農村の子供と女性の戦争体験と技能習得(4)
一太平洋戦争前期の食料生産一
永 島利 明*
(1995年5月31日受理)
Wemen s and Children s War Experiences or Acqusition of Skills in Rural Communities
(Part 4): Production of Agriculture during the early day of the Pacific War
Toshiaki NAGAsHIMA
(Received May 31, 1995)
何が食糧不足の原因か
第2次世界大戦中の食糧不足は,1941年の米,英,中国,オランダのいわゆるABCDラインに よるものといわれることがある1)。確かに,これらの国によって経済封鎖によって,肥料や燃料が不 足したことも大きいが,そればかりではなく,農民が大量に徴兵されたことにあるのではなかろう か。それも1931年の満州事変,1937年の日中の全面戦争は,日本が引き起こしたものであった。そ れを明確にすべきであろう。徴兵が労力不足の理由であることは,農繁期に農家出身の下士官や兵 隊に米を収穫のため,休暇を与えたことでも明らかである。1939年11月11日陸軍は東北,北海道に ある農家出身の下士官と兵隊に対して,新米の出回りを促進するため,休暇を与えた2)。
ABCD体制も最初から強固だったわけではない。オランダは石油を200万バレルを日本に輸出する と約束していたのに,国内でオランダが日本の圧力に屈したと発表したため,オランダは石油を禁 輸にしたという事実もある。もし,日本が誠実に対応していたならば,また,違った打開の仕方が あったかもしれない。しかし,軍国主義に酔っていた日本には,それは望むべきもなかった。
すでにユ938年6月9日には校庭,農場,農園の作業,徴兵された軍人の遺族や家族に対する農事,
家事などの手伝いなどの集団勤労作業を要求していた。その後も農学校の夏休みの実習などの通達 を出していた。しかし,それは文部省の通牒によるもので,実際はかなりの学校で農耕に必要な作 業をしていた。(なお,この(4)ではおもに1941年から1943年までを前期として研究対象とした)。
一方,婦人団体も食料確保に乗り出した。女性団体が連絡組織した食料生産全国婦人団体協議会は 1941年2月26日丸の内の帝国農会で役員会を開いた。井上秀子(桜風会),吉岡弥生(日本女医会),
ガンドレット・恒子(矯風会)などの各団体の指導者が出席して開催された。その結果,東京から食 料増産をしょうと3月10日までに利用できる空地を調査し,さらに適当な時期を種蒔き運動と定め て,豆類・野菜・じゃがいもの種をまくことになった。東京市内で300人の栽培の指導者を養成する
*茨城大学教育学部技術科教育研究室(予310水戸市文京2丁目1番地;Laboratory of Technology
Education,lbaraki University,Mito,lbaraki 310 Japan).
24 茨城大学教育学部教育研究所紀要第28号(1995)
ための講習会をすることになった。さらに4月には伊勢神宮の参拝,(満蒙開拓義勇軍の)茨城県内 原訓練所の実習を日程にいれた長期の講習会を開くことになった。また,「空地利用は子供の遊び場 を奪う」という非難にはどしどし子供を栽培に参加させ,土にひたしむようにさせ,心身の訓練を しょうということになった。しかし,この協議会がどんな役割を果たしたかは,あまり報道はされ なかった3>。しかし,都会の中等学校の例はかなりニュースとなった。
1939年5月に設立された空地利用協会は,東京の旧制の中等学校の男女生徒に土にひたしむ機会 を与えて,体位向上をはかるとともに,資源愛護の観念を普及徹底するため,設立された。理事長 は岡田知事であった。しかし,実際の活動は農作物を栽培することであった。9月には農地の契約面 積は53ヘクタール,参加校は50余校に及んだ。参加校は府立の中学校,高等女学校は言うまでもな
く,海上,独協,大壷など現在も残っている旧制の中学校,高等女学校が最低1200坪から4000坪の 耕作や開墾をしていた。それだけでは足りず,河川敷の開墾による農耕が行われた4)。
例えば,1940年東京第2高等女学校と東京女子師範の女学生350人は江戸川河床の報国農場で空地 利用の勤労作業を行った。その編成の仕方は軍隊式で校長が部隊長,教師は中隊長,小隊長,生徒 50人を1個小隊として,1個小隊はさらに3分隊に別れ,各分隊には赤の腕章を付けた生徒の分隊長 が指揮していた。(この軍隊的な組織は1941年3月からは学校報国隊という名前が付けられた)。作 業は草刈り,砕土,整地,除草,収穫iなどで40分作業をし,20分休むという形であった。日中戦争 の前半は農村やその周辺の学校だけの勤労奉仕であったものが,食料の獲得は,もはや大都市におい ても避けられないことを示していた5)。
「自分で食べるものは自分で作る」
1941年1月16日には大政翼賛会は全国府県の総務課長,農会幹部,農林省岸畜産局長,文部省関 口実業学務部長,厚生省加藤衛生局長,翼賛会側では全国から幹部約180名を集めて,戦時食料確保 協議会を開いた。その結果,農業生産の手不足を学生生徒の大規模動員で補うこと。小学校児童の
田植や収穫期に休暇を与え,それを動員すること,女子学生を主体にした食料確保に動員して国民 食節米運動をしこれに伴うゴミの利用運動をすることを決定した。これを全国9ブロックの翼賛会支 部に持ち帰り,支部でも会議をし,徹底することになった6)。
上に書いた東京の方法が全国的に拡大され,:翼賛会の決定が公認されたのは,1941年2月8日の文 部省通牒「青少年学徒食料飼料等増産運動実施二関スル件」であった。この通牒が出る以前に既に その内容は報道されていた7}。それは農林省と文部省の協議によって作られたものであった。全国の 1000万人の小学生から大学生までを動員して,食料増産をすることを計画していた。休暇や祭日を 利用して年間100日以内動員し,その目標を達成するというものであった。そのことにつき鈴木農業 教育課長は次のように話していた。
現在学校休業日数が150日ある。この休業日数のうち,約5,60日を勤労作業に奉仕させる。さうす れば教育の質を低下も来たさずに,時局認識を実践教育によって体得せしめることができる。これ からの学徒はまず自分の食べるものは,自分で作るという位の強い自覚がなくてはならない。
2月8日の文部省通牒「青少年学徒食料飼料等増産運動実施二関スル件」は文部・農林の両次官に
よって各地方長官,大学及び専門学校,青少年団にあてて通知されたものであった。勤労の時間を 授業時数とみなし,1学年を通じて30日以内は授業を勤労に振りかえてもよいとしていた。また,学 校ではできるだけ直営の農場を設けることを指示していた7)。この食料動員には大学は含まれていな いが,大学が独自に農場を設けたり,勤労奉仕にいくことができるようになった。また,動員を組 織的に行うため,府県や学校に動員組織を作ることを指示していた8)。
「青少年学徒食料飼料等増産運動実施二関スル件」
〔方針〕・・青少年学徒をして国策に協力せしむるをもって,正課に準じ取扱ふこと
〔実務内容〕 (イ)学校が食料生産に関し関係期間より労力の援助を求められたときは,速やか に学徒を動員して,所要の勤労作業に従事せしむること (ロ)学校は可能なかぎり直営の農場を設 定し,これに学徒を動員して,食料増産に従事せしめること (ハ)農繁期その他必要ある時は授業 を廃し自家農業に従事せしむること
〔実施日の取扱〕(イ)本運動を実施するため,成るべく作業日または放課後の時間を充当するの他,
必要に応じ授業日または授業時間を勤労作業に振り替ふること(の一学年を通じ,三十日以内の日 数は,授業を廃し,勤労作業に振替るも差し支えなきこと(ハ)勤労作業に振替へたる日数,または 時数は,これを授業したるものと見倣すこと(二)青年学校の場合は,規定の授業日数が少ないため,
授業時間に関し,以上各項とは別個に取り扱ふ(昭和十四年十二月二十日発社会教育局三九二号通 牒による)
〔作業種類その他〕(イ)開墾,土地改良,麦刈,田植,草刈,除草,麦調整,稲刈,耕運,堆肥の 造成または収穫物及び肥料の運搬等,食料並びに資料の増産に最も関係深きものを選択すること
(e)労力不足のため荒廃せんとする土地,または未墾地,休閑地等を活用するに努むること(ハ)府県 及び学校に食料増産に関する学校動員組織を幽くること
これだけの生徒を動員するのに,予算が全くなかった。この点については係官も悩んでいた。農業 経験のない生徒に稲刈りをさせると,鎌を振り回し,稲の穂を落とし,桑をつませると新芽を積む という状態であった。係官は「都会の生徒は荒廃地の開墾,防空壕堀,除草等単純な作業を割当て るべきだが,東京や大阪には目ぼしい土地や作業場なない」と嘆いていた。地方に出かけるには相 当の旅費が必要であった。学生にその都度旅費や弁当代を出せなかった。また,農具は農家から借
りることになっていたが,これも十分ではなかった9)。
しかし,それも初めの年だけで,1942年になると,生徒はかなり上達していた。東京空地利用協 会の運動によって760ヘクタールの野菜畑が出来たが,1942年7月12日に渋谷の実践高女で野菜の展覧会 と即売会が開かれた。出品されたのは都下の83校の生徒が栽培したものと,各空地利用農園から持 ち込まれたものでジャガイモ,キウリ,トマト,ナスなど本職のお百姓さんも顔負けの出来ばえで あった。展覧会場にきた人も立派な野菜が生徒によって作られていたことに驚いていた。このうち ジャガイモ6000貫,キウリ3000貫,トマト1000貫が即売された。しかも市価よりも安かったので,
主婦も大喜びであった10)。
26 茨城大学教育学部教育研究所紀要第28号(1995)
東大にも農場の計画
作業の種類には主食の米麦を作るための農地の開拓であった。1941年1月22日の閣議において決 定した「農村が最モ優秀ナル兵力及労力ノ給源地鼠ル現状二鑑ミ・。内地人ロノ四割ハ農業二確保ス ル」と定め,また,1942年6月24日の大東亜建設審議会が決定した「大東亜ノ農業,林業,水産業 及畜産業二関スル方策」は「主要食料対策ハ大東亜ヲ通ズル自給確保ヲ図ルjと定めていた。ところ が戦争が進むとともに農地面積と農家個数は減少した。1940年の農家戸数は1936年と比較すると,
12万戸の減少となり,そのうち純小作農家は41%,自小作兼業農家33%,合計74%であった。このた め農林省は自作農の創設を目指すようになった。41一・45年に農地の開墾を50万ヘクタールすること を計画したlD。しかし,それより早く食料不足が進み,開墾が進んでいた。東京空地利用協会に参加
した50校のうち12校が開拓をしていた。開墾は地方のほうが遅かったかもしれない。
例えば,茨城県は2月8日の通牒により指導要綱を決定して,国民学校,中等学校,青年団に指令 をした。各学校では直営の農場を作り,僅かの土地も開墾し,主要農産物を栽培するほかに病虫害 の一斉防除,自給肥料。飼料の増産,軍用乾草の調整,養畜,養魚などを実施し,増産を目指してい た12)。これに応じた実践がみられるようになった。
茨城県猿島郡長田村では男女青年団,国民学校の児童が「勤労道場」を作ることになり,水田2アー ルをあて,田植の共同作業をした。1アールは青年団,他は児童が担当し,耕作した。その収益は村 の施設費に当てられた。2月8日の通牒を出す前の勤労教育課長の話では「自分の食べるものは,自 分で作る」と言っていたのに,実際は自分の口には入らなかったのであった13)。
開墾作業は各地で大規模に行われるようになった。学校の生徒会は軍隊式の学校報国隊に組織され,
小隊ごとに競争するような形で行われた。国の開田,開畑事業に協力して学徒の動員が行われた。茨 城県では鹿島郡軽野村,東茨城郡鯉淵村,同河和田村の開拓地が労力不足のため,学徒の勤労奉仕 を求められた。この開墾には1942年4月1日から6月1日まで延べ1万7400人という大規模なもの で,水戸農業学校,青年学校教員養成所,茨城師範の学生等が1週間合宿をし参加をした。14)。
国民学校や青年学校の生徒も開墾をしていた。例えば,茨城県西茨城郡食料増産協議会は青年団関係 者が集まり,神撰田の経営,報告農場の経二営(単位団ごとに3反歩を標準とする),自給肥料の増産(共
同作業により能率の増進をはかる),軍需用品の毛皮の増産(団員一人一兎以上の飼育,労力奉仕の徹 底,病虫害の一斉防除を全員一致で決めた14)。西茨城郡は笠間稲荷のあるところで有名であるが,開 墾を行った。笠間国民学校は2アーIしの土地を開墾したが,1アールを国民学校の高等科の児童が粟と陸稲 を,他の1アールは青年学校生が陸稲の栽培のため耕した。3アールは自分の家でも農業をしている青少年に は困難であったかもしれない。3アールは努力目標であったのであつであろう15)。
東大は食料増産運動に応じて,千葉県検見川にあった総合運動場30ヘクタールの大部分を農場に 変更し,農業をすることになった。その事業計画では,農場ではさつまいも,じゃがいも,トウモ ロコシを栽培し,裏作には麦を作ることになっていた。同地には120名を収容する寮があるが,土曜 から日曜にかけて,毎回300人が出動,夏冬の休暇中にもするようになっていた16)。
筆者が農学部に在学中都会の出身者は「戦争中農村には食べ物が豊富であった」と言うことをよく 聞いた。あるところにはあったかもしれないけれど,すべてがそうであったといえば大きな誤解で ある。それでは農村の子供はどのようなものを食べていたのであろうか。1941年10月茨城県結城郡 安静村国民学校の校医内海俊雄氏は全校897人の児童について弁当調査をしたところ,弁当を持参し
なかったもの130名(昼食抜き14.5%),白米食60名(6.7%),麦混食707名(78.8%),おかずのない者11 名(L2%),魚肉類はほとんどなく他は全部香の物といった状態であった。同医師の住んでいる部落で は毎日弁当調査をしたが,これも同じであった。これは農村が粗食に耐えている状態を示していた。
同氏は子供の最低栄養を目指し,村に学校給食をするように交渉したID。茨城県は1941年度には国 民学校97校,水戸市立高女,男子師範,付属国民学校が給食をしていた。しかし,この村は貧しい ために,給食ができなかったのである。しかし,1942年2月20日から味噌,醤油が配給になり,給 食は困難になった18)。
「米の心配は無用」
このように農村で子供や青年が食料を生産しなければならないで苦闘していたのに,1942年3月 26日の朝日新聞は吉田丹一郎ハノイ総領事の談話として「もう米の心配は要らぬよjと「心から愉 快そうに・・穿る」と報道していた。その理由は(現在のベトナムの)「仏印側との協定もつき,米が昨 年の2倍も取れることになり,・・船もこのため,配給(船)になることになった。うれしいことです よ」と報道していた19)。このような記事を報道するほど,一部の新聞も農村の事情に無頓着になって いた。とくに朝日新聞の東京版は42年の4月から6月までの農繁期に農村の事情なにも報道してい なかった。この頃の朝日新聞社も戦争のはじめの一時の勝利に酔っていたのではないか。
下館高女の飯沼きよ子は「アジアに国々に如何に多くの物があったとしても自給自足のできぬ国で は瑞穂の国として名ばかりの国になってしまふ」として,勤労奉仕に励んでいた20)。子供よりもこの 記事を書いた記者の食料の認識は低かったのである。彼女は体験記で,作業の苦しさを書いていた。
(はじめの麦刈作業を終わり,次の畑に移り)r暑い』そこにどっかり座ってしまい,でもこれく らいでと思ってやった,然し刈る力も弱り,足が痛む,ああもう刈ることが苦しくなってしまった のだ。隣の下級生も刈った麦のうえに腰を下している。私もとうとう腰を下してしまった。
・・家に帰れば,母もr大変だね。豆を出してまで,つぶしてしまい」とおっしゃる。この豆をつ ぶすことはたいしたことはないが,なんとはなしに残しておきたかった。この豆が思い出のたねと
もなり,思い出の体験のしるしともなるだろうから。・
また,枝川国民学校初等科5年の郡司清枝も麦刈のことを書き残している21)。
・・。から出征軍人の麦刈りをやるのだ。まだ,うまれて一ぺんもやったことがないことをするのは うれしいものだ。・・生徒は全部で八人いるが,先生が一人いらしゃるから九人である。・・私ができ ないので,見ていたら,出征軍人のいえのおじさんが教えてくれた。そして私のかまがあんまりき れないので,別のかまと取りかえてくれた。私は研ぐのを忘れたのを急にはずかしくなった。私も 刈り始めた。・・間もなく半分も終わった。(食事後)そろそろ始めたが・・「あ,痛い」とうとう手を切
ってしまった。間もなく手の血もとまったようなので,やりはじめた。
都会の真ん中で編集をしていると,見逃してしまうこともあるかもしれない。しかし,さすがに朝 日新聞社の4月17日の記事では重政農林省総務局長の「米穀楽観は禁物」という記事をのせていた。
28 茨城大学教育学部教育研究所紀要第28号(1995)
局長は1942年は需給のバランスは取れるものの,戦争が長引けば,「ビルマ,タイなどでは資材及び 労力その他の制約を受ける。。硫安の供給(平年四,五十万トンを英,オランダ,独などより今後全然 来なくなる関係を考慮すれば),生産の減少を来すことは当然予定せねばならぬ」という警告を報道
していた22)。
農林省は日本が連合軍の空襲があることを予想して,「野菜自給圏」を設定した。その目的は長期 戦のもとで国民に新鮮な野菜を供給することであった。農林省は長期戦に備えて全国の主要都市に 米,乾パン,乾メンや非常配給用の食料品や缶詰を分散貯蔵をし必要な場合には家庭に配給できる ように準備を始めた。また,空襲になり,輸送ができなくなることを予想して都市の近郊で野菜の 生産と確保のため,野菜自給圏を設けた。その都市は東京,横浜,名古屋,京都,大阪,神戸,広島,
呉,下関,宇部,北九州五市,福岡,長崎,佐世保の重要都市とその隣接府県であった。六大都市 と枢要都市は周囲32キ。,その他は20キロを指定した23)。
東京では千葉市,大宮市,八王子市を含む圏内の町村を指定,栽培種類数量,季節を割り当て大 根,漬菜,キャベツ,キウリ,ナス,トマト,玉葱,人参,ごぼう,里いも,かぼちゃ,ほうれん そう,えんどう,いんげん,そらまめ,ねぎの大衆的な必需品を農家に生産させ,これまで季節に より出回り期と冬枯期があり,その時に波があったのを農会が中心になって季節による栽培品種や 数量を割り当て,輪作の徹底により,その都市の約8割を供給するというものであった。これと並行
して市街地の空地利用も本腰を入れ技術的な指導をし,農会を利用し,種や 苗の計画的な配給を計 画した。
農林省が自給の方針を打ち出す前にすでに,自給を始めた学校もあった。例えば,長野県松代国民 学校では冬の間の給食に使う食用油を自給するため,校庭や子供の自宅にひまわりを植えさせて,そ の実を集めたが,二石五斗集まったので,これを業者に依頼して製油したところ2斗の油ができ,おお ようびをした。このことは食料については自力で確保しなければならないという認識があったこと を示している24)。(なお,一石は尺貫法による容積の単位で10斗で約180リットルである。斗は升の10倍
である。升は1.8リットルである)。
高等女学校の生徒の活躍は,1941年までは共同保育,共同炊事の記事が多かった。しかし,42年度 からは,農作業に参加した記事が新聞に報道されるようになってきた。つまり,42年には多くの女学 生が共同炊事や共同保育のような女性の特性と言われた仕事だけをしているのではなく,農業生産 の田植,稲や麦の収穫iに参加し始めた。例えば,茨城県立土浦高女は農繁期には生徒1000人が勤労 奉仕に派遣されていたが,そのうち180人は自転車隊として活躍した。そのため毎週1回放課後運動 場に出て整列し,予行訓練をした25)。1943年には水海道高女がこの方式を取り入れた。4キロ以内の近
いところは徒歩部隊がそれ以上の遠いところは自転車隊に分けた。田植,除草などに取り組んだ。中 でも自転車隊は快速を利用して村から村へ「ゲリラ」のように活直し,農民に上流階級の女学生が このように参加したとして感謝された。女生徒は通学に危険があるとみられ,寄宿舎にはいるものが 多かったが,食事は自給自足が建前であったから,農作業に慣れているものもいた26)。
一方,男子生徒は迷惑がられる者もいた。農家の準備も不十分なところもあったが,せっかく勤労奉 仕に出た生徒が畑のそばにただぼんやりと立っていただけで,無気力だと批判されるものがいた。旧 制中学の生徒は裕福な家の出身のものが多かったから,勉強はできても家事労働すら経験したことが なく,何をしたよいか分からなかったのではなかろうか27)。
女子黎耕隊
農村の男子の出征による労働力不足を補うため,畜力利用政策が押し進められた。茨城県では1939 年県農会が1939年に黎耕講習会を開いたものが最初であった。黎耕(りこう)とは牛馬を使う耕作を いう。1941年から43年にかけて特に女子の牛馬耕の普及が進められた。各郡,各村でその講習会が 開かれた。例えば,西豊田村では41年に婦女子による無角牛の飼育とその農耕利用運動が推進され た。西豊田村は1936年の経済更生運動のなかで無角牛を山口県から導入しており,その点では茨城 県の先進地であった。続いて1942年忌は男女青年を対象に畜力利用講習会を開いて,牛耕の普及に 勤めた。戦争が長引くにつれて牛耕は重要になり,川西村では43年に県農会から男女の黎耕の指導 員を招いて1週間の女の黎耕講習会を開いた28)。
一部の町村には女子黎馬添が組織されたが,有名なものは,関本町女子点図隊であった。この隊は
「女子青年団及畜力利用作業二従事スル女子ヲ以ッテ組織ス」とあり,「相互二切瑳琢磨シ自ラ技術 ノ感冒向上二心ミ労力肥料ノ不足ヲ克服シテ食料増産ノ完遂ヲ;期ス」にねらいがあった。1943年4月 22日の朝日新聞には「女子黎耕隊生る」と書いていたが,県下農家10万戸のうち牛馬所有は約8万 戸であり出征した男子に代わって農村で働いていた約5000人の女子摯義者を組織する目論みに対応
したものであった29)。
当時の関本町には牛は,40年には336頭,16年338頭,47年329頭,馬は40年95頭,41年92頭,
42年76頭であった。馬の減少は軍用馬として徴発された影響であろう。牛の場合は2頭飼育戸数が 多かったが,馬は殆ど一頭飼育が多かった。田中ミツは兄の出征で高等小学2年掛(現在の中2に当 る)から「女でも出来る」と馬を使いこなすようになった。父は明治30年代から畜力の利用を始め,
すき耕のパイオニヤであった。夫も出征し女ばかりが労働力となってしまった。食料生産が要求さ れて,金肥不足で自給肥料を作ることをしなければならなかった。馬は徴発され,牛や馬の飼料も 手に入らなくなっていった。
ミツは隊長猪瀬武蔵(町長,農会長)から指導員を委託された。1943年のこの隊には役員として女 は伊藤ふじ一人しかいなかった。他の役員は助役,青年学校長,同教諭などであった。結成時の女 子隊員は282名で,このうち142名が完全に牛馬を駆使」でき,140人は「未熟であるが,とに角一 応の手綱さばきができる」という状態であった。労力不足で1939年から県農会主催の女子黎耕講習 会に参加してしたので,茨城県で最も早くから畜力を利用できるようになった。この隊の参加者は 16歳から25歳くらいであった。部落ごとに女子の畜耕班を組織し,作業の能率を高め,出征農家の 耕運,砕土,整地の労力奉仕を行っていた。
1943年7月10日日本馬事会主催,農林省後援による関東1都8県馬利用水田中耕除草大会が長野 県で開かれた。男女45名が参加したが,女子部1等は田中ミツであった。関本女子黎耕隊は慰問の 演劇も行った。脚本は出征兵士の家庭を扱った者が多かった。
茨城県は1944年に女性,子供を主体とした農耕の畜力化をめざし初年度は人力作業の3分の1の 畜力化をし,労働力を2割節約,2割増産を,2年度は2分の1の畜力労力5割節約,生産の1割増強 を計るというものであたが,しかし,これは実行不可能な計画であった。しかし,このような計画 を立案したうらには女子黎耕隊の活躍があったのであろう30)。
30 茨城大学教育学部教育研究所紀要第28号(1995)
だまされた農民
この時期の子供も日中戦争の時代と変わらず,肥料を作ることをしなければならなかった。例えば,
山形県天童小学校高等科1年の男子約100名は従来捨てておかれたごみを肥料として集めた。このゴ ミを堆肥として使い,空き地を使い,食料を生産した31)。しかし,空き地が広く利用されるようにな ると,こうしたことは普通に行われるようになり,ニュース価値がなくなったためか,あまり報道 されなくなった。しかし,農民は肥料が欲しいことには代わりはなかった。
農民は食糧不足に困っていた。1942年忌政府から耕作面積に応じて金肥を配給するから,耕作面 積を具体的に書き出すように指示された。農民は喜んで,中にはすでに荒廃地となっているところ や極端なやせ地をも書き上げて,肥料の配給を受けた。ところがその後にやってきたのが,供出制 度である。農民が申告した農地面積で米を供出しなければならなくなった。このため,自分の家で 食べる分まで供出しなければならなくなった。このため,農家であっても米が不足し困るものが出 てくるようになった32)。農民一人当り米4俵だけしか自家消費として認められなかったので,荒廃地 や開墾したばかりの土地しか持っていなかった農民は,苦境に追い込まれた。
茨城県櫛形国民学校の高1の生徒は通学の余暇を使い,一鍬でもと大地を耕したという33>。その土 地は青年学校生の試作地であった。子供の食料生産への強い意思が感じられるはなしであるが,そ
こまでして農作業ができるのかどうか,疑問が残る。しかし,農民は朝食前の寸暇を惜しんで,小 面積の草刈りや雑草を取ることをする習慣があったから,事実であろう。
児童生徒がこのように働いている状態は,すでに限界に達していた。例えば,茨城県真壁郡庁は「適 宜休憩時間を与え,一般作業は切上時間を遵守し,生徒をして過労に陥るしむるがごとき事なきや う特に注意せられたし」ということを町村に通達した33)。このような通達を出さなければならないほ ど追い詰められた子供がいたということをこの事実は物語っていた。また,このニュースを検閲で 削除しないほど児童労働が深刻なものになっていたと推測される。
太平洋戦争というと,広島や長崎の原子爆弾による攻撃,大空襲などの被害や加害責任が問われる ことが多い。しかし,日本の侵略戦争が子供にどんな苦しみを与えていたかということは,もっと 伝えられなければならないことである。いきなり,原子爆弾が投下されたり,空襲になるわけでは ない。まず,被害は多くの働く人を失った農村が影響を受けた。食糧不足が始まっていたから,民主々 義の世の中であったら,戦争反対の声が強く言えたであろう。しかし,軍は外国から食料をもって
くるから,戦争に勝てば,困難なことは解決できるという幻想を国民に信じ込ませていた。国民の 一人一人が政府のしていることに誤りがないかどうかを判断することが求められているのは当時も 現在も同じであろう。
注
︶︶︶︶
11234
福間敏矩r学徒動員。学徒出陣』(第1法規,1980),p.76.「農家出身の下士官に米収納の休暇を許与」r東京朝日新聞』1939年11月12日。
「 土 へ学徒の進軍,参加五十三校」r東京朝日新聞』1939年9月15日。
「女学生・夏の勤労始まる。第2高女と女子師範が空地の作業」r東京朝日新聞』1940年7月18日。
︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶〜ノ︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶︶ 56789012345678901234567890123 111111111122222222223333 「学童一千万を動員,食料生産に拍車」r北海タイムス』1941年2月2日。
「各学校に農場を,学生動員の要領通牒」r朝日新聞』1941年2月9日。
「正科に準ず汗の実践,1年30日以内は授業振替」r東京日々新聞』1941年2月9日。
「旅費や農具に悩み,学徒。鍬の実践に一苦労」r東京日々新聞』1941年3月1日。
「ほう・これは見事な学校菜園の野菜即売」r東京日々新聞』1942年7月17日。
農林大臣官房総務課編r農林行政史第1巻』(農林協会,1957),pp.614 一 629.
「春だ,増産だ!青年学徒の動員案なる」r茨城新聞』1941年4月3日。
「名も勤労道場」同上 1941年6月13日。
「開墾に学徒も動員」同上 1942年3月19日。
「青少年学徒を食料増産に動員,西郡の本年度計画決まる」同上 1942年4月24日。
「くぬぎ林2反歩開墾,笠間校の勤労教育計画」r茨城新聞』1942年6月28日。
「東大に警防団と農園」if 朝日新聞』1941年12月2日。
「この粗食,見逃してよいか」同上 1941年10月10日。
「学校給食続行へ」同上 1942年3月5日。
「米の心配は無用,吉田ハノイ総領事談」r朝日新聞』1942年3月26日。
r東京大学百年史通史編』(1988),p.8ユ2.
「戦線を偲びながら感謝と反省の一一・ M,下館学徒報告隊体験記(六)r茨城新聞』1942年6月28日 郡司清江「勤労奉仕」丁茨城新聞』1942年6月12日。
「米穀楽観は禁物」r朝日新聞』1942年4月17日。
「野菜自給圏本極り」丁東京日々新聞』1942年1月14日。
「ひまわりの大収穫,給食用の油を自給」 r信濃毎日新聞』1941年11月2日。
「農繁期に奇襲応援,土浦高女,自転車隊を編成」r茨城新聞』1942年5月1日。
「快速村から村へ,銀輪部隊で奉仕,増産に敢闘する水海道高女」同上1943年6月21H。
「学徒奉仕隊員と農家との調和を,農繁期を前に土中が苦慮」同上1942年5月30日。
「(茨城県)八千代町史「通史編」(1987),p.1056。
武藤正,「関本町女子黎耕隊」r関城町の歴史2』(1982),pp.86〜92
『(新潟県)小千谷市史下巻』(1967),pp 587−588.
「塵芥を肥料に」r山形新聞』1941年2月16日。
r茨城新聞』1943年4月18日。
「学生の過労は禁物」r茨城新聞』1943年6月19日。