第 二 部
今年7月6日、日本政府は戦時中の朝鮮人 従事慰安婦について実態調査の結果を正式 に公表した。これにより日本政府が全体と して関与していた事実が明らかになった。 昨年1 2月から行われた実態調査は防衛、外 務、厚生、労働、文部、警察の六省庁が所 蔵する公文書から慰安婦に関する資料を集 める形で実施されたが、労働省と警察庁か らは一点も見つからなかったという(「沖縄 タイムス、7月7日朝刊」)。 これまで裏付け資料がなく、強制連行や 従軍慰安婦は民間業者がやっていたことで、 政府の関与はないとしていたことからすれ ば大きな前進であろう。しかしながら、慰 安婦の全体数、名簿、出身地、慰安所配置 の全容、強制連行の事実、さらには慰安婦 への暴行、虐待の具体例など不明な点も多 く残った。「『敗戦時に慰安婦関係書類は処 分した』との旧日本軍関係者証言が物語る ように、強制連行の実態や全体数など全容 を把握できる資料はなく、依然として真相 は不明な点が多い。」と指摘しており、今後 も官民を挙げて調査を実施していくべきで あろう。 さて、新聞記事でも引用されている「敗 戦時に慰安婦関係書類は処分した」の「処 分」はいつどのように実行されたのであろ うか。この項では、その点を考えてみるこ ととする。 敗戦を目前にした、帝国政府、軍部の指 導者たちの懸案は、「自分たちの神である天 皇が普通の犯罪人として被告席に送られる という実態であった」(アーノルド・C・ブ ラックマン著「東京裁判」)ようだ。したが って、天皇を被告席に座らせないためには いかなる能力努力も惜しまず迅速な行動を 取っている。ここで日本の敗戦とG・H・ Q設置までの動きを簡単にまとめてみる と 1945年8月15日 玉音放送(天皇による 戦争終結宣言) 8月16日 連合国、日本の降伏を 受け入れる 8月28日 アメリカ軍の先遣隊が 初めて東京に到着 9月2日 降伏文書調印(軍艦ミ ズーリ号上) 9月8日 マッカーサー連合国最 高司令官、東京に駐留 10月2日 連合国最高司令官総司 令部(G.H.Q)設置 となる。 天皇が玉音放送で降伏を発表してからア メリカ軍の先遣隊が到着するまでの間、す なわち8月1 5日から2 8日までの2週間は戦 後の「空白の時間」となった。この間を利 用して日本は、文書を破棄し、あるいは記 録を捏造することができたことになる。 東京裁判の連合国検察官は、有罪を示す 証拠の破棄について苦々しくその不満を述 べたし、検事補のH.A.ホークスハース トは文書の欠乏について次のように分析し た。「現実に、京都以外の日本の全都市の 8 0%が爆破された結果、多数の記録が破棄 されてしまった。そして降伏が不可避とな ったとき、占領軍の進駐前に、当時まだ残
第1章
「空白の時間:タイム・ラグ」
の存在
っていた多数の重要書類が焼却されたので ある」(前掲「東京裁判」)と。 それでは現実に、日本政府、軍部はどう いった行動をとったのであろうか。「市ケ谷 の陸軍省では、何トンもの記録が焼却され たため、昼夜を問わず、火が真っ赤に燃え ていた。ほかの政府機関の建物や日本帝国 陸海軍の施設、憲兵隊司令部などの秘密警 察部隊でも、同じように火が轟々と燃え盛 っていた。」「焼却された文書のなかには、 すべての御前会議の議事録、最高戦争指導 会議の記録すべて、閣議および枢密院会議 の議事録すべて、捕虜関係ファイルすべて、 フィリピン・東南アジア攻撃に関する指令 や計画すべて、満州や中国での軍事行動に 関するすべて」(前掲「東京裁判」)があっ たとされている。そうしたなかでも幸運に も残った資料が、東京裁判の検察官によっ て証拠として採用されている。鹿児島地区 憲兵隊にあった数冊のファイルもその一つ であった。それによると東京からはこんな 命令が伝達されていた。 「書類処理に関する件通牒」(憲兵隊司令 部本部長発 各憲兵隊司令部宛8月1 4日付 け) 「敵手に渡り害あるもの、例えば外事防 諜思想治安等の関係文書、国力判断可能の 諸書類、並びに秘密歴史(二、二六号)な どは必ず成る可く速やかに焼却することを 要す。又暗号書、憲兵隊職員の兵籍職員表、 未処理の経理及び庶務関係書類等は用済み 迄残置せられ度。特に将来に亘り保存を可 とするもの(例えば左翼要注意人物連名簿 等)は巧妙に他に移しおくを一案とす」(東 京大学社会科学研究所所蔵『極東国際軍事 裁判記録』「検察側証拠書類」第4 1巻、P. D2 5 9 4A号:読み易くするため、筆者が現 代かな使いに改めた。) また、有罪を示す証拠をすべて破棄する ことに失敗した機関もあったようである。 8月2 0日付けの新指令「秘密書類焼却に関 する件通牒」には、「思わざる失態を演じた る事例多きに鑑み、之等に対する調査を綿 密にすると共に、且つ焼却後に於ける庁舎 内外に亘り厳密なる内務検査を実施し、秘 密書類にして焼却を要するものは一片の残 紙もなき様、特にその徹底を期せられ度、 通牒す」(出典前掲)と述べている。たいそ うな念の入れようであるが、その失態とは どんなことであったのだろうか。ブラック マンは、東京裁判『速記録』第1 4 8号から引 用し次のように説明している。「この指令に よると、書類がタンスの奥に張り付いてい たり、机を安定させるために机の脚下に書 類をはさんでいたり、書類が棚の奥に落ち ていたり」というのである。また「政府や 軍の上層部に対しても、家宅捜査して有罪 を示す書簡や日記を捜すようにという指示 があった。」としている。続けて、日本軍の 各地現地司令官への機密電報(出典:『速 記録』第148号、8頁、昭和20年8月20日付、 東京俘虜収容所長発 台湾軍参謀長宛)で は、「俘虜及軍の抑留者を虐待し、或は甚だ しく俘虜より悪感情を懐かれある職員は、 此の際、速やかに他に転属、或は、行衛を 一斉に晦(くらま)す如く処理することを 可とす」「又、敵に任するを不利とする書類 も、秘密書類同様、用済の後は必ず廃棄の こと」と述べている。 こうした事実を知るにつけ、日本政府の
やり方の非人間性を感じると同時に全ての 資料がもし焼却されずに残っていたとした らと、じたんだ踏む人も多いことだろう。 かくも組織的かつ大々的に資料の破棄を図 った責任をこそ問われてしかるべきである。 つぎに、ブラックマンは日本軍による記 録捏造の典型的な例として、ウエーク島の 例を挙げているのでここに紹介する。「ウエ ーク島は、日本海軍守備隊が1 9 4 3年にアメ リカ人捕虜9 6人を殺りくした場所である。 ウエーク島の日本軍司令官は下級将校を集 めた。そして彼らに向かって、捕虜は連合 国の海上爆撃中に死亡したのだと申し立て ろと言った。それから2日間にわたって、 こうした目的のために、くさった捕虜の死 体が掘り起こされ、アメリカ戦艦の砲撃を 受けた広大な海浜に移葬されたのである」 (出典:『速記録』第1 5 0号、8頁)。卑劣な 日本軍の軍隊の有様をそのまま写したかの ような状況が目に浮かぶ、何ともいえない 憎悪が沸き起こってくる内容だ。 ブラックマンは、帝国政府、軍部のこう した横暴を許した背景に、アメリカ政府の 日本占領政策の決定の遅れもあったのでは ないかと指摘している。「アメリカ政府の日 本占領政策を決定する機関は、国務・陸 軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)で あるが、その下に極東小委員会(SFE) があり、そのSFEが最終報告(SWNC C5 7 / 3)を提出したのが、1 9 4 5年9月1 1日、 SWNCCが最終的にこの基本政策を決定 したのは、1 0月2日のことである。そして 同文書が統合参謀本部(JCS)を通じて 『JCS1 5 1 2』指令としてマッカーサーに正 式に通達されたのは、1 0月6日であった」 というのである。 「SWNCC 5 7 / 3」 とは、日本占領政策、東京裁判におけるア メリカの主導権を確保し広範な権限を連合 国最高司令官に付与すること、並びに統一 的検察機関の設置を明確に表現したもので ある。前述の極東小委員会(SFE)での 9月 1 1日以降の審議の成果は「政策」と 「指令」に表現されていた。両者の内容は殆 ど同一であり、主要戦犯裁判のみならず、 各国独自のBC級裁判、及びそのための容 疑者引渡し、容疑者逮捕に関する規程等を 包括的に含んだものであった。(「日本歴史」 1 9 8 9年、第4 9 5号、日本歴史学会編「連合国 の極東主要戦争犯罪裁判に関する基本政策」 日暮吉延著を参照しました。) 「指令」第1 7項はマッカーサーに対し、 「貴官は、天皇の扱いに関して特別の指令を 受けるまで、天皇に対し、戦争犯罪人とし ていかなる措置をも講じないものとする」 と命じている。ここにアメリカ政府の対応 の遅れの原因があるようである。東京裁判 を控え、一番の難題は天皇の扱いであり、 それによっていかようにも裁判の展開が考 えられたであろうというなかでの、アメリ カ政府の態度保留はマッカーサーをしても 困惑させたであろうことが容易に察せられ る。 アメリカ政府は、なぜ天皇の戦争責任を 追求しなかったのであろうか。ここに大き な疑問が存在する。しかし、ブラックマン もその答えを明確には記していない。「マッ カーサーの主たる関心は、A級戦犯容疑者 として逮捕された人々、そして東京裁判が 連合国の日本占領にもたらすであろう効果 に向けられたままなのであった」(「東京裁
判」5 7頁から5 8頁)と述べるにとどめてい る。しかし、それは戦後の日米関係、とり わけ沖縄の2 7年間に及ぶ異民族支配と基地 強化、自衛隊の強化と「PKO」による海 外派兵と続いてきた戦後日本の歴史に如実 に表れている。それは、被害を多く被った 中国、朝鮮、東南アジア諸国の人々の側に たった発想でなく、常にアメリカにとって この事態の中で何が得策であるかを念頭に、 そしてアメリカの世界戦略の一環としての 日本の活用をどう実現するかに意を用いて きたのである。「日本の精神的支柱としての 天皇」はアメリカによって免罪され、生き 延びることになった。 前述の「通牒」に従わず、「東京裁判での バイブルとなり、以後のあらゆる捜査にと っての主要なかぎとなった『木戸日記』の 著者、「木戸公爵はどうして検察側に日記の 存在を打ち明けたのであろうか。木戸が日 記を出した動機は、以来ずっと議論の対象 となってきた。この問題についてのコンセ ンサスは次のとおりである。すなわち木戸 公は、この記録をたんねんに研究すれば、 軍国主義者が日本を支配したということ、 そして軍国主義者たちは天皇から独立して 行動してきたということが証明されるだろ うと確信していた。」(全掲書)というよう に、ここに至って日米の利害・考え方が一 致していたといっていいだろう。否、一致 したからこそ、バイブルとなったと考える 方が自然かもしれない。 本書のテーマとしている「朝鮮人の強制 連行」の資料もその多くがこの時期に焼却 され破壊されてしまった。しかし、私たち は全力を尽くして、この「空白の時間」を 埋め合せ、「強制連行・従軍慰安婦」問題の 実相を把握し正しい歴史認識を創り出す必 要がある。この意味から、「空白の2週間」 は日本人が記憶にとどめておくべき重大な 問題であることを提起しておきたい。
1.「日韓併合」前夜 本項では、辛 基秀著「日韓併合」史、 および「朝鮮侵略と強制連行」(大阪人権歴 資料館発行)の各氏の論文、レポートを中 心に侵略概史をみることとする。 明治維新後、明治政府の最大の課題は、 国内に充満している封建藩士たちの不平不 満の解決であり、アメリカをはじめヨーロ ッパ諸国から強要された不平等条約による 膨大な損失の補填問題であった。国内の政 治危機を切り抜ける最良の方策として朝鮮 侵略が登場してきたのである。それはあた かも、豊臣秀吉が朝鮮侵略を決意した背景 と同じ論理であった。秀吉の時代も国内戦 争の領地略奪と分配の論理が現状凍結に終 ると、肥大した西国大名たちの領土欲と不 満を抑えることができず、はけ口として朝 鮮侵略が必要であった。(秀吉の朝鮮侵略は、 本書第三部を参照。) 徳川幕府は、秀吉の侵略戦争を反省し、 誠実に終戦処理を行い、修復し難い対朝鮮 の外交関係を回復した。1 8 6 7年の幕府によ る大政奉還まで長い間、朝鮮とは大したト ラブルもなく、世界史的にも希な平和が維 持できた。そしてそれを支えたのは、秀吉 の侵略思想と行為を批判する理性が、初期 の江戸幕府を支える知識人に共通してあっ たからである。しかし、明治維新を契機に、 これまでの善隣友好を覆し、朝鮮侵略の口 実をつくるため、日本は王政復古の告知を する使者を朝鮮に派遣した。そして、対馬 藩の使者が携えた書契は釜山で拒絶された。 その最大の理由は、書契に「勅」とか「皇」 の文字があり、江戸時代の親善関係をぶち 壊し、日朝両国の対等互恵の原則を踏みに じる悪意が満ちた文章であったからである。 朝鮮政府にとって「勅」「皇」は中国に対 してのみ用いられてきた字であり、日本の 権力が幕府より天皇家に移ったから明治天 皇を皇帝として上位におき、朝鮮を宗属関 係におきかえる文面に対して、朝鮮政府が 書契の訂正を要求したのは当然であった。 しかし、日本政府は待ちかまえていたよう にこれを侮辱だとして議論を展開、幕末か ら起こっていた「征韓論」のボルテージを 上げることになった。 1 8 6 7年1月2 6日、木戸孝允は「すみやか に天下の方向を一定し、使節をつかわし、 彼の無礼を問い、彼もし服せざるときは、 罪を鳴らし攻撃、そのうえ大いに神州の威 を伸長せん」と政府に建言、朝鮮を侵略の 対象とする方向に確定した。 1 8 7 3年、日本は「徴兵令」を制定。翌 1 8 7 4年には「台湾討伐」を旗印に3 , 6 0 0名を 台湾に派兵。そして、1 8 7 5年5月、ソウル の玄関口の仁川、江華島沖に軍艦を出動さ
第2章 日本の朝鮮侵略
日本は明治になると、帝国主義列強の仲間入りをめざし、朝鮮およ び大陸への侵略を企てた。その目的は、各種資源や民衆の搾取、経済 的収奪にあった。そして、侵略の突破口を切り開き、現地における地 ならし役は常に軍隊であった。せ示威行動を展開。ついに9月には、軍艦 雲揚の飲料水補給を名目に江華島に侵入、 朝鮮の砲台と交戦、砲台の破壊、占領とい う江華島事件を引き起こした。この事件を 口実として、日本は朝鮮に開国を迫り、翌 1876年2月、日朝修好条規を締結させた。 日朝修好条規で日本は領事裁判権、無関 税貿易権、(釜山、元川、仁川の三港開港)、 日本貨幣の流通権といった特権を手に入れ た。日本とアメリカの不平等条約よりもは るかに苛酷な内容であった。 釜山、元川、仁川の港では、治外法権と なり、日本人(新政府への不満分子や失業 者が集まっていた)は「高利貸商法」で法 外な利益を得、朝鮮を犠牲にした植民地利 潤を蓄積していった。関税免除の特権は日 本製品の氾濫を招き、「反日抵抗」が絶える ことはなかった。 なぜ日本人は罪の意識もなくそうしたこ とができたのであろうか。この点に関して 辛基秀氏は、「玄界灘をわたる日本人に、罪 悪感、一片の倫理もなかったのは、明治政 府の朝鮮蔑視と植民地支配を正当化する教 育・宣伝活動のためであった。」と結論づけ ている。 「開国」により朝鮮米が日本に流出し、 朝鮮国内では不足する米の価格が高騰し、 米騒動が起こった。1 8 8 2年7月には、「壬午 軍乱」が勃発する。この乱は、日本人教官 から訓練を受け、日本軍の武器で武装した 朝鮮人80名で編成された小銃部隊(「倭別枝」 とよばれた)が、給与の米が支払われない ことから、旧軍官、軍卒と共に反駁した事 件である。反乱兵士たちは、倉庫や役所、 1 8 8 1年に設置していた日本公使館を襲撃し、 日本人教官などが殺害された。その後、公 使館の護衛などを名目に日本の軍隊が駐屯 することを認めさせた(同年8月、「斉物浦 条約」による)。 1 8 8 9年1月、日本は「徴兵制」を改正し、 「国民皆兵の原則」をとり、本格的な戦争準 備に入った。そして、1 8 9 3年山縣有朋は帝 国議会に於て「国家独立自衛の道に二途あ り、第一に主権線を守ること、第二は利益 線を保護することである」と述べ、日本帝 国は朝鮮を日本の利益線、生命線と規定し た。この生命線を妨害するものは全て「暴 徒」であり、「匪賊」として扱うことを決定 していた。 江華島事件以来の日本の横暴ぶりに、朝 鮮国内でも反日抵抗は各地で続けられてい たが、1 8 9 4年2月、全羅道古阜群で始まっ た朝鮮農民の反日抗争は、各地の農民蜂起 と合流し、大きなうねりとなってきた。そ の農民抗争の理論的支柱を成したのが、東 学の思想であった。東学とは、活力を失っ た李朝の儒教や仏教の代わりに登場した民 衆の新興宗教で、平等、反封建、反侵略を 写真−34 仁川港の貨物船。米騒動の直後、 日本へ送られる米。 (林たいだい氏蔵)
スローガンとして各地の農民の心を魅了し ていたのである。日本はこの新興宗教の武 装蜂起への援軍としての清国軍の上陸を絶 好の大陸侵略へのチャンスとしてソウルと 仁川に精鋭部隊を投入、ここに日清戦争が 始まった。1 8 9 4年8月のことである。日本 の利益線を脅かす朝鮮農民を「暴徒」「匪賊」 とし、それを支援する清国軍をも同様との 判断を下した結果でもあった。日本はこの 戦争に勝利し、「下関条約」によって朝鮮へ の清国の発言を封じ込めると同時に、台湾 を植民地とした。 しかしながら、日清戦争の勝利後も、ロ シア、フランス、ドイツの三国干渉で遼東 半島を返還し、朝鮮における日本軍の不利 な情勢を考え、反日運動を迎えるため国王 高宗の王妃閔妃(ミンピ)の殺害を計画し た。この殺害計画は、閔妃がロシアに近づ き日本を拒否しているとして、閔妃の政敵 の大院(高宗の父)をかつぎ出してのクー デターでもあった。1 8 9 5年1 0月7日夜、日 本軍は王宮に侵入し、3名の婦人を殺害、 閔妃をはずかしめ、松林で焼き払った。こ の事件により、朝鮮人の心のなかに変わる ことのない日本への憎悪を刻み込んだ。そ して「王妃のかたきを討つ」のスローガン で闘う「義兵」運動へと受け継がれていっ た。 また、「満州」と朝鮮をめぐるロシアとの 確執がついに爆発した日露戦争を通じて、 日本は朝鮮を軍事占領下に置き外交権をも 奪って保護国とした(1 9 0 5年、日韓保護条 約)。そして翌年、日本は韓国統監府を設置、 初代統監に伊藤博文を就任させた。朝鮮の 人々が物心ついて最初に覚える日本人の名 前は、豊臣秀吉と伊藤博文であるという。 近代になって初めて異民族支配をうけた朝 鮮人にとって伊藤博文はとくに忘れられな い民族の敵であった。それはあたかも沖縄 の人々にとっての高等弁務官であり老人た ちでも歴代高等弁務官の氏名をそらんじる ことができる人が多いことと似ているとも 言えよう。(ちなみにモーア、ブース、キャ ラウエイ、ワトソン、アンガー、ランパー トと六代の高等弁務官が君臨した。) 1 9 0 9年(明治4 2年)1 0月2 6日、午前9時 半、ハルピン駅で伊藤博文は朝鮮人青年安 写真−35 閔妃(李朝26代目国王、高宗の妃) 殺害現場に建つ碑 写真−36 石碑の横にある二枚の絵。一枚 は日本刀を持った侵入者に襲わ れ血まみれになった閔妃の図。 もう一枚は殺害者がその閔妃の 遺体を焼いている図。
重根(アン・ジョングン)によって殺害さ れた。 この伊藤博文殺害事件を読谷高等学校使 用の日本史教科書では、「さらに1 9 0 9年(明 治4 2年)に伊藤博文がハルピン駅頭で韓国 青年に暗殺されると、翌年、韓国併合を行 って植民地として、朝鮮総督府をおいた」 改訂版「新詳説・日本史」山川出版社、2 7 5 頁)とだけ記述されているにすぎない。 安重根は民族独立運動家で義兵軍中将で あった。安重根はピストルで民族の敵、伊 藤博文を撃ち殺すと「コレアウラー」(大韓 国万歳)と三唱して逮捕されロシアの貨車 で連行された。 義兵軍中将としての安重根には、捕虜と なった日本軍とのエピソードがある。豆満 江の国境の戦いで捕虜となった日本の兵士 との対話の結果、彼らを全員釈放している。 対話は次のようなものであった。「君たちは みな日本国の臣民なのに、なぜ天皇の聖旨 を守ろうとしないのた。ロシアと開戦した とき、聖戦の勅語には、東洋の平和を維持 し、大韓国の独立を強固にするとあったで はないか。それが、今日では侵略をほしい ままにしており、平和、独立といえるか、 逆賊強盗である」との安重根の問に、日本 の農民出身の兵士たちは、「こんな目にあっ たのはみな伊藤博文の誤った政策であり、 権力をもてあそび日韓両国の貴重な生霊を 殺害した。私たちも憤慨している。どうす ることもできず辺境までやってきた。民が 疲れていたのでは、東洋の平和どころか日 本の安寧すら望めない」と答えた。安重根 は「君たちは忠義の士といってよい」と釈 放した。日本兵捕虜が、鉄砲をもってかえ らなくては軍律にふれると請うので、武器 をもたせて返したというものである。 裁判における安重根の陳述は、「凡そ世の 中では小さき虫類でも一身の生命財産の安 固を祈らぬものはありません。況んや人間 たる者は、それらの為には十分に尽くさね ばならぬことと思います。然るに公爵が統 写真−37 ハルピン駅に到着した伊藤博文。 (安重根義士記念館発刊写真集よ り) 写真−38 安重根(安重根義士記念館刊写 真集より)
監としてのやり方は、口では平和というけ れども、実際はそれに反しております。… 公爵は統監として韓国に来て以来、韓国の 人民を殺し、先帝を廃止せしめ、現皇帝に 対して自分の部下の如くに圧制し人民を蠅 でも殺すが如くに殺してしまいました。」 (第3回公判)「日韓条約は伊藤博文の武力 によって強制されたものだから万国公法の 中では無効であり、民族、国家の存亡の危 機に拱手傍観するものは国民たるものの努 むべき道ではない。日本兵と戦い殺された 韓国民は1 0万人をこえています。いずれも 伊藤のために虐殺され、ひどいのは頭から 縄を通して社会のみせしめにするからとい って、残虐非道のことをされました。その ため義兵の将校も少なからず戦死しました。 伊藤のような政策で1人殺せば1 0人、1 0人 殺せば1 0 0人の義兵が起こるという有様です から、施政方針を改めねば韓国の保護はで きぬと同時に、日韓間の戦争はとこしえに 絶えぬと思います」(最終陳述:出典、中野 泰雄著「安重根 日韓関係の原像」)。安重 根は、1 9 1 0年3月2 6日、午前1 0時、旅順郊 外で死刑を執行された。彼の「捨身就義」 (身を捨てて義に就く)の思想は、朝鮮・中 国・日本その他の地の民族独立運動家たち に引き継がれた。 2.「日韓併合」 1 9 0 9年7月6日、日本は「韓国併合」の 閣議決定を行い、天皇はそれを承認した。 閣議決定の原案を作成した外務省政務局長 の倉知鉄吉は朝鮮植民地化の文章作成に苦 労したことを書き残している。植民地化を 正当化する「思想まだ十分明確ならず、或 は日韓両国対等に合一するが如き思想」等 があるために、「韓国が全然廃絶に帰して帝 国上の一部となるの意を明らかにすると同 時に、其語調の余りに過激ならざる文字を 選ばんと慾し種々苦慮したるも遂に適当の 文字を発見すること能はず、因て当時まだ 一般的に用いられ居らざる文字を選ぶ方策 得策と認め、併合なる文字をもちいること となれり」と記してる。 「併合」とは、「朝鮮に憲法を施行せず天 皇の大権により統治する。朝鮮総督は天皇 に直属し、一切の政務を統轄する権限を有 し法律に関する命令を発し、命令は別に法 令等の適当な名称をつけること、朝鮮統治 はなるべく簡単を旨とする」(倉知鉄吉覚書 から)という意味であった。すなわち、天 皇直属で現役武官で構成した朝鮮総督府は、 朝鮮の内政、外交、軍事に至るまでの全権 を掌握し、独立を求める民衆の蜂起を抑え るため各地に憲兵隊を配置して「武断政治」 を敷くことであった。また、日本の資本を 育成する一方、朝鮮全土にわかる土地調査 事業を実施し、国有地を強引に拡大し、日 本移民に安値で払い下げたり、地主制を擁 護することで朝鮮農民を苦境のどん底に陥 れた。 (1)土地調査事業と人民の生活 1 9 1 0年3月からスタートした土地調査事 業は、「土地所有権の確立と土税賦課の整 理」というもっともらしい目的の下に、朝 鮮全土の土地測量、土地台帳の整備が始ま った。 近代的な土地所有権は申告主義でなされ、 申告書の配布と記入は日本人の官憲によっ て進められた。しかし、土地の近代的な所
有権のない朝鮮では、申告が何を意味する のか知らず、また字を知らない多くの農民 にとっては戸惑うばかりであった。したが って、申告できないまま放置された彼らの 共有地や公有地は朝鮮総督府のものとなっ た。 土地調査事業が完了した1 9 1 8年には、全 耕地面積の半分以上が、わずか3 . 3%の地主 の所有となり、地主の土地を借りて小作す る農民が全農民の8 0%で、高い比率の小作 料を払う結果となった。また、林野調査事 業も併行して進められた。期限内に届出の ないものは全て国有とされ、山の共同利用 も不可能となった。これではまさに公然た る土地の略奪にほかならなかった。こうし たなか、土地を奪われた多くの農民たちは 徒歩で大都市をめざしてきたが、住むに家 なく、地面に藁を敷き、藁で囲った家を住 居とした。 日本の農業政策の目的は、朝鮮を日本の 食糧補給基地とすることであり、地主制の 強化で自作農、小作農を没落させ、離農民 となった人々を安い労働力として日本国内 への出稼ぎ、あるいは引き続いた侵略戦争 へと利用することであった。 日本の資本の進出もめざましく、とくに イギリスの東インド会社を手本にした国策 会社東洋拓殖株式会社は、朝鮮の国有地 1 1 , 0 0 0町歩を現物出資させたため大土地所 有者となった。また、鐘紡などの日本の紡 績資本の朝鮮進出も早く、農村で土地を奪 われ、生活苦の若い娘たちを、甘い言葉で 工場に引き入れ、高い煉瓦の塀の中で外へ は出られない「篭の鳥」の生活が強制され たところもあったという。 (2)「三・一独立運動」 「併合」後の日本の植民地支配に対する 反日運動は朝鮮にとどまらず、日本国内で も 在 日 朝 鮮 人 を 中 心 に 展 開 さ れ て い た 。 1 9 1 9年2月8日、神田キリスト教青年会館 で東京在住の朝鮮人留学生の総会が開催さ れた。途中「独立宣言大会」に切り替えら れ、朝鮮独立青年団の名で宣言書と決議書 が採択された。大会参加者6 0 0名がデモに移 ろうとして日本の警官8 0名と衝突した。翌 2月9日の東京日日新聞は「鮮人6 0 0名集合 す/某重大問題の為に刑事8 0名と衝突/2 9 名西神田署に拉致される」との見出しで大 きく報道した。この日本国内の反日独立運 動が本国朝鮮に大きな影響を与えたのであ る。 写真−39 独立宣言文の朗読と集まった民族 写真−40 民衆の行進と日本軍警の出動。
朝鮮では、前王国の高宗が突然死亡し、 国王への哀悼の念が3月1日の独立運動と して噴き上がった。高宗の葬儀の日、3月 3日を前に、ソウルのパコダ公園で独立宣 言発表の手はずが整えられた。朝鮮に残さ れた宗教団体の天道教やキリスト教、仏教 の指導者らと連絡をとり、日本から帰った 留学生たちと共同の行動をとる準備が進め られた。3月1日、午後2時、ソウルの鐘 路街のパコダ公園集合のビラが市民や学生 の間にゆき渡った。 パコダ公園に集まった群衆は、「大衆独 立万歳」を叫び、街頭の示威行進に移った。 宣言文にうたわれているように、「朝鮮国 は独立国であり、朝鮮人は自由人」である ことを口々に叫びデモを続けた。デモは暴 動ではなく示威運動であった。イギリスの 新聞記者マッケンジーは記している。「暴 力沙汰はなかった。全国各地に散在してい る日本人は傷一つうけることなく、日本人 の商店も無事であった。警察が襲ってきて も、長老たちは民衆にだまって従うように、 反抗しないようにと指示した。弱者の平然 たる姿に、強者は困惑した」にも拘らず、 日本の警察が傍若無人にサーベルを振り廻 し、無防備の一人きりの朝鮮人の「両耳を 切り、つけ根を彼の頬のあたりで切り刻み、 指を裂いていた。」と当時の様子を外国に 伝えて。その後、この行動に参加した人々 は虐殺され、あるいは逮捕されて監獄に送 られた。 独立運動により強制休校となった学校の 寄宿舎を抜けて郷里の芝雲里へパコダの独 立運動を興奮をもって伝え、蜂起を訴えた 少女がいた。彼女の名前は柳寛順(ユ・グ アンスン)、朝鮮では「朝鮮のジャンヌ・ダ ルク」と称されている。この少女の訴えに 応えて、村の長老、儒者たちから密書が送 られ、婦女子も参加する陰暦の3月1日の 市の日(人々が多く集まる市の立つ日)に 決行がきまった。数千人の群衆の前で1 6歳 の少女は独立宣言書を読み上げた。並川市 場は感激のるつぼと化した。民衆の恨みが 独立万歳の声となった。群衆がおしかけた 憲兵隊分遺隊前では、無差別銃撃を浴び、 民族の慶びは一転、地獄の修羅場となった。 平和なデモへの発砲に「殺人憲兵を叩き殺 せ」と群衆の怒りは頂点に達し、分遺隊を 襲撃した。応援にかけつけた天安憲兵隊に より徒手空拳のデモ隊は多くの死者と逮捕 者を出した。 写真−41 パコダ公園を囲むレリーフ群。 運動の経過、各地域ごとの様子 が描かれている。 写真−42 ソウル、パコダ公園を囲む 「三・一独立運動」のレリーフ (大阪人権歴史資料館提供)
天安憲兵隊の留置場における柳寛順は、 あらゆる拷問に耐え、朝夕独立万歳を叫び、 ソウル西大門刑務所に送られ、1 9 2 0年1 0月、 1 7歳の短い人生を閉じた。(出典:姜徳相著 「朝鮮独立運動の群像」) 1 9 2 5年3月7日、日本の議会で治安維持 法が可決、施行され、朝鮮や台湾の植民地 にも勅令で施行された。1 9 2 7年には戦時体 制突入を宣言するかのように「兵役法」を 施行。日本国籍をもつ全ての男子がその対 象となった。1 9 2 8年には、治安維持法の第 一条の「国体(若しくは政体)を変革し又 は私有財産制を否認する…」という「国体 変革」の条項に死刑が導入された。これに より、朝鮮における一切の独立運動を「国 体変革」の条項に拡大解釈して適用し、多 くの独立運動の志士が死刑となった。 日本は「兵役法」施行後、第一次山東出 兵、第二次山東出兵、万宝山事件を経てい よいよ「満州事変」へと突入していった。 写真−43 奨忠壇公園に建つ柳寛順像
日本では1 8 9 9年7月2 7日の勅令3 5 2号で、 朝鮮人及び中国人労働者の移住を原則的に 許可しない方針を決定していた。しかし、 1 9 1 0年8月2 2日の「日韓併合」により「帝 国臣民」となった朝鮮人には先の勅令が適 用されなくなり、低廉な労働力として第一 次大戦期の軍需景気などで日本の産業資本 の要求に応じる形で渡航することになった。 そして、1 9 3 7年の本格的な日中戦争に入る と労働力不足を補うため渡航阻止制度を廃 止し、1 9 3 9年からは毎年2 0万人に及ぶ朝鮮 人が強制連行された。 本項では、「朝鮮侵略と強制連行」(大阪 人権歴史資料館編著)に収録された梁 泰 昊、姜 在彦、樋口雄一、金 英達の各氏 の論文、レポートを中心にその実態に触れ てみたい。 1、戦時体制と強制連行 1 9 3 7年7月の廬構橋事件により本格的な 日中戦争に突入した日本は、翌 3 8年には 「国家総動員法」を制定。併せて、朝鮮人に 対し陸軍特別志願兵制度を実施、ついに植 民地朝鮮の人々が他の国のために戦争に駆 り出されるという事態にまで発展した。 非人間的なこうした行動を帝国政府はどう して作り上げたのであろうか。その歴史か らまず始めよう。 1 9 3 9年、日本政府は閣議で「朝鮮人の労 力移入を図り、適切なる方針の下にその労 力を必要とする事業に従事せしむ」とする 労務動員計画を決定した。そして内務、厚 生両省次官通牒「朝鮮労務者内地移住に関 する件」により朝鮮では具体的に朝鮮人の 強制連行が始まった。 「強制連行」とは、 1939年∼41年の「募集」方式、 1942年∼43年の「斡旋」方式、 1 9 4 4年∼4 5年の「徴用」方式を包括する ものである。 どうして、「募集」方式が強制連行といえる のか。朝鮮総督府は日本本土の各事業所か らの申請を受けて各道(日本の県に相当) の募集人員を割り当て、募集許可書をうけ た各事業所はその割り当て地域に募集員を 派遣するが、自発的な応募があるはずがな く、各行政機関の労務係員および警察官を 動員し、強制的に労務者の確保を図ったの であった。したがって、「募集」方式はあく
第3章 朝鮮人強行連行
写真−44 朝鮮人労務者の募集のため忠清 北道にやってきた日本企業の労 務係。募集とはいっても、実質 的には強制連行であった。(林 えいだい氏蔵)まで各目上の「募集」にすぎなかったこと が明らかであるからである。 また、1 9 4 2年2月、「半島人労務者活用に 関する方策」を閣議決定し、「募集」方式で は予定の労務者を確保することが困難なた め、方策の変更を余儀なくされた。この閣 議決定に基づいた「鮮人内地移入斡旋要綱」 により、従来の事業所による直接募集から、 総監府官権の直接介入による「官斡旋」方 式を採用した。さらに、1 9 4 3年には、「労務 動員計画」は「国民動員実施計画」と名称 を変更し、「移入朝鮮人は工場、鉱山、国防 土木建築、沖仲士等の要員に充当する…」 との方針決定がなされ、併せて同年8月に は朝鮮人にも徴兵制が実施された。そして、 1 9 4 4年からの「徴用」方式へと発展、より 強力な強制連行が実施されたのである。 中国大陸、東南アジア、太平洋への戦線 の拡張は、兵力はもちろん国内の軍需生産、 食糧生産等のための労働力の不足を生じせ しめ、朝鮮人が他国の戦争遂行のためへと 徴用された。 日本の総兵力の変遷を見てみると 1931年 278,000人 1938年 1,300,000人 1941年 2,410,000人 1943年 3,600,000人 1944年 5,400,000人 1945年 7,160,000人を越えていた。 (8月まで) 表−1にみるように、戦争が拡大、激化 し、強制連行が始まった。1 9 3 9年頃からの 在日朝鮮人の人口増加は、毎年実に平均2 0 万人を越えており、民族の大移動ともいえ 写真−4 5 乗船を前に釜山水上警察署前で 人員点呼を受ける朝鮮人労務者。 (1 9 4 0年)彼らは一般乗客が乗 船する前にタラップを上がり船 底の貨物室に押し込まれた。 1909 …… 1915 1916 1917 1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 1945 名 790 3,989 5,638 14,501 22,262 28,292 30,175 35,876 59,865 80,617 120,278 133,710 148,503 175,911 243,328 276,031 298,091 318,212 390,543 466,217 537,576 625,678 690,501 735,689 799,865 961,591 1,190,444 1,469,230 1,625,054 1,882,456 1,936,843 2,100,000 (5月推定) 名 ー 1,649 8,863 7,761 6,010 1,903 5,693 23,989 20,752 39,621 13,472 14,793 27,408 67,417 32,703 22,060 20,121 72,331 75,674 71,359 88,102 64,823 45,188 64,176 161,726 228,853 278,786 155,824 572,402 54,387 名 126,168 336,872 442,326 501,867 561,384 650,104 752,823 年 度 在日朝鮮人 増加人口 (前年比) 在朝日本人 資料ー・1 9 0 9年統計ー「日本帝国年鑑」 ・1 9 1 5年∼1 9 4 4年統計ー内務省警保局統計 ・在朝日本人一総督府「朝鮮事情」昭和十七年 版(軍隊除外) 表1 在日朝鮮人人口動態
る急増ぶりを示している。 強制連行者の生活は悲惨なものであった。 太平洋戦争が勃発した直後の1 9 4 2年1月2 0 日に、陸軍省兵備課が作成した極秘文書 「大東亜戦争に伴う我が人的国力の検討」に よれば、「労力不足上最も苦痛とする所は (基礎産業の)の重筋力の不足」として、そ の対策として次のように述べている。「重筋 力の補充は既に基の資源は無きを以て、外 地民族、就中(なかんずく)朝鮮人を此の 目的のため活用することは現下喫緊の方策 たり」とあるように、多くの朝鮮人強制連 行者は重労働を強いられ、危険な現場での 労働と劣悪な食事、生活環境の中で例えよ うのない苦しみを味わった。 写真−4 6 貝島炭鉱で坑内作業の訓練(林えいだい氏蔵)
写真−47 石炭増産の大出し日には祝い酒が出された。看板には朝鮮語(韓国語)の文字が見える。 (北海道・夕張炭鉱)「大出し日」とは、休日前の特別残業のこと。24時間労働を強いられ、
実質的に「休日」はなくなってしまった。(林えいだい氏蔵)
写真−49 北海道・美唄炭鉱のじけい寮の朝鮮人坑夫たち(1941年)(林えいだい氏蔵)
写真−51 米英撃滅といってチャーチルとルーズベルトの人形を木刀で叩いた(三井田川鉱業所松原社 宅)(林えいだい氏蔵)
写真−52 筑豊の麻生系炭鉱の労働争議鎮圧に出動した警察隊。世界恐慌のあおりで筑豊も不況になり、 朝鮮人のクビ切りが大量に行われた。麻生系の炭鉱では不満が爆発し、本格的なストライキ に突入した。(林えいだい氏蔵)
写真−53 福岡県鞍手郡宮田町の炭鉱で死亡した労務者の「死体検案書」(林えいだい氏蔵)
写真−54 ガス爆発や落盤、出水、炭車の暴走などの事故は多発した。そうした事故による死亡者の一 人崔鳳出さんの骨壺の中にあった弔辞(林えいだい氏蔵)
写真−55 玉泉山仏厳寺の過去張。名前のところに「某鮮人」と記されている。(林えいだい氏蔵)
写真−56 石炭箱に積められた朝鮮人坑夫の遺 骨(林えいだい氏蔵)
写真−57 三菱上山田炭鉱が閉山し、多くの遺骨は西照寺の万霊塔に移された。その万霊塔の内部。 朝鮮人名が多い。(林えいだい氏蔵)
写真−58 花岡鉱山の募集アルバムから 秋田県花岡町の同和花岡鉱業所がつくった朝鮮人募集用の アルバムに使われた写真の1枚。「食事もいっぱい食べられるよ」と宣伝したかったようだ。 (林えいだい氏蔵)
写真−59 花岡鉱山の募集アルバムから 楽しい運動会風景であるが、実際には重労働の連続で食事も悪く、体力は消耗し運動会ど ころではなかった。服も作業するときも寝るときも着たきりで、たまに脱いでみると裏に はノミ・シラミ、南京虫などがびっしりと真っ黒くなっていたという。(林えいだい氏蔵) 写真−60 花岡鉱山の募集アルバムから 第1橘寮内の写真。衛生面も良く、宿泊所には布団もあるという情景であるが、布団の中身 は綿ではなく代用品のおが屑が入っていて、すぐ一方に固まってしまったという。 (林えいだい氏蔵)
写真−61 朝鮮人の名前の記載された過去帳 (正教寺蔵) 写真−62 「移入半島人関係綴」 (北海道開拓記念館蔵) 写真−63 「第二分団イロハ名簿」 (北海道開拓記念館蔵) 写真−64 「慶尚南道労務者写真名簿」 (北海道開拓記念館蔵)
写真−65 日本語と朝鮮語(韓国語)が併記された期間満了の朝鮮人に対する再雇用契約証(北海道 開拓記念館蔵)
写真−66 14歳の時富山市の機械器メーカーで「女子勤労挺身隊」としてソウルから連行され、働か された少女。写真は富山市で配布された従業員手帳。「昭和1 9年7月6日」の発行が記さ れている。(写真提供:大阪人権歴史資料館)
写真−67 1945年10月13日∼19日、博多港の埠頭で自炊しながら帰国船待ちをする8歳∼16歳の全 羅北道女子勤労挺身隊員たち。(林えいだい氏蔵)
写真−68 日本の敗戦により朝鮮及び朝鮮人は解放された。帰国を待つ朝鮮人が全国各地からどっと博 多港岸壁に押し掛けた。(林えいだい氏蔵)
2.「協和会」と戦争遂行 日本の朝鮮への植民地支配の大きな特徴 は物や人を奪うだけでなく、朝鮮人の最も 大切な朝鮮人の心までも奪おうとしたこと にあった。その心を奪う政策を「内鮮融和」、 「内鮮一体」という言葉で表現し、その最終 目標として示されたのが朝鮮人を日本人に するという皇民化政策であった。この方針 は日本国内にいた朝鮮人にも適用され、在 住したすべての人を統制し、皇民化するた めに作られた組織が「協和会」である。 韓国民主党最高委員の李 愚貞(イ・ウ ジュン)氏は、女学生だった当時を次のよ うに語っている。植民地教育においては、 「日本語を使い、日本語を国語といい、日本 の歴史を国史といった。そして、学校の先 生は日本人は優秀で朝鮮人は劣っていると 露骨に教えた。日本語を流暢にあやつり日 本式に生きることがすぐれた者だと教え た。」「女学生は週に一回軍隊に行って洗濯 をし、衣類のつくろいをする勤労隊に動員 されたりした。また、週に一度ずつきまっ た日には、ソウルの南山に建てられた朝鮮 神社にクラス別に参拝しなければならなか った。日本の生きた天皇を神として信じよ といい、参拝を強要した。」 「1 9 3 7年7月7日、中日戦争が勃発し時 局が緊迫すると『愛国日』(毎月1日)には 各学校に神社参拝を強要した。これに従わ ない学校は廃校になった。(光州で2枚、木 浦で2校、全州で2校、順天で1校、キリ スト教系学校1 0校のすべて)」(「世界」臨時 増刊、1 9 9 2.4月号)と述べている。さら に、氏は続けて「日本の植民地時代に朝鮮 人がこうした物質的搾取より一層耐えがた 写真−69 朝鮮総督府が朝鮮全道に配布した 帝国臣民化教育のためのパンフレ ットの表紙(1937年頃) (林えいだい氏蔵) 写真−70 朝鮮全羅南道・長城神社の建立祝典 (1941年4月) (林えいだい氏蔵)
かったのは、『朝鮮人抹殺政策』だった。朝 鮮人の言葉、歴史、文化などのすべてを抹 殺し、ついには先祖代々受け継いできた姓 までも日本式に変えろといった。(創始改名、 筆者注)こうしてエセ日本人を作り太平洋 戦争の戦場へと駆り立てた。徴兵、徴用、 強制連行で朝鮮の若い青年を戦場へ、鉱山 へ、軍需工場へ引きづり出し、重労働をさ せた」(前掲書)。 協和会は、警察管内毎に組織され、担当 は警察の特別高等課内鮮係であった。協和 会への加入は、強制連行労働者を含め在日 朝鮮人すべてが加入しなければならず、戸 主は正会員で、家族は準会員として組織さ れ、会員証の所持が義務づけられた。さら に、朝鮮人女性も和服を着ることが義務づ けられ、チマ・チョゴリ(朝鮮人女性の民 族服)は禁止された。組織構成は、警察署 長が支部長、特高課長が幹事長、幹事は特 高課の内鮮係職員という布陣であった。 協和会が果たした役割は、皇民化にとど まらず当然の帰結として戦争体制に朝鮮人 を動員することにあった。兵士として戦場 へ朝鮮人を送り出し、炭坑などへの徴用を 計画的に実施したのも協和会であった。 前出の李 愚貞氏は、「韓国人の心の中に は、いまだに日本に対する不信と憎悪が根 深く刻み込まれている。それは韓国政府が 意図的に反日教育をしたからではなく、今 も生々しく記憶される痛みゆえだ」(前掲書) と述べているが、まさにその「痛み」を私 たちはどう受け止め、自らの「痛み」にす ることができるのであろうか。強制連行者 の多くが、他界していく今日、日本人に残 された時間はあまりない。 写真−71 北海道・夕張炭鉱での防災訓練 (協和訓練隊が参加) (林えいだい氏蔵) 写真−72 鉱業報告会の決起大会 (林えいだい氏蔵)
日本軍では、1 9 3 1年(昭和6)の「満州 事変」のときから、その部隊周辺に、積極 的に女郎屋を誘致した。駐屯部隊の周りに は、料亭(将校用)と遊廓(兵士用)が建 ち並び、無人地帯に突然街が形成された。 そこの遊女として、日本人売春業者たちは 朝鮮各地から「女工募集」の名目で朝鮮人 女性を釣っては投げ込んだ。その後の日中 戦争(1 9 3 7年)、太平洋戦争(1 9 4 1年)へと 侵略戦争が拡大し、日本の歴史上いまだか ってなかった数百万の兵士が国外の戦場に 押しかけた。中国大陸をはじめ、タイ、ビ ルマ、フィリピン、そして太平洋の島々、 この日本軍隊の進んだいたる所の戦場、駐 屯地、前線基地の陣地までも「慰安婦」が 配置されたのである。 本 項 で は 、 金 一 勉 編 著 「 軍 隊 慰 安 婦」=戦争と人間の記録=(徳間書店)を 中心に「慰安婦」の実態に迫ってみたい。 そうすることによって、日本の植民地支配 の本質の一面が明らかになってくるだろう。 1.「女子愛国奉仕隊」 日本軍の「満州」出兵の際、現地では日 本軍の現住民婦人への強姦行為が激しく、 そのこととあいまって、軍隊内の性病蔓延 はすさまじいものとなり、兵力は消耗して いった。その対策として関東軍は部隊の周 辺に日本人経営の遊廓を許可した。日本人 売春業者たちは遊女確保のため、地理的に 「満州」に近い朝鮮各地に目をつけ、当初は 「女工募集」の名目で、だまして釣っては遊 廓に投げ込んだ。後述するように、戦線拡 張により多くの「慰安婦」を必要としてく ると、朝鮮総督府と業者が結託し、「女子愛 国奉仕隊」という名目で白昼堂々と娘狩り を行った。 娘狩りの片棒を担がされた朝鮮人巡査は、 「われわれ半島人に、より一層国家のために お役に立つ方法が発見された。どうか喜ん で協力してもらいたい。このたび1 6歳以上 の女子に対して、特別に国家に奉仕する道 が開けた。『女子愛国奉仕隊』だ。戦線将兵 のために働くのである。兵士と変わらぬ忠 義のやまとなでしこになることができるの だ。」「この名誉な女子愛国奉仕隊は志願と いうたてまえになっている。志願者が殺到 するので選考によることになるだろう。そ のことを心配してあらかじめワクをもらっ ておいた。第一次を次の者にする。異議が なければ参加してもらいたい」と、村々か ら多くの娘たちが慰安婦にされるとは知ら ず、人々に見送られて行った。そして、約 束の場所で日本人売春業者に渡された娘た ちは、ソウルの日本陸軍参謀らに処女を奪 われたあげく三日三晩なぶりものにされ、 その後満州や中国大陸に送られた。 2.「慰安婦」たちの生活のようす 慰安婦たちは命のつきるまで軍隊のオリ の中で飼い殺しにされた。一日に数百人の 男を相手にさせられることもあるので、体 はたちまち異常体質になる。陰部の膨張、 便秘、乳房の痛み、胸部疾患、性病、マラ リヤ等。軍医部は「慰安婦」は軍の管轄外 として無視し、病気にかかったが最後、彼 女たちは死を待つより他はなかった。 また、彼女たちには、休日というのがな
第4章 軍隊慰安婦
かった。慰安所の女たちは、連日連夜、将 兵たちに生身をさらした。軍隊では原則と して、週に一度「休日」があった。一般兵 士は、この休日を利用してどっと慰安所に 押しかけるのだった。2 , 0 0 0∼3 , 0 0 0名の部隊 にわずか5、6名の慰安婦を割り当てるた め、各中隊ごとに「休日」をも割り振って いた。たとえば、A中隊の休日は月曜日、 B中隊は火曜日に、C中隊は水曜日という 具合である。だから、慰安所の女たちは毎 日が地獄であった。 「大きな作戦のある前には兵隊たちがど っと押し寄せるので、半日に6 0人も7 0人も 相手にするとき、こちらは足をひろげて寝 ころがったままです。そこへ、ずらりと並 ぶ兵隊は戦闘服のまま、ボタンを外して、 火花を散らす」だけであったという。さら にこんな証言もある。「その時のわたしは1 9 歳で、まだ男を知らなかった、どんなこと をしたらいいのか分からなかったね。それ が初日から、いきなり2 0人近い相手をさせ られた、5人目あたりで死ぬかも知れない と思った。あそこが赤く桃ほどの大きさに 膨れ上がってね、……泣きながら、タオル で一晩中冷やし続けたけど、あんまり泣い たので目も赤く腫れてね、……槍で突きま くられたような気持ちだった、今も忘れな いね。兵隊たちは、膨れ上がってうめくの を、喜びの声だと思っていたね。」(千田夏 光氏の採談)。夕方5時頃、潮が引くように 兵士の群れが立ち去ると、すぐ入れ違いに、 ヒゲの生えた伍長やら軍曹といった下士官 連中が入ってくる。女たちは一日中兵隊の 行列に襲われて、身動きできないで横たわ っているのに、室外ではヤリ手婆バァは、 ほくほくした顔で、下士官らを迎え入れる。 「さあ、どうぞ、うんと可愛がってくれなは れ」と、愛想を振りまくありさまであった。 下士官は8時頃まで遊ぶことができる。そ して、下士官が終ると、いよいよ将校の番 になる。大体夜の8時頃からであるが、将 校を迎える慰安婦たちは一度風呂に入って、 一日中穢された体を洗い落とし、一人ずつ 迎えるたびに顔化粧をするとか。ある慰安 所の女たちは将校を迎え入れるたびに、膝 まずいて、手をついて迎えたという。 軍隊の中で、彼女らの世話を見たのは、 糧秣、物品調達などの任務にいた兵隊であ った。もともと日本軍隊には「女性」の所 属する規程がないので、「物品」扱いなので あった。 3.日本帝国の「朝鮮民族対策」 日本帝国は中国大陸での先端を開くに当 たって、植民地支配しているとはいえ、背 後に存在する「朝鮮」には神経をとがらせ ていた。それは反日、民族独立運動への徹 底した弾圧となってあらわれた。しかし、 それだけにとどまらず朝鮮総督府は民族抹 殺を図ろうと「三光政策」をとった。すな わち「すべての資源と産物を奪い上げるこ と」「すべての人間を奪いさること」「すべ ての民族主義者を拘禁し圧殺すること」で ある。 そして「朝鮮民族対策」として ・対中戦争を遂行するために、また朝鮮 民族が「圏外勢力と通牒して内部より 反抗を起こすが如く危険を未然に防ぐ」 ためにも、朝鮮人を戦力増強の手段と して犠牲に供すること。
・この「聖戦」遂行の暁には、日本民族 のみ享有する特権を付与するとの希望 をもたせて「日本臣民の一員たること を謳歌せしめ、忠誠心を旺んならしむ る」ことであった。 前者と後者は、相反する二重構造である のはいうまでもないが、それは表と裏のカ ラクリであった。そして次の方針を決定し た。 (1) 朝鮮の青壮年を兵士に仕立てて戦場で使 役する (2) 朝鮮の青壮年を日本内地に連行し、炭鉱 労働および軍需工場その他に分散して使 役する (3) 朝鮮の未婚女性を軍隊の「特殊要務」 にあてる ここにいう「軍隊の特殊要務」が、すなわ ち「軍隊慰安婦」であり、その実態は、数 百万の日本軍の性欲をさばく「軍隊専用女 郎」であった。世界の軍隊史上前代未聞の 「軍隊慰安婦」は、日本軍首脳と朝鮮総督府 と日本の売春業者のボスの間で秘密協定を 結んだうえ、日本帝国の「朝鮮制圧」の国 策として敢行された国家的大詐欺行為であ った。 大小さまざまな売春業者は軍に協力する 国策企業を名乗りながら、朝鮮の警察まわ りをして、白昼堂々と朝鮮娘を手にいれ戦 地へ連れ出すに至った。ときの総督府の 「三光政策」とも合致していたわけである。 そして、戦地の軍首脳部は、「軍隊での慰安 婦は将兵の士気を鼓舞せしめ、聖戦完遂上、 欠くべからざる兵器である」という言い分 を掲げていた。 これを「慰安婦部隊」とも称して各軍に 配置した。だが、そんなこととはつゆ知ら ず、朝鮮各地ではだまして集めた娘たちを 送り出すのに「のぼり」や「日の丸」を振 って、村中総出で歓送したこともあった。 その朝鮮の娘たちは、一度出かけたが最後、 帰ることも親元へ救いの手紙を出すことも できなかった。そして、日本軍の敗北・撤 退の際には、これらの慰安婦を現地に置き 去りにし、あるいは、ひとまとめにして殺 してしまったものも少なくなかった。 4.「秘密協定」 南京大虐殺直後、上海の日本軍司令部は、 直営の慰安所(娯楽所)開設に乗り出した。 これまで売春業者が営んでいた女郎屋を軍 隊において設営するというものだった。日 本軍の中国人に対する大量殺りくと強姦地 獄となった現実に、さすがに驚いたもので あろうか。ともかく応急処置に直属の慰安 所(娯楽所)の設営を考えたのは確かであ る。軍隊周辺に群がった売春宿が多数あっ たにしても、間に合わなかったかもしれな いし、また不十分であったであろう。日本 軍隊では「満州事変」以来民間人の遊廓を 専用のように利用していたし、またその駐 屯地や守備隊ではれっきとした「慰安所」 を内緒で囲っていた。それでは間に合わな いとみてか、いまや公然と「慰安所」づく りに乗り出した。 その上海派遣軍の軍直轄「慰安所」の規 程は、 一、本慰安所には陸軍軍人軍族(軍夫を 除く)の外入場を許さず、入場者は 慰安所外出証を所持すること 一、入場者は必ず受付において料金を支
払い之と引き替えに入場券及び「サ ック」1個を受け取ること 一、入場券を買い求めたる者は指定せら れたる番号の室に入ること、但し時 間は30分とす 一、入室と同時に入場券を酌婦(この時 はまだこの表現を用いた)に渡すこ と 一、規程を守らざる者及び軍記風紀を紊 (みだ)す者は退場せしむ 一、サックを使用せざる者は接婦を禁ず などとあった。 しばらくは軍隊側と民間側の二本立ての 「慰安所」が続いたが、両者に秘密の協定が 成立した。すなわち、慰安所を機能的に分 担して、軍は間接的に管理権を握り、その 実益は業者が握るという仕組みであった。 以下は、その大筋の「協定」の内容である。 (1) これより軍側がすべての「慰安所」の 衛生管理及び規律その他を監督し、 業者は慰安所の経営を担当する。 (2) 業者は軍の許可を得て慰安所を開設 する。 (3) 軍隊の慰安所を確保するために、これ より日本軍は朝鮮総督府に対して命 令または伝達の形式により、朝鮮に おける未婚女子を徴用するシステム とする。 (4) 軍は戦地における慰安所の建物を提供 し、その要員の輸送上の一切を責任 をもって計る。 (5) 業界の世話人(大ボスまたは中間ボス) に対しては、将校待遇を与える。 (6) 業者は、邦人(日本人)一般女性を誘 引しないこと。ただし花柳界に属す る女子を募る際には本人の承諾のう えであること。ただし、慰安婦に耐 えうる身体であること、その前借金 は 1 か 年 働 い て 返 済 し う る 範 囲 と し、前借金返済後は自由意志による こと。 (7) 日本軍隊の慰安を円滑ならしむるため に「ニクイチ」を目標とする。 すなわち「将兵」2 9人に対して女子 1人の割当てを理想とする。 いまや日本の軍部は傍若無人に振舞うよ うになった。従来、重大犯罪であったはず の女子誘拐および売春行為を公然と認め、 軍隊の性欲処理のために積極的に勧奨し、 また一方の売春業者は軍の威厳の下で大手 を振って大量の朝鮮娘を白昼堂々と連れ出 すことが可能になったというわけである。 したがって、アジア中の売春業者にとって は、日本軍の戦争拡大こそが稼業の繁栄に つながる仕組みであり、それはまだ朝鮮総 督府の統治根本である「民族抹殺政策」の 遂行に役立つことになったのだった。ここ に至って、軍・業者・総督府の三者にとっ ては、この上もない「おめでたい」ことだ ったのである。 日本の軍隊の怪奇性と獣欲性とは何だろ う。金 一勉先生は「もともと日本国民は、 平和と安穏を好む民であったと思われるが、 明治期に天皇の軍隊が創設されて以来、お そらく獰猛(どうもう)と残虐な性格を帯 びたように思う」といっている。 この「獰猛と残虐な性格」は明治以降の 日本の軍国主義教育、天皇制教育の産物で あり、果てしなく続いた異国での戦争の恐
怖により増幅されたのではなかろうか。と 私は思う。 いずれにしろ、「軍隊慰安婦」は「過ぎ去 った過去」ではなく、今日的、現実的課題 として全世界から突きつけられている問題 なのである。私たちは、一日本人として避 けて通れるものではない。