栗 原 裕 次
はじめに
プラトンの魂論と「心の哲学」 1
プラトンは『国家』第
巻で「生きること」を「配慮すること」「支配
すること」「思案すること」と並んで人間の魂のはたらき(HUJRQ)とみな している(G).はたらきを見事に発揮させるのが徳(DUHWr)であるから,魂に徳を宿す人は,いわば定義的に,生きるはたらきを見事に発揮してよ4 く生きる4 4 4 4ことになる.即ち,徳ある人は幸福である(GD).プラト ンは魂を論じるに当たって,魂を生の原理として,さらには徳との関係で 人間の幸福を決定するものと考えているのである.今回の提題ではこの点 を見据えてプラトンの魂論をよく生きることとの関連で紹介する.そして 提題の最後で現代の「心の哲学」の立場から彼の魂論に問題を提起し,応 答の中でプラトン哲学のさらなる可能性を探っていきたい.
第1節 「魂の3部分説」とその限界
1-1 魂の3部分説
プラトンの魂論ということですぐに思い浮かべるのは「魂の3部分説」
だろう.『国家』第巻では,魂には思考や計算を司る「理知的部分」(ORJLVWLNRQ),
本稿は年月日に首都大学東京で開かれた東京都立大学哲学会第回研究発表大会 シンポジウム「古代ギリシア哲学における魂論と「心の哲学」」での発表原稿に基づく.当 日資料に引用したプラトンのテキストを適宜挿入した他は,基本的にほぼそのままの形と し,注の中で発表への質問に対する回答やその他補足説明を加えた.当日の司会者の田坂 さつき氏,提題者の永井龍男氏,金澤修氏,質問をくださった方々を含む聴衆の皆様に感 謝する.
「[寡頭政的人間になる若者は]その大王[金銭を愛する欲望的部分]の足もとのそれぞれ の側に,理知的部分と気概の部分とを地面に坐らせて,召使としてはべらせることになる.
そのうえで,理知的部分に対しては,どのようにすれば金がもっとふえるかということ以 外には何も計算し考察することを許さず,他方,気概の部分に対しては,富と富者以外の 何ものも讃歎し尊敬しないように命じ,また財貨の所有とそれに役立つこと以外のいかな ることにおいても,名誉心を満足させることを許さないのだ」(『国家』
G
;藤沢令夫訳,岩波文庫).
その他の不正な人は民主政的人間と僭主独裁者的人間であり,それぞれの支配的部分と最 高善は順に,全ての欲望と自由・平等,エロースと過度な支配・快楽である.
怒りなどの情動・感情の座である「気概的部分」(WKXPRHLGHV),飲・食・
性や金銭等を渇望する「欲望的部分」(HSLWKXPrWLNRQ)の3つがあるとさ れる.これらは『ティマイオス』(DD)ではそれぞれ頭,心臓,胃と いった身体的部分に宿るとされ,『パイドロス』(DEFE)では,
魂はヌースなる馭者に操られた2頭立ての馬車に喩えられて,美のイデア の想起を通じて節制の徳を身に付けていくプロセスが描かれている.
魂に3つの部分があることで行為の説明が容易になる.なぜ当の行為を したのかと問われて,人は「自分にとってよいと考えた4 4 4 4 4 4からだ」とか「怒4 り4に駆られて」とか「欲望4 4に負けて」とか説明を与えうるわけだ.しかし これが説明たりうるのは,当該部分が他の部分を支配して行為の決定力を 行使している限りである.そうであれば,むしろ3部分相互の関係からな る魂全体のあり方(=性格)が説明根拠と呼ばれるべきだろう.人はかくか くの性格をしているから,かくかくの行為をするのだ,という説明である.
プラトンが『国家』で3部分説を導入した理由は魂における正義と不正 を解き明かすことにあった.正義が宿る魂は各部分が自分の仕事をする.
即ち,理知的部分は魂全体の支配,気概的部分はその補助,欲望的部分は 生きるのに必要なものの獲得を遂行する.反対に,不正な魂の各部分は自 分に最適なことをせず,例えば,気概的部分が魂全体を支配する不正な人 は名誉を最高善として追求するし,金銭を対象とする欲望が全体を支配す ると寡頭政的な不正な人が誕生する.4種類の不正な人が支配的部分と 最高善によって区別されるのである.
1.2 大衆の魂観と自己への問
ところでプラトンが不正な魂をこう分析するのも,一般大衆の信じる魂
計算理性は欲心充足という目的のために有効な手段を専ら考量するが,この機能は3部分説 が割り当てた理知的部分(ORJLVWLNRQ)の機能と大差ない(注下線部参照).思考や計算を 司る理知的部分は知恵の徳が備わる場合,魂内の支配をすべく,各部分と部分から成る魂全 体のための利得(VXPSKHURQ)を考量するが(FIF),この利得は手段としての善であり,
その目的である魂全体のよいあり方が何かを熟慮することには関わらないからである.
神崎繁(『内乱の政治哲学』講談社,年,頁)はトマス・ホッブズが『法律』冒 頭箇所DGから「自らの社会契約的「自然状態」を構想した」と指摘し『リヴァイアサン』
第部章に言及するが,章にSOHRQH[LDへの言及があるように,さらに『国家』のこの 箇所の影響(人間観・理性観も含めて)を加えてもよいだろう.なお,ここで紹介した民 主政下の大衆が自由と平等を最高善としていても,その自由観・平等観がプラトンのそれ と同じではないことは注意しておきたい.
松永雄二「内なる正義」(『知と不知』第章,東京大学出版会,年)参照.次の引用 中の「自分」が魂の各部分と魂の全体(=人)を指示する点に注意.
観を意識してのことだった.『国家』第巻で紹介される魂観は先の不正 な魂の説明の原型となっている.それによると,すべて自然状態にある魂 はより多く─今より他人より本来の分け前より多く─を求める欲心
(SOHRQH[LD)の充足を最高善として追求するのが本来のあり方だとされる
(F).無力な大衆は平等4 4の大切さを口にして法を守りながらも,どこか で限りのない欲求充足を果たすべく思考をめぐらしているのだ.大衆が思 い描く魂は欲心とそれを満足させる道具の計算理性からなる.残念なこ とに,僭主独裁者と違って,大衆は何でもやりたい放題の自由4 4(H[RXVLD)
を享受できない.違法な不正行為によってプレオネクシアを満足させる「真 の幸福」を願いつつも,現実には小市民的に法の範囲内で欲求を充足させ て安楽な生活を送るのである.
プラトンはこうした大衆の魂観と幸福観を3部分説によって批判する.
松永雄二が強調したように,正義とは〈自己〉を成立させる根拠だった.
各人は魂の各部分が自分の仕事をするときはじめて〈自分〉のことをする.
国家の場合は,そのうちにある3つの種族のそれぞれが「自分のことだ けをする」ことによって正しいということだった.(中略)われわれのひ とりひとりの場合もやはり,その内にあるそれぞれの部分が自分のこと だけをする場合,その人は正しい人4 4 4 4であり,自分のことだけをする人4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4で ある.(『国家』
GH
;藤沢令夫訳 岩波文庫;強調は引用者,以下同じ)「自分のことをすること」と定義される正義は,決して法によって魂の外
問う自己は決して3部分説の理知的部分ではない.仮に「自己=理知的部分」だとしたら,
魂の気概的部分と欲望的部分は自己を構成しない─魂の部分ではない─ことになるか らである.なお,シンポジウム直後に野津悌氏から不正な人もこのような自己承認をする のかと問われたが,僭主独裁者的人間で実際に僭主になった「真の僭主」(G)を除 いては,自分で自分の生を選択し,その際にその生をよしと承認していると答えたい.但 し不正な人の場合,その承認・選択は熟慮によってなされたものではなく,ほぼ受動的に 決定された性格をそのまま拒まないで引き受けるといった消極的能動性を特徴とする.こ の点は拙著『プラトンの公と私』(知泉書館,年)
頁で論じた.
『国家』第巻DEでは,第巻で明らかになったような,魂が部分から成るという 見方に懐疑の目が向けられ,魂の真の姿の解明には別の考察が必要であると明言されてい る.そうした探究にとって重要な素材となるのは〈知を愛する魂のあり方〉(SKLORVRSKLD
G)である.これから紹介する,魂を自己の全体として捉える魂観はまさにそのような
あり方に関わっている.『国家』における2種類の魂論をめぐる諸事情については,田中伸 司「プラトン『国家』における魂の把握とイデア」『静岡大学人文社会科学部人文論集』,
年,頁参照.『国家』の魂論と自己論については,高橋雅人『プラトン『国 家』における正義と自由』(知泉書館,年)頁参照.側から縛り付ける強制力ではなく,魂の内側から〈自己〉を作りあげる力 なのだ.逆に,不正な人の場合,魂は部分間の対立抗争によって自己分裂 を蒙り,憎悪に満ちて真の統一性を喪失する─不正な人は幸福たりえな い.プラトンの批判はこの点に向けられている.
しかしながら,魂の3部分説によるこうした説明は,どこか不十分な気 もする.確かに,〈自己〉がない4 4としたら,自分の4 4 4幸福を語ることに意味 がないように思える.しかし,自分の魂が自己分裂と自己嫌悪のかたまり だとしても,開き直って,一体それがどうして自分にとって悪いのか4 4 4 4 4 4 4 4 4 4とさ らに問いうる限り,そう問う自分/問われる自分がやはり何らか存在する のではなかろうか.そう問う自己は,人がどう言おうと,自己の生き方を それでよい4 4のだと是認する自己─生の選択主体─でもある.ここに は,魂を単なる3つの部分の総和・集合体としてではなく,自己の全体と して捉えるもう1つ別の魂観4 4 4 4 4 4 4 4があるように思われる.3部分説が不在の
『国家』中心巻(第〜
巻)の議論はその点に深く関係しているようだ.1.3 『国家』中心巻の魂論
中心巻でプラトンはイデア論との関係で哲学者とそれ以外の人々を区別 している(FD).イデアを承認する哲学者は,感覚的に捉えられる 事物はイデアを分有することで存在していると考えているが4 4 4 4 4 4,他方,哲学 者以外の人々はイデアなどなく感覚事物はそれ自体で存在していると考え4 4
かくしてヌースは世界全体(また各構成要素の全体)や自己(魂)の全体といった全体性(原
理
DUFKr,根拠 DLWLD)に関わっている.「線分の比喩」では認識対象に関わる能力として高
次のQRXVと低次のGLDQRLDが語られているが,特に後者については第巻の精神状態たる
GLDQRLD(EG)と意味を異にしている点に注意.精神を意味する GLDQRLD
については他にFEF3KGUDF7KWH参照.一般にプラトンの用語法については まずは文脈の中で意味を確定することが重要である.
ている4 4 4(QRPL]HLQKrJHLVWKDL).両者は思念・精神(GLDQRLD)のあり方が異 なっているわけだ.哲学者が実物と像の関係をただしく思いなして目覚め4 4 4 て生きている4 4 4 4 4 4(KXSDU]rQ)のに対し,真実でないものを真実と思いなして いる人々は夢を見ながら生きている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4(RQDU]rQ).ここでは,行為や性格の 分析に役立った魂の3部分説が姿を消し,人がどう生きているかが精神状 態によって説明されている.
そこで以下では,生きていること全体に関わる魂論について2つの観点 から見ていくことにしたい.第1に,哲学者の精神状態は「知」(JQ{Pr),
他の人々のそれは「思いなし・ドクサ」(GR[D)と呼ばれているが,第 巻の「太陽の比喩」ではそれぞれ「知性・ヌースをもっていること」(QRXQ
HFKHLQ),「思いなすこと」(GR[D]HLQ)と言い換えられる.
魂が〈真〉と〈有〉が照らしているものへと向けられてそこに落着くと きには,知が目覚めてそのものを認識し,その魂は知性をもっている4 4 4 4 4 4 4 4と みられる.けれども,暗闇と入り混ったもの,すなわち,生成し消滅す るものへと向けられるときは,魂は思わく4 4 4するばかりで,さまざまの思 わくを上へ下へと転変させるなかで,ぼんやりしかわからず,こんどは 知性をもっていないのと同じようなことになる.(『国家』
G)
3部分説の理知的部分(ORJLVWLNRQ)が計算理性だったのに対し,ヌース
(知性)の方は世界のあり方をそのままに捉える魂全体の健全な状態であ るという違いに注意しよう.ヌースをもっているのか,ドクサに支配さ れているのかという対比が際立つのは『ソクラテスの弁明』が主題とした
「魂の配慮」であり「不知の自覚」なので,次節では『弁明』の魂論を考 察し,「洞窟の比喩」の解釈で補うことにする.
もう1つの観点は,魂とイデアの関係である.イデアを認めて生きるの
か,認めずに生きるのか.これが哲学者とそうでない人を分かつ基準であ る.プラトンはイデア論を生の原理である魂とどう結びつけて論じている のか,第3節で考えたい.
第2節 「魂の配慮」と不知の自覚 2.1 魂の配慮と真理
世にも優れた人よ.あなたは,知恵においてももっとも偉大でもっとも 評判の高いポリス・アテナイの人でありながら,恥ずかしくないのです か.金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し,評判や名誉に配慮しな がら,思慮や真理や4 4 4 4 4 4,魂というものができるだけ善くなるようにと配慮4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 せず4 4,考慮もしないとは4 4 4 4 4 4 4 4.(『ソクラテスの弁明』
GH;納富信留訳,
光文社古典新訳文庫)
さて,上のテキストにあるように,『弁明』のソクラテスが同胞市民に 魂の配慮(HSLPHOHLD)を訴えるのは,彼らの不正な生き方に憤慨してのこ とだった.配慮は1つ1つの行為に関わるのではない.むしろ行為の究極 目標である自己の最高善を対象とする.配慮は人の生き方を決定する精神 状態である.金銭や名誉を最高善とする寡頭政的人間,名誉支配政的人間 が跋扈するアテネで,ソクラテスは思慮と真理を配慮・追究して生きるよ う同胞に呼びかけたのであった.
ではなぜ魂への配慮が思慮や真理を配慮することに帰着するのだろう か.今と変わらず当時もお金や他人の評価が何より大切だと思われている4 4 4 4 4 4 世の中だった.人々は実際にそうであるかはさておき,そう思われること,
つまりはドクサに従って生きている.真理への配慮をソクラテスが強調す る理由はそこにある.ドクサでなく真理に目を向けると何が見えてくるの か.自身が真に4 4幸福でありたいのなら,自分が何者であるのか,そして自 分にとっての最高善や幸福は一体何なのか─こうしたことが問われ始め る.配慮の主体であり対象でもある自己は3部分説が計算理性に割り当て た理知的部分ではない.問う自己/問われる自己,人生をよし4 4と是認する
通常の「無知の知」という表現を避ける理由については,納富信留『哲学者の誕生』第章
(ちくま学芸文庫,年)参照.次段落で述べる「デルフォイの神託事件」の真相理解に ついては,加藤信朗『初期プラトン哲学』第章(東京大学出版会,
年)に多くを負う.自己の全体である.だがドクサに従っている限り,魂の視線は専ら外─
金銭・名声・権力・身体─に向けられ,内としての自己=魂への配慮が おざなりになる.ソクラテスが自らを神によってポリスに付けられたアブ に喩え,うたた寝する市民を目覚めさせると言うとき(HD),『国家』
が示した対比が自己をめぐって当てはまるだろう.ヌースをもって自分の あり方をあるがままに捉える哲学者ソクラテスとドクサに従い夢見て生き るアテネ市民の対比である.
2.2 「不知の自覚」としての思慮
すると思慮への配慮はどうだろうか.ソクラテスは思慮深さを有名な「不 知の自覚」と区別していない.
神に従って探求していた私には,もっとも高い評判を勝ちとっている人たち に,ほとんど最大のものが欠けている,と思われたのです.それに対して,
劣っていると思われた人たちのほうが,思慮を備えている(SKURQLP{VHFKHLQ)
という点では,ずっとマトモな人間だと思われたのです.(『弁明』
D)
自他共に知恵があると思っている有力者よりも,知恵に関して謙虚に生 きている庶民の方が思慮深いと語っているのである.不知の自覚について は,ソクラテスは自らの個人的体験を実例(SDUDGHLJPDE)にして説明 を加えている.「デルフォイの神託事件」である.事件の真相と彼が見出 した思慮の内実を見てみよう.
ソクラテスがデルフォイの巫女を通じて授かったアポロン神からのお告 げは「ソクラテスより知恵ある者はいない」というものだった.彼は神託 を自己の存在をめぐる謎として受け取る.なぜなら,彼は自分自身が知者 だとまったく思っていないが,神が嘘をつくはずがないので,知者だと思 わざるをえないからだ.私は知者なのか,知者でないのか.自分は一体何 者か.ソクラテスは長い間思いあぐねた結果,自己のアイデンティティを
ソクラテスはこうした自己の思いを特別の言い回しで表現している:「私は自分自身大なり 小なり知者であるとは意識して(VXQRLGDHPDXW{L)いないからだ」(E).ソクラテスは 専門知・技術をもっていないことの自覚についても同様の表現を用いているように(FG),
彼の不知の自覚を表す言い方である.『パイドロス』
F参照.この VXQRLGDHPDXW{L(+否
定詞+分詞)の自証知としての重要性と,意識と良心にまたがる意味をそなえたVXQHLGrVLVV\QGHUHVLV
という語への変遷,その後のヨーロッパ哲学史上の重大な役割については加藤,前掲書,頁を参照.関連して,加藤の指摘への応答でもある神崎,前掲書,第二部「「始 まりの制圧」に向けて──「思慮(ǗǒǝǎLjǔNJǓ)」/「賢慮(SUXGHQWLD)」,「良知(V\QGHUHVLV)」
/「良心(FRQVFLHQWLD)」」の検討が課題として残されている.
問い求める遍歴に乗り出す.ポリスで「知者」だと自他共に思われている 人々と大切なことをめぐって問答し,彼らが善や美について教えてくれた なら,紛れもなく彼らの方が知者だ,このことを指摘して神託を反駁しよ う─.そう意図して政治家や詩人らと対話したソクラテスだったが,判 明したのは,彼自身は知者でないから知者だと思っていないのに対して,
彼らの方は知者でないのに知者だと思っている,このほんのちょっとした 点で自分の方がより知恵があるということだった(DH).
ここには2種類の知が語られている.1つは善美をめぐる知で神のみが 所有する.もう1つはソクラテスがもつ「人間並みの知恵」と呼ばれるも ので,先に見た思慮である.神託は思慮の点でソクラテスを最高の知者だ と告げたのだった.それゆえ,ソクラテスが知者でなく,かつ,知者であ ることに矛盾はなかったのだ.これら2種類の知は人生との関わり方がま ったく異なる.善美の知は,それなしには日々の生活が成り立たないよう な日常生活知とは違って,大人なら誰もが所有しているとは信じられてい ない.むしろ大工術によって「大工」,医術によって「医者」と呼ばれる ような専門知に近い.だが,それは建築や医療行為といった専門領域に限 られるのではなく,人生の善美なることすべてに関わるためその所有者が 条件抜きの仕方で4 4 4 4 4 4 4 4「知者」と呼ばれるような知である.「国益」や「美し い国」を声高に叫ぶ政治家や英雄の立派な行為や人生を描く詩人が所有し,
大衆に教えを垂れるような知だと信じられたのも当然かもしれない.私た ちも善美の知をもてさえすれば,あらゆる行為がうまく行き(HXSUDWWHLQ),
幸福に生きる(HX]rQ)ことになるだろう.
それに対して,人間並みの知恵=思慮は「知識」と呼ぶのも躊躇われる類 のものである.自己のあり方についてのただしい思い4 4にすぎないのだから.
しかしこのただしい思いは人生全体に影響を及ぼす点で特異と言える.な ぜなら,私たちは何を行うにしても「自分」にとってよいと思って行い,「自 分」の幸福のためだと信じて行っているのだから.自己について勘違いし て行為にのぞむならば,善美の知を欠く以上,行為のよし悪しに関して不 確かな状態に陥るのは間違いない.したがって,こうした思慮への配慮は そのまま生きることの主体である自己=魂への配慮となるのである.
2.3 「洞窟の比喩」─ 魂と善・美
ではなぜ多くの人々は魂の配慮を欠いてしまうのだろうか.換言すれば,
なぜ善・美について知らないのに知っていると思ってしまうのだろうか.
この点に関して示唆的なのは『国家』の「洞窟の比喩」である.私たちは 生まれたときから洞窟の奥底で首と足が縛られて前しか見えない状態にな っている.背後から前面の壁に映された影絵を真実と思って生きている.
この比喩について語るべきことは多いが,ここでは2点述べるに留めたい.
第1に,私たちは子供の頃から周囲の人々による教育を通じて魂を形成 してきたということ.『国家』第・
巻と第巻のいわゆる「詩人追放論」からも推察できるように,影絵の作り手は主に詩人であり,彼らは大衆の 信じるところを上手に物語にして子供・市民の魂の造型に従事する.私た ちは知性をはたらかせる前から気づかぬうちに「何がよいか」「何が美し いか」に関するドクサを内化してきたのであった.これらのドクサは個々 の行為や価値判断に関わるというより,生き方の基準たる最高善をめぐっ てあると言える.加えて,影像に自分たちの影(KHDXW{Q
VNLDVD)
も含まれている点で,自己像すら物語を通じて魂に刷り込まれている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4こと も注意したい.
第2に,そうした仕組みに気づいて洞窟の外へと脱出し,洞窟内でのみ 通用する常識・通念を相対化する哲学なしには,私たちが自身のドクサを 変更するのは容易でないこと.時空的に限定され,同質の市民間で培われ たドクサを抱いて日常生活に安住している限り,私たちは自己の内面を見 つめ直す必要をおぼえないですむ.つまりは,魂に配慮しないですむよう になっているのである.これは教育と無教育に関連して私たち人間の「本 性」(SKXVLVD),いわば「自然史」に属することと言える.世界と自
己のあり方についてヌースをもって目覚めた生を送ることができるにもか かわらず,ドクサに従って生きてしまう私たちの本性を「洞窟の比喩」は 鮮やかに描出してみせている.
こうしてプラトンの魂論は教育・学習論を介して,単に自己の内面のみ を取り扱うのではなく,他者や社会との関わり方をも主題化している.興 味深いことに,次に見るイデア論も単なる存在論ではなく,むしろ自他の 関係をも含む魂論にその基盤をもっている.
第3節 イデア論と魂の形成
3.1 想起説──感覚判断とイデアの学び
イデアの存在を承認するか否かが,哲学者とそれ以外を分ける基準だっ た.確かに,よく知っている事柄についてはイデアを認める必要はない.
例えば,眼前の木材
6
と7を「等しい」と判断する場合,大工でなくても ミスはしないはずである.〈等しさ〉とは何であるかを知っているからだ(E).
6 「6は
7
と等しい」(長さの観点で)7 「6は7と等しくない」(太さの観点で)
もちろん,目の前にある等しいものは,人によって等しくないと現われた りするかもしれない.長さでなく,太さに目を向けるとそうだし,長さで も厳密さが要求される場面では,6の方が
7
より「長い」かもしれない.眼前の感覚事物はそれ自体で等しいわけではない.判断主体や時間,場所,
観点等の違いで現われ方は変化するが,子供時代から大・小・等しさにつ いて習ってきたからこそ,私たちは問題なく個別の感覚判断をなし得るわ けである.
提題者の永井龍男氏より,2種類の感覚経験について説明を求められた.イデアの知識使 用による個物の感覚判断については理解できるが,その基になるイデアの直接把握が感覚 を通じてのものであり,かつイデアの想起であるのはどういうわけかという疑問である.
永井氏が言及した『メノン』の想起説(GF)と結びつけると,子供が眼前の図形を通 じて普遍的な答の学びに至ったとき,既習の足し算やかけ算の理解の中に何らか本性にお いて同族的な「対角線」の把握があって(FIFG),それを想起したと言えないだろうか.
『パイドン』の想起説については,拙著『イデアと幸福』第章・補論(知泉書館,年)
で集中的に論じた.また『メノン』のイデア論については,同書頁の注を参照.
提題者の金澤修氏から,『パイドン』の想起説がどういう意味で魂の不死論証となるのかと いう質問を受けた.これには,身体を備えた人間として生まれる以前に魂がそれ自体でイデ アを学んでいたのならば,少なくとも魂の先在は論証できるというように答えたい.つまり,
身体を通しての感覚判断とは異なる仕方で事柄を把握する学びの経験が存在し,その対象が イデアだとするなら,学びの対象たるイデアの存在と学びの主体たる魂の自存とが同等の必 然性(LVrDQDJNrH)で語られうることになる.『メノン』の想起説では,召使の少年が 自分の力で自分の中から(DXWRVH[KDXWRXG)想起することが語られている.学びが〈自 己〉の成立の契機になることを示す実例である.
プラトンは『パイドン』で「等しさ」の感覚判断を〈等しさ〉のイデア の想起として説明した.かつてそれ自体で学んだイデアを想い出してその 知識を使用する経験である.しかしプラトンは同時に,イデアの知識を獲 得する学びをも感覚から4 4 4 4だとする(EF).但し,知識獲得に寄 与する感覚経験は知識使用による感覚判断とは本質的に異なっている.感 覚事物の用途や属性に関心がある後者と違って,「等しさ」の本質を学ぶ 経験において学び手の関心は,個物にありありと現われている普遍的な〈か たち〉にある.「ぴったり一致している」「差がない」という本質がはっき りと摑まれて,それに「等しい」という名前が与えられる経験4 4 4 4 4 4 4 4 4 4なのだ.そ の際,目の前の2本の木材は〈等しさ〉が学ばれる範例(パラダイム)に なっている.子供は個的パラダイムを通じて,例えば,長さについて言わ れていた「等しさ」が太さについても同様に説明されるのを学ぶ.プラト ンはこうした一連の学びにおいて直接出会われている〈かたち〉をこそ自 己同一性を保つイデアと呼んだ.学び手に「等しい!」と端的に現われる
〈等しさ〉のイデアは後に続く感覚判断の根拠になっている(EF). プラトンのこうした議論に従って,イデアを学びの対象4 4 4 4 4とするならば,
私たちは原初的な学びの経験を明瞭に記憶している限り,イデアの存在を 容認していることになる.逆に,既に熟知しているがために学びの経験 に注意を向ける習慣を失った人々がイデアの存在を認めないのも一種自然 な態度と言えるだろう─意見が対立しても,その都度学びの経験を想起
シンポジウムの折に木田直人氏から,「美しい」との判断が前提とする教育・学習において
〈美〉のイデアを措定すると,スタティックな教育カリキュラムが却って学習者の内側から の学びを妨げてしまうのではないかという質問が投げかれられた.確かに,『饗宴』ではエ ロースの階梯の上昇を通じた美の教育・学習プログラムが語られているが,それでも〈美〉
のイデアとは人間の力を超えて「突如」(H[DLSKQrV)として出会う─固定化を許さない─と 語られていることに注意したい.
ギリシャ語で真理を意味するDOrWKHLDが「気づかない
ODQWKDQHLQ」ことが「ないD」二重否
定であることはよく指摘されるが,ここでの悲惨さは「気づかないことがない」という事 態が「ない」ようにドクサで自らを縛り上げているということにある.し,定義や説明の型を確認して同意し合えさえすれば.
3.2 善・美の無知
大人である私たちが日常生活を営むのに等しさ・大・小について知って いるのは当然である.私たちは子供時代に様々な感覚事物においてそれら のイデアと出会い,学びを繰り返してきた.だが,同様のことが善や美に ついても言えるのだろうか.「洞窟の比喩」で見たように,善や美も私た ちは様々な実例を通して教育と学習を経験してきたはずである.さもない と「よい」「美しい」といった判断ができないだろうから.しかし大き な違いは,善・美に関して私たちは未だ知っていると言えない点にある.『パ イドン』では,知っている人は当の事柄について「説明を与える」(GLGRQDL
ORJRQE)ことができねばならないが,善や正義などに関しては(ソク
ラテスを除いては)不可能だと明言されている(EF).等しさの場合,1つ1つの学びが「ぴったり一致している」「差がない」という本質把握 の言葉を中核とする〈説明の型〉に結実して魂を形成していた.個々の感 覚判断で意見の不一致が生じても,関心や観点の違いを言葉にしながら説 明を与え合えば,わかり合うことは十分可能である.しかし善や美につい ては,文化の担い手たる政治家や詩人でもソクラテスに問われて説明を与 えられない一方で,同質の市民間ではそもそも説明を与え合う必要すら感 じられないですんでいる.学びが必要なのに,そのことに気づくきっかけ すら奪われている事態─二重の覆われ─が生じているのであった. プラトンは大切なことについて知らないのにそのことに気づいていない 状態を魂の最大の悪として「無知・無学」(DPDWKLD)と呼ぶ(『ソフィスト』
F).文字通り「学びがない」(PDWKrVLV
の欠如)精神状態で,学びの対象たるイデアを承認しない,ヌースを欠いたドクサの状態に他ならない.
善や美については社会に流通する出来合いのドクサを互いに注入し合うあ り方が常態なため,「ドクサの洞窟」たる市民社会を抜け出て何がよいか,
美しいかを共同探究する学び合いが欠如していると言えよう.適切な教育 と学習を通じて互いの魂をよりよく形成し合うこと─プラトンにとって 哲学とはこうした言葉のやり取り以外ではなかった.プラトンのイデア論 は哲学,即ち,教育と学習の可能性の問題と密接に絡まり合って魂論に連 絡しているのである.
3.3 学びの解明に挑む後期ディアレクティケー
これまでプラトン初期の『弁明』,中期の『パイドン』『国家』を中心に その魂論の特徴を辿ってきた.人生の主体としての魂のよいあり方と悪い あり方の判別基準は学びへの態度にある.思慮こそが魂の知的な徳であり 無知こそが悪徳だったのだ.すると冒頭で述べたように,いわば「定義的 に」人間の幸福な生の形も浮かび上がってくるだろう.不知の自覚はエロ ースの発現と共に人を善美の知の探究へと駆り立てる.それゆえ,不知を 自覚するに留まらず,さらに善美の学びを深めうるなら,人間にとってよ り一層の幸福が実現するように思われる.
プラトン中期と後期の橋渡しをする対話篇『パルメニデス』では,善・美・
正義の探究には訓練が不可欠であり,それなしにはそれらのイデア・形相 を定義する哲学的対話が力を失ってしまうことが宣言されている.
君が訓練4 4を経ないで,あまり性急に,美,正義,善その他各々の形相を 定義しようとしているからだ.このあいだも君がここでこのアリストテ レスと対話しているのを聞いて,私はそのことに気がついた.いいかい,
君が議論に夢中になるその熱心さは美しいし,神々しくもある.しかし 君がまだ若いあいだは,役に立たないように見え,多くの人々に無駄話 だといわれるものによってもっと君自身を鍛え訓練したまえ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4.そうでな いと真理(DOrWKHLD)が君から逃げだしてしまうだろう.(『パルメニデス』
FG;池田美恵訳『プラトン著作集 』勁草書房)
善:『国家』の「太陽」「線分」「洞窟」の比喩.美:『饗宴』のディオティマによる秘儀,『パ イドロス』のミュートス,「2頭立ての馬車」の比喩.正義:『国家』の「ポリスと魂のア ナロジー」.イデア論の詩的比喩表現に対するアリストテレス『形而上学』Α巻章D
の不満も参照.
このような見方は,中期イデア論が『パルメニデス』第1部の批判以降の後期で放棄され たという解釈をとらないことを含意する.
特に『パイドロス』
GF;『ソフィスト』 EG
参照.後期ディアレクティケーへ の言及は,他にも『政治家』GE,
『ピレボス』FHHD,
『法律』DF
がある(『ク ラテュロス』FHGH
も参照).この宣言は,一方で,中期対話篇における善・美・正義のイデアの叙述 が比喩・アナロジー・秘儀・神話に基づくことの不十分さを指摘しつつも, 他方で,後期対話篇での論理的考察がその不備を補いうることも示唆して いる.『パルメニデス』第部(FF)で入念に展開される「もし〈一〉
あり/なしとすれば,何が帰結するか」の議論が訓練の実例で,登場する
〈ある〉〈一〉〈多〉〈同〉〈異〉〈似〉〈不似〉〈動〉〈静〉〈生成〉〈消滅〉〈限〉
〈無限定〉といったイデア・形相の多様な関係に習熟する実践に他ならない.
イデアとは学びの中で個的対象において出会われている普遍的〈かたち〉
だった.それゆえ,善・美・正義の学びの実践=探究を志向する後期プラ トンの関心はまずもって,これら存在論的論理的形相の考察を通じての,
イデア把握である学びの可能性とその構造の解明にあったと言えよう. さて,後期プラトンにとって〈学び〉は世界に散らばる多様なものを1 つのイデアへと綜合することと一なるものを自然本来の分節に従って分割 することからなるが,それを方法化した分割と綜合の技術が「ディアレク ティケー」と呼ばれる.ここでディアレクティケーのあり方を詳細に考察 する余裕も能力もないが,先に見た〈等しさ〉の学びを応用して例示する とこうなる.
①「等しい!」と学んだ〈類似〉経験(=〈ある〉の把握)をできるだけ
〈多〉く想起する.⇒収集
②諸々の個的パラダイムに共通する特徴を見つめて,「大きい」「小さい」
が〈凌駕している/されている〉という関係であり,「等しい」がそ れらとは〈異なる〉「ぴったり一致している」という〈一〉なる本質 をもつことを一挙に発見する.⇒綜合
「きみが音の高さ低さについて,音程が数でいくつあるか,またそれはどういう性質のもの であるかを知り,さらにその音程を限界づけている音と,それから構成されているシステ ム(VXVWrPD)─これを先人たちはちゃんと知って,われわれ後進の者に伝え,音階と呼 ぶように教えた」(『ピレボス』
FG;田中美知太郎訳『プラトン全集』岩波書店).
③数量をめぐる様々な〈多〉なる観点(数,重さ,長さ等)において〈同 じ〉ことが成り立つことを確認しながら,最下種の形相まで自然の分 節に従って分けていく.⇒分割
大事なのは,第1に,中期ではイデアの存在を証示する原初的学び①前 半に光が当てられていたのに対して,後期では体系的な学び(①〜③)に 重心が移動していること,第2に,哲学的訓練の対象だった〈ある〉〈一〉
〈多〉〈同〉〈異〉〈似〉が学びを構成していること,第3に,ディアレクテ ィケーにおいては教え手と学び手の間の言葉(ロゴス)が大きな役割を果 たしていることである.最後の点について,プラトンはロゴスのはたらき を三様に捉えている.つまり,学び手がロゴスによって自然本来の存在の 分節を把握することに即して教え手が分節化されたロゴスを与えるという 一連の作業の中で,学び手の魂に〈ロゴスの型〉が生成するというように.
学び手のロゴスを理性能力とだけ解するのは正確でない.具体的な感覚事 物を目の前にして教え手は学び手の既習の言葉を前提としながらその理解 を手助けする言葉を紡いでいく.学び手は教え手と共に存在の分節化され た諸形相の織り合わせ(HLG{QVXPSORNr『ソフィスト』
H)をなぞりなが
ら─模倣しながら─それに即した言葉を魂の内に受け入れていくので ある.プラトンは最後の作品『法律』で善・美の探究をディアレクティケーに よって遂行する人たちに言及している.
美や善についても,わたしたちは[諸徳と]同じように考えているので しょうか.つまり,われわれの国守りたちは,美や善のそれぞれが,た んに「多」であることだけを知っているべきでしょうか.それとも,そ れらはどのような意味で,またどのようにして「一」であるかというこ とをも,知っているべきでしょうか.(中略)真の意味での法律の守護
トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』(岡本裕一郎・若松良樹訳,昭和堂,年;
原著
:KDW'RHV,W$OO0HDQ"̶$9HU\6KRUW,QWURGXFWLRQWR3KLORVRSK\2[IRUG).他に第
章で「他人のこころ」が論じられている.者となるべき人たちは,それらの[真剣になるべき]事柄の真実にかか わることをほんとうに知っていなければならないし,また,立派に
(NDO{V)なされたこととそうでないこととを,それぞれの本質に即して 区別しながら,そのことを言葉(ロゴス)によって解説する(KHUPrQHXHLQ 解釈する)ことができるとともに,行為(エルガ)においてもその区別 に従うことのできる者でなければならない.(『法律』
DE;森進一
他訳,岩波文庫;補いは引用者)プラトンの魂論の終着点は,こうしたディアレクティケーの実践の中で 自他の魂が善・美の学びを通じて「よい魂・美しい魂」となることにある.
それは,ソクラテスの魂の配慮が目指したもので哲学者の生き方と呼ばれ るものだった.プラトンはそのようにして魂のはたらきである生きること を哲学と結びつけ,著述を通じて,よく生きることの範型(モデル)を提 示したのである.
第4節 「心の哲学」との対話に向けて
プラトンの魂論が年に及ぶ歴史的変遷を経て今日の「心の哲学」
に多大なる影響を及ぼしているのは間違いないが,同時にそれは想像以上 の違和感を惹起しているかもしれない.そこで最後に,現代英米系の代表 的哲学者トマス・ネーゲルの入門書『哲学ってどんなこと?』で「心の哲 学」に相当する章を参照しながら,ありうべき3つの齟齬を取り上げ,
プラトンの立場を確認したい.
4.1 自由意志
ネーゲルは第章「自由意志」(頁;SS)で,行為の選択の 自由に関する考え方を紹介している.環境が行為を決定しているという決 定論は選択の自由を否定し行為者に責任を帰せることも不可能にする.心
シンポジウムの中で加藤信朗氏から,『パイドロス』(FD)や『法律』(DE)で魂 が〈自分で自分を動かすもの〉と規定されることの意味について問われた.永井龍男氏の 提題が強調したように,アリストテレスが魂の不動性を主張しているため,プラトンとの 対比が際立つとの指摘である.この点に関しては,プラトンの魂の規定が単にその不死性 を意味するだけでなく,生の選択主体が〈人〉として魂全体であることや自由(自発性)
と責任の問題と深く結びついていると答える(加藤,前掲書,頁の「被動的能動性」を 参照).ヌースをはたらかせる(=学ぶ)能力・可能性(GXQDPLV)は人間なら誰にでも備 わっており(『国家』
EG),それをはたらかせるか否かはその人次第である.魂の不死性
についても,『饗宴』のディオティマの話にあるように,美しい魂の内によき子供である知識・ロゴスを生むことが哲学的対話の中で永続的に繋がっていく点が重要である.肉体をもつ 人間が不死性に与るのは今ここで学び合う形でのみ可能となる.
理的状態が行為を決定するなら,外から強制されない限り自由だが,行為 主体としての〈私〉は身動きがとれない気がするし,他人も「操り人形」
のように感じられ責任を問いがたい.他方,選択が決定されていないなら,
〈私〉が行為主体であると言うことの意味が明らかでない.ネーゲルの懐 疑的な議論はプラトンの魂の3部分説に当てはまりそうだ.3部分説によ れば,3つの部分とその関係たる性格が行為を決定するが,性格それ自体 が環境によって決定されたように見えるのだから.
この点は,性格決定が生の選択と捉え直されていることに注意したい.
『国家』
G(注
で引用したテキスト)にも見られるが,魂の3つの 部分の配置(性格)を決定する主体は3つの部分のどれか(例えば,理知 的部分)ではなくて〈人〉である(FI『国家』EEE).プラト
ンは,生の選択は環境によって因果的に決定されないと考え,ヌースをは たらかせる(=学ぶ)自由の問題と見ている.4.2 心−身問題
第章「心−身問題」(頁;SS)でネーゲルは,心的状態は脳 の物理的状態だとする物理主義に疑問を呈しつつ,心的状態が観察不可能 な形でその内側にある魂の存在を認める二元論と,脳が物理的様相と心的 様相をもつとする二重様相説を打ち出す.だがプラトンの魂論では,魂は 自己であり人間全体であって,例えば,対話する〈このソクラテス〉である.
わたしといえば,いま対話をかわし,その議論のひとつひとつをしかる べきところにおいた,このソクラテス4 4 4 4 4 4 4がそれなのに,彼はそう思わず,
〈このソクラテス〉がここでの範例(パラデイグマ)である意味は何か.自己=人間全体と しての魂の捉え方は,魂を自己の人生全体の担い手とみなすことを含む.人間が肉体をも つことや歴史の中で他者と共に生きていることが人生全体を構成している限り,魂のこの 捉え方は自己の内実に肉体性,時間性,社会性を帯びさせることになるだろう.
シンポジウムの席上で加藤信朗氏から,ギリシャ哲学における魂論はギリシャの伝統的な 魂観とどう関わっているのか,例えば,ホメロスの魂観とどう違うのかという根本的な質 問があった.『パイドン』が批判する魂観はホメロス由来のもので大衆が漠然と信じている
「魂は肉体から分離されると息か煙のように散り散りになってどこにも存在しなくなる」(FI
D)といったものである(岩田靖夫訳『パイドン』岩波文庫,年,頁注 参照).
こうした魂を「もの」(V{PD)とみなす物理主義を批判して,「魂とイデアの親近性からの 議論」(EE)は,魂が配慮する対象(イデア
RU
物体=身体)に応じたあり方をすると の見解を提示している.また『ピレボス』(FD)は感覚を身体的要素(SDWKrPDWDNLQrVLVHWF)に魂が「気づかないことがないことPrODQWKDQHLQ」と説明するが,そこでの記
憶論と共に後期プラトンの心身問題の取り組み方を知る貴重な手掛かりになる.シンポジウム直後に松阪陽一氏よりこの点の明確化を求められた.;のイデアの定義的表 現が「まさに;である何か」である限り,例えば,ポリスのイデアは実際にポリスで〈ある〉.
さらにそこに市民のイデアが住んでいるのかと問われたが,それに対しても,ポリスのイ デアには市民のイデアが住んでいると答える.イデアとは学びの対象であり,ポリスとは 何であるかを学ぶ経験(=ポリス学の習得経験)において,ポリスを構成する市民(SROLWrV)
とは何かが学ばれるのは必然だからである.
むしろもうすこしあとで屍体となってみられるもののほうを,わたしだ と思っているのだ.(『パイドン』
FG
;松永雄二訳『プラトン全集』
岩波書店)脳を含む身体は人間として生きている限りでの魂の部分でしかなく,死後 は自存する魂から離れて消滅してしまう.それゆえ,プラトンの魂論はネ ーゲルが紹介する二元論とも断定しがたく,「心の哲学」との溝は深い.
プラトンはむしろイデアの承認/忘却によって自己を精神的/身体的と分 けている.
4.3 ことばの意味
第章「ことばの意味」(頁;SS)でネーゲルは,感覚的に捉 えられることばが普遍的な意味をもちうるのはなぜかと問い,その根拠が 心の内にあるのか外にあるのかを論じる.ことばと意味を繋ぐものとして 概念や観念が検討されるとき,イデア論と最接近を果たし,先の2つの章 以上に直接的関係がうかがわれるが,イデアは概念や観念では決してない.
例えば,赤の概念は赤くないが,赤のイデアは何よりも赤いのだから.
ネーゲルも意味を概念や観念だとする説を採っておらず,心の中のイメー ジという説も否定する.彼は言語が社会的な現象であり,「子供のときに 私たちが言語を学ぶ場合,私たちはすでに存在しているシステムの中に組 み込まれる」(頁;S)ことを指摘し,人間が意味によって世界を把 握できる事実,存在しないものすら考案できる事実を説明しなければなら ないと提起して章を終えている.ここに教育・学習におけるロゴスの役割 を重視するイデア論と同様の問題意識を見て取ることは難くない.プラト ンの場合,ことばの普遍性の説明は〈ある〉〈同〉〈異〉〈類似〉等の形相 と─「洞窟の比喩」「太陽の比喩」が示すように─最終根拠たる〈善〉
のイデアに訴えてなされるが,その具体的内容については探究課題として 読者に委ねられている.
こう見てくると,表面的に留まらない「心の哲学」との比較に挑むには 錯綜する概念史を丁寧に辿る相当の力量が必要となりそうだ.また,プ ラトン哲学を各自の文脈で自らの思索に活かした人々(アウグスティヌス,
ライプニッツ,ハイデガー,ウィトゲンシュタイン等)との比較研究も欠 かせまい.しかし翻って考えてみれば,プラトンの魂論の要諦は大切なこ とをめぐっての哲学的ディアレクティケーの行使,即ち,異なる文脈で様々 に状況が変化しても変わらない〈一〉なる何かを問い求める共同探究の実 践という点にあったのである.
一例を挙げれば,シンポジウム提題で対比した魂の3部分説におけるORJLVWLNRQ(ORJRV)と 魂全体のあり方としてのQRXVの対比が中世哲学の
UDWLR
とLQWHOOHFWXVの対比へと継承されて いくその先に,カントによる9HUQXIW(理性)の9HUVWDQG(悟性)に対する優位という「逆転 のドラマ」があったとの指摘がある(坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』第講,岩波書店,年).神崎,前掲書,
頁も参照.魂に関する概念史研究の本格的著作として,中畑正志『魂の変容』,岩波書店,年がある.