【研究ノート】大正期仙台市の公設小売市場
著者 仁昌寺 正一
雑誌名 東北学院大学東北産業経済研究所紀要
号 37
ページ 45‑89
発行年 2018‑03‑10
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024487/
【研究ノート】
大正期仙台市の公設小売市場
仁昌寺正一
(東北学院大学経済学部教授)
<目次〉
はじめに
I. 「第1期公設小売市場」の展開
l. 仙台市内への公設小売市場設置までの経緯 2. 2つの公設小売市場の開設と閉場
II. 「第2期公設小売市場」の展開 l 仙台市名掛丁市場の開設
2. 名掛丁市場の閉場と新市場の開設 111. 「第3期公設小売市場」の展開
1. 4つの公設小売市場の開設と名称変更
2. 宮城県の「特別会計社会救済事業資金」の主な特徴 3. 財団怯人宮城県社会事業協会への移管
おわりに
はじめに
本稿の課題は、大正期に仙台市内に設置された公設小売市場:の展開に関する特徴を明確にす ることである2.
'公共剛体やその関連団体なと,が経営する公設小売市場は、公設市場と略称され、 「こうせついちぱ」、 「こう うせつしじよう」と呼ばれることも多いゞ
霞本稿は、筆者がやや長期にわたって取I)組んでいる研究テーーマ(「仙台における生鮮食料品流通市場の近代 化過程に閲する研究」)の一環として作成されている。このテーマに沿って韮者がこれまで発表した論稿は 次の通りである。
仁昌寺正一「株式会社仙台魚市場設立時の一つの紛争」 (中村勝編「市と鵜」、中央印刷出版部、 1999年 8月)、同「市場」 (「仙台市史資料編6近代現代2産業経済」 1V、仙台市、 2001年9月)、 「市場(い ちぱ)」 (『近現代仙台の経済と市民生活〔平成13年度東北学院大学経済学部公開講義〕」、東北学院大学経済 学部・高等敬育ネットワーク仙台、 2001年12月)、同「「宮城県食品市場規則」公布下の仙台市の青物市場」
(『市場史研究」第22号、市場史研究会、 20()2年11月) 、同「研究ノート 昭和初期仙台市の魚市場再編問 題一『宮城県食品市場規則jの公布(昭和3年) をめぐって−」 (I東北学院大学論典経済学」第153号、
東北学院大学学術研究会、 2003年9月) 、 |司「『地方税規則」公布下の背物市場の紛争」 (「市史せんだい」
VOL14、仙台市、 2004年7月) 、同「昭和初期仙台市中央卸売市場開設計画の始動一資料的考察 」 (「わ が国における卸売市場の形成と展開に関する研究j平成14年鹿〜16年度、科学研究費補助金研究・基盤研 究(B)一般・研究成果報告書、研究代表者,岩本由輝、 2005年3月) 、同「仙台市と宮城郡七北田村荒巻.
東北産業経済研究所紀要第37号
周知のように、大正期に全国の諸都市に急速に普及していった公設小売市場の特徴については、
多くの優れた研究がなきれている:'。ここではまず、それらの中から、仙台市内に開設された公設 小売市場の研究の噛矢と位置づけられる徳島達朗、岩本由輝の研究を取り上げてみよう。
徳島は、「公設市場の開設(大正8年)と反響」4において、仙台市内の公設小売市場の開設(1919
〔大正8〕年9月15日)から閉場(1920(大正9]年9月30日)の経緯を、 「大正八年公設市 場関係仙台市役所」 (仙台市博物館所蔵) と「河北新報」の記事を使って検討した。この論槁は、
それまでほとんど知られていなかった大正期における公設小売市場の存在を明確にしたという意 味で大きな評価ができよう。 しかしながら、そこで取り上げられたのは、 1919年9月15日の開
北根の合併」 (I市史せんだいjVb1.15、仙台市、 2005年9月) 、 同「明治20年代の仙台市における青物市 場の再編新聞記事を主な史料として−」 (『市場史研究j 26号、市場史研究会、 2006年12月) 、同「研 究ノート 明治20年代仙台の青物市場の再編過程一「小西家文割による検討を中心に−」 (『東北学院大 学経済学論集」第169号、東北学院大学学術研究会、 2009年1月) 、同「公設市場」 (「仙台市史通史編7 近代2」第4章第2節の中の「経済保護事業」の項、仙台市、 2009年7月)、同「資料昭和30年代の青 物市場の「紛擾」」 (『東北産業経済研究所紀」第29号、東北学院大学東北産業経済研究所、 2010年3月)、
同「資科昭和3年仙台市と名取郡長町の合併」 (「東北産業経済研究所紀要」第30号、東北学院大学東北 産業経済研究所、 2011年3月) 、同「市場」 (「仙台市史通史編8現代1」第4章第4節、仙台市、 2011 年9月)、同「昭和戦前期における仙台市中央卸売市場開設計画の展開」 (「東北産業経済研究所紀要」第32 号、東北学院大学東北産業経済研究所、 2013年3月)、同「市場」 (『仙台市史通史編9現代2」第4章 第4節、仙台市、2013年3月) 、同「明治中期仙台の魚市場移転計画について」 (「東北学院大学経済学論集』
第183号、東北学院大学学術研究会、 2014年12月)。同「近代の仙台を中心とした市場形成」 (「仙台郷土 研究』復刊第40巻第2号〔通巻291号〕、仙台郷土研究会、 2015年12月)。
: 先駆的研究としては、藤田貞一郎、中村勝の研究があげられる。多くの市場史研究者によって共有され ていると思われるので、その要点を紹介しておくことにする。
藤田は、 「私の問題意識は封建経済が崩壊し資本主義経済が発展して来るなかで、わけても食料品を中心 とする日用必需品の流通機構がどのような経過を辿って展開して来るのか、 これを生産点から消費点の全 体を見通しつつ、だから問屋も同時に含めて把握してみたい。その際、賃労働市場の展開過程一食品市 場は賃労働者生存の物質的埜盤であるから−これにも目を向けながら行うといういわば市場論的接近を とるj 「近代日本経済史研究の新視角j (清文堂、 2003年7月、 164165ページ) という立場′視点から、
公設小売市場登場の歴史的意義について次のようにいう.
「大正期に成立する公設市場は、 . ・ ・食材としての食料品を中心とする日用品流通機構において、正 札定価販売、現金売り、掛け売り掛け買いの廃止ということ、 しかもひとつ屋根の下のワンストップ・
ショッピングを、 日本のI閉業史上はじめて実現したのである。それに刺激されて、それを真似た私設 小売市場が籏生する」 (藤田貞一郎「近代日本経済史研究の新視角」、清文堂、2003年7月、358ページ)。
また、中村も、同様の視点から次のようにいう,
「公設市場は市民、 とりわけその分布が最も密であった下町の都市下層にとってどのような影響を 及ぼしたであろうか ,騒動〔米騒動のこと・ ・ ・引用者〕 を前後にした公設市場の流行は、賃金労働者 家計とくに都市下層にとって革命的ですらあった。一堂に日用品をあつめて、数ある同種の商品を 比較しながら買うことができるし、商品の知識も豊かになった。買うという行為が定著してはじめて、
消費者としての立場が客観的にすえられた。それは、従来の掛けによる購買をやめ、情実や慣習に ながされた特定の小商人のみからの購入から解放きれて、 自主的な選択購入や経済購入が習慣づけ られるようになり、御用聞きや個別配達等による小売経費を節減してそれだけ職入価格を低減する 可能性がうまれた.現金・正札取引を励行して小売営業と消費者の売買行為をはじめて、相互に対 等とな') 、 より合理的なものとなった。公設市場に陸続として成立した私設小売市場とあいまって、
ここに、わが国における日用品の合理的な購買機櫛が芽生えてきたといえる。」 (中村勝i市場が語 る日本の近代j,そしえて、 1980年、 186‑187ページ)
このように、いずれも、生鮮食料品・ 日用品の集合店舗としての公設小売市場が、市民の購買行動にお いて、いわゆるワンストップ・ショッピング化、現金取引・正札販売といった新たな業態を持って登場し てきたこと、そしてその影響が私設小売市場の開設を促していったことを指摘している。そして、 このよ うな特徴によって、公設小売市場の登場は、 日本の資本主義発達史はむろんのこと、商業史や市場史にお いても画期的な意義を持っているというのである。
4 『長崎県立大学論集 第25巻第3.4号、 1992年3月、 4160ページ。
設から翌年9月28日の閉場に至るまでの「第1期」に属する公設小売市場に関する検討にとどまっ ており、大正期全体を見たものではなかった。一方、岩本由輝は、 「仙台市における公設市場の 開設」5において、徳島が使用した資料に加えて「宮城県公報』や『宮城県史』なども使用し、大 正期を通して仙台市内に登場した公設小売市場の顛末について検討を加えた。この点で岩本の功 績には大きなものがあったといえよう。 しかしながら、その展開過程のなかで見られた重要な動 きについては、十分な検討がなきれていない。例えば、後述するように、仙台市内に初めて設置 された公設小売市場が「県立市営」というスタイルをとった理由・事情についても説得的な説明 がなきれていない。 また、公設小売市場の経営が1926 (大正15)年4月に宮城県から財団法人 宮城県社会事業協会に移管きれた理由・事情についても十分な説明がなきれていない。さらに、
この公設小売市場が宮城県の「特別会計社会救済事業資金」6によって運営きれていたことについ ても、 まったく言及きれていない。そこで本稿では、徳島、岩本の論稿では明らかにされなかっ た点についても検討を加えていく7・
それにあたり、大正期に仙台市内に登場した公設小売市場の展開を一通りみておこう。そのた めに作成したのが図‑1と表1である . これらからは、大正中期から大正末期までに公設小売市 場の開設者や開設場所が幾度も変更されていたことがわかる。
仙台市内に初めて公設小売市場が開設きれたのは1919 (大正8)年9月15日、 「仙台市南町通 東北学院前」の「仙台市南市場」、及び「仙台市表小路県会議事堂前」の「仙台市北市場」の2 カ所であった。市場の開設にあたっては、宮城県と仙台市がその資金を折半するという名目であっ たが、実際には宮城県の「特別会計社会救済事業資金」からの支出に大きく依存していた。この 2カ所の公設小売市場は、翌1920 (大正9)年9月28日に閉鎖きれるが、その3カ月後の1920 年12月には市内名掛丁に「仙台市名掛丁市場」が開設された。この新たな公設小売市場も短命で、
1年後の1921 (大正10)年12月24日には閉鎖された。 しかしその翌日の12月25日には、仙 台市内の3カ所、すなわち、定禅寺通に「仙台市中央市場」、清水小路に「仙台市南市場」、北一 番丁に「仙台市北市場」が開設された。ざらに翌1922 (大正11)年8月1日には木町通に「仙 台市西市場」が開設された。これらの市場は1923 (大正12)年7月、名称変更がなきれた。す なわち、 「仙台市中央市場」が「宮城県東六番丁市場」愚へ、 「仙台市南市場」が「宮城県清水小路
5仙台市I市史せんだい」 V01.2、仙台市博物館、 1992年12月、 65‑80ページ。
6この特別会計の祇会救済事業の喪金は、社会事業盗金や救済事業資金といった名称で使用きれているため、
以下では統一して「特別会計社会救済事業資金」とする。
7なお、仙台市内に設箇された公設小売市場に関しては、近年、佐々木秀之「大Jヒ期仙台「 ijにおけるx橋の 架設と名掛丁公設市場の設置にみる政治的背景」 (「市場史研究」第31号、市場史研究会編集、2012年1月)
が発表きれた。この中で佐々木は、1920 (大正9)年12月26日に宮城県によって設悩された名掛丁市場が、
物価の調整や社会事業の推進といった動機,目的からではなく、単にX橋(宮城野端)の架橋で不利益を薮っ た名掛丁の商業者に対する補俄という政治的目的から設置されていったことを、宮城県公文瞥館保存資料 や新聞記事を駆使して追究している.大正期に仙台市内に設瞳された公設小売市場の展開に関する時期区 分も含めて、教えられることが多々あった。
sこの市場は、 もとは定禅寺通にあったが、東六齢丁に移転していた。理由は「地主から法外な地代を請求 されたため」であったという (宮城県議会史編さん委員会編「宮城県議会史第三巻j、宮城県議会、 1975 年3月、 999ページ)。
図−1大正期に仙台市に登場した公設小売市場の位置
①仙台市南市場(1919年9月15FI開設、 1920年9月28 日閉鎖) .
②仙台市北市場(1919年9月15 1]│淵設、 1920年9月28 p閉鎖)
⑬仙台市名掛丁市場(1920年12月25日開設、 1921年12 月24日閉鎖)
⑨仙台市中央市場(1921年12月25日開設1922年に近 辺に移転して仙台市東大番丁市場と改称1923年7月 以降には宮城県東六番丁市場と改称さらに1926年4 月以降には宮城県社会事業協会東六番丁市場と改称)
⑤仙台市南市場(1921年12月25日開設、 1923年7月以 降には宮城県清水小路市場と改称、 さらに1926年4月 以降には社会事業協会満水小路市場と改称)
⑥仙台市北市場(1921年12月25il開設1923年7月以 降には宮城県北一番丁市場と改称、 さらに1926年4月 以降には宮城県社会事業協会北.一番丁市場と改称)
⑰仙台市西市場(1922年8月1日開設、 1923年7月以降 には宮城県木町通市場と改称。さらに1926年4月以降 には宮城県社会事業協会木町通市場と改称)
ー
洲 詩 縣 鵜 議 競 翠 鵲 票 託 溺 翻 笥 蝿
仙台市史編ざん委員会編『仙台市史通史編7近代2』
(仙台市、 2009年7月) 、 545ペーシに掲載されていぁ 地図に加工・加筆。
これらの記述にあたっては、 「宮城県報」 1919年9月 15日、同 1920年12月17日同 1921年12月24tl 同 1923年7月6LI 、「大正十lノq年仙台「│f統計書』、『公 設市場概要」 (内務街社会局社会部、 1931年)を参考 資料
(注)
H水がドイツに立戦布告(第一法世界大磯に参加)
1914 (大正3)
3
6月頃より、仙台市では米価の1Wi勝が顕粁となる 1917 (大正6)
仙台市会で外米(ラングーン米) 8トンを5万│'I以内で購入し瞭売することを決擬 仙台市でも 「米騒動」が勃発
※この月、内務竹よ'ノ宮城LII!への公設小光IIj場設脱の再三の勧奨がある 1918 (大正7) ︵b
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第一次世界大戦終詰 11 11
仙台市会で「市lX改服FII茶残金設吐及び管理蝿lill」が閏I決きれる
「南日」大火」発生
宮城県会で「持別会,il・社会救滴111乗奇金jの没IHが決議 宮城県社会救滴会i役立
仙台市跿が寓城叫知1I1に公 没ノ1,光市場IMI設のための財政支按を婆荊 宮域喋が11 1台市に公没小允i1ij4IMI股のための11ケ政支援を受諾
「宮城媒公設洲jル蝿l'd」 ・ 「1:『城県公i没「│jjル職務規程」 ・ 「公設市場物価規程」が公川jきれる 宮城県会で「詩別会iil社会救析11紫街企」に{i l1台市公設小光市場開設の追加予艸決定 仙台市叶jII蛾と仙台lli北'li塒が1M,性
仙台市会で「救済外'五I米附入二INIスル件」を決樅 宮城県営の師助食うltが仙台iliIfj ' lijルにIMI股きれる
仙台Tli会で「木炭職人眼光ノ件」を決淡(木炭のI肺入・唯光を予算化)
「市営住宅迅般二│則スル辿臓」が出きれる 1919 (大正8) 6
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東北産業経済研究所紀要第37号
市場」へ、 「仙台市北市場」が「宮城県北一番丁市場」へ、 「仙台市西市場」が「宮城県木町通市 場」へと名称変更した。さらに、 この4つの公設市場は、 1926 (大正15)年4月、経営主体が 宮城県から財団法人宮城県社会事業協会に移管され、名称も、それぞれ「宮城県社会事業協会東 六番丁市場」、 「宮城県社会事業協会清水小路市場」、 「宮城県社会事業協会北一番丁市場」、 「宮城 県社会事業協会木町通市場」へと変更された。
このような展開をたどる仙台市内の公設小売市場であるが、以下では、 これらの展開を3つの 時期に区分して検討する。①1919 (大正8)年9月15日から1920 (大正9)年9月30日まで の公設小売市場を「第1期公設小売市場」、②1920年12月25日から1921年12月24日までの それを「第2期公設小売市場」、③1921 (大正10)年12月25日から大正末期までのそれを「第 3期公設小売市場」 とする。 また、本稿はファクトファインディング作業を基本とする研究ノー トであることもあり、新聞記事(とくに「河北新報」の記事) を多用している。この記事の利用 にあたっては、繁雑ざを避けるため、 とくに断らないかぎり、新聞名の記載は本文中で行うこと にする。
I. 「第1期公設小売市場」の展開
1. 仙台市内への公設小売市場設置までの経緯
すでに述べたように、 1919 (大正8)年9月15日、仙台市内の2カ所に公設小売市場が設置 された。そこでまず、 これらの市場の開設までの経緯をみていくことにしたい。
(1) 明治末期から1918 (大正7)年末まで
まず、明治末期から1918年末までの時期を取り上げてみよう。
公設小売市場を設置すべしという主張は、明治末期から大正初期にかけて国家的な立場・観点 からなされている。 1910 (明治43)年に衆議院に設置された生産調査会が、 1912 (大正元)年 9月5日に農商務大臣牧野伸顕に提出した答申(第七諮問事項「工業ノ発達助長二関スル件」)
の中の第一項において、 「我国生産力ノ増進ヲ図ルカ為、大二工業ノ発達ヲ助長スル十二ノ必要 アルハ言ヲ俟タス多年ノ宿望タリ」という状況認識に立ち、 「日用品ノ市価昂騰シ細民ノ生計二 苦シムノ状ハ年々増進スルー方ニシテ壁モ減退セス」とし、その「宿望」を達成するために解決 していかなければならない課題のひとつに、 「生活費二関スル件」をあげて「日用品ノ供給ヲ潤 沢ナサシメ其低廉ヲ図ルコト、之力為ニハ各所二日用品市場ヲ公設スルヲ以テ目下ノ急務トス」
と明示した9・この「日用品市場」こそ公設小売市場にほかならない。
とはいえ、公設小売市場設置の直接的な動機や原因となったのは、 この答申の後に起きた2つ
9武田勉網「生産調査会資料第二巻」、柏普房、 1987年3月、 118ページ。 このような答申の背踏には、 日 蝿戦争の勝利によって欧米並みに工業力や国力を一層向̲こさせていこうとする政策判断があったといえよ
う。
の出来事であった。ひとつは、第1次世界大戦時における物価の高騰である。それに対する生鮮 食料品・ 日用品の廉売施設として公設小売市場が注目きれ、 1918 (大正7)年4月に大阪IIjで設 置された。むろん、全国で初めての設置であった。 もうひとつは、米騒動の発生である。同年7 月23日に富山県下新川郡魚津町で始まったこの動きは、その後急速に全国に波及していった。
また、物価の上昇に一向に歯止めがかからなかったこともあり、米騒動に触発きれるかたちで労 働運動や小作争議などの大衆運動も激化していった。かくして、 「米騒動の落とし子」'1'とされる 公設小売市場の開設が強く要求されるようになったのである。
米穀をはじめとする商品の価格高騰は仙台市でもみられ、市民生活を圧迫していた。当時の白 米小売標準価格をみると、 1918年7月上旬に一升(1.5キログラム) 27銭であったのが、 1ケ月 後の8月10日には42銭と1.5倍以上に急騰していた。当時の仙台市民の食生活の中に占める米 の比重はかなり大きかったため、かかる米価上昇による生活の困難が深刻なものとなっていたllo そして仙台でも米騒動は発生した。8月11日に東華新聞社長小野平一郎らが仙台市公会堂で 大会を開催し、米の値上げを阻止しようと呼びかけた。これに呼応して13〜15日には15R午後 7時に桜ケ岡公園なとゞに参集するよう呼びかけるビラが市内各地に貼られた。当日は桜ケ岡公園・
青葉神社・東三番丁・伊勢堂山・停車場前広場・宮城野原に市民が多数集まり、大手の米穀商,
酒造業者・高利貸・質屋・味噌醤油業者を襲った。この行動は翌16・ 17日も行われたが、警察 や軍隊の出動もあって大きな暴動には至らず、 20日にはほぼ沈静化した12o
さて、 この騒動が全国的にも鎮まっていった頃から、公設小売市場への国家的対応が具体化き れていった。例えば、 1918年8月25日の「河北新報」は、「公設市場急設」 という見出しで、 「今 回の食糧暴動(米騒動のこと. . ・ ・ ・ ・引用者)に鑑みこれが急設普及の要を認め、小橋内務次官より 各地方長官に対し至急設置すべき旨、それぞれ伝達したり」と報じている。そして8月29日の「河 北新報」は、 「公設市場計画」 という見出しで、 「本県(宮城県のこと……引用者)に於ても内相 の訓示を体しそれぞれ考究中なるも県直轄の施設とするは難事なるを以て、成るべく自治団体に 経営せしむく<目論見居れI)と」 という宮城県の方針を伝えている。宮城県としては、内務省の 方針を受け入れて公設小売市場設置を行いたいが、それにあたり、仙台市を念頭に置きつつ「成 るべく自治団体に経営せしむく<目論見居れりと」 としている。つまり仙台市に設置きせたいと いう意向を表明している。政府の地方への公設小売市場設置の動きはその後も続き、 1918年12 月には、内務省が、府県に対して、公設小売市場設置のマニュアルともいうべき「小売市場設憧 要綱」を送付している'3.次の文普である。
x'石原武政「公般小売111場の生成と展開」、千倉瞥房、 1989年12月、 6ページ。
'!中川正人「米騨励と民衆運動の腱開」. 「窟城の研究6近代篇」、消文堂、 1984年7月、 336ページ。なお、
この頃は、米以外の生鮮食料品 日用品も高騰していた.例えば、 1918年8月28日の「河北新報」は、 こ の1年間の日用生活品の価格上昇.率について、米50%、大豆50%、味噌37%、塩22%、鶏卵70外、鮒 150%、 ノ<根50%、馬鈴薯・茄子・胡瓜60%〜100%、薪炭60%といった数値をあげている,
12「特集・大正IOO年」、仙台市「市史せんだい」Wl.21、仙台市博物館2011年1月、 52ページ.
l3この文聾は「小売市場設置奨励ノ件」 (大正七年十二月・発地第二一七号内務次官通帳)の中で、 「時勢ノ推 移二伴上社会的施設ヲ要スルモノ極 々可有之候得共一般需要者二成ルヘク廉価ヲ以テ新鮮優良ナル食料趾
刺上産業経済研究所紀要第37)j
「 ○小売市場設置要綱
」、売市場ハ公共団体又ハ公舗団体ヲシテ経営セシムルヲ原則トスルモ、 相当制限ノ下二
ノ
一
私人ノ経営モ亦之ヲ認ムルコト
売場ノ使用ハ生産者、箔ハ其ノ閉体二優先権ヲ与フルコト 胆シ委託販売ノ途ヲ開ク為 二、
ニー定制限以内ノ売場ヲ留保スルヲ得ルコト
三、売場ノ使用二対シテハ市場ノ維持費、職員ノ給料、及雑費等ヲ償う二足ル最小限度ノ使 用料を徴収スルコト
販売価格ハ各品目二就キ之ヲ公示セシムルコト
︑
︑
︑
四 五
六 市場内ノ取引ハ凡テ現金取引トスルコト
市場内二於ケル販売姑目ハ地方ノ状況ニ依り増減スヘキモ、米、雑穀、薪炭、味噌、醤 油、砂糖、野菜、果実、乾物、干魚、漬物、荒物、肉類、魚類、鶏卵等トスルコト 七、奨励方法二関シテハ土地ノ収用ヲ認メ低利資金ノ融通、官公有地使用ノ便宜ヲ計ルコト
ノ外、地方二於テ助成ノ方法ヲ識セシムルコト
八、市場ノ位置、構造、設備、取引関係、監督方法、其ノ他必要ナル事項二関シ地方長官ヲ シテ相当規定ヲ設ケシムルコト
九、市場ノ監督及庶務ヲ掌ラシムル為必要ナル吏員、其ノ他ノ職員ヲ公共団体二置カシムル コト
十、売品ノ品質不良、又ハili格ノ不適当ナルコトヲ認メタルトキハ市場監督二於テ其ノ販売
ヲ禁止シ、又ハ売場ノ使用ヲ停止スルコト 」'4
これをみると、当時において、商取引における画期的な規定が随所に盛l)込まれていることが わかる。例えば、 「市場内ノ取引ハ凡テ現金取引トスルコト」 という規定である。 これまでの主 流であった販売品価格の上昇につながる月末払いの掛売、御用聞き・配達制などの販売といった 商取引の仕方とは一線を画するものであった。 また、 「売場ノ使用ハ生産者、若ハ其ノ団体二優 先権ヲ与フルコト」 という規定も、産地直結によって流通コストの削減を図る施策につながるも のであった。このようにして、市民の日常生活に不可欠な「米、雑穀、薪炭、味噌、醤抽、砂糖、
野菜、果実、乾物、干魚、潰物、荒物、肉類、魚類、鶏卵等」を−店舗に配列して販売させよう としたのである。 まきし〈日本の簡業史上、 ワンストップショッピングを初めて実現しようとす るものであったといえる。
この施策は多くの市民からも歓迎きれた。そして全国の多くの都市において米騒動が下火に
ヲ供給スルコトハ鰯必要ヲ認メラルル所二有之」として送付きれている
卸売市場制度流十年史調きん委側会「卸売市場制度五十年史第一巻」、社団法人食I11!需給センター、 1979 年3月、 801‑802/R‑ジ。なお、下線はり│用者による (以下、 百lじ1 コ
なってきた頃から、公設小売市場の設置に積極的に取り組むようになった。当時の6大都市のケー スをみると、大阪市では、 1918年9月5日、新たに4つの公設小売市場(本庄、空堀、西野田、
築港)が開設され、既設と合わせて8市場となっていた。 また、東京府では、同年11月中旬か ら下旬にかけて、東京日用品市場協会の管理になる9市場(新宿、中渋谷、品川、寺島、 日暮里、
滝野川、西巣鴨、下渋谷、北千住)が開設、横浜市では、同年12月20日、 4市場(青木町.、西 戸部、南吉田、本牧)が開設、京都市では、同年9月25uに3市場(北野、川端、七条)が開設、
神戸市では、同年11月に2市場(東市場、中央市場) を開設、名古屋市では、同年llH15FI に2市場(東市場と中市場)が開設、続く 12月1日に2市場(西市場、南市場)が開設という 状況となっていた15.
まさしく、公設小売市場開設の一大ブームが到来していたのである。
(2) 1919 (大正8)年1月から同年6月まで
このように、公設小売市場の設置は、全国的には盛り上がっていたものの、仙台市においては 様々な事情から順調に進まない状況にあった。わずかに開設時期や設置場所などの検討が細々と 行われていただけであったI6o
そうしたなか、 1919年3月、仙台市長山田撲一が、突如、公設小売市場の設置を中止する意 向を表明した。それについて同年3月26HのI河北新報jは、 「公設市場中止は不可」 という見 出しで、 「イl ll台市の公設市場設置問題は山田市長の気乗りせざる関係より遂に行悩みを来し結局 実現不可能に了るべしと観測きれつつある」 とした上で、山田市長が「公設市場経営の主体を仙 台市とすれば絶対に維持困難になる」 と発言したと報じている > このような事態になったのは、
公設小売市場の建設費をめぐる宮城県との交渉が決裂したためであった。1919年3月28Hの「河 北新報」は、 「市場立消事情県市とも冷淡」 という見出しで、仙台市の「吏員」が「他府県各 地に派して既設市場の実況視察」を行ったところ、建設費として「金三千円」が必要であること が判明したが、仙台市としては「差当り他にこれが経費に充当すべき資金を有せざりし」ので、「県
よりの該資金の交付を得て市場を建設せんとの予め計画案を作成して県の批判を請いたる次第な る」 ものの、宮城県は「その儘市に返戻し」たことを報じている。要するに、宮城県は、 1ill台市 からの公設小売市場の建設費交付の要請を拒否したというのである。このようなやりとりを受け るかたちで、仙台市長山田撲一は、公設小売市場設置計画の断念を表明したのであった。
ところで、仙台市長が、公設小売市場の建築費の支援を宮城県に依頼した背景には、 1919年3 月に1町市の財政運営に関する深刻な問題の発生という事情があった。端的にいえば、第一次世界
'5公開継営指標協会「日本'1、売業運動史第一巻戦前編」、社廿l法人公開経営指導協会、 1983年3〃、 79〜80 ページ。
'侭そうした勅きを「河北新報」の記事からピックアップしてみると、 「│#l設を兇るは早くも2月 ドイリか311頃 となるべく 、場所は先づ以て北一番丁勾当台通り角旧大林区署跡に1ケ所建設する予定」 (「河北新報」
1919年1月5H) 、 「完全なるものを設正すること能はざるも漸次改善を加うる目的にて差当り 'li内3ケ所 に設立」 (「河北新報」 1919年1月19H) 、 「開設を見るは早くも5月頃」 (「河北新報」 1919年1ノI21H) 、 といった郷『・でずるずると時間が経過していた。
東北産業経済研究所紀要第37号
大戦中の好況時に深刻化した交通問題、宅地開発問題をはじめとする都市問題への対策としてイ ンフラ整備事業(市区改正事業や市電整備事業など)が計画きれていただけでなく 7,突如、3月 2日未明に起きた台市中心街の707戸が焼失した、仙台の歴史上、空前の災難となった「南町大 火」'8によっていわゆる「焼跡市区改正」、すなわち土地買収や家屋移転なと:を伴う市区改正事業 などを災害復興事業として緊急に実施しなければならなくなっており、巨額の財政支出が必要と されていたのである。
その一方、宮城県では社会救済事業に着手するため、 1919年3月18日から20日まで開かれ た宮城県の臨時県会において、 「特別会計社会救済事業資金」の提案が可決きれ、具体的に動き 始めていた。この提案では、 この資金の財源として県内有志から募金を集め、それによって種々 の社会事業を推進することになっていた。その基金の目標額は15万円に設定されたが、それま での取り組みによって、 3月9日時点で10万9900円が確保きれており、当面は、 このうちの4 万7940円を投じ、 1919年度から1921年度の3カ年にわたって、改良長屋、簡易幼稚園、改良 長屋、簡易食堂を建設することが予定きれていた(「河北新報」 1919 (大正8)年3月11日)。
このような県の動きをみて、仙台市長は県の社会救済事業の一環として公設小売市場の建設費用 の支援を要請したのである。
その後、公設小売市場の建設費支出をめぐる仙台市と宮城県の関係は膠着状態が続いた。 6月 頃には、仙台市民から公設小売市場設置の声があがったものの、宮城県知事慣田恒之助と仙台市 長山田撲一が同時期に辞職したこともあって、仙台市と宮城県の歩み寄りはなかった。そのこと について、 1919年6月6日の「河北新報」は、 「生活難から公設市場再び持ち上がる市営 は困難」という見出しで、 「公設市場の如きは一種の物価調節機関としても必要なる施設にして、
先に仙台市にては一旦之を計画し各地に於ける施設方法等を調査の上、設計を立てた事あり。あ る程度までの進捗を見たるも、県と梢見解を異にしたる点ありしとかにて有耶無耶の裡に葬り、
!,仙台市においても、 6大都市ほどではなかったものの、都市問題が悪化しており、計画的な部市整備の必要 性が増大していた、そしてそのような背景から市区改正事業への取り組みが開始されたのであった。その ための瞬想は、1919年(大正8) 2月18日、仙台市長山田撲一によって「市区改正事業街金設置暁管理規則」
として仙台市会に提案きれ、一週間後の2月26日に可決きれた,その内容は、 「電気事業ヨリ生スル利益 繰入金」によって、つまり電気料金値上げによる収益を操|)入れて、 「特別会計」を設け、将来の市区改正 靭業の推進に備えようとするものであった。予算規模は5万916円であった(仙台市「大正八年市会決 識録仙台市会I).なお、 この櫛想の登場には、前年2月17日に仙台市会において、仙台市睡の建設を意 図して交通調査委員会が設置されたことも影響していた(仙台市『大正七年市会決議録仙台市会」)。
'職これについては、 さしあたり、次のよう輻己述を引用しておくにとどめたい.
「大正8年3月1日は強風が荒れ狂い、市内各所に消防手を配置し、災害に備えていた。その折りから2日 ノ1:前2時30分ころ、南町47番地(電話横丁)から出火、強い北風にあおられて、火はたちまち東一番丁・
教楽院丁・北月町へと燃え広がった。/仙台市消防はもちろんのこと、警察・軍隊が総出で消火に当たっ たほか、近隣の塩竃・岩切・亘理・大河原などからも救援隊がけつけた。その結果、午前七時半ころやっ と鎮火した、/この火災による焼失戸数は707戸、罹災面稿は4万坪、当時仙台を代表する建築であった 仙台郵便局・電信電話局・東北学院が焼失、通信局の損害は63万円、東北学院は50万円といわれた。 し かし幸いなことに死者はいなかった。/その後、大正12年(1923)の都市計画法に仙台市も指定きれた。
仙台市はこの法律に基づき、地方都市計画委員会を設立し協議したが、 この災害を教制I│として都市防災に も力点を世いた計画を立案した。 この結果が現在の仙台市街地櫛成に少なからず伝えられている。」 (「特典・
大正100年」、仙台市「市史せんだい」W1.21、仙台市博物館、 2011年1月、 54'、:‑ジ。なお、文中の/
は引川]肴が付した改行箇所)。
其内県知事は更迭し、市長又退き実行に至らず今日に及びたり」と伝えている。
(3) 1919 (大正8)年7月から同年8月まで
次に、 1919 (大正8)年7月から同年8月までの時期についてみてみよう。公設小売市場開設 直前の時期である19c
7月に入ると、内務省が再び公設小売市場設置の奨励をしたこともあって、宮城県は、仙台市 内への公設小売市場の設置に積極的な姿勢をみせるようになる。同年7月26日の「河北新報」
によれば、「予て懸案たりし公設市場を愈開設することに決し」たとし、そのため職員数名を東京、
大阪、名古屋なと.の諸都市に派遺して公設小売市場の「実況」を行い、 「具体的計画案」を樹立 する予定であること、 また25日午後には、設置の候補地である「清水小路、荒町、南町通I)」
を「森知事自身自動車にて現場検分に赴き」見分したこと、公設小売市場の開設時期が「8月中旬」
と想定きれていることが報じられている。
このように、 この時期には、同年4月に濱田恒之助の後任として宮城県知事に就任した森正隆 の下で、公設小売市場設置にむけて新たな動きが出てきていた。
また、 1919年7月28日の「河北新報」が「公設市場開設に対する市内の人気は頗る良好なる ものの如く市民は一般に其実現の速かならんことを希望し居る模様なり」 と伝えているように、
仙台市民の中からも、 これまで以上に強く公設小売市場の開設を望む動きが出てきていた。
その後、 8月に入り、仙台市と宮城県の間で、公設小売市場の建設費、設置件数、設置場所等 についての協議が行われるようになった。
その協議の内容については、 1919年8月13日に開会の仙台市会における市長鹿又武三郎の発 言が参考になるであろう。やや長文になるが、引用しておく。
「議長番外(市長)
番外本日ノ市会開会ヲ機トシ先般来新聞紙上ニテ御承知ノ公設市場ノ件二関シ御含ミ ヲ願イタイノデアリマス。先般来、市長卜知事トノ間二数度交渉ノ結果、県・市吏 員ヲ各地二派遣シテ視察セシメマシタ。姫路、大阪、名古屋、東京、 ヨリ近ク福島 ヲ視察ノ結果、其報告二基キ至急開設ノ必要ヲ認メタルモ各位二相談ノ機会ヲ得ズ シテ知事卜市長トノ間二於テ開設ノ事二決定シダ次第デアリマス。場所ハ最初、南 町通東北学院ノ門前卜県会議事堂ノ前二半永久的ノバラヅクヲ建テ、野菜、雑穀、
魚類販売ノ計画ヲ立テマシタ。東北学院ノ門前二建物ヲ建ツレバ南向ニテ光湶ヲ受 ケ、夕日二照サレルタメニ清水小路煙草専売局ノ前卜変更シマシタ。所ガ其設計費 二−万二千円ヲ要スルコトニナリ、県卜市卜共同経営トナレバ、其半額即六千円ノ 金額ヲ負担スルコトニナリマス。 ソコデ県二交渉シテ金ノカ、ラヌ様二建物ヲ縮小
i,なお、1919年8月から1920年9月までの公設小売市場に関する記瑚の一覧を巻末に疎せておくことにする、
後学の参考になればという考えからである.
蝋北産業経済研究所紀要第37号
シ試二開設スル事ニシテハ如何卜言ヒタルニ、知事卜市長ノ意見ガー致シ清水小路 二設クル案ヲ変更シテ第一案ニモドリ南町通陸奥円ノ前二北向二建テルコトニシ、
東北学院前ニハ南向ニシ光湶ヲ受ケテモヨキ事務室ヲ設ケ、建物ノー部二県、市吏 員ノ宿直室、物品保管ノ板張戸締ヲ造り節約ノ上ニテ四千七百円余ヲ要スル事ニナ リマシタ。 、ノコデ県会議事堂ノ前卜陸奥園ノ両側二開キ、可成早ク開催セント思う 知事ハ幾分ノ金ヲヤルカラ市二於テ経営セヌカトノ交渉アリシモ、
ノデアリマス。
財政状態、経営方法ヨリ兇ルトキハ市二於テハ経営困難ナルヲ発見シマシタ。郡部 ノ農家、漁夫等ノ奨励ハ県二於テスルガ便利ナルヲ以テ其事情ヲ述べ、県、市合同 ヲ主張セル知事ハ承諾セルモ其経営饗ハニ分シテ負担トノ事、然ルー市ハ之二充当 スル金額トシテニ千円シカ持合ガナイノデアリマス。一方、 県二於テハ昨年当市民 有志ヨリ救済ノ 目的ヲ以テ寄附セラレタル金額ガ十何万円アルソウダガ、濱田知事 簡易食堂ノ費朋二充テテ届ツタカ 森知事ハ住宅補助、医薬等 ハ之二テ貧民長屋、
ノ補助スルト云ウコトニ極メタノデアルガ、公設市場モーツノ救済事業ナルガ故二 市負担ナクシテ出来ヌナラ市ハー時之ヲ拝借シ拝借金ハ有志ノ方二寄附ヲ峡へ救済 スルカラ融通ヲ願イタイト希望ヲ申述べタノデアリマス。 有志ノ寄付ハ強テ六ケ敷 モナイ様二考ヘマシタ。 ソレハ昨年ノ寄付ニシテ交渉未済ノ方モアルカラ寄附ハ可 能卜認メ、知事二申述べタノデアリマス。明日ハ評議員会モアル筈二付、通知ヲ受 ケタレバ、 イズレ評議ナルコトト恩ハレマス。第一ニモ寄附二不足ヲ生ズル様ナコ トガ起リマシタ時ハ追加予算トシテ市会ヲ煩ワス様ノコトモアルベケレバ御承知ヲ 願ツテオキタイノテアリマス」鋼)
ここでは、仙台市と寓城県との交渉の維緯について極めて詳しく言及きれている。このことか ら仙台市内での公設小売市場の建設は、前知事(濱田恒之助)や現知事(森正隆)の構想にはな かったが、仙台市の強い希望で盛り込まれたこと、 しかもその費用については、当面、 「特別会 計宮城県救済事業資金」を「融通」することで最終的にまとまったことがわかる。当時の宮城県 知事森正隆は、就任直後の6月20Hに発した告諭で、 「国民生活ノ生活上ノ必需品ダル米穀ノ他、
諸物価ノ暴騰ヲ繰返シ、再上国民生活ヲ脅カシツ、アル」2!という状況認識に基づき、仙台市側 のこのような要望を容認したのであろう型。
加仙台市「大正八年市会会議録仙台市会」、 601〜605ページ。 また、 「河北新報」 1919年811 4Hに は次のような記事も掲職ぎれている。 「過R森県知JIf自ら按分の結果、第一候補地として南町通東北学院 liilを、第二候補地として県庁前広塒を選定し、先づ以て南町j曲に開設することに略ぽ決定したるも、そ の後視察貝の報告に依I) 、期る大都市に値々一ケ所の市場にては何等の効果なきを認めたらしく 、蚊は 前期候補地2ケ所、即ち南北同時に開股することとなる」。森知LIfも、 この時点では、公設小売市助の開 設にかなり乗り気であったようである。
班!宮城県「宮城県報」第, て五九号、大正八年六月二十「I ゞ
型また、 この発言'よ、雌初に建設きれた「仙台,lj南市場」と 「{lll台市北市場」にも、建設決定に至るまでや や複雑な経綿があったことがわかる。 さらに、仙台市側から、富城県が公設小売市場の建投に関与.する立 塒の有利性として「郡部の朧家、漁夫等の奨励は県に於てするが便利なる」 ことを挙げているが、 ここか
さて、 この中の建設費の件に関しては、 『大正八年公設市場関係仙台市役所」 (仙台市博物館 所蔵) として、仙台市内への公設小売市場の開設準備を担当した職員が作成した文書が残されて いる。これらの書類からは、公設小売市場の建設費をめぐる宮城県と仙台市の交渉の内容を詳し
く知ることができる。それらをみよう。
1919年8月11日、仙台市長鹿又武三郎は宮城県知事に対して、次の文書を提出した。
「 伺
年月 日
市長 知事宛
社会救済ノー事業トシテ、 当市二公設市場ヲ設置経営可致之処、市財政ノ都合上、急速之力 支出ヲ許サ獣ル事情アリ 、就テハ此際一卜先執不取敢御県ノ社会救済資金ヲ以テ御経営相成 候様御詮議被成下度、尤モ右総経費四千七百四十二円十銭ノ半額ハ当市二於テ負担可致、即 チ責任ヲ負上、本年度内二於テ同資金中二無相違寄附可致候、右設計書相添此段上申候 也 」藍
このように、仙台市は、 「財政ノ都合」ですくゞには公設小売市場の建設費の支出が不可能であ るから、 とりあえず宮城県の「特別会計社会救済事業資金」で建設してばしいこと、そしてその 金額(4742円10銭)のうちの半額は、今年度中に募金を行って同資金に収めることが記されて
いる。
これに対して、宮城県知事森正隆は、 8月26日に次のように返信している。
「指令第四三四一号 仙台市長鹿又武三郎
大正八年八月拾弐日付庶第弐弐弐壱号申請、貴市公設市場設置二関スル件聞届ケ、県二於テ 実施ス可キー依り総経費ノ半額ノ弐分ノ壱ハ大正八年拾月末日限り、残額ハ大正九年弍月末
日限り納付ス可シ
大正八年八月二十六日
宮城県知事森正隆(印)」24
らは公設小売市場の販売品が、 「産直」によって郡部の産地から野菜や魚類を調達しようとする場合、宮城 県全体を管1階している宮城県の行政上の立場から、仙台市よりも宮城県の方が適任であることを主張して いることもわかる
望{仙台市「大正八年公設市場関係仙台市役所j,仙台市博物館所蔵。
狸同上。
東北産業経済研究所紀要第37号
このように、宮城県知事は、仙台市長の要請を受理することにするとしつつ、総経費の半額に ついては、 1919年10月末日まで、残りの半額を翌年2月末日まで宮城県に納付することを指示
した。
また、同日には、宮城県内務部長から仙台市長に宛てて、次のような文書も送付された。
「 大正八年八月二六日
内務部長(印)
仙台市長殿
本月十一日付庶第二二二一号申請相成候貴市公設市場設置二関スル件、別紙之通指令相成候 公設市場ノ如キハ元来貴市二於テ施設可相成性質ノモノニ 二就テハ本県二於テ実施可致候モ
特二詮議相成候次第二付、
有之候ヲ折角ノ御申出二依り事情巳ムヲ得ザルモノアルヲ認メ、
事実ハ貴市二於テ御経営可相成考ヲ以テ御鞍掌相成度、猶貴市ヨリノ従業員ニモ本旨二依り 忠実職二当り候様御鞭捷相成度、尤貴職及貴市従業員ニハ当面本県ヨリ該事務担当ヲ依嘱可 相成筈二付、適任者六名御内報相成度依命其段申進候也
追而市場販売所模様其他二関シ御意見有之候ハ、。折返シ御回答有之度申添候」妬
内務部長は知事の意向を踏まえ、公設小売市場の開設に向けて、宮城県が「依嘱」するかたち で、仙台市の職員を事務担当にあてることを伝えている26。
2. 2つの公設小売市場の開設と閉場
(1) 仙台市南市場と仙台市北市場の開設
1919 (大正8)年9月5日、公設小売市場の開設に先立ち、公設小売市場の規程が公布・施行 された。その全文は次の通りである27o
「 告示第378号
宮城県公設市場規程左の通定む 大正8年9月5日
宮城県知事森正隆
25 1nl上。
2 ;なお、 1919年8月26日の「河北新報」は、 「経費4千7百円はその半額を仙台市よりの寄付に受け、残り 半額2千3百71円は之を予て市内富豪の寄付に成れる社会救済資金より流用充当する事となし、之に伴う 県費予算更生の件を23日参事会に諮りたるに異議なく原案に決した」と報じている。知事の提案が参事会 でも了承されたわけである。
訂大正期に4回作成されている公設小売市場の規程は、原文はすべてカタカナで書かれている。本稿ではこ れをひらがなに直した。 また、筆者の判断で、適宜、句読点を付した。少しでもわかりやすくした方がよ いと判断したからである雪
宮城県公設市場規程
第1条新鮮低廉なる日用品を供給する為め左記の個所に公設市場を設置す 仙台市南市場仙台市南町通り東北学院前
仙台市北市場仙台市表小路県会議事堂前 条
条 2 3 第
第 本市場の事務所は各公設市場内 本市場の商品左の如し
野菜類魚類果実海藻類雑穀類味噌醤油蒟蒻砂糖 薪炭其他日常生活必需品
第4条 本市場は県の許可を受けたる生産者、生産者の団体、生産者より直接販売を委托せ られたる者、学校、講習所、試験場及県の指定せる問屋又は卸売業者をして一般公衆 に小売を為きしむ
第5条販売希望者は住所、氏名、職業、商品の種類、販売期間及希望の市場を申し出て県 の許可を受<可し、但販売期間は3ケ月以上1ヶ年以内とす
第6条商品は販売人をして一定の場所に其種類別に陳列せしめ、価格札を付し之を販売せ しむ。但其価格は評価委員の定めたる評価に依る可し
本市場の売買は凡て現金取引にして如何なる事情あるも賃貸等をなすことを得す 条
条 条 7 8 9 第 第 第
懸賞販売等は県の許可を受くるにあらきれは之を為すことを得す 市場使用料及商品売買に関する手数料等は当分の内、之を徴収せす 第10条開場時間は午前7時より午後9時迄とす
前項の時間は時宜に依り伸縮することあるへし 第11条本市場は毎月20日休業す
前項の外、臨時休業することある可し
第12条第10条第2項、及第11条第2項の場合は其都度場内に之を褐示す 第13条指定販売人は本市場の指定したる品種以外の物品を販売することを得す
第14条指定販売人は承認を経すして本市場内に於ける自己の営業を他人に委托、又は譲 渡することを得す
第15条市場内に於て販売する商品は新鮮なるを要す。腐敗其他衛生上、有害なりと認む るもの、及不正品は出品を許可せす
第16条販売人は毎日閉場後、当日の売上金高を種類毎に計算し之を係員に報告し、使用 場内の掃除をなし諸器具の洗浄を行ひ退場すへし
第17条販売人、又は其使用人にして建物、其他の設備を穀損したるときは之を賠償せし むることある可し
第18条販売人に於て場面使用の都合上、模様替等を為ざんとするときは県の許可を受〈
可し
東北産業経済研究所紀要第37号
第19条販売人は自己の使用人か市場内に於て為したる一切の行為に対し其責に任するも のとす
第20条残品蔵置のため物置の使用を許可したる場合と錐、県は之が保管の責に任せず 第21条販売人は係員より入場証を受<可し。其出入の際、必す係員に之を提示す可し 第22条本市場に入場する者は左の各号を遵守す可し
1 各自徳義を重んし決して不正行為をなる可からす
2.市場に於て喧騒、暴行等他人の妨害となる可き行為あるへからす 3. 危険な虞ある物品、及衛生上有害となる可き物品は携帯す可からす 4.前各号の外は係員の指揮命令に従う可し
第23条前各条規程以外に必要と認むる時は理事長は随時命令を発することあるへし 第24条販売人及一般入場者にして本規程に違背したる者は其販売を取消し、又は入場を
拒絶することある可し
附則
本規程は発布の日より施行す
開場の日時は迫て之を告示す 」z職
この規程は、先にみた内務省の「小売市場設置要綱」に準拠し、現金・定価売買を行うこと (第 5条)や生産者直売を行うこと (第4条)などを定めている。
その一方で、独自に盛り込んでいるものもある。例えば、第9条にあるように「市場使用料暁 商品売買に関する手数料等は当分の内、之を徴収せす」 としていることである。 「小売市場設置 要綱」では「競小限度ノ使用料を徴収スルコト」としていたから、一歩進んだ試みであったとい える。 また、第3条の規定にように販売品目に米を入れていないことである。これは、宮城県や 仙台市が外米の確保・販売などの施策を独自に実施していたことから、あえて公設小売市場での 販売品目に加えなくともよいと判断したからであるゲ9.
この市場規程が発布された10日後の9月15日、仙台市南市場、仙台市北市場という2カ所の 公設小売市場が営業を開始した。その反響について翌日の9月16日の「河北新報」は、 「蓋を開 けた初日の公設市場暴風雨にも僥めず主婦連大挙して殺到市価より何でも安い」という 見出しで、次のように伝えている。
出寓城県1宮城県報」第680号、 1919年9月5日、 1209〜1210JR‑ジ.
苫,この規穏と同時に、 「宮城県公設市場職務規程」、 「公設市場物ili調盗規程」も公布された。この「職務規程」
にもとづき、理事量に宮城県内務部長春藤嘉平が、常務理事に宮城県勧業課長安藤源治郎が就任し、係員 として宮城県職員8名、仙台市職員5名、宮城県農会職員2名、仙台簡業会議所職員1名が任命された。
また、 「物価調査規稚」によれば、公設市場における「物価調節ノ参考資料二供スル為」、 「大町、新伝馬丁、
名掛丁、二l‑人町ヲ堺シテ南北二区トナ」 し、 「公設市場係員ヲ以」て「市内物価調査委員」にあて、 「十 H日毎」に「区域内ノ物資ノ売価ヲ調査シ之ヲ理事長二報告ス」 (同上)ることになっている。
「公設市場開場第一日は生憎朝来暴風雨のため買ひ人少なかったが、経えず生活を脅かされ ていた市民は待ち焦がれた市場のこと、て、暴風雨を冒して南北両市場に詰め寄せ、魚類、
野菜などの意外な安値なるに驚いた風で、魚類は塩釜から直汽車で市場に運んだが、暴風雨 の為時化を喰って多少品物の不足を感じたと出品者は云っていた。それでも鰈、鋼、鱸、根 魚など洗台に山と積まれ、生々した魚が羽が生へて飛ぶやうに売れた。野菜類には牛葵、人 参、生姜、大根、葱、枝豆などで掘出したばかりの之も新しいもの、乾枯らぴた青物を見る の比ではない。塩魚も鮭上等十五文といふのだから、市価の二十二文に比すれば七文安く、
即ち一貫目七十銭の差がある。午後三時頃雲間を見て細君連店頭に殺到し、売行きの多かっ たのは魚であった。安藤理事官は愛国婦人会、看護婦人会に至り婦人連の蹴買を勧めたが、
本日頃からドシドシ買ひくるといっていたそうである。県庁では現金買ひに困る人々に対し ては貯金を払ひ戻すことにした。なほ薪炭だけは届けるきうである。」
この記事からは、開設当日は悪天候により人手が少なかったものの、午後には客足ものびてい ることがわかる。 また、公設市場による「現金取引」の導入が、仙台市民の買物の仕方に影響を 与えており、 「現金買ひに困る人々」もあらわれていることもわかる。
公設小売市場における「現金取引」の導入は、それまでの卸問屋と小売業の取引関係にも大き な影響を与えた。例えば、 1919年9月24日の『河北新報』は、 「魚屋連」が自衛策として公設 市場と販売価格を同一にする共同私設市場を設置しようとしていることを伝えている。すなわち、
「県営公設市場が現代の要求に順応して複雑な商取引を改造すべ<投じた巨弾が寄生的の商機関 を破壊し暴利組合の解散を迫り好商の秘策を暴露しつつあり、俎板に乗せられた仙台小売商組合 が死活問題として臨時総会を開き暴利にあらざることを立証せんとする際、各方面より圧迫又は 威喝されて組合の結束鈍り、競初の計画を具体的に実現すること能わず。行悩みつつあるを憂慮 せる市内・ ・…(中略)……魚商が共同にて元寺小路(米屋町付近)へ私設市場を設置し、期間は 九月二十五日より明年九月二十四日まで一ヶ年公設市場と同一価格を以て販売する事を決議し、
二十三日午後一時頃仙台警察署へ出頭、吉村署長に陳情の上、森知事へ宛街路使用の願書を提出 せるが、魚市場側の独圧手段に慣慨せる魚屋連は元寺小路に準じて各方面へ割拠し共同私設市場 を設置し自衛策を識ずるならんと」という動きがあったとしている。
この魚小売商の自衛策は、魚問屋との従来の取引内容の見直しを要求する動きにつながって いった。その動きについて、 1919年9月24日の「河北新報jは、次のように伝えている。
「公設市場開設の影響を受けその売行思わしからざるに至りしため各自の死活に関する問題 なりとして役員が塩釜に出張して交渉の結果、仙台魚小売商組合にて本月十九日臨時総会を 開催したる結果、対応策として塩釜なる荷主より直接に魚類の供給を受け、公設市場と同値 に販売すべ<組合相談纏りしが、一方問屋側にも交渉の上、 目下の急を救うべく去る二十一 日午後二時より役員会を開き、協議の結果、左の如き条件を提出する事に決定して散会せる
東北産業経済研究所紀要第37 号
が、二十二日此の条件を魚市場社長並に重役に通知せり。
取引の際は必ず値段を決め売買すること
一
歩戻し金は前通り五分戻しと訂正すること 生銭を全廃すること
毎日の買には必ずその当日に記帳すること
︑
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二 三 四 五
今日吾々の立場を考究されたる上、是非共四ケ条を実行きれたきこと
而して組合を代表して遠藤副会長は昨朝会社に於て山田社長並に重役と会見し目下の状態を 継々陳述しその諒解を求め、小売商組合は殊更に事を櫛えて問屋と争うの意志あるものにあ らざる事を説きたるを以て社長重役共に組合の立場に同惜する処ありたれば、一時は分離せ んとした問屋側と小売商側は蕊に妥協成り今後は相互に諒解し合いて、会社の発展を期する こととなれり。猶お組合より提出せる条件に対しては会社の総会に於て協議の上回答する筈 なりという」≦
この中の「取引の際は必ず値段を決め売買すること」 という条件は、従来の慣行に従った前近 代的な性格を有する取引方法の改善を迫っているものである。全体として、それ以外の要求も含 めて、旧来の取引方法を近代化することを要求しているのである。
ところで、 この中に「対応策として塩釜なる荷主より直接に魚類の供給を受け、公設小売市場 と同値に販売すべく組合相談纏りし」とあるが、 ここからは、仙台市の魚小売商組合が、 もし仙 台の魚問屋が上述の改善要求を受諾しようとしないのであれば、公設小売市場と同じ方法、すな わち「産直」による魚類の廉売を実行することを検討していたことがわかる。このようにして公 設小売市場に対抗していたわけであるが、むろん、仙台の肴町の魚問屋などがこのような動きに 戸惑ったことはいうまでもない。ただちに、「総会に於て協議の上回答する」としたのも当然であっ た。このように、公設小売市場の登場とそこでの商取引の方法は、従来の問屋と小売商の取引関 係にも大きなインパクトを与えたといえる。
(2) さまざまな利害の交差の中で閉場
しかしながら、仙台市内に設置された2つの公設小売市場は、それから約1年後の1920 (大 正9)年9月30日に閉場となった。なぜこれらの公設小売市場は「短命」であったのであろうか。
この間の経緯をみると、少なくとも次の3つの理由を挙げることができるであろう。
第1は、公設小売市場の運営上のトラブルが起きたことである。 これは、 1つは、 9月15日の 開設直後から11月頃までにかけて起きた「海産物出品問題」である。この問題の概略は、次の ようなものである。公設小売市場の開設にあたって、宮城県は、海産物の販売の権利を塩釜町の 魚商のグループである「共助組」のみに認可した。 しかしその後、宮城県は、仙台市の「仙台海 産物同業組合」の要望に応えるかたちで同組織にも海産物の販売を許可した。ここから、塩釜側 と仙台側との利害が衝突することになった。 「共助組」は、宮城県に対して開設当初の条件を守