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関西学院〔高等学部文科英文学科・文学部英文学科

〕の英語教育と研究 : ―竹友藻風、志賀勝、曽根 保、岩橋武夫、寿岳文章を育てた人びと―(上)

著者 井上 ?智

雑誌名 関西学院史紀要

号 28

ページ 37‑79

発行年 2022‑03‑15

URL http://hdl.handle.net/10236/00030217

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西 研究      ―竹友藻風、 志賀勝、 曽根保、 岩橋武夫、 寿岳文章を育てた人びと―(上)

井上   琢智

目次はじめにⅠ  日本における英語・英文学教育―関西学院の英文学教育を支えた教育環境―Ⅱ  日本における英語・英文学教育略史(1)

    ―東京大学(一八七七)・帝国大(一八八六)・東京帝国大学(一八九七)、京都帝国大学     (一八九七)を中心に―

  (一)お雇い外国人時代(以上、本誌第二八号掲載)

  (二)日本人研究者、教育者の誕生―再生産時代の先駆け(本誌第二九号掲載予定)

Ⅲ  日本における英語・英文学教育略史(2)(以下、本誌第三〇号掲載予定)

    ―京都帝国大学(一八九七年創立、英語学英文学専修一九〇八年開設)を中心に―おわりに

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はじめに  一八八九年、W・R・ランバスによって神戸郊外原田の森に創立された関西学院は、神学部と普通学部の二学部から構成されたが、現在の学則にあたる「関西学院憲法」の原本は“Constitution of the Kwansei Gakuin”と書かれ、関西学院の公式記録は、“Minutes of the Board of Directors Kwansei Gakuin”および“Minutes of the Board of Trustees Kwansei Gakuin”と書かれ、C・J・L・ベーツ第四代院長が一九四〇年一二月三日に帰国する直前の五月七日開催の「春期定例理事会」の「七  議事録ハ今後邦語ヲ以テスルコト但シ英訳の必要上邦文記録表記ノ外ニ英訳者ヲ併置スルコト」と公式に決定するまでは英語で書かれていた。さらに、当時の教育の重要な担い手でであった宣教師教師は、原田の森キャンパスではもちろん一九二五年に移転した西宮上ケ原キャンパスでも設けられた外国人住宅に住まい、生徒・学生が自由に出入りできたし、宣教師の子どもたちはキャンパス内を遊び場としていたこともあって、生徒・学生は彼らと自由に英会話をかわすことができるなどキャンパス全体はいわゆる「英語の関学」と呼ばれるのに相応しい環境であった。

  それを示すように一八九一年に神学部を卒業した第一回の卒業生三名はすべて英語神学科(二年制)の卒業であり、一九〇二年までの神学部卒業生一二名のうち、三名だけが邦語神学科卒業(邦語神学科の第一回卒業生は一名で、一八九六年である)であった。   学院創立直前の一八八九年九月〔日付けは記入されていない〕から九月六日、菟原郡都賀野村長吉坂邦三を介して兵庫県知事内海忠勝に提出された「普通学部のためにつくられた」「私立関西学院設立願」第壱章第壱条に「本院ハ主として英語ヲ以テ普通学ヲ授ケ之レニ国語及ヒ漢文ヲ

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加へ高等ノ学校ニ入ラントシ或ハ実業ニ就カント欲スルモノニ須要ナル教育ヲ為ス所トス」として、「国語・漢文」を除き「英語」による教育が目指された。

  その普通学部に、まず、一八九四年に高等普通科(二年制)を設け、翌年には普通学部高等科(四年制)に変更され、さらに一九〇〇年には、「和漢学を除き英語でのみ教授する」英語専修科(三年制)を設置し、一九〇二年には英語本科(三年制)を設けた。これによって普通学部は「普通予科一年、普通本科四年、英語本科三年」となった。一九〇四年には普通部高等科を再興し、普通学部高等科(三年制)とし、一九一二年の高等学部に組み入れられるなど、普通学部は自らも高等教育への道を「英語教育」を軸にさらに切り拓いていった。

  この英語専修科に在籍した神崎驥 いちは、一九〇一年に普通学部を卒業後、英語専修科に在籍してのち、一九〇三年にカリフォルニア大学に留学し、同大学院を終えて、在米日本人会書記長となり、日米摩擦解消のために渋沢栄一に協力した。その後の二一年に、高等学部が文学部と高等商業学部とに分離された際に後者の初代部長となり、四〇年から五〇年までの一〇年間第五代院長を務めた。また、同期の乾精末も神崎と同様、普通学部を卒業後、英語専修科に在籍して後、一九〇二年にミシガン大学に留学し、在学中から北米の日本人雄弁家として名を馳せ、卒業後は世界を跨ぐ平和運動家として活躍した。

  このような「英語ヲ以テ普通学ヲ授ケ」ることを目指した私立関西学院は、しばしば入学生不足を経験したため、学科の名称・制度を変更し、受験生、入学者、在学生を増加するように努めた。それを解決する唯一の有効な手段は、関西学院普通学部が中学校令にもとづく中学校になり、中学校が得られる「認定」(徴兵令一三条)と「指定」(専門学校入学者検定規程第八条第一項)の

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特典を得ることであった。しかし、それは「キリスト教主義教育(principles of Christianity)」(「関西学院憲法」第二款)を放棄することを意味したために(一八九九年の文部省訓令第一二号)、その教育理念を死守しようとした関西学院は、教員・施設・設備・カリキュラムを中学校令の基準に「準拠」するしか道はなかった。そのためにもっとも重要なのが一九〇二年の学則改正であり、それをもっとも端的に示すのが普通学部の名称であった。そのため、普通学部に「中学」という名称を与えようと申請したが認可されず、やっと「中学」の名称を付することができたのは、一九一五年であった。しかし、関西学院中学校でなく、あくまでも「中学部」とすることで、キリスト教主義教育を継続することができた。まさに「キリスト教主義教育」の継続と認定・指定による経営の安定を両立させる第三の道であった。

科からなる高等学部が新設され、それらも認定・指定を受けられるようになった。 指定を受けることとなり、翌一〇年には社団法人関西学院設立が認可され、一二年には文科と商 普通科・神学校本科生徴兵令第一三条による認定、普通科生徒の専門学校入学者検定規程による 校令にもとづく一九〇八年の「私立関西学院神学校」設立認可であった。これにより翌九年には たる俗界に陥入」することで、日本の学制にもとづく教育機関となった。それは、まずは専門学 的に指摘したように「普通官私学校」になることによって「学院成立の主義本領を放棄して紛々 三七年までの時代を迎えるにあたって関西学院は、それまでの「私塾」から同窓浅田彦一が批判   「戦間期」と通常呼ばれる第一次世界大戦終結から日中戦争まで、つまり、一九一八年から   初代の高等学部長にC・ J・ L・ ベーツ(のち、第四代院長)が就任した。これによって「きわめて高等教育機関の少なかった京阪神地区の『実業青年』の教育需要を満たす」ために、「文

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科」に加えて、関西学院は初めて「商科」を設置し、これまで専門学校神学部のみの「『専門一科』から『専門諸科』への歩みの第一歩」を歩み始めた。期待に違わず、「商科」の展開は順調で最初三九名の入学者を得たのに対し、文科はふるわず入学者は三名のみであった。そのために、一三年九月、東京帝国大学文科哲学科で学び海老名弾正の牧会する本郷(弓町本郷)教会で教会生活をし、卒業後毎日新聞社を経て早稲田大学講師であった小 やま東助が文科長に就任し、学科改組を行い、一五年には英文学科、哲学科、社会学科の三学科制としてカリキュラムを整備した。

  この学科改組段階での高等学部文科英文科の目的は『私立関西学院高等学部文科商科要覧』(一九一五年頃)によれば、「英文学科ニ於テハ ・・・ 教育家ナラントスル卒業生ハ英語ニ於テ中等教員タルノ資格ヲ得シムベキヲ期シテ在学中特ニ優待ノ道ヲ講ジ且ツ中等教員無試験検資格ニ就テ目下出願交渉中ナリ」として、関西学院高等学部文科英文科は、英語の中等教員養成を大きな目標とするようになった。しかし、実際に「中等学校英語科教員無試験取扱」申請をしたのは、二三年一〇月であり、その年の一二月二八日に認可され、英文科入学志願者が「急激に増過 (ママ)」した。

  他方、商科もまた社会の要請に応えて一九二一年には、高等学部を文学部と高等商業学部に分離し、その要請に応えた。その学部長に普通学部卒業生である神崎驥一を迎えた。二五年五月一二日には高等商業学部の卒業生にも無試験検定の特典が認可され、同年八月一九日には、文学部、高等商業学部の卒業生に高等試験令により、高等文官予備試験の外国語試験が免除されるようになっていった。これによって中学校令にもとづくことなく、中学部は同令に準ずことによって中学校と同じ特典(認定・指定)を得ることができた。

  第一次世界大戦中の一九一八年一月八日、アメリカ合衆国大統領W・ウィルソンは一四ケ条の

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平和原則を発表し、その第一四条「国際平和機構の設立」において国際的平和維持機構の設立を呼びかけた。この平和原則がドイツに対する講和条約の前提となって、一九年のパリ講和会議では連盟設立が重要議題の一つとなったものの、国際連盟の第一回総会が開催されたのは二〇年一月一〇日であった。このような国際連盟設立が模索される一九一八年一〇月に、早くも河上丈太郎教授は、顧問である弁論部の姫路・明石方面の巡回講演で「国際連盟に就いて」を講演し「聴衆を陶酔せしめた」し、一九年七月三日には普通学部卒業生で早稲田大学教授であった永井柳太郎は「世界平和に対する所感」を学内で講演した。   また、一九一八年九月から関西学院高等学部で雇用されていたラトヴィア人の英語教師イアン・オゾリンは、一九一九年の講義 ‘Twelve Lectures on the Meaning and Value of Life: Literary Expressions of the Ethical Problems of Epicureanism, Stoicism, Mysticism, an Activism, or Idealism.’の最終講義で「国際連盟」を取り挙げた。

  このような関西学院における国際連盟への関心は、日本国際連盟協会の関西学院支部結成を促した。この協会は国際連盟の活動を支えるために世界各地で結成された民間の国際団体であり、「熱心な平和主義者」であった渋沢栄一を会長に日本でも一九二〇年四月二三日に結成され、各地に種々の支部が生まれた。大学の学生支部は、一九二四年二月に早稲田大学で最初に生まれ、同年東京帝国大学、慶應義塾大学、明治大学と続いた。

  すでに、関西学院内では、高等学部が文学部と高等学部とに分離された一九二一年一一月一二日にワシントン会議で採り上げられた「建造中の主力艦の廃棄・保有比率の設定」とする軍縮案について、はやくも同月三〇日に関西学院は「中学部を除ける全学院教職員学生等」の参加のも

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と、この「軍縮運動」に賛同する決議をした。すなわち、「決議  神戸関西学院専門部教職員及学生ハ世界恒久平和ノタメ、列国軍備ノ縮小ヲ希望ス」と宣言し、その意義について「折柄ワシントンに於て開催されゐたる万国平和会議に電送せられたりき。学院の世界の恒久平和を切望するの精神は期せずして国際連盟の精神と一致する処」であると書き、これは「実に偶然に非ずといふべし」とさえ考えていた。

  このような関西学院での「恒久平和」実現への教職員学生の希求が関西学院支部設立の直接の契機となったのは「大正一三年初春田川大吉郎氏、青木節一氏」の来校あった。彼らは「支部設立の希望を述べ」、それに応じて「松本〔益吉〕副院長の主唱により生まれ」た。その年の一〇月一六日、関西学院は学院創立三五周年記念式を迎えた。その記念講演会で、同窓の二人、憲政会の議員で外務参与官永井柳太郎は「近代外交の真相」を講演し、「学生国際連盟協会理事にして最近『太平洋問題』〔

The Unsolved Problem of the Pacific,

1924〕で〔東京帝国大学〕法学博士になった」乾精末は「前加州〔カリフォルニア〕大学教 授〔実際には講師〕」の肩書きで「国際連盟と日本」を講演した。

  この年の一一月一三日、国際連盟協会神戸支部の発会式が神戸山手の海運倶楽部で開催され、奥村青年会主事より設立経過が説明された。この発会式には三田中学(現・三田学園中学校・高等学校)を開校し、戦後公選最初の神戸市長となった小寺謙吉、鈴木商店の「大番頭」金子直吉らが、関西学院からは松本益吉や高等学部商科卒業生で専任講師の田村市郎が出席した。法学博士岡実が「人種平等問題」と題して講演し、「国際連盟の力に俟 〔ま〕つ外 (ほか)解決実現の道なし」と主張し、外務書記官芦田均が「我が国の現状と連盟思想」と題して講演し、「明治維新当時の雄大にして

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・・・ 賛美すべき国民精神の再興を ・・・ 行詰れる局面の展開は之を外にして求められずとなし而して之実に吾人の国際連盟の趣意精神なり」と主張し、法学博士林毅陸は「新時代と国際連盟」と題して、「連盟は平和を目的とし、平和は列国の通商貿易を増大 ・・・ 日本第一の貿易港なる神戸に於て連盟の趣意精神に賛同共鳴する人の多き偶然にあらず」と主張した。一一月十八日になると関西学院では、その「支部は姉崎正治博士を迎へて中央講堂に於て精細なる発会式を挙行した。初代支部長に松本〔益吉〕・・・ が当たられる事になつた」。同年一二月、国際連盟関西学院学生支部第一回支部総会が開催され、顧問は吉岡美国名誉院長、神崎驥一、畑歓三、左海猪平であった。

  このような教職員・学生、とりわけ高等商業学部の初代学部長神崎驥一を中心とした関西学院における「恒久平和」運動の高まりとほぼ同時に、文学部を中心とした英語・英文学教育は、優れた英文学者を育んだ。具体的には、竹友藻 風、志賀勝、曽根保 たもつ、岩橋武夫、そして寿 じゅがく章である。例えば、『英語研究』三百号記念特輯号(一九三三年一一月号)では、関西学院高等学部英文科の教師である佐藤清の「T・S・エリオットの批評論」とともに、竹友藻風は寄稿していないものの、志賀勝の「ロォレンスとブレット」、曽根保の「オー・リリック・ラブ」、その師ブランデンの「現代イギリスの詩壇」、そして寿岳文章の「近英の私版」のそろい踏みが見られた。さらに翌年『生誕百年モリス記念論集』(川瀬日進堂書店)が刊行され、寿岳文章の師新 村出 いずる

の「モリスを憶ふ」に加えて、一九一七年、関西学院中学部を卒業し、神戸高等商業学校予科をへて東京商科大学(現・一橋大学)での卒業論文「ウヰリアム・モーリス」を書いた北野大吉の「モリスの人及思想」、志賀勝の「『地上楽園』のモリス」、寿岳文章の「書物工藝家としてのモリ

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ス」、竹友藻風の「藝匠モリス」が掲載されており、「英語の関学」たる関西学院の名を世に知らしめることとなった。

  竹友藻風(乕 とら、一八九一一九五四、普通学部在籍、一九〇六~〇九)は、卒業後京都帝国大学文学部選科で学び、詩集『祈祷』(一九一三)で若き詩人として頭角を現し、「ピューリタニズムとヘレニズムを交えた学匠詩人」で、訳詩集『ルバイヤット』(一九二一)やダンテの『神曲』三巻を完訳(一九五九)し、関西学院五〇周年記念(一九二九)の『関西学院頌歌』(同窓の山田耕筰作曲)を作詞し、一九五〇年関西学院大学最初の文学博士号の学位(旧制)を授与された。

  志賀勝(一八九二一九五五、高等学部文科英文学科在籍、一九一七~二一)は、アメリカ文学研究に生涯を捧げたが、最初の出版物ユージン・オニイル『ダイナモ』(飜訳、一九三一)で「アメリカ文学者としての ・・・ 前途は決定され」(東山正芳の指摘)、以後著書・飜訳は三〇冊にもおよび、その中でも『現代英米文学の研究』(一九三五)で日本の英文学会の栄誉である第五回岡倉賞を受賞(一九三六)し、一九五五年「アメリカ文学の成長」を主論文として関西学院大学より文学博士号(旧制)の学位が授与された。

  曽根保(一八九六一九七六、高等学部文科英文学科在籍、一九一九~二三)は、ブラウニング研究者である。彼は、卒業論文「ロバアトブラウニングの恋愛詩研究」を提出し関西学院を卒業後、同年東京帝国大学文学部に入学し、同大学で教授していたイギリスの詩人E・ブランデン(第一回在日期間、一九二四~二七)から教えを受け、卒業後、文学部副手となると同時に大学院に入学して以降五年間市河三喜、斉藤勇の指導下で「英国哲学的詩人ロバトブラウニング」を研究し、一九三五年に東京女子高等師範教授となった。のち「脊髄の負傷がもとで、昭和二六

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年から五一年、七九歳で亡くなるまで二五年間病臥したままであった」。彼は、W. Hall Griffin,

The Life of Robert Browning

の飜訳書『Robert Browning 彼の生涯と作品』(一九三一、理想社)で、第一回岡倉賞を受賞した(一九三二)。

  岩橋武夫(一八九八一九五四、高等学部文科英文学科在籍、一九一九~二三)は、在学中に高等学部長で、のちに第四代院長となったC・J・L・ベ―ツ夫妻から「替わる替わる『楽 園喪失』の音読と講義」受け続けながら、同じ盲目のJ・ミルトンの『失楽園』を研究し、卒業論文「ミルトンのソネット研究」を書いた。卒業後は大阪市立盲学校の教員をしていたが、院長の助言もあり、クエーカーでエスペランティストのプレールスフォードらの援助で、エディンバラ大学へ留学し、M・A・の学位を取得し帰国、関西学院の講師を務めたが、渡英中に接したイギリスの視覚障がい者福祉施設に刺激され、『失楽園の詩的形而上学』(基督教思想叢書刊行会)を出版した三三年、大阪盲人協会の会長となり、三五年に日本ライトハウスを大阪に設立し、理事長となった。

  寿岳文章(一九〇〇九二、高等学部文科英文学科在籍、一九一九~二三)は、一九一六年頃から「『英語青年』は読んでいた」(『福原麟太郎著作集』第五巻「月報」、研究社、一九六八)。高野山中学出身で関西学院の一級先輩の八田昇 しょうがく岳から「エスペランティストで、早稲田大学理工科在学中に失明した岩橋武夫という盲青年も、来年は関西学院の文科へはいるつもりだ」と聞き、寿岳も文科に入学する決心をした。二人は同じ第一啓明寮(第二啓明寮には曽根保が入寮していた)で生活し、切磋琢磨しながら学びつづけ、卒業論文「ウイリアム・ブレイクの『ジェルーサレム』」(最初のタイトルは「ウイリアム・ブレイクの思想に見出される華厳思想の用語」で、佐

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藤清が審査した)を提出した。   卒業後の一九二三年、岩橋の妹静子(一九〇一八一、ペンネームは「しづ」)と結婚し、東京に柳宗悦(関西学院文学部の英文学講師を一九二六~二九年に勤めた)を訪ね、翌二四年から京都帝国大学文学部選科で学び、一九二九年『ヰルヤム・ブレイク書誌』(ぐろりや・そさえて)を出版し、三一年に柳ととも月刊『ブレイクとホヰットマン』を刊行しはじめるなど、研究者としての第一歩を踏み出し、一九五二年まで関西学院で教員を続けた。しかし、学生からの留任署名運動にもかかわらず、甲南大学へ移籍した。

  在学中「村上博輔という篤学の聖職教授〔国漢担当〕から、ダンテの生涯についての熱のこもった講演を聞き」「上田敏の遺書『ダンテ神曲未定稿』」を入手するなど寿岳が関心を持ち続けたダンテの『神曲』の口語訳(完訳)が、甲南大学退職後の寿岳の最晩年の仕事であった。その公刊で、一九七七年一月、第二八回読売文学賞(研究・飜訳賞)を、八八年二月、第二四回日本翻訳文化賞を受けたし、一九九〇年には、物集索引賞特別賞を受賞した。この英文学者は同時にこの物集索引賞受賞が示すように著名な書誌学者であり、和紙研究家でもあった。

  本論文は、これら英文学者を育てた教育環境とりわけ教員に焦点を当てる。その場合、彼らは種々の想い出などを書き、そこで影響を受け教員に言及しているが、その関西学院の教員の群像は別稿「竹友藻風、志賀勝、由木康、曽根保、岩橋武夫、寿岳文章―関西学院高等学部〔文科英文学科・文学部英文学科〕の英語教育と研究」(仮題)で明らかにするが、本稿では、まずこれらの関西学院の教員が師事し、影響を受けた東京(帝国)大学および京都帝国大学の教員に焦点をあてる。

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      Ⅱ  日本における英語・英文学教育略史(1)

   ―東京大学(一八七七)・帝国大(一八八六)・東京帝国大学(一八九七)、京都帝国大学

(一八九七)を中心に―(一)お雇い外国人時代

  学制(一八七二)により制度化され始めた日本の大学における英語・英文学教育は、他の諸学問と同様、多くのお雇い外国人教師によって担われた。重久篤太郎はその著『日本近世英学史』(一九四一)の「附録東京帝国大学雇外国人英語・英文学教師名簿」において、開成学校英語教師(明治二年一月一七日~同年一二月一二日)で雇入・「懶情ニ付放免」されたバーリー(イギリス人)、大学南校英語学及学術教師で年俸五千元(明治二年四月一日~明治六年九月一二日)で雇入・解嘱されたフエルベッキ(Verbeck, G. F., 1830-98 )から、法科英語講師、手当年五百円、明治四四年九月二六日嘱託雇入、大正四年八月三一日解嘱されたメドレー(Medley, A.W., 1875-1940 )まで、三五名が紹介されている。

  これらのお雇い外国人教師のなかで、関西学院の英語・英文学教育に間接的ながら影響を与えたデイクソン(Dixon, J. M., 1856-1933 )、ウッド(Wood, A., 1857-1912 )、ハーン(Hearn, L., 1850-1904)を紹介する。

  (1)ディクソン(

Dixon, J. M., 1856-1933 )   スコットランドで生まれ、一八七五年にエディンバラ大学に入学したが、二年後退学して、スコットランドのセント・アンドルーズ大学に入学し、一八七九年に同大学を卒業し、同年五月に

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日本政府の工部大学校の英語教師としての招聘を受け、同年九月に離英した。八〇年一月一日から工部大学校での英語・英文学教師として月俸日本銀貨三〇〇円で雇用され、通算六年(三年一回更新)ののち、帝国大学文科大学設置にともない、八六年四月一日から九二年まで、同大学の英語学、英文学の教師となり、月俸日本一円銀貨三五〇円で雇入れられ、満期後同年四月一日から七月三一日まで同額で再雇用された。   ディクソンの授業を受け、一八九一年七月一〇日に帝国大学文科大学英文学科〔正式には英吉利語学英吉利学科〕を卒業し(一名)、九八年七月一九日に第二高等学校教授となった立花政樹(一八六五一九三七)によれば、その講読の授業は「吾々が予習して来て、疑問の箇所を学校で先生に尋ねる程度のもので ・・・ 小説を読めとしきりに勧められ、御自分で本を買はれては ・・・ 貸し与へられて、文中の idiom を採り出すように命じられ・・・ 先生の推奨せられたのは、

Macaulay とMatthew Arnoldで

Essays in Criticism

は教材」であったが、「学生数が少なかったため〔文科は八人、英文科は立花の他、選科生の村田祐治、松井八三郎、石井某〕学生を食事に招き、試験も自宅で行ったこともあった。イギリスの劇団が訪日公演をおこなった時には『是非見ておかなければいけない』と入場料と汽車賃をくれた」という。つまり、亀井俊介が指摘するように「教育者としての善意をみずからの支えとして、外国人のための学習英語の専門家」であった。その一冊が彼の在籍中に執筆した

A Dictionary of Idiomatic English Phrases

(1891 )であり、“Matthew Arnold,”(in

Modern Poets and Christian Teaching

(1906)である。

  この在日一二年間で彼から指導を受けた著名な日本人で、工部大学校の一八八〇年頃に指導を受けた学生には、斎藤秀三郎(ただし、中途退学)、八七年に文学部博言学科に入学した岡倉由

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三郎がいたが、翌八八年に本科生(正科生)として最初の入学したのが立花政樹であり、翌年には本科生としての入学者はなく、一八九〇年九月に夏目金之助(漱石)が入学した。   ところで『井上英和大辞典』(一九一五)や『井上和英大辞典』(一九二一)を編集した井上十吉は、ディクソン兄弟について「Dixon は帝国大学のお雇い教師であったDixon の兄で曾て我工部大学に雇聘されて居たが帰英後に此

Land of the Morning:

An Account of Japan and Its People,

1882 〕を著した」と書いている。この本の筆者はウィリアム・グレイ・ディクソン(Dixon,William Gray, 1854–1928)であり、スコットランドで生まれ、グラスゴウ大学、さらにエディンバラ大学ニューカレッジで学び、一八七六年日本政府にお雇い外国人として招かれ、工学寮英学教師となり、月給二五〇円で七九年一二月三一日に解約されたが、八〇年まで滞日した人物であり、その離日を前に、弟のディクソンを推薦したのであろう。

  (2)ウッド(

Wood, Augustus, 1857-1912 )   マサチューセッツ州ニューベッドフォードに生まれ、プロビデンス市のFriends校をへて同市にあるブラウン大学(四年制)で“regular classical course”で学びB・A・を取得し、ボルティモア市に移り、一八八二年一一月にジョン・ホプキンス大学に入学した。その前半期には歴史学と政治学を志望し、各国史、憲法史、財政学、行政学を学び、後半期には英文学、独文学に専攻志望を変更したが、休学し世界の旅にでた。復学して在籍したのは一八八六年から八八年後期までで、八八年には、“the inter-relations of the English and German novel of the 18th century”と題する博士論文を申請したが、未提出のまま、同年ドイツに留学し、ベルリン大学およびハイデ

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ルベルグ大学で学んだ。九二年にはハイデルベルグ大学から論文「独逸ニ於ケルフィールディング」で博士号取得し、その後も同大学で「十八世紀独逸国ニ於ケル英文学ノ勢力」を研究し、一八九二年八月、一旦帰米し、「ヂクソン〔ディクソン〕氏の後任」として東京大学からの招聘を受け入れ、東京大学「文科大学英語及英文学教師」として同年九月二三日に月俸日本一円銀貨三五〇円で雇入れられ、九六年七月三一日満期解任となった。在籍中、東京高等師範学校でも教えた。

  彼の講義を受けた上田敏は「当代の日本人としては、英文学に関して一ばん新しいいちばんしっかりとした教養を授けられ」(島田謹二前掲論文、二〇五頁)た。それは博士論文のタイトルにあるように「一八世紀後期のドイツにおけるイギリス作家ヘンリ・フィールディング」の「フィロロギー」であり、その論文は

Einefluss Fieldings auf die Deutsche Literature

であり、一八五五年に横浜のEastern World Officeから出版された。しかし、その講義はディクソンに比べて「大分性質を異にし時には醉歩蹣跚として教場の出て講義だか管を巻くのであるか一寸区別が付き兼ぬる」(中川良和前掲論文、一三一頁)ものであったという。

  一八九六年七月退職後、帰米を挟んで「一年数ヶ月の中断」があったものの、東京高等師範学校講師に就き、「延べ約一〇年に及」ぶ在任期間中、「嘉納校長のより特別の待遇〔により〕 ・・・ 欠席勝ちなりしも ・・・ 其臨終まで其職に留まりし ・・・ 英文学は言ふに及ばず独逸語の造詣特に深く、従来本邦に来りし西洋人中には屈指の学者」であったウッドは、一九一二年一二月一日に東京で逝去した(中川良和前掲論文、一三四頁)。

  この時代に、ウッドは

Short Poems by Fifty Modern English Poets

Mostly Living,

1906)を

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出版したが、そこで、彼は「学生に身近なブラウニング、ワーズワス、テニソン、ロングフェロー、ローエル、エマソン等の有名な詩人は省略した」ものではあるが、「新しい作家五十人の作物を少なくとも二つ三つ、多きは五以上も集めてある」もので「英文の簡単な解題と註とあるばかり」であったが「中級以上の読者にとっては十分価値あるものであった」という(中川良和前掲論文、一三五~三六頁)。

  ところで、この高等師範学校の英語講師であった井上十吉(和文英訳と英文和訳を担当)について、ウッドは「井上〔十吉〕と懇親の間柄であったが、氏の書簡には少しも文法の誤りがないとてひどく感服してゐた」。   (3)ハーン(

Patrick Lafcadio Hearn,1850-1904. 東京帝大在籍、一八九五年一二月~一九〇三年三月)

  ハーンは、当時、イギリス保護領であったレフカダ島で、アイルランド人で軍医の父とキシラ島出身のギリシャ人の母とのもと次男として生まれ、翌年末に父の実家のダブリンに向い、その地で幼少時代を同地で過ごした。両親の離婚後、父方の大叔母の厳格なカトリック文化の中で育てられた。この経験が原因で、少年時代のハーンはキリスト教嫌いになったという。

  その後、フランスやイギリスのダラム市郊外の全寮制神学校セント・カスバート・カレッジで教育を受けた。一八六九年に渡米し、得意なフランス語を活かし、二〇歳代前半からジャーナリストとして、文芸評論から事件報道まで広範な著述を著し、八四年にニューオーリンズで開催された国際綿花産業百年記念博覧会で日本から派遣されていた文部官僚で、東京英語学校

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校長(旧制第一高)、さらには一八八〇年六月には東京大学法・理・文各学部綜理となった服部一三(一八五一一九二九)と出会い、九〇年、Harper 社の通信記者として来日したものの、稿料を巡るトラブルで契約を破棄した。当時普通学務局長の職にあった服部と、一八七三年来日し、八七年以降帝国大学文科大学の教員となり、後に友人となるチェンバレンとの仲介で教職に就くこととなった。「五月 ・・・ 友人ビスランドに書いた手紙に『ある就職口を見つけましたが、その職場は九月まで待たなければなりません』」と書き送ったが、その職場とは「おそらく大分の尋常中学校のことで」であったが、九〇年七月一九日に契約し、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師として松江に九月二日初めて出講した。九一年にハーンの病気の介護と世話のために小泉セツが雇用され、一月下旬から二月上旬の間に同棲を始めた。その年の一〇月七日にチェンバレンの推薦を受けて嘉納治五郎校長の熊本第五高等中学校の職を推薦され、一一月二五日、セツと養父母をともない熊本に転居した。九三年四月頃セツの懐妊(長男一雄)を知り、帰化を考えるようになった(「日本の習慣に則って結婚」したと報告したのは、一八九一年八月付のページ・ベーカ宛書簡である。帰化手続きが完了し、セツとの正式な婚姻が法的に認められ「小泉八雲」と改名したのは九六年であった)。しかし、九四年一〇月初め神戸クロニクル社の記者に転職するために熊本を離れた。翌年一月三〇日、目の不調により同社を退社した。

  一八九五年一二月七日付のチェンバレンのハーン宛自筆書簡で「チェンバレンは、ハーンの大学招聘を熱望していた外山正一教授との仲介役を果たし、帝国大学へ就職することを勧め」(前掲図録、二二頁)、一八九六年四月五日付のハーンの外山正一宛自筆書簡で「国会で英語英文学講座に外国人教師を迎えることに同意を得たので、国籍を知らせるように依頼してきた外山への

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返信」とあったために小泉は「『小泉八雲』として日本に帰化し ・・・ 本籍地は松江市である」(前掲図録、二二頁)と返信した。その結果、一八九六年六月一〇日付のハーンの外山正一宛自筆書簡で「帝国大学就職を受諾した書簡。帰化して日本人となったのにもかかわらず、外山の尽力により、ハーンの俸給が外国人教師待遇の月四〇〇円に決まったことに対して心からの謝意を述べ」た(前掲図録、二三頁)。確かに重久の前掲の資料によれば、例外は多少あるが、基本的にはディクソン、チェンバレンが「雇入」であるよう「雇入」が中心であったが、ウッドは「招聘」、ハーンは「嘱託」となっており、給与は未記入である。

  このような経緯から、一八九六年、ウッドの後任として、東京帝国大学文科大学の英文学講師となったが、彼を招聘した帝国大学文科大学長外山正一(任期、一八八六~九七)の死去(一九〇三年三月八日)以降、学内で孤立し、東京帝国大学から解雇通知が出された。その際、学生らによる留任要請があったものの、講師を辞した。後任には、ディクソンの教え子夏目金之助が就任し、講師には九八年再来日した宣教師のロイド(Lloyd, Arther, 1852-1911 )やハーンの教え子上田敏が就任し、「お雇い外国人の教員に代えて留学生帰りの日本人の起用を進める」という東京大学・帝大での英語教育・研究の日本人教員の再生産体制が整った。退職後の一九〇四年には早稲田大学文学科講師として招聘されたものの、同年九月狭心症で死去した。

  彼の授業で「重点が置かれたのは詩であった。ヴィクトリア朝の詩人たち、テニスンやブラウニング、ロセッティなどは視点を変えて繰り返し講義」し、その「講義の特色は、文法上の正確な意味や作品周辺の知識よりも、作品に込められた感情の理解、いわば追体験に重点を置くことであった」し、その「講義は、感受性の鋭い青年たちの心を引きつけ、熱烈な支持を得」たため、

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その解雇に際して「英文科の学生全員がハーン留任を求め ・・・ 陳情書をもって当時の文科大学長井上哲次郎を訪ねた」。

るかもしれない」(前掲図録、二四頁)と書き送った。 を読んだハーンは「君はこれから生まれるであろう新しい日本文学に対して使命を持つことにな 京都帝国大学教授となった上田敏への書簡(一八九七年六月三〇日付)で、彼のブラウニング論 には「小川未明、相馬御風、野尻抱影」がいた。とりわけ東京帝国大学の講師から留学をへて、 川白村〔上田敏死後、京都帝国大学助教授〕、戸川秋骨、上田敏」がおり、早稲田時代の教え子   「彼の東大の学生の中には、松江出身の大谷正信、落合貞三郎の他に土井晩翠、小山内薫、厨   ハーンは“Farewell Address”の中で「おそらく詩という唯一の例外を除いて、 ・・・ 新しい文学を一番よく提供してくれるのは忙しい人々である、・・・ 文学作品の創作原理は一時にたくさんの仕事をしないで、規則的な期間をおいて、少しずつ仕事を続けることである。・・・ みなさんのうちで心から文学を愛する者がいるなら、この私のささやかな言葉を忘れないようにしていただきたい」と語っている。注目すべきは、八雲から影響を受けた教え子には、「詩歌〔詩作〕の黄金時代」を支えた最後の世代と「小説の黄金時代が正に到来しつつあった」時代を支えようとした世代がいたことである。前者の一人が上田敏であり、後者の一人が夏目金之助であった。

  この「二人がともに東京〔帝国大学〕大学〔文科大学〕の講師となったのは明治三十六〔一九〇三〕年四月のことで、小泉八雲辞任の後を受け、アアサア・ロイド・・・とともに英文学を講じた」。「上田は数え年三十歳、夏目漱石は三十七歳」で夏目は「就任当時は ・・・ 『ホトトギス』寄稿の田舎高等学校あがりの先生と学生からも馬鹿にされていた」にもかかわらずである。

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【注】

*

本稿は、二〇二〇年一二月一四日、NPO法人向日庵の公開研究会(於、長岡京市中央学習センター)で筆者が「〔研究ノート〕関西学院〔高等学部文科〕の英語教育と研究―寿岳文章をめぐる人びと―」として報告した内容の一部を原稿化したのものである。

本稿で用いた分析の基本は、筆者が『黎明期日本の経済思想―イギリス留学生・お雇い外国人・経済学の制度化―』(日本評論社、二〇〇六)の副題に示すように、欧米の学問の導入に際して用いられた日本人の留学(私費留学から公費留学)、お雇い外国人の雇用、国内の教育制度の確立(それにともなう学問の細分化・分業化)のプロセスを英学、英語・英文学)に適用しようとする試みである。例えば、留学については、東京帝大文科大学長の外山正一(幕府派遣)、An Elementary Grammar of the Japanese Language, with Easy Progressive Exercises(一八七三)の馬場辰猪(土佐派遣)、『井上英和大辞典』の井上十吉(土佐派遣)、英訳集『おちばかご』の和田垣謙三(東京大学第一回卒業生)であり、お雇い外国人(文部省)については、D・マレー、W・グリフィス、G・F・フルベッキなど〈重久篤太郎「御雇外人英語教師」『日本の英学一〇〇年』明治編、研究社、一九六八、三九七~四〇〇頁〉)であり、制度化については、東京大学(帝国大学・東京帝国大学)と京都帝国大学の英学の制度化であり、その制度化に基づいて行われた教員交代(お雇い外国人教員から日本人教員へ、自校出身教員の育成と自校での雇用〈自己再生産の開始〉)の実態の解明である。

   その制度化にともなう英学の細分化・分業化・専門化は、多くの学問・科学・技術を英語で学ぶ「英学」時代から、イギリス文学の「伝統である詩」(E・ブランデン)とR・ヘンドリックの「花鳥風月を詠じ、物のあはれを歌つた」詩に近い(「小泉先生」『厨川白村全集』第四巻、改造社、一九二九、一九頁)漢詩や和歌俳句の伝統をもって生まれた日本の「詩歌〔詩作〕の黄金時代」へ、さらに夏目に代表する「小説の全盛時代」という二つの創作の時代をへて、「英語学」、さらには「音声学」、「英文学史」とそれを支える「書誌学」へと細分化・分業化・専門化が進行し、「英学」が「科学」として変貌していった。そして、これらのプロセスを、一私学である関西学院での「英学」の教育・研究が辿っていった

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ということを明らかにしようとする試みである。文学研究における「厳格なる科学者の態度」の重要性を、寿岳文章は市河三喜『英文法研究』(一九一一)から学んでいる(中島俊郎「宗教的真理の探究」前掲『向日庵』第四号、二〇二一、三五~三六頁)。(1)“Minutes of the Board of Directors Kwansei Gakuin”は「評議員会記録」であり、“Minutes of the Board of Trustees Kwansei Gakuin”は、「理事会記録」である。それは英語の“Constitution”と日本語の「関西学院憲法」とを比較すると、この対応が明らかになる(英語については『関西学院百年史』資料編Ⅰ、六二〇~一七(pp. 31-34)頁を、日本語については前掲書『百年史』通史編Ⅰ、一〇〇~〇七頁)を参照のこと。(2)一九一三年九月一三日には、関西学院の原田の森のすぐ近くの青谷町にカナデアン・メソヂスト・アカデミー(Canadian Methodist Academy)が開校し、宣教師の子どもたちはこの学校に通った。この学校は最初一六人の宣教師の子どものための学校として開校し、一九一七年には門戸を広げるためにカナデアン・アカデミーと名称を変更し、四二年に戦争のために閉校するまで、その地に留まった。戦後の五二年九月一七日、長峰山で再開した。      宣教師や日本人教職員の住宅が校内にあった関西学院キャンパスにおける教職員とその子どもと学生の交流について、第四代院長C・J・L・ベーツの次男ベーツ(Cornelius John Lighthall Bates Jr., 1913-82)は原田の森キャンパスに九棟〔「移転直前には一四棟」『増補改訂版関西学院事典』Web版、二〇一四、四七頁〕建っていた宣教師館〔一八九九年の条約改正以前においては、居留地外で外国人が住むためには届け出のうえ、雇い主の提供する住居に住む必要があった〕での想い出「神戸、関学そして父」のなかで以下のように語っている。「・・・ 十代の頃、私と弟〔Robert Philip Bates, 1913-93〕とは学院の北側にあったカナデアン・アカデミーに通っていた。・・・ 学生のなかの多くの人は、英語を話さなかったり、また私たちの英語を聞くだけでも、といった熱心な学生たちであった。私どもの家の前の広場でよく一緒に運動したり、遊んだりし、両親はその学生たちに夕飯を一緒に、と招待したものであった」と。

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    また、上ケ原キャンパスでの交流について、「狐、狸と幽霊」のなかで西邑昌一(一九三四年高商卒)は「『英語をするなら関学へ行け』と言われたものだった。全科目を全部英語でするもので、少々出来がわるくとも、毎日毎日耳に入ってくる言葉が英語であれば、門前の小僧習わぬ経を読む〔ようになった〕・・・外人教師(当時は外人の宣教師がたくさん学校の周囲に住んでいた〔当初一〇棟あったが、講義棟建設のため、すでに取り壊されていた一〇号館に加えて、残されていた七・八・九号館が二〇二〇年九月初めに、第二教授館建設のために撤去された〈『学院史編纂室便り』五二号、二〇二〇年一〇月一五日〉〕)の子供たちに、英語で話しかけ相手になるのであるのだが、子供たちも英語が帰 (ママ)ってくることもあり、日本語で返ってくることがあって、笑いふざけたことがある」(『クレセント―関西学院創立九〇周年記念特別号―』第三巻第二号、一九七九、一一一~一二および一二四頁)。また、「原田の森の学院を巣立った最後の卒業生の一人であった」萩田庄五郎(一九二八年文学部卒)は、「原田の森四年間の思い出」の中で、当時の授業について、以下のように語っている。「外人の子供達を相手に会話の練習をしようと申し合わせ、放課後に校舎の前にある芝生へよく遊びにくる二、三の子供達と親しくなっ〔て〕・・・彼等の子供部屋へ連れ込まれるようになってからで、四時頃になると先生〔ウッズウォースWoodsworth, Harold Frederick, 1883-1939〕か奥様が微笑みながらお茶とクッキィを持って子供部屋へ来られ、お陰で私達も楽しく『お茶の時間』を小さい友達と共にすることが出来ました」(関西学院同窓会『会員名簿(同窓会小史)学院創立九〇年記念版』一九七九、―(史七五)―)。これらの子どもは、メアリー、ケネス・デーヴィッド(マックギル大学大学の社会福祉科教授)、シルビアである(ジャン・W・クランメル編『来日メソジスト宣教師事典』、教文館、一九九六、二九九頁)。寿岳文章は、In Memoriam Harold Frederick Woodsworth D. D. (1952)を編集・出版している。なお、ウッズウォース夫人(Ada Francis)らが寿岳文章に当てた書簡は、現在、整理のために向日市文化資料館へ移されている。現時点で発見できている書簡は以下の通りである。

 

⑴ Ada FrancesWoodsworth, H. F. (夫人)『来日メソジスト宣教師事典』二九九頁。

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   ア Woodsworth, Mrs. H. F., Oct. 31〔19〕40.   イ Woodsworth, Ada F., Dec. 20〔19〕37.   ウ Woodsworth, Ada F., Aug. 26〔19〕47.    エ Woodsworth, A., Oct. 18, 1953.    ⑵Kenneth David(長男)『来日メソジスト宣教師事典』二九九頁。    ア Woodsworth, Ken. D., Jan. 30, 1966.  ⑶ Dick(Kenneth Davidの次男)。

   ア Woodsworth, Dick, S. 36〔1961〕〔消印1月9日、灘消印、はがき〕。    イ Woodsworth, Dick, Dec. 14, 1969〔Canadian Academy, Nada-ku、自己紹介〕。(3)「卒業生名簿」『開校四十年記念関西学院史』一九二九年、三七頁。なお、この英語神学科が第一回卒業生を出したのは、一八九一年六月で、その三ヶ月後の九月に邦語神学科(四年制)が新設された。英語神学科の最後の卒業生は一九〇〇年の中村金次である。その英語神学科は、一八九六年より「神学本科と改称」され、「邦語神学科ノ課程ヲ改正シ、神学簡易科トナス」。これによって英語神学科という名称は廃止された(二四~二五頁。また以下を参照のこと。前掲書「卒業生名簿」三七頁、「年表」三頁)。井上琢智「文部行政と関西学院普通科」(『関西学院史紀要』第四号、一九九四年一〇月、五二頁)。なお、この最初期の関西学院神学部への編入学・入学については、神田健次「フィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校から関西学院神学部へ―最初期の神学部編入学生と新入学生解明の試論―」(『関西学院史紀要』第二七号、二〇二一、四三~八一頁)を参照のこと。(4)『関西学院百年史―一八八九~一九八〇―』、一九九四~九八年、全四巻(資料編Ⅰ・Ⅱ、通史編Ⅰ・Ⅱ。以下『百年史』と略す)通史Ⅰ、一五七頁。この「願」では、普通学部のことのみが記されて、神学部については触れられていないものの神学部の設置を窺わせる文言が入っている。例えば、第二章第二条の修身について当初「基督教道徳」と書かれていたものを「純正ナル道徳」と修正して

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いる。なお、「学院の対外的な邦文公式文書に神学部のことが最初にみられるのは、・・・ 一九〇四年の『私立関西学院一覧』においてである」〔『百年史』通史Ⅰ、一四三~四四頁〕)。(5)前掲書『百年史』資料編Ⅰ、二〇頁。(6)なお、一八九八年から八年間にわたりアメリカに留学し、セントラル・アカデミー、セントラル・カレッジさらにはヴァンダビルト大学で学んで帰国した西川玉之助は、当時の関西学院の英語教育について、以下のように書いている。

    「関西学院が常に英語教育に重点を置き、・・・〔生徒たちが組織した作文、演説、読書、討論を行った〕英語会を盛んにやつた他に、もう一つ奇抜で大胆な試みをやつたのは、教員間の申し合わせで、国語漢文を除く他の学科の教科書を全部英書にした事である。・・・最初のうちは、理科や数学の時間に、英文和訳の稽古をしてゐるやうで、どうなる事かと心配したが、しまひには平気で読むやうになり、案ずるは産むが易いと大いに安堵した。たしか神崎〔驥一〕君だつた思ふが、幾何三角などは英語の方が簡潔正確で日本語より解り易いと、宿題など英文で書いてゐた」(前掲書『百年史』通史、Ⅰ、一六二頁)。なお、このような西川の発言は、当初の関西学院の教育目標である「英語」による教育つまり「正則流(Regular Method)」が、必ずしも実際には守られていなかったことを示すであろう。

    なお、ラフカディオ・ハーンと親交があり、この正則流の教育を実施していた嘉納治五郎の「弘文館」(一八八二~八九〈嘉納の留学のために閉校〉)についての実例については、福原麟太郎監修、桜庭信之、大村喜吉・高梨健吉、伊村元道編集『ある英文教室の一〇〇年―東京高等師範学校・東京文理科大学・東京教育大学―』大修館書店、一九七八、一八~二八頁)を参照のこと。また、Catalogue of Central College, Fayette, Missouri 1895-’96(1896)によれば、関西学院関係者として、(一)西川玉之助〔Senior Class:T. S. Nishikawa, Ph.D, 1896, Osaka, Japan, pp. 9, 17〕、(二)松本益吉〔Preparatory Class, Second Year (1896), Matsumoto, M. Hiroshima, Japan, pp. 9, 12〕、さらに(三)鈴木愿太〔Titled Graduates : G. G. Sudzuki, Sendai, 1894, B.A., Japan, p. 16〕が、また、宣教師として、Davis, William Albert〔ibid., p. 15. 1865-1949, B.A, Central Col. (1886), (M.A., 1887) ar. 1891/09/08;

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宇和島(1891-96)、松山/大分(1896-97), 帰国(1897-1900), 山口(1900-01), 京都(19/1-19/15), 関学(1915-20), deptd., 1920/11/20.『来日メソジスト宣教師事典』六三~六四〕。(7)この英語本科で用いられた英語のテキストは以下の通りである。第一学年の読本、伝記、小説類では、アルヴィング氏スケッチブック〔W. Irving, The Sketch Book,1820〕、ハウソルン氏スワイス・トールドテールス〔N. Hawthorne, Twice-Told Tales, 1837-42〕、ゴールドスミス氏ヴィカル・オヴ・ウェクフィルド〔O. Goldsmith, The Vicar of Wakefield, 1766〕、マケンズイ氏一九世紀史、ウヲカル氏経済論〔F. A. Walker, Political Economy, 1883〕、スウイントン氏英文学〔W. Swinton, Studies in English Literature, 1886〕、高等文典(ネスフィルド氏文典第四巻〔J. C. Nesfield(ed.), English Grammar Series ... ,1895)。第二学年の名家詩文、新聞、雑誌類では、ゼムス・オヴ・イングシ・プローズ、マスタービーセス・イングシ・プローズ〔未詳〕、スコット氏湖上ノ美人〔W. Scott, The Lady of the Lake, 1810〕、ロングフェロウ氏詩集〔H. W. Longfellow, 具体的な作品名は特定化できない〕、グリーン氏英民史略〔J. R. Green, A Short History of the English People, 1874〕、デウイ氏心理学〔J. Dewey, Psychology,1887〕、スウイントン氏英文学、修辞学(ベーン氏修辞学〔A. Bain, English Composition and Rhetoric: A manual(1867), English Composition and Rhetoric: Emotional qualities of style(1888), English Composition and Rhetoric: Intellectual elements of style(1890)。これらのうちのどれかであろう。しかし、特定化は現時点では困難である〕。第三学年の名家詩文、新聞、雑誌類では、マスタービーセス・オヴ・イングリツシ・プローズ〔不詳〕、ミルトン氏詩集(特定化は困難である)、セーキスピヤ氏戯曲(特定化は困難であるが、岩橋武夫『失楽園の詩的形而上学』所収附録Ⅱ「Milton 著作年鑑⑴詩作」がある)、セヴォンズ氏論理学〔W. S. Jevons, Logic,1878.なお、井上琢智『ジェヴォンズの思想と経済学―科学者から経済学者へ―』(一九八七、第四章)および『黎明期日本の経済思想―イギリス留学生・お雇い外国人・経済学の制度化―』(二〇〇六、第七章補論)を参照のこと〕、スウヰントン氏英文学〔未詳〕、文学史(テーン氏英文学史〔H. A. Taine, History of English Literature,translated by N. Van Laun(1873)。なお、原著は、Histoire

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de la littérature anglaise(4 vols, 1863)。また、Edinburgh Review(by T. E. May, “Taine ,History of English Literature,Longman,” vol. 121, April, 1865, pp. 289-327)およびDublin Review(by A. P. J. Cruikshank?, vol. 22 n. s., 74., o. s., Jan., 1874, pp. 36-68.)でも紹介されている〕。(8)前掲書『百年史』Ⅰ、一六二~六四頁、年表「関西学院の沿革」『増補改訂版関西学院事典』(二〇一四、デジタル版)。また、井上琢智「文部行政と関西学院」『関西学院史紀要』第三号、一九九三年六月、五三頁(年表「文部行政と関西学院年表」)および井上琢智「関西学院における英語教育の開始―「英語の関学」の源流を探る―」『向日庵』四、二〇二一、一~一二頁。NPO法人向日庵のWebで公開している。)を参照のこと。(9)神崎驥一については、さしあたり前掲書『増補改訂版関西学院事典』および井上琢智「戦間期関西学院における『恒久平和』運動について―神崎驥一、乾精末と国際連盟協会、排日移民法、太平洋問題調査会、軍事教練―」(上[前]・中・下)『関西学院史紀要』第二四号(二〇一八、七~二八頁)、第二五号(二〇一九、三九~八一頁)、第二六号(二〇二〇、一〇九~四二頁)を参照のこと。また、乾精末については、「乾精末」(「関西学院の人びと」一〇、高橋正・比留井弘司共著)、『関西学院史紀要』第一一号、二〇〇五、二八九~九九頁)を参照のこと。また、平和運動家としての主として海外での彼の活動については、M・N・レイセル「世界を跨ぐ平和演説家  乾精末の青年時代―誕生から一九一二年の一時帰国まで―」『関西学院史紀要』、第二七号、二〇二一、七~四一頁)を参照のこと。(

・・・ があり、その処に学院の本領がある。然るに渇したるものが水を求むる如くに、我れから進ん principlesら学院の使命がある。普通官私の学校を断じて同一視するを要さない。其処学院の主義〔〕 田彦一(空花・江村)」『関西学院史紀要』第八号、一七七~八九頁、二〇〇二)。彼は「学院には自 学院基督教青年会(YMCA)に入会し、一八九五年頃に普通学部を中途退学した(井上琢智「浅 入館し、一九一七年『太陽』主筆となった浅田彦一(空花・江村)であった。彼は一八九二年関西 10)この「認定」に危機感を覚えたのが、教員よりも学生であった一例として、一九〇六年に博文館に

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で認定を求めた。之は取りも直さず、自ら求めて普通官私学校の境遇に降伏したもので、不完全極まる学制の下に、杓子定規に統一せらることを甘受したものである。学院成立の主義本領を放棄して、紛々たる俗界に陥入したものである。換言すれば、殆ど学院としての、存在理由を失ったものである」(『関西文壇』第八号)。この文章を本文に引用した『開校四十年記念関西学院史』(一九二九、五五頁)は、この引用文に続いて「この意見は、当時学院教職員乃至卒業生の間に存した精神的理由による反対論を代表せしもの」だと書かざる得なかったし、当時普通部長であったS・H・ウェンライトも同様の理由で反対であった。

    なお、神崎は渋沢栄一と日米関係悪化の解消の相談のために、アメリカから一時帰国していたが、一九一九年九月の『太陽』(第二五巻一一号)に「日米関係ノ新現象《加州に於ける排日運動再燃の意義》」を掲載した(この論文については、井上前掲論文「浅田彦一(空花・江村)」の『付録二』には漏れている。また、その内容については、井上琢智「戦間期関西学院における『恒久平和』運動についてー神崎驥一、乾精末と国際連盟協会、排日移民法、太平洋問題調査会、軍事教練―」(中)『関西学院史紀要』第二五号、二〇一九、五八~六〇頁)を参照のこと。(

関西学院事典』、三五九~六〇頁)。年)のに尽力した(前掲書『増補改訂版 教授となった。この経験が生かされてか、永井は、関西学院普通学部を「中学部」と呼称する(一九一五 オックスフォードにあったマンチェスター・カレッジに留学し、帰国後の一九〇九年、早稲田大学 九月東京専門学校へ入学し、早稲田大学と改称された翌年、政経学部に在籍していた永井柳太郎は 一五版〉年六五〇〈年表六一〉、六四八〈年表六三〉頁)。関西学院普通学部を卒業し、一九〇一年 「大学」という名称をつけて専門学校令により認可されていった(文部省『学制百年史』一九八一〈第 を付すことができるようになった。その後、一九〇三年八月、私立明治大学(旧明治法律学校)が (一九〇三年三月)の発布の前年九月二日に早稲田大学と改称し、専門学校にも「大学」という名称 普通科」(『関西学院史紀要』第四号、一九九四)を参照のこと。私立東京専門学校は、専門学校令 11)関西学院普通部の「認定」資格取得の詳細なプロセスについては、井上琢智「文部行政と関西学院

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( 12)「高等学部」前掲書『増補改訂版関西学院事典』、一五四~五五頁。

( りとして―」『関西学院史紀要』第三号、一九九三年六月、七七頁。 13)田淵結「関西学院高等学部文科~専門部文学部についての一理解―公刊された「年史」等を手がか

( の学科編成」を参照のこと。 いては、同論文[資料Ⅲ]①「私立専門学校の学科編成」および[資料Ⅲ]②「私立専門学校(専門部) 14)井上琢智前掲論文「文部行政と関西学院」三一頁。なお、高等教育機関における「専門諸科」につ

( 根保は、この英語検定試験を一九二二年に受験し、合格した(一四一頁)。 おける英語教育の開始―「英語の関学」の源流を探る―」を参照のこと。ところで、寿岳文章、曽 ~五七頁)を参照のこと。なお、これらの詳細な経緯については、井上琢智前掲論文「関西学院に 15)前掲書『開学四十記念関西学院史』一四一、一五七頁。また、前掲年表「文部行政と関西学院年表」(五六

( 院就任は一九一八年である。なお、李善恵「賀川豊彦と関西学院」(本誌本号)を参照のこと。 西学院時代には「関西学院グループ」として神戸労働学校や政治研究会で活躍したが、その関西学 関西学院の教員となった松沢兼人、新明正道、坂本勝とともに吉野作造から影響を受け、ともに関 16)『関西学院高等商業学部二十年史』一九三一、七七頁。河上丈太郎は、東京帝国大学の新人会に所属し、

( 17)前掲書『関西学院関西学院高等商業学部二十年史』一九三一、「年表」二二頁。

( 18S/2/0I)この講義のタイプ原稿は、関西学院学院史編纂室に所蔵されている([])。

( 一九九五、二七、三一頁。 19)池井優「日本国際連盟協会―その成立と変質―」『法學研究』(慶應義塾大学)第六八巻第二号、

( 20 )前掲書『開校四十年記念関西学院史』一五二頁。

( ~一二頁)を参照のこと。 21)以下の関西学院支部の初期の活動記録については、前掲書『関西学院高等商業学部二十年史』(一一一 ているが、『開校四十年記念関西学院史』(一五九頁)では「近代外交の真相」となっている。その 22)前掲書『関西学院高等商業学部二十年史』(講演会一覧)ではタイトルが「近代外交の理想」となっ

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内容の記録は現時点で発見できていない。(

( 改訂版関西学院事典』三三二頁)。 六月高等商業学部専任研究員となり、二三年に講師となり工業政策を担当していた(前掲書『増補 聞記事文庫」)。田村市郎は、一九二〇年、関西学院高等学部商科を卒業後、三井銀行を経て二二年 23)翌日の一四日『神戸新聞』(神戸大学経済経営研究所、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ「新

( 引用出典は主として前掲書『関西学院高等商業学部史二十年史』である。 第六号、一九三三、一〇一~九一頁)と『国際問題研究部三十年史上』(一九五三)があり、その ている。なお、国際連盟協会関西学院支部の活動詳細を記した資料に「創立十周年抄史」(『恒平』 では「一八日」とされ、『関西学院高等商業学部史二十年史』「年表」では「一五日」(五頁)となっ 24)国際連盟協会関西学院学生支部の発会式は、前掲書『開校四十年記念関西学院史』「年表」(一三頁)

( 25)前掲書『関西学院高等商業学部二十年史』一六四頁。

( (二〇二〇、一〇九~四二頁)を参照のこと。 学院史紀要』第二四号(二〇一八、七~二八頁)、第二五号(二〇一九、三九~八一頁)、第二六号 ()乾精末と国際連盟協会、排日移民法、太平洋問題調査会、軍事教練―」上[前]・中・下『関西 26)その詳細は、井上琢智前掲論文「戦間期関西学院における「恒久平和」運動について―神崎驥一、

『時計台』〔関西学院大学図書館「館報」第八九号、二〇二〇〕二~一一頁)、坂本遼らがいる。 ド・ラ・メーアの位置」である。なお、大橋毅彦「関学発、“神戸の詩人さん竹中郁の戦前・戦後”」 友藻風、由木康、竹中郁(文学部英文科を一九二六年卒業で、卒業論文は「近代詩に於けるウオルタア・ 代表的な人物としては、作曲家では山田耕筰、山田の後輩大澤壽人(一九〇六五三)詩人では、竹 27)関西学院における文化活動は、英文学者だけでなく、作曲家、詩人、画家の輩出にも及んでいる。

    絵画では、高中絵画部弦月会が絵画の研究・創作を目的として、一九一五年ごろに「弦月画会」の名称で活動を開始した。学生でありながら日展・二科展等の公募展に入選し中央画壇で名を馳せた美術家を多数輩出した。例えば、関西学院の美術教員として慕われた神原浩、洋画研究書『絵画』

(31)

の翻訳で著名な国画会の大森啓助、独立美術協会の野口彌太郎、創作版画家の北村今三、二紀会の児玉幸雄、一九五〇~六〇年代にかけて世界の美術界を席巻した具体美術協会の主宰者・吉原治良、国画会の版画家・川西祐三郎、新制作協会の石阪春生などがいる(前掲書『増補改訂版関西学院事典』四五~四六頁)。また、「大阪の文化施設・朝日会館の館長」を務めた十河厳は、高等商業学部、一九二八年の高等商業学部卒業生である(岡野宏「朝日新聞時代の十河巌」および中村仁「『文化活動の推進者』・十河巌―朝日会館館長時代を中心に―」『関西学院史紀要』第二六号、二〇二〇、四三~六八頁、同号、六九~一〇七頁)。なお、関西学院で育ったこれらの人びとの紹介は「関西学院出身の作家たち」、「相関図」でなされており、概ね一九二〇~一九三〇年代に限定されているものの、きわめて有益である(『美術と文芸―関西学院が生んだ作家たち―一』関西学院大学博物館、二〇一六、七四~七五頁)。(

一九一一年に報徳実業学校(現・報徳高等学校・中学校)を開校したし、清一は「精志郎」の名前 曽根のこの出版は市松による曽根の研究支援の一環としてなされたものと思われる。なお、市松は た(大江清一「『思想』創刊の頃と今」『クレセント』関西学院、一九八六、第二〇号、七七~七八頁)。 さな同人誌」として出版した。精一は一九三五年四月から関西学院大学文学部で三年間講師を勤め おり、その長男精一は、御影で岩波書店の『思想』に対抗するために『理想』を一九二七年に「小   彦「ブラウニング研究者曽根保の自伝」『英米文学研究』梅光学院大学、三四号、一九九八、二三五頁) その理想社は、「幸に、兵庫県御影の報徳銀行社長大江市末から研究費を充分いただいて」(向山義 Robert Browning 年』五七九~八〇頁)。なお、曽根は『彼の生涯と作品』を理想社から出版したが、 て、一九二〇年から二五年まで務めている(前掲書『関西学院大学図書館史一八八九年~二〇一二 年まで図書館長に次ぐ役職であった。それ以降は次長・事務部長が司書に代わり置かれた)とし 県学事関係職員録』関西学院大学学院史編纂室所蔵)。また、鼎は第三代司書(一九〇九年より五七 曽根鼎は一九二四年度および一九二六年度には私立関西学院「図書係」として勤務している(『兵庫 28)曽根保(口述)『ある英語教師の記録』一九八二(限定五〇〇部、私家版)、二四一頁。曽根保の兄・

参照

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