知ら

ざれば︑一たび困窮に遭えば則ち放濫無恥︑而して其の固守せん

と欲するや︑難し﹂︵古詩十九首旨意︶︑呉洪は﹁此の章︑章と日

ひ柳と曰ふ︑自ら是れ別離の物色なり︑然して草を河畔に著はす

は︑便ち湯子不帰の意を伏し︑柳を園中に著はすは︑便ち空房難

守の高心を伏す﹂︵古詩十九首定論︶朱跨は﹁青青河畔草は初春

の景象`鬱鬱園中柳は孟春の景象︑治世の人を写さんと欲すれ

ば︑先づ応に世界より写し起すべし︑故に美人を写さんと欲すれ

ば︑先づ春より写し起す﹂︵古詩十九首説︶張玉穀は﹁首二は

草柳の青青鬱鬱を以て︑芳年の女を興起す﹂︵古詩賞祈︶︑方東

樹は﹁草は蕩子を興し︑柳は自ら比す﹂︵昭昧稽言︶︑飴勉加は

﹁首二句は固より興体に属す︑其の意は僅に物に因りて起興する

のみに非ず︑草青青と曰ふは盛を誌すなり︑且つ時を紀すなり︑

河畔と日ふは地を誌すなり︑蓋し草は初春に於て甲坊し︑梢長じ

て色漸く青し︑三春極めて盛なれば則ち全く青し︑夏より秋におよ狙べば則ち緑縛して深青なり︒夫れ青青と曰ふは︑其れ方に未だ文きざるに興す︑盛なるを誌すなり︒亦陽春の煙景にして時を紀

すなり﹂︵月午楼古詩十九首詳解︶とそれぞれ述べている︒

以上さまざまな説があるが朱自清はこの詩が侶女を諷刺した

り藩遊を警めたりした詩ではなく︑﹁蕩子婦﹂が﹁行不帰﹂の

﹁藻子﹂を思う詩であるとする︒そして首二句については次のよ

うに解釈する︒﹁青青河畔草︑鬱鬱園中柳﹂は春の削なる時であ

る︒蕩子の妻は高殿に上り窓を開いて遠望する︑遠望するものは

旅に出たまま帰らない藩子である︒﹁彼女は遠いところに草を見︑

近いとこるに柳を見る︒その草は河畔に沿って遠くまで青青と

し︑尽きるところがないかの如くでー蕩子のおるところまで宵青

と続いているのかもしれない︒禁肖の作と伝えられるあの飲馬長

城窟行のはじめに﹃青青河辺草︑綿綿思遠道﹄というのは︑正に

この意味である︒その茂っている柳の木も遠く旅に出て帰らな

い蕩子を想起させる︒三袖黄図に﹃漏橋は長安の東に在り︑⁝

・・・淡人客を送りて此の橋に至り︑柳を折り別に贈る﹄という︒柳

は留の音に諧い︑柳を折るのは客を留める意味である3漠人にす

でに柳を折って別れに贈るの風俗があったとすれば︑この蕩子の

妻が﹃鬱鬱﹄と茂りだした﹃園中柳﹄を見て︑すぎし別れの日恋

々として別れがたい息いをした情景を想い出したとしても︑また

全く自然のことである﹂と︒︵﹁古詩十九首釈﹂︶つまり朱自清

はこの詩は夫を思う妻の詩で︑その首句も先の飲馬長城窟行のそ

れと同じ意味だと考えている︒私は前にさまざまな説をあげた

(15)

が︑朱自清の説が最も正しいと思う︒ただ朱自清がこの首二句を 蕩子の妻が見た実景と考えることは根拠がない

3

この首二句は却 って朱自清の説によって裏付けられた意味で︑夫を思うという詩 の詠いだしとして興的役目を果している︒また青青といい鬱鬱と いう畳字的表現が第三句から第六句までの盈盤︑餃餃︑蛾餓︑繊 繊という畳字的表現を尊き出すためにも役立っている︒それによ ってこの詩は︱つのリズム感をもたされているのである︒

﹁青青河畔草﹂ではじまる二つの詩について見て来た︒この二 つの詩はともに遠くにある人を思う詩であり︑﹁青青河畔草﹂と

︑いう酋句はその主題を引き起すための興として用いられている︒

詩経において草摘みの文句がいつも遠くに離れている人を思う歌 の興となっている︒両者はこの点で共通する︒ただ漠代の詩にお いては草を摘むとはいわないけれども︒以上の点から﹁青青河畔 草﹂︵﹁青青河辺草﹂︶は詩経草摘み歌の名残りを留めた︑ある いは更にそれから変貌したものであるということが出来る︒

以上単摘み欲についてその変化と衰滅の過程を見て来た

Q次に

川渡り歌についてこの問題を取り上げたい︒川渡りという行事に ついては︑グラネー氏は緩景風に次のように述べている

Q

﹁河

の ほとりや丘陵の上などで行はれるかかる春秋の祭礼には、…•••若 者たちは諸々の村落や部落から集って来た︒:・⁝若者たちは相互 に探し合ふて︑そして一緒になって出かけて行った

Q

..

 …•多く

の人々は楽し相に笑ひこけながら︑そのあたりの景色︑即ち樹木 の美しさや︑山の壮大さや︑杉の小舟の立源さなどを讃嘆しなが

︑︑

︑ ら︑河の岸辺や丘などを歩き廻った︒河渡りや丘登りの遊戯が行

子悪思我

子 子

我 を 恵 思 せ ば 裳を寒げて湊を渉らん 子 我 を 思 は ず ん ば 豊に他人無からんや 狂童の狂なるや

はれた︒彼等は裾をつまみあげたり衰げたりして浅瀬を渡った

Q

またある時は内繋されて居る瓢器でもって泳いで渡ることもあっ た︒水が深過ぎる時や︑流れが余り急な時には︑車を持って居る 者は車を利用することもあった︒然し車の軸や掛布までが水に浸 るような時には︑幾分不安を感じながら渡った︒時折彼等は小舟 を賃借りすることもあったが︑波の高低につれて自身が浮沈する ので︑ホッとしたりヒヤヒヤしたりしたものである﹂いと

Q詩経

における川渡りが全くこのようであったとはいいきれないが︑っ まりは目加田誠先生の説かれるように考えることができる

Qすな

わち﹁ただ川渡りということが︑いつの間にか男がさそい︑女が ついてゆく︑そうして夫婦になることを象徴するようになって来 るのではあるまいか︒王質が︑男女の家が川を隔てて住み︑そこ で結婚の申込も︑結婚も︑皆水を渡ることであらわす︑といって いるのは︑この点に気付いたものだろう︒川をへだてるよその部 落との結婚から︑やがて川を渡ることが結婚の象徴となったので

あろうか﹂

と︒これを示すものに鄭風﹁裳裳﹂︑邸風﹁狗有c I

苦葉﹂︑﹁谷風﹂︑衛風﹁河広﹂などがある︒例えば﹁衰裳﹂

子恵思我 は ︑

子不我思 霙裳渉深

狂童之狂也且 登無他人

我を恵息せば

(16)

裳を塞げて消を渉らん 子 我 を 思 は ず ん ば

壺に他士無からんや

狂童の狂なやる 衷裳渉侑子不我思壺無他士

狂童之狂也且

とい

う︒

ところで︑川を渡るといえば︑男女の結ばるるをいうという連

想関係が︑漢代楽府詩の中でも成立し存在するのであろうか︒川

渡りの文句をもつ詩を列挙してみると次の如くなる︒

ー巫山高︑高以大︑淮水深︑難以逝︑我欲東麟︑害梁不焦︑我

集無高曳︑水何梁湯湯回回︑臨水遠望︑泣下泊衣︑遠道之人心

思齢︑謂之何︑︵短爾鈍歌︑巫山高︶2公無渡河︑公党渡河︑堕河而死︑裳奈公何︑︵笙篠引︶

3淮南王自言尊︑百尺高槻輿天連︑後園駆井銀作肱︑金瓶素練

汲寒漿︑汲寒漿︑飲少年︑少年窃究何能賢︑揚声悲歌音絶天︑

我欲渡河河無梁︑願化雙黄鵠還故郷︑還故郷︑入故里︑徘徊故

郷︑苦身不己︑繁舞寄声無不泰︑徘徊桑梓遊天外︵淮南王篇︶4

悲歌可以宮泣︑遠望可以常蹄︑思念故郷`.鬱鬱槃緊︑欲蹄家

無人︑欲渡河無船︑心思不能言︑腸中車輪転︵悲歌︶それぞれについて検討してみたい︒

山﹁巫山高し︑高く以て大なり︑淮水深し︑難く以て逝し︑我

東に帰らんと欲して︑害んぞ為さざる︑我集りて高曳無く︑水何

なみだんぞ湯湯として回回なる︑水に臨みて遠望すれば︑泣下りて衣を

泊す︑遠道の人心に帰るを思へども︑之を謂何んせんQ﹂二つ

の梁は声をあらわすことばが本文中に誤って挿入されたものだと

いう︵余冠英の説

( O )

この詩を解釈してみると﹁はるかに故郷 の方を眺めると︑巫山と淮水が横たわっている︒その巫山は高い︑高く辞えて大きい︒また淮水は深い︒その流れははやく危険である︒私は東方の故郷に帰りたいと思っていながら︑どうしてそうしないのか︒巫山と淮水が私の故郷への陸路と水路を妨げているからである︒私はこの水辺に立ち止っているが︑さおもかいもない︒そのように故郷へ帰る手だては何︱つないのに︑川の水ばかりは︑ああなんとめぐりめぐって淀みなく︑活々と流れて行くのであろう︒私の悲しみを知らないかのように︒年老いて故郷へ帰るすべもない遊子は︑川のほとりに立って遥か故郷の空の方を眺めると︑涙は激しく落ちて着物をぬらす︒遠い異郷に住む人は心に帰りたいと思っても︑一体どうしたらいいというのであろうか﹂︒これは遊子が故郷を思う詩であって︑詩経川渡り歌のような恋愛を詠った詩ではない︒川が同じく思いを阻んでいるにしても︑詩経﹁漠広﹂の﹁南に翁木有り︑休息すべからず︑漠に溜女有

いかだり︑求むべからず︑漠の広き︑泳ぐべからず︑江の永き︑方すべ

からず﹂は︑漠水のほとりにある娘への思いであり︑この詩は故郷

への思いである︒そして﹁漠広﹂が︑﹁漢の広き﹂以下のリフレ

ーンの文句は恐らくおおぜいが合唱しながら︑川向うの娘をうた

いはやすといった︑明るい雰囲気をもっているのに対して︑この詩

は異郷に住む人の故郷への思いが悲しみをもって歌われて︑哀愁

と憂いに包まれている︒この点に於ても両者は異なっている︒

図﹁公河を渡る無かれ︑公覚に河を渡る︑河に堕ちて死す︑当

に公を奈何かすべき﹂これには︱つの話がある︒古今註0による

と︑朝鮮の渡守り雷里子高がある朝早く船を漕いでいると︑一人

の白髪の狂夫が危険を顧みず急流を渡ろうとした︒その男の妻が

(17)

追って来て止めようとして間にあわず︑その男は河にはまって死 に︑妻もまた河に身を投げて自殺した︒自殺の前ハープを弾いて この哀歌を唱った︒子高の妻の麗玉がそれによって傍筏引の曲を 作ったという︒この話からも分るようにこの詩の河を渡るという ことは︑事実を述べたもので︑川渡り歌とは何の関倅もない︒

閻﹁淮南王自ら尊しと言ひ︑百尺の高楼天と連る︑後園に井を

暇ち銀もて肱を作り︑金瓶素続もて寒漿を汲む︑寒駆を汲み︑少年

に飲す3

少年刻宛にして何んぞ能<賢ならん︑声を揚げて悲歌す れば音天に絶ゆ︑我河を渡らんと欲して河に梁無く︑鱈黄間に化 して故郷に還らんことを願ふ︑故郷に還り︑故里に入る︑故郷を 徘徊し︑身を苦しめて己まず︑繁く舞ひ声を寄せて泰からざる無 く︑桑梓を徘徊して天外に遊ぶ﹂この詩は淮南王郎といい︑楽府 詩集舞曲歌辞の雑舞の項に収められている︒古今註によると﹁推 南王は准南王の作なり︒王服食して仙を求め︑贔く方士を礼して︑

遂に八公と相植えて倶に去り︑在る所を知る焚し︑王の徒︑思恋 して己まず︑乃ち淮南王の曲を作る﹂

という︒この詩の中間でc l

題にしたいのは︑窃宛たる少年の唱った詩節の文句である︒﹁我 河を餃らんと欲して河に梁なく︑雙黄鵠と化して故郷に還らんこ とを狐ふ︑故郷に還り︑故里に入る︑故郷を併徊し︑身を苦しめて 己まず﹂と︒ここで河を渡りたいというのは︑故郷へ帰るためで ある︒しかし河には橋梁がなく渡ることが出来ない︵ここは古詩

﹁歩出城東門﹂と同じ︶︒そこでこうのとりとなって故郷に帰ら んことを願い︑故郷に帰ってみたが︑身を苦しめてあたりを徘徊 するばかりという︒この河渡りも亦望郷の思いに墜がっており︑

詩経の川渡り歌とは異なるものといえる︒

④﹁悲歌以て泣くに当つぺし︑遠望以て帰るに当つべし︑故郷 を思念すれば︑鬱鬱禦嵌たり︑帰らんと欲すれども家に人無く︑

渡らんと欲すれども河に船無し︑心思言ふ能はず︑腸中車輪転ず﹂

これは遊子の故郷に帰るを思う詩である︒﹁悲しい歌を唱って号 泣にかえることはできないだろうが︑せめて悲しい歌を唱って心 の悲しみを解きほぐそう︒また故郷のあたりを遠く眺めることで 故郷に帰ることにかえることはできないけれども︑せめて遠く故 郷の方を眺めることでこの心を慰めよう︒故郷のことを思い思う と︑心の中はこんもり茂った森のように暗く︑もつれてしまっ た糸のように千々に乱れる︒故郷に帰ろうと思っても故郷の家 には一人の家族もいないし︑河を渡ろうと思っても渡る船もな い︒心のこの憂いは訴えようにも訴えようがないままに︑ただ悲 しみだけが︑胸のうちを車輪のきしむような音をたててかけめぐ る︒﹂この詩の河渡りも亦故郷へ帰る道程の︱つであって︑恋し く思う人のところに行くことではない︒

124 の詩において異郷 にある人々は河のほとりに立って︑故郷への思いを誘われ︑筈や 柑︑梁︑船がないことでその思いを断たねばならないという心理 過程を示している︒川と川渡りはこのようなはたらきを持たされ

ているのである︒

ところで︑河のほとりで遠くを望むことを述べた詩が詩経にも ある︒それは衛風﹁河広﹂の詩である︒﹁誰か河を広しと謂ふ

ゃ︑一葦もて之を杭らん︑誰か宋を遠しと請ふや︑技てば.ず之を

こぷね

望む︒誰か河を広しと謂ふや曾って刀を容れず︑誰か宋を遠し

と謂ふや︑曾って朝を羨えず︒﹂この詩について︑序は︑宋の襄 公の母衛に帰り︑思うて止まず︑故にこの詩を作るといい︑朱子

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