< C 鉄砲の伝来 ( 現代語訳 ) 鉄炮記 by 文之玄昌 > 天文十二年 (1543 年 )8 月 25 日, 我が西村の入江 ( 種子島の港 ) に一艘の大きな船 ( 中国船 ) が漂着した どこの国から来たかは不明である 乗客は 100 余人, その容貌 服装は日本人と異なり, その言葉は通

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<分国法(現代語訳)> □B 伊達氏の分国法『塵芥集』by伊達稙宗 一,百姓が地頭の年貢や雑税を納めず,他の領主の所領へ逃げ込むことは盗人として処罰する。そこで,その百姓を匿かくまってい るところに連絡しても,身柄を引き渡さない場合には,百姓を匿かくまった者を同罪とする。 □A 武田氏の分国法-喧嘩両成敗-『甲州法度之次第(信玄家法)』by武田信玄 一,喧嘩の事については,理由のいかんを問わず成敗(処罰)を加える。ただし,相手から仕掛けられても,怒りを堪忍(我慢) した者については,処罰しない。 □C 長宗我部氏の分国法-喧嘩両成敗-『長宗我部元親百箇条(長宗我部氏掟書)』by長宗我部元親 一,喧嘩口論については,厳しくこれを禁止する。……この趣旨に反して,互いに勝負するようなことがあれば,理由のいか んを問わず両方を成敗(処罰)する。 □A 今川氏の分国法-私婚の禁止-『今川仮名目録』by今川氏親 一,駿河・遠江両国の(今川氏の家臣の)者は,今川氏の許可を得ないで勝手に他国から嫁をもらったり,あるいは婿を迎えた り,娘を他国へ嫁につかわすことは,今後禁止する。 □A 朝倉氏の分国法-家臣の城下町集住-『朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)』by朝倉孝景(朝倉敏景) 一,わが朝倉の城郭の他に,領国内に城郭を造ってはならない。全ての禄高の多い有力な家臣は,一乗谷に移り住み,地元の 村には代官だけを置くようにせよ。 <解説> 戦国大名が領国を統治するために定めた法を分国法という。大名によって様々な規定があるが,史料で問われる 主なものは以下の 5 つ。 ①伊達氏(陸奥国の戦国大名)の分国法として,1536 年に伊達稙宗が制定した『塵芥集』には,百姓が地頭への年貢・ 雑税を納めず,他領主の所領に逃げ込んだ者は処罰するといったように,地頭の百姓に対する支配権が規定され ている。ただし,史料で出題すると『塵芥集』の内容を把握している受験生はほとんどいないため,分国法のう ち最も条文数が多い・『御成敗式目』の影響が大きいといったキーワードと共に問われることが多い。 ②武田氏(甲斐国の戦国大名)の分国法として,1547 年に武田信玄が制定した『甲州法度之次第(信玄家法)』には, 家臣同士の私的な争いを否定する喧嘩両成敗が規定されている。史料文では,「喧嘩」したらどちらも「成敗」(処 罰)するが,一方が「堪忍」(我慢)した場合には処罰しないと規定されている。喧嘩両成敗に関する内容であった ら,基本的には『甲州法度之次第』であると判断するとよい(難問になると,下記の『長宗我部氏掟書』から出題 するものもある)。 ③長宗我部氏(土佐国の戦国大名)の分国法として,1596 年に長宗我部元親が制定した 100 箇条から成る『長宗我部 氏掟書(長宗我部元親百箇条)』にも,「喧嘩」したらどちらも「成敗」(処罰)する喧嘩両成敗が規定されている。 喧嘩両成敗について規定している史料は『甲州法度之次第』が最も有名であるが,『長宗我部氏掟書』や『今川仮 名目録』にも規定されている。 ④今川氏(駿河国・遠江国の戦国大名)の分国法として,1526 年に今川氏親が制定した『今川仮名目録』では,家臣 の謀叛を防止するため,家臣の婚姻は大名の許可制として私婚を禁止した。史料文中にある「駿遠両国」とは駿 河国・遠江国を指しているので,『今川仮名目録』であると判断できる。 ⑤朝倉氏(越前国の戦国大名)の分国法として,1479~81 年頃に朝倉孝景(敏景)が制定した『朝倉孝景条々(朝倉敏 景十七箇条)』は,分国法のうち最も条文数が少ないことで有名。戦国大名の家臣たちは知行地(自分の領地)に住 んでいたが,謀反を防止するため,家臣を在地から切り離すため,戦時における軍事動員を迅速にするため,朝 倉氏の城下町である一乗谷へ集住することを推進した。史料文中の「一乗谷」は空欄になりやすい。

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<□C鉄砲の伝来(現代語訳)『鉄炮記』by文之玄昌> 天文十二年(1543 年)8 月 25 日,我が西村の入江(種子島の港)に一艘の大きな船(中国船)が漂着した。どこの国から来たかは不 明である。乗客は 100 余人,その容貌・服装は日本人と異なり,その言葉は通じず,彼らを見た者は皆奇妙に思った。……外国(ポ ルトガル)商人の長が 2 人いた。1 人はフランシスコ・ゼイモトといい,1 人はキリシタとアントニオ・ダ・モタといった(2 人の 名前が混同されており,ポルトガル商人は 3 人いたとも考えられる)。手にある物を携えていた。その物の長さは 2~3 尺で,形 は中が空洞,外側はまっすぐで,大変重いという特質があった。 ……種子島時尭はその値段がとても高いにもかかわらず問題とせず,南蛮の鉄砲を 2 挺買い求めて家宝とした。 <解説> 1543 年(天文 12 年),大隅国に属する種子島の港に一隻の中国船が漂着した。漂着した船がポルトガル船ではな く,中国船であったのはなぜだろう。当時,中国人倭寇は東シナ海を中心に密貿易を行っており,その中で嵐に巻 き込まれた中国船が種子島に流れ着いたのである。ゆえに,その中国船の持ち主も倭寇王と呼ばれた王直のもので あった。 その漂着した中国船には中国人が 100 人ほど乗っており,その中にはポルトガル人が 3 人(史料では 2 人となって いるが 3 人とする説が一般的)含まれていた。そして,その鉄砲の威力に驚愕した種子島島主の種子島時尭はポルト ガル人から鉄砲を 2 挺購入した。つまり,鉄砲はポルトガルから直接伝わったのではなく,中国人倭寇の一味であ ったポルトガル人によってもたらされたのである。なお,この出来事については文 ぶ ん 之 し 玄 げ ん 昌 しょう が記した『鉄炮記』に詳 細に記さているが,<炮>の左部分は<石>ではなく<火>であり,右部分も<包>ではないので確認しておいてほしい。 <□Cキリスト教の伝来(現代語訳)『耶蘇会士日本通信』byガスパル=ヴィレラ> 1549 年聖母マリア昇天日である 8 月 15 日,サンタ=フェーのパウロ(ザビエルを案内した日本人アンジロー(ヤジロウ)の洗礼 名)の故郷である鹿児島に到着した(フランシスコザビエルの到着)。……日本について我等イエズス会宣教師が見聞して知り得た ことを次に述べる。 <解説> 当時のヨーロッパではプロテスタント(新教)が勢力を拡大していた。これに対して,カトリック(旧教)のスペイ ン人宣教師フランシスコ・ザビエルらによって創設されたのがイエズス会である(日本では耶蘇会と呼ばれた)。カ トリック(旧教)の巻き返しを図りたいイエズス会は,キリスト教を広めるため世界各地に宣教師を派遣することに し,インドに派遣されたザビエルも各地でキリスト教の布教活動を行っていた。その過程で,マレー半島のマラッ カという地で日本人のアンジロー(ヤジロウ)に出会い,日本でのキリスト教布教を志した。 そして,アンジロー(ヤジロウ)に案内される形で,1549 年(天文 18 年)に島津貴久の城下町である鹿児島に到着 した。その後,ザビエルは大内義隆(肥前・周防の戦国大名)や,大友義鎮(豊後の戦国大名)の保護を得て 2 年ほど日 本で布教を行った。この後,イエズス会に所属する宣教師時のことは,イエズス会宣教師による日本でのキリスト 教布教の報告書を翻訳した『耶蘇会士日本通信』に記されている。 <□B堺の発展『耶蘇会士日本通信』byガスパル=ヴィレラ> 堺の町は非常に広大で,大商人が多数いる。この町(堺)はベニス市(北イタリアの代表的自治都市のヴェネチア)と同じように 執政官(堺の町を合議制で指導した36 人の会合衆)によって治められている。…… <解説> 和泉国の堺は,会合衆と呼ばれる36 人(初期は 10 人で戦国時代には 36 人)の豪商を中心にして,戦国大名の介入 を受け付けず,商人による自治支配が行われていた。このような市民による運営が行われた都市を自治都市(自由都 市)といい,世界史ではイタリアのベニス(ヴェネツィア)が市民による自治が行われていたことで有名である。イエ ズス会宣教師のガスパル=ヴィレラは堺を訪れた時の様子を,「東洋のベニス」であると手紙で報告している。イエ ズス会(耶蘇会)の宣教師が送った手紙を翻訳したものが『耶蘇会士日本通信』である。

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<□C延暦寺の焼打ち『信長公記』by 太田牛一> (元亀 2 年(1571 年))9 月 12 日,比叡山を厳しく攻め,根本中堂(延暦寺の本堂)や三王二十一社(近江坂本の日吉(山王)神社の本ほ ん 宮 ぐ う ・摂せ っ社し ゃ・末ま っ社し ゃを合わせた 21 社)をはじめ,霊験あらたかな仏・神社・僧侶の住居・経典も一つ残らず瞬時に雲や霞かすみのように焼 き尽くし(織田信長が焼き討ちを行った),灰と燃えかすだけの地となったのは労いたわしいことである。 <解説> 1570 年,15 代将軍の足利義昭が各地の戦国大名に送った信長打倒の命令文書によって窮地に陥った。信長は姉川 の戦い(1570)で朝倉義景(越前の戦国大名)・浅井長政(北近江の戦国大名)を破ったが,その朝倉・浅井両軍の援助 にまわっていたのが近江の比叡山延暦寺であった。そして,1571 年に比叡山延暦寺を焼き討ちし,僧侶から女性・ 子供に至る数千人を虐殺した。これにより,比叡山の山頂にある総本堂の根本中堂から,麓ふもとにある日ひ吉え(山さ ん王お う)神社 も灰 か い 燼 じ ん に帰した(神仏習合が広がる中で,天台宗の比叡山延暦寺が唱えた神道学説を日吉(山王)神道という)。この 事は太田牛一が著した信長の覇業を記した伝記『信し ん長ちょう公こ う記き』に記されている。 <□B楽市令『八幡町共有文書』> 安土の城下の町中に対する定め 一,この地(安土)を楽市として命ぜられた上は,諸座(座の特権や座役)・諸役(段別銭や兵糧米などの課役)・雑税(いろいろな名 目の雑税)などは,すべて免除することとする。 一,往来する商人は,上海道(中山道)を通行することをやめて下街道(のちの朝鮮人街道)だけにし,京都へ上る者も下る者も下 街道を通行し,この町(安土)に宿泊しなければならない。 一,(織田家の)領国内全土で徳政を実施しても,この地(安土)では(徳政令適用を)免除する。 一,博労(馬を売買する商人)について,領国中の馬の売買はすべてこの地(安土)で行うこと。 天正 5 年(1577 年)6 月日 <解説> 全国統一事業を進める織田信長は,1576 年に近江国に安土城を築城し,その翌年の1577 年(天正 5 年)に安土城 下町で誰でも自由に商売ができるようにする楽市令を発布した。具体的には,この法令によって楽市となった安土 城下町では,従来の独占的な販売権をもっていた座の特権を廃止して,座にかかる座役だけでなく,その他諸々の 税が免除されることになる。例えば,第 1 条にある「種段別銭・兵糧米などの課役,いろいろな名目で徴収される 雑税」だけでなく,第 3 条(史料文中では省略)では「建築や土木事業に人夫を徴発する普ふ請し ん役や く」,第 4 条(史料文中 では省略)では「物資輸送や家臣の往来のための馬と労役を提供する伝て ん馬ま役や く」も免除された。さらに,第 5 条では「織 田家の領国内で徳政令を発布しても,安土だけは徳政令の適用を免除する」としている。こうした内容であれば, 商人たちは安心して自由に商売ができるし,他領の商人たちも安土に集まってくるようになる。 楽市令の目的は,上記のように安土への商人の集住をはかり,さらに商業振興により領国経済を発展させること にあった。そのため,第 2 条にあるように「京都へと往来する人々は中山道(上海道=上街道)を通らず,下街道(の ちの朝鮮人街道)を通って,安土に宿泊せよ」と命じている。これは,中山道は安土を通らない街道であるため, 安土を通る下街道(のちの朝鮮人街道)を通行させることで,安土の経済発展を狙ったものであった。最後に,信長 は大の馬好きでもあったので,「馬を売り買いする商人の博労は安土で取引するように」と第 6 条で命じている。 <□C指出検地『多聞院日記』> (天正 8 年(1580 年)9 月)26 日,当国(大和国)の中の公家・寺社・土着の武士(興福寺の衆徒として勢力をはった土着の武士)に, あらゆる土地について(面積・作人・収穫などを記したものを)すべて指出(差し出し)するようにとの命令がことごとく出された。 慎重に考えねばならない。…… <解説> 織田信長を最も苦しめた石山本願寺との石山戦争(1570~80)は,1580 年に正親町天皇の仲裁による和睦で,顕如 が石山本願寺から退去したことで終結した。これによって政権が安定した信長は,長らく直轄的な支配を及ぼせな いでいた大和国に有力家臣を派遣して,国人たち(興福寺の衆徒)に土地の面積や収穫量などを記した帳簿を差し出 させる指出検地を行った。なお,史料としての頻度は圧倒的に低い。

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<□Aバテレン追放令『松浦文書』> 一,日本は神国であるから,キリシタンの国(ポルトガル・イスパニア)が邪悪な教え(キリスト教)を布教することは,大変よろ しくないことである。 一,大名が自分の領地の国郡の者に奨めて門徒(信者)にし,神社仏閣(寺社)を壊している(バテレン追放令が出された背景には, 宣教師が寺院や神社を破壊していること・ポルトガル人の商人が日本人を奴隷として外国人に売買していること・大村純忠が イエズス会に長崎を寄進したことが挙げられる)ということであるが,前代未聞である。国郡や村を知行地として大名に与えた のは,一時的なことである。…… 一,伴天連(宣教師)は,そのいろいろな知識(キリスト教の教義や自然科学や医学の知識)を駆使して人々に布教し,思い通りに 檀那(信者)を獲得していると豊臣秀吉公は思われていたが,右のように強制的に信者を増やしたり,日本の仏教を破壊したり していることはけしからぬことであり,これでは伴天連(宣教師)を日本に置いておくことはできない。したがって,今日より 20 日以内に準備して帰国せよ。 一,南蛮船(ポルトガル船・イスパニア船)については商売が目的なので,南蛮貿易に関しては特別に継続する。以後,年月を経 ても諸取引をするようにせよ。 天正15 年(1587 年)6 月 19 日 <解説> キリスト教のカトリック(旧教)国であるポルトガル・イスパニア(スペイン)によるキリスト教の布教は南蛮貿易 と一体化して行われた。これは「キリスト教の布教を認めてくれる大名とは貿易します。布教を認めてくれない大 名ならば貿易しません。」ということで,南蛮船(ポルトガル船・ポルトガル船)はキリスト教の布教を認めた大名領 の港に来航した。 この当時の日本では,鉄砲が戦術的な重要度を増していたが,鉄砲に使われる火薬の原料である硝 しょう 石 せ き は日本では 手に入らないものであった。つまり,火薬がなければ鉄砲は使い物にならず,その原料である硝石は南蛮貿易で輸 入するしかなかった。そのため,特に九州の大名たちは貿易を望んでキリスト教の布教を認め,宣教師を保護し, 中には大友義鎮(宗麟)・有馬晴信・大村純忠のように洗礼を受けてキリシタン大名となる者もいた。その中でも熱 心なキリスト教徒となった大村純忠は,1580 年に自分の領地であった長崎をイエズス会に寄進し,領民に対してキ リスト教の信仰を強制して,神社仏閣(寺社)も破壊していった。このようなキリシタン大名の領内では,宣教師に よって神社仏閣(神社・寺院)が破壊されたり(多神教の日本人には理解しづらいが,一神教であるキリスト教の布教 が許されたのだから,異教である他宗教の寺院・神社を破壊するのも許されるというのが宣教師の理論らしい),他 にもポルトガル商人が日本人を奴隷として外国に売買することも行われていた(1582 年に派遣された天正遣欧使節 の一行が,世界各地で日本人が奴隷とされているのを見て驚愕したという記録が残っている)。 このように,九州を中心にキリスト教が広がる中で,1587 年には豊臣秀吉による九州征伐,すなわち島津義久征 伐が行われた。島津義久を服従させて九州平定を終えた秀吉は,京都へ帰る途中で博多に立ち寄り,上記の件を知 ることになった。こうして,激怒した秀吉によって,1587 年(天正15 年)にバテレン追放令(伴天連追放令・宣教師 追放令)が博多で発布されたのである。 その内容は,第 1 条で「神国(日本は神に守られている国であるという神国思想に基づく)である日本においてキ リシタン国(ポルトガル・イスパニア)によるキリスト教は邪法」であり,第 2 条で「キリシタン大名が領民に対し てキリスト教を信仰することを強制して門徒(信者)にしたり,神社仏閣を破壊することは不届きなこと」であると 規定している。ゆえに,第 3 条で「宣教師はキリスト教の教義や自然科学や医学の知識を利用して檀那(信者)を増 やしていると豊臣秀吉が思ったので,伴バ天テ連レ ン(宣教師)は20 日以内に日本国外から退去せよ」と命じている。なお, 第 1 条の「神国」や第 3 条の「伴天連」の箇所は空欄記述問題にもなるので,漢字でも書けるようにしておくよう に。 ただし,第 4 条で「ポルトガル・イスパニアらの貿易船が行う商売に関しては,キリスト教とは別である」とし て南蛮貿易は許可している(史料文で「黒船」と問われた場合,ペリーが乗船していた黒船のことを指しているので はなく,ポルトガル船・イスパニア船のことを指す)。しかし,バテレン追放令は,キリスト教を禁止したわけでは なく宣教師の追放令にすぎず,カトリック(旧教)国であるポルトガル・イスパニアはキリスト教布教と南蛮貿易を ワンセットで行う国で,南蛮貿易がキリスト教の布教と一体化して行われたため,取り締まりは不徹底に終わって いる。

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<□A刀狩令『小早川家文書』> 一,諸国の百姓が,刀・脇差・弓・槍・鉄砲,その他の武具の類を所持することを厳しく禁止する。その理由は,百姓が農耕に 不必要な武器を持っていると,年貢やその他の雑税を出し渋り,もしも一揆を企て,給人(大名から知行地(領地)を給付された 武士)に対して不法な行為をとる者が出たら,そのような者は当然処罰される。そうなれば,その所の田畑は耕作する者がいな くなり,知行地(領地)は荒廃してしまう。そこで,国主・給人・代官は,右の武具をすべて集め,差し出しなさい。 一,右のように集めた刀・脇差は無駄にするのではなく,今度,大仏を建立(京都方広寺の大仏殿建立)するにあたって,その釘く ぎ・ 鎹 かすがい につくりなおすのである。そうすれば,現世は言うに及ばず,来世までも百姓は助かるのである。 一,百姓は農具だけを持ち,耕作に専念すれば,子々孫々まで長く安泰である。百姓のことを哀れんでこのように命じられたの である。誠に,国土の安全・万民の安楽の基本である。…… 天正16 年(1588 年)7 月 8 日 (秀吉朱印) <解説> 豊臣秀吉は,1582 年の山城国から,検地奉行を派遣して面積単位・収穫量などを実測する太閤検地を行った。こ れは今までの自己申告制の指出検地とは異なり,虚偽の申告などができなくなり,国人・地侍などの土地権利も否 定するものであったため,平定した各地域では肥後の一揆(1587)や陸奥の大崎・葛西一揆(1590)など検地反対一揆 が頻発した。そこで,百姓一揆を防止するため,さらに兵農分離をはかるため,百姓が刀などの武器を所持するこ とを禁止する刀狩令を1588 年(天正16 年)に発布した。史料文の「諸国百姓,刀,脇 わ き 指 ざ し ,弓 ゆ み ,やり (槍) ,てつはう ( 鉄 砲 ) ,其 そ の 外 ほ か 武ぶ具ぐのたぐひ所し ょ持じ候事,堅か たく御ご停ちょう止じ候」というキーワードで判別できるようにしておきたい。 刀狩令を出した理由は,史料文中で述べられているが,「百姓が武器を所持していると年貢・雑税の納入を出し渋 ることがあり,一揆を企てる可能性があるため」である。そこで,「大名・給きゅう人に んは百姓の武器を没収しておくように」 と命じたのである。なお,給人とは,大名から知行地(領地)を支給された人(武士)のことを言うので,余裕があれ ば覚えておいてほしい。 ただし,百姓に武器を出せと命じても素直に応じない可能性があるため,「没収した武器は京都方広寺の大仏殿の 釘・ 鎹 かすがい に利用するので百姓は来世まで救われる」ことを名目に武器を差し出すように命じている。そして,史料文 中の「百姓は農具さへもち,耕作 専もっぱらに 仕つかまつり候ヘハ,子々孫々まで長ちょう久きゅうに候」というキーワードがあるように,百姓 は武器を持たずとも農具だけをもち農業に専念すれば,子孫代々まで無事に暮らせるだろうと述べている。なお, 出典の『小早川家文書』(毛利元就の三男隆景が養子となった安芸国の豪族小早川家に伝わる文書)について問われ ることはほとんどない。 <□C人掃令①(身分統制令)『小早川家文書』> 一,武家の奉公人,すなわち侍・ちゅう中間げ ん・小こ者も の・荒あらし子こに至るまで,前年天正 18 年の 7 月(1590 年)の奥州への出征(後北条氏滅亡に 行われた伊達政宗平定のための奥州出征)以後に,新たに町人・百姓になった者があれば,その町中または百姓らよく調査し, 一切町や村に置いてはいけない。もし,隠し置いていたならば,その町あるいは村全体が処罰されるべきである。 天正 19 年(1591 年)8 月 21 日 (秀吉朱印) <解説> 上記の刀狩令発布の目的は,百姓一揆を防止するだけではなく,兵農分離の促進も含まれる。戦国時代には,有 力農民の名主層の中で,戦国大名や国人(上級武士)と主従関係を結んで,侍身分を獲得した地侍(下級武士)となる 者が多かった。例えば,豊臣秀吉(羽柴藤吉郎)自身も地侍出身だったと言われている。 上述の地侍に代表されるように,この時代は「兵」にあたる侍身分と「農」にあたる百姓身分の境界線が不明確 であった。そこで,その境界線をはっきり「分離」させるため,豊臣秀吉の朱印で1591 年(天正 19 年)に武士・百 姓・町人の身分変更を禁止したのが人掃令(身分統制令)である(現在の学説では身分統制令と呼ぶのが一般的であ る)。具体的には,1590 年に行われた伊達政宗など平定のための奥州出兵以後に,侍・中間・小者・あらし子とい った武家奉公人が百姓・町人になることを禁止し,さらに百姓が商人・職人などの町人になることを禁止したため, それぞれの身分が確定することになった。それゆえ,この法令を身分統制令と呼ぶ。

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<□C人掃令②『吉川家文書』> 厳重に申し付けなさい。 一,関白様(豊臣秀次。前関白は秀吉をさすが,当関白は秀次をさす)から日本全土 66 カ国に対して人掃(戸口調査)が命じられた こと。…… 一,戸数・人数・男女・老若を村ごとに帳面に書き付けるようにすること。…… 天正 19 年(1591 年だが 1592 年の誤りと考えられている)3 月 6 日 <解説> 豊臣政権による朝鮮出兵は 1592 年に行われるが,それに先立って1592 年(天正 20 年)に朝鮮出兵の兵力・人夫を 把握するための戸口調査(人口調査)が行われた。この戸口調査(人口調査)のことを人ひ と掃ばらいといい,それを命じた法令 のことを人 ひ と 掃 ばらい 令 れ い という。ただし,豊臣秀吉は前年の 1591 年に関白の座を養子の豊臣秀次(秀吉の甥)に譲って,秀吉 は太閤(もと関白)となっていたため,この人掃令を発布したのは豊臣秀次になる。ゆえに,史料文中に記されてい る「当関白」とは豊臣秀次になるので気を付けてほしい(秀吉をさす場合には「前関白」or「太閤」となる)。 <□C朝鮮出兵の目的『前田家文書』> 一,殿下(関白の豊臣秀次)の出陣の用意については油断のないように,来年(1593 年)の 2 月頃に出陣するべきこと。 一,高麗の都(実際は李氏朝鮮の都である漢城(現在のソウル)が,去る 2 日に落城した。そこで,いよいよ秀吉自身が海を渡って, 今度は明国も残らず支配下に置き,中国の関白職を秀次に渡すつもりである。 一,大唐の都(明の都である北京)へ叡慮=天皇(後陽成天皇)には移っていただくつもりである。その準備をなさっていただくつ もりである。再来年(1594 年)には行幸していただくつもりである。 天正 20 年(1592 年)5 月 18 日 (秀吉朱印) <解説> 豊臣秀吉が朝鮮出兵を行ったことは有名だが,そもそもの野望は「唐 か ら 入 い り」と呼ばれる明(中国)征服であった。 しかし,明征服のための先導(道案内)を朝鮮に求めたところ,それを拒否されたため朝鮮出兵にターゲットが切り 替わったのである。 朝鮮出兵の第一弾にあたる文禄の役は1592 年の 4 月から始まり,加藤清正・小西行長の奮戦により,1 ヶ月も経 たずに李氏朝鮮(史料文では「高麗」となっているが李氏朝鮮のこと)の都である漢城(現在のソウル)が陥落した。 史料文は,漢城陥落の報告を受けた豊臣秀吉(太閤)が,1592 年(天正 20 年)5 月に関白の豊臣秀次(殿下)に宛てた手 紙である。この手紙では,秀吉の明征服後の構想が記されており,明を征服したら叡慮(天皇のこと)の後陽成天皇 には明(史料では「大唐」となっているが明のこと)の都である北京に引っ越ししてもらうつもりだとか,秀次は明 の関白に任命するつもりだとか,もはや妄想レベルのことが記されている。

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<□C太閤検地①-検地の強行-『浅野家文書』> 一,(検地について)申し渡したことの趣旨は,国人や百姓たちが納得するように,よく申し聞かせよ。もしも,これに納得しな い者がある場合は,その者が城主であれば,城へ追い込み,検地担当の奉行たちが相談のうえ,1 人も残さずなで斬り(皆殺し) にせよ。また,百姓以下の者までこれに納得しない場合には,一郷も二郷でも 悉ことごとくなで斬り(皆殺し)にせよ。日本全土の 60 余州に厳しく命令したからには,出羽・奥州までもいいかげんに実施してはならない。たとえ,亡も う所し ょ(耕作者がいなくなって荒 れ果ててしまった土地)となっても構わないので,この趣旨を十分に承知せよ。……もしも,検地担当者どもが怠けるようなこ とがあれば,関白殿(豊臣秀吉)ご自身がお出かけになられて命令されるぞ。かならず,この手紙の返事はすぐ出すようにしな さい。 天正18 年(1590 年)8 月 12 日 (秀吉朱印) 浅野弾正少弼殿(浅野長政)へ <解説> 刀狩令の史料でも既述したことであるが,豊臣秀吉が行った太閤検地は,浅野長政(五奉行の一人)などの検地奉 行を各地に派遣して面積単位・収穫量などを実際に測定する方法であった。そのため,今までの自己申告制による 指出検地では可能だった虚偽の申告などができなくなり,検地方法に対する不満は大きかった。特に従来の一つの 土地に複数の土地権利者という関係を否定した一地一作人の原則により(一つの土地に一人の耕作者),従来の重層 的な土地権利関係に基づく土地権利者の中間搾取(作合)が否定されたことは,国人・地侍など土地権利者の大きな 反発を招いた。具体的に述べると,1587 年の肥後の一揆や 1590 年の陸奥の大崎・葛西一揆などの検地反対一揆は, 土地権利を否定された国人・地侍を中心とした一揆であった(年貢の税率が 2 公 1 民(収穫量の 3 分の 2)とされたこ とで百姓の不満も大きく,百姓も参加しているが中心となったのは国人・地侍層である)。 史料文は,上記のような頻発する検地反対一揆に対して,1590 年(天正 18 年)に豊臣秀吉(関白)が五奉行の一人 浅野長政(浅野弾正少弼)に宛てた手紙である。内容としては,「国人層にあたる城主であろうが,有力農民層にあた る地侍であろうが,一般の百姓であろうが,検地方法に対して従わない者はなでぎり(皆殺し)にせよ。もしも,な でぎり(皆殺し)にしてしまって,亡 ぼ う 所 し ょ (耕作者がいなくなって荒れ果ててしまった土地)になっても構わない。」とい う強硬手段を取ってでも検地を断行せよという趣旨になっている。なお,史料文中「一人も残置かず,なでぎりニ 申し付くべく候。…(中略)…一郷も二郷も 悉ことごとくなでぎり仕るべく候。」にある「なでぎり(皆殺し)」という語句は, キーワードになるので知っておくとよい。また,この手紙が書かれた 1590 年は奥州平定が行われた年でもあるので, 「東北地方の出羽・陸奥(奥州)でも徹底するように」と命じており,「サボる者がいたら豊臣秀吉(関白)自らその地 に赴くぞ」と述べている。 なお,織田信長~豊臣秀吉の時期に天皇であった正親おおぎ町ま ち天皇(在位 1557 年~1586 年)・後陽成天皇(在位 1586 年 ~1611 年)の 1573 年~1592 年の間に用いられた元号は「天 て ん 正 しょう 」であり,各種の史料文中でも空欄問題になるので知 っておいてほしい。「天正」の元号は,天正遣欧使節の派遣(1582 年)や,豊臣秀吉が後藤徳乗に鋳造させた天正大 判(1588 年),太閤検地が天正の石直しと呼ばれたことからも連想しやすい。

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<□B太閤検地②-検地の方法-『西福寺文書』> 右は,この度の検地に際して定めた細目である。 一,六尺三寸(約 191cm)の棹さ おを一間として,間ま口ぐ ち五間け ん,奥お く行ゆ き六十間け んの三百歩ぶを一反た ん(段た ん)とすること(長さ 5 間×長さ 60 間=面積単 位の 300 歩となり,300 歩を 1 反(段)とすること)。 一,田畑及び屋敷地を上・中・下(田畑は上田・中田・下田・下々田の 4 等級に区分された)に見定め,それぞれの斗代(石盛)を 定めること。 一,口 く ち 米 ま い (年貢以外の付加税)は一石につき二升とし,口米以外の付加税は一切禁止とすること。 一,京枡(戦国時代に京都で使用された枡)によって年貢は納入し,売買でも同じ枡を使用すること。 慶長三年(1598 年)7 月 18 日 <解説> 戦国時代に戦国大名が各地で行った検地方法は,大名によって面積単位・枡の大きさなどの基準がバラバラであ った。しかし,全国を統一した秀吉であれば,枡の容量や面積単位を統一することができる(こうした単位のことを 度 ど 量 りょう 衡 こ う といい,その単位を統一したため度量衡の統一などと言われる)。 まず,枡の容量については戦国時代に畿内で広く使用されていた京枡を全国 基準の枡として採用した(史料文では京升となっているが記述問題で答える際 は京枡でよい)。そして,枡の容量を石 こ く ・斗 と ・升 しょう ・合 ご う と定め,それぞれ 1 石= 10 斗,1 斗=10 升,1 升=10 合と定めた。つまり,最も小さい単位を「合ご う」 とし(米を炊く際の「○合ご う」のこと),10 合で 1升しょうに単位が繰り上がり(日本酒 などで用いられる一升瓶は「1升しょう」分である),さらに 10升しょうで 1斗とに単位が繰り上がり(灯油などで用いられる一斗缶 は「1斗 と 」分である),10斗 と で 1石 こ く に繰り上がる。つまり,1石 こ く は 1000合 ご う となるので,1 人 1 日で 3 合食べると考える と,1000 合あれば 1 年暮らすことができるだろう。ゆえに,1 石は「1 人が 1 年暮らせる米の量」といわれる。 また,長さの単位もバラバラであったため,秀吉は6尺しゃく3寸す ん(約 191cm)を1間け んと定めた(1間け んは畳たたみ一畳分の長さとほ ぼ同じ)。1 尺は約 30.3cm で,1 寸は約 3cm なので,6 尺 3 寸とは「30.3cm×6」+「3cm×3」=「約 191cm」となる。 ただし,この 1 間(6 尺 3 寸)はあくまでも「長さの単位」で,1 間が四方(4 つ)集まると「面積単位」の1歩ぶとなる (1 歩は畳二畳分で出来上がる正方形とほぼ同じ)。現在に例えるならば,1m(長さの単位)が四方(4 つ)集まると 1 ㎡(面積単位)になることと同じ。その面積単位として定められたのが町 ちょう ・段 た ん ・畝 せ ・歩 ぶ であり,30 歩になると 1 畝に 単位が繰り上がり,10 畝になると 1 段に単位が繰り上がり,さらに 10 段になると 1 町に単位が繰り上がる。つま り,1 町=3000 歩,1 段=300 歩ということになる(律令 制度では1 段=360 歩だったが,この太閤検地で 1 段= 300 歩が基準となった)。ゆえに,史料文中では,「6 尺 3 寸(約 191cm)を 1 間(長さの単位)とし,幅5 間(長さの単 位)×奥行60 間(長さの単位)=300 歩(面積単位)=1 段 (面積単位)」と規定している。 しかし,同じ 1 段(300 歩)の田畑であっても,田んぼの質によって収穫量は各地で異なるので,上田・中田・下 田・下々田といった田畑の質を 4 等級に分けた。具体的には,上田であれば 1 段(反)の土地につき1 石 5 斗(1.5 石) の米が収穫できる,中田であれば 1 段(反)の土地につき1 石 3 斗(1.3 石)の米が収穫できる,下田であれば 1 段(反) の土地につき1 石 1 斗(1.1 石)の米が収穫できる,下々田であれば 1 段(反)の土地につき9 斗(0.9 石)の米が収穫できる,と定めたのであ る。このような 1 段(反)当たりの標準収穫量のことを石盛(斗代)とい う。史料文中に記されている「上・中・下」とは上 じょう 田 で ん ・中 ちゅう 田 で ん ・下 げ 田 で ん の ことを指しており(実際は下げ々げ田で んも含まれる),それぞれの 1 段当たり の標準収穫量として「斗代」である石盛を定めるとしている。 また,これまでは年貢にかかる付加税として,輸送費や地方税などの様々な名目で雑税が徴収されていた。こう した雑税を,領主が百姓から次から次へと追加で課していたため,百姓の負担は重くなるばかりであった。そこで, それらの様々な名目で徴収する雑税は口く ち米ま い(年貢に対する付加税)という名称に統一し,1 石につき 2 升までと定め た。なお,出典にあたる『西 さ い 福 ふ く 寺 じ 文書』は福井県敦賀市にある浄土宗寺院に伝わる文書であるが,これも問われる ことはほとんどない。 <枡の容量の統一> 1 石=10 斗 ※1 石=1000 合 1 斗=10 升 ※1 斗=100 合 1 升=10 合 1 合=約 150g にあたる枡の容量 <面積単位の統一> 1 町=10 段 ※1 町=3000 歩 1 段=10 畝 ※1 段=300 歩 1 畝=30 歩 1 歩=1 間(6 尺 3 寸)×1 間(6 尺 3 寸)による面積単位 <田畑の等級による石盛> 上 田…1 段(反)の土地につき1 石 5 斗 中 田…1 段(反)の土地につき1 石 3 斗 下 田…1 段(反)の土地につき1 石 1 斗 下々田…1 段(反)の土地につき9 斗

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参照

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