『金瓶梅詞話』における明代の文学言語
語法上の問題を中心に
序章 ……… 1 第一章 『金瓶梅詞話』の作者とことば ………8
0.はじめに 8
1.個人創作か集団創作か 8 1.1.「個人創作」の定義 1.2.「集団創作」の定義 1.3.論争のポイント 1.3.1.話本の形式
1.3.2.プロットの重複、矛盾、破綻 1.3.3.『金』以前の素材を大量に引用 1.3.4.言語の複雑さ
2.「文学言語」―小説を書く時の共通語 17 3.地蔵堂氏の二つの論考(1993と2002a) 20 3.1.“們”と“每”の分布
3.2.“別要”と“沒曾”
3.2.1.“別要”
3.2.2.“沒曾”
3.3.グループC、Dは補作ではない 3.4.まとめ
4.方言問題論争の趨勢 26
5.方言の下位分類―山東のどこなのか 28 5.1.臨清とする説
5.2.蘭陵とする説
第二章 成立年代と作者に関する問題 ………34
0.はじめに 34 1.出版までの流れ 34 1.1.写本で流伝する 1.2.蘇州で出版される 1.3.翻刻
2.作者と成立年代 38 3.言語学研究の貢献 40
第三章 語順の変化―“VO 在 L”と“把 OV 在 L”の例 ……43
0.はじめに 43
1.普通話と『金』の“VO在L” 43 1.1.普通話の“VO在L”
1.1.1.賓語の性質
1.1.2.動詞及び“在L”の性質 1.2.『金』の“VO在L”
1.2.1.賓語の性質
1.2.2.動詞及び“在L”の性質 1.3.小結
2.“VO在L”を用いる方言 51 2.1.呉方言の“VO在L”
2.2.現代広東語の“VO在L”
2.3.“VO在L”の背景にあるもの 3.明代白話小説の“VO在L” 55 3.1.『金』、『西』、『拍』の“VO在L”
3.2.小結
4.“VO在L”から見る内部差異 59 5.小結 60
第四章 「過去・已然」の否定副詞 ……… 61
0.はじめに 61
1.六つの否定副詞の歴史的背景 61 1.1.“未”
1.2.“未曾”
1.3.“不曾”
1.4.“沒”と“沒有”
1.5.“沒曾”
2.『金』の版本の特徴と否定副詞の分布 65 3.六種類の個性 66
3.1.“不曾”と“沒”
3.1.1.内部差異と両者の分布 3.1.2.それぞれの文法的特徴
3.1.3.それぞれの登場しやすい「場」
3.1.4.小結 3.2.“沒有”
3.2.1.文法的特徴
3.2.2.登場しやすい「場」
3.3.“未曾”
3.3.1.張恵英1999の検討 3.3.2.文法的特徴
3.3.3.登場しやすい「場」
3.4.“沒曾”
3.4.1.文法的特徴
3.4.2.登場しやすい「場」
3.4.3.第53~57回における“沒曾”
3.4.4.その他の作品に見える“沒曾”
3.5.“未”
3.5.1.文法的特徴
3.5.2.登場しやすい「場」
4.小結 88
第五章 疑問副詞“ 可 ” ……… 89
0.はじめに 89
1.現代の方言に見える“可VP”型疑問文 89 1.1.“可VP”は正反疑問文か
1.2.混合形式
1.2.1.上海方言の混合形式 1.2.2.蘇州方言の混合形式 1.3.その他の方言
2.白話小説における“可VP”型疑問文 93 2.1.“可VP”型疑問文の歴史
2.2『金』における“可VP”型疑問文 2.3.『儒』、『西』の場合
3.まとめ 101
4.余論―疑問副詞“可”のその後 101
第六章 禁止否定副詞“ 別要 ”について ……… 103
0.はじめに 103
1.“別”、“別要”の歴史 103 1.1.初出の時期
1.2.“別”、“別要”の形成 1.3.『金』以降の“別”、“別要”
2.『金』における“別”、“別要” 105
第七章 第 53~57 回の語法的特徴 ……… 107
0.はじめに 107
1.沈德符の見た詞話本と現存する詞話本 107 2.先行研究で指摘された特徴的な現象 108 3.小結 112
終章 ………115
0.はじめに 115
1.状況に応じた使い分け 115 2.今後の課題 117
参考文献 130
序章
『金瓶梅詞話』(以下『金』と表す。改訂版である崇禎本や第一奇書本は含まない。調査 に用いた版本は 1963 年大安書店から、日光山輪王寺慈眼堂所蔵本と徳山毛利氏棲息堂所 蔵本を併せて影印出版した『金瓶梅詞話』全五冊。テキストの詳細については後述)は、
明代を代表する長編白話小説のひとつとして、高い評価を得ている。文学研究者は勿論、
多くの言語学研究者が、この作品を対象とした研究に従事してきた。研究の材料として重 宝される理由として、しばしば「中国小説史上初めて一人の作者によって書かれた創作小 説」、或いは「当時の庶民の生活を話し言葉でありのままに描いた」といったことが挙げら れる。また、「明代中葉の山東方言に基づいて書かれた」ことを前提に、言語資料として使 用される根強い風潮がある。しかし、作者不明、成立年代不明の作品に、これほどまでに 過大な期待を寄せていいのだろうか。成立年代や地域がはっきりした、信頼できる資料を、
その時代や地域の言語の指標とし、語法面での特徴を断代史的に並べ、年表のように示す 研究は大切であると同時に魅力的であるが、この作品自体の語法史上の位置づけ、本当に 個人創作であるかどうかについての検証がまだ不十分なのではないだろうか。実際、個人 創作だという説に対して、語り物を書きまとめたものだという反論も多い。作者問題、方 言問題は、前世紀から今に至るまで議論が紛糾し続けている。仮に本当に、文人の創作だ ったとしたら、反映されているのは、当時の実際の話し言葉というより作者によるフィル ターがかけられている可能性が高い。本論文は、これらの問題に関する先行研究の整理、
新しい見方による論証を行い、『金』研究の基礎を固めた上で、語法上の特徴について論じ る。
本論文で語法上の問題を検討する目的は、『金』に見られる特徴的な現象を記述すること ではなく、ある語法形式が用いられる背景には、作者のどのような操作があるのかを探る ことである。この操作には、人物を描き分けたい、人物の感情を表したいといった意識的 なもの、作者が普段使っている方言の露出のような無意識的なものの両方を含む。具体的 には次のような作業を行う。
集団創作説の根拠の一つにも挙げられているが、『金』のことばは複雑だといわれてい る。何をもって複雑と言うか。方言問題に着目する場合が多い1が、『金』の語法に注目し て見ると、見かけは違っても同様な働きをする複数の文法形式がいくつか共存しているこ とに気づく。それらは大抵、互いに優勢と劣勢の関係にある。大体において、劣勢な方は
『金』以前の作品から見られるもの、優勢な方は後の作品に受け継がれ、中には今日の普 通話や方言に生き残っているものもある。このようなものは歴史的に交代関係にあると考
えられる。歴史的な交代についてのメカニズムは次のように説明することができる。
Hopper and Traugott2003:49によると、Aという規則或いは形式がBにとって替わら れる時、その変化は突然起こるのではなく、個人の話者においても、(その言語を話す)共 同体の中においても、しばらく両者は共存する。その様子を図式化したのが次の図である。
B
A> >B A
実際のところ、どの言語のどの時代でもこのような様相が見られる。言語は使い手によっ て常に変化させられており、いかなる時代にも何らかの言語現象が衰退したり新しく誕生 したりしている。『金』では、音韻、語彙、語法の各方面においてどれとどれがこのような 交代劇を演じているのか、そしてどちらが優勢なのか、それを知ることがこの作品の漢語 史における位置を知る手がかりとなる。例えば、接続詞及び副詞用法の“便”と“就”は、
歴史的に“便”が“就”に取って代わるという交替関係にある。明代の多くの白話小説で は両方とも見られ、その用例数の比率は作品によって違う。比率の差は、それぞれの小説 の基礎方言及び成立年代を表す指標2とすることが期待できる。
本論文では更に踏み込んで、共存状態にある複数の成分が『金』の段階ではどのような 要因によって使い分けられているのかを考える。例えば、植田1987a:84-86では禁止否定 の“不要”と“別要”の違いについて述べている。『金』に見られる禁止の語のうち、“不 要”は北方系、南方系を問わず多くの作品でよく用いられるものである。“別要”は、『金』
で初めて見られ、『金』の他には清初の『醒世姻縁伝』(以下『姻』)で常用されるぐらいで、
その後は衰退する(『紅楼夢』―以下『紅』―に2例だけ見える)。どう使い分けるかと言 うと、目上の人との会話には“別要”が用いられないが、罵る時には“別要”が多く用い られる。よって、“別要”は“不要”の卑近な表現ではないかと推測できる(第六章参照)。
また、曹煒2004:38-39では、人称代名詞の使用に関して、『金』の言葉の優れた点を分析 している。『金』の登場人物たちは、場面(ここでは相手との関係を指す)に応じて人称代 名詞―二人称ばかりではなく一人称も―を使い分けている。話し手と聞き手が同じ組み合 わせでも、話し手が会話の目的に応じて一人称と二人称を使い分ける場合があるという。
例えば第1回、潘金蓮は武松と話す時、丁寧な態度で接し、自分を“奴”と称し、武松を
“叔叔”と呼ぶ。絶えず“叔叔”と呼んでいたが、武松は特に何もしなかった。次に武松 が酒を飲むのに付き合った際には、武松をからかいながら、“我”と自称し、武松を“你”
と呼ぶ。曹氏曰く、これは潘金蓮が武松への好意を伝えているのだ。曹煒 2004 では詞話
本を調査対象としている(同:13注)。該当箇所は詞話本の1・13a3から1・18bである。潘 金蓮の人称代名詞の使用状況が、実際にどのように移り変わっていくか調べてみた。潘金 蓮は、初対面の場面からしばらくの間、武松との会話において自身を“奴(家)”と称する
(9 箇所)。武松と出会って一ヶ月後、一緒に酒を飲む場面の途中(1・17b)からは全て(6 箇所)“我”と称する。この中には武松を誘惑しようとして彼の怒りに触れ、怒鳴りつける 時の台詞も含まれている。但し、これは『水滸伝』(以下『水』)から引用してきた場面で あるので、他の例も示そう。女性が場面及び相手に応じて一人称を使い分けている用例は 他にもある。謙譲語“奴(才,家)”は、目上の人物との会話で使われることが多いが、同 じ相手に対しても状況に応じて使うときと使わないときがある。筆者が見つけた例だが、
例えば潘金蓮と西門慶の会話ではこんな使い分けが見られる。第 12 回、潘金蓮は、下男 の琴童と密通していることがばれて西門慶に問い詰められる(12・8b-10b)。この時、潘金 蓮は一人称として“奴(才,家)”を11 回、“我”を 4回使っている。これとは対照的に、
第 13 回、西門慶がまだ花子虚の妻であった李瓶児の家に出入りしていることに気づいた 潘金蓮が西門慶を問い詰める場面(13・9b-13・10a)では、“我”で通している。“老娘”(お っかさん)という尊大な言い方も織り交ぜている。
このように、一見複数の要素が入り乱れているような場合でも、状況によって使い分け られていることがあり得る。既に多くの指摘があるが、『金』の口頭語資料としての価値が 評価されているのは、庶民の生活を舞台に、老若男女、多くの登場人物の台詞を中心に物 語が展開していくからである。読んでいると登場人物一人一人のキャラクターが非常に細 かく作りこまれているのがわかる。とりわけ彼らの操る台詞が実に変化に富む。志村 1970:131では、「登場人物の性格はこれらの会話を通して、具象的に表される。『金瓶梅』
における各人物の形象化は、じつにこれらの洗練された会話によって行われる」、「人物の 会話のやりとりのうちに、多数の登場人物の群像は、それぞれの個性をもって描き分けら れる。とくに女性像における個性の創造は金瓶梅によってはじめてなしとげられる」と評 価している。先に述べた「使い分け」も人物の個性や、臨場感を出すのに一役買っている のである。
以上のようなことを考えていく上で避けて通れない問題がある。それは、冒頭でも述べ た『金』の基礎方言や作者の問題である。基礎方言が具体的にどこなのか、ということよ りもむしろ問題なのは、これが集団創作(或いは、「原作」に複数の人間による加工が施さ れた)であるか否かである。成立時期や地域が違うということがはっきりしているのは第 1~6回(6回分)と第53~57回(5回分)である。前者は一読すれば『水』からの引用であ ることがわかり、後者については、沈德符『万暦野獲編』(以下、『野獲編』)に、『金』が
蘇州で刊行される時点で「原本」の第53回から57回までの5回分が欠けており三文文士 が補った(“未幾時,而吳中懸之國門矣。然原本實少五十三回至五十七回,遍覓不得,有陋儒補 以入刻,無論膚淺鄙俚,時作吳語,即前後血脈,亦絕不貫穿,一見知其贗作。”)という記述があ る。この二つの部分に関しては最初から分けておくが、特に第53~57回に関しては、その 他の部分との違いに興味深い点が見られるので別に検討する。さて、この二つの部分以外 については果たして均質なものとして考えることは可能であるだろうか。研究を始めるに あたり、確定しておかなければならない。これについては第一章で検証する。
先行研究の成果を総合すると、作者は恐らく山東にゆかりのある人物で、自身の言語の 基盤をこの地方においていたのではないかと思われる。なぜなら『金』の物語の舞台は山 東南部で、その地域の地理が非常に詳しく描かれている4。その一方で呉語を初め多くの 方言が基礎方言の候補に挙がっている。集団創作説も後を絶たない。こちらの根拠は主に 四つある。①話本の形式を採っていること、②プロットの重複、矛盾、破綻、③『金』以 前の素材を大量に引用、④言語が複雑、といったことである。このうち言語の複雑さとし て、異質な方言が混入していることがしばしば指摘される。例えば、作品中に「呉語」的 な成分が見られ、原作者以外の呉語を操る人物が手を加えた後だというのだ。しかし、作 品内部に今で言う「呉語」やその他の方言区分に属する成分が見られるからといって集団 創作だということにはならない。先に挙げた四つのうち、他の三つのことに関しても個人 創作説からの反論がある。本論文第一章でこの問題に対処したいと思う。
なお、本論文では、この作品が「創作」であることを重視している。文面からして、口 頭語と判断して差し支えないことは勿論であるが、ありのままの、実際の話し言葉をその まま写し取ったものかどうかは疑わしい。文人のフィルターを通したものであるからには、
生の口語資料としては扱えない。しかし、筆者はこの点にこそむしろ『金』の言語資料と しての存在意義があると考えている。作者が創作の場面で、当時の口頭語を材料として、
どのような世界観を持って物語を紡ぎだしたのか、純粋な口頭語資料ではないからこそ、
創作の段階の様々な工夫を知ることができるのではないだろうか。『金』は会話文が七割を 占めると言われている。その会話文の担い手は老若男女、身分も立場も様々な登場人物た ちである。会話が交わされる場面も、家の中、職場、街中と、変化に富む。話者の性格や 場面に応じた違いを出すために作者はどのように言葉を選んだのだろうか。
以上を踏まえ、次の課題に取り組むことを本論文の目的とする。
1)中国小説史上初めての、個人創作の読み物であることを踏まえ、作者の言葉遣いに対 する工夫を考える。こちらが本論文の主題である。
2)第1~6回、第53~57回は、「本体」とは別人の手によることが認められる。第53~57 回とその他の部分にはどのような違いが認められるか。この違いから、当時文学を書くの に相応しいとされていた「文学言語」の一端を探る。
各論の内容はおよそ以下の通りである。
第一、二章は、本題に入る前の基礎工事的な内容である。第一章では、『金』の言語の方 言的位置づけを検討し、言語的に雑多に見えても、(第1~6回及び第53~57回を除いた「本 体」の部分は)一人の人物の言語体系に基づいて執筆されたものである可能性を検討する。
第二章では、成立年代と作者問題について言語学、文学の立場に基づいた様々な先行研究 を整理し、論争の歴史を概観する。
第三、四章では、第一章で『金』は個人創作という観点を定めたのに基づき、歴史的に 交代関係にある複数の文法成分を作者はどのように使い分けているかを考察する。第三章 では、語順は違うがいずれも「ものをどこかに置く」動作を表す“VO在L”と“把OV 在L”の二つの形式の用法について現代の普通話と『金』の状況の比較、現代方言での用 法、明代のその他の作品との比較を行った。現代の普通話では極めて限られた条件下でし か用いられない“VO在L”が、『金』ではしばしば用いられ、Vが表す動作も普通話のそ れと較べると多様である。“VO在L”を用いる現代の方言と比較すると、動補構造の仕組 みに共通点があることがわかる。『西遊記』(以下『西』)、『拍案驚奇』(以下『拍』)と比較 すると、書かれた地域の違いが反映される可能性が見えてきた。また、『金』における二つ の形式の割合を調べると、第 53~57 回と本体の部分で大きな違いがある。第四章では、
六種類ある「過去・已然」の否定副詞について、それぞれの特徴と用法について詳細に論 じた。『姻』ほどではないが、地の文と会話文の違いや会話の場の違いに応じて緩い区別が 見られた。
第五章では方言の問題にウェイトを置いた。朱德熙1985は画期的な論考であるが、“可 VP”を、“VP不VP”と相補分布する正反疑問文と定めてしまったため、なお議論の余地 がある。現代方言の状況や、その他の疑問を表すマーカーや方式との共起といった問題か ら、本論文では疑問副詞“可”を用いた是非疑問文と見做すことにして、“可”の疑問を表 す語気の強さに注目した。それぞれ異なる方言で書かれたと思われる時代の近い他の作品 とも比較し、方言間で疑問副詞“可”の疑問の語気の強さに違いが出ること、『金』の内部 差異とも呼応することを証明した。
第六章は、本文中で度々言及する『金』に特徴的な禁止否定副詞“別要”について詳し く説明するために設けた一章である。誕生に至るまでの経過や、『金』での用法について述
べる。
第七章では、第53~57回の問題についてまとめる。この五回分は、第三、四章の結果か ら鑑みるに、語法史的な変化が遅れていて(或いは今でも変化そのものが起こっていない 可能性もあるが)、また第三章、第五章の結果から、他の部分と異なる方言に帰納される可 能性が高いことがわかった。
終章では、主題に対する本論の結論をまとめ、今後の『金』研究の課題、特に語法、語 彙、文字、文学など、分野を超えた研究の必要性について考える。
※使用したテキストについて、佐藤2007に詳しいので参考にした。詞話本は1931年に山 西の介休県で発見され、北平図書館に収められた。抗日戦争期にアメリカ国会図書館に預 けられ、1975年、台湾故宮博物院に返還された。この原本の影印が複数の版元で影印され ている。最初に影印したのは古佚小説刊行会である。1933 年に縮印出版され、52 回の欠 葉部分は崇禎本で補われた(古佚本とする)。後述の同版を元にした大安本と比較すると、
この時点で、書き込みや、文字そのものの改訂があったと見られる。1957年には文学古籍 刊行社が古佚本を底本として影印した(古籍本とする)が、手を入れたため誤りが多くな っている。1988年4月に再版された。1982年、これを香港太平書局が影印出版した(太 平本)。日本の日光山輪王寺慈眼堂所蔵本と、徳山毛利氏所蔵本(棲息堂本)は、旧北平図 書館蔵と同版である(徳山本のみ第5回末尾の1葉が異なる)。劉輝1986:69 によると、
三つとも版式、文字が同じで 10 巻組で絵がない。但し、文の横についた圏点に異同があ り、同版ではあるが刊行の時期が前後していると思われる。1963年、大安書店でこれらを 補い合う形で併せて影印した(大安本とする)。この説明を元に以下のような図を作成した。
1931 山西・介休 日光山 徳山 抗日期 原本 ……… 同版 ……… 同版 アメリカ 収蔵
台北・故宮 北平図書館 影印 原本 影印(+改竄)
1931古佚本
影印(+改竄) 1963 大安本 1957・1988古籍本
影印? 影印(+改竄)
1978聯經本 1982太平本 *「出版説明」には「古佚本による」とある
(佐藤2007を元に作成)
以上のことから考えて、大安本が最も本来の形を残していると思われる。そこで、本論文 でも大安本に依った。先に述べたように、大安本は、日光本と徳山本を併せたものである が、第五巻の最後に、どの箇所が日光本に基づいているかを表す表がついている。第 94 回5葉の表裏だけは、北京図書館蔵影印本に基づいている。また、第 5回末尾の1葉は、
本文では日光本を用いているが、第一巻の付録に徳山本の該当箇所を付録としてつけてい る。小野・千田1972:42によると、徳山本の方が、版木が壊れたかなくなったかしたのを
『水』によって補ったということらしい。また京都大学には残本が一部あるそうである。
※詩、詞、曲の部分は調査の対象外とした。また、例文の日本語訳は特に断りがない限り 筆者=荒木による。適宜、小野忍・千田九一訳『金瓶梅』(平凡社1972、以下「小野・千 田1972」とする)も参照してある。
※『金』以外の作品や歴史的文献から例文を引用する場合は、原則として繁体字で表記す る。先行研究で、簡体字で表記されていても繁体字に直す。但し、現代中国語文法に関す る論著において簡体字で表記されている場合はそれに従う。作品名は日本漢字で表記する。
※文中で中国語圏の研究者の氏名や論文の題名を記す場合は、全て日本漢字で表記する。
巻末の参考文献一覧では、著者名・論文名ともに当該論文の表記に従う。引用した日本語 の論文中の中国語に日本語訳がない場合は、今回訳をつけ、「筆者(=荒木)訳」と記す。
※文法関係の術語の中には、研究者の間で一致していないものや、固定した日本語訳がな いものもある。本論文では以下のように対処した。
反復疑問文…正反疑問文で統一
動詞や形容詞の肯定形と否定形の繰り返し…正反並置構造(述語部分の肯定形と否定形 を並べた“VP不VP”によって文全体が疑問文になる場合は正反疑問文と呼ばれている。
しかし、この形式自体は、“去不去由你决定吧。”のように非疑問文内にも用いられ得る。
文中における働きに関わらず、この形式だけを単独で指し示す固定した用語は管見の限 り見つかっていないため)
第1章 『金瓶梅詞話』の作者とことば
0.はじめに
『金』の成立事情については未だ意見の一致を見ない謎が残されている。語法、語彙、
音韻など、『金』のことばについて考える時、作者については、具体的に誰なのか、とまで はいかなくとも、最低限、たった一人で書いたものなのか、複数の人物の手が加わってい るのかということは明確にしなければならない。これによって結論は大いに左右されうる。
本論文では、『金』の中で、人物や状況に応じた書き分けと語法の関係を調べることを目的 の一つとしている。同じ事柄を表すのに、場面によって異なる文法構造を選択して用いて いる場合、作者が一人であることが確実であるならば、作者が意図的に使い分けた可能性 が高い。集団創作、つまり複数の人物の手が加わってテキストが成り立っているならば、
別人の言語が混じった結果という可能性が生じ、本論文で想定しているような、個人の創 作時の工夫という問題ではなくなる。方言については、1930年代、鄭振鐸氏が「多くの山 東方言がある」と指摘して以来、激しい論争が行われている。論争の模様は後で詳しく述 べるが、これがまたなかなか意見が一致しない。
本章では、少なくとも現存するテキストのもとになるもの(「原作」と呼ぼう)を書い た原作者は一人であって、複雑に見える言語体系は一人の人物が書き表したものであるこ とを論証する5。更に基礎方言について先行研究のまとめと検討、考察を行う。
1.個人創作か集団創作か
『金』のややこしいところは、出版時の事情がはっきりしていないことである。次章で 詳しく述べるが、『野獲編』には、まず写本で出回ってから蘇州で出版されたと記されてい る。書き上がってから出版に至るまでの間に、何年或いは何十年かブランクがあったらし い。更に、現在見られるテキストには「新刻」の二字が冠されている。『野獲編』に蘇州で 出版されたとあるのは初版本で、現在見られるものは更に手が加わったものである可能性 もある。ここでは、写本として出回ることになった元の本を「原作」と考え、これの作者 について論じる。
1.1.「個人創作」の定義
ところで、個人創作、集団創作(中国語の論文ではしばしば“集体创作”と書かれてい る)とはそれぞれ一体どんなものを指すのか。現代の一般的な小説のように、一人の人物 が構想を練って執筆すれば個人創作といえよう。しかし、『金』の時代においてこのような 過程が確実に認められるかというとそうではない。荒木猛1986:32で次のようにあるのが
参考になる。
誰だかはわからぬが、「水滸伝」中の武松物語の一節から想を得て一篇の雄編を作ろう と考えた人間がかならずいたはずである。一旦創作された後、抄本筆写の段階や版を重 ねてゆく段階において、別人による加筆改筆の手が入ることは、過去の中国小説(いわ ゆる「旧小説」)にあっては珍しくないことであったから、この意味において「旧小説」
のうち純粋に個人創作作品と言えるものは皆無に近い。「金瓶梅」も例外ではなく、原 作の上に数人による改筆・加筆の手の加わっていることが推定されている。しかし、こ の作品を最初に構想した人がやはりいて、これを個人と考えるほうが妥当だと思う。
本論文でも、語り物を素材として取り入れることはあっても(これについては1.3.3.
で後述)、骨格が既にあったものを加工したのではなく、(歴史に名を残した文人かどうか はともかく)一人で構想した人物がいる場合を個人創作と考えることにする。
1.2.「集団創作」の定義
一方、「集団創作」と一口に言っても、いくつかの場合が考えられる。まず、長い期間 を経て集積した話本の集大成(この場合、書きまとめた人物がいると想定される。それが 一人であったとしても集団創作と見做されることが多い)なのか、或いは比較的短い期間 に複数の人物が書いた話を持ち寄って、それを書きまとめたのか。『金』に関わる論争では 大概前者が問題になる。しばしば、世代累積型と称される。
1.3.論争のポイント
羅德栄 2004:49 によると、『金』が文人による個人創作であるということは、流伝過程 の早い段階からの共通認識となっていた。明人が残している『金』の作者に関する伝聞で は、例外なく、紹興老儒6、金吾戚里門客7、嘉靖年間の大名士8、蘭陵笑笑生9、世廟一 鉅公(「世宗〔嘉靖帝朱厚婦〕の時代の官僚」の意味)10など個人と思われる名称を挙げ、
『金』を文人の独創であると見ているのがその証拠である。
集団創作説を最初に唱えたのは、潘開沛「《金瓶梅》的産生和作者」(光明日報195411) である。当時は、呉晗氏の非王世貞説(第二章参照)が広く信じられていたが、作者を探 そうにも突破口がなく、新しい資料も見つかっていなかった。潘氏は、「『金』を研究する ならば、これまでの記載に頼る以外に、作品そのものに頼らねばならない」として、この 本(『金』)そのものを利用して、本の中から作者や誕生の過程を探り出すことにした。最 終的な結論としては、『金』は『紅』のような一人の作者によって書かれたものではなくて、
『水』のように先に伝説や短い文章があり、それから長編小説になったのだという。つま り、ひとりの文人が書斎で創作したものではなくて、別々の時間、別々の空間に、多くの 説唱芸人たちによって作られた集団創作で、最後に文人による潤色や加工があったに過ぎ
ないのだという。その理由には大体次のようなことが挙げられている。第一に、『金』は平 話(語り物)であって現代の小説家が書くようなものではない。説話人自身の口調(“看官 聽說”、“話休絮煩”など)がそこかしこに現れている。第二に全書にわたり詞曲や快板(韻 や語呂のあった詞を竹の板を打ち鳴らしながら軽快に語る)が挿入される。詞曲や快板は、
作品に出てくる妓女によって、その他の人物によって、説話人自身が気候や景色を説明す るために(“但見”で始まる)、説話人が事件を解説するために(“有詩為證”で始まる)、
登場人物が自己紹介するために歌われる。第三に、書き方に多くの問題がある。例えば、
内容が重複すること、関係ないことが差し挟まること、つじつまが合わないこと、つなが りが悪いこと、各回のタイトルの平仄や字数があっていないことなどである。これだけ多 くのミスがあるということは、「大名士」の個人創作などではなく、多くの説話人がそれぞ れ編んだものをお互い写しあって、絶えず修正、補充、拡大、演繹したものと考えられる。
第四に、全体の構造や文章の技巧から見ても、多くの人の手がかかっていることがわかる。
第1回に、好色な女がごろつきと付き合って最後に殺されるということが前口上として書 かれているが、このことから見ると、作者の目的は、『水』の武松の兄嫁殺しを拡大させる ことにすぎない。もともとは、第87回で終わりだったのだ。春梅を主役とした第88回以 降は別人の続作である。更に、技巧から見ると前半50回分が最も良く、最初は前半50回 分しかなかった可能性がある。全部で四つの段落(50回以前、51~57回、58~87回、88
~100回)に分けられると潘氏は考えている。100回まで継ぎ足されたのは、「どんな本も 100回あってこそ及第、50回では話が始まったばかりで短すぎる」という意識があったこ と、87回までではまだ多くの人の因果応報の結末が書かれていないこと、聴衆のもっと聞 きたいという希望に答えるためという理由による。第五に、描写の仕方や淫猥な語彙の使 い方から説話人の創作とわかる。登場人物には知りえないようなこと(衣服の中の様子、
体型など)まで描写されていることがある。淫猥な言葉が多いのは、聴衆の興味を引くた めで、多くの弾詞にもこういうことは見られる。
個人創作説と集団創作説(世代累積型)間での以後の論争のポイントは、潘氏の説の中 にほぼ集約されている。いずれの説も同様な現象を指摘していながら、それに対する考え 方が違うのである。両者が注目している現象とは、おおまかにまとめると以下の四点であ る。
①話本の形式(説話人の決まり文句、詞曲の挿入)
②プロットの重複、矛盾、破綻
③『金』以前の素材を大量に引用
④言語の複雑さ
④以外は潘氏の説に見えるものである。以後、この四点について双方が潘氏の意見を追認、
補充したり、反論したりする形で論争が続く。ではこれらのポイント別に双方の立場の先 行研究を分類しよう。
1.3.1.話本の形式
まず、世代累積型から。傅憎享2000:237-263は、『金』の文面に見える説唱の形式を数 多く証拠として挙げている。まず「説話人の言葉が全書に満ち溢れている」ということで、
回や段落が“說話”や“却話”で始まること、“不說……且說”で転換させること、“話說 饒舌”“話休絮煩”“表過不題”“不必細說”で省略すること、他にも多数の説話人の決まり 文句を挙げているが、これだけでは話本とする証拠としては不十分である。何故ならば、
文人達の作る擬話本や章回小説もこのような形式を模倣するため、本当に話本であるかど うかの判別は難しい。しかし、擬話本や章回小説にはあり得ない書き間違いがあるという。
不說苗青逃出性命不題,單表…(47・8b)
“不說”と“不題”は同義反復(「~はさておき」)である。視覚に訴える読み物は文の流 れに対して厳格であるが、口頭語は比較的自由である。説話人は文章の規範をあまり気に しないから“不說”と“不題”が同時に出てくる、書きまとめた人物も無意識のうちに口 頭語の特徴を残してしまった、というのだ。他にも、説話人自身のための演じる時のメモ
(詞曲の冒頭部の後に「以下省略」を表す“云云”が出てくる)や、説話人と聴衆の交流
(聴衆が質問して説話人が答える)が見られる。崇禎本でこのようなものが削除され、説 唱の特徴がなくなったため、文人の創作であるという誤解が生じたのである。
張慶梅2003、2004でももともとは説唱の台本であったと考えている。2003では、民間 の説唱芸人の口調に文人(平民の暮らしに詳しい下層文人)の加工が施されたという陳詔 氏の説、芸人が話を記録するのに使ったと思われる同音字、簡体字、記号が大量にあると いう梅節氏の説を紹介し、多くの人の手がかかっているために方言が混ざっているのだと している。2004では自説を展開している。現代中国語において、二つの相補う事柄を並べ る選択疑問文は“是A还是B”のように、接続詞“还是”を用いる。『金』では、33 例の 選択疑問文があるが、そのうち 26 例が接続詞を用いずに二つの単語や文を続けて並べて いる。残り8例には接続詞“或,却,還是”が用いられている。『紅』では、接続詞を用いな いものはたったの2例である。選択疑問文の語気は、説話人があまり強く出さなかったた め文面には記録されず、“或,却”が記録されたのは、誇張の語気が強かったためである。
この点について個人創作説は当然、当時の擬話本の流行を根拠に持ってくる。形式をま ねることは可能である。まねる必然性があるかどうか説明しなければならない。
集団創作説を支持する傅憎享氏も認めているが、話本のスタイルをとることは、当時擬
話本が盛んに作られたことを考えれば少しもおかしなことではない。馬徴 1994:30-31 で 言うように、説唱であったにしては、『金』の出版以前に、この物語が社会に出回っていた という記録がない、擬話本はいろいろな時代の話本に取材するから時代の違う言葉が混じ るのは避けられない、内部の破綻や矛盾は、書写される間に起こったのに加え、我々の価 値観と当時の価値観の大きなずれに起因するもので、単に作者の問題ではないかもしれな い。
話本であった痕跡として必ず挙げられる“看官聽說”は、寺村 1976 によると『金』全 100回中45箇所で用いられている12。45箇所というのは『水』(百回本)で4箇所に用 いられているのと比べて格段に多い。これについて氏は次のように分析している。表記は 原文に従った。
『水』が、銘銘傳として、所謂、瓦舎説話人によって語られていた頃は説話人の個性に よって自由自在に「看官聽說」に始まる文が付加されていたことであろう。しかし、そ れが讀みものとしてまとめられる過程にあっては、もともとこの不安定な位置にある
「看官聽說」以下の文は、はぶかれたのではなかろうか、逆に、『詞話本』の方につい て言えば、當時盛んであった語りものを意識して、それを意識的に模倣するという形で 多用されたのではなかろうかと考えられる。(同:20-21)
これより後、より話本の形態を残していると考えられる「三言」よりも創作である「二拍」
の方に“看官聽說”が多いことを根拠に挙げている。更に氏は、この“看官聽說”が集団 創作説を否定する根拠になりうるという。“看官聽說”は作者の主張を吐露する時用いられ るもので、文章の流れを一旦止め、冒頭にこれを付して直接読者に呼びかける。例えば、
登場人物の心理を説明する時に用いられるが、このうち、第 31 回では以下のように使わ れている。
(西門家の番頭呉典恩は駅丞―宿場で儀仗・送迎・車馬の管理をする官―に取り立てられ、
役所にばら撒く金を西門慶に貸してもらう。その直後)
看官聽說,後來西門慶死了,家中時敗勢衰。吳月娘守寡把小玉配與玳安為妻。家中平安兒 小廝,又偷盜出解當庫頭面,在南瓦子[ネ里]宿娼,被吳驛丞拿住,痛刑拶打,教他指攀月娘,與玳 安有奸,要羅織月娘出官。恩將仇報。此係後事。表過不題。正是不結子花休要種,無義之人不 可交。(31・4a)
(皆様お聞きください。後に西門慶が死に、家は没落します。呉月娘は後家を通し、小玉 を玳安の妻とします。召使の平安はまた質入してあった頭飾りを盗み出し、南瓦子で女を 買いましたが、呉駅丞に捕まってひどく痛めつけられ、月娘が玳安と密通していると言わ されました。呉典恩は月娘を無実の罪に陥れ、恩を仇で返したのです。これは後のことな
のでひとまずおきますが、まさに実を結ばない種は蒔くな、不義の人とは交わるな)
ここに述べられている「玳安と小玉の結婚」、「平安の忘恩」などは 95 回に出てくること である。「つまり作者は第31回を書いている時点で、すでに西門慶の死後、どのように結 末をつけるか、すでに確かな構想を持っていたとも考えられる」13「作者が作品の全體構 造を、かなり若い回において明確にしていた形跡があること。これはやや武斷14ではある が、作者複數説を否定する根據の一つとならないであろうか。」(同:27)と結論を下されて いる。
説唱形式はあくまで見かけだけで、描写の視点は変わっているという説もある。石昌渝 1994:346-348では、語り手の視点が主観的ではなく客観的であることを根拠に原作が説話 でないことを論証している。曰く明代中期以前の白話小説は、叙述の方式の上で説話の表 現スタイルから脱却することができていなかった。叙述の方式とは、語り手が読者に向か って物語を展開し、人物を描写し、物語の中の様々なできごとに対して情理的、道徳的、
思想的、政治的な価値判断をする時に、用いる方式を指す。語り手は、自らの姿を隠して、
物語の中の人物やできごとについて意見を述べたりせず、物語の構造やレトリックを通し て自分の思想を表現する、客観的な叙述を行っても良いし、自分を物語に堂々と登場させ、
時折物語を中断して物語の中の人物やできごとに対して評論するばかりか感情を露にした 言葉遣いで自らの愛憎を表しもする、主観的な叙述を行うこともできる(説話人はまさに これである)。『金』は表面的には説話に近い。だからといって容易に説話の集大成だとい う意見が出ているがこれは違う。叙述については、『金』は客観的な立場に転換している。
確かに、作者は毎回何度も話を中断して出てきては意見を述べる。しかしこのような物語 に関係のない部分を除いた、物語そのものの叙述を観察してみると、主観的な立場を改め ていることが分かる。『水』と『金』の重複する部分に見える、潘金蓮と初めて出会った西 門慶の描写の中には、人柄は“奸詐”(悪賢い)、行動は“放刁把濫,說事過銭,排陷官吏”(言 いがかりをつけて何でも独り占めにし、口をきいてやって金を稼ぎ、役人を陥れる)とい う言葉が見られ、西門慶は出るや否や悪役のレッテルを貼られる。読者は自分で考える必 要もなく、西門慶の様子を知ることかできる。この部分にははっきりとした主観的な好み が述べられている。『金』でこの部分(2・6a-b)を借用した時には、“奸詐”は“浮浪子弟”
(道楽者)に、“放刁把濫,說事過銭,排陷官吏”は“說事過銭,交通官吏”(人のために口を きいてやって金を稼いだり、役人と交際したり)15に改められている。『金』の作者は西 門慶を美化してもいないが、貶める意味合いも薄れている。原文は主観的であったが、『金』
は客観的な陳述に近づいており、作者の態度や感情は隠蔽されている(以上要旨)。
1.3.2.プロットの重複、矛盾、破綻
簡単に言うと、世代累積型説はこの点に対する追求が厳しく、個人創作説は比較的寛容 である。まず、世代累積型説の立場であるが、劉輝1986:8-9では、『金』には各種韻文が 599種も見えており、長期間民間に流伝してから文人によって書きまとめられた『三』、『水』、
『西』よりも多いという。また、全体的に誤りや混乱が多いのは、元になった抄本が違う のに簡単にひとまとめにしてしまったためであるとして、できごとの重複、時間の混乱、
人物の混乱の具体例を挙げている16。例えば、人物の混乱では、安童という人物が三人、
来定が二人、楊二郎が二人、蘭花が二人出てくる。李智の息子は当初は李錦と呼ばれてい たのに、後で李活になっている。最も理解しがたいのは重要人物の春梅が、物語がもう終 わろうという第98回になってやっと姓が龐17だということがわかることである18。西門 慶と潘金蓮の物語は長期間流伝する間に、それぞれの説話人が創造力を発揮し、それぞれ の説話人の説唱を忠実に記録した抄本が合わさったからこのような事態は避けられなかっ たのだと主張している。
対して個人創作説の立場はどうであるか。澤田1965:268-269ではこう言っている19。 長編小説というものは、たとえ作者が単独の個人であっても、着手から完結までに相当 の年月を要するから、その間に記述の遺漏や前後の矛盾も続出し、甚だしきは収拾困難 に陥って未完成のままに放棄される場合もある。まして著作権もない古い時代の作品で は、執筆・伝鈔・梓行の手続きにも現代とは全く異なった条件が作用したから、章節に よっては記述の食い違う写本もできるわけで、これを以って直ちに口頭伝承を予想する 集団創作説の論拠とするのはあぶないようだ。(同:269)
羅德栄2004:50も、同様な現象は作家の個人創作と公認されている作品にもある、例えば
『紅』にも矛盾や齟齬はある、作者は何らかの理由で修正ができなかったとか、或いは書 写の段階で写し間違えたりしたのかも知れない、と寛容である。個人創作説に立つ研究者 たちは、「『金瓶梅』全作品をながめた場合、些細な混乱がみられるものの、作品の構成は しっかりしており、大きな矛盾はない」という日下1996:162の意見に代表されるように、
全体の整合性を重視している。先の羅德栄 2004:52-53 では、物語の複雑さに注目してい る。例えば第29回の呉神仙の人相占い、第49回の甲羅占いの、個人の占いの結果は後で その通りになる。また、説唱が元になっている場合は、聴いて理解しやすいように、常に 物語が(たまに“花開兩朵,單表一枝”と言って話が二つに分かれることはあるが)時系列 的に直線的に展開するのに対し、『金』の場合は主な物語を進めながら途中に他のことを差 し挟む、タテとヨコを組み合わせた方式を採り、空間的な広がりを出している。伝統的な 方式と較べると、物語の因果関係が緩く、平行して語られる物語も一度で終わることは少 なく、(伏線として)断続的に現れ20、説唱として聞いても分かりづらいであろう、と述
べている21。
事実関係からして説唱といえるかどうか怪しい、とも言える。齊裕乃 1997:269-270 で は、『金』が引用しているのは『水』の百回本だが、百回本がまとまったのは嘉靖年間だと すると、『金』の抄本が出てきた万暦20年前後(第二章参照)まで6~70年しかなく、「世 代累積」という可能性はない、宋朝に仮託してはいるが描いているのは明朝のことなのだ から宋や元から積み重ねられたもののはずがないことなどを理由に挙げている。また、馬 徴氏の説にも出てきたが、『金』には以前に語り物として演じられた記録がない。荒木猛 1990:2では宋以来の話を集大成し、それを明代になって急速に発達した口語表記の文体に よって著した『三国演義』(以下『三』)、『水』、『西』に対し、『金』は明代以前の発達の歴 史をもたず、ある作者の創意と工夫によって明代に忽然と現れた作品であると認めている。
1.3.3.『金』以前の素材を大量に引用
まずは世代累積型説の意見から。劉輝1986では、『金』に宋元の話本、元明の雑劇、伝 奇が大量に採録されているとして、いくつか例を挙げてみせてから、以下のように述べる。
八十万字もある『金瓶梅詞話』が、前人の作品を採録しているのは不思議なことではな い。しかし、これほど大量に、甚だしきに至っては一文字も変えずに丸写ししているの は、作家の創作としては拙劣な剽窃である。しかし、民間の説唱芸人であったなら説唱 の内容からそのまま借りてくればいい。なぜならば彼ら(説唱芸人)は作者になどなっ たことがない、或いはなろうとも思ったことがないからだ。もちろんこの作品の中身ま で状況が複雑になってしまったのは、多くの説唱芸人の間で長期間語られているうちに
(説唱の作品同士で)吸収され浸透した結果である。(劉輝1986:14-15,筆者=荒木訳) 個人創作説は、『金』以前からある作品を素材として取り入れることも、個人創作の過 程の一環と考えている。荒木猛1986: 31では以下のように言う。
今は「金瓶梅」の中に見える詩文や曲辞と類似のものが、某文人の作ったものの中にあ るからと言って、安易にその某文人を「金瓶梅」の作者ではないかと断ずる、いささか せっかちな論調があまりにも横行しすぎるように思われる。出版物の量がそれ以前に比 べ格段に増えた明代にあっては、他人の詩文を印刷物で見ることは相当可能であったは ずであるし、また当然のことながら著作権のなかった当時のことであるから、他人の詩 文のうち自分の気に入った部分を、適宜自己の小説の中に盛りこむことなどはおおいに ありえたのである。
「沢山ある中からこれらの素材を選びだし、そしてそれを適宜作品の各所に配置し、一篇 の長編を構成」(同:32)したのはこの個人の仕事と認める立場である。本論もこの立場に立 つ。
羅德栄 2004 も、説唱であったことを認めない立場である。世代累積型について、石昌 渝1994:290-344では二つに分類している。一つは“滚雪球式累积”(雪だるま式累積)で、
『三』、『隋唐演義』、『残唐五代史演義』、『封神演義』、『楊家将演義』などがこれに当たる。
もう一つは“聚合式累积”(寄せ集め式累積)で、『水』と『西』がこれに当たる。前者は 一つの祖本が次第に補充され充実した形になったもの、後者はいくつかの独立した平話や 話本小説が、互いに登場人物が時間的にも空間的にも共通していたり、主題に関連性があ ったりしたために寄り集まったものである。徐朔方氏22が既存の素材が引用されているこ とを世代累積型である根拠に挙げているのに対し、羅氏は、引用と世代累積を区別して考 えている。『金』には先人の作品が大量に引用されてはいるが、石昌渝1994の分類した二 つの世代累積型と『金』では、引用の仕方が違う。『金』に取り入れられた全ての素材は、
原文を離れ、借用されてからは『金』の有機的な部分となり新しい生命を獲得している。
このような取り入れ方は話本の集大成ではなく、作家の個人の創造でしかあり得ないとい う。
1.3.4.言語の複雑さ
集団創作説には『金』は言葉が複雑、雑多な言葉が混入している、それは『金』が一人 の人の手によるものではないからだと考える向きもある。
張慶梅2003:50に引用されている陳詔 1999の説では、人物の会話は北方語だが地の文 で少し南方語が現れるのは説唱芸術の状況を反映しているとしている(写定者は江南の人 だと思っている)。
黄森学 2002 では、一編の小説において女性が基本的な一人称代名詞として、ある時に は“俺、我”を、ある時には“妾、奴”を使う原因として、身分、地位、心情などに応じ た使い分けの他に、先人の多くの作品を「象嵌」している、つまり出来合いの素材を直接 持ってきたことをも挙げている。例えば『如意君伝』から引用した部分に一人称として“妾”
が見え、これを根拠に、「『金』は本当の意味では一人の人物の手によるものではない」
(同:68)という23。
地蔵堂 1993 は、いわゆる「呉語」的な要素が集中して現れる箇所を、別人の手が入っ た可能性のある箇所と指摘している(後述)。しかし、現代の区分に照らして、異なる方言 に帰納されるもの同士が一編の小説に混在しているからといって、部分ごとに別人が書い たと短絡的には言えない。性質の違う言葉が混在するのには、作者が複数いる以外にも理 由がある。まず、性質が違うということ自体が思い込みである場合。『金』に見える語彙A とBが、現代の分類に照らして別々のカテゴリー(例えば違う方言区分)に帰納されるも のであったとしても、当時も同じカテゴリー分けをしていたとは限らない。または、混在
しているとはいえ、何か一定の条件の下で使い分けていることが確認できる場合。例えば 語彙CとDは共に同じ意味を表すとして、話者が男性の場合はCを、女性の場合はDを使 う、或いは、フォーマルな場面ではCを、インフォーマルな場面ではDを使うというなら、
同一人物の言語体系に共存していても不思議ではない。次節で述べるのはこのようなこと である。
集団創作説と個人創作説の二つの立場から出された互いの問題点を矛盾なく解決し、結 論を出すのは容易なことではない。議論は平行線を辿っている。両者とも決定打はないが、
集団創作説は『金』以前に講釈があった証拠がない分多少不利ではないだろうか。そんな 中、突破口を探るべく、傅承洲 2005 では、文人によるリレー形式の「集団創作説」を提 案した。曰く、嘉靖年間末期、ある一人の文人が、『水』をもとに60回分ほどの物語を書 き(第一段階)、万暦24年から43年の間に上流文人の間で出回るうちに全100回にまで 増えたが、第53~57回が欠けた(第二段階)。万暦45年、呉の文人により欠けた五回分が 補われ、出版された。これが『金』の初刻本である。その後、「新刻」が出た(第三段階)。
崇禎初年、また『金』に手を加えた文人がいて、『新刻綉蔵批評金瓶梅』ができた。結果と して文人によるリレー方式の集団創作になったというわけである。1.3.で紹介した潘 開沛氏の説も、次第に付け足されていくという点では似ているが、潘氏は説唱の形で継ぎ 足されていくという立場である。
作者を特定しようという研究の詳細は第二章で述べる。本論文では個人創作説を一歩進 めるために、少し見方を変えて論証してみたい。
2.「文学言語」―小説を書く時の共通語
文学作品を書く場合、自分が普段使っている方言をそのまま使うとは限らない。多くの 読者を獲得するためには多くの人が読んでわかる言葉を選んで書くであろうことは想像に 難くない。地域や規模の大小に関わらず集団があれば、そこには話し言葉レベルでの社会 性を持った共通語があるように、小説を書く時にも広い読者層を想定した読み物用の共通 語があるはずである。これを地蔵堂2002aに倣って「文学言語」と呼びたい。読んでわか ればいいという性質からして、恐らく話し言葉よりは、個人語(ここではある特定の人物 だけの言葉に限らず、その人物の属する地域や家族などで通用する語も含める)の介入が、
ある程度許されるのではないだろうか。かといって現代の我々の目には、作品中の言語的 特徴のどれが読み物用の共通語である文学言語を意識したもので、どれが個人語の発露な のか、にわかには判じ難い。
従来、特に中国で行われてきた、個人創作か集団創作か、作者は誰か、基礎方言はどこ
のものかという諸々の研究の問題は、文学言語と個人語の区別を意識しないまま、『金』に 表れる言語的特徴を収集し、これはどこそこの方言であると帰納してきたことにある。個々 の言語的特徴が、文学言語を意識したものなのか、個人語の発露なのかで、結論は左右さ れる。文学言語を意識したものならば当時の文学言語の一端を伺わせる手がかりになり、
個人語の発露ならば作者個人の言語生活を知る手がかりとなる。
白話小説における文学言語と個人語の区別を意識した研究を行ったのは佐藤晴彦氏が最 初ではないだろうか。佐藤1985、1986では『平妖伝』を用いて、馮夢龍が口頭語の作品 を書く時の語彙、語法の傾向について論証している。『平妖伝』には羅貫中編次の20回本
(旧本)、馮夢龍が増補改訂したといわれる40回本(新本)がある。新本の増訂部分に現 れた言語的特徴は、改訂した馮夢龍の言語の特徴と考えられる。たくさん挙げられている が、その中で「もの」を表す“物事” (現代呉語で「もの」を表し、胡明揚氏は当時の呉 語と考えている)と“東西”の関係は注目に値する。佐藤氏の調査に依れば旧本に“物事”
は9個、“東西”は6個あり、新本では9個の“物事”はそのまま使われ、“東西”は新た に28個加えられている。これより、馮夢龍が「もの」という意味を表す用語としては“東 西”が普通であったと推測できる、と考えている(佐藤1985:10)。佐藤1986:178-179では 更に一歩進めている。同じく馮夢龍の編集した『山歌』に見える呉語(胡明揚1981「三百 五十年前蘇州一帯呉語一斑―《山歌》和《掛枝児》所見的呉語」『語文研究』第2期及び、
また、章一鳴 1986「《山歌》所見若干呉語語彙試釋」『語文研究』第 4 期所収の語彙)と 比べてみると、新本で増やされた語彙とそれほど重なるところがなく、むしろ呉語らしき 語彙を排除している傾向が見られるという。例えば先に引いた“物事”を馮夢龍自身が使 用しないことがこれに当たる。このように意識的に呉語を排除しようとする背景には、馮 夢龍自身が考える「共通語」のようなもののイメージがあるのでは、と分析されている。
馮夢龍は蘇州の人である。つまり、これらの傾向は、馮夢龍の私的な言語の表出というよ りも、自身が話していたであろう個人語としての呉語を創作の場では封印しており、共通 語たる文学言語を意識した結果ではないかと考えられる。
『金』の作者は、どんな文学言語を意識していたのだろうか。これを調べるには相当な 困難を極める。まず、作者が不明であるために、この人物の言語の基盤となった方言(い わゆる「基礎方言」)が確定できない。馮夢龍の場合と違い、確実にこの人物が書いたとい う著作と参照することもできない。更に、完成から出版まで、長年写本の状態で出回った という経緯がある。この段階で、写した人の言葉が混じる可能性は否定できない。『金』以 外の小説でも言えることだが、出版に当たり刻する段階でも全て原稿通りに彫られたとも 限らない24。
このような状況において、それでも『金』の作者の意識していた文学言語と、個人語の 実態を探るための努力が既に行われている。そのためにまずは、徹底的に客観的なデータ を取ることである。『金』においてどのような言語的特徴(本論では主に語法成分に注目す る)がどれくらいの頻度で見られるのか、偏った分布はしていないか。次に、明清期の別 の作品と比較をする。比較してみて、ほぼ『金』にしか見えないような独特な語法成分が あれば、それは作者の個人語に属する。もし、少数の別の作品にもそれが取り入れられて いるならば、その作品の作者と『金』の作者の個人語は何らかの共通点を有する可能性が ある。多くの作品と共通して見られる語法成分は文学言語と言ってよい。地蔵堂貞二氏に よる明清の白話作品を対象とした一連の研究(1992、1993、1996、1997、2001、2002a、
2002b、2003)では、『金』に限らず、明清期の諸作品の共通点と個々の作品の個性を炙り 出している。例えば、地蔵堂2001では、『姻』について論証している。正反疑問文の肯定 形と否定形に挟まれる“呀”や已然の正反疑問文の文末に用いられる“沒”など、この作 品に特徴的な用法の指摘に加え、南方語、呉語作品にも見られる成分(『儒林外史』―以下
『儒』―に見られる構造助詞“的个/個”、清代に南方語に定着していく「道のり」を表す
“里路”)も多く見られることにも言及している。『姻』は清初に山東で書かれたことがほ ぼ確実である。清代の北方語系の作品に見られるという否定副詞“別”や「道のり」の“里 地”25も見られる中、このような「呉語」的な成分が同時に見えることについて、後に地 蔵堂2002aでは、従来「呉語」と考えられていた成分も、当時の文学言語に多数取り入れ られていたと解釈している。なお、中には『金』、『姻』両方に見られる「呉語」的成分も 存在する。
地蔵堂2002aの功績は、明清期の文学言語に所謂「呉語」的なものが含まれていたこと を示したことである。これによって、「呉語」的なものがある箇所(第53~57 回は除くに しても)を異質なもの、つまり別人の手が加わった箇所、として排除する必要性はなくな った。まさにこのような文学言語を操れる一人の原作者を想定することを可能にしたので ある。しかし、地蔵堂氏もかつては原作者以外の手が加わっている箇所を指摘する論考を 発表したことがある。その時の論証方法は、第53~57回以外でも、呉語と見られる語法成 分A、B、Cが集中して現れる第×回から△回、D、E、Fが集中して現れる○回から□
回は呉語圏の人物の手が加わっている可能性が高いという、複数の成分のまとまった分布 を利用したものであった。2002aにおいて大部分が修正されているが、中には未解決の問 題もある。次節では、地蔵堂氏の二つの論考を比較し、矛盾点を解決し、同氏が 2002 年 の論考で提唱する、個人創作の説を補強したい。
3.地蔵堂氏の二つの論考(1993と2002a)
地蔵堂2002a では、現在の方言区分に囚われず、『金』と時代の近い作品との比較を行 っている。ちなみに、『金』の作者は山東人と考えている。『金』に見られる、従来「呉語」
と目されてきたいくつかの成分(語彙、文法構造)が、『金』より少し後に成立し、山東方 言によって書かれたことがほぼ確実な(補強する説こそあれ、これを揺るがす効果的な反 論がない)『姻』にも見られることを証明したのである。結論は以下の通りである(地蔵堂 2002a:83)。少し長いが引用する。
…当時、これらの語法成分は今日の呉語区に属する地域にとどまることなく、広く現在 の山東方言区に属する地域にまで及んで使用されていたと解釈するのが適当ではない だろうか。実際、小論で取り上げた語法成分は他の方言区においても使用されており、
決して呉語特有の用法というわけではないのである。
以上述べてきたことを総合して結論づけるとすれば、明末から清初にかけて、呉語 は方言の中でもかなり優勢であったと考えられ、文学言語としても一定の地位を占め、
広く北方にも通ずる方言であったと思われる。このように考えれば、『金瓶梅』(補作部 分は除く)には南方人の改訂者はもちろんのこと、南方人の作者ですら想定する必要は ないのであって、作者が山東人であっても一向に差し支えない。『金瓶梅』や『姻縁傳』
に見られる「呉語」は氏名未詳の山東人の言語の反映に他ならないのである。
今で言う「呉語」も、少なくとも小説を書く言葉(このようなものを「文学言語」と定義 されている)においては山東でも使われていた。当時の語彙の広がり、つまりどの語がど の方言に属するかを現在の区分にとらわれて分析していても解決しない。だからなるべく 時代の近いものを参照点として比較するべきなのである。そのような観点の下、動詞語尾
“子”、範囲副詞“多”(“都”と混用される)、定語のマーカー“个”(個)、程度補語“殺”
26、時間名詞“一歇”、動補構造の重ね式“V一VC”が『姻』にも見られることを提示し ている。
だが、地蔵堂氏も1993年に発表した「《金瓶梅》の言語―その分布について」では、従 来「呉語」と見られていた成分が特定の(連続する)章回に偏って現れることを指摘し、
第1~6回(『水』からの引用箇所)、第53~57回(沈德符『野獲編』に後人が補ったとい う記述がある箇所)以外にも、原作者以外の手が加わっている可能性を述べ、全部で五つ の章回のグループを摘出した。ここで「呉語」的なものとして挙げた成分のうち、動詞語 尾“子”、範囲副詞“多”などは地蔵堂2002aで再度取り上げ、『姻』にも見えることを示 して、やはり「呉語」と判断するべきではない、山東にもあったのだ、と転換することに なる(先に引用した地蔵堂 2002a:83 の少し前に「かつて研究者の中には『金瓶梅』に見