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liyuan こちらは言葉の技巧を磨くことを追求しましたがそのほかにも舞踊や雑技の要素も取り入れて歌舞によって物語を演じるという戯曲の様式に融合していきましたそのため中国の戯曲は非常に長い時間をかけて育つ必要があったのですそこでこのような表現形式は自然と演技の複雑さと技巧性を強めることになりましたあ

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Academic year: 2021

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liyuan 梨園が戯曲の世界を表す言葉となったのは 1200年前の唐代 明皇・李隆基の時代である 明皇は風流を愛し 音楽に精通し 歌舞を好んだ 彼は数百人の役者と宮廷女官を梨園に集め 自ら演技指導を行った ここから戯曲の世界を梨園と呼ぶようになり 役者や芸人は梨園の子弟と呼ばれるようになった そして この唐代の皇帝は 当然のように 戯曲の神として祀られるようになった 中国の戯曲の歴史において 唐の明皇と梨園が果たした役割は 決して無視することができない しかし 中国戯曲の本当の創始者は 明皇ではなく 元代の著名な戯曲家である関漢卿(かん・かんけい)である 1958年 世界和平理事会で 関漢卿は国際的な文化人として認められ 全世界で関漢卿の戯曲創作700年を記念した 様々な祝賀活動が展開された 戯曲の歴史は古く 商・周の時代にはすでに戯曲の萌芽が見られる 春秋戦国時代には 祈祷のための歌舞にも戯曲の片鱗が見られる 当時は「優伶」「俳優」と呼ばれ その演し物のほとんどにストーリー性がある 天を祀り 雨乞いをし 災厄を除き 豊作を喜ぶ などの内容である 中国最古の辞典である説文解字にある 「俳」の字義説明はごく簡単である 「俳とは戯である」とある ここで「戯」と書かれているのは もちろん現代的な意味での「戯曲」指すものではない だが「戯謔(風刺や諧謔)、逗楽(笑わせ楽しませる)」とあるように 娯楽の意味を含んでいることは明らかである 近代の著名学者である王国維は 戯曲の歴史を論じた著書の中でこう述べている 「巫は神を楽しませ 優は人を楽しませる」 「巫は歌舞を主とし 優は諧謔を主とする」 つまり優伶(役者)は自分の演技で 人々に娯楽を提供するという特徴を はっきりと説明している 出土文物からも明らかであるように 二千年前の秦・漢代には 百戯 跳丸 角抵劇などが すでに表現芸術として 正式に舞台にあがっていた これらは今でいう サーカス、レスリング、歌舞、コメディで  民間に興ったものであるが 貴族から庶民にまで流行した こうした百戯が盛んになったことで 演劇的表現や娯楽的な性格が強まり もともとの スポーツ的性格や 格闘技の要素が 徐々に弱くなっていった 戯曲の始まりはかなり古く 歌や舞踊から始まりました 中国の戯曲をギリシャやインドの戯曲と比較すると 中国のほうが歴史が新しく およそ千年ほど遅れています その原因は何かといえば おそらく中国文化の蓄積や 戯曲がどのような様式であるべきかと 密接な関係があります ギリシャ戯曲から見れば ギリシャの詩文は  徐々に後世の話劇を形成しました 話劇とは台詞を中心にした戯曲の形式です 中国の場合は逆に 歌舞を中心とした形式に向かいました 一般的な詩から 文学としての詩と 戯曲としての詩が 作り出されたのです 詩であって 歌うこともできるものです 言語的には 中国には昔から滑稽劇の伝統があり

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liyuan こちらは言葉の技巧を磨くことを追求しましたが そのほかにも舞踊や雑技の要素も取り入れて 歌舞によって物語を演じるという戯曲の様式に 融合していきました そのため中国の戯曲は非常に長い 時間をかけて育つ必要があったのです そこでこのような表現形式は 自然と演技の複雑さと技巧性を強めることになりました あるいは難しさが増したともいえます そのため専門の演技者が必要になりました 秦代から隋・唐まで 萌芽の段階にあった戯曲芸術は発展し続けてきたが 完成段階に入るのは宋・元代以降のことである 宋代には商工業が急速に発展し 都市の繁栄が始まった 娯楽を提供する場所が作られた 「瓦舎」「勾欄」などと呼ばれる芝居小屋である 宋代の「東京夢華録」(とうけいむかろく)と 「夢梁録」の記載によれば 北宋の首都 汴梁には瓦舎があちこちにあった 規模の大きなものは50余りの「勾欄」があり 千人の観客を収容できたそうだ また南宋の臨安にも17軒もの瓦舎があり これらの瓦舎や勾欄で 演じられた雑劇や南戯は それなりに形になっており 初期の完成を見ていたが しかし戯曲の形式が本当に完成するのは 元代になってからのことだ 元代の雑劇は中国古代の戯曲芸術を 一つの頂点へと導いた 関漢卿はまさに基礎を築いた人物であった 関漢卿の生きた元代は 北方少数民族が打ち立てた王朝である 漢族の知識人は抑圧され 民間へと流れていった さらに元代は伝統的な儒教思想の影響が割合に小さく そのため低俗な物と考えられていた戯曲が 発展するための好条件があった 関漢卿はこうした 封建主義と民族的抑圧という二重の苦難のもとに 彼が熟知していた 社会性と民族性に富む戯曲の形式で 社会の暗部を攻撃し 光明と希望を歌い上げた 彼は「不伏老」という散曲でこのように述べている 「私は蒸しても焼いても柔らかくならず  叩いても平らにならず 炒めてもはじけない  一粒の銅の豆である  歯を折られ 口を曲げられ  足や腕を折られても  天が悪疾を与えようとも  私は決してやめようとはしない  どうして歳月を無駄に過ごすことができようか」 元代以前の中国には脚本というものがなかった 元の雑劇が興って ようやく戯曲の歴史に先鞭をつけた 関漢卿の著した劇作のうち 現存するものは67作品である そのうち「竇娥冤」、「望江亭」、「救風塵」、「単刀会」などは 700年間も舞台で演じられている これらの戯曲は 完璧な構成、生き生きとした筋立て 個性的な人物描写、洗練された台詞と歌曲で 元代および後世の戯曲の発展に大きな影響を及ぼした 彼と同時代の文人や戯曲作家は 関漢卿を「梨園の領袖、雑劇の代表者」と認めている とくに評価すべきは 関漢卿は芸術において積極的に開拓し模索し続けただけでなく その思想においても庶民と相通じ権力者に挑んだことである 芝居の登場人物は役所や汚職役人を罵り さらには天地までも罵っている かれは古代の物語を借りて  自分の生きる時代の暗黒面や腐敗を暴き出し 人々に憎むべき勢力と果敢に戦うことを鼓舞した 「竇娥冤」にはこのように書かれている 「徳のある者は 貧しく薄命であるが  悪をなす者は 富んで生き長らえる  天は強者に味方し 弱者をあざむく  天や地までも 世の流れに従うとは  地よ 善悪もわからず地であるのか

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liyuan  天よ 賢と愚も見分けられないのか」 この台詞にこめられた憎しみと嘆きはいかばかりであろうか また何という堂々として雄大な気勢であろうか そして何と痛快きわまる言葉であろうか 作者に少しでも卑屈さや媚びがあったら このような天地を驚かし 鬼神の心をも打つような 千古の絶唱は決して生まれなかっただろう 関漢卿を代表とする元の雑劇は 戯曲芸術の宝である 彼と同時代の作家は二百余名 残された脚本も600作品余りに達する 多くの優秀な作家と作品が次々に生まれた たとえば馬致遠の「漢宮秋」は 王昭君が政略結婚で匈奴へ差し出された故事を引き 愛国精神と民族の気骨を称揚し 当時の社会に対する批判を行った 王実甫の「西廂記」では 張生と崔鶯鶯の愛と別れの物語のなかで 低い身分の出身でありながら 思ったままを口にし自由に振る舞う 紅娘という女性の姿を描いたことで 封建的なしきたりに大胆に戦いを挑んだ このほか白朴の「牆頭馬上」や 紀君祥の「趙氏孤児」などは 今でも舞台で演じられることがある 元代の統治が日増しに弱体化するにつれ 元の雑劇も盛況から衰退への道のりを歩むことになった 元代の半ば以降 雑劇芸術は日増しに人気が衰えはじめた 宋代、元代は激動の時代でした また様々な社会的な衝突や矛盾が 次々に表に現れた時代でもあります 元代に入った時代を後世の目から見れば 元帝国が中国全土を統治したことで 民族的な軋轢や 社会階層どうしの衝突がより突出しました こうした矛盾は国民全体に対する 非常に強い抑圧という形で現れました 抑圧は抵抗や闘争を招くことになります 現実社会における闘争は 一種の闘争文学へとつながります あるいは闘争の時代を反映したものが生まれるのです また元の成立によって 北方の広大な国土が相対的に安定しました さらに南宋が国土の片隅で小さな王朝を 維持し続けたことで 南方においても経済復興と繁栄が見られました 実際に南北に分かれた中国 あるいは中国の南北両地域では 経済の奇形的な発展があり 都市の発展で娯楽が求められ こうして各種の文芸的な形式での演目が盛んになりました ほかにも この時代に市民文学が発展し始めました 特に一部の文人は 元代に科挙が廃止され 将来の官職に希望がもてず 失意にあった文人が芸人や役者と結びついて 戯曲という形式で社会を描き出すことになったのです この時代に こうして 元の雑劇は時代的な背景を持って 必然的に生まれました もちろん 中国の南方の 浙江や福建などの地域では もともとは北方から来た芸人たちが 南下して浙江や福建一帯に集まり 萌芽期にある芝居の原型を南方に持ち込み さらに南方の曲調と合わせることで 北方で北雑劇が生まれることになりました 明代の初期 政治経済の中心は南方から北方へ移った 手工業や商業は水に囲まれた市部から徐々に興った 元代末期から明代初期にかけて北方の芝居が南に移動して もともと盛んであった北方の雑劇と 南方で盛んになっていた南の劇が急速に融合して

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liyuan 戯曲芸術は商店や工房のように 江南一帯で大きく発展して 明代と清代の戯曲の繁栄の基礎を築いた 清朝末年には 全国各地に広がる劇の数は360種を超えた そのうち影響力が比較的大きなものには 昆曲、秦腔、漢劇、徽劇などがある 頤和園大舞台 清朝の戯曲には大きな特徴がある それは宮廷戯曲に偏った発展である 歴代の王君と皇太后はみな大がかりなことを好み 戯曲に魅入られ 歌舞に明け暮れて天下太平を謳歌していた 宮廷内に南府を設けて宦官に演技を学ばせる一方で 芸人をたびたび宮廷に招いて芝居をさせ 大いに楽しんだという 1790年 乾隆帝は八十歳の誕生日に 各地の芸人を北京に呼び寄せて演し物をやらせた 揚州一帯で活躍していた四大徽班は 北京に上京して皇帝の誕生日を寿ぐ機会に 芝居に大胆な改革を行い 漢劇、昆曲、弋腔、秦腔および民間歌曲の精華を取り入れた また数年間の研究でより洗練した表現を工夫し ついに新たな劇の形式である「京劇」を創り出した 京劇の誕生と普及は 中国の戯曲芸術にとっての段階的な飛躍と昇華をもたらし ますます完成された芸術となった かつて舞台の袖にはよくこんな対聯が貼ってあった 「舞台小天地 天地大舞台」 この短い二句に 深い真理が読み取れる 戯曲には人々の思想を知らず知らずのうちに感化し 楽しみのうちに様々な教育を施す役割がある 我々はこの点を忘れてはならない 実際 歴代の統治者は 誰も このことを忘れたことは なかったのである ---------------------------- 児童京劇コンクール 舞台裏の緊張はいつもと同じである しかし普通と違うのは 役者たちがまだ子供であるということだ 舞台化粧や隈取り 演し物も同じだが 今日は本番の舞台ではなく コンクールである 今日の役者はみな子供だが それぞれの心づもりがある この京劇コンクールのために 誰もが舞台裏で苦労を重ねて練習をしてきた 良い師につければ結果につながるが 来るものは善ならず 善なるものは来たらず という 歌、語り、立ち回りの全てにおいて 年端のいかない子供とはいえ 決してあなどれない 四番は北京代表チームの牛章光くん十歳です 演目は包青天の一幕から一段を歌います いま中国大陸では 子供の京劇コンクールが始まっていますが 私は特に変わったことではないと思います 大陸ではよく見ました 私たち台湾の人間から見ると わあ、5歳の子供が 京劇をやるなんて すごいことだと思います ときには 子供の親に 何か問題があるんじゃないかとか 一体どうして子供に京劇をやらすのかとか

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liyuan 台湾ではそんな風に感じてしまいます さっき聴いたところだけど たとえば こんな台詞があります 「この訴状を旦那様の広間に置こう」 現代では この台詞をこういう風に歌うのは だいたいにおいてこの曲の調子は間違っていませんし たいした違いはないのですが 今日 見せてもらったとき この子の師匠は舞台裏で 「訴状を……」の後に来る 「圧」という文字を特に強く出して 全ての精神をここに込めるようにと教えていました 子供たちは非常に真剣に 精神を集中して演じました 会場は北京人民劇場である コンクールの名称は 「新苗賞第一回児童京劇招待試合」という 今年の初夏五月に開催された 舞台上にはほぼ二百年の歴史を持つ演目が集まり 子供たちの動きの中に京劇の歴史が凝縮された 舞台の前では銅鑼の音が鳴り響き 舞台裏には緊張が渦巻く 緊張しているのは子供たちよりもむしろ周りの大人である 司馬が瓶を割ったくだりをやります 京劇を始めてどのくらい経つの? まだ一年たっていません まだ一年にならないのか、 どうして京劇が好きになったの? うーん 何か理由があるでしょ? どうして好きになったのかですか?  ただ好きなだけなの? なぜ好きなのかな? えーと、中国にしかないものだからです。 京劇のほかに何かできるものは? 踊りとか歌とか。 踊りや歌ですか。他には朗唱ができます。 ああ、いろんな趣味があるんだね 今、何年生? 四年生です 体重は? とっても健康そうに見えるよ 師匠は技芸の伝統を受け継いで 大いに広めてほしいと願い 両親は子供が名をなして 家名をあげてほしいと願い 子供自身は大きな拍手と よい成績を願う 舞台に立った子供たちは 様々な役柄を演じ 様々な調子で歌う 舞台裏の師匠と親は子供たちのために てんてこ舞いをする それぞれの思いを抱き 小さな舞台には多くの思惑が交錯する 子供たちに寄せる期待と願いが行き交う 舞台の上にも劇があり 舞台の下にも劇がある 二つの劇が一つになり 誰が主役で誰が脇役か 誰が脇役で誰が主役か まさに人間を描いた芝居である 大陸の子供たちは歌うのがとても上手ですよね とくに革命模範劇の演目が上手いです それはどういうことかというと 彼らが現代劇と呼んでいるものを 幼い頃によく聴いていて 大きくなってからも聴くことができます そこで現在 大陸では模範劇が また徐々に復活してきています こうした模範劇を 文化大革命の時期の産物としてはとらえず 単にこれらの劇の良さを認めているのです メロディーや調子の多くは

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liyuan 非常に激しいものですが そういうものを利用しているのです もっとも健全な演劇の教育方法は さきほどもお聞きになったように 幼少の時期に触れるべきです というのは中国劇というのは 観客を一方的に喜ばせるのではなく 観客と役者の間に 感情の交流がありますから たとえば彼と私がが子供の時に 私は勉強をしながら彼の演技も見ていた だんだんと彼も芝居が上手くなってくる そして成長して大人になり 仕事でもある程度の業績ができたというとき やはり彼の舞台を見ている 年をとってからまた彼の芝居を見たら たとえ演技がよくなくても 相手を許せる気持ちが育っているはずです ですからこういう演劇の訓練方法は あるいは発展の仕方というのは健全であると思います 西太后は垂簾政治を行いながら 皮簧劇(京劇)を好んで鑑賞した そこでもともとはあまり知られていなかった芝居が 瞬く間に有名になり普及した 清朝末期から民国初期にかけて 名前をとどろかせた名優たちが輩出し さらに京劇は人気を得た 国の指導者に支持され 庶民から愛されて 京劇は空前の活況を呈した そして今日まで百年あまり衰えることを知らず さらに伝統を受け継ぐ子供たちが 舞台の上でその灯火を明るく輝かせている 舞台で燃えているのは将来への展望であり 舞台の下で燃えているのは驚きと喜びだ これは何かって? 何だろうね 見てごらん ペンだよ 君は今いくつなの? いくつ? 六歳 五歳です 五歳ですか この子が試合に出場している中で一番小さいんです 諸葛孔明をやります へえ 諸葛孔明を いつですか もうじき始まります 誰に習っているの? 誰だっけ? どこから来たの? 上海からかな? うん そう 会場に「新苗賞」が鳴り響いた 透き通った声で 子供たちが京劇の演目を歌い上げる 「招待」とは名目だけで 試合も一種の方法なのである 子供たちの真剣な態度は 先人に学び後世に伝える誠意の現れでもある そして誠意は点数で測れるものではない

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