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Academic year: 2022

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博士(文学)学位請求論文審査報告要旨

蝶野立彦「一六世紀ドイツの宗教的メディアと宗教改革の帰趨――仮信条協定

Interim

)期の《プロパガンダによる闘い》から一六世紀後半の《言説の管理》へ」

1. 論文の概要

本論文は、「宗教的な自由・自治の追求」として始まったドイツのプロテスタント(ルター派)宗 教運動が16世紀の半ばから後半にかけて「統治権力による管理・統合のシステム」に組み込まれ ていくメカニズムを、「宗教的言説・メディアが果たした歴史的機能」に着目することを通して解明 しようとした研究である。時期的には、1548年の「仮信条協定」が出発点、1577年の「和 協信条」と1580年の「和協信条書」が終着点に設定され、また地域的には、「仮信条協定」に対 していわゆる「純正ルター派」の神学者たちが激しい批判を展開した中・北部ドイツが中心に扱わ れている。

まず、「序論」では、研究史を踏まえつつ、本論文の意義と基本的な視角が説かれている。「宗派 化」への固定がかなり早期に成立したと見るのではなく、この時期に活発に展開された神学者たち の論争を、宗派的に依然として流動的であった状況のもとでの「メディアによるプロパガンダ闘争」

として捉えて、その歴史的な文脈を読み取ろうとするのが、論者の基本的な視点である。

「第一部 反《仮信条協定》のプロパガンダとマクデブルクの神学者たち」は、三つの章から成 る。「第一章」で、論者は、「仮信条協定」を批判する神学者たちの拠点となった都市マクデブルク でこの時期に刊行されたパンフレットや、それ以外の図像などの200点以上のメディア史料を、

形態を基準として三つ(サブグループを含むと五つ)のグループに分類し、さらに全体を内容を基 準として「宗教的で一般的・普遍的」と「政治的で地域的」という二つのカテゴリーに分けて整理 している。これら二つのカテゴリーに分けられたもののうち、後者について検討したのが「第二章」

であり、前者について検討したのが「第三章」である。「第二章」では、「古き法」と「神の法」と いう論拠が都市マクデブルクの皇帝への抵抗を支えていたこと、また皇帝によるスペイン軍の投入 などを背景として「ドイツの自由」という論点が重要な役割を果たしたことが明らかにされている。

「第三章」では、「ライプツィヒ仮信条協定」を擁護したメランヒトンらと、それを厳しく論難した フラキウスらマクデブルクの神学者たちとの対決が検討されており、「宥和・調停」路線をとる前者 が「アディアフォラ」理論のもとで結果的に「世俗的なものの自立化」を推進する方向をたどった のに対して、後者はいたるところに潜む「一見それとは見えない敵」を激しく攻撃する方向に急進 化していったことが描かれている。

「第二部 《宗教的言論の自由》と《メディア・言説の管理》」も、三つの章から成る。「第4章」

では、1550年代から1560年代初めにかけての中・北部ドイツ地域で「純正ルター派」の活 発な言論活動によってプロテスタント内部の対立が深刻化するもとで、1562年の「ニーダーザ クセン・クライス会議」において「リューネブルク指令書」によって「社会的政治的騒乱の抑止」

を最重要視する観点から「言論の管理」措置が打ち出されるにいたる過程が描かれている。「第5章」

は、1550年代から1560年代にかけての中・北部ドイツ地域のいくつかの都市で生じた「純 正ルター派」神学者たちの絡む紛争を詳細に紹介・検討し、神学者たちの「闘争的な言説スタイル」

が統治権力によって社会的政治的秩序への脅威として受け止められて「言説の管理」政策への下地 をつくっていったことを、確認している。「第6章」は、フラキウスらの「言論の自由」論や「リュ ーネブルク指令書」、諸邦・諸都市による「説教統制」などの分析を通して、統治権力による「言論 の管理」政策に帰着する「弁証法」的メカニズムを論じている。

「結論」では、この時期に神学者たちが統治権力の圧力に屈せずに極めて活発な言論活動を展開 しえた主たる要因として、「宗教的・思想的」「メディア環境的」「政治的・制度的」の三つの側面に 関する論者の見解がまとめて論じられている。

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2. 論文に対する評価

本論文は、16世紀半ば以降数十年間の時期を「上からの宗派化」としてとらえる旧来の理解を 近年の諸研究を踏まえて批判しながら、それら近年の諸研究をもさらに再検討することを通して論 者独自の視点を打ち出し、数多くの資料の丹念な分析と丁寧な議論の積み重ねによって、全体とし て高く評価できる成果を挙げている。とくに積極的に評価できるのは以下の諸点である。

(1)「仮信条協定」期におけるマクデブルクを中心とする「純正ルター派」によって発信された豊 富なメディア資料を形態及び内容を基準として体系的に整理・分析し、そのプロパガンダの特 徴を初期宗教改革期のメディアとの比較も交えながら明らかにしたこと。

(2)フラキウスらによる「アディアフォラ」批判の中心的な論点を、「平和の維持」を理由とする

「宗教の相対化」に見出していること。さらに、そのような「仮信条協定」期における「純正 ルター派」の言説のスタイルが1550~70年代に受け継がれて展開していくことを明らか にしたこと。

(3)1550~60年代の一連の紛争劇において聖職者の「力としての言説行為」が中心的な争 点となったことに着目して、これら一連の紛争劇の歴史的な意味を捉え直し、統治権力による

「言説の管理」政策にいたる弁証法的なメカニズムを明らかにしたこと。

(4)さらに、論者の独自の視点に基づく興味深い分析の成果としては、①「純正ルター派」のメ ディア戦略を可能とした環境や条件についての考察、②二王国論に基づくルターの言説論との 対比を通したフラキウスの言説論の思想史的位置づけ、③統治権力の近世的な展開の道筋に関 する一定の歴史的な見取り図の提示、などが挙げられる。

その一方で、本論文には、以下のような、さらに検討を要すると思われる点や疑問を抱かせる点 も見受けられる。

(1)本論文は当該時期の中・北部ドイツのルター派地域における宗派的枠組みがまだ不安定なも のであったことを説得力をもって論証しているが、しかし本論文で扱っている様々な論争や紛 争がやはり「ルター派」の内部で展開されたこと、またこの時期の宗派形成にプロテスタント 諸侯・統治権力が圧倒的な主導力を発揮したことを考えると、「不安定さ」を強調することが

「上からの宗派化」論の否定に直結しうるのかという疑問が生じる。「宗派化」の過程に関し ては「宗派化」の概念そのものの再検討をも含めてさらに慎重に検討する必要があろう。

(2)都市マクデブルクが「仮信条協定」期に「純正ルター派」のプロパガンダ活動の拠点となり えた要因については、本論文でもある程度の説明がなされているが、経済的な要因や市政のあ り方などが触れられておらず、十分とはいい難い。一般に中・北部ドイツ地域が「純正ルター 派」の活動拠点となりえた要因についても、さらなる考察を要すると思われる。

(3)本論文は反「仮信条協定」プロパガンダの特徴として「得体の知れない悪」が新たなモチー フとして登場したことを強調しているが、やはり反カトリック・反教皇のモチーフが重要な役 割を果たしていたことが推測されるし、そのことは本論文が挙げている図像資料からもある程 度読み取れる。両者のモチーフの関係についてもう少し立ち入った考察が必要であろう。

以上を考量した結果、本論文は博士(文学)早稲田大学の学位に十分値すると判断する。

2006年4月15日

主任審査委員 早稲田大学文学学術院教授 大内宏一 早稲田大学文学学術院教授 小倉欣一 駿河台大学現代文化学部教授 博士(文学)東大 木塚隆志

参照

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