宋 代 折 杖 法 初 考
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(2) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. はじめに. 七八. 晴律において完成され︑唐律に継承された︑答・杖・徒・流・死の五刑からなる刑罰体系は︑唐末から崩壊し︑宋. 代にはその様相を一変したように言われてきた︒この宋代の刑罰体系を特徴づけるものが︑第一に折杖法であり︑第 ︵1︶. ︵2︶. ︵3︶. ︵3a︶. ︵4︶. 二に編配の導入であり︑第三に刺刑の復活であり︑第四に凌遅処死の制度化である︒これらのうち︑編配と刺刑につ. いては曾我部静雄︑志田不動麿︑郭東旭︑佐伯富らの各氏によって︑凌遅処死については海老名俊樹氏によってある ︵5︶. ︵6︶. ︵7︶. ︵8︶. ︵9︶. 程度の研究成果がもたらされてきているが︑宋代の刑罰制度の根幹をなすものであるはずの折杖法については充分な 0︶ ︵1. ︵1 1︶. ︵1 2︶. 研究が行われてぎたとは言い難い︒浅井虎夫︑陳顧遠︑仁井田陞︑宮崎市定︑滋賀秀三らの各氏および﹃宋史刑法志. ︵13︶. 注釈﹄は折杖法を宋代の刑罰の特徴としているものの︑いづれも紹介の域を出ていない︒吉田寅︑久保恵子︑海老名. 俊樹らの各氏による論考は︑唐末から宋初にかけての︑主として専売法規に規定された刑名を分析することにより折 ︵14︶ 杖法の起源を解明する手がかりを与えてくれているが︑対象とする史料は太宗朝が下限であり︑醇梅卿氏の研究は折. 杖法の本文に即したはじめての専論ではあるものの︑それ以後宋代において折杖法がいかに変化し︑いかに運用され ていったかという観点からの分析はほとんどなされていない︒. 本稿はこのような研究の現状をふまえ︑宋代の刑罰体系の最大の特徴である折杖法の解明を目的とし︑まず北宋を. 中心に歴史史料からその制定と変遷の過程ならびに役割を︑次に南宋の判語史料から運用の実態を把握しようと試み るものである︒.
(3) 引用文において︹︺内は原註を︑︵ 略号を示す︒. ︶内は特記なき限り筆者註を示す︒また︑註文において︹︺内は重出文献の. 一九四三年五月に収録︶︑同﹁宋代の刺配について﹂︵﹃文化﹄二九巻一号︑一九六五年八月︒のち︑﹃中国律令史の研. 曾我部静雄﹁宋代軍隊の入墨について﹂︵﹃東洋学報﹄二四巻三号︑一九三七年一二月︒ のち︑﹃支那政治習俗論放﹄筑摩. 書房︑. ︵1︶. 志田不動麿﹁沙門島﹂︵﹃東方学﹄二四輯︑一九六二年九月︶︒. 究﹄吉川弘 文 館 ︑ 一 九 七 一 年 一 二 月 に 収 録 ︶ ︒ ︵2︶. 佐伯富﹁宋代における牢城軍について﹂︵劉子健博士頒寿紀念宋史研究論集刊行会編﹃劉子健博士頒寿紀念宋史研究論. ︵3︶ 郭東旭﹁ 刺配沙門島 鯛議﹂︵﹃河北大学学報﹄哲学社会科学版一九八七年三期︶︒. ︵3a︶. 海老名俊樹﹁宋代の凌遅処死について﹂︵宋代史研究会編﹃宋代の社会と宗教﹄宋代史研究会研究報告第二集︑汲古書院︑. 集﹄同朋舎出版︑ 一九八九年九月︶︒. 陳顧遠﹃中国法制史﹄︵商務印書館︑一九三四年九月︶︹陳﹃法制史﹄︺︒. 浅井虎夫﹃支那法制史﹄︵博文館︑. 一九八五年一〇月︶︹海老名﹁凌遅処死﹂︺︒. ︵4︶ ︵5︶. 一九〇四年三月︶︹浅井﹃法制史﹄︺︒. ︵6︶. 刑法﹄. 仁井田陞﹁支那に於ける刑罰体系の変遷i特に自由刑の発達ー﹂︵﹃法学協会雑誌﹄五七巻三︑四︑五号︑一九三九年. 三︑四︑五月︒のち︑﹁中国における刑罰体系の変遷1とくに﹁自由刑﹂の発達1﹂と改題︑﹃中国法制史研究. ︵7︶. 東京大学出版会︑一九五九年八月︹仁井田﹃研究﹄1︺に収録︒引用は後者による︶︹仁井田﹁体系﹂︺︒. 滋賀秀三﹁刑罰の歴史ー東洋ー﹂︵荘子邦雄・大塚仁・平松義郎編﹃刑罰の理論と現実﹄岩波書店︑一九七二年二月︶. ︵8︶ 宮崎市定﹁宋元時代の法制と裁判機構−元典章成立の時代的・社会的背景i﹂︵﹃東方学報﹄京都二四冊︑一九五四年 二月︒のち︑﹃アジア史研究 第四﹄東洋史研究会︑一九六四年一一月に収録︒引用は後者による︶︹宮崎﹁裁判機構﹂︺︒ ︵9︶. 上海社会科学院政治法律研究所編﹃宋史刑法志注釈﹄︵群衆出版社︑正集︑一九七九年七月︑続集︑一九八二年四月︶︹﹃注. ︹滋賀﹁歴史﹂︺︒. 七九. 吉田寅﹁五代中原王朝の私塩対策−塩禁を中心としてー﹂︵﹃東洋史学論集﹄第四︑不昧堂書店︑一九五五年一一月︶︒. 釈﹄正・続︺ ︒. ︵10︶. ︵n︶. 宋代折杖法 初 考.
(4) ︵12︶ ︵13︶. ︵14︶. 早法六五巻四号︵一九九〇︶. 辮析﹂︵﹃中国政法大学学報﹄一九八三年一期︶︹聾﹁辮析﹂︺︒. 八○. 一九八八年一一月︶︹海老名﹁体系﹂︺︒. 久保恵子﹁北宋朝の専売制度に対する犯罪の処罰規定﹂︵﹃お茶の水史学﹄二四号︑一九八一年一月︶︹久保﹁規定﹂︺︒ 折杖法. 海老名俊樹﹁五代宋初における勅の刑罰体系に就いて﹂︵﹃立命館史学﹄九号︑. 醇梅卿﹁北宋建隆. 第一章折杖法の制定と変遷 第顧節 折杖法の制定. 唐制において︑杖刑は長さ三尺五寸︵約一〇八・五㎝︶︑直径最大二分七麓︵約八・四㎜︶︑最小一分七麓︵約. 五・三㎜︶の常行杖によって︑背と腿と轡とに執行され︑答刑は長さは常行杖と同じで︑直径最大二分︵約六・二 ︵16︶. ︵17︶. ︵15︶ ㎜︶︑最小一分半︵約四・七㎜︶の答杖によって︑腿と智︵受刑者が希望すれば背と腿︶に執行され︑杖刑は杖六十︑. 杖七十︑杖八十︑杖九十︑杖一百の五等︑答刑は答一十︑答二十︑答三十︑答四十︑答五十の五等をその打数として ︵18︶. ︵19︶. いた︒しかし︑答杖刑は五刑の最軽のものであるにもかかわらず︑これだけの杖数を身体に加えることはしばしぱ生 ︵20︶. ︵21︶. 命の危険をもたらした︒このため︑すでに貞観四年︵六三〇年︶には背への杖打の禁止が詔され︑太和八年︵八三四 ︵22︶. 年︶にも同様の勅が下されている︒また高宗朝には杖一百該当の刑名が大幅に停止され︑玄宗朝には杖刑を配軍に代. ︵23︶. 替する詔が下されたりしているが︑いづれもさしたる効果はあげえなかったようである︒おそらくはこのような経験 をふまえて︑大中七年︵八五三年︶に ︵%︶. 法司断罪︑毎脊杖一下︑折法杖十下︑啓杖一下︑折答杖五下︑則吏無途制法︑守常規 という︑宋代の折杖法の淵源と言われる勅文が下された︒これによれば答刑と杖刑は.
(5) 脊杖 腎杖. 六十. 五十 四十. 三十. 二十. 十 二. 七十 ノ¥. 八十. 四. 九十 七. 答 山 ノ、. 一百. ノ\. 九. 一百. ︻?. 九十. 9・. 十七. 八十. 杖. 宋代折杖法 初 考. 十五. 七十. 十三. 六十. 八一. 宋が建国されると︑統一王朝を目指して法体系を整備する事業の一環として︑建隆四年︵九六三年︶に﹁折杖法﹂. というような折杖規定が復元されるが︑おそらくは流刑・答刑についても読み替えが行われ︑宋代の折杖法ときわめ ︵27︶ て接近したものがあったと思われる︒. 轡杖. 三年 二年半 二年 一年半 一 年 脊杖 τ+ 十八 丁七 十五 下三. 徒. 法規や盗法などにあらわれた刑罰規定から︑これとは別種の折杖が行われていたことが海老名俊樹氏の研究によって ︵26︶ 明かにされている︒海老名氏の所説から推定すると︑. というように読み替えられた︒杖数は大幅に減少し︑執行部位も杖刑は脊︑答刑は轡に限定されている︒この勅文が ︵25︶ どれほど遵守実行されたかは不明であるが︑単なる一時の思いつきで発せられたものではない︒五代に入ると︑専売. 十. 十. 杖 ノ\. ¥.
(6) 早法六五巻四号︵一九九〇︶ が発布された︒﹃続資治通鑑長編﹄によれば︑. 八二. ︵乾徳元年三月︶癸酉︑吏部尚書脹昭等上言︑準詔︑徒流答杖刑名︑応合該除免当瞭上請外︑拠法書軽重等. 第︑用常行杖施行︑令臣等詳定可否聞奏者︑伏以五刑之制︑百代所遵︑難沿革之不同︑貴重軽之無擁︑仰承容. 旨︑別定明文︑傳官吏之依愚︑絶刑名之出入︑請宣付有司頒行︑凡流刑四︑加役流︑杖二十︑配役三年︑流三千. 里︑杖二十︑配役一年︑二千五百里︑杖十八︑配役一年︑二千里︑杖十七︑配役一年︑徒刑五︑徒三年︑杖二. 十︑二年半︑杖十八︑二年︑杖十七︑一年半︑杖十五︑一年︑杖十三︑杖刑五︑杖一百︑為杖二十︑九十︑為十 ︵28︶. 八︑八十︑為十七︑七十︑為十五︑六十︑為十三︑答刑五︑答五十︑為答十︑四十三十︑為八︑二十一十︑為. 七︑旧拠獄官令用杖︑至是定折杖格︑常行官杖長三尺五寸︑大頭闊不過二寸︑厚及小頭径不過九分︑小杖不過四 ︵29︶. 尺五寸︑大頭径六分︑小頭径五分︑徒流答杖︑通用常行杖︑流罪決詑︑役一年︑加役流決詑︑役三年︑徒罪決而 不役︑徒流皆 背 受 ︑ 答 杖 皆 唇 受 ︑ 訊 杖 如 旧 制. というものである︒この前文によれば︑徒流答杖について︑除免当蹟として上請すべぎ場合を除ぎ︑刑の等級に応じ. て常行杖により刑を執行することの可否を審議聞奏せよとの詔に従って︑吏部尚書張昭らが上奏︑裁可されたものが. この折杖法である︒そして答杖のみならず︑徒流についても︑これを実質的に杖刑に換算執行することが︑.
(7) 三年 二十. 一年. 十八. 一年. 十七. 一年. τ+ 十八. 一年半. 下七 下五. 二 千 加役流三千里 五百里 二千里 三年 二年半二年. 配 二十. 役. 脊杖 轡杖. 徒. 一年. 十三. 答. 二十 十八 一+七王+三. 十下 八下 八下 七下七下. 一百九十八+至六+ 五十四十 三十 二十. 杖. 宋代折杖法初考. 八三. 一五・五㎜︶に変更された︒唐制に比べると︑常行杖の長さは変らないものの︑小杖は一尺長くなり︑直径はともに. び厚さ九分︵約二七・九㎜︶︑小杖は長さ四尺五寸︵約二二九・五㎝︶︑直径最大六分︵約一八・六㎜︶︑最小五分︵約. また︑刑具である杖の規格も︑常行杖は長さ三尺五寸︵約一〇八・五㎝︶︑最大直径二寸︵約六二㎜︶︑最小直径およ. ら轡へと変更されているが︑これは徒刑以上も杖によって執行されるため︑軽重の差別化をはかったからであろう︒. 上げられてゆくのである︒杖の執行部位は徒刑以上は脊︑杖刑以下は轡である︒大中七年法に比べると︑杖刑は脊か. は宋代には﹁杖刑か然らざれば死刑かという体制﹂に読み替えられ︑これに編配や刺刑を組合わせる刑罰体系が作り. ︵33︶. かも流刑に代替されるべぎ配役は︑実は編配との関係上必ずしも実行されていたとは考えられないから︑唐律的五刑. ︵32︶. 放したから︑流刑は徒刑と杖刑の複合したものとなり︑徒刑は労役刑としての本質を完全に喪失したことになる︒し. ︵31︶. ことはなく︑徒刑については﹁徒罪は決して役せず﹂とあるように︑杖を執行し終れば労役に服せしめることなく釈. のように明文化されている︒すなわち︑流刑については杖の執行後一年か三年の配役に服せしめるものの遠方に流す. ︵30︶. 十. 流.
(8) ︵38︶. 早法六五巻 四 号 ︵ 一 九 九 〇 ︶ 八四 ︵34︶ ︵35︶ 大幅に増加している︒これに加えて材質も竹から木に変更されたから︑これも杖刑を脊杖から轡杖に変更した一要因 ︵36︶ であると思われる︒なお︑常行杖は後周顕徳五年に制定された規格を踏襲したものである︒また︑この規定には杖の ︵37︶ 重量が定められていないため︑天聖七年︵一〇二九年︶に重量を十五両︵約五・六㎏︶とする詔が下されて︑これら. の規格は基本的に南宋にも受け継がれていった︒ ︵39︶ 折杖法に規定された﹁脊杖﹂﹁轡杖﹂について︑かつてはこれを﹁附加刑﹂とする見解があったが︑折杖法本文の ︵40︶ ﹁徒罪は決して役せず﹂という文言だけを見ても︑このような考えが成り立ちえないことは明かである︒これらは死 ︵41︶ ︵42︶ 刑を除く四刑の﹁易科刑﹂︑﹁代用刑﹂なのであり︑折杖法はこれらの読み替えのための特別法なのである︒ ︵43︶. この折杖法の制定年代を︑﹃事物紀原﹄は﹁建隆四年三月﹂︑﹃長編﹄は﹁乾徳元年三月癸酉﹂︑﹃九朝備要﹄は﹁乾. 徳元年三月﹂︑﹃稽古録﹄は﹁乾徳元年三月癸酉﹂として︑いるが︑これは建隆四年が二月に乾徳に改元されたためで ︵44︶. あり︑ふたつの紀年は矛盾しない︒しかし﹃宋史﹄刑法志は﹁太祖受禅︑始定折杖之制﹂としてあたかも建隆元年. ︵45︶ ︵九六〇年︶を制定年代となすがごとくであり︑﹃通考﹄は建隆三年︵九六二年︶を折杖法制定の年代としている︒ ︵46︶. ﹃宋史﹄﹃通考﹄がともに元代の編纂になることを考えれば︑同時代史料である﹃稽古録﹄﹃事物紀原﹄などの記事に. 従うのが当然のことのように思われる︒ところが辞梅卿氏は﹃宋刑統﹄所載の︑建隆三年に制定された︑強盗および 窃盗に関する︑. 准建隆三年十二月五日勅節文︑今後応強盗︑計賊銭満三貫文足附︑皆処死︑不満三貫文︑決脊杖二十︑配役三. 年︑不満二貫文︑決脊杖二十︑配役二年︑不満一貫文︑決脊杖二十︑配役一年︑其賊銭並足晒︑不得財者︑決脊.
(9) 杖二十放︑難不得財︑但傷人者︑皆処死︑其造意之人︑行而不受分︑或受分而不行︑井与行者同罪︑或不行又不. 受分者︑減行者一等決配︑其有同謀︑行而不受分︑或受分而不行︑亦減行者一等決配︑不行又不受分者︑決脊杖 ︵47︶. 十七放︑応同居骨肉内︑有同情井知情︑及持伎行劫︑同行劫賊内有不持侯者︑井准顕徳五年七月七日勅条指揮︑. 所有律条内称以強盗論及併賊︑無首従︑請並准律文処分. 准建隆三年二月十一日勅節文︑起今後犯窃盗︑賊満五貫文足陪︑処死︑不満五貫文︑決脊杖二十︑配役三年︑. 不満三貫文︑決脊杖二十︑配役二年︑不満二貫文︑決脊杖十八︑配役一年︑一貫文以下︑量罪科決︑其随身井女. 僕倫盗本主財物︑賊満十貫文足隔︑処死︑不満十貫文︑決脊杖二十︑配役三年︑不満七貫文︑決脊杖二十︑配役. 二年︑不満五貫文︑決脊杖十八︑配役一年︑不満三貫文︑決轡杖二十︑一貫文以下︑量罪科決︑如是伏事未満二 ︵48︶. 周年倫盗者︑一准凡人断遣︑応配役人︑並配逐処重役︑不刺面︑満日疏放︑其女口与免配役︑所有隙銭︑以一百 文足晒為陪︑絵従前後格勅処分. という勅節文に︑折杖法に規定されたものと合致する法定刑が存在することから︑﹁この二条の勅文は︑﹁折杖法﹂が. すでに建隆三年︵紀元九六二年︶すなわち﹃宋刑統﹄公布以前に制定され︑正規の条文を形成していて︑﹃宋刑統﹄ ︵49︶. の公布とともに実施されたことを証明している︒これは﹁折杖法﹂が建隆四年に創設されたとする説を厳しく訂正す. るものである﹂としている︒たしかに︑ここに規定された刑罰には﹁決脊杖二十︑配役三年﹂︑﹁決脊杖二十放﹂︑﹁決. 轡杖二十放﹂のように折杖法と一致するものもあるが︑しかし﹁決脊杖二十︑配役二年﹂︑﹁決脊杖十八︑配役一年﹂. 八五. のように折杖法にはあらわれない刑名もここには規定されている︒もしこれらの勅節文が折杖法を前提とし︑そこに 宋代折杖法初 考.
(10) 早法六五巻 四 号 ︵ 一 九 九 〇 ︶ ︵50︶. 八六. ﹁﹁折杖法﹂がきわめて集約的に貫徹されている﹂ならば︑このような刑罰は規定されていないはずである︒従って. ︵51︶. これらの勅節文を根拠として︑宋代の折杖法が建隆三年以前に制定されたとすることはできないのである︒. しかし︑折杖法的な刑罰の読み替えは︑宋代の文献はおおむね太祖年間をその始期としているけれども︑杖刑以下. については唐大中七年以前に棚れるし︑徒刑についても五代には折杖規定の存在が推定されるから︑その起源は建隆. 四年を大きく湖るものであったと考えられる︒従って︑建隆四年折杖法は︑唐末以降の経験をもとに︑それまでおそ ︵52︶. らく単行法として散発的に発布されてきた折杖規定を集大成して明文化したものであろう︒折杖法の立法作業に直接. 携ったはずの吏部尚書張昭の伝には折杖法の制定に関する記事がないのでことの経緯は知りようがないけれども︑そ. れまでいささか無秩序に発せられてきた杖を中心とした新たな刑罰を体系化するとともに︑律の規定する五刑を新た ︵53︶. な刑罰に読み替えることによって律を活性化し︑従来無関係に存在していた新たな刑罰を五刑に関係づけることが︑. 唐獄官令﹁諸杖皆削去節目︑長三尺五寸︑訊囚杖︑大頭径三分二麓︑小頭二分二麓︑常行杖︑大頭二分七麓︑小頭一分七. 建隆四年折杖法の目的だったのであろう︒. ︵15︶. 一九三三年三月︹仁井田﹃唐令﹄︺︑七九三頁︶︒なお︑ 一. 董︑答杖︑大頭二分︑小頭一分半︑決答者︑腿腎分受︑決杖者︑背腿署分受︑須数等︑拷訊者亦同︑答以下願背腿均受者︑. 唐名例律一条︒. 唐名例律二条︒. 尺は約三一㎝︒. 聴︑即殿庭決者︑皆背受﹂︵仁井田陞﹃唐令拾遺﹄東方文化学院︑. ︵16︶. ﹁答杖刑は⁝⁝杖打のために受刑者の身体を損傷し︑しばしば不具となるのはおろか︑死亡するものまで生じ︑杖刑と肉. ︵17︶. ︵18︶.
(11) 刑⁝⁝と死刑と︑一身に並び到るという有様さえ生ずることもあった﹂︵仁井田陞﹁支那近世戯曲小説の挿画と刑法史料﹂ ︵﹃東亜論叢﹄五輯︑東京文求堂︑一九四一年一〇月︒のち︑﹁中国の戯曲小説の挿画と刑法史料﹂と改題︑仁井田﹃研究﹄ 1に収録︒引用は後者による︶六六三頁︶︒. ﹁︵貞観︶四年十一月十七日制︑決罪人不得鞭背︑初︑太宗以暇日閲明堂孔穴図︑見五臓之系威附子背︑乃嘆日︑夫筆︑ 五刑之最軽者也︑量容以最軽之刑而或致之死︑古帝王不悟︑不亦悲夫︑即日遂下此詔﹂︵﹃唐会要﹄巻四〇︑君上慎憧︶︒﹃資. ︵19︶. 治通鑑﹄︹﹃通鑑﹄︺巻一九三︑唐紀九︑太宗貞観四年十一月戊寅︑﹃新唐書﹄巻五六︑刑法志︑﹃冊府元亀﹄巻六一二︑刑法. 部︑定律令四︑唐太宗貞観十四年十月戊寅︑﹃文献通考﹄︹﹃通考﹄︺巻一六六︑刑考五︑刑制にも同様の記事がある︒. ︵20︶ ﹁︵太和︶八年四月勅︑朕比属暇日︑周覧国史︑伏親太宗因閲明堂孔穴図︑見五臓之系威附子背︑乃制決罪人不得鞭背︑ 且人之有生︑系於臓胸︑針灸失所︑尚致天傷︑鞭撲筍施︑能無柱横︑況五刑之内︑答最為軽︑量可以至軽之刑而致之死︑朕 恭承丞業︑思奉胎謀︑言念干戴︑載懐側隠︑其天下州府︑応犯軽罪人︑除罪状巨露︑法所難原者︑其他過誤罪憾︑及尋常公 事違犯︑並宜准貞観四年十一月十七目制処分︑不得鞭背﹂︵﹃唐会要﹄巻四〇︑君上慎位︶︒﹃冊府元亀﹄巻六二二︑刑法部︑. ﹁永徽以後︑武氏得志︑而刑濫︑⁝⁝律有杖百︑凡五十九条︑犯者皆至死而杖未畢︑乃詔︑内有盗窃及轟害尤甚者量留一. 定律令五︑唐文宗太和八年四月にも同様の記事がある︒. 凡五十九条︑犯者或至死而杖未畢︑乃詔除其四十九条﹂とあり︑削除された律条が二条多い︒また︑﹃唐会要﹄巻四〇︑君 上慎煎には﹁総章二年︵六六九年︶五月十一日︑上以常法外︑先決杖一百︑各致損弊︑乃下詔日︑別令於律外決杖一百者︑. 十二条︑自鯨四十七条︑虹宜停︑然無益也﹂︵﹃通考﹄巻一六六︑刑考五︑刑制︶︒﹃新唐書﹄巻五六︑刑法志には﹁律有杖百︑. ). 宋代折杖法初考. 八七. 毒︑民莫蒙其賜也﹂︵﹃新唐書﹄巻五六︑刑法志︶︒﹃唐会要﹄巻四〇︑君上慎憶には﹁開元十二年︵七二四年︶四月勅︑比来. ﹁天子︵玄宗︶亦自喜辺功︑遣将分出以撃蛮夷︑兵数大敗︑士卒死傷以万計︑国用耗乏︑而転漕輸送︑遠近煩費︑民力既 ︵22︶ 弊︑盗賊起而獄訟繁臭︑天子方側然︑詔日︑徒非重刑︑而役者寒暑不釈械繋︑杖︑古以代肉刑也︑或犯非巨露而種以至死︑ 其皆免︑以配諸軍自効︑民年八十以上及重疾有罪︑皆勿坐︑侍丁犯法︑原之傅終養︑以此施徳其民︑然巨盗起︑天下被其. 執行される杖︒従って刑罰ではない︶が停止されたことになる︒. とあり︑これによれば律に規定された杖一百が停止されたのではなく︑律外に規定された先決杖一百︵審理の開始に先立ち. 前後総五十九条︑決杖既多︑或至於死︑其五十九条内︑有盗窃及欝害尤甚者︑今後量留一十二条︑自鯨四十七条︑並宜停﹂. ( 21.
(12) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. 八八. ﹃唐会要﹄巻四一︑雑記︑大中七年四月六日勅︒﹃通鑑﹄巻二四九︑唐紀六五︑宣宗大中七年四月丙寅には﹁勅︑自今法. 犯盗︑先決一百︑難非死刑︑大半殖肇︑言念於此︑良用側然︑今後抵罪人︑合杖勅杖︑並従寛︑決杖六十︑一房家口︑移隷 磧西︑其嶺南人移隷安南︑江准人移隷広府︑剣南人移隷銚嵩州︑其磧西挑鴛安南人︑各依常式﹂とあり︑これによれば︑窃 盗犯についての先決杖一百を六十に減じて配軍に処したことになるQ. 司処罪︹処︑昌呂翻︑用常行杖︺︑杖脊一︑折法杖十︹法杖︑謂常行轡杖也︑脊︑資昔翻︑折︑之戴翻︺︑杖轡一︑折答五. ︵23︶. 仁井田﹁体系﹂一二二i三頁註︵3︶︑醇﹁. とする︒. 析﹂九四頁︑海老名﹁体系﹂六七頁註⑳︒. ︹署︑徒渾翻︺︑使吏用法有常準﹂とあり︑これによれば刑具は常行杖に統一されたことになる︒また︑﹃通考﹄巻一六六︑ 刑考五︑刑制は﹁︵大中︶七年勅︑法司断罪︑毎脊杖一下︑折法杖十下︑啓杖一下︑折答杖五下︑則吏無途判法︑守常規﹂. ︵24︶. すでに元和三年︵八二九年︶に﹁常行杖もて当に十五を処決して放つべし﹂との規定を有する勅が発せられ︵﹃宋刑統﹄ 巻二七︑雑律︑失火﹁准唐元和三年五月四日勅︑失火焼楷子及屋一間両間︑並柴草等︑不至驚動者︑請不科責︑焼屋三問以. ︵25︶. 上︑及焼鄭家︑失火人常行杖当処決十五放︑其合受科決人︑如有品秩及応官︑請決家人︑如百姓老小︑家人病患小弱︑不堪 科決︑井品秩及応官無家人作人者︑並請量事科罰︑或離嫌潜雛焼褻︑有情状巨毒︑推問得実︑所焼舎屋︑不限多少︑請決痛 杖一頓処死﹂︶︑開成二年︵八三二年︶の勅節文にも﹁決脊杖二十﹂という刑名が規定されている︵同書巻二六︑雑律︑受寄 財物輯費用﹁准唐開成二年八月二日勅節文︑今後応有挙放又将産業等上契取銭︑並勒依官法︑不得五分以上生利︑如未辮計. われる︒. 会︑其利止於一倍︑不得虚立倍契︑及計会未足︑抑令翻契︑廻利為本︑如有違越︑一任取銭人経府県陳論︑追勘得実︑其放 銭人請決脊杖二十︑枷項令衆一月日︑如属諸軍諸使︑亦准百姓例科処﹂︶から︑唐代の折杖の起源はなお潮りうるものと思. の. 海老名﹁体系﹂五六頁く表6V︑六五頁く表10Vにもとづいて作成︒ の. ︵26︶. の. ﹃宋刑統﹄巻一七︑賊盗律︑謀反逆叛には﹁准周顕徳五年︵九五八年︶七月七日勅条︑若有人或因闘争︑或是酒酵︑軌高 の. ︵27︶. ︹﹃九朝備 要 ﹄ ︺ に よ り 補 っ た ︒. ﹃続資治通鑑長編﹄︹﹃長編﹄︺︑﹃事物紀原﹄︑﹃通考﹄︑﹃宋史﹄には﹁一十﹂を欠くが︑﹃宋刑統﹄︑﹃皇朝編年綱目備要﹄. 声唱反春︑決瞥杖七十﹂という勅文があるが︑轡杖七十は十七の誤りと思われる︒ ︵28︶.
(13) 二千五百里︑脊杖十八︑二千里︑脊杖十七︑並役一年︑徒三年︑脊杖二. ﹃長編﹄巻四︑太祖︒このほか﹃事物紀原﹄巻一〇︑律令刑罰部︑折杖には﹁宋朝会要日︑建隆四年三月︑張昭請︑加役. 流︑脊杖二十︑配役三年︑流三千里︑脊杖二十︑. ︵29︶. □□□□□□□□□月十六日奉聖旨︑徒流答杖刑名︑応合該除免当腰上請外︑拠法書軽重等第︑用常行杖施行︑令臣等詳定. 十︑二年半︑十八︑二年︑十七︑一年半︑十五︑ 一年︑十三︑杖一百︑腎杖二十︑九十︑十八︑八十︑十七︑七十︑十五︑ 六十︑十三︑答五十︑杖十︑四十三十︑八下︑二十十︑七下︑旧拠獄官令用杖︑受杖者皆背署腿分受︑殿庭決者皆背受︑至 是始折杖︑又徒流皆背受︑答杖者皆轡受也﹂︑﹃宋刑統﹄巻一︑名例律︑五刑には﹁□□□□□□□□□□□□勅尚書都省□. 可否奏聞︑偉官吏之依愚︑絶刑名之出入︑立弦定制︑始自聖朝︑臣等参詳︑伏請宣下法司︑頒行天下者︑奉勅︑宜依︑傍付 所司遍下諸道州府者︑流刑︑加役流︑決脊杖二十︑配役三年︑流三千里︑決脊杖二十︑配役一年︑流二千五百里︑決脊杖十. 八︑配役一年︑流二千里︑決脊杖十七︑配役一年︑徒刑︑徒三年︑決脊杖二十放︑徒二年半︑決脊杖十八放︑徒二年︑決脊 杖十七放︑徒一年半︑決脊杖十五放︑徒U年︑決脊杖十三放︑杖刑︑杖一百︑決啓杖二十放︑杖九十︑決啓杖十八放︑杖八. 四︑日︑加役流︑杖二十︑配役三年︑流三千里︑杖二十︑二千五百里︑杖十八︑二千里︑杖十七︑並配役一年︑徒刑五︑. 十︑決轡杖十七放︑杖七十︑決啓杖十五放︑杖六十︑決啓杖十三放︑答刑︑答五十︑決瞥杖十下放︑答四十三十︑決轡杖八 下放︑答二十一十︑決腎杖七下放﹂︑﹃九朝備要﹄巻一︑太祖皇帝︑乾徳元年三月には﹁定折杖法︑徒流答杖各有数︑凡流刑. 日︑徒三年︑杖二十︑二年半︑杖十八︑二年︑杖十七︑一年半︑杖十五︑一年︑杖十三︑杖刑五︑日︑杖一百︑為杖二十︑. 九十︑為十八︑八十︑為十七︑七十︑為十五︑六十︑為十三︑答刑五︑日︑答五十︑為十下︑四十三十︑為八︑二十十︑為. 七︑旧拠獄官令用杖︑至是定折杖法︑常行官杖厚薄長短︑如周顕徳中制︑徒流答杖︑通用常行杖︑徒罪決而不役︑徒流皆背 受︑答杖皆轡受﹂︑﹃宋史﹄巻一九九︑刑法志一には﹁太祖受騨︑始定折杖之制︑凡流刑四︑加役流︑脊杖二十︑配役三年︑. 脊杖十八︑二年︑脊杖十七︑一年半︑脊杖十五︑一年︑脊杖十三︑凡杖刑五︑杖一百︑轡杖二十︑九十︑啓杖十八︑八十︑. 流三千里︑脊杖二十︑二千五百里︑脊杖十八︑二千里︑脊杖十七︑並配役一年︑凡徒刑五︑徒三年︑脊杖二十︑徒二年半︑. 轡杖十七︑七十︑啓杖十五︑六十︑轡杖十三︑凡答刑五︑答五十︑轡杖十下︑四十三十︑轡杖八下︑二十︑啓杖七下︑常行 官杖︑如周顕徳五年制︑長三尺五寸︑大頭闊不過二寸︑厚及小頭径不得過九分︑徒流答通用常行杖︑徒罪決而不役﹂︑﹃通. 八九. 考﹄巻一六六︑刑考五︑刑制には﹁︵建隆︶三年︑定折杖法︑凡流刑四︑加役流︑脊杖二十︑配役三年︑流三千里︑脊杖二 十︑二千五百里︑脊杖十八︑二千里︑脊杖十七︑並配役一年︑徒刑五︑徒三年︑脊杖二十︑二年半︑脊杖十八︑二年︑脊杖. 宋代折杖法初考.
(14) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. 九〇. ︵31︶. ︵30︶. 滋賀﹁歴史﹂一〇三頁︒﹃長編﹄︑﹃宋会要輯稿﹄︹﹃宋会要﹄︺などの史料においては︑脊杖二十配役三年が科せられるべぎ. ﹁皇朝建隆四年制︑犯徒者加杖免役︑犯流者加杖留住︑三流倶役一年︑加役流者三年﹂︵孫爽﹃律音義﹄名例第一︑流︶︒. 宮崎﹁裁判機構﹂一七九頁の表および﹃注釈﹄正一八ー九頁の表を参考にして作成︒. 十七︑ 繍年半︑脊杖十五︑ 一年︑脊杖十三︑杖刑五︑杖一百︑啓杖二十︑り九十︑轡杖十八︑八十︑轡杖十七︑七十︑啓杖十 五︑六十︑腎杖十三︑答刑五︑答五十︑啓杖十下︑四十三十︑啓杖八下︑二十︑轡杖七下︑常行官杖︑如周顕徳五年制︑長 三尺五寸︑大頭闊不過二寸︑厚及小頭径不得過九分︑徒流答通用常行杖︑徒罪決而不役﹂とあり︑各々表現を異にする︒. ︵32︶. 杖の規格については︑﹃長編﹄のほか︑﹃宋史﹄︑﹃通考﹄︵以上註︵29︶参照︶︑﹃事物紀原﹄巻一〇︑律令刑罰部︑杖制. 滋賀﹁歴史﹂一〇三頁︒. 場合にもおおむね杖の執行後には編配が科されており︑現実に配役が行われた事例は未だ見出せない︒ ︵33︶. ︵﹁︵宋朝会要︶又目︑⁝⁝建隆四年︑張昭等定常行杖︑昭請︑官杖長三尺五寸︑大頭闊不過二寸︑厚及小頭径不過九分︑小. ︵4 3︶. 一百折二十︑以次為差︑. などにも記載されている︒なお︑答刑の執行に用いられなくなった小杖の規格が規定されていた理由は不明である︒. 杖長四尺五寸︑大頭径六分︑小頭径五分︑今官府常用者是︑此蓋其始也﹂︶︑﹃宋刑統﹄巻一︑名例律︑五刑︵﹁□□□□□□ □□□□□条︑其今常行杖制□□□□□□□□尺五寸︑大頭闊不得過二□︑□不得過九分︑小頭径不得過九分︑依此行用﹂︶. ﹁唐室⁝⁝答杖皆用竹︑⁝⁝皇朝建隆四年︑太祖皇帝神智英武︑自立一王之法︑始建折杖之制︑. ﹁︵建隆︶三年︑定折杖法︑⁝⁝常行官杖︑如周顕徳五年制﹂︵﹃通考﹄巻一六六︑刑考五︑刑制︶︑﹁太祖受輝︑始定折杖之. 要︶又日︑⁝⁝建隆四年︑張昭等定常行杖︑⁝⁝今官府常用者是︑此蓋其始也﹂として︑建隆四年に創始されたものとする︒ ﹁自定折杖之制︑長短広狭︑皆有尺度︑而軽重無準︑官吏或得任情︑至是︑有司以為請︑乃詔︑凡所用杖︑重無過十五 両︑施印其上︑責所部常験視之﹂︵﹃長編﹄巻一〇八︑仁宗︑天聖七年八月戊戌︶︒ただし﹃宋史﹄巻一九九︑刑法志一は天 聖六年︵一〇二八年︶に﹁自定折杖之制︑杖之長短広狭︑皆有尺度︑而軽重無準︑官吏得以任情︑至是︑有司以為言︑詔欝. 如周顕徳中制﹂︵﹃九朝備要﹄巻一︑太祖皇帝︑乾徳元年三月︶︒ただし﹃事物紀原﹄巻一〇︑律令刑罰部︑杖制は﹁︵宋朝会. 制︑⁝⁝常行官杖︑如周顕徳五年制﹂︵﹃宋史﹄巻一九九︑刑法志一︶︑﹁定折杖法︑⁝⁝至是定折杖法︑常行官杖︑厚薄長短︑. ︵36︶. 杖制用木而大於塞︑各有軽重之令︑犯徒者加杖免役︑犯流者加杖配役﹂︵張方平﹃楽全集﹄巻二四︑論事︑請減刺配刑名︶︒. ( 35 ). 過十五両﹂という記事を載せ︑﹃長編﹄より一年早いものとしているが︑ここでは﹃長編﹄に従う︒. ( 37 ).
(15) ︵43︶. ︵42︶. ︵41︶. 慶元断獄式︑獄具﹁杖︑重萱拾伍両︑長止参尺伍寸︑上闊武寸︑厚玖分︑下径玖分︑答︑止躍尺︑上闊陸分︑厚睦分︑下. ﹁署杖背杖は共に附加刑なり﹂︵浅井﹃法制史﹄二七九頁︶︑﹁流徒には脊杖十三から二十を附加し︑杖答にもそれぞれ唇. ︵光明日報出版社︑=九八七年七月︶一七四−五頁︑蘇梅卿主編﹃中国法制史教程﹄︵中国政法大学出版社︑. 一九八八年三. ﹁附加刑﹂説に対する批判は醇梅卿氏によって詳細に行われている︒その要旨を述べると︑﹁附加刑﹂説を採るならば︑. 月︶二一六頁 な ど ︶ ︒. 宋代折杖法 初 考. 九一. ﹁︵乾徳元年三月︶癸酉︑定常行杖法︑答杖流流︑各有数﹂︵司馬光﹃稽古録﹄巻一七︑本朝一︶︒﹃事物紀原﹄﹃九朝備要﹄につ. ﹃注釈﹄正一八頁︒. 戴炎輝﹃中国法制史﹄︵三民書局︑一九六六年六月︶九五頁︒. 唐律の原刑の等級差は折代後も明かである︒③﹁放﹂字が杖執行後即時釈放することをあらわし︑﹁折減﹂の意義を明確化 する︒として︑﹁代用刑﹂説に賛意を表している︵藤﹁辮析﹂九〇i一頁︶︒. ては﹁折減﹂の意が失われる︒流徒については附加刑︑答杖については折減刑だとしても︑同一規定中に二種の刑制があら われるのは不可解である︒という矛盾が生ずる︒一方︑﹁代用刑﹂説を取れば︑①﹁附加刑﹂説の④の矛盾が生じない︒②. 刑統﹄所載の折杖法中︑徒杖答刑についての﹁決脊︵轡︶杖××﹂のあとに附された﹁放﹂字を解しえない︒④答杖につい. ①﹁折杖法﹂はむしろ﹁加杖法﹂と呼ばれるべきである︒②杖刑以下については単に杖数を増加させるだけである︒③﹃宋. ︵如︶. 三月︶二八五頁など︶が︑ここ数年来︑﹁代用刑﹂説を採るものも増加してきている︵法学教材編輯部︽中国法制史︾編写 組・張晋藩主編﹃高等学校法学試用教材 中国法制史﹄︵群衆出版社︑一九八二年七月︶二四七頁︑蒲堅主編﹃中国法制史﹄. 多かった︵張晋藩・張希城・曾憲義編﹃中国法制史﹄第一巻︵中国人民大学出版社︑ 一九八一年四月︶三一五頁︑肖永清主 編﹃中国法制史簡編﹄上冊︵山西人民出版社︑一九八一年六月︶四〇九頁︑周密﹃中国刑法史﹄︵群衆出版社︑ 一九八五年. れ︑杖以下で肇刑の折婆行われた﹂︵同書二八養註e︶.なお︑中国の最近の教科書類では﹁附加刑﹂説表るものが. らば轡杖二十に折減し︑ともに通行杖によって執行した︒⁝⁝宋では折杖法制定後︑徒以上では一種の附加刑の折減が行わ. 杖七から二十を附加した﹂︵陳﹃法制史﹄二八Oー一頁︶︑﹁もし律によって本来答五十ならば瞥杖十下に折減し︑杖一百な. ︵39︶. 径が五麓減ぜられ︑厚さの規定が新設されている︒. 径蹄分﹂︵﹃慶元条法事類﹄︹﹃条法事類﹄︺巻七三︑刑獄門三︑決遣︑労照法︶︒小杖は建隆四年制より︑長さが五分︑最小直. ( 38 ).
(16) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. 九二. いては註︵29︶︑﹃律音義﹄については註︵雛︶︑﹃楽全集﹄については註︵3 5︶参照︒二のほか﹃宋史﹄巻一︑太祖本紀一の﹁︵乾徳. ︵44︶. 註︵29︶ 参 照 ︒. ﹃宋史﹄巻一九九︑刑法志一︒. 元年三月︶癸酉︑班新定律﹂という記事も折杖法の制定を述べたものである︵沈家本﹃歴代刑法考﹄律令六︑新定律︶︒. ︵45︶. ﹃宋刑統﹄巻一九︑賊盗律︑強盗窃盗︒. ﹃宋史﹄は元至正五年︵二一一四五年︶︑﹃通考﹄は元延祐四年︵=一二七年︶成立︒これに対し︑﹃稽古録﹄は司馬光︑﹃事 ︵46︶ 物紀原﹄は高承︑﹃長編﹄は李煮と︑いづれも宋人の撰であり︑﹃九朝備要﹄は紹定三年︵一二二九年︶に成立している︒ ︵47︶. 蘇﹁辮析﹂九一頁︒︵. 同前︒. すでに本文および註に挙げたもののほか︑﹁律是歴代相伝︑勅是太祖時修︑律軽而勅重︑⁝⁝勅中上刑重而下刑軽︒如律. 同前︒. ︶内は原註︒. ︵49︶. ︵48︶. ︵50︶. 中杖一百︑実有一百︑勅中則折之為二十︹五折一︺﹂︵﹃朱子語類﹄巻一二八︑本朝二︑法制︶︑﹁祖宗覧既往之弊︑闘除煩苛︑. ︵51︶. ﹁古者行杖︑民多致死︑太祖皇帝折刑一百︑止断二十︑而刑罰軽臭﹂︵黄震﹃黄氏日抄﹄巻八O︑公移三︑漸東提挙︑引放. 顧我細民︑愛同赤子︑始用折杖之法︑新天下之耳目﹂︵﹃歴代名臣奏議﹄巻二一六︑慎刑︑仁宗時︑審刑院詳議官孫芥上奏︶︑. ﹃宋史﹄巻二六三︑張昭伝︑﹃東都事略﹄巻三〇︑張昭伝︒ 杖の規格についての規定が顕徳五年の制を踏襲したものであることを考えれば︑折杖法的立法が後周朝にも行われていた. 詞状榜︶など︒ ︵52︶. 可能性がある︒. ︵53︶. 第二節 宋代の法定刑と折杖法の役割 ︵54︶. 折杖法が発せられたあと︑宋代の法定刑はいかなる変容を遂げたのであろうか︒果して﹁新しい法律体系がその現. 実的機能を増しておそらく宋刑統にとってかわ﹂り︑﹁唐末以降に出された詔勅に設定されていた刑罰は︑凡て律の.
(17) ︵55︶. 五刑とは異なるもの﹂になったのであろうか︒ ︵56︶. ︵57︶. ︵58︶. 試みに建隆四年以後の宋代における法定刑を概観してみると︑このような考えは必ずしも成り立たないことが明か. になってくる︒たしかに太平興国二年︵九七七年︶の塩法︑権暮法︑輸入貴重品に関する専売法などには﹁決杖﹂﹁杖. 脊﹂﹁脊杖﹂﹁配役﹂などが法定刑として規定され︑﹃宋刑統﹄には八四!五頁前掲の強窃盗に関するもののほか︑. 臣等参詳︑今後故殺官私馬牛者︑請決脊杖二十︑随処配役一年放︑殺自己馬牛︑及故殺官私馳駅騒者︑並決脊 ︵59︶. 杖十七放︑殺自己馳駅鰭者︑決衡杖十七放︑故殺他人犬者︑決黙杖十五放︑殺自己犬者︑決殿肉杖十下放︑殺悪畜. 産者︑准律処 分. 臣等参詳︑今後応有盗官私馬牛及雑畜而殺之︑或因雛嫌憎嫉而潜行屠殺者︑請並為盗殺︑如盗殺馬牛︑頭首処. 死︑従者減一等︑盗殺駝駆臆者︑計生時価︑佑賊銭定罪︑各准近勅処分︑罪不至死者︑加凡盗二等︑加不至死︑ ︵60︶. 盗殺犬者︑決衡杖十七放︑如有盗割牛鼻︑盗研牛脚者︑首処死︑従減一等︑瘡合可用者︑並減一等︑如盗割盗研. ︵63︶. 至三頭者︑難 瘡 合 可 用 ︑ 頭 首 不 在 減 死 之 限 ︵61︶ 臣等参詳︑今後有故焼人屋舎︑蚕籏及五穀財物積聚者︑首処死︑随従者決脊杖二十 ︵62︶ という三条の起請に﹁殿肉杖﹂﹁脊杖﹂﹁配役﹂が規定されており︑これらは﹃宋刑統﹄の発布すなわち建隆四年七月ま. でに立法されたものと考えられる︒また︑窃盗については雍煕二年︵九八五年︶に ︵64︶ 窃盗満十貫者奏裁︑七貫︑決杖黙面隷本城︑五貫︑配役三年︑一貫︑一年︑他如旧制. 九三. という立法もなされている︒しかし︑法文上に明かに﹁脊杖﹂﹁啓杖﹂が規定されているのは︑天禧四年︵一〇二〇 宋代折杖法初考.
(18) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. 年︶一二月の. 九四. 知開封府呂夷簡言︑請今後応賊人窃盗持杖穿摘五貫以上︑強盗満三貫及持杖罪不至死者︑更不部送赴闘︑只委. 逐処依法決脊杖二十︑内身首強壮者︑刺配五百里外牢城︑兇悪難恕者︑刺配千里外遠悪州軍牢城︑若老小疾病久 ︵65︶. 遠不堪充軍役者︑依法施行︑事下法寺︑既而言︑旧条皆押赴闘︑今請如庚簡所奏︑詔可︑傍候断詑︑刺指揮二 字︑取転運使指揮移配. という強窃盗に関する起請がおそらく最後のものである︒これ以後にも﹁決杖﹂﹁杖脊﹂﹁決配﹂などの文言を有する ︵66︶. 規定は存在するけれども具体的な杖数や配役の年限は記されていない︒そしてむしろ法定刑は︑真宗朝から仁宗朝を. 境として︑唐律的五刑へと回帰して行くのである︒たとえば強盗については天聖六年︵一〇二八年︶に ︵67︶. 是歳改強盗法︑不持杖不得財︑徒二年︑得財為銭万及傷人者死︑持杖而不得財︑流三千里︑得財為銭五千者 死︑傷人者殊死︑不持杖得財為銭六千︑芳持杖︑罪不至死者︑傍刺隷千里外牢城 ︵68︶. という規定が置かれて﹁徒二年﹂﹁流三千里﹂が法定刑となり︑塩法にも景祐元年︵一〇三四年︶以前にすでに五刑 的刑罰が規定されていたが︑さらに元祐五年︵一〇九〇年︶には. 刑部言︑犯外界青白及穎塩︑一両︑杖八十︑一斤︑加一等︑過徒一年︑十斤︑加一等︑一百斤︑皆配五百里本. 城︑一百二十斤︑絞︑再犯杖︑鄭州編管︑再犯徒一犯流︑皆配本城︑結集徒党持杖興販︑依興販物法︑一百二十. 斤︑皆絞︑即非興販者︑二分以一分定罪︑罪止流三千里︑罪至流︑配本城︑二百四十斤︑配五百里本城︑親入外. 界博買者︑不以首従及興販非興販︑一斤︑徒三年︑三斤︑加一等︑四斤︑配千里︑七斤︑配二千里︑井本城︑十.
(19) ︵69︶. 斤︑配広南︑二十斤︑絞︑以上井許人捕︑罪至死者奏裁︑従之 ︵70︶ という立法がなされ︑本刑を五刑によって規定し︑これに編配を附加するという体裁が整えられている︒そしてこれ. 以後︑﹃長編﹄﹃宋会要﹄﹃要録﹄﹃建炎以来朝野雑記﹄﹃皇宋中興両朝聖政﹄などの史書にあらわれる刑罰法規の法定. 刑は︑本刑として五刑が規定され︑これに刺︑編配︑令衆などが附加されるようになるのである︒これは﹃条法事. 類﹄に載せられた勅の刑名についてもあてはまり︑南宋の判語に引用された勅もまた同様なのである︒ ︵71︶. しかし︑現実に実刑として施行されていた刑罰は︑あくまでも折杖法によって読み替えられた刑罰である︒たとえ. 史料に﹁徒三年﹂が判決されていたとしても︑実刑として執行されるのは﹁脊杖二十﹂なのである︒ ︵72︶. 有僧恵信者経開封府訴︑僧録司吏受賊違法差僧︑及無戒牒沙彌等赴福宵殿道場冒受恩沢︑知府察京愚僧録司回 申︑恵信坐妄訴︑杖轡二十︑⁝⁝開封前此謂︑穂信為不干己︑以杖一百坐之臭. 御史中丞趙君錫等言︑臣伏見近降勅命︑任永寿特依大理寺前断︑決轡杖二十︑千里編管︑臣等取会刑部大理寺 ︵73︶ 元断公案詳究︑乃是先勘到永寿受任中立賊︑係犯倉法︑流罪編管該赦外︑其報上不実未奏︑減一等︑断杖一百 ︵74︶. ︵75︶. ︵76︶. などの事例では︑いづれも﹁杖一百﹂が現実には﹁轡杖二十﹂として執行されたことが示されている︒このほか﹃長 ︵77︶. 編﹄﹃宋会要﹄にあらわれた︑実刑としての杖数には﹁脊杖二十﹂﹁脊杖十七﹂﹁腎杖二十﹂があり︑いづれも折杖法 の規定する杖数と一致している︒. それでは︑宋代の勅は︑なぜ現実に執行しない五刑的刑罰を法定刑として規定していたのだろうか︒それは宋代の. 九五. 刑事手続が唐代法の規定どおりに︑あるいはこれを若干修正して行われていたからである︒ここではその全容を示す 宋代折杖法 初 考.
(20) 早法六五巻四号︵一九九〇︶ ︵78︶. ことはできないが︑以下にいくつかの例を挙げてみよう︒ まず︑慶元断獄令には次のような規定がある︒. 九六. 諸犯罪︑皆於事発之所推断︑杖以下︑県決之︑徒以上︹編配之類応比徒者同︑鯨条縁推断録問称徒以上者︑准此︺ ︵79︶ 及応奏者︑並須追証勘結円備︑方得送州︑若重罪己明︑不擬検断而本州非理駁退者偲離駁︑提点刑獄司覚察按治. これは犯罪の裁判管轄と終審機関に関する規定であるが︑事件地主義を宣言したあと︑杖以下については県が判決執. 行し︑徒以上および奏裁すべきものについては取調べが終了し次第州に送付することなどが規定されている︒ここで. は﹁杖以下﹂﹁徒以上﹂という︑犯罪に適用される五刑の刑名によって︑終審機関が区別されているのである︒これ. は唐獄官令の ︵80︶ 諸犯罪者︑杖罪以下︑県決之︑徒以上︑県断定︑送州覆審詑︑徒罪及流︑応決杖若応膿者︑即決配徴瞭. という規定を修正して継承したものであり︑北宋の史料に見られる断罪機関に関する規定も五刑の刑名を基準として ︵81︶ いて︑﹁轡杖﹂﹁脊杖﹂などの刑名は一切あらわれない︒. 次に︑慶元名例勅には次のような規定がある︒. 諸応比罪者︹謂犯編配応当腰︑及謳告出入之類︺︑配沙門島比流 肝里︑鹸刺面配比徒参年︑不刺面配比徒. 肝里︑毎半年加伍伯里︑満陸年者比加役流︑聴用官当減腰︑不在除名之例︹官当者准徒陸年︑応蹟者理銅. 年︹配軍︑配沙門島者比徒参年︑鹸刺面配者比徒試年︺︑編管移郷比徒壷年︑其本罪徒以上︑傍通比満難年者︑. 比流. 伯斤︺︑命官勒停衝替︑挙人永不得応挙︑流外品官勒停︹公人係職級及衙前職員若副尉亦同︺︑将校節級降補︑諸.
(21) ︵82︶. 軍降配︑僧道還俗︑本罪杖以下︹難無本罪同︺各比徒壼年 ︵83︶. これは比罪︑すなわち﹁閏刑の重さを正刑の尺度をもって計る場合の換算法﹂についての規定であり︑唐名例律の. 諸除名者︑比徒三年︑免官者︑比徒二年︑免所居官者︑比徒一年︑流外官不用此律︹謂以軽罪謳人及出入之 ︵8 4 ︶. 類︑故制此比︑若所柾重者︑自従重︺︑若謳告道士女官応還俗者︑比徒一年︑其応苦使者︑十目比答十︑官司出 入者︑罪亦如之. に相当するものである︒唐律では官に対する処罰としての除名︑免官︑免所居官︑僧道の還俗︑苦使が扱われている. のに対し︑慶元勅では編配がまず扱われ︑官吏僧道などに対する処罰はその後に規定されているが︑これら正刑外の ︵85︶ 処罰を正刑すなわち五刑に相当させることは︑唐律の註によれば謳告反坐︑罪の出入などの場合︑慶元勅の註によれ ︵86︶ ばさらに︑編配を購する場合にも行われる︒このような比罪の規定が宋代にも置かれたのは︑腰銅は唐律の規定がそ のまま適用されて五刑にもとづいて行われたからであるし︑出入については ︵87︶. 諸県以杖答及無罪人作徒流罪︑或以徒流罪作死罪送州者︑各杖壼伯︑若以杖答及無罪人作死罪送州者︑徒萱 年︑其故増減情状者︑各従出入法. 九七. 諸吏人故出入人杖以上罪︑難未決︑勒停︑徒以上罪︑難会恩︑傍永不叙︹失入死罪︑未決避罪逃亡者︑准此︺︑ ︵88︶ ︵89︶. 其受財出入死罪而罪不致死者︑難未得︑配広南︑従者配肝里. 諸官司失出入罪者︑依因罪人以致罪法. などの慶元断獄勅がいづれも唐断獄律の 宋代折杖法初考.
(22) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. 九八. 諸官司入人罪者︹謂故増減情状︑足以動事者︑若聞知有恩赦而故論決︑及示導令失実辞之類︺︑若入全罪︑以. 全罪論︹難入罪︑但本応収腰及加杖者︑止従収蹟加杖之法︺︑従軽入重︑以所剰論︑刑名易者︑従答入杖︑従徒. 入流︑亦以所剰論︹従徒入流者︑三流同比徒一年為剰︑即従近流而入遠流者︑同比徒半年為剰︑若入加役流者︑. 各計加役年為剰︺︑従答杖入徒流︑従徒流入死罪︑亦以全罪論︑其出罪者︑各如之︑即断罪失於入者︑各減三等︑ ︵90︶. 失於出者︑各減五等︑若未決放及放而還獲︑若囚自死︑各聴減一等︑即別使推事︑通状失情者︑各又減二等︑所. ︵95︶. 司已承誤断詑︑即従失出入法︑難有出入︑於決罰不異者︑勿論 ︵飢︶ という規定を前提とし︑従って刑名は五刑を前提として条文を構成しているからである︒ ︵92︶ このほか︑犯罪者の告発逮捕の賞銭は当該犯罪者が適用されるべき五刑の刑名を基準として定められていたし︑容 ︵93︶ ︵94︶ 疑者が獄中で施される枷の規格も︑盗犯が施される刺環の形状も五刑の刑名によって区別されていた︒さらには病囚 の取扱も五刑の刑名を基準にしていたのである︒. 刑事手続が唐律的五刑を軸として進められていたことは︑法文史料だけでなく︑現実の事件の記録によっても示さ. れている︒その一例として︑以下に紹興二年︵一一四一年︶一二月二九日に刑部・大理寺が尚書省に状進した︑岳. 飛の謀叛事件1いわゆる岳飛冤案1の判決原案である割子の一部を挙げてみる︒. 岳雲︑為写諮目与張憲称︑可与得心腹兵官商議肇画︑因此致張憲謀叛懸鞭︑除罪軽次等外徹腰録︑法寺称︑勅︑. 伝報朝廷機密事︑流三千里読枢断醒腰醐稚號︑不以蔭論︑勅㈱瀕録︑刺配比徒三年︑本罪徒以上︑通比満六年︑比加役 ︵96︶ 流︑律︑官五品犯流以下︑減一等︑其岳雲合比加役流私罪断︑官減外︑徒三年牌繧録︑追一官︑罰銅二十斤入官︑.
(23) 勒停︑看詳︑岳雲因父罷兵権︑輯敢交通主兵官脹慮︑節次催令得与心腹兵官肇画麟顛購撫脚心心︑因此致張憲提兵謀 ︵97︶ 叛綱砒騒轍購腰麟︑又伝報朝廷機密︑惑乱軍心働繧録︑情重奏裁︑岳雲犯私罪徒︑挙官見行取会鰹醸録︑候到別具施行. ︵98︶. ︵99︶. 岳飛の長子岳雲には︑張憲に謀叛を教唆し︑朝廷の機密を漏洩したという罪状につき︑勅によって流二千五百里配千 ︵㎜︶. ︵皿︶. 里が蔭を論ずることなく適用され︑これは比罪法によって徒六年すなわち加役流私罪に比罪され︑これは五品官であ ︵皿︶. るので一等が減ぜられて徒三年となり︑さらに官当によって徒二年が減ぜられて︑残る徒一年をもって︑最終的に膿. 銅二十斤︑勒停という判決原案が導ぎ出されている︒このように︑最終的に実刑の執行がなされない刑事手続におい. ては︑そこにあらわれる刑名は徹頭徹尾五刑的刑名であり︑折杖法的刑名はまったく姿をあらわさないのである︒そ れでは︑最終的に杖が執行されるべぎ場合はどうであろうか︒. 僧膵︑為制勘虚妄︑井見張憲等待背叛︑向脹慮言︑不如先差両隊軍馬輝鴨顯録︑防守総領運使衙門顯葡鞭︑井欲. 与張憲詐作枢密院割子儒纏録︑発兵過江︑及要摸揚枢密院印文懐蛎鞭録︑除罪軽外︑法寺称︑律︑謀叛者絞︑従︑減一 ︵鯛︶. 等︑其僧陸合流三千里私罪断︑合決脊杖二十︑本処居作一年︑役満日放鰍顯︑伽合下本処︑照僧人犯私罪流還. ︵鵬︶. 俗条施行︑情重奏裁 ︵取︶ 張憲に謀叛の助言をし︑枢密院の割子・印文を偽造した僧沢一には謀叛の従犯として流三千里が適用され︑折杖法に ︵価︶ よって読み替えて脊杖二十を執行︑一年間居作に服せしめることとし︑なお私罪流を犯したことにより還俗という措. 置を取るものとしている︒実刑たる脊杖二十と居作一年は適用が確定した流三千里を読み替えて執行されるのであ. 九九. り︑読み替えは五刑的刑名の確定後に行われることになる︒っまり宋代の刑事手続は実刑の執行直前まで唐律的五刑 宋代折杖法初考.
(24) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. 一〇〇. を刑名として運用され︑最終的に実刑を執行すべぎとぎになってようやく折杖法による読み替えが行われるのであ る︒. この意味で唐律的五刑は宋代の法体系の中に中核的な位置を占めて生ぎ続けていたと言いうるのであり︑それゆえ ︵斯︶. 宋代の勅はこれを法定刑として規定せざるをえなかったのである︒したがって折杖法は単に﹁唐末以降も変更する必. ︵齪︶. 要のなかった律の規定を用いる為に︑律の刑罰を勅の刑罰に読み替えたもの﹂ではなかった︒これは宋代に少数民族 を処罰するに際して五刑を罰銭に読み替えることとした. 応濾州新投降招附生界夷人︑今後如与漢人相犯︑並乞依漢法施行︑若是同類相犯︑乞比附贈州見行蛮人条制︑ ︵㎜︶. 以五刑立定銭数量減数目断罰入官︑応答罪三貫︑杖罪五貫︑徒罪十貫︑流罪二十貫︑死罪三十貫︑如無見銭送 ︵m︶. 納︑即乞以器甲或畜産井土産物竹木之類︑沽価折納入官 ︵m︶. という勅に類するものである︒つまり︑折杖法は﹁唐律については読替え規定であるが︑宋代の立法についていえば. むしろ定義規定であった﹂わけでもなく︑律勅双方の法定刑に関する読み替え規定だったのである︒. ︵図︶ 久保﹁規定﹂二九頁︒ ︵55︶ 海老名﹁体系﹂六四頁︒. ︵56︶ ﹁太宗太平興国二年二月十八目︑三司言︑準詔︑穎末塩応南路旧通商州府並令禁椌犯者差定其罪︑傍別定売塩価例著令︑ 請︑凡刮戯井錬私塩者︑応鍼土及鍼水並煎錬成塩︑拠斤両定罪︑一両已上︑決杖十五︑一斤以上︑決杖二十︑二十斤已上︑. 杖脊十三︑二十五斤已上︑十五︑配役一年︑三十斤已上︑十七︑配役一年半︑四十斤已上︑十八︑配役二年︑五十斤巳上︑二 十︑配役三年︑百斤已上︑二十︑刺面押赴闘︑応諸処池場主者︑井諸色人檀出池場塩︑或将盗販︑及以羨鯨衷私貨悪者︑並依.
(25) 前項条流︑監当主守職官︑不計多少︑並奏裁︑当加極典︑応私塩及通商地分塩入禁法地分︑ 一両已上︑決杖十五︑十斤已 上︑二十︑二十斤已上︑杖脊十三︑三十斤已上︑十五︑配役一年︑五十斤已上︑十七︑配役一年半︑七十斤已上︑十八︑配. 役二年︑百斤已上︑二十︑配役三年︑二百斤已上︑二十︑刺面送赴闘︑西路青白塩︑元是通商地分︑如将入禁法地分者︑準 一斤已上︑決杖十三︑十斤已上︑十五︑五十斤已. 前項私塩条例科断︑人戸所請蚕塩不許貨売貿易︑及将入州県城郭︑違者︑. 上︑二十︑百斤已上︑杖脊十三︑百五十斤已上︑十五︑配役一年︑二百斤已上︑十七︑配役一年半︑三百斤已上︑二十︑配役 三年︑五百斤已上︑二十︑刺面送赴闘︑⁝⁝持侯盗販私塩者︑三人已上持杖及頭首︑並処死︑若遇官司檎捕︑転敢拒捏者︑ 難不持侯︑亦処死︑若不持侯及不曾拒桿︑塩数至配役三年者︑杖脊二十︑刺面押赴闘︑其籐不以所犯塩数多少︑並杖脊二 十︑於本処配役三年︑⁝⁝従之﹂︵﹃宋会要﹄=二二冊︑食貨二三︑塩法雑録一︶︒. ︵57︶ ﹁太宗太平興国二年十二月詔︑日︑晋州馨官歳鶴不充入旧貫︑蓋小民逐末不服献畝︑因而為盗︑復齎販︑以交化外︑自今 販者︑ 一両已上不満一斤︑杖脊一五︑配役一年︑告人︑賞銭十千︑ 一斤以上不満二斤︑杖脊十七︑配役二年︑告人︑賞銭十. 場務内馨︑或倫盗興販︑及逐処場務将羨鯨馨貨衷私出売︑一両已上不満一斤︑量罪断遣︑捉事人︑賞銭五千︑一斤已上不満. 五千︑二斤已上不満三斤︑杖脊二十︑配役三年︑告人︑賞二十千︑三斤︑処死︑告人︑賞銭三十千︑場務主者井諸色人︑檀出. 三斤︑決脊杖十五︑配役一年︑捉事井告者︑賞銭十千︑三斤以上不満五斤︑決脊十七︑配役二年︑捉事井告者︑賞銭十五千︑. ︐五斤已上不満十斤︑決脊杖二十︑配役三年︑捉事並告者︑賞銭二十千︑十斤︑処死︑捉事並告者︑賞銭三十千︵以下略︶﹂. ﹁︵太平興国二年︶三月︑監在京出売香薬場大理寺丞楽沖著作佐郎陶邸言︑乞禁止私貯香薬犀牙︑詔︑⁝⁝応犯私香薬犀牙︑. ︵﹃宋会要﹄二二八冊︑食貨三四︑坑冶下︑馨場雑録︶︒. 拠所犯物処時佑債紐足阻銭︑依定罪断遣︑所犯私香薬犀牙︑並没官︑如外国蕃客公私人違犯︑収禁勘罪奏裁︑不得依新条例. ︵8 5︶. 断遣︑応干配役人︑並刺面配逐処重役︑縦遇恩赦︑如年限未満︑不在放免之限︑応有犯者︑令逐処勘鞠︑当日内断遣︑不得. 滝延禁繋︑婦人与免刺面︑配本処針工充役︑依所配年限満日放︑二千以下百文已上︑決著杖十五儲粥︑百文已下︑逐処量事. 科断︑二千已上︑決讐杖二十構酷︑四千已上︑決腎杖十五傭擬︑配役一年︑六千已上︑決脊杖十七︑配役一年半︑八千已上︑ 決脊杖十八︑配役二年︑十千已上︑決脊杖二十︑配役三年︑十五千已上至二十千︑決脊杖二十︑大刺面配沙門島︑二十千已. 一〇一. 上︑決脊杖二十︑大刺面︑押来赴闘引見︑応諸処進奉香薬犀牙︑即令於界首州軍納下︑具数聞奏︑其専人即聲表赴闘﹂︵﹃宋 会要﹄二二九 冊 ︑ 食 貨 三 六 ︑ 権 易 ︶ ︒. 宋代折杖法初考.
(26) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. ﹃宋刑統﹄巻一九︑賊盗律︑盗官私馬牛殺︒. 一〇二. ﹃宋刑統﹄巻二七︑雑律︑失火︒. ﹃宋刑統﹄巻一五︑厩庫律︑故殺誤殺官私馬牛井雑畜︒. ﹁︵乾徳元年七月︶己卯︑判大理寺事陵儀■等上重定刑統三十巻︑編勅四巻︑詔刊板模印頒天下﹂︵﹃長編﹄巻四︑太祖︶︒. ︵59︶. ︵磁︶. ︵60︶. ︵2 6︶. 首巻﹄東京堂出版︑. 一九七八年五. ﹁宋刑統は建隆後の変化を受けてゐないとも云ふことが出来よう︒一体︑宋に於ては建隆刑統が一度成つた後は之に手を ︵63︶ 加へることなく︑改正追補は別冊の勅或は申明で行つたのではなからうか﹂︵仁井田陞・牧野巽﹁故唐律疏議製作年代考 月に収録︒引用は後者による︶四二四頁︶︒. ︵上︶﹂︵﹃東方学報﹄東京一冊︑一九一一二年四月︒のち︑律令研究会編﹃訳註目本律令一. 一貫︑. 一年︑壱如旧制﹂とする︒. ﹃通考﹄巻一六六︑刑考五︑刑制︑太平興国十年︵雍煕二年の誤り︶五月︒﹃宋史﹄巻一九九︑刑法志一は﹁︵雍煕︶二. 揮兵士及諸色配役人等銭物︑其執役処並仰置簿次第均句差遣︑傍各用心部轄︑常須斉整︑無致別作過犯︑如違︑許人陳告︑ 勘逐不虚︑犯当行決配︑被取受却銭物人免罪︑陳告人若係忠靖六軍︑常与優軽処執役︑如是被取受却銭物人並不陳告︑致別. 一一年︶九月詔︑殿前侍衛司宣徽院三司軍頭司︑自今以請託為名︑率敏軍頭士縄銭者︑其同謀及受賊︑並処斬︑軍校知情 者︑連坐︑不知情者︑決配﹂︵同前︶︑﹁︵大中祥符八年︵一〇一五年︶︶六月詔︑忠栩六軍人員十将︑今後不得轍有取受本指. 敏︑⁝⁝自今年十月十日已前︑応曾率敏請求者︑並特放罪︑如有率敏物色見在者︑並給還本主︑今後尚敢瞼違︑其造意及行 用受賊者︑並当極断︑人員知情者︑同坐︑不知情者︑決杖配隷﹂︵同書一七一冊︑刑法七︑軍制︶︑﹁︵大中祥符︶四年︵一〇. 者︑許陳首︑免其罪﹂︵﹃宋会要﹄一六七冊︑刑法三︑訴訟︶︑﹁︵景徳三年︵一〇〇六年︶︶十月︑帝宣示御史台所勘神衛率. 按其状︑軍民剰掠財物者︑並論以軍法︑不知情者︑杖配宜州﹂︵同書巻五六︑真宗︶︑﹁景徳二年︵一〇〇五年︶六月十三日 詔︑諸色人自今訟不干己事︑即決杖枷項令衆十日︑情理富害屡訴人者︑具名以聞︑当従決配︑恐唱賊重者︑処死︑被恐唱. 四︑真宗︶︑﹁︵景徳元年︵一〇〇四年︶正月︶庚戌︑平虜城火︑焚雇舎甚衆︑詔閤門砥候謝徳権乗伝至寧辺軍︑会孫全照同. ︵一〇〇三年︶四月︶癸酉︑詔有盗主財者︑五貫以上︑杖脊黙面配牢城︑十貫以上奏裁︑而勿得私黙浬之﹂︵﹃長編﹄巻五. ﹁︵威平四年︵一〇〇一年︶︶詔︑禁軍非征行而因役亡者︑止決杖流配﹂︵﹃通考﹄巻一五二︑兵考四︑兵制︶︑﹁︵威平六年. ﹃宋会要 ﹄ 一 六 八 冊 ︑ 刑 法 四 ︑ 配 隷 ︒. 年︑令窃盗満十貫者奏裁︑七貫︑決杖鯨面隷牢城︑五貫︑配役三年︑三貫︑二年︑. ( (( 666564 ) )).
(27) 有彰露︑亦当重断﹂︵同前︶︑﹁乾興元年︵一〇二二年︶十二月詔︑今後差発諸軍人員兵士︑赴逐処本州︑長吏読示宣命不得 敏掠銭物︑与本押使臣殿侍傍責知委結罪文状︑管係詑起発︑如稽有違︑因事胃墨︑或人陳告︑人員都将︑並当決配︑元造意 掠銭物人︑処斬︑管押使臣殿侍只於兵士側近安泊︑不得入舘駅﹂︵同前︶などの真宗朝の事例にあらわれる﹁決配﹂の類は. ﹁決脊︵瞥︶杖××︑配役×年﹂という具体的な刑名を簡略化したものとも考えられるが︑﹁︵政和二年︵一一一二年︶︶八 月一日詔︑比来内外職事諸司官等有同列処︑多是独陳本処利害賞罰之類︑専一画旨︑不候通簸︑一面施行︑使賞恩不出於公 上︑罰怨帰於人主︑殊失事上之義︑自今諸司局所双員以上者︑並不許独員画旨︑如違︑官員坐流刑︑吏人決配︑令尚書省立. 法以聞︑伽御史覚察糾劾聞奏﹂︵﹃宋会要﹄一六五冊︑刑法二︑刑法禁約一︶︑﹁︵建炎四年︵一一三〇年︶八月︶丙戌︑寧遠. 軍節度使酸泉観使孟忠厚乞鰯太母所過秋税︑萢宗ヂ日︑頃已免夏税︑若復鰯放︑慮州郡経費有敏︑必至横敏︑上鰍然日︑常. 可貸也﹂︵﹃建炎以来繋年要録﹄︹﹃要録﹄︺巻三六︶︑﹁︵嘉定十六年︵二一二三年︶︶十一月六日︑臣僚言︑訪聞安辺所属官︑. 賦外科敷︑及賊吏害民︑最宜留意︑祖宗難崇好生之徳︑而賊吏死徒未嘗末減︑自今官吏犯賊︑難未欲訣鐵︑若杖脊流配︑不. 多不裏命使長︑転将毎目送下公事︑不問軽重︑遇夜寄銭塘仁和両県井諸廟尉司等処︑掩繋日久︑不即予決︑拘囚囹圖︑病. 許被寄禁人家属直経本台陳訴︑訪聞得実︑将当職官具申朝廷重賜錺責︑公吏決配︑従之﹂︵﹃宋会要﹄一七〇冊︑刑法六︑禁. 痛相纏︑前後死者不知其幾︑乞行下両県等処︑毎日仰官吏具本所有無送下寄収公事︑申御史台︑以葱稽考︑如或傍前違戻︑. ︵67︶. ﹁︵景祐元年︶四月五日詔︑諸色犯私塩興販入禁地︑旧条︑. ﹃通考﹄巻一六七︑刑考五︑刑制︑天聖六年︒ 一両︑杖八十︑十斤︑杖一百︑. 二十斤︑徒︷年︑二百斤︑加. 囚︶などの徽宗朝および南宋の事例にあらわれた﹁決配﹂は︑直接具体的な刑罰を前提としているとは思われない︒. ︵68︶. 役流︑比茶禁︑一両至二十斤︑答四十︑十斤︑加一等︑百斤︑徒一年︑四百斤︑加役流︑今以一両︑杖八十︑二十斤︑杖一 百︑四十斤︑徒一年︑毎四十斤︑加一等︑四百斤︑加役流︹以犯法者衆︑稽寛其禁︺﹂︵﹃宋会要﹄ 一三二冊︑食貨二三︑塩. 煕寧八年︵一〇七五年︶には﹁詔︑一司一務一路一州一県勅︑有称当行・亟断・決配之類︑並改為徒二年﹂︵﹃長編﹄巻二. ﹃長編﹄巻四五〇︑哲宗︑元祐五年十一月丁亥︒. た茶禁も︑すでに五刑的法定刑を有していたことになる︒. 法雑録一︶によれば︑景祐元年に制定された塩法だけではなく︑それ以前の塩法︵﹁旧条﹂︶も︑改正にあたって参考にされ. ︵69︶. 一〇三. 七〇︑神宗︑煕寧八年十一月乙亥︶という詔が下され︑勅条中のあいまいな刑名を徒二年に改めて︑五刑体系の中に組み入. ︵70︶. 宋代折杖法初考.
(28) 早法六五巻四号︵一九九〇︶. ︵1 7︶. ﹃長編﹄巻四五八︑哲宗︑元祐六年︵一〇九一年︶五月丙子︒. ﹃長編﹄巻三六〇︑哲宗︑元豊八年︵一〇八五年︶十月己丑︒. 実際に史料にあらわれる︑判決された刑名は︑五刑的刑罰の方が折杖法的刑罰よりも多い︒. れている︒ ︵2 7︶. 一〇四. ﹁康定元年︵一〇四〇年︶三月四日︑原州乾興塞主供奉官李継明監押殿直隊陪︑並特貸命︑決脊杖二十︑刺面配沙門島﹂. ︵3 7︶. ︵拠︶. 持杖彊劫︑賊満合処死︑特貸命︑決脊杖二十︑刺面配広南東西路逐州牢城﹂︵同書一六八冊︑刑法四︑配隷︶︑﹁︵元豊八年. ︵﹃宋会要﹄一七〇冊︑刑法六︑衿貸︶︑﹁煕寧三年︵一〇七〇年︶正月二十四日︑審刑院大理寺断︑通州百姓仇承広等九人. ・⁝:大理寺定断︑趙傭等会赦︑準律合決重杖処死︑刑部用例擬特貸命︑杖脊二十︑刺面配広南遠悪充軍﹂︵﹃長編﹄巻三五八︑. ︐︵一〇八五年︶七月甲寅︶先是︑曹州民随階等三人同劫南華県噸廉家財物︑以槍刺傷順廉︑既捉獲︑佑賊計六千九十九銭︑. ︑該赦応原︑詔各杖脊二十︑隈刺配三千里︑章聡等二千里﹂︵同書巻三三四︑神宗︶︑. ︵同書巻一五二︑仁宗︶︑﹁︵元豊六年︵一〇八三年︶四月︶戊辰︑大理寺上︑宜州下班殿侍指使呉道︑土丁指揮使程洪︑都. 哲宗︶︑﹁︵元豊八年︵一〇八五年︶八月癸酉︶上件三人︑於条皆合処死︑⁝⁝刑部一切検例︑擬特貸命︑決脊杖二十︑刺配断本 所牢城﹂︵同書巻三五九︑哲宗︶︑﹁︵慶暦四年︵一〇四四年︶九月庚午︶保州指使三班奉職張濱︑決脊杖二十︑刺配沙門島﹂. 頭章聡等遇 賊 不 力 戦 ︑ 致 殺 都 監 贋 慮. 一七〇冊︑刑法六︑衿貸の﹁︵天聖︶六年︵一〇二八年︶五月十二目︑貸鳳翔府蟄屋県尉孫周翰命︑. ﹁︵元豊七年︵一〇八四年︶四月乙未︶密州民苗茂投匿名書︑証告板橋鎮監官張献臣謀反︑有司言︑茂已経赦︑詔特杖脊二 十︑刺配沙門島﹂︵同書巻三四五︑神宗︶など︑脊杖二十はおおむね死刑から減等された結果︑刺配を附加して行われて. 決杖二+︑刺面配広南筆舞鞘︑以決百姓旧肇死輩︑而恩衿之﹂に毯われる﹁決杖二+﹂は﹁決脊杖二+﹂であろ. いる︒なお︑﹃宋会要﹄ うo. 衿貸︶︑﹁慶暦四年︵一〇四四年︶四月十日︑知秀州祠部郎中集賢校理銭仙芝︑特貸命︑決脊杖十七︑配沙門島︑遇赦不還﹂. ︵75︶ ﹁︵天聖︶四年︵一〇二六年︶二月二十四日︑開封府教学人董可道︑特貸死︑杖脊十七放﹂︵﹃宋会要﹄一七〇冊︑刑法六︑. ︵同前︶など︑脊杖十七も貸命の結果として執行されている︒ ﹁︵紹聖四年︵一〇九七年︶八月己丑︶御批⁝⁝︵大理寺︶推法司等当行人吏︑送開封府︑各決繋杖二十放﹂︵﹃長編﹄巻. 四九〇︑哲宗︶︑﹁︵崇寧三年︵一一〇四年︶︶四月甲辰朔︑尚書省勘会党人︑⁝⁝令具逐路責降安置編管等臣僚姓名下項︑⁝⁝. ︵76︶.
(29) 除名勒停編管真決人︑湖北路︑峡州騨陳︑決轡杖二十﹂︵﹃資治通鑑長編紀事本末﹄巻一二二︑徽宗皇帝︑禁元祐党人下︶な ど︒このほか︑﹁︵天聖七年︵一〇二九年︶二月︶癸酉︑⁝⁝︵曹︶利用弟左侍禁閤門砥候利渉︑前為趙州都監︑強市邸店︑. ︵﹃長編﹄巻一〇七︑仁宗︶︑﹁︵治平元年︵一〇六四年︶八月丙辰︶︵呂︶講言︑⁝⁝所謂大姦者︑任守忠也︑⁝⁝天聖中勾. 役軍士治第︑利渉時在京師︑亦詔劾於開封府︑法当奪三官勒停︑詔特除名編管︑既而趙州又言利渉嘗盗官物︑遂決杖二十﹂. 当御薬院︑坐教坊使佃隊公事︑配岳州︑章献太后令内供奉全克隆︑就福昌寺︑杖陪臨二十︑監送配所﹂︵同書巻二〇二︑英. ﹃宋会要﹄一七〇冊︑刑法六︑衿貸の﹁︵景祐元年︵一〇三四年︶︶七月十三日︑密州民劉道明王真貸命刺配広南牢城︑. 宗︶︑﹁︵煕寧八年︵一〇七五年︶九月乙酉︶詔進士江汝猷王方穀︑各決杖二十︑汝猷横州編管﹂︵同書巻二六八︑神宗︶など の﹁杖二十﹂が﹁脊杖二十﹂であるか﹁轡杖二十﹂であるかは不明である︒ ︵77︶. 毛晟三人決杖十七︑道明坐妄論王真︑計謀同事夜間聚会︑仮造剣霞草龍惑衆︑准条処死︑最等知妖妄不告︑合徒一年半︑特詔 衿之﹂という記事で毛晟ら三名が執行された﹁杖十七﹂は︑﹁徒一年半﹂よりも減等され︑しかも徒一年半に対応する杖数は. ︵曹︶酒当斬︑⁝⁝油之母妻皆縁坐徒三年︑詔︑杖殺隔︑妻論如法︑決其母杖十五﹂という記事で曹滴. 脊杖十五であるので︑﹁腎杖十七﹂ということになる︒しかし︑﹃長編﹄巻一〇七︑仁宗の﹁︵天聖七年︵一〇二九年︶正月︶. の母が執行された﹁杖十五﹂は ﹁徒三年﹂から減等されたものではあるが︑脊杖であるか啓杖であるかは不明である︒. 丙辰︑⁝⁝法寺議︑. 以下に挙げる法律文史料はその残存状況から南宋のものを中心とせざるをえないが︑南宋法と北宋法の問に根本的な断絶. はないはずであるから︑以下の主張は北宋についてもあてはまるものと思う︒. ︵78︶. 一般的なものとしては︑﹁令︑諸州答杖罪︑不須証逮者︑長吏即決之︑勿復付所司﹂︵﹃長編﹄巻二五︑太宗︑雍煕元年︵九. ﹃条法事類﹄巻七三︑刑獄門三︑決遣︑同︑推駿︒ 仁井田﹃唐令﹄七五七頁︒. ︵79︶ ︵80︶. 八四年︶八月戊寅朔︶︑﹁詔︑諸処長吏無得檀断︑徒杖以下︑聴与通判官等量罪区分﹂︵﹃長編﹄巻三七︑太宗︑至道元年︵九. ︵紐︶. 九五年︶正月丁卯︶︑﹁応論訴公事︑不得蕃越︑須先経本県勘問︑該徒罪以上︑送本州︑杖罪以下︑在県断遣︑如不当即経州 論理︑本州勘鞠︑若県断不当返送杖罪︑並勘官吏情罪︑依条施行﹂︵﹃宋会要﹄ 一六七冊︑刑法三︑訴訟︑威平元年︵九九. 一〇五. 八年︶十一月十七日詔︶︑庸に関するものとしては︑﹁詔︑以京朝官曾歴通判知県者四人︑分治開封府新旧城左右廟︑凡闘 訟︑杖六十已下情軽者︑得専決︑及通欠婚姻︑両主面語対定︑亦委理断﹂︵﹃長編﹄巻一二一︑神宗︑煕寧三年︵一〇七〇 宋代折杖法初考.
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るところなりとはいへども不思議なることなるべし︒
大きな要因として働いていることが見えてくるように思われるので 1はじめに 大江健三郎とテクノロジー
式目おいて「清十即ついぜん」は伝統的な流れの中にあり、その ㈲
これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,
点から見たときに、 債務者に、 複数債権者の有する債権額を考慮することなく弁済することを可能にしているものとしては、
わかりやすい解説により、今言われているデジタル化の変革と
とディグナーガが考えていると Pind は言うのである(このような見解はダルマキールティなら十分に 可能である). Pind [1999:327]: “The underlying argument seems to be
層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑