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日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(2) : 台湾出兵事件前後における戦時業務規定と出師概念の成熟

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Academic year: 2021

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(1)Title. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(2) : 台湾出兵事件前 後における戦時業務規定と出師概念の成熟. Author(s). 遠藤, 芳信. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 55(2): 57-72. Issue Date. 2005-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/792. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育人学紀要(人文科学・社会科学編)第55巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.55,No.2. 平成17年2月 February,2005. 日露戦争前における戦時編制と陸軍動員計画思想(2) 台湾出兵事件前後における戦時業務規定と出師概念の成熟. 遠 藤 芳 信 北海道教育人学函館校社会科教育研究室. く目次〉. 1 本稿の目的 2 1873年徴兵令と六鎮台編制下の兵力編成の過度期的兵員併用・供給構造の成立 (1)1871年鎮台編制の成立と兵力の編成替え(2)鎮台編制とフランス軍制の導入(3)鎮台配置と旧城郭の. 再利用(4)徴兵制導入の準備と鎮台官員条令等の制定(5)徴兵制導入を迎える鎮台兵力の編成と配備 (6)1873年徴兵令制定と鎮台兵力編成における過度期的兵員併用・供給構造の成立 く以上,第54巻第2号〉. 3 六鎮台編制下の戦時業務管掌の成立 本稿は論文題目のように日露戦争前における戦時編制の歴史的変遷と成立過程を明らかにしつつ,そこに おける陸軍動員計画思想を考察することにある.ところで,「戦時編制」の用語は「平時編制」に対応した ものであるが,まず,そもそも,「戦時」と「平時」との区別と関連に関する陸軍内部の統一的な認識・自 覚が法令上においてどのよう成立したかは必ずしも明確ではない.たとえば,戦時における諸兵力の編成と 行使にかかわって貫徹される特別な権力支配関係,職務権限行使,業務作用等の法令上の統一的規定は,1873 年徴兵令制定前後においては必ずしも明確ではない.本来,「戦時」と「平時」の区別と関連は,近代立法 体系を基礎とし,かつ,その関係や整合性において認識・自覚されなければならないが,1873年徴兵令制定 前後においては,近代立法体系は未整備であった.そのため,この時期においては,戦時にかかわる業務を 近代立法体系との関連において考察することは非常に困難である.それ故,この時期においては,戦時にか かわる業務(の計画)を独自に策定・規定する機関(陸軍省など)が,戦時業務を自己の管掌下に統括する なかで,戦時の業務内容の性格・意味をどのように区分・認識していたかを考察することにとどまらざるを えない.それで,本稿では,まず,六鎮台編制期から1874年台湾出兵事件前後にかけて,陸軍省などにおい て戦時業務管掌(の計画・構想)がどのように成立してきたかを考察する. (1)1873年陸軍省条例における戦時業務管掌. まず,1871年7月の兵部省職員今の兵部卿の「総判」事項中に「征討発遣」が規定された.1872年2月に 兵部省が廃され,陸軍省と海軍省が置かれた.そして,1873年3月制定の陸軍省条例においては,①第一局 第一課(一般往復 軍務 庶務)の事務分掌中には「兵隊途時二在り若クハ衛戊二在り若クハ野陣二在り若ク ハ分陣二在ル時其軍紀布告ノ事」「戦闘ノ情実策略二就テノ諸事取扱ノ事」「進軍並二転軍ノ事務取扱ノ事」「兵 隊ノ駐スヘキ地所ヲ定メ及ヒ其動静ヲ指揮スル事」「全軍ノ員数並二現役軍団ノ編制取扱ノ事」が規定され,. ②同第四課(軍法 葬祭)の事務分掌中には「戦時停虜ノ取締並二経理ノ事」が規定され,⑨第五局第三課. 57.

(3) 遠 藤 芳 信. (病院 病者 老兵)の事務分掌中には「戦時軍中所属教官ノ事」「陣中ニテ養生所入人員ノ事」が規定され,. ④同第四課の事務分掌中には「出陣塙銀ノ事」「陣中ニテ将校ノ遺失セル道具並二馬匹ノ手当金ノ事」が規 定された.これは,統帥事務と軍政事務とを混合させているが,前稿で指摘したように,鎮台の設置と編制 は都市の防禦・警備を主体にした兵力編成の思想が強く,平時の行政権力行使と密着した兵力行使遂行のな かで,かつ,鎮台・営所の戦時業務体制の未整備のなかで,陸軍省としての戦時業務管掌を規定したもので ある.つまり,戦時には兵員数を増加させるが(1873年徴兵令とともに制定された「近衛兵編成並兵額」に おける「人管鎮台兵額表」「国軍兵額井配分表」),兵員増加の鎮台の兵力編成体制を延長させて即戦時に対. 応させるものであり,戦時の特別な兵力編成体制を前提にしたものではない.さらに,陸軍省第六局が「陸 軍文庫」という局名のもとに「測量地図 絵画彫刻 兵史並兵家政誌蒐集」を管掌することになった.そこ には,局長1人の他に,課長として参謀大佐1人,参謀中少佐,参謀尉官若干人と文庫主管少佐1人が置か れたが,主として,測量等による地図製造や戦史等の蒐集・出版等を中心にした調査業務に従事し,「全国 防禦線」(前稿74ページ参照)の確定をめざした調査機関としての性格が強く,後の参謀本部の前身になった.. なお,陸軍卿の官房(卿官房)の職務の一つとして「天皇並二三職卜擬議往復二係ル書類取纏メノ事」(第 1条)と規定され,陸軍省・陸軍卿と天皇との問で直接的な文書往復がなされていたことがわかるが,この 意味についてはさらに別稿で考察する.. 陸軍省条例はその後,1874年10月28日に陸軍省布第381号によって改訂が達された.これより先,同年2 月に陸軍省第六局が廃され「参謀局」が置かれ,さらに同年6月18日に後述する参謀局条例の制定が達され たが,1873年陸軍省条例の戦時業務管掌はほとんど1874年陸軍省条例にも継承された. (2)1873年鎮台条例改正等における戦時対応業務. 1873年7月19日に太政官布告第255号によって鎮台条例改正が布告されたが,まず,鎮台の兵力編成の概 略を示しておく.すなわち,第一に,兵力編成の考え方としては,同年1月の「六管鎮台表」(前出)の六 軍管区城への六鎮台配置(各鎮台は司令将官1名によって統率される)を継承しつつも,各軍管をさらに「師 管」(計14師管)に区分し,各師管の管理本部を「営所」と称し,各師菅にはさらに2∼3個の営所(兵員 増加による設置予定地を含む計40営所)を置くとされた(営所自体は合計54箇所).ここで,革管とは,そ の管下の兵員が戦時に際してほぼ「一軍」を興すに足るものとされ,師管とは戦時にほぼ「一師」を興すに 足るものされたが(第2条),その「一軍」「一師」の兵力数は正確には不明である.ただし,師管の営所に は歩兵1連隊を置いて「管内ヲ鎮圧シ方面ノ草賊二備ヘシム」(第7条)とされているので,およその兵力 数は窺うことができる.第二に,鎮台にかかわる諸官として,「要塞部」(未整備),「憲兵部」(未設置),「府 県官」(管内府県の政令や諸改革・創設等の事件の報知,「L吐上ノ静謎」に関渉する事項の詳細開説),「市井 裁判所」(司法関係の改革・創設事件や警察事務で「世上ノ静謎」に関渉する事項の詳細開説),「近衛」(軍 管内の近衛の兵隊との関係),「検閲使」,「司令将官」を掲げ,その職務規定を整備した.. なお,ここで,特に注目されるのは検閲使の規定である.検閲使は,1871年7月制定の兵部省職員令及び 兵部省陸軍部内条例中の兵部省陸軍条例第21条において,「省内別局」として「歩兵検閲使」「騎兵検閲使」「砲 兵検閲使」を置くことが規定され,その三兵の検閲使が実施する検閲内容は同省内別局条例第7条において「閲. 兵ノ法教導ノ法兵隊給養ノ法懲罰ノ法内部ノ規則軍装戎器等」と規定された.すなわち,検閲は軍隊の業務 運営内容のみを対象にしたものであった.これに対して,1873年鎮台条例の検閲使の職務は,「現今末行」 の但し書きが付されたが,「凡ソ諸隊将校下士兵卒進級ノ事ノ為二検閲使各軍管内ヲ巡回スル時ハ検閲ノ後 共作ル所ノ各隊ノ評草ヲ以テ之ヲ其所管ノ鎮台ノ司令将官二進納ス」(第25条)と規定された.これは,軍 隊の業務運営内容の検閲にもとづき,さらに特に将校進級の評価・判定の基本資料(評草)を作成する考え 方を示したものである.すなわち,①司令将官は上記の「評草」に自己所見にもとづく商評を加え,管内諸. 58.

(4) 口露戦争前における戦時編制と陸軍動員計両一思想(2). 隊のものを合わせて「一本」を作成し,陸軍卿に進呈する,②司令将官は各兵の検閲使を招集した会議を開 いて首座になり,「進級表稿本」を作成し,検閲使作成の「評草」とともに陸軍卿に提出する,⑨毎年年末 に陸軍卿は近衛司令長官と軍管の司令将官を陸軍省に招集して会議を開き,「将校進級総表」を撰定し,次 年の「抜擢進級ノ序」を定める,という検閲にもとづく将校進級決定の手続きを規定したことである(第26 ∼28条).つまり,1873年鎮台条例は検閲使職務体制と将校進級決定手続きを合体化する方針を示したので ある.この合体化の方針は,特に,当時の太政官職制体制下の勅任官の薦挙免割と奏任官の進退に対する内. 閣議官(参議)の審議関与から,武官の進退割渉手続きを将来的に独立させる意図に対応している.(1) つぎに,注目されるのは,鎮台の長官である司令将官の本務である.そこでは,1872年3月の東京,大阪, 鎮西,東北の鎮台条例における鎮台長官(帥)の位置を継承し,司令将官は「上 天皇大義ノ下二属シ直チニ 陸軍卿二隷ス」(第5条)と規定され,鎮台兵力の使用,出兵,警護,警備,弾薬・糧食や外国人旅行のため の護送等に関する司令将官の職務権限関係が規定されている(第29∼38条).この場合,特に,「凡ソ管内兵 革ノ警アリト雄モ事他邦卜相関渉スル者ハ 天皇興戦ノ権二係ルヲ以テ讃リニー卒ヲ動カスヲ許サス」(第29 条)とか,「管内草賊ノ警アリ」「事績ニシテ時間アレハ府県ヨリ両牒ヲ移シ同時二省並二台二報シ台又速二 省二報シテ卿ノ区処ヲ受クルヲ正例トス鎮台ノ将官檀二兵ヲ出スヲ許サス」(第30∼31条)とされるように,. 兵力行使の判断決定権限者の所在(天皇興戦の権)を明記したことが特徴である.すなわち,すでに旧藩の 兵力が解隊され,徴兵制が施行された時期ではあるが,鎮台兵力の使用と統制については不確定的要素を内 包した状況を認識した上での規定とみなすことができる.また,天皇興戦の権の規定は近代法的認識にもと づくよりも,江戸幕府将軍から返還された兵権の掌握という事実認識にもとづいたものである.. その後,鎮台関係では,第一に,1875年1月15日陸軍省布第15号達によって,徴兵令附録としての「六管 鎮台徴員井式」が改訂された.それによれば,各軍管の管下府県・諸県の全国総計石高数値は1873年の数値 (3122万石)から66万石が増加して3188万石になった.しかし,徴集人員は,第一軍管東京鎮台常備の騎兵 が2大隊編制から1大隊編制(計120人)になり,工兵が3′ト隊編制から2′ト隊編制(計240人)になり,1873 年の数値との比較で合計240人の減少になった.この結果,第一軍管東京鎮台常備は,管下府県から徴集す る人員は6900人(1ケ年徴員は2300人)になったが,他事管鎮台常備兵員数は変わらず,全国総計で3万1440 人(1ケ年徴員は1万480人)になり,1873年の数値(全国総計で3万1680人,1ケ年徴員は1万560人)よ りも240人の減とされた(1ケ年徴員は80入滅少).これは,東京鎮台の騎兵大隊と工兵′ト隊の兵力編成の計 画変更の考え方にもとづくものではあるが,基本的には前稿で指摘したような鎮台編制下の過度期的兵員併 用・供給構造にもとづく兵力編成が維持されていたとみることができる. 「六 第二に,1875年6月9日陸軍省布第169号によって,「六管鎮台表」(4月7日改正),管鎮台兵額表」(1. 月15日改訂),「国軍兵額配分表」(6月5日改訂)が一括され,それらの改訂が達された.これらの改訂は,. 上記の1873年鎮台条例改正と1875年徴兵令附録「六管鎮台徴員井式」改訂などをうけて行われたものである. これによれば,「六管鎮台表」においては「師管」(計14個)を明記し,第三師管(高崎営所)にはさらに新 発田に営所が新設され,第4軍管下の敦賀営所は第三軍管の第7師菅(金沢営所)に管轄替えされ,常備諸 兵と管府県に一部変更があるが,ほぼ1873年のものと同じである.また,戦時人員は4万6050人とされ,1873 年の戦時人員4カ6350人と比較して300入滅少しただけで,その戦時人員の平時人員に対する増員分は第一 後備兵を充てるという考え方は変更されていない.この後,1875年10月9日陸軍省達第70号によって「六管 鎮台職官表」が改正され,鎮台の職員・人員(定員)の整備計画が改められた.各鎮台の諸隊人員総計は3 万7812人(内訳は,上長官79人,士官1264人,下士5749人,兵卒3万720人)であり,兵卒3万720人は1874 年2月2R制定(陸軍省布第46号)の「鎮台職官表」における各鎮台の兵数総計と同数である. 第三に,1875年7月18日陸軍省達第17号によって歩騎砲工蛸垂兵編成表の引き換えが達された.これは,. 59.

(5) 遠 藤 芳 信. 前年12月25日陸軍省布第459号による改正布達の歩騎砲工蛸垂兵編成表(1874年11月30日改正)の引き換え. であるが,「歩兵一連隊編成表」(3大隊と12中隊の編成)(2)においては上長官4名(内,連隊長1名,大 隊長3名),士官65名(1大隊につき21名で計53名,他に連隊付副官1名,連隊付旗手1名,なお,1中隊 は大尉1名・中尉2名・少尉2名),下士349名,兵卒1920名(1等歩卒576名,2等歩卒1248名,ラッパ卒96 名),他に(軍医正),1名上長官士官7名(軍医,軍吏),の総計2346名とされた.本表は「平時」の編制 表であるが,本表の「備考」において,戦時には第一後備兵によって中隊毎に1等卒80名を増加し,1連隊 の戦時兵卒は2880名(1920名十 く80名×12=960名〉)に増員されることが規定された.ここで,戦時1中隊 の兵卒は平時1中隊兵卒の50%増になるが,その50%増員に対応して,戦時の「景況」によって,連隊に少 佐1名,中隊毎に少尉1名,大隊毎に軍医副補各1名を増加する,と規定された.しかし,現場監督である 下士の増員等は規定されていない.将校の増員のみで戦時を乗り切れるという思想が含まれていることはい うまでもないが,戦時における大量の下士(予備役下士を含む)をどのように供給・補充するかという,戦. 時の下士の補充と服役をめぐる体制構築には至ってはいない.(3)なお,山砲兵と野砲兵については,「平時 山砲兵一大隊編成表」(2小隊の編成)及び「戦時山砲兵一大隊編成表」(2小隊の編成),「平時野砲兵一大 隊編成表」(2′ト隊の編成)及び「戦時野砲兵一大隊編成表」(2′ト隊の編成)が規定された.それによれば,. 戦時山砲兵1大隊の兵卒は320名で平時山砲兵1大隊の兵卒240名の30%増であり,戦時野砲兵1大隊の兵卒 は260名で平時野砲兵1大隊の兵卒240名の8.3%増となるが,これらの増員は,戦時における駄馬の増加に 対応したものである(1等駁卒の増員).すなわち,山砲兵1大隊の駄馬は平時52匹,戦時184匹とされ,野 砲兵1人隊の駄馬は平時120匹,戦時192匹とされた.つまり,戦時の人隊編成には輸送手段の増加の認識が 加わったのである.. (3)1873年在外会計部大綱条例における出師・師団概念の成立 1873年8月8日に陸軍省から在外会計部大綱条例の制定が陸軍卿山県有朋の前文が付けられて達せられた (陸軍省布第33号).これは,軍隊等が鎮台・営所から離れて出張地や分遣地に派遣される場合の陸軍諸隊 等の会計部の職務・職掌を規定したものである.すなわち,同会計部には,糧食課軍吏の職務(人員の食需,. 馬匹の飼料,厨房・暖炉のための薪炭を供給),被服課革吏の職務(被服諸共麻布の諸品及び馬具蹄鉄,戦 時野営内の諸具と平時屯営内の諸具を支給),病院課軍吏の職掌(軍医を補佐し会計経理事務を司る),司契. 課の職掌(陸軍諸隊諸役諸館廠人員の本給並びに規則上の諸入費を支給するために契券を付下して支償す る),監督課の職掌(弁買支償停貯分配の方法が条規例別に照らして厳格に執行・遵守されているか否かを監. 視する)を規定したものである.この場合,同会計部の糧食課等は,①その実際の施行に際しては「会計監 督長へ打合之上取計可申」(布達文)と規定されているように,上記1873年3月陸軍省条例における第五局(監 督部 軍吏部 会計事務)の監督長官(局長)からの指揮にもとづいて実施されることはいうまでもなく, ②さらに,たとえば,1874年2月2日制定(陸軍省布第46号)の鎮台職官表においては,各軍管の鎮台毎の 「派出監督課」「司契課」「糧食薪炭課」「被服陣営課」「病院課軍吏部」の定員が規定されているので,鎮台 等に平時常設の機関として設置されたものである(その他,本条例第2条参照).. 本条例において注目されるのは,上記の糧食課軍吏・被服課軍吏・病院課軍吏の職務や司契課・監督課の 職掌において,戦時の現場に対応した職務・職掌も規定していることである. まず,糧食課軍吏については,「戦時二在テハ糧食課軍吏ノ職務ハ関係甚夕広クシテ極メテ切要ナリ」(第. 12条)と,その重要性を強調した.そして,第一に,「戦時出師ノ際二当ツテ陸軍卿ヨリ糧食課軍吏掟理ヲ 命シ其師団二属セシメ若シ三軍出征ノ日二当ツテハ三軍ノ大将其部下一師ノ司令将官毎二各々糧食軍吏掟理 ヲ命シテ之二属セシム」(第13条)と規定された.これによれば,①軍隊の諸兵力を平時態勢から戦時態勢 すいし. に移す概念としての「出師」(軍隊の動員の意味)という用語が,糧食補給現場の管理者や職務との関係で. 60.

(6) 口露戦争前における戦時編制と陸軍動員計両一思想(2). 登場したことである.本条例以前の建軍期の陸海軍において,出師の用語がどのように登場・成熟してきた かについては,その詳細は不明であるが,戦時の糧食補給体制との対応関係で出師の用語が登場したことは 注目される.②陸軍卿は戦時の動員時に(三軍出征時には三軍の大将が各師の司令将官毎に)「糧食課軍吏 掟理」を命じて「其師団」に属させると規定されたが,これは,たとえば,上記の鎮台等に平時常設された 糧食課軍吏に戦時の特別な職務を負わせるために命じたものである.⑨この場合,「其師団」に属させるこ ととは,戦時に対応できる兵力編成単位としての「師団」の編成・成立を前提にした規定であるが,この「師. 団」は後に戦略上の兵力運用を含めて平時・戦時の師団編制上に規定された兵力編成単位としての師団やそ の司令部を含めて成立・編成した師団の意味を含まない.ただし,ここで,「師団」という用語が建軍期の 戦時と出師の規定に対応して登場したことは注目される.. 第二に,①各師の司令将官は部下の糧食課軍吏掟理に命じて出征地方の便宜の地において「食料ノ諸請負 人ヲ撰ハシメ」,当該師団の兵隊の占取陣地に向けた食料の輸送供給する方法を契約し,引き受けさせる(第. 14条),②戦時において以上の請負方法を必要としない時,あるいは戦地に入ることが深くて請負方法を実 施できない時には,諸兵隊は出陣する当該地方において「市場」を開かせて買い上げる(前払い,即金払い,. 第19条),⑨上記のような食料購入の会計方法を実施し難い時には,現金を兵隊に給して各自に物品を買い 上げさせることを許可することがある(第20条),と規定した.以上の食料・物品の三つの買い上げ方法は 国内での戦地を想定したものではあるが,いわゆる「現地調達」の端緒的な思想を含むものとして極めて特 記されるものである.すなわち,本条例は続けて,「凡ソ陸軍戦時二万り糧食資給ノ方法ハ成ルヘキ丈前法 ノ如ク糧二其地二拠ルヲ上策トシ給ヲ運輸二仰クへカラス若シ運輸ヲ仰クトキハ本邦地勢ノ険阻ナルニ因テ 障碍多カルヘシ然レトモ出陣ノ方向二因テ請負ノ方法モ買上ケノ方法モ施シ難キ処アルヘキヲ以テ預シメ輸 送隊ノ多少編制ヲ心得サルヘカラス」(第22条)と規定した.これによれば,糧食供給方法は現地調達を「上 策」とするが故に運輸による供給の考え方を原則的に否定し,出陣先において請負方法と買え上げ方法も実 施できない地域に限定してのみ輸送隊の編制を考慮すべきであるとされている.ここでの現地調達の端緒的 思想は国内での戦地を想定しただけではなく,「凡ソ本邦内地並近隣諸国二於テハ江河ノ運輸二便ナラサル ヲ以テ小荷駄ノ組立卜馬匹ノ多少ヲ定ムヘシ」(第23条)における荷駄編成の規定にもみられるように,海 外近隣諸国での戦地設定も想定されているとみてよいだろう.そして,以上の第22,23条に関しては,「出 師ノ前陸軍郷地宜ヲ案シ方法ヲ立テ教令スル所アルヲ以テ之ヲ遵守スヘシ」(第24条)と陸軍卿からの細部 のマニュアルの規定化があることを示した.以上のように,建軍期の動員を意味する出師の概念・用語の登 場に密着に呼応して成立したのは,師団概念であり,国内外の戦場・戦闘地域での糧食補給体制における現 地調達の端緒的な思想であったことは極めて注目される.. 次に,被服課軍吏については,①戦時の被服課軍吏の職務は「甚夕閑ナリ」であるが,出征時には被服装 具麻布鞋鞍等を完備すること,②被服諸具の交換は「皆内地ヨリ期ヲ以テ輸送シ至レハ便チ之ヲ諸隊二分配 スル」ので詳細な規則規定を要せず,⑨髭被鞋鞍等は各師毎に予備を必要とするので,平時にあらかじめ準 備する方法を立てることが規定された(第45∼47条).また,病院課軍吏については,「陣中病舎」(移動病 院で,兵隊の進行に従い,戦場での痕傷者に初発の治療をする,各鎮台に三部設置),「陣中病院」(出征時 に当該地方の陸軍駐在地の後方に臨時に設置し,陣中病舎からの運ばれる患者を治療する),「養生隊」(陣. 中病院と同様に陸軍駐在地の後方に設置し,平癒の患者を再び戦地に送るまでの養生のために供する,養生 隊入隊者の給料食料等は戦時の規則と異ならない)の三施設からなる「戦時病院」を管理するとされた(第 69条∼74条).この場合,収容患者数はおよそ「十分ノー」と想定され,たとえば,出征兵数3000人におけ る総患者数は300人になる(内訳は陣中病舎に60人,養生隊に川0人,陣中病院に140人を収容,第75条)と された.以上の戦時の戦場・戦地における傷痍者治療の病院施設が想定する収容兵員比率としての10%につ. 61.

(7) 遠 藤 芳 信. いては独自に考察される必要があるが,(4)当時の欧州軍隊の戦時病院の傷痍兵収容比率に近いと考えられ る.なお,上記第69条∼74条については,陸軍卿がさらに詳細な細則を規定するとされた.. さらに,司契課職掌においては,①戦時戦地における司契の方法はなるべく平時国内施行の規則に従うこ と(第95条),司契課事務方法も戦時と平時は異なることがないこと(第102条),②戦時諸役における自然 急速な需要に際しては,司契課官吏は不慮の請求に対してはその情実を明らかにして許可し,兵隊において 必需な事態には非常策を立てて対応すること(第101条),などと規定された.他方,監督課職掌においては,. 監督職の官吏は,軍・師に属せず陸軍郷沢出によって任命されるが,①戦時の監督職務方法は平時(平時は 人員・馬匹の実数を点検し,物品の実数を計算し,書類と照会し,会計現金保管箱を実査するなど,第107条). と同じくせず,監督検査方法も平時と「同一ノ厳密ヲ用ユ可カラス」とされ,諸隊・諸役の報告書中で実数 を「開列シタル書類二依テ勘合ヲナシ是二依テ照会ヲナシテ足レリトス」のように簡略され(第114条),② 監督課の総会計局は,戦時には陸軍駐屯地後方で,最近村落中に設置される(第115条)とされた.. 以上,1873年在外会計部大綱条例を検討してきたが,陸軍の戦時業務がまず戦時会計業務を基本にして成 立し,かつ,出師という用語が会計経理業務(糧食補給体制)との関係で成立してきたことは注目すべきで ある.これは,以下に考察する兵力の具体的な戦時編制規定に先行して成立したものであり,(当然ではあ るが)戦時の兵力編成や戦闘力行使が会計業務によって支えられなければならないことを意味している.. 41874年台湾出兵事件と出師概念の成熟 (1)1874年参謀局条例の成立と戦時業務規定. ①1873年幕僚参謀服務綱領制定と戦時業務規定 建軍期の陸軍においては,1871年7月の兵部省職員令・兵部省陸軍条例に「陸軍参謀局」の事務分掌が規 定され,平時には同局将校は鎮台の「大′ト式」(前稿69∼73頁参照)に任じられると規定された.兵部省時 代の陸軍参謀局の戦時業務がどのようなものであったかについては不明である.兵部省が廃され,陸軍省が 置かれ,1873年3月に陸軍省条例が制定された後,同年11月7日布第242号によって幕僚参謀服務綱領の制 定が達された.幕僚参謀服務綱領は戦時業務を積極的に認識・規定したものとして注目される.これによれ ば,参謀科は陸軍省第六局の長官(将官)に属するとともに各鎮台の将官にも属するとされ,その職掌の一 つは各鎮台将官の. 「幕僚参謀部」になり,もう一つは第六局の陸軍文庫に出仕することであった.以上の参. 謀科の目的は次のように規定された. 「参謀科ハ将官ノ輔任トシテ戦法戦略ヨリ兵隊編制ノ宜不宜ヲ審カニシ野営舎営濠塑等ノ位置配布ヨリ. 攻守線ノ便不便ヲ明カニシ以テ機謀密計ヲ参画スルヲ宗トシ又地ノ広狭遠近高低ヲ測度シ地理ノ険易山勢 水泳ヲ詳カニシ以テ内国諸地ノ防禦線ヲ区画シ城壁砲=ノ位置ヲ定メ兼テ政体治理二通シ人習土俗ヲ察シ 百事挙措宜シキヲ得ルヲ主トシ其他外邦ノ事情二通シ其強弱高説等ヲ熟知シ以テ開費ノ日二万テ遺策無ラ ンコトヲ要ス」 これによれば,「開費ノ日」と記載されているように,開戦を想定した戦略・兵力編制等の諸準備・調査・. 計画だけでなく,戦時の兵力の維持・運営に関する全体的な方策・体制等を明らかにすることが規定されて いる.上記の1873年鎮台条例における鎮台編制は,各鎮台への兵力配置の地域区分基準として(6軍管と14 師管),戦時に各軍管と各師管においてはほぼ「一軍」と「一師」という兵力を立ち上げることができるこ とを目標にしていた.また,上記の1873年在外会計部大綱条例は戦時に対応できる兵力編成単位としての「師 団」を規定した.幕僚参謀服務綱領は以上の「師団」のありかたをふまえ,「後来台下一軍団ノ兵員ヲ増置 シ数師団二分ツ時ハ師団ノ将官毎二幕僚参謀部ヲ置ク」と規定した.すなわち,本規定は(戦時に必要な). 62.

(8) 口露戦争前における戦時編制と陸軍動員計両一思想(2). 軍団内兵員の増加にともない,軍団をさらに′ト兵力単位としての「師団」に分割するという考え方を示した.. これらによって,1873年鎮台条例以後に成熟・登場してきた「師団」とは兵力数の多寡を視点にして規定さ れた兵力編成単位を意味する.ただし,ここでの「軍団」・「師団」は鎮台条例に規定された「一軍」・「一. 師」に対応した兵力編成の考え方は含まれず,戦時における臨時的な特設編成とみることができる(1875年 『軍制綱領』参照).また,「師団」の将官に幕僚参謀部を置くとされたが,「師団」は何をするかというこ とは明確ではない.. 幕僚参謀服務綱領は幕僚参謀長等の職務権限関係等を規定し,さらに,平時・戦時の業務を規定したが, 広範囲な戦時業務を詳細に規定したことが特に注目される.その中で,参謀部の職務は「外務」(「将官ノ命 ヲ奉シ差遣使命ノ役二供シ検閲探索督視等ヨリ事情面命口論ヲ要スル者ハ使命ヲ含ミ接述シテ雨情決治セシ ムルニ在り」)と「内務」(鎮台内の将官のもとに「日々出頭シテ書記往復等ノ事務二服スルニ在り」)の二 つに区分された.つまり,「外務」は軍隊の戦闘業務現場等における指揮・指令(「申令」「諭告」)を基本に したものであり,「内務」は事務的職務(調査書・報告書等の作成等)を基本にしたものである.. この場合,参謀部の職務の具体例としては,「内務」は,①兵隊編制等の調査,②陸軍省への定期及び特 別な報告(会計事務を中心にして詳細に規定される),⑨戦時の敵軍の報知,④戦陸別犬況記述書の報星,⑤ 将官が下す兵隊の全動静に関する諭告の調査(「軍法会議憲兵監察懲罰遊二秘謀二係ル調ヲ主トスル事」),. ⑥後備軍・予備軍の設立と養生隊に関する調査,⑦暗号の目録調査,⑧解軍・凱旋時の褒賞・選挙の調査, ⑨砲兵・工兵の司令官との通報,などが規定された.他方,「外務」は,①敵地の検出等にかかわる前哨へ の申令やその位置・任務等の諭告,営地位匿や諸種の戦法に関する諭告,軍中事務・将校事務・兵隊動静に 関する特別な申令・諭告,②兵隊進行の申令,城壁諸衛戊からの戊兵の引き取り時の火薬庫などの処置の諭 告,夜間進軍時の縦隊毎の前後距離等に関する諭告,騎兵隊の動静に関する諭告,⑨地方攻撃囲城等に関す る部署・順序・攻撃法略・傷者療養方法等の諭告,陥落後の衛戊設置,諸兵隊の編制・欠員補充,諸建築の 廃棄,守備工作の廃棄・修復等,糧餉弾薬等の予備蓄積,敵投降時の兵器管理・衛兵交代・囚虜送還,火薬 庫等の画図書接受,④乗船上陸にかかわる申令・諭告,などである.. 以上の参謀部の「内務」「外務」の職務において注臼されるのは,第一に,地方官及び民間人との関係で ある.たとえば,①城壁陥落後の警備箇所や守衛監視等の規則を地方官に通報すること,②請負人や銀行等 との関係,陣中商売人への許可証を発給すること,⑨地方車馬の調査,である.第二に,地理図誌兵家政誌 兵史の編集にかかわって,①「地方戸数民口馬匹ノ数帝数船隻走肘風車水車田穀野菜ノ種類多寡家畜ノ種類 数農商鉄木工傭夫雇人ノ数」を記載し,②「政事上管轄ノ区分民口多寡風俗強健ノ状学術諸器ノ数家屋ノ数 兵隊ヲ容ルへキ処ノ有無建物ノ諸材自然石煉火石瓦樽材木金属ノ大略民産ノ施設方法農牧物産山林禽獣馬匹 ノ生産家畜ノ多寡人工力作ノ度風水帝製作廠手工皮革匠遊二必要ナラハ貿易繁盛ノ度貨物出入ノ数」「諸方 大′トノ道路方向広狭険易坂路細径修覆ノ方法戦闘ノ用二供スヘキノ方略鉄道運河水源ノ諸流航海港湾造船場 船艦ノ多寡筏舟渡電信機方向継場川越橋桔用不要等」を記載すると規定された.陸軍省は全国地理図誌編集 にかかわる調査事業を進め,1872年4月24日付で府県宛に達し,府県から地図・図面・記録書(筆写)等を 提出させてきた.幕僚参謀服務綱領における地理図誌兵家政誌兵誌の編集は,1872年4月の陸軍省達の全国 地理図誌編集における調査内容もほぼ包括した記載事項(各種産業,人口・物産,交通・運輸・電信・貿易 等)を示した上で,さらに,それらが戦時を基準にして「戦闘ノ用」として位置づけられるかという視点か ら規定したものとして注目される.. 総じて,幕僚参謀服務綱領は,戦時業務に関してマニュアル化された文書(教令など)が編集されていな い段階で,参謀部所属将校が戦闘現場で想定される戦時業務の執行を直接的に口頭(申令・諭告)で伝え, その徹底を図るという目的のもとに制定されたとみてよい.なお,幕僚参謀服務綱領の制定により,陸軍省. 63.

(9) 遠 藤 芳 信. は同年11月7日付で鎮台に対して,上記の1871年兵部省陸軍条例で規定された鎮台の参謀を意味する「大′ト. 式」などの名称をもった官員は「参謀科之心得」として勤務することを達した.(5) ②1874年参謀局条例の成立と戦時業務研究 この後,1874年2月に佐賀の乱,同年5月に台湾事件が発生し,陸軍省における戦時業務・軍令業務の増 加の中で同年2月22日に陸軍省第六局は廃され,参謀局が置かれた.陸軍卿代理津田出は同年5月22日付で. 太政大臣に参謀局条例の制定を上申した.(6)陸軍省起案の参謀局条例は,第一に,参謀局は陸軍省に隷属 し,参謀局長(将官1名)は陸軍卿に属し,「日本総陸軍ノ走制節度ヲ審カニシ兵謀兵略ヲ明カニシ以テ機 務密謀ヲ参画スルヲ掌トル平時二在り地理ヲ詳カニシ政誌ヲ審カニシ戦時二至り図ヲ案シ部署ヲ定メ路程ヲ カキリ戦略ヲ区画スルハ参謀局長ノ専任タリ」と起案した(第1,2条).ここで,「定制節度」とは陸軍全. 体の基本制度とそこに貫かれる命令実施系統を意味すると考えられ,(7)「兵謀兵略」とは武力行使の策略・ 方針を意味している.そして,平時の業務(地理・政誌の調査)とともに戦時に至った場合の諸部署の配置 計画や戦略計画を考案することが参謀局長の専任事項であると起案された.第二に,参謀局長が統轄する参 謀科の将校・文官を,①各鎮台の司令将官の幕僚参謀官として分属する者(幕僚参謀服務綱領にもとづき服 ヂプロマナック. 務する),②参謀局勤務の将校(省内諸局の事務従事や「鴻腹部ノ国使二属シ他邦二駐在スル」ことがある,. 第5条)及び文官に区分し,第三に,局内は,第一課(総務課),第二課(アジア州各国の兵制研究),第三 課(欧米の兵制研究),第四課(兵史課),第五課(地図政誌課),第六課(測量課),第七課(文庫課)に区. 分することを起案した.この中で注目されるのは,第六課の測量課である.測量課は,後に陸地測量部の「胚. 子」(8)と記述された1871年兵部省陸軍条例の省内別局条例規定の「間諜隊」(「地理ヲ測量」「地図ヲ製スル」, 第9条)の事業を継承するものであるが,「本邦諸部二於テ後来ゼオデシー上ノ大測量ヲ企ツルコトアレハ 此課ヲ広増シ若クハ之ヲ別置シテ猶参謀局二隷シ其業二従事セシムヘシ」(第25条)と起案されたように, 将来には測量事業の大拡張と「別置」がありうることを構想したことである.陸軍省起案の参謀局条例案は 左院で審査され,特に,①第5条の「鴻腹部」(14条も同様)については古代(中国,日本)において訪問 した「番人」の接待・居所の意味をもつが,現在の正称でないので,「外国派遣ノ公使」に改め,②第25条 の「ゼオデシー」は削除された.左院審査による一部字句の修止・削除を含めて陸軍省起案の参謀局条例案 は6月15日の内閣において決定され,6月18日に陸軍省から参謀局に通知された. 1874年6月に参謀局条例が制定された後,さらに,同年9月8日に参謀局第三課服務条例が制定された. 参謀局第三課は上記のように欧米各国の軍制研究を担当していた.本条例で規定された参謀局第三課の職務 の大多数は欧米各国の兵制・兵史・兵学関係の文献を翻訳し刊行・頒布することであったが,それらの軍制 研究とともに注目されるのは,さらに「此課ハ欧羅巴亜米利加各国ノ兵制ヲ講究シ有事ノ日二臨ミ将官ノ参 考に備フルヲ本務トス」(第1条)と規定されたことである.つまり,欧米各国の軍制研究を通して,有事 への対応に関する資料を提供することであるが,欧米軍制を基準にして戦時対応の枠組みを組み立てること スタチック. が意図されているとみてよい.ただし,この場合,「兵制ハ静学ノ意ヲ体シ各国平時平備ヲナスノ方法施設 ジナミック. 如何ヲ講究スルヲ主トシ兵史ハ動学ノ意ヲ体シ其戦時二在り発揮スル所ノカ如何ヲ講究スルヲ主トス」(第 6条)と規定され,平時を基準にする兵制研究と戦時を基準にする兵史研究とが形式的に分離されているよ うにもみえるが,当時においては欧米軍隊の戦時業務に関する独自のまとまった研究等がなされていないと みなされていたかもしれない. (2)台湾出兵事件と太政官における出師概念の成熟. 上述のように,陸軍部内における出師という用語は,1973年在外会計部大綱条例にみられるように戦時の 会計経理業務(特に糧食補給体制)との対応関係で登場した.これに対して,建軍期初期に肘師の用語が太 政官政府内で使用されるに至った時,その出師にはもともと軍隊の諸兵力を平時態勢から戦時態勢に移す場. 64.

(10) 口露戦争前における戦時編制と陸軍動員計両一思想(2). 合の技術的な準備や手続きにとどまらない外交措置等を含む総合政策的な意味・内容が含まれていたとみる べきだろう.. まず,1874年7月8日の閣議で,近代日本の最初の海外武力行使事件になった同年5,6月の台湾出兵事 件に対して,清国との交渉決裂の際の武力行使・開戦準備を基本にした対清国方針が決定された.この決定 を強行した大久保利通の主張については『大久保利通伝 下巻』が簡潔に紹介している.すなわち,「此時,. 我政府に於ては,曾,谷等台湾より帰朝して,生蕃平定の状況を詳悉したり,然れども,善後の策に就て議 論紛々として決せず,或は日く,今や兵を発して生蕃を征服し,正に平定に期せり,既に之れ出師の目的を 達したるものなり,宜しく兵を撤退せしむへしと,然るに利通は建議して日く,未だ談判交渉を終らさるに,. 兵を撤退せしむるは甚不可なり,清国政府をして,我出師の精神を承認せしめ,我消費せし所は,清国政府 をして之を弁償せしめざるべからず,然るに内外の形勢を観察し,彼の事情を考察するに,李鴻章等は最も 激論を主張し,其意思は正に戦にあるが如し,先んずれば人を制し,後るれは人に制せらる,宜しく朝議を 確定して,彼に対せざるべからずと,爾来,屡,朝議を開きしか,議論猶決定せざりき,七月六日に至り, 三条,岩倉は利通を招見し,更に利通の結局の意見を求めしかば,利通は其意見を陳へ,猶,陸軍部内に異 論ありとの説あり,山県をして,陸軍将校の意見を尋問せしむべしと注意したり,八日に至り,再び朝議を 開きしが,山県は陸軍将校等協議の事情を陳述したり,麦に於て,遂に止むを得ざるに至らば,断然,兵力 を以て其曲直を争ふべしと確定せり」と,7月8日の閣議において,異論続出のなかで対清国先制攻撃準備. に踏み切ったのである.(9)なお,『明治天皇紀 第三。は「是の日,内諭を陸海軍卿に下す」と記述して いるが,明治天皇が陸軍卿と海軍卿に下した「内諭」とは翌7月9日に達せられたものである.(10)かく して,一部軍人の「私戦・私闘」的な海外武力行使を容認する政府構造や先制攻撃優位思想を背景にして, 出師という用語と概念が成熟していくのである.. ① 「海外出師ノ議」及び「宣戦発令順序条目」の閣議決定と大隈重信の構想 ところで,『大久保利通文書 六』巻29には,同閣議決定の具体化をすすめる「海外出師ノ議」(「内閣記 録課蔵」とされる)が収録され,同建議はその後半で「万一今日不戦二帰ス彼二在テハ兵備益修メ他日大挙 以テ我二追ラハ勢戟ハサルヲ得ス是レ所謂今日不戦二決スルハ終二戟二帰スルモノナリ而シテ今日ノ戟卜他. 日ノ戦卜我利害得失二関渉スル多弁ヲ侯タスシテ昭々タリ(中略遠藤)是レ今日海外出師ノ事急ニセサ. ル可カラサル所以ナリ謹議ス」と述べているが,(11)同建議の起案者は大隈重信であり,その日付は7月 28日とみてよいだろう.(12)ここで,政府の文書において「(海外)出師」という用語が出てくることに注 目すべきである.これは,同建議に附属して決定されたもので,開戦日に至った場合の具体的な政府方針と しての16ケ条の「宣戦発令順序条目」との内容において考察されるべきである.「宣戦発令順序条目」を起 草したのは台湾番地事務局長官大隈重信であった.大隈重信は7月27日付で太政官宛に,上記8日の閣議決 定にもとづき,「彼(清国一遠藤)ノ兵備尚充実不相成内達二諸般御着手ノ順序御議定有之彼ノ方略忽挫折 為致度存侯」として24ケ条の「密議条件」を起草し,「至急御奏聞ノ上御英断奉仰望侯也」という伺い書を. 提出した.大隈重信起草の24ケ条の「密議条件」の内容は以下のように分類される.(13) (1)全権公使が北京での交渉に決裂した時に. ,すなわち「交和難保ノ節」の処分方針を立てること.. (2)出兵趣旨を明確化すること(①大皇は詔を勅任官以上に卜し,出兵趣旨を明らかにすること,②国 内の布告文で明確に述べること). (3)出兵の予算・経費関係の取り決めること(①陸軍・海軍に区別,②「出兵費程ノ目途」). (4)陸軍・海軍の統帥と政府との関係の取り決めること(①「陸海軍将」を選抜し委任の権限を与える, ②陸軍と海軍との連絡手続き,⑨「開外ノ事」く天皇から国境外での兵力行使権限を任される事〉であっ. ても奏聞を経るべき事柄はあらかじめ決定しておくこと,④「将略戦略」関係は陸軍・海軍の主任者. 65.

(11) 遠 藤 芳 信. の管轄事項であるが,「大着手ノ枢軸」はあらかじめ協議すること,⑤「進軍大条例」は閣議決定の 上「陸海軍将」に与え,その細目は大将が規定して全軍に公布することでよいかを決めること,⑥「軍 事参謀官」の人撰が必要であること).. (5)具体的な出兵部隊の行動関係等を取り決めること(①長崎を出兵の根拠地にすること,②上陸する 海口・陸路並びに要衝攻撃地点の取り決め,②情事則文集の間諜を設け,通信連絡や蛸垂・糧食補給な. どを研究すること,⑨開戦に至った場合には台湾の兵備のあり方の得失を議定すること,④運送船の 便利を研究すること,⑤清国地理を詳しく研究し,山川の険易や陸路の捷迂などを知ること).. (6)外国・外国人・清国人等への対応関係を取り決めること(①国交各国への報告文調査,②国交各国 で局外中立を宣言しない時の同国船艦の兵器設備の検査に遺漏があってはならないこと,⑨御雇外国 人に対する処分を検討すること,④居留清国人には期限を決めて帰国を申し付け,滞在希望者には許 可するが,地方官に命じて監護させ,「内応陰通」の手段を厳戒することでよいか否かを決めること,. ⑤国交各国が将来において日本国あるいは清国を支持・支援する意図があるか否かを調査すること, ⑥在清国領事館の処分と在清国居留民の処置を決めること,⑦清国官民の事情や国内の「地方人心ノ 暫背」をなるべく精密に探索すること).. 大隈重信が起草した「密議条件」は,海外武力行使にかかわって政府として認識・判断し,決定・処置し なければならない広範な細部の要件(宣戦の詔書・布告書の作成,経費,軍隊の統帥と出兵部隊の行動,外 交関係等)を含んでいた.これに対して,大隈の伺い書を受けた三条実美は同27日付で岩倉具視宛に,大隈 起案の建議を「政府の処置と海陸之事務と区別」して速やかに実施し,人隈の伺書(「密議条件」)は「権外 の事に而不都合のみならす海陸不平を喝し侯根源と被存侯何卒右は御互之気付に致し御評議相成侯方都合宜 欺」と述べ,さらに,大久保利通にも連絡し,その返事を明朝までに催促し,「兎に角速に軍事緒に就侯様. 実に之急務と存侯也」と強調した.(14)大隈の伺い書などに対する三条実美の認識には宣戦準備を急速化 させる焦燥感も含まれているが,太政大臣としての役割認識を失わせるものがあった.すなわち,1873年5 月2日の太政官職制においては,太政大臣の権限を「天皇陛下ヲ輔弼シ万機ヲ統理スルコトヲ掌り諸上吾ヲ 奏聞シテ制可ノ裁印ヲ鈴ス」と規定しているが故に,大隈の伺い書における陸軍と海草の統帥や出兵部隊の 行動などに対しては,太政大臣として「万機統理」ための認識と判断を示さねばならなかった.しかし,三 条は,台湾番地事務都督西郷従道に対する天皇の同年4月5日の「委任」(「凡ソ陸海軍務ヨリ賞罰等ノ事二至 ルマテ委スルニ全権ヲ以テス」「臨機兵力ヲ以テ之ヲ討スヘキ事」など)と「特諭」(「抗敵シ服セサルニ於. テハ兵威ヲ以テ之圧スヘキ事」など)の記憶の残存のためか,(15)西郷従道が4月19日の出兵中止の閣議 決定を無視して兵員を長崎から出兵させたという暴挙を不問にする姿勢を崩さず,り6)大隈の伺い書に対 しては軍隊に関する政府の「権外の事」が含まれていて,政府が関与すれば,陸軍・海軍に「不平」を生み 出す根源になってしまうと考えるような及び腰の姿勢をもっていた. ② 「宣戦発令順序条目」の成立をめぐる岩倉具視と大久保利通の構想 他方,右大臣岩倉具視は7月8日の閣議決定後に,開戦に至る場合の政府方針として,およそ,①全国の 貯蔵米調査,②海岸要所防禦,「一般士族へ武職を至急に与へる下命の事」,華士族平民を問わず小銃弾薬所 持者の員数調査,各県の工業従事者を招集して弾薬を製造させること,軍艦購入の際の運転人有無の検討, ⑨全国に対清国開戦趣旨を布告し,「彼を悪む意我国を愛する情に仕向ける事」,④「冗費冗員」を省く機会. にすること,⑤土木営繕事業で半ばに至らないものは停止することを諸省府県に急達すること,⑥駐日各国 公使に対する通達と懇議,各国の情況調査,⑦本年度に限り,華族禄千石以上は半減し,九百石以下は三分 の一にすること,⑧清国の「地利」を考察すること,などを考えていた.岩倉は①や②のように開戦対応を いわば国家総動員のようにとらえていたが,②のような士族への「武職付与」は規律維持等の難題があった. 66.

(12) 口露戦争前における戦時編制と陸軍動員計両一思想(2). ことはいうまでもない.(17)なお,⑨のように対外武力行使の強行にあたって,「愛国」の「情」の組織化 が強調されたことも見過ごすことはできない.しかし,同時期に大久保利通は開戦に至る場合のさらに強固. な政府方針を構想していた.(18)すなわち,①諸省院使長官を招集し,「内外危急国家国難」に際して「憤 発勉励鞠窮尽力」を求める趣旨の勅語を与えること,さらに,陸軍卿と海軍卿には別々に勅語を与え,天皇 から開戦準備状況(有事の日に際しての着手目的・方略,兵員数・銃器械・弾薬・船艦・水兵等の整備)を 問わせること,終了後には陪食を行うこと),②大臣・参議は毎日皇居に参任し,開戦に至れば,政府は「憤. 発勉励軍国ノ政」を作り,参議の中から清国への派遣者を出すこと,また,新たに参議を命じること,⑨軍 事の方略上においては陸軍卿・海軍卿に「督促」すること,軍艦や銃弾薬の購入を外国に発注すること,④ 大蔵省の「金穀有高」を調査すること,諸省においては切要事項を除き新たな入費事項をなくすこと,⑤プ ロイセンとアメリカに至急公使を派遣すること,各国駐日公使に台湾出兵・清国関係の経過を詳しく報知す ること,である.大久保の構想は,開戦に際して,天皇の権威のもとに挙国一致というべき. 「軍国」中心の. 政府体制を作り上げることが基本であり,その中で,①のように陸軍卿・海軍卿に対しては天皇からみれば 特別な独自の補佐的役割を負わせるが,⑨のように政府が陸軍卿・海軍卿の軍事方略に関与(「督促」)する. ことを目的にしていた.つまり,大久保は戦争強行の「軍国」政府体制の下に,天皇に対する陸軍卿・海軍 卿の特別・独自な補佐的役割を包み込むという強力な専制的政府体制の構築を構想したのである. 7月28日の閣議は,大隈の「密議条件」をほぼ基本にして「宣戦発令順序条目」を決定した.その中で,. 新たに加えられたもので注目すべきものがある.(19)すなわち,①地方官に訓令を発し,士族を含めた取 締りを厳重にさせること(第4項),②旧参議であった西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助を天皇から速やかに 招集させること(第6項),⑨「天皇陛下大元帥卜為ラセラレ六師ヲ統率シ大坂へ本営ヲ設ケラルヘキ事」(第. 8項),④親王や大臣の中から「先鋒大総督」になって直ちに長崎にまで進軍すること,である.①は上記 岩倉の士族への武職付与の発想に対して,逆に士族等を警戒・統制の対象とする議論の中で決定され,②は 大久保のいわば挙国一致の政府体制構築の議論の中から決定され,⑨は天皇の権威による軍隊統率の具体的 な姿を示し,大坂に本営を設けることによって戦時・戦地・戦場の臨場感を高揚させる発想であり,④は倒 幕・戊辰戦争の武力行使軍隊の総司令官のイメージを重ね合わせたものであろう.. かくして,近代日本の最初の海外武力行使方針としての「海外出師ノ議」と「宣戦発令順序条目」にかか わって登場した出師の概念自体は,軍隊の戦時編成と動員の技術的な手続きと管理のみでなく,国家総動員・ 挙国一致体制の樹立,外交対策,戦争経費運営,天皇の軍隊統率の明確化,等を含みつつ成熟したのである. そして,これらの出師概念は,太政官のトップによって,たとえば,岩倉具視の思想・社会的対策(「愛国」 の情)や大久保利通の「軍国」政府体制確立の構想によってさらに包みこまれることになったといえる.. 51875年陸軍職制及事務章程と陸軍省の出師管掌規定の成立 (1)1875年陸軍職制及事務章程と出師業務の独占化志向の端緒化 1875年9月に江華島事件が発生し,朝鮮国との緊張が強まった(翌1976年2月に朝鮮との修好条約が締結). これより先,同年4月14日の官制改革で左院右院が廃され元老院と大審院が置かれることになり,正院の職 制章程も改正された.また,同年7月に正院の法制課は法制局に昇格した.元老院は将来の議会開設・立憲 体制採用方針に対応して設置されたものであり,各省も同年から翌年にかけて以上の官制改革に対応した職 制・事務章程の改正・制定をすすめた.. 陸軍省では,1875年11月25Rに陸軍職制及事務章程が制定された.これによれば,第一章では省内職務制 度を規定し(元老院会議への対応規定は第11,12条),第二章では所管官麻(参謀局,近衛,鎮台等)の職. 67.

(13) 遠 藤 芳 信. 制を規定し,第三章では奏講と制可を経て施行する事項(第55条∼第66条)と陸軍卿が委任されて専決・施 行する事項(第67条∼第80条)との区分を明記したとされている.陸軍省が陸軍職制及事務章程の起草・起 案をどのようにすすめたかは不明であるが,注目されるのは,陸軍省は原案として,①第一章の第1条を「陸 軍省ハ全国兵馬ノ大権ヲ統轄シ陸軍一切ノ事務ヲ管理スルノ所トス」と起案し,②第三章の第55条を「宣戦. 出師井地方戒厳ノ令ヲ下ス事」と起案したことである.(20)正院の法制局は陸軍省原案を調査し,10月8 日に,①の第1条における「全国兵馬ノ大権」云々の文言は海陸二軍を統率する嫌いがないわけではないと して,同文言を「陸軍省ハ陸軍兵馬二関スルー切ノ事務ヲ管理スルノ所トス」と改めた.法制局の調査・修 正は閣議で決定され,②も含めて裁可・制定された.法制局の調査・修正は当然であるが,陸軍省原案第1. 条は松下芳男が指摘するように「単に軍務の意味」にすぎなかったとみてよい.(21). しかし,この後,同年12月17日に海軍省が海軍職制及事務章程を起案して太政大臣に提出した.(22)海 軍省は上記陸軍省の②の第55条に対応したかたちで,その原案第17条を「宣戦出師ノ令ヲ下ス事」と起案し た.海軍省原案が法制局で調査された時,同第17条は問題があるとしてさらに同局との協議に付せられた. 法制局は海軍省との協議をふまえ,翌1876年5月25日の閣議に「宣戦出師ハ 天皇陛下ノ特権ニシテ決シテ 臣民二付与セラルヘキ者ニアラス畢克陸海軍省ハ臨機ノ詔勅ヲ奉スル為メ平時二於テ其事務ヲ整頓セシムル ノ所ナレハ右ノ条ハ陸海二軍共同シク削除侯方可然戎ハ之ヲ修正シテ宣戦出師ノ命ヲ奉行スル事トナスノ説 モアレトモ右ニテハ章程上款即奏講シ制可ヲ得テ施行スルノ意ニアラスシテ卿ノ職制中二列スヘキ者ナリ然 ルニ此事到底臨機ノ 詔勅二出ツヘキ者ナレハ之ヲ職制中二掲クルモ尚失体タルヲ免カレズ因テ陸海二軍共 石ノ条削除可相成」と報告し,原案第17条は第18条になり,その条文は「出師ノ事」と修正された.法制局 の報告と条文修正はそのまま決定され,太政官から同年8月31日に裁可・制定されたことが海軍省に達せら れた.また,同日に太政官から陸軍省に対して陸軍職制及事務章程第55条を「出師ノ事地方戒厳ノ事」と改 正することが達せられた.海軍省原案第17条及び陸軍省の陸軍職制及事務章程第55条に対する法制局の調査 ・修正は当然である.ただし,上述の1873年鎮台条例においては「天皇興戦ノ権」が規定されていることに. 対して,陸軍省がなぜ上記①②の文言をあえて起案・記載するに至ったかという理由を考えるならば,(23) 将来の立憲政体への対応があったといわなければならない.すなわち,元老院は立法機関としての活動は大 きく制約されていたことはいうまでもないが(「議定」にとどまるなど),陸軍省管轄の重要法律が成立する ためには,ともかく,重要法律案に関して,太政官官僚ではない元老院議官に説明しなければならなくなっ. たのである.(24)陸軍職制及事務章程第11条は元老院会議への出席を特に規定した.陸軍省は,この新た な説明責任は,特に元老院に対してだけでなく,世論・ジャーナリズム等に対してもゆるやかに発生したと 受け止めたとみてよいだろう.そして,陸軍省は自己の権限が天皇大権(統帥,宣戦・出師)と一体化され ているようにとらえ,元老院会議の議定に臨むことを意図したものと考えられる. ところで,1875年陸軍職制及事務章程において注目されるのは,上記②の第55条の「出師ノ事」である. 出師の用語は上記のように1873年在外会計部大綱条例において,戦時の軍隊例の現場における糧食補給体制 を準備・管理する特定諸官の職務関係との関係において登場していた.また,台湾出兵事件にかかわる閣議 決定にみられるように,出師は,太政官レベルの認識としては,国家総動員・挙国一敦体制の樹立,外交対 策,戦争経費運営などを含めた戦争遂行の総合政策的内容を意味していた.したがって,出帥の主管・主務 機関は特定省庁に想定・限定されていなかった.これに対して,1875年陸軍職制及事務章程に出師が規定さ れたことは,第一に,戦時の軍隊側の現場における糧食補給などの特定職務関係の特記的位置づけにとどま らず,陸軍省全体の職務制皮内容として格上げされたことを意味し,第二に,戦争遂行の総合政策内容を含 む肘師(及びその準備と計画,そして同準備・計画遂行にともなう経費運営や思想・社会的対策の構築も含 む)に対する陸軍省の独占化志向の端緒性を示している.ただし,この場合の出師は,陸軍省においては,. 68.

(14) 口露戦争前における戦時編制と陸軍動員計両一思想(2). 軍隊の諸兵力を平時態勢から戦時態勢に移すことの技術的な管理運営として狭く把握されていくことにな る.これは,1880年代以降にさらに明確化される. (2)陸軍省編『軍制綱領』(1875年)における戦時対応記載. 1875年12月に陸軍省から『軍制綱領』が刊行された.(25)本書に付けられた陸軍卿山県有朋の「緒言」は, 「有朋庚午ノ歳,兵部ノ重職二服シ,叉忙ヲ陸軍卿ノ職二承ケ,諸将校卜議シテ上古ノ制ヲ掛酌シ,泰西ノ 式ヲ取捨シ,天裁ヲ講テ陸軍ノ制度ヲ略走セリ.」と指摘し,古代の軍制に関する研究をふまえつつ陸軍の 制度概要をまとめあげ,「軍制綱領」として刊行すると述べた.『軍制綱領』は,第一編が陸軍武官階級や陸 軍省・学校・鎮台・近衛・検閲使・軍法会議等,第二編が陸軍軍管区城・陸軍配置区域・常備軍編制・徴兵,. 第三編が陸軍会計経理,から編集されている.以上の『軍制綱領』の編構成は,軍制の基本的な枠組みの論 理に関する陸軍省の(初めての)説明方針を含むものとして極めて注目され.つまり,軍制の基本的な枠組 みは,兵力の編成・配置と兵員供給の考え方(第二編),その兵力の編成・配置及び兵力行使等を統轄・管理. する官街・機関の考え方(第一編),その兵力の編成・配置を運営・維持するための財政や経費執行等に関 する管理と会計経理の考え方(第三編),の論理関係から説明されうると認識されていたことは明確である.. 『軍制綱領』における軍制の基本的な枠組みの論理に関する以上の説明方針は当然であり,本稿では戦時業 務を考察してきたように,戦時における鎮台の兵力の編成・配置のありかた,その戦時兵力の編成・配置等 を管轄・管理する陸軍省と参謀局の戦時業務のありかた,その戦時兵力の編成・配置を運営・維持するため の財政・経費執行等に関する管理のありかた,という論理関係に沿って説明されることになる.. ところで,『軍制綱領』はもちろん平時の軍制を基本に編集している.そのなかで,戦時への対応に関し てまとまった記述をしているのは第二編である.第二編は,国内陸軍軍管区城(軍管・師管)・陸軍配置区 域(鎮台所管府県)と鎮台への常備兵配布(歩兵連隊等の配置・駐在等)を示した後,①軍管は戦時にほぼ 「一軍」を興すに足る兵員供給区域,師管は戦時にほぼ「一師」を興すに足る兵員供給区域であるが,平時 に軍管に「軍団」を置き,師管に「師団」を置くという意味ではなく,②そもそも,軍団は大将が,師団は 中将が,旅団は少将が統率し,戦時の兵員数の5万人から6万人余はおよそ2軍団編成に相当するものであ り,⑨したがって,「出征行革ノ期」においては,広島鎮台兵を熊本鎮台に,名古屋鎮台兵を大坂鎮台に, 仙台鎮台兵を東京鎮台に統合し,それぞれ「一師団」に編成し,かつ近衛師団を加えて「全国四師団」の兵 員になるとした.そして,さらに,「平時戦時兵額表」と「第二後備軍人員表・国民軍人員概算表」を示し,. 平時より戦時に移る時の手続きの大目として,①諸兵隊の編制は「戦時ノ定人員二増加スル事」,②後備軍 の編制並びに諸城壁の兵備を設けること,⑨戦地給養方の手順を定めること,④軍用の舟車・馬匹の準備を すること,⑤退職将校であっても自ら従軍を願う者は後備軍に編入することを記載した.ここで,①は戦時 の諸兵隊編制の組み立て方を示し,戦時の定員・人員に対応した官員・職員等の増加を想定しているものと 考えられるが,その内容は不明である.なお,「第二後備軍人員表・国民軍人員概算表」における第二後備 軍人員は合計2万960人であり,国民軍人員は合計約676万人である.上記の1875年4月改正の「六管鎮台表」 では全国の石高合計ともに全国人口合計3300万8430人が明記されたが,国民軍は全国人口の約2割弱とされ ている.総じて,兵力編成の戦時への対応は,平時兵力(兵員)の量的増加を基本にしたものであり,給養 等の輸送と会計経理が加えられるものであった.. 注 (1)1873年鎮台条例においてなぜ検閲使職務体制と将校進級決定手続きが合体されたのかについては,将校の人事政策からも 独白な検討を必要とするが,ここでは,同年5月2日の勅旨によって制定された太政官職制章程との関係を検討しておく.. 69.

(15) 遠 藤 芳 信 太政官職制章程中「太政官正院事務章程」は,「凡ソ勅任官ノ薦挙免瓢ハ辰断二山ルト雛モ必内閣議官二諮り太政大臣之ヲ 輔賛シテ進退ス凡ソ奏任官ノ進退ハ其所轄ノ奏聞ニヨルト雛モ必内閣議官二諮り太政大臣之ヲ処置ス」と,文武の勅任官・ 奏任官の進退全体を内閣議官の審議を経るものと規定した.当時,1872年1月20Rの太政官官等表によれば,兵部省は,. 兵部卿1等,兵部大輔2等,兵部少輔3等,陸軍大将2等,陸軍中将3等,陸軍少将4等,陸軍大佐5等,陸軍中佐6等, 陸軍少佐7等,陸軍大尉8等,陸軍中尉9等,陸軍少尉10等とされた(海軍の大将∼少尉の官等も陸軍と同じ).そして,. 同官等表において,3等以上が勅任官,4等から7等までが奏任官,8等以下が判任官とされたが,余白蘭に陸海軍少将 は「奏任トス」と記載された.以上の陸軍武官の官等表(その後に改正等がある)の勅任官・奏任官の進退は内閣議官の 審議を経ることを規定した「太政官正院事務章程」に対して,陸軍少輔西郷従道と陸軍中将山県有朋は同年5月5日付で 太政大臣三条実美に上巾書を提山した.そこでは,「勅奏官進退規則ノ如キ武臣ハ文官卜一例ナル能ハス文官ノ如キハ維新 以来率ネ1日套ヲ廃シ上ミ公選ノ法ヲ用ヒ下モ自由ノ権ヲ得故二筍モ其人ナランカ朝二一魚売タリタニ特技ヲ以テ勅奏任官. 二拝スト雛モ怪ム可キニ非ス是時宜ノ然ラシムル者ナリ唯武弁ハ則然ル事ヲ得サル者アリ西洋各国ノ制武官ハ上下ノ分厳 ニシー級ノ差モ戚権過カニ異ニシテ下モ兵卒ヨリ上ミ大将二至ル迄其人材ノ如何タルヲ論セス逐級歴進二非レハ昇進スル ヲ許サス其年功ヲ論セスシテ専ラ抜擢ヲ用ユルモ必ス最下級限ノ定期ヲ越ルニ非サレハ之ヲ登用セス是則チ彼ノ諸国卜雛 トモーニ亦我封建武門ノ法卜冥ナルナシ唯世襲ノ権ナキヰ(中略一遍藤)夫所謂十官ナル者ハ少小ニシテ武学二人り専. ラ武事ヲ講シ他ノ制産ノ迫ヲ知ラス畢生此二従事シテ己マント欲スル者ナリ故二一夕ヒ兵籍二人レハ終身ノ業ニシテ帰休 スト雛トモ猶将校ノ称号ヲ有ス是武官ノ以テ文官卜異ナル所ナリ然ルニ今此分ヲ論セス文官卜一律同視シ概シテ勅奏ヲ以 テ別ヲナシ其瓢渉一二内閣ノ商議二決シ部臣其決二与力ルコトナク部内ノ例案二参スルコトナキ時ハ武臣タル者亦何ヲ侍 シテ以テ縄勉生命購ケ奉事スルノ志アランヤ是不可ノ大ナル者ニシテ恐クハ兵制ノ其本二於テ害タル鮮少ナラサラン請フ 武弁進退瓢渉ノ例ノ如キハ別二定則ヲ立テ唯勅奏任官ヲ以テー体二波及スル事無力ランコトヲ」と,文官と区別された勅. 奏任武官の進退手続きに関する新たな規則制定を要望している(国立公文書館所蔵『公文録ご1873年7月陸軍省伺第7件 所収).また,武官の瓢渉を陸軍部内で決定することなく内閣の審議に付することに対する批判を展開した.つまり,西郷 従道と山県有朋は軌奏任武官の進退瓢渉の手続きは,内閣の審議関与から独立した独自な規則にもとづきすすめられるべ きことを強調したのである.山県有朋等の上巾書は武官の奉職は特殊であるという理由のもとに(「終身ノ業」「生命購ケ 奉事」),将校人事政策・武官服役体制に対する一種の特権的な「軍部独立論」を展開したことになる.そこには,自ら「生 命購ケ」,終身において牝を覚悟して勤務する兵籍者・武官に対しては,彼らの「生命購ケ奉事」に報いるような特別な将 校人事政策(内閣の審議関与から独立した軍隊内部における「自由」な進退手続き決定の重視等)がなければ「兵制ノ基本」 が立たないとして危機認識を強調しつつ,将校人事政策・武官服役体制への特権付与を「合理化」する思想が含まれていた. これに対して,5月18日の閣議は庶務課の意見(「官員ノ進退其能否勤惰ヲ審監スルハ勿論武弁逐級歴進等ノ情内モ尤ノ筋 二相聞候得共奏任以上之儀ハ必ス決ヲ仰クヘキ事」)を指令案として起案しつつも,指令には及ばないことになった. (2)1874年11月30日改正の歩騎砲⊥蛸壷兵編成表における「歩兵一連隊編制表」は,国立公文書館所蔵『太政類典』第二編第242 巻第4類兵制41止雉,第8件所収,を参照.ただし,「歩兵一連隊編制表」は1875年7月引き換えのものと同一である. (3)挙が寺の下十の補充と服′役(一般兵員を対象にした予備′投下十の供給体制等)の体制構築は1880年代にすすめられることに なる(拙著『近代日本軍隊教育史研究』64∼67頁,1994年,青木書店,参照). (4)現在の筆者は,当時の欧州軍隊の戦時病院の傷病兵収容比率については正確な数値を調査していない.ただし,欧州軍隊 の挙即寺の要塞病院収容傷病兵については要塞戊兵全員の八分の一の比率を想定していた(拙稿「近代日本の要塞築造と防 衛体制構築の研究」18頁,文部科学省平成13∼一15年度科学研究費補助金基盤研究(C)(2)研究成果報告書,2004年3月,参 照). (5)内閣記録局編『法規分類大全ご 第46巻,兵制門(2),陸海軍官制二,581頁,1977年,原書房復刻(原本は1890年). (6)国立公文書館所蔵『公文録ご1874年6月陸軍省伺,第13件所収.なお,陸軍省において,参謀局を陸軍行政から分離させ たのは,桂太郎の建議によるとされている(宇野俊一校注『桂太郎自伝』82頁,1993年,平凡社東洋文庫). (7)「節度」には,古代において将軍が山征するときに天皇から授けられる太刀・旗・鈴などの意味もあり,同太刀などが象 徴する(天皇からの)武力行使の委任の主旨もないわけではないが,当時の津田山などの陸軍省上層部が「節度」にそれ らの意味を含ませようとしていたかについては不明である. (8)陸地測量部編『陸地測量部沿革史』4頁,1922年. (9)勝田孫弥『大久保利通伝 下巻』282頁,1911年.台湾山兵事件の発端は,1871年12月に琉球の人民が台湾南端に漂着し たところ,現地の先住民に殺害されたことに始まり,台湾現地の先住民に対する「問罪」や台湾領有などを含む台湾山兵 論が登場するようになった.他方,参議兼内務卿大久保利通・参議兼大蔵卿大隈重信と陸軍大輔西郷従道らの主導性によっ て強行された近代日本の最初の海外武力行使事件としての台湾山兵事件は,戦前では「征韓論■亡者の怨霊慰めの一時的方 便にすぎなかった」(徳富猪一郎『近世日本国民史 90 台湾役始末篇』54頁,1961年近世日本国民史刊行会,1943年脱稿). 70.

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