天武天皇の「よき人」の歌
著者 菊地 義裕
著者別名 KIKUCHI Yoshihiro
雑誌名 文学論藻
巻 90
ページ 1‑18
発行年 2016‑02
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00012942/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
一
天武天皇の「よき人」の歌
菊 地 義 裕
序
『万葉集』
巻一の天武朝の標目下には次の歌が収められている。
天皇、吉野宮に幸す時の御製歌よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見
淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三
紀に曰く、「八年己卯の五月、庚辰の朔の甲申、吉野宮に幸す」といふ。(1・二七) 天武天皇が吉野宮に行幸したときの御製歌と伝えられる一首である。左注には『日本書紀』に触れて、天武八年(六七九)五月に行幸のあったことを記す。当該歌についての編者の認識を示すものである。 一首は、よい人がよいとよく見てよいと言った、その吉野をよく見なさい、よい人よ、よく見なさいの意で、吉野賛美を内容とする。句頭には「よし」系の音が揃えられ、句中の例も含めるとその繰り返しは八回を数える。必然的にヨの音の繰り返しが一首の基調を成し、階調な調べをもつ。また本文の漢字列では、結句の「よく」に「四来」が当てられるが、他は「淑」「良」「吉」「好」「芳」「吉」「良」で、「吉祥の文字を連ねる。文字列にも吉野讃美の祝言性」(『新日本古典文学二
大系』)が窺われる(注1)。
結句の「四来三」については、現在「よく見」「よく見つ」の訓(注2)が見られるが、『歌経標式』(宝亀三年〈七七二〉成立)には、「句毎の句頭に同じ事を用ゐる類」と規定する「聚蝶」の例として、「浄御原天皇の御製歌に曰へるが如し」の注記のもと、美与旨能呼
一句 与旨止与倶美弖
二句 与旨等伊比旨
三句 与伎比等与旨能
四句 与岐比等与倶美
五句。を挙げる(注3)。二七番歌とは初句と第四句に違いが見られるが、「浄御原天皇の御製歌」とあり、二七番歌の異伝歌と判断される。結句には「与岐比等与倶美」(よきひとよくみ)とあり、当該歌の「四来三」については、『歌経標式』を踏まえて「よく見」とする『日本古典文学大系』、またこの点を含めて五項目を挙げて「よく見」の訓によるべきことを説く沢瀉久孝『万葉集注釈』にしたがうのが穏当である。本稿もこれによる。ただし、『歌経標式』異伝歌の初句「みよしのを」、第四句「よきひとよしの」は、『万葉集』の「淑人乃」「芳野吉見与」 の漢字列の訓読によるとは考えがたい。『歌経標式』の歌詞は二七番歌の口誦の過程を通して得られたものとみられる。由縁の有無は不明だが、「浄御原天皇の御製歌」として伝えられていたものと考えられる。 一方『万葉集』は、題詞に「吉野宮に幸す時の御製歌」と記し、左注には『日本書紀』を引用して天武八年(六七九)の行幸のことを記す。天武天皇の吉野への行幸は、『日本書紀』によると八年の行幸が在位中唯一のものである。『書紀』には五月五日から七日にかけて行幸のあったことを記し、六日に天皇のもとに鸕野皇后ほか、草壁・大津・高市・河嶋・刑部・志貴の六皇子が集まり、「千歳の後に、事無からしめむと欲す」という天皇のことばに応じてそれぞれが誓いを立てたことを伝える。三日間の日程から推して、盟約のための行幸であり、それは吉野を選んでなされたことになる。『書紀』が特筆することから、のちのちまで伝承された故事とみられる。 江戸期以来諸注釈は、この歌を題詞・左注を合わせ見て天武八年の御製歌として理解することを基本的な方向とする。
三 歴史的事実としての作品理解である。こうしたなかにあって、稲岡耕二『和歌文学大系万葉集』は、二七番歌の左注にかかわって、日本書紀の天武八年五月五日の条には、草壁・大津・高市・河嶋・忍壁・芝基の六皇子と盟約が交わされたことを記す。万葉集の編者はそうした事と結びつけて二七番歌を理解していたのである。さきの二五歌と共に吉野行幸時に誦詠、伝誦されたのであろう。という。『日本書紀』において天武天皇の在位中の吉野行幸は八年時が唯一であるから、その限りにおいて二七番歌が御製歌と伝えられていれば、一首がこの行幸と結びつけられることは考え得るところである。「万葉集の編者」の理解としてこの歌が六皇子の盟約に結びつけて理解されていたという点は首肯される。また二七番歌の異伝歌である『歌経標式』の歌は伝誦によるものとみられるから、二七番歌の伝誦性を踏まえると、「吉野行幸時に誦詠、伝誦された」ことも十分考え得るところである。こうした伝誦性に早くに目を向けた先行研究に、中西進『万葉集の比較文学論的研究』がある。中西は 当該歌について、「「天武と吉野」という伝誦世界の中に成ったものであり、先立つ二五・二六番の両歌の天武との結合とも等しいものである」(注4)とする。
当該歌については、歴史的事実としての作品理解と伝誦的所産としての作品理解とがあり、いずれとみるべきなのか、その点が課題として残されている。本稿ではこの点を検討課題として、二七番歌の性格について考察したい。
一、一首の特色
二七番歌は「よし」の反復とその意識的な異字表記に技巧的な特色が見られる。契沖『万葉代匠記』は「此御歌は、毎句用同字格トテ、詩ニ一体アルニ同シ。哥ニモ猶此類アリ」(精撰本)と述べ、句ごとの同字系の文字の反復が漢詩に起因することを指摘する。小島憲之はこうした「「よし」の八つの繰返、頭韻「よ」を重ねた遊戲的な技法」について、梁鮑泉、奉和湘東王春日詩の(芸文類聚、歳時部春、玉台新詠箋註本巻八)新 ○燕始新 ○帰、新 ○蝶復新 ○飛、新 ○花満二新 ○樹一、新 ○月麗二
四
新 ○暉一云々(宋刻本玉台新詠不収)や、「春」を繰返す梁元帝春日詩(芸文類聚春)、或は初唐王勃の寒夜懐友二首中の「故 ○人故 ○情懐二故 ○宴一、相 ○望相 ○
思不二相 ○見一」など、六朝唐詩の技法に暗示をえたものと思はれる。この技法は大伴家持などの作にもみえるが、なほ懐風藻にも二、三例がみえ、詩は勿論、歌の面に於てもすでに近江朝前後を中心として中国文学の投影がみられる。と述べ、「六朝唐詩の技法に暗示をえたもの」であることを指摘する(注5)。この点は中西も注目するところで、小島の例示のほかに「簡文帝(皇太子簡文)の戯作謝恵連体十三韻(玉台巻七)」を挙げる(注6)。小島はまた『懐風藻』の検討を通して「同字を一句の中に繰返す例のほか、対句の中に異字同訓の文字を対比させたり、或は反対語を対比させる句法も少なくない」ことも指摘している(注7)。
この歌が中国詩の詩法の影響を受けているという観点に立つとき、語彙に当てられている文字も注意されるところである。初句の「よき人」には「淑人」の文字が、結句の「よき 人」には「良人」の文字が当てられ、使い分けられているようにもみられる。とりわけ「淑」の文字は、『万葉集』では、当該歌の「淑人」のほかには巻五の「梅花の歌三十二首」序文の「于時初春令月、気淑風和」の一節に見られるのみで、近藤信義が指摘するように「稀少な用字」である(注8)。また「良」の文字は「ラ」の字音仮名に用いた例がほとんどで、訓字として「ヨシ」に当てた例は当該歌のみである。その点で「淑人」「良人」とも集中では唯一の用字である。
また集中に「よき人」の語は当該歌を除くとほかに一例見られる。韓衣着奈良の里の島松に 玉をし付けむよき人もがも(6・九五二)
第三句の「島松」については「嬬松」の誤りと見る説(注9)もあり、両様の訓みがなされるが、歌意においては「よき人」は貴人をさす。用字は「好人」で、これも集中の単独例になるが、相聞発想の「よき人」と吉野賛美の「よき人」とを同じに扱うことはできまい。「淑人」「良人」の用字は歌に即して意識的なものとみられる。
五
「淑人」の用字については、古注では『万葉集攷証』
『万葉集桧嬬手』が『詩経』「曹風」の「隝 し鳩 きゅう」に「淑人君子」の語が見えることを指摘し、新注では『万葉集講義』がそれによったものと解して以降、多くの注釈書が同様の見解を示している。小島憲之も、「淑人」は、出典の側より云へば「良人」とはちがふ。表記者は、毛詩(曹風隝鳩・小雅鼓鐘など)の「淑人君子」に出典を得たものである(文選思玄賦、漢高祖功臣頌の李善注に「毛詩曰、淑人君子、其儀不忒」を引く)。と、『毛詩』を出典とすることを述べ、『万葉集』の「展轉」「反則」「夙興」「行行」「逝水」の用字にも触れて、「淑人」「展轉」「反則」「夙興」「行行」と云へば毛詩に、「逝水」と云へば論語に出典をもつと云つた風に、文字と云ふ自由な表記の中に、なほ漢籍に出典をもつ有名な語を利用し応用したものもある。このやうに出典語を下にふまへると云ふ中国文学の手法が、そのまま萬葉集の文字表現にもあてはまる場合が少くない。つまり、表記者が漢籍語を萬葉集中に挿入した場合には、それを読んだ 相手の萬葉人もそれをさとつてゐたものと思はれ、萬葉集の文字表現のなかにも中国文学の深い影を感ぜざるを得ない。と、万葉歌の表記に漢籍語が用いられた場合のあり方を指摘する(注
だろうか。『詩経』に即しての考察は先行研究(注 人」「良人」の文字が当てられることはどのように解されるの 究の見解は首肯されよう。では二七番歌の「よき人」に「淑
10
)。二七番歌の表記・用字の特色に照らして先行研されているが、追認の意味も兼ねて本稿なりに検討したい。
11
)でもな二、「淑人」と「良人」
(一)淑人
『詩経』の「淑人」の例に注目すると、
同書には「国風」の曹風「隝鳩」、「小雅」の「鼓鐘」にこの語が見られる。篇名の「隝鳩」はキジバトの意で、この詩は隝鳩を通して「淑人君子」のあり方を述べたものである(注
隝鳩在桑、其子七兮(隝鳩桑に在り、其の子七つ) 成り、第一章には次のようにある。
12
)。全体は四章から六
淑人君子、其儀一兮(淑人君子、其の儀一 いつ)其儀一兮、心如結兮(其の儀一、心結ぶが如し)
初二句の「隝鳩在桑、其子七兮」について「毛伝」は、「隝鳩の其の子を養ふや、朝には上より下り、莫 くれには下より上り、平均一の如し」と注し、「鄭箋」は「興するは、人君の徳当に下に均一なるべきに喩ふるなり」という。これによると、隝鳩が子を養うに際して餌を平均に与えることを、人君の徳が下々に均一に及ぶことを譬えたものということになる。次句の「淑人君子 其儀一兮」については、「鄭箋」に「淑は善なり。儀は義なり。善人君子は、その義を執る当に一の如くなるべきなり」とあり、「淑人君子」「善人君子」は、徳を均一に及ぼし、容儀・威儀が正しく整っていることを述べたものと解される。また次の「其儀一兮 心如結兮」については、「毛伝」に「義を執る一なれば、則ち心を用ふること周ねきを言ふ」とあり、容儀が整っているから心もまた確かであることをいったものと解される。このようにこの詩にうたわれる「淑人君子」は、人徳高く、容儀が整い、心のしっかりとした人物ととらえられる。 この詩では、以下各章でそうした「淑人君子」が称えられ、二章では服装が立派に整っていることが述べられる。また三章には、隝鳩在桑、其子在棘(隝鳩桑に在り、其の子棘 きょくに在り)淑人君子、其儀不忒(淑人君子、其の儀忒 たがはず)其儀不忒、正是四国(其の儀忒はず、是の四国を正す)とあり、「淑人君子」は「其の儀忒はず」、それゆえに「是の四国を正す」とうたわれる。「毛伝」に「忒は疑ふなり」「正は長なり」とある。また「鄭箋」には「義を執りて疑はず。則ち四国の長となるべし。任ぜられて侯伯と為るを言ふ」とある。「淑人君子」は容儀を守って疑うこと、違うことがない、それゆえに四方の国の長となって侯伯に任ぜられるという。また四章では、隝鳩在桑、其子在榛(隝鳩桑に在り、其の子榛に在り)淑人君子、正是国人(淑人君子、是の国人を正す)正是国人、胡不万年(
是の国人を正す、胡ぞ万年ならざらんや)とうたわれ、「淑人君子」が長となって国人を治めることを述七 べて万年の栄えがことほがれる。このように一連の表現から知られる「淑人君子」の内容は、国の長たるにふさわしい儒教的有徳の君子像といってよい。 この点はもう一つの所出例である「鼓鐘」の場合も同じである。この詩は『毛詩』の詩序(「幽王を刺るなり」)を踏まえると、周の暗愚な幽王を誹った作品と解され、幽王に対して賢明な君主が「淑人君子」でとらえられる。その表現には、「淑人君子、其徳不囘(其の徳囘 よこしまならず)」、「淑人君子、其徳不猶(其の徳猶 かくのごとくならず)」とあり(「毛伝」、「囘は邪なり」「猶は若なり」)、徳の高いことが示される。
『詩経』が伝える「淑人君主」は以上の通りであるが、
特に「隝鳩」記載の「淑人君子」の一節は、儒教にかかわる『礼記』『孝経』などにも引用される(注
13
)。『礼記』では、
「経解」篇と「緇衣」篇に引用され、前者には次のように記される。Ⅰ.
居処有礼、進退有度。百官得其宜、万事得其序。詩云、淑人君子、其儀不忒。其儀不忒、正是四国。此之謂也。居処に礼有り、進退に度有り。百官は其の宜しきを得、 万事は其の序を得。詩に云はく、淑人君子は、其の儀忒はず。其の儀忒はず、是の四国を正すと。此の謂なり。これは天子の性格に触れた一節である。天子は居れば礼儀にしたがい、動くときには節度がある。そのため百官は見習ってその職に適合し、万事順序よくはかどることを述べる。そして「隝鳩」第三章の「淑人君子、其儀不忒。其儀不忒、正是四国」を引用して、この詩句はこのこと(天子のありよう)をいったものとする。「其の儀忒は」ざる存在として天子は「淑人君子」であり、百官の模範となる存在とされる。
また、「緇衣」篇には、「子曰く」として、同様に「淑人君子、其儀不忒」の詩句が二箇所に引用される。Ⅱ.
子曰、為上可望而知也、為下可述而志也、則君不疑於其臣、而臣不惑於其君矣。尹告曰、惟尹躬及湯、咸有壱徳有。詩云、淑人君子、其儀不忒。子曰く、上為るもの望みて知る可く、下為るもの述べて志る可きときは、則ち君其の臣を疑はず、臣其の君に惑はず。尹 ゐん告 かうに曰く、惟れ尹が躬及び湯、咸 みな壱徳八
有りと。詩に云はく、淑人君子は、其の儀忒はずと。
ここでは、上位にいる君主を臣下が望み見てその心を知ることができ、下位にいる臣下が意見を述べて君主がその行為を知ることができれば、君主は臣下を疑わず、臣下は君主を疑うことがないことが述べられる。そしてその点にかかわる事柄として、『書経』「咸有壱徳」篇に見られる、殷の湯王を助けて夏の傑王を滅ぼした伊尹が、政治から身を引き郷里に帰るときに太甲(太宗)に述べた一節が引かれる。これは『書経』に「徳を陳べて戒む」と記される文言中のことばで、「惟れ尹が躬及び湯、咸な壱徳有り」とは、「私尹自身と湯王とは、君臣ともに変わることのない純一な徳をもっていた」の意である。この一節と並べて『詩経』の「淑人君子、其儀不忒」が引かれる。したがって、威儀を守って違うことがない「淑人君子」は臣下と徳を共有して一体の人物ということになる。その説くところはⅠの有徳の天子にしたがって「百官は其の宜しきを得」と同じである。
「緇衣」篇に記されるもう一箇所は次のごとくである。
Ⅲ.
子曰、言有物、而行有格也。是故生則不可奪志、死則不 可奪名。故君子多聞、質而守之、多志、質而親之、精知、略而行之。君陳曰、出入自爾師虞、庶言同。詩云、淑人君子、其儀一也。子曰く、言に物有りて、行ひに格 のり有るなり。是の故に生きては則ち志を奪ふ可からず、死しては則ち名を奪ふ可からず。故に君子は多く聞き、質にして之を守り、多く志し、質にして之を親しみ、精しく知り、略にして之を行ふ。君陳に曰く、出入は爾 なんぢの師 もろもろの虞 はかるに自り、庶言同じと。詩に云はく、淑人君子は、其の儀一なりと。ここではⅠ・Ⅱとは異なり、「隝鳩」の第一章が引かれる。内容は、ことばにはことばが意味する実物・実在があり、行いには原則・法式がある。それゆえこれを守って生きているときはその人の意志を奪うことはできず、死んだのちも名声を奪うことはできない。それゆえに君子は多くを見聞しても少しを選り抜いて守り、広く人と交わっても少数の人と親しみ、多くのことを熟慮しても要略して実行する、と説く。そのうえで『書経』「君陳」篇に記される、周の成王が臣下の君
九 陳に述べたことばの一節を引く。「出入は爾の師の虞るに自り、庶言同じ」とは、政教にかかわる命令の出し入れは、爾のもとにいる多くの人々と諮り、多くの意見が一致したならば実施せよの意である。また並んで『詩経』の「淑人君子は、其の儀一なり」が引かれる。先に整理したように、この詩句は「淑人君子」は徳を人々に均一に及ぼし、容儀・威儀が斉一であることを意味したものと考えられる。『書経』の引用と合わせみると、「淑人君子」は容儀斉一で、ことばや行いに礼節、慎みがあり、その徳ゆえに臣下と一体であることが含意されているといえる。 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲを通して示される『礼記』の「淑人君子」は、有徳の君子として臣下に徳を及ぼし、その共有される徳を通して臣下と一体の為政者像と理解される。 次に『孝経』を見ると、『礼記』のⅠ・Ⅱに引用する「隝鳩」第三章の「淑人君子、其儀不忒」が「孝優劣章」(古文孝経)に引かれる。君子則不然。言思可道、行思可楽。徳誼可尊、作事可法、容止可觀、進退可度。以臨其民。是以其民畏而愛之、則 而象之。故能成其徳教、而行其政令。詩云、淑人君子、其儀不忒。(A)君子は則ち然らず。言は道 いふべきを思ひ、行は楽しむ可きを思ふ。(B)徳誼尊ぶ可く、作事法る可く、容止観る可く、進退度とす可し。以て其の民に臨む。(C)是を以て其の民畏れて之を愛し、則 のっとつて之に象 かたどる。(D)故に能く其の徳教を成して、其の政令を行ふ。詩に云ふ、淑人君子、其の儀忒はず、と。
引用は「孝」の道理を受けて君子のあるべき姿について説いた箇所で、冒頭の「君子は則ち然らず」は前文を受けてのものである。前文には自分の親を愛さず他人の親を愛する者は「悖 はい徳 とく」(徳にもとる)といい、自分の親を敬わず他人の親を敬う者は「悖礼」(礼にもとる)というと述べ、「悖徳」「悖礼」の行為をもとにして民を導けば、事の善悪が不明となり民は行動の指針を失ってしまう。また自身の親を愛すという善行を行うことができなくなって、すべて他人の親を愛すという凶徳に陥ってしまうことが述べられる。冒頭の「君子は則ち然らず」は、有徳の君子はそうはしないの意で、以下君
一〇
子の徳、徳にしたがった生き方が述べられる。
内容は、(A)ことばを言うときは言ってよいものかどうかを考えて言い、事を行うときは心を楽しませることができるかどうかを考えて行う。(B)徳と義は尊ぶに足り、その所行は模範とするに足り、その容儀は見るに足り、その動作進退は尺度とするに足る。そのような徳性をもって君子は為政者として人々に接するのである。(C)こういうことから、人々は畏敬の念をもって為政者を愛するようになり、その徳を手本として見習うようになる。(D)だから為政者は自身の徳によって教育感化し、政治を行うことができるのである。すでに『詩経』にも「淑人君子、其の儀忒はず」といっている。以上がその内容である。
便宜的に内容を(A)〜(D)に分けて見ると、(A)は『礼記』のⅢに、(B)はⅠに、(C)はⅠ・Ⅱに、(D)はⅠ・Ⅱ・Ⅲに通じる内容といえよう。『礼記』『孝経』とも『詩経』の「隝鳩」の「淑人君子」を引用して説くのは、「能く其の徳教を成して、其の政令を行ふ」有徳の君子像である。 (二)良人 初句の「よき人」が「淑人」であるのに対して、結句の「よき人」には「良人」の文字が当てられる。結句の「良人」については『万葉集釈注』が次のように記す。「良き人」は、初句の「淑き人」と同義だが、『毛詩』大雅(蕩之什「桑柔」)に「維レ此ノ良人ハ、作為スルニ穀 よき
ヲ式 もちテス」などあり、「不順」(「反道不順ノ人」『毛詩正義』)と対比されている。今の貴人について道に従う人の意をこめていう。
『釈注』は、
『詩経』「大雅」の「桑柔」に見られる「良人」を例に、「今の貴人について道に従う人の意をこめていう」と、その語義を説明する。初句の「淑人」が『詩経』に見られることはすでに見た通りである。「良人」についても『詩経』に注目すると、『釈注』が挙げる「大雅」の「桑柔」のほか、「国風」の唐風「綢繆」、同秦風「小戎」「黄鳥」に見られる。それぞれについて「良人」の用いられ方を整理すると、まず唐風「綢繆」は婚姻を内容とし、第一章に「今夕何夕、見此良人。子兮子兮、如此良人何(今夕何の夕ぞ、此の良人を見る。
一一 子や子や、此の良人を如何せん)」とうたわれる。「良人」に出逢った今夕どうしたらよいのかとその喜びをうたう。「毛伝」には「良人は美室なり」、「鄭箋」には「女は、以て良人を見る」とあり、性別を異にするが、内容から見て「良人」は夫と解される(注
14
)。また秦風「小戎」は妻が出征した夫に思いを馳せた内容の詩であり、第三章に夫のやさしく物静かな人柄をとらえて「厭厭良人(厭厭たる良人)」とうたわれる。一方、同じ秦風の「黄鳥」は、秦の公が亡くなったときに殉死した子車氏の奄息・仲行・鍼 けん虎 この三子を悼んだものである。三人に対してそれぞれ「良人」の語を用い、「毛伝」は「良は善なり」とする。また奄息については「百夫の特」、仲行については「百夫の防」、鍼虎については「百夫の禦」といい、百人に相当する優れた人と称える。「百夫の特」について「毛伝」は「乃ち百夫の徳に特す」と注し、「鄭箋」は「百夫の中、最も雄俊なり」と解して内容を異にするが、「百夫」に比肩した表現は、三人を個々に優れた惜しむべき人物とみてのものである。
また『釈注』が指摘する「大雅」の「桑柔」は、周の厲王 の暴政を批判した長い詩である。この詩には「良人」の語が二箇所に見られる。まず、維此良人、弗求弗迪(維れ此の良人は、求めず迪 すすめず)とある。暴君である厲王が「良人」を進んで用いないことをいう。また、維此良人、作為式穀(
維れ此の良人は、作為するに穀を式ふ)維彼不順、征以中垢(
維れ彼の不順は、征くに中垢を以てす)とあり、「毛伝」に「中垢は闇冥を言ふなり」、「鄭箋」に「作は起、式は用、征は行なり。賢者、朝に在らば、則ち其の善道を用ふ。不順の人は、則ち闇冥を行ふ」とあり、また別に「穀は善なり」ともある。こうした注を踏まえると、詩句は、「良人」は何事にも善道を用い、善道に順わない者は人の目の及ばないごまかしをする、の意と解される。詩に即すと、後者の「不順」(善道に順わない者)は厲王に仕えておもねる群臣たちということになる。では、これとは反対の「良人」は誰に仕えるのか。詩では
一二
引用部に先立って、善道に順う王と「不順」なる王とを対比して、次のように述べる。維此恵君、民人所瞻(維れ此の恵君は、民人の瞻 みる所)秉心宣猶、考慎其相(
心を秉 とること宣猶、其の相を考へ慎 つつしむ)「鄭箋」には前句に注して、
「維れ至徳順民の君なり。百姓の瞻仰する所を為す者なり」とある。前句は、民を恵む仁君は民に仰ぎ見られるの意である。また次句について「鄭箋」には、「宣は徧、猶は謀、慎は誠、相は助なり」とあり、「事を挙ぐるに徧く衆に謀る」ともある。したがって次句は、仁君はあまねく国の民と相談をし、補佐する者を考え選んで、ごまかしのない細やかな政治をするの意と解される。一方「不順」なる暴君については、別に「俾民卒狂(民をして卒 ことごとく狂せ俾 しむ)」とうたい、民を惑わせる存在として示される。仁君の「宣猶」の態度とは正反対ということになる。
このように『詩経』にみる「良人」には、夫をさして用いる例(「綢繆」「小戎」)と善道を実践する優れた人臣をさして用いる例(「黄鳥」「大雅」)とがある。後者の場合、「良人」 は「不順」な暴君に仕える存在ではなく、善に順う「恵君」、仁君に仕えるべきものとされる。仁君は民と一体となって政治を行う「宣猶」の君主である。先の『礼記』『孝経』が具体的に説く「淑人君子」に当たる。『釈注』が説くように、「淑人君子」と対を成す「良人」も『詩経』をよりどころとしての用字とみてよいのではなかろうか。
三、一首の成立
『詩経』を中心に検討して、
「淑人」には儒教思想に基づく有徳の為政者像が、「良人」には仁君に仕える有徳の人臣像が窺われることを述べてきた。二七番歌に当てはめてこれを理解すると、一首は、有徳の君子たる「淑き人」がよいとよく見てよいと言った、その吉野をよく見なさいと、仁君に仕えるべき優れた有徳の人臣たちに呼びかけた歌ということになる。ここには、仁君と良臣とが吉野を見ることを通して一体となることが志向されているといえよう。言い換えれば、吉野が君臣和合、君臣和楽の特別な地と意識され、賛美された吉野讃歌ということになる。
一三 では君臣の一体化は何によって果たされるかといえば、それは吉野を「見る」行為である。一首には「見る」が三回も繰り返される。「見る」ことが吉野賛美と深くかかわることは、これまでにも注目されてきた吉野歌の特色である。文武朝以来二十二年ぶりに挙行された元正天皇の養老七年(七二三)五月の行幸の折、時の宮廷歌人笠金村が詠んだ宮廷讃歌の反歌には、年のはにかくも見てしか み吉野の清き河内の激つ白波(6・九〇八)山高み白木綿花に落ち激つ瀧の河内は見れど飽かぬかも(九〇九)と、「清き河内の激つ白波」(九〇八)を年ごとに見たいこと、「落ち激つ瀧の河内」(九〇九)はいくら見ても満足しないことがうたわれ、「見る」ことを通しての賛美は続く聖武朝の歌でも変わらない(6・九二〇、九二一、一〇〇五など)。ただし、その伝統は金村の「見れど飽かぬかも」の表現が示すように、柿本人麻呂の吉野讃歌以来のことである。人麻呂の吉野讃歌の長歌に「瀧の都は見れど飽かぬかも」(1・三六)と うたわれ、反歌にも、見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまたかへり見む
(1・三七)と詠まれる。「見る」ことを通しての吉野賛美であるが、奈良朝以前の吉野歌で「見る」ことをうたうのは、二七番歌と人麻呂の讃歌を除けば、巻九に次の歌を見るくらいである。元仁の歌三首馬並めてうち群れ越え来
今見つる吉野の川をいつかへり見む
(一七二〇)苦しくも暮れ行く日かも
吉野川清き川原を見れど飽かなくに
(一七二一)吉野川川波高み
瀧の浦を見ずかなりなむ
恋しけまくに
(一七二二)絹の歌一首かはづ鳴く六田の川の川柳の ねもころ見れど飽かぬ川かも
(一七二三)島足の歌一首見まく欲り来しくも著く
吉野川音のさやけさ見るにと一四
もしく
(一七二四)麻呂の歌一首古の賢しき人の遊びけむ 吉野の川原見れど飽かぬかも
(一七二五)右、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。
これらの歌の掲出も、一七二五番歌左注の人麻呂歌集の「右」の範囲を考慮してのことであるが、人麻呂と同時代のものと見ても、「いつかへり見む」(一七二〇)、「見れど飽かなくに」(一七二一)、「ねもころ見れど飽かぬ川かも」(一七二三)、「見れど飽かぬかも」(一七二五)の表現は、人麻呂の讃歌を先蹤としてのものとみられる。「見る」ことを通しての吉野賛美は人麻呂の「見れど飽かぬかも」に始まるとみるべきであろう。
また、二七番歌に即して指摘される、漢詩の技法の影響下にあるとみられる同音同語反復の技巧を用いた歌に注目すると、顕著な例として次のような歌が見られる。
(1)
来むと言ふも来ぬ時あるを 来じと言ふを来むとは待たじ 来じと言ふものを
(4・五二七)(2)
白玉は人に知らえず 知らずともよし 知らずとも我し知れらば知らずともよし
(6・一〇一八)(3)
秋の野に咲ける秋萩 秋風になびける上に秋の露置けり
(8・一五九七)(4)
紀伊の国に止まず通はむ 妻の社 妻寄しこせね 妻といひながら〈一云略〉
(9・一六七九)(5)
梓弓引きみ緩へみ 来ずは来ず 来ば来 そをなぞ 来ずは来ばそを
(11
・二六四〇)(1)
は藤原麻呂の贈歌に和した坂上郎女の歌の一首。「来」が五回繰り返される。(2)は天平十年(七三八)の「元興寺の僧の自ら嘆く歌」。「しら」の音を五回、「知る」の語を五回繰り返す。(3)は天平十五年(七四三)の大伴家持の「秋の歌」の一首。「秋」が「秋の野」「秋萩」「秋風」「秋の露」と四回繰り返される。(4)は大宝元年(七〇一)十月、持統太上天皇・文武天皇の紀伊国行幸時の歌群中の一首。左注に「或は云はく、坂上忌寸人長の作なりといふ」と注される。「妻」の語が三回繰り返される。(5)は「寄物陳思」に分類される一首で、(1)同様「来」を六回繰り返した例。傾向として奈
一五 良朝の歌を中心とするが、(4)のように大宝元年の例も見られる。中西は同類の例として、長意吉麻呂の応詔歌、大宮の内まで聞こゆ 網引すと網子ととのふる海人の呼び声
(3・二三八)を挙げ、「「あ」の三回反覆に過ぎないともいえようが「網」の用字が看過し難い」とする(注15
)。このように漢詩の技法に学んだと思われる同音同語反復の歌は、万葉歌の傾向としては藤原宮の時代ごろから見られることがわかる。「見る」ことを通しての吉野賛美が人麻呂の吉野讃歌を契機とする点をも合わせ見ると、二七番歌は藤原宮の時代に制作されたとみるのが穏当ではなかろうか。
「淑人」は有徳の君子、
「良人」は有徳の人臣である。「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし」は吉野への賛美であり、「吉野よく見よ良き人よく見」は賛美される吉野の共有を通しての君臣の和合・和楽への志向である。二七番歌は吉野を賛美し、そこに君臣和楽の聖地を仮構した歌とみることができる。吉井巌が説くように、壬申の乱(六七二年)に際して大海人皇子・鸕野皇女が隠棲した吉野は、持統天皇の度重なる 行幸を通して、皇統ゆかりの、律令国家の原点の地として聖地化されていく(注
れを背景にして作られたものであろう。 を背景としてのことであり、二七番歌も吉野の聖地化への流
16
)。吉野賛美の歌が生まれるのはこの点坂本信幸は『詩経』の「隝鳩」の内容を踏まえて、「よき人」とは、理想的な政治を行う君主のことであり、天武の歌ながら、その「よき人」は吉野に行幸し、盟約を果たさせた天武のことになる。書紀に見える盟約の時の天武の「朕が男等、おのおの異腹にして生まれたり。然れども今一母同産の如く慈まむ」という言葉は、正に「隝鳩之養其子、朝従上下、莫従下上、平均如一」という注を思い起こさせる。と、「一母同産の如く慈まむ」という『書紀』の記述と、「隝鳩」第一章についての「毛伝」の解釈とが重なることを指摘し、「二七の歌は吉野盟約と関わって、七羽の隝鳩ならぬ六人の皇子に理想の政治を誓わせた重要な歌であったのである」という。また「ここには専門詞人の介在があろう」ともいう(注
17
)。一六 『書紀』と「毛伝」との重なりの指摘が注意されるが、
『書紀』が成立する以前、記事がそのようにあり得たのかどうか、具体的には不明というほかあるまい。また一首の成立を天武八年(六七九)に結びつけ得るかどうか、その点にも問題があろう。
「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし」の発想は、
人麻呂が吉野讃歌で「山川の清き河内と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に」(1・三六)とうたい、持統天皇が「御心」を寄せてよしとされるところとして吉野が賛美されるあり方と同じである。どちらも「淑人」によって選ばれた地としての吉野である。「淑人」には持統天皇も含めて、広く吉野ゆかりの天皇が当てはまるのであり(注
け、賛美した一首ということになる。有徳の君臣の和楽は律 らえ、吉野を優れた君臣たちが集う和楽の聖地として位置づ 歌は、吉野ゆかりの天皇を有徳の君子たる「淑人」の語でと 幸を繰り返す持統天皇も重ねられる質のものである。二七番 紀四年八月条)も、天武八年の故事を伝える天武天皇も、行 て国号「蜻蛉島」の由来譚を伝える雄略天皇(雄略記、雄略
18
)、吉野にかかわっ であったと考えられる。 吉野が律令国家の原点を成す地であったところにできた讃歌 「良人」の用字で示したところに端的に表れている。一首は、 令政治の理想であり、それへの志向は「よき人」を「淑人」結
本稿では、二七番歌の「淑人」「良人」の用字を検討して、一首は、吉野を君臣和楽の聖地として賛美した歌であること、その制作は吉野が聖地化されていく持統朝においてであろうことを述べた。
『日本書紀』によると、
持統天皇は持統三年(六八九)から文武天皇に譲位する持統十一年(六九七)までの九年間に三一回吉野に行幸する。譲位する十一年の行幸は四月に一回だけだが、それ以前は毎年複数回を数え、複数回にわたる行幸は太政大臣の高市皇子が薨去する十年(六九六)まで続く。この年の行幸は二月・四月・六月で、皇子が薨去するのは七月である。翌年の行幸は一回だけであり、高市薨去までの継続的な行幸は持統天皇の行幸が文武天皇への譲位を視野に行わ
一七 れたこと、また譲位が可能となるまで吉野を通して天武天皇以来の秩序の確認が必要だったことを示唆する。その秩序は「千歳の後に、事無からしめむ」ことを内実とする吉野での盟約に根ざすものであろう。持統天皇の吉野行幸は、その意味で、天武八年の行幸を範とし、その反芻的意味合いがあったと考えられる(注
のであろう。 者である天武天皇とも結びつけて評価されることにもなった の志向が盟約のそれとも重なるところに、一首は秩序の形成 伝誦と無関係ではなく、一首に示された君臣の和合・和楽へ は、こうした持統天皇の行幸の性格、またその折々の誦詠・
19
)。二七番歌の天武御製としての位置づけこうした歌が伝誦を通して天武天皇に付会されれば、吉野は天武天皇ゆかりの聖地としていっそう聖地化を深めることにもなる。また吉野の聖地性は仙境観と不可分にかかわるから、伝誦を通して「淑き人」は神仙的有徳の君子としてもとらえられることになる。それは人麻呂以降の吉野讃歌に重なる世界である(注
番歌は、『万葉集』において、吉野歌の命脈の起点を成す歌と
20
)。吉野を君臣和楽の聖地ととらえた二七 して天武朝の標目下に位置づけられているのだと考えられる。注(1)後掲の『歌経標式』当該条に「句毎に吉有りて凶無し」とある。沢瀉『万葉集注釈』は「文字をかえたのも作者の意識した用字ではないか」と述べる。本稿も主旨において同じ考えに立つ。(2)「よく見」は荷田春満『万葉集僻案抄』の訓、「よく見つ」は荷田御風の訓(『万葉集略解』)。(3)『歌経標式』の引用は、沖森卓也・佐藤信・平沢竜介・矢嶋泉著『歌経標式影印と注釈』(おうふう、二〇〇八年一二月)による。(4)中西進「戯歌」(『万葉集の比較文学論的研究』桜楓社、のち『中西進万葉論集 第二巻』講談社)。梶川信行「天武天皇御製歌の論─八世紀の《初期万葉》─」(「語文」第一一九輯、二〇〇四年六月)も、初期万葉のありようを視野に伝誦の観点から当該歌をとらえる。(5)小島憲之「万葉集と中国文学との交流─その概要─」(『上代日本文学と中国文学中』(塙書房)(6)注4に同じ。(7)小島憲之「懐風藻の詩」(『上代日本文学と中国文学下』(塙書房)
一八
(8)近藤信義「よき人のよしとよく見て考」(『音喩論古代和歌の表現と技法』おうふう、一九九七年一二月、初出一九九五年)(9)佐竹昭広「万葉集本文批判の一方法」(『万葉集抜書』岩波書店)(
( 10)注5に同じ。
( 六月、初出一九八四年) との関係について」(『大伴旅人逍遙』(笠間書院、一九九四年 九年五月)、平山城児「天武天皇二十七番歌と詩経曹風「隝鳩」 集『セミナー万葉の歌人と作品第一巻』和泉書院、一九九 11)坂本信幸「天武天皇の御製歌」(神野志隆光・坂本信幸企画編
( 理解をもとにした。 また養老令「学令」教授正業条を踏まえて、「毛伝」「鄭箋」の (集英社)により、漢文大系『毛詩』(冨山房)を参考にした。 12)『詩経』の訓読・解釈については、主に漢詩大系『詩経上・下』
注孝経』(講談社学術文庫)も参考にした。 『孝経』により、「御注孝経」を内容とする、加地伸行『全訳 読・解釈については、「古文孝経」に基づく、新釈漢文大系 大系『礼記』、漢文大系『礼記』を参考にした。『孝経』の訓 釈については、主に全釈漢文大系『礼記』により、新釈漢文 用例は、この点を踏まえて広く検討する。『礼記』の訓読・解 大学・国学で学ぶべき一経として規定される。「淑人君子」の 13)『礼記』『孝経』は『毛詩』とともに、「学令」経周易尚書条に (
( 14)漢詩大系『詩経上』(集英社)
( 15)注4に同じ。
( 年)、同『万葉集全注巻第六』(有斐閣) 葉集への視覚』和泉書院、一九九〇年一〇月、初出一九八一 16)吉井巌「万葉集巻六について─題詞を中心とした考察─」(『万 17)注
( 11に同じ。
( 學院雑誌』第一一五巻第一〇号、二〇一四年一〇月)参照。 巻)に見られる。拙稿「笠金村の養老七年吉野讃歌の主題」(『國 18)こうした観点は、折口信夫「続万葉集講義」(旧版『全集』第九
( 一二六号、二〇一三年四月) 19)拙稿「万葉集にみる飛鳥と吉野の交流」(「季刊「明日香風」第 20)注 18拙稿に同じ。