要旨 本稿は第 31 回大会における基調講演を基に,質疑応答で提起された諸問題を検討したものである。ま たその際のアンケートの集計結果についても考察を加えている(結果は従来とは大きく異なり「耽美的破 壊主義」が最も支持された)。私見では経済倫理教育の理念は,生徒たちの自律的思考を養いつつ,議論 を通じて価値を説得しあう技術を磨くことである。そのためには神々(価値)の闘争状況において,生徒 たちが自分なりの価値観点を築き,立場を一貫させる必要がある。そのための教材として拙著『経済倫理 = あなたは,なに主義?』の分類学は有用であるだろう。どの立場も排除せずに,その立場の徹底におい て倫理的たりうるとしているからである。 キーワード:経済倫理,新自由主義,教育理念,分類理論,アンケート調査
Ⅰ.経済倫理教育の目的
教育の現場で,はたして道徳(倫理)を教えてよい のかという問題がある。経済倫理の事例で考えてみる と,例えばある生徒が「新自由主義(ネオリベ)」的 な考え方を示した際に,「その考え方は非倫理的で あって,よろしくない,云々」というようなことを述 べてよいのであろうか。そのような倫理の言い回しは, 価値の押しつけにならないだろうか。倫理教育とは, 否応なく,一定の経済思想を排除することになるのだ ろうか。 現在,経済倫理の思想状況において,私たちの通念 を支配している認識枠組は,「『倫理的な諸思想』対 『新自由主義+自由尊重主義』」というものである。こ の図式において,後者は非倫理的なものとして貶めら れることが多い。しかしこのような単純化に基づいて, はたして倫理教育をしてよいのかと言えば,おそらく 次の 2 つの点で間違っているように思われる。1 つに は,倫理的によいとされる諸思想といえども,それぞ れの学説は価値の闘争状態に置かれているのであり, ある倫理思想を正当なものとして教えることは,他の 倫理思想を批判することになるはずである。例えば, J.S. ミル的な功利主義とサンデル的なコミュニタリア ニズムは,価値の闘争状態にあり,その関係を無視し て「どちらも甲乙つけがたく望ましい」というような 倫理判断を伝えることは,それぞれの思想に敬意を 払ったことにはならないだろう。もう 1 つには,新自 由主義や自由尊重主義は,いずれも独自の倫理学説と して提起されたものであるにもかかわらず,その内容 が見落されがちである。新自由主義は,ハイエクが論 じるように,進化論的な観点から道徳の意義を再評価 する内容を含んでいる(Hayek[1979=1988])。また 自由尊重主義は,アイン・ランドの小説における主人 公に代表されるように,経済的利益とは無関係に,た くましく生きることの美徳を称揚する視点を持ち合わ せている(例えば Rand[1943=2004])。こうした道徳 上の諸点を無視して,単純化された図式に基づいて倫 理教育がなされるとすれば,それはある倫理学説に対 して排他的であるとともに,他の倫理学説を「あれも よい,これもよい」とする点で,価値の緊張関係を欠 いたものになってしまう。私が危惧するのは,倫理的 多数派が団結して,倫理的少数派を排除するというそ の「非倫理性」である。基調講演
経済倫理教育の理念
-「あなたはなに主義」の分類学とそのア
ンケート結果に照らして-
The Journal of Economic Education No.35, September, 2016Some Ideas on Economic Ethics Education: Based on My Typological Theory of “What Is Your Ideology?” and Its Survey Conducted at the 31st Annual Meeting of the Japan Society for Economic Education
Hashimoto, Tsutomu
こうした難点を避けるために,経済倫理の教育は, 生徒たちがそれぞれ自分なりの思考を通じて倫理を選 びとることができるように,「自律的な判断」を介助 するというアプローチをとることができる。拙著『経 済倫理 = あなたは,なに主義?』(講談社メチエ, 2008 年)では,そのためのさまざまな分類理論を提 案・紹介している。倫理的立場を分類する方法はいろ いろあり,実態に迫るためには複数の方法を用いる必 要があるが,教材としては,現代の政治状況に照らし て,民主的な討議を活性化するために有意義なカテゴ リーを提供することが求められる。拙著第一章の分類 理論はそのための導入であり,4 つの質問に基づいて, 16 の倫理的立場(イデオロギー)を分類している。 分類はあくまでも思考の道具であり,人間の価値意識 はそれほど簡単に振り分けられるものではない。けれ ども民主主義社会において,どの政党を支持するのか, あるいはある特定の法案に賛成すべきかどうか,と いった問題を検討する際に,「何がよい社会であるか」 をめぐって規範的な思考を重ねることは欠かせない。 経済倫理教育の目的は,そのための基礎的な枠組みを 提供することにある。その都度の支配権力に流されず に,各人が自律した一貫性のある態度を形成すること が,教育の目標となりうる。例えば,「あなたはどの 倫理学説,どのイデオロギーを支持するのか。またそ の理由はどのようなものか。さらに,その理屈(理由 づけ)でもって他人をうまく説得できるかどうか」, 等々。こうした問いを生徒たちに投げかけることで, 経済倫理教育は,1 人ひとりを自律的な主体へ導くと 同時に,互いに議論を通じて説得しあうように介助す ることができるだろう(次節参照)。 倫理とはこの場合,個々の価値がいわば「神々の闘 争(ウェーバー)」状況に置かれた状況で,各人が自 分の神(価値)を引き受け,自己主張する力を身につ けるように要請するものである。むろん,神々の闘争 以前に,最低限身につけたい倫理というものもある。 例えば,自分で自分のスケジュールを管理するとか, 挨拶をするとか,他者と議論を続ける忍耐強さをもつ などの倫理は,倫理教育において共有することが望ま しい。けれどもこうした基礎的な次元を超えて,倫理 についてさらに深める教育が可能であるとすれば,そ れは,各人が自身の「神(価値理念)」を見出して, 自律的な仕方でもって,自身の価値観や思想を体系的 に紡ぎだしていくように支援することではないか。例 えば,新自由主義的な見解をもった生徒に対しては, その考え方をどこまで説得的に正当化できるのか,ま たその立場をどこまで一貫して主張することができる のか,といった質問を投げかけることによって,当人 の倫理的思考を刺激することができる。諸々の質問を 通じて,生徒たちの倫理に対する感受性を養い,同時 に,自分で選んだ立場をできるだけ一貫させるように 仕向けることは,1 つの教育的可能性であるだろう。 むろんこのような倫理教育の理念は,個人の自律を 重んじる思想に根ざしており,それ自体が特殊なイデ オロギーではないか,という批判もありうる。自律的 であればそれでいいのか,という問題がある。たとえ 自律的ではなくても,ケアの倫理や競争(切磋琢磨) の倫理など,身につけるべき倫理がいろいろあるので はないか,と言われるかもしれない。けれども教育の 現場で,ある特定の倫理を教える際に,その倫理に対 して反発を覚える生徒たちに可能なアプローチは,そ の反発を排除してまで倫理を教えることではなく,各 人がそれぞれの価値観点(神々の観点)から,その倫 理の意義を捉え返すことであるように思われる。例え ば,スポーツや市場経済において,相手を出し抜いて まで勝利を得るという競争の過程が,なぜ倫理に適っ ているのかを説明することは難しい。けれどもそのよ うな競争の価値を,経済倫理の諸思想に照らしてさま ざまに位置づけることはできる。ある生徒は,コミュ ニタリアニズムの観点から,スポーツや経済における 競争を制約すべきであると主張するかもしれない。ま た別の生徒は,シュンペーター流の創造的破壊の立場 から,そのような競争を,個人的で英雄的なものに限 定すべきであると主張するかもしれない。「競争の倫 理」を教える際に,こうした神々の闘争がありうると 伝えることは,生徒たちの自律的な思考を刺激するだ ろう。 自律的な思考を介助するための経済倫理教育は,さ らにすすんで,生徒たちのさまざまな倫理的立場を, 時間を通じて一貫させるように求めることができるか もしれない。倫理的な立場を形成する上で,試行錯誤 の過程は欠かせない。ある思想に固執するのではなく, さまざまな思想を検討することも必要である。けれど も他方で,生徒たちが自身の立場をどれだけ一貫させ ることができるかを問うことは,倫理的態度をたんな る情念の傾向から切り離して,成熟したエートスを形 成するうえで重要である。自分の倫理的立場を一貫さ せる力は,自律の理念が求める 1 つの方向性であると 同時に,他者から信頼を得るための基礎になりうるか らである。 例えば,次のような立場の変更は,倫理的な一貫性
を欠いているだろうか。高校生のときは政治・経済の 先生が示す社会批判の立場に共鳴し,大学生のときは NHK や朝日新聞などで論じられている「視点」に身 をゆだねる。そして会社に入社すれば,今度はその会 社の利害関心に照らして物事を見るようになる,云々。 このような人生は,その都度の時点で倫理的でありう るとしても,周囲の環境に流されているのではないか。 倫理的態度とは,もっと自身の立場を一貫させるよう に求めるのではないだろうか。 別の例を考えてみよう。1960 年代に大学生活を過 ごした際にはマルクス主義に傾倒し,その後はサミュ エルソン流の「新古典派綜合」の立場からリベラリズ ム(ケインズ型福祉国家)を受けいれ,80 年代にな ると新自由主義の民営化政策を支持し,90 年代には 環境の経済思想に傾倒する,といった人生はどうであ ろうか。こうした思想上の遍歴は,きわめて人間的で あり,それ自体が批判されるべきものではない。けれ ども倫理とは,たとえ自分の立場を変更するとしても, その際にどのような理由でどのように変更するかにつ いて,自分で自分の生き方を正当化するという内省的 なプロセスを含んでいるはずである。倫理を内面化す るとは,できるだけ価値観を一貫させるとともに,そ れを変更する際は,理にかなった理由を述べる能力を 身につけることでなければならないように思われる。 自らの倫理的立場をできるだけ一貫させて,神々の 闘争を引き受けるべきであるというこの考え方は, マックス・ウェーバーの思想に基づいている(橋本 [1999])。この考え方に対して,倫理とはできるだけ 中庸の,バランスのとれた見解を示すことであるとい う見方は,真っ向から対立するだろう。「利益と道徳 のいずれを優先すべきか」「公正と社会的安定のいず れを優先すべきか」などの問いに対して,その都度の 状況に応じて,現実的で中間的な立場を探ることは, 現実政治において必要な思考である。ところがそのよ うなバランス思考を続けると,私たちはかえって失敗 してしまう。バランスのとれた見解を政治に求める立 場は,熟議にもとづくエリート主導の官僚政治を帰結 するかもしれない。けれども多くの人がバランスをと ろうとすると,今度はなにがオルタナティヴの政策案 でありうるのかについての私たちの思考は,貧弱にな る。バランス優先の倫理的態度は,ありうる対案の可 能性を探らずにバランスをとる結果,何が中庸である のかについて,深い思考をめぐらすことができなく なってしまう。倫理上の健全なバランスは,さまざま な立場が競合し,さまざまな政策的対案が提起される ところではじめて実現するのであって,すべての人が バランスを優先するような状況では,うまくバランス をとることができないであろう。このようなパラドク スを解消するためには,やはり倫理というものを 「神々の闘争」という視点から捉えることが必要であ るように思われる。
Ⅱ.「あなたは,なに主義?」の分類学的基
礎
前節では,経済倫理の教育理念について論じてきた。 その理念とは,生徒たちの自律的な思考を導くととも に,議論を通じて説得しあう技術を磨くことである。 そのためには,社会における価値の多元状況を認め, バランスある立場をとるように仕向けるよりも,生徒 たちがそれぞれ自らの神(価値)を引き受け,ある特 定の価値観点から自身の立場を一貫させることが必要 である。そのような教育目的のために,拙著『経済倫 理 = あなたは,なに主義?』第一章の分類理論は,1 つの導入として用いることができる。この理論は,4 つの根本的な経済倫理問題に応答することを通じて, 経済倫理(イデオロギー)の立場を 16 通りに分類し ている。その問題とは,以下の二項対立から成り立っ ている。すなわち,A.「経済的利益」対「道徳」, B.「公正」対「秩序の安定・成長(全体の利益)」, C.「自由な関係性」対「人為的なリベラル制」,D. 「政府による倫理的包摂」対「企業主導の倫理形成 (政府は非包摂)」,である。これら四つの二項対立が, なぜ最も基礎的であるのか(例えばなぜ三つではなく 四つなのか)といえば,以上の四つの二項対立を用い ることで,20 世紀において生じた政治経済思想(イ デオロギー)の主要なタイプを,うまく類別できるか らである。いろいろな分類を試した結果,これら四つ の問題が,イデオロギー上の主要な論点であることが 判明した。 理論的観点から言えば,これら 4 つの二項対立関係 は,次のように整理することができる。すなわち, 「企業などの中間集団レベル」と「マクロ社会レベル」 の区別をしたうえで,それぞれの領域を,「経済的価 値 - 非経済的価値の優先問題」と「倫理における個別 主義志向と普遍主義志向の問題」の区別に照らしてみ ると,合計で四つの問題領域を析出することができる。 ただしこれらの問題領域を個別に精査してみると,必 ずしも枠に収まらないイデオロギーがあることが分か る。例えば,シュンペーター流の創造的破壊にもとづ く資本主義の擁護論や,革命的なマルクス主義にもとづく社会運動論などは,これら四つの問題ではうまく 類型化されないといった問題が生じる。あるいはアソ シエーショニズムと中間集団における家父長制は,い ずれも中間集団に対する法的介入の拒否という点で, 政策的には同時に擁護されるものとして扱われている。 ただし,結果として析出された 16 種類のイデオロ ギーは,家父長制的な立場と市民的な立場を区別でき るように工夫することができる。なぜそのようなこと が可能なのかと言えば,4 つの問題に対する応答を整 合的に組み合わせた場合に,既存の思想家たちが採用 するであろう思考のパタンを,ある程度まで推測する ことができるからである。 もしある人が,これら 4 つの問題に応じた結果とし て,心外なイデオロギー類型に分類されたとすれば (私の場合も心外であったのだが),それはもしかする と,その立場の倫理性を別の仕方で解釈することがで きるからかもしれない。そのような余地は十分にある ので,この 16 類型の分類理論はあくまでも一次接近 として理解したい。けれども他方で,私たちは心外な イデオロギーに分類されることを通じて,自分のイデ オロギー傾向をあらためて捉え返すことができる。例 えば自分の立場が「新保守主義(ネオコン)」に分類 されて,気持ちのよい人はあまりいないかもしれない。 けれどもよく考えてみると,この立場も他の立場と同 様に倫理的な主張を含んでいるのであり,思想的には 深遠である。分類によるイデオロギーの検討は,その ような発見を促すのであり,どの立場が倫理的で,ど の立場が非倫理的であるというような価値の押しつけ (ないし排除)を,避けることができる点に長所があ る。 むろん分類学は,倫理やイデオロギーを理解するた めの道具として万能ではない。例えば,経済的価値と 非経済的価値のいずれかを優先するのかという問題は, 個々の問題状況に応じて,さまざまに異なる応答を引 き出すかもしれない。例えばαの問題では「経済的価 値」を優先すべきであるが,βの問題では「非経済的 価値」を優先すべきである,という応答が相応しいの かもしれない。応答は,問題の立て方しだいで異なる 可能性がある。問題をうまく立てるためには,例えば, 「あなたは現在の支配的な考え方や支配的な法的判断 と比較して,経済的価値と非経済的価値のいずれを相 対的に優先するか」という具合に問うことが相応しい かもしれない。さまざまなイデオロギーが対立するな かで,そのあいだに有意義な論争が生まれるためには, 「現在よりもどちらかと言えば」という仕方で,各人 がスタンスをとる必要がある。また,倫理思想(イデ オロギー)と具体的な問題への対応のあいだには, ギャップが生まれることもある。そのギャップを埋め るためには,たんにイデオロギー上の立場をとるだけ でなく,それを適用する際の諸々の制約条件について 検討することも大切であろう。さらに言えば,個々の 問題に応じて,私たちはなぜ別々の倫理的判断をする のかについて,一貫した理由づけをすることも必要で ある。αの問題では経済的価値を優先するが,βの問 題では非経済的価値を優先するという場合,その際の 区別の基準は何であるかについて,説明する必要があ るだろう。そうでなければたんなる御都合主義に陥っ てしまう。 以上に述べてきた経済倫理教育の理念は,教える側 にも同様に,イデオロギー上の一貫性を求めるもので ある。その点では,倫理的に強すぎる要請であるかも しれない。しばしば倫理教育においては,偉大な思想 家の諸学説が紹介される一方で,生徒たちには具体的 事例においてどのような倫理的判断をすべきか,と いった問題が問われることが多いように思われる。け れども必要な教育は,その中間にあって,「どんな社 会が望ましいか」についてのビジョンを形成すること ではないか。私たちは規範理論のレベルで一貫性のあ る考え方を紡ぎだす必要があり,そのような倫理的思 考の形成は,民主主義における議論の質を高めると期 待できよう。そのために必要な教材は,現代の規範理 論を紹介しつつ,それぞれの対立点が明確になるよう に工夫したものであり,また,生徒たちがどの規範理 論を支持するかについて,思考の道筋を介助するもの であるように思われる。(アメリカの経済教育学会の 教材『経済学の倫理的基礎を教授する』2007 年刊を紹 介・検討したものとして,猪瀬[2008]を参照。この 教材はしかし,ある倫理上の判断が,どのような規範 理論的立場に至るのかについての道筋を明らかにする のではなく,道徳と市場の両立をさぐる特定の規範的 関心に準拠した展開になっている。この方向性は,価 値判断の多元性を伝えようとする私の関心とは異なる ものである。)
Ⅲ.経済教育学会会員の諸傾向:アンケー
ト結果
最後に,主として経済教育学会の会員を参加者とし て行われた,アンケートの結果を分析したい。アン ケートは拙著『経済倫理=あなたは,なに主義?』第 一章にもとづく四つの質問であり,2015 年 9 月 26 日,経済教育学会の全国大会(会場は日本体育大学)にお ける基調講演のなかで行われた。結果は以下のとおり である。「耽美的破壊主義/支配者嫌悪主義」8 名, 「市民的コミュニタリアニズム」4 名,「リベラリズム (福祉国家型)」4 名,「国家型コミュニタリアニズム」 3 名,「マルクス主義/啓蒙主義(1)」2 名,「平等主義 /啓蒙主義(2)」2 名,「共和主義」2 名,「新自由主義 (ネオリベ)」1 名,「近代卓越主義」1 名,「リバタリア ニズム(自由尊重主義)」1 名,計 28 名(有効回答の み)。 今回の集計結果はきわめて異例で,「耽美的破壊主 義/支配者嫌悪主義」の立場が最も支持された(ただ しサンプル数が少ないため,この立場が本学会員の全 体を代表するとは言えない)。この立場は,リベラリ ズムやマルクス主義などの,8 つの主要なイデオロ ギー類型に当てはまらないばかりか,この立場を思想 的に代表する論客はいない。少数派の立場であり,思 想論議においては見えにくい。その思想的内実は,ど のようなものであろうか。私の過去の省察では,この 立場は「金持ち」に対して批判的であり,経済システ ムを「倫理」と「公正」によって制約し,さらに会社 組織を「人為的なリベラル制」によって制約し,政府 の権益に寄生する金持ちたちをのさばらせないように すべきだと発想するものである。政治システムであれ, 経済システムであれ,それらの上位に立つ人々を何ら かのかたちで縛る(あるいは懲らしめる)べきだ,と い う 意 識 を も っ て い る よ う に 推 察 さ れ る( 同 書 101-102 頁,参照)。 この立場は,見方によっては,平等主義が道徳的に 保守化して,倫理によって経済を制約すべきであると の考えに至った思想形態であるかもしれない。ただし そのような平等主義の背景を捨象すれば,この立場は 政治権力志向と経済利益志向の両方に対して「ノー」 を突きつける立場であり,この立場を徹底すれば,ど んな現実的な代替案(政策)も,これら 2 つの志向を 否定するためには不十分であるとみなされるであろう。 政治と経済を根本的に否定する際の倫理的基盤は,究 極的には,「美(芸術)」と「教育(学問)」に見出さ れるように思われる。これまでのアンケート調査では, この立場を支持する人は,若い頃に芸術に関心を示し た方々が多かった。例えば,高校時代に美術部に所属 したり,バンドをやっていたという人に支持される傾 向がある。美術や音楽など,美的なものを重視する人 は,美的感性を自尊心の基盤として,政治や経済の全 般に嫌悪を示すことがある。政治家やビジネスマンほ ど美的センスのない生き方はないと感じる結果,この 立場を支持するのではないかと考えられる。あるいは また,教育や研究に携わる人々は,政治や経済の現実 から相対的に自律した生活領域において,人格形成や 「善き生」の追求をすることが可能になっており,そ のような領域を基盤として,政治権力や経済的利益の 追求を,理想とはかけ離れた,いわば「精神の売春」 とみる傾向が生まれるのかもしれない。精神を養うた めのすぐれた領域が「美」と「教育」にあるのだとす れば,その観点から逆照射される経済倫理の立場は, この類型に当てはまるであろう。 しかしもっと積極的に解釈すれば,教育の活動は, 政治や経済を鍛えるための視点を含んでいるはずであ る。教育とは,政治権力や経済利益を追求する人間の 動物的な「勢力関心」に介入して,いわば弁証法的な 意味での「否定」を突きつける媒介過程であり,生徒 たちはそのような「否定」の論理に導かれて,自らの 倫理的判断力を綜合的に鍛えていくのではないかと期 待しうる。こうした人格形成上の弁証法の担い手の理 想として教育者というものを捉え,またこのイデオロ ギー的立場を理解するならば,その名称はもはや「耽 美的破壊主義」や「支配者嫌悪主義」ではありえない だろう。むしろ,「弁証法的人格形成主義」とか「否 定媒介的教育主義」といった呼び方が相応しいであろ う。 アンケートで 2 番目に支持された立場は,「リベラ リズム」と「市民的コミュニタリアニズム」であった。 「リベラリズム」はこれまでのアンケート結果でも多 数派であったので,ここでは分析しない。これに対し て「市民的コミュニタリアニズム」は,これまでのア ンケートでは少数派であり,今回,この立場が多く支 持されたという点は興味深い。この立場は,例えば生 活協同組合など,自由なアソシエーションにもとづく 組織活動を重視する立場であり,自律的な個人を前提 とした上で,国家と個人のあいだにあって民主的に参 加可能な中間集団,すなわち「連帯組織」こそが「善 き生」を可能にする,と発想する。おそらく教育の現 場では「学級(クラス)」が 1 つの連帯組織となって いるため,この組織を運営する際の理想が,今回の結 果にも現れたのではないかと推測される。学級組織は, 教師のリーダーシップによって,市民的かつ共同体主 義的に運営することが理想とされる。この理想は,私 の分類では「市民的コミュニタリアニズム」となる。 ただし,この立場を支持した方が,はたしてこのよう な考え方を実際に抱いているかどうかは推測にとどま
るため,さらなる分析が必要である。 その他の立場についての分析は割愛し,最後に,ア ンケートで「近代卓越主義」を支持した方のコメント を紹介したい。「自分ではリベラルだと思っていまし た。現実にもそういう行動をとっています。しかし結 果は現代の若者に近くて,おどろいています。本音の ところはこうなんだなと初めて思い返しています。 6x 才です」。「近代卓越主義」は,これまでの政治経 済思想においては論じられてこなかった新しい立場で あり,大学生のあいだで,リベラリズムと並んで支持 されるようになっている。「21 世紀の新しい思想」と もいえる。今回の結果では,この立場を支持した方は 一人であり,60 代の方であった。
Ⅳ.まとめ
経済倫理教育の理念は,バランスある倫理的立場を 形成することではなく,価値多元的な状況において, 各人が自身の価値観を形成しつつ,議論を通じて説得 しあう技術を磨くことである,と論じてきた。さらに 一歩進んで,経済倫理教育は,各人の価値判断をでき るだけ一貫させるように導くべきであると主張した。 拙著『経済倫理 = あなたは,なに主義?』の分類学は そのための教材であり,生徒たちは現代のさまざまな 規範理論に照らして,自身の立場を捉え返すことがで きる仕組みになっている。むろん,その第一章で投げ かけられる四つの問いへの応答から,「あなたのイデ オロギーは○○です」という判定を下されることは心 外であるにちがいない。多くの人は,「そんなに簡単 に判断できるはずはない」と反発を覚えるだろう。こ うした反応はむろん想定されており,ここからが教育 の本番である。生徒たちは心外な挑発を受けて,自身 の価値判断をどのように正当化し,また一貫させるこ とができるのかを問われる。その際の教育目標は,各 人の価値観の正当化理由とその一貫性を鍛えることに 置かれるだろう。(科研費番号 26380254) 参考文献 [1] 猪瀬武則[2008]「経済教育は「在り方生き方」に答える ことが出来るか?:NCEE 教材『経済学の倫理的基礎付 けの教授』の場合」『弘前大学教育学部紀要』第 99 号, 33-43 頁,所収 [2] 橋本努[1999]『社会科学の人間学』勁草書房 [3] ─[2008]『経済倫理=あなたは,なに主義?』講談 社メチエ[4] Hayek, F.A. [1979=1988] Law, Legislation and Liberty: a new statement of the liberal principles of justice and politi-cal economy, London : Routledge and Kegan Paul. ハイエ ク『自由人の経済秩序 ハイエク全集第 10 巻,法・立 法・自由 3』渡部茂訳,春秋社
[5] Rand, Ayn[1943=2004] The Fountainhead, Indiana: Bobbs-Merrill. ランド『水源』藤森かよこ訳,ビジネス社