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三十七の菩薩行 御法話 By ガルチェン リンポチェ 米シアトル ) 第四偈 ========================================== 上記 URL に御

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「三十七の菩薩行」 御法話 By ガルチェン・リンポチェ

(2017.4.28-29@米シアトル)

【第四偈】

==========================================

https://www.youtube.com/watch?v=PtJc1C25JZc

上記URL に御法話の録画が公開されています。以下、録画内の英語通訳をたよりに試訳。 [2:17:00~]: 次(第四偈)は、”怠惰”(laziness)と”今生への執着”への対治となる。 それは、「死と無常について思惟すること」じゃ。 ********************************************************************************

長く親しき友とも別れゆき 努めて貯めた財もあとにして

客なる識は身体の宿を去る 生に着せぬ仏子菩薩行

******************************************************************************** 実際のところ誰しもみな「自分が死ぬ」ということは知っておるし、 「生命は無常だ」ということも知っておる。 じゃがな、知ってはいても、そういうことを心で常に考え続けることができん。 そういうことを考えずに、日夜さまざまなことに没頭しておる。

そして心の中で起こっていることといえば、今

の心配事(concerned about this life)じゃ。

「家族や子供に食べさせてやりたい・・・」 「

や名誉、所有物を得たい・・・」 そういうことを心に留めて、努力を惜しまないのじゃ。 じゃがな、「これらはすべて、無常か? それとも恒常か?」と自問すると、 それは「無常だ」と誰しもが理解できる。 その「諸行無常」ということこそ、心のなかでクリアにならねばならんことなのじゃ。

(2)

2 | たとえば経典では、

「外の器世間の無常という観点で、また、内の有情世間の無常という観点で、

諸法はいったいどう無常なのか?」

等々と説かれておる。 では、「実際は無常なものを、常と捉えることで引き起こされる過失」とは何じゃろうか? 結局さいご私たちは死ぬわけじゃ。 死の時には、

身体

は一体ではないのじゃから、

身体

去る

ことになる。 それはまるで、水が身体を離れていくかのようで、水を捕まえられるものは何もなく、 水はただ地に堕ちていって、そして、三悪趣のみじめな生に生まれ変わるのじゃ。 それはな、今

で慣れ親しんできた執

に、今

の心配事への執

に因るのじゃよ。 今

の心配事というのは、その多くは、「個人的な心配事や自分自身の利益」のことじゃが、 先にお話したとおり、「他者への執

」というのもある。 じゃが、他者や家族等を通じて、他者や他の有情たちへの慈愛の心を育むこともできる、 ともお話したとおりじゃよ。 執

したり利己的になるかわりに、ただ「彼らを利益したい」と願うだけでもいいのじゃ。 そうすれば、関係が ”害”(harm)になるということは無いのじゃよ。 あなたが彼らに執

したり利己的になってしまう場合に限って、 「彼らのほうが 私を助けるべきだ・・」とか 「彼らは 私のものだ・・」とか 「彼は 私の友人だ・・」 ・・・等々と考えてしまうものなのじゃ。 すると、こういう”我執”が多くの ”害” をなすのじゃ。 それも、自分にだけでなく相手に対しても ”害” をなすことになるのじゃよ。 ここに ”害” という言葉が出てきていることを理解するのが重要なのじゃ。 この偈は大変明快なのじゃよ。 じゃから、この偈を読むときは、

(3)

3 | 「今

の何物にも執

することには功徳がない。 なぜなら、すべては無常で、自分は死ぬしかないからだ」 ということを考えなければならんのじゃ。 この偈についてはさまざまな説明ができるのじゃが、偈の言葉だけでもすべてが大変明快じゃ。 この偈については、 とくにニンマ派の伝統的教えであるロンチェン・ニンティクや前行に、たくさんの註釈がある。 また、ニンマ派には、「心を仏法に転じるための四つの教え」の百日間リトリートという伝統的 な修行もあるのじゃ。 これはじつは大変重要なのじゃ。 なぜなら、前行をするときに、私たちは数を積むことばかりに囚われがちじゃが、 実際はこれらの教えを本当にしっかりと内面化(internalize)することが重要だからじゃ。 とくには、 ・貴重な人身の得難さ ・無常 ・カルマの法則 これらの教えをしっかりと内面化することが重要なのじゃよ。 [2:29:04~] ■「

生に着せぬ

」について。 私たちは身口意での善行を修行するが、 これらを「今

の利益のために行なう」という間違いを起こしてしまうものじゃ。 善行するときに「菩提を得るため」という動機をもつのはいいのじゃが、 確かにすばらしい動機ではあるのじゃが、 「ここでの本当の動機はどうなのか?」 ということも考えなければならん。 「自分が菩提を得るために善行をしている」ということなら、 実際には ”自分自身の悟り” を考えているわけじゃからな。 じゃが、これは私たちの考え方としては正しくはないのう。

(4)

4 | 「自分はどうして悟りを得たいのか? 悟りを得てどうするのか? 悟りを得たら、一切有情を利益したいのだ。 だからまずは自利としてはダルマカーヤ(法身)を成就して、 利他としては、サンボガカーヤ(報身)やニルマナカーヤ(応身)として、 輪廻が存在する限り顕現するのだ。 私たちは一切有情の役に立たなければならない、それが悟りの目的だ。 それが究極的な動機であり目的なのだ。」 ・・・そういう動機なら、 ほんのわずかな善行も大変広大な結果になることじゃろう。 じゃが、もし

生に着

して何かをするのであれば、それには本質というものがない。 なぜなら、先に言ったとおり、この生命は無常だからじゃ。 何かに執

することに意味はないのじゃよ。 「

生に着せぬ

」と説かれておるが、 「自分は今

の、とくに何に執

しているのか?」 を自分で見つめなければならん。 たとえば、あなたが家族や子どもに執

しているとして、 たとえば、誰かが亡くなって、彼らを「助けたい」とか「面倒をみたい」、とする。 しかし実際に起こっていることというのは、そんなふうに執

することで、 自分だけでなく彼らをも ”害” しているということなのじゃ。 じゃから、たとえば、

『阿弥陀佛の瞑想と読誦、極楽国の加行』

(・・・ここ?)を、 彼らのためにお唱えしたほうがずっとマシなのじゃよ。 そうすることで、実際に彼らを利益することができるからじゃ。 にもかかわらずまだ執

するならば、たとえばあなたが亡くなっていく人だとしたら、 その執

によって、あなたは悪霊の生まれ変わりか何かに乗り移って(・・・ここ?)、

(5)

5 | 家族みんなと自分自身をも ”害” することになってしまいかねん。 じゃから、何にせよ自分が執

しているものを認識することが重要なのじゃ。 とくに執

しているものが見つからなければ、 ただ「一切有情のために菩提を得よう」という願いをもつだけで十分じゃよ。 その「一切有情のために」という願いと決して離れることのないようしなさい。 その願いと共にあると、じつは今

への執

をすでに自ずと手放せているのじゃ。 考えすぎる必要はない。 ただ「他者を利するため」という願いと離れずにいるだけで、じつは十分なのじゃよ。 以上(第四偈ここまで)

参照

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