教育権独立論 と教育 法制
社会科教育教室 率田 (―)教
育 行 政 権 独 立 論 教育権独立論は、原則的には教師 の教育権 の教育行政権 か らの独立論 として論議せ られ るが、例 外的 に、教育行政権 が一般行政権 から独立すべ きであるとい う観 点か らいわれる場合があるので、 まず後者 について検討 をする。 教育行政権独立論の理念 については、田中耕太郎氏 によれば教育 と司法 との類似性 に求め られる。 すなわち、司法は社会生活中に存在す る紛争 を裁判所 とい う国家機 関で強制的に解決す る権力的な 活動である点 において、被教育者の人格 の完成 をめざす教育者の活動 とはその性質 を異 にす るもの である。 しか し両者の間には法学的政治学的 に見て多 くの類似点が存在する。 この類似点は要する にこの二つの活動 ともにその内容 において労働 や商取 引その他の経済的活動や行政事務 とはちがっ て、自由職業 (プロフェ ッシオン)す
なわち個 人的、学問的、全人格的性質のもので あること、従 ってそれは外部 か らの支配 、圧迫 、監督等 と相容 れず、全 く自由に行 なわれなければな らないこと、 これ らは国家の機能の一部 をなし、公の施 設 によって行なわれる場合 においても官僚 的命令系統の 外 にあって、独立 した範域 をな していることに存す る。 として、教育 の独立は `司法権 の独立 と、 同 じよ うに取扱 われるべ きことを示唆 している。 か くして司法 と教育 とは政治 と次元 を同 じうす るものではな く、政治の上 にまた政治の基礎 とし て存在す るものである点 において共通 したもの をもっているとす る。司法は何が正義であるかを判 断す る活動であ り、教育 は完成 した人格 に人間 を育 て上 げる活動である。た しかにそれ らの実現 し よ うとす る価値 は政治 を超越す るもので あり、従 ってこれ らの活動 は自由でなければならず、独立 が保障 高れていなければならない。田中耕太郎氏は裁判官 と教育者の職業倫理 として「 自由 と独立」 を強調す。 その独立 を保障す る為 に司法制度 は組み立て られてぃるが、 この ことは教育制度 につい て も同様でなければならない。 とす る。 教育行政のあ り方は教育 の内容や方針 に影響 を及ぼす ことが大であ り、従 って教育行政権 の一般 行政権 からの独立 を保障す ることは教育 自体 にとって きゎめて重要 な意味 をもつ。 しか し理念 としては、 ともか く、立法・司法・行政の三権の外 に第四権 の国家的権 能 と しての 「教育権」 を認 め、 それを「司法権 の独立」 と同様 な意味で一般行政権 か ら保障す る制度 は憲法上 は取 られていないのであり、教育行政権 は一般 行政権 の一環 として行 なわれているのが現状 である。 (従って四権分立 とぃ うこともあ り得 ない。) 折 ロ細川 哲:教育権独立論 と教 育法制 とは言 え、教育 に重大 な影響 を及ぼす教育行政権 が、「不当 喬支配」 に服 しない為 に、戦後 は教 育行政権 を一般行政か ら独立 さす各種 の制度が取入 れ られている。 かくして、わが回、戦前の教育行政権が国の一般行政権 の一環 として、 あるいは、それに追従 し て行なわれていたの と異 な り、戦後 の教育行政権 は、「教育行政 における地方 自治」 と共 に教育委 員会制度 を中心 に、「教育行政権 の独立」 が、ある程度達成せ られるに至った。 しか し、教育行政権 の中核 となる教育委員会 が、地方教育行政組織法の成立 により公選制か ら任 命制に変 えられたことは、他 の法的制度が、 まだ整備 されてないの とあいまって、教育行政権の一 般行政権 からの独立 を極 めて薄弱 なもの としていることも事実である。 (二
)教
育権独立肯定論
問題なのは、教師の教育権が、教育行政権から独立してぃるか否の点であり、本節ではその独立
を肯定す る諸説につ いて検討す る。(1)不
覇独立説 この説 によれば、教師 は固有の教育権 をもっているのではなく、教師の有す る教育権は自然法的 な本源的教育権 を有す る両親 の委託 をうけて教育 を行 な うのであって、 この伝 来的 な教育権 を行使 す るにあたっては、弁護士・医師等の知的職業(profeSsbn)に
共通 した職業倫理 (prOfeSSiOnal ethたs)に
したがわなければな らないとい うのである。 そ してその職業倫理 とは、国家権 力をは じ め官僚勢 力、政党、組合勢力、 ジャーナ リズム等のいわゆる夕1部勢 力に対す る「不罵独立の熊度」 であって、 これは憲法第23条、教育基本法第6・ 10条によって保障 されているところであるとす る。 か くして、「官公吏たる教員 と誰 も、……上級下級 の行政官庁 の命令系統の中に編入せらるべ きも のではない。……・教育 は不当な行政的権 力的支配に服せ しめ らるべ きではない(4暑堺紗 。それは教 育者 自身 が不覇独立の精神 を以て 自主的 に遂行せ らるべ きものである。教育者は官庁組織 を通 じて 国民 に聞接 に責任 を負 うのではなく、……個人的良心的 に行動す るものであ り、従 って……国民全 体 に対 し直接 に責任 を負 うことになる。ゴ)と い ぅ。 さらに教育者の学問的性格は教育者の自由と独 立 を要求す るものであるが、一面ではその公共的な性格 のため、政治に対す る不介入の義務 を有 し、 それゆ え教育者 とい う天職は争議行為 と相容 れないものであるとい うのである。 この知的職業 (prOfession)が他 の職業 とちがってぃる点 については、すで に、ロウス・パ ウン ド教授 の指摘するところであるF) パウン ド教授 によれば、教師 が学問的プロフェッシォンに属す ることは当然であるとす る。 かくして教師の職業の特異性 として、 とくにその学問的と公共的の性格 を強調する。学問的性格 イ懃 師の 自由 と独立 を要求す る。 それはすべてこの 自由職業 に共通 な性格 であ り、 その結果 として 教師は一般行政官の場合のよ うに官僚 的の統制 には服 しないのである。 しか し戦前 において教師は、一般 的 には、法的・経済的・社会的に高い地位 を認められず、はな はだ恵 まれない立場 にあった。大学教授や高等学校 の教授 (いずれも旧制)は
別 として、小 。中学 校の教育者は、国の官吏 と観念 され、「待遇 官吏」 として取 り扱 われて きたが、実際 においては一 般官吏 よ りも低 い官等や処遇 に甘 ん じさせ られてお り、地方の行政官僚の支配 をうけて きた。 かかる状 態では教師 に人 を得 がた く、 また望 ましい教育 が展 開せ られないことになり、戦後、教 師の「職業倫II」 として、 その「不弱独苅 が強調 されるのは当然の ことである。島取 大学教育学部 人文 。社会科学 第28巻 第1号 およそどの職業 について も職業倫理 (prOfeSSiOnal ethics)と い うものはある。 教師の職業倫理 としては、真理探求の要求・教育愛等 々種 々あげ得 るがかかる教師 の職業倫理は、 あ くまで も倫理的道徳 的規範 として法の範囲外の ものであ り法的保障 の問題 とは別の ものであ り、 個 々の教師の個 人的 自覚 の問題である。 しか し、職業の中で公の性 質 を有す るもの、 または少 なくとも「公共の福祉」 に重要 な関係 をも っているものについては、国家はその道徳 的倫理的規範 を法の中 にとり入 れて、 その遵守 を命 じ、 またそれを保障 しよ うとす る。 か くして教師のこの職業倫理の法規化 した もの としては、教育基本 法 第6条第
2項
「法律 に定 め る学校 の教員は、全体の奉仕者 であって、 自己の使命 を自覚 し、その 職責の遂行 に努めなければな らない。 このためには、教員の身分は、尊重 され、 その待遇 の適正が 期 せ られなければな らない。」 があげ られる。 この教育基本法第6条
第2項
によれば、教師は「全体 の奉仕者」 として、階級 ・政党・団体 など 一部の集回の利益 に偏 った奉仕 をす ることは、教師 としては許 されないことである。 もちろん、教 師 が一市民 として どのよ うな政党や団体 。結社 に参加 しよ うと、 それはかれの所有す る権利の一部 の行使であって自由であるが、教育 とい う公共の仕事 を通 じては、 あ くまで憲法 と教育基本法の認 める精ネ申の実現のために、 そ うして、 その ことをとお して、国民全体 に奉仕 す ることが義務づけら れる。だが、 この ことが、特定の階級 、政党、団体の要求 と方向 を同 じくす るとい うことはもちろ んあ りうるし、 それがすなわ ち一部への奉仕 だと断定 されてはな らない。この ことは言ぃなおす と、 いろいろな利益 を代表す るグルー プの意思 か ら中立であるとい うことは、 そ うい うグループの要求 と重 ならなぃ中間的 な立場 をとるとい うよ うなあいまいな態度 をい うのではない。 それはむしろ積 極的に、憲法や教育基本法の精神 にしたがって、教育 とい うしごとに固有 な価値 を、子 どもたちヘ のはたらきかけを通 じて実現 してい くとい うことなので ある。憲法や教育基本法 が意図す る教育 と は「個人の尊厳 を重 ん じ、真理 と平和 を希求す る人間の育成 を期す るとともに、普遍的 にして しか も個性 ゆたかな文化の創造 をめ ざす」 (教基前文)も
のである。教員は、 ここに示 された教育の具 現者 として位置づけ られるわけである。すなわち、すべ ての子 どもた ちの人格 と能力 を十全 に仲長、 開花 させ、上 に示 した憲法、教育基本法の求める教育 を実行す るものが教員である。 したがって、 教員 に、まず こうした教育 とい う仕事の本来の意味 を十分 に意識 し、認識、確認す ることが求め ら れる。「 自己の使命 を自党 し」 と規定 した意味 がここにある。 さらに、 そ うした使命 の 自覚 の うえにたって、「 その職責 の遂行 に努め」 ることが求め られるの である。 その「使命 を自覚 し、 その職責の遂行 に努め る」 ためには、一般 の公務員、労働者以上 に、 特別 な身分保障、待遇 の道正化 がはかられなければ ならない。ILO・
ュ ネスコ勧告 も「教職 にお ける雇備 の安定 と身分保障 は教員の利益 にとって必要であるのみな らず、教育 の利益のためにも不 可欠なものである」 (45)と して、 その身分保障の必要性 を強調 し、 さらに待遇 の適正化 について も多 くの条項 をさいて具体的 に指摘 している。 本条2項
後段 は、「教員の身分は、尊重 され、 その待通 の道正 が期せ られなければ ならない」 と して、その ことを規定す る。 教育 は教員の 自主性、 自発性 にもとづいて行 なわれなければならないとす る考 え方は、すでに定 着した考 え方で あるといってよい。 そ うした教育 が初 めて国民の教育 を受 ける権利 を具体化 しうる のである。 ところで、 その 自主性、 自発性 にもとづ く教育 が確 立 されてゆ くための前提条件の一つ は、なん といっても、教員の身分の安定性 にあるといってよい。 そのために、教 員の身分保障の確 立が当然 に求め られ ることになる。細川 哲:教育権独立論 と教育法制 ところで、国・公立の学校教員 について、 その身分保障 を具体化す る法律 は「教育公務員特例法」 であるが、 そこでは大学教員 についての身分保障規定 を中心 に置 き、小 中高校教員 についての保障 は全 く不十分である。 か くして、本条
2項
後段 は、教員の身分の尊重 とその待遇 の道正化 を規定 し、 それを具体化す る ことが要請 されているもの と考 えられ るのであるが、現実には、その身分は十分保障 されず、待遇 は不十分であ り、適正化 されていない。 それは「教員の身分は尊重 されなければ ならない」 とい う が如 き極 めて抽象的表現である面 もあ り、本条第2項
は全体 として、「教員 が全体の奉仕者た ること のほかに自己の使命の自覚 と職責の遂行の努力を要求 している」 だけであり、はなはだ しく内容の とば しいものであり、本条 か らして、裁判官 と同 じよ うに、教師の「不鵜独立」 が現行法上 も保障 されているとは、言い難 いと考 える。 この不轟独立説の法的根拠 としては、外 に憲法23条があげられる。 しか し、既述 の如 く、「学問 の自由」 か ら「教育 の自由」 の原理 を導 き出すことに消極的な筆者 としては、憲法の保障する「学 問の 自由」 か ら「教師の不鶏独立の原理」 も帰納 し得 ないことになる。 か くして、不鴇独立説は理念 としては、教師 の職業倫理 としては、望 ましい としても、現行法上、 充分 には保障 されてぃないもの と考 える。ただ、望 ましい理念であれば、教員 に関す る法令等の解 釈 に当たっては、かかる理念 に基 づ き解釈通用す るのが望 ま しいとす る解釈 の指導理念 としての意 味 を有す るもの と考 える。 問題 は教育基本法第10条との関係 であるが、 これについて次 に検討す る。(2)「
不当な支配」か らの独立説 この説は教育基本法第10条第1頂
「教育 は、不当な支配 に服す ることな く、国民全体 に対 し直接 に責任 を負 って行 なわれるべ きもので ある。」 を教育権独立の法的根拠 にす るものである。 この本 条1項
は、教育 にたいす る「 不当 な支配」 の禁止 と直接的教育責任 とい う定め方 によって、学校教 員の「教育権 の独立」 を保障 しているとい う。ただ、 このよ うに学校の教師 の教育 活動 が教育行政 にたい して自主独立性 を保障 されるべ きことを法律 の条文で明記す る例 は諸外国にあまりみ られな いが、1966年のILO・
ュ ネスコ共同会議 にもとづ く「教員の地位 に関する勧告」 の61項 では、「教 員は職務の遂 行 にあた リアカデ ミック・ フリー ダムを亨 有すべ きである。教員は、生徒 に最 も適 し た教材 および教育方法 を判断す るため格別 に資格 を与 えられたものであるか ら、承認 された課程 の 大綱 の範囲で教育行政当局の援助 の もとで、教材の選択 と採用、教科書の選定、教育方法の採用 な どについて主要 な役害Jを与 えられるべ きである」 と定めているのである。 また、戦後 い らいわが国 と教育行政の実情 に近 いところをもっていた ドイツでは、1960年代 に入 つてか ら西独の五つの ラン トで、「 学校教員の教育権の独勇 (padagにChe Freheit des dehrers)(6) を法定す る傾 向 を見せている。
この西独 ラン ト法上の「教育権の独立」 は、大学教官に憲法上保障 されて きた「教授の自由」 (Lehrfrehe■)と は別物 で、む しろ「 子 どもの教育 をうける権利」にecht des Kttdes auf Bldung)
(7) に連 な る面の あることがのべ られてい る。 ところで、 わが国で教育権 の独 立 の根拠 とされ る第10条 の「不 当 な支配」 につ いては、 それ ぞれ 異 なった解釈 が な されてい る。 この「 不 当 な支酉山 をめ ぐる論議 は、 その主体 は何 か、 とい う論議 で もあ る。 まず 、 この「不 当 な支配」 の主体 は ひ ろ く政 治的 。社会的勢 カー般 で あって、政 党・労働 組合 ・
鳥取大学教 育学部 人文・ネ1会科学 第28巻 第1号 財界・宗派 ・マスコ ミ・一部父兄などのほか教育行政・学校管理者がお、くまれる、 とい う理解がな されている。 そ してこの場合、教育行政 による教育関与は、制度的 。恒 常的なもの となるその性質 か らして、他の主体 による教育 関与 とは別個 に、本条の解釈適用上 とくに重視 して論ぜ られる。 本条
1項
を教育権独立の法的根拠 と考 える者は、本条 が教育への不当な支配 を禁ず るのは、教育 活動の完全な自主性 を保障す るためである。 したがって、政治的・社会的勢力が教育 支配 をす るこ とはすべてよろ しくないが、 とりわけ教育行政 が法的拘束 力 をもって教育 活動 をしば ることは、定 型的 に「不当な支配」 に当た るといわなければならない。 として教育行政権 こそが不当 な支配の主 体 になり、本条1項
がいましめている当面の ものは、 まさに国家権 力、教育行政権 自体 なのである とす る。 そして、 それゆえにこそ「教育行政」 に自覚 が求め られているのであ り、第10条の核心は、 公権 力自体の教育 に対す る「 不当な支配」 の禁上 にあり、そのことは、公権 力の教育 に対す る権限 18) の制限の意味 で もあ り、「 公権 力が教育 の内容 や方法 を権 力的 に統制す ることの禁止 を意味する」 もの で あ る とす る。 この点 に関 しては、 田中耕太郎博士 も、「『 不 当 な支配』 とい うのは何 を意味 す るの で あ ろ うか。 …… この規 定 に『教育 行政』 とい う表題 がつ いている以上 は、これは国 および地方公共 団体 とい う、 教育 につ いての公の権 力 を行使す る権 限 をもってい るもの が対象 になってい ることは疑 い ない。文 部 省 や教育 委員会 の処置 で あるか らとい って、不 当 な支配 にな らない とはい えない。Jと して い ると しか し、教育 行政権 の教育 へ の関与 をすべ て不 当 と し、公権 力 をすべ て悪 と決 めつ け ることは、 行 き過 ぎで あろ う。 す なわ ち、「 国民 に主権 を与 え、国民全体 に責任 を負 う民主主義 の政 治体 制 をと る限 り、国会 において立法上認 め られた範囲内 におけ る行政上 の支配 は第10条 が不 当な支配 で あ る と否 定 してい るものでは ないで あろ う。 む しろ、教育基本法 が否 定 しよ うとす る不 当 な支配 とは、 国民全体 に対 し責任 を負 えないよ うな、政 党・組 合 な どによ る独善 的 な支配で あ ると考 え られ る」 10 とする批判が成立す ることにな り、国民主権主義、議会制民主主義 を尊重する限 り、法律 の根拠 に 基づ く教育行政の教育関与 までも「不当Jす
ることは、な し得 ないとい うことになる。 かかる立場 に立つ盛岡地裁の判例 (昭和41,7・
22判時 462号2頂
)は
、つ ぎのよ うにいってい る。「教育 につ いて、法制的根拠 をもつ行政的支配は、正 当なもの といわなければ ならない。けだ し、国民の一般 的教育意思は、国会 に代表 され、政府 の定め る国家基準 により実現 され るのであっ て、……教育行政上の管理 に服することが国民 に責任 を魚 うゆえんだからである。」 さらに、かかる解釈 を補足す るもの として安達健二氏の説 がある。安達氏は「不当な支酉E」 を判 断す る基準 として「合法性 と正 当性」 の二 つ をあげる。 そ して、手続の合法性 と内容の正当性 との 関係 について、次のよ うにい うのである。 まず内容の正当性 は、直 ちに手続 の合法1生を意味 しないことである。たとえ内容 が正 当であって も、手続上合法的でない限 り、不当な支配 となることである。政党、組合 など教育 を支配す ること を手続上認 め られないものの支配は、 その内容の当、不当 を問わず、すべ て不当な支配 となる。 つ ぎに手続の合法性は、その内容が何人がみてもはなはだしく不当と明白に認め られないかぎり、 内容の正当性 を推定せ しめるとい うことで ある。手続上合法的 に定め られたものに対 しては、内容 が正 当であるとして、 その支配 に服す るのでなければ民主主義の法秩序 は保たれないのである。 も しも手続上合法的 に定め られた ものが内容上 不当であるとす るな らば、その主張 についての世論の 支持 を獲得 し、合法的な手続 によって改め られるようにすべ きである。 それが民主主義のルールな のである。 一方かかる行政解釈 に対 して、つ ぎのよ うな批判 がな される。す なわち、細 川 哲 :教 育権独立論 と教育法制 国民主権国家においても、 まさに個人の 自由 とい う人権領域 に対 しては、国民代表議会 の立法 に 基づいて国家機関が権 力的 に介入す ることは、人権 の総合調整上 か らくる合理的理由がないか ぎり 許 されない。 とりわけ教育内容 と国家 との関係 としては、「第一 に、教育内容面について国の責務 が存す ると しても、国の責務遂行のために国民代表議会 がいかなる権限 をも授権で きるわけではな く、教育内 容の権 力的決定権 を行政機関が持つ ことは、す くな くとも国民の教育 の 自由 を侵害す ると考 えなけ ればならない。 この点は、思想の 自由・学問研究の 自由にT●・けると原理的に同 じである。 レオン・ デュギーの明言 によれば、いかに国民主権国家であって も、『国家がある学説 を学校で教 えること を禁止 も命令 もで きないとい うのは、ほぼた しかなことで ある。国家はなん ら学説 をもってはなら 12) ないのである。』 そこで、国が教育内容 に関す る責務 を直接 に果たすためには、教育界に本格的 に、 通用す る指導助言等 によって、 あくまで権 力的 にでな く行 な う必要 がある。 第二 に、国民の教育意思は果た して議会民主制の手続 によって統一 され る必要があるものである か。国民の教育意思 は、教育 の 自由 と教育 をうける権利 の主体たる国民個 々人の教育活動のあ り方 に関す る意思であるとすれば、教育 活動 に先立 ってなるべ く一義的に統一決定 しておかなければな らない とい う必要 に乏 しいと言 える。学校教育活動は、戦前 と異 な り現行教育法制においては、精 神的文化作用 として非権 力作用であると解 されるので、権 力行政 (課税 など
)の
ごとく法律 の根拠 を必須 とす るわけではない。元来、教育内容は、多数決 を用いてで も必ず全国一律 に決めな くては 困 るとい う事柄 が、普通教育 につぃてもさほ ど多 くあるとは考 えられない。現行の学習指導要領 に 記 されている事柄 のほとん どすべ ては、 これ を指導助言内容 として教育 界における自由な討議の う ちに文化的 ルー トによって徐 々に組 織 してい くので も十分事足 りる性質の ものである。 第二 に、他方で、国民代表制・議会民主制の手続は、議会政治的多数決であるとい う実質 をもつ ため、′何事 もそれによって決すればよいとは言 えず、 とくに国民の教育意思の とりまとめを図 るの にはふ さわ しくないとい うことで ある。 教育 関係事項の うち、教育 の外的条件 については、た しかに国民代表制 。議会民主制の手続 によ ることを要す る場合 が少なくない。国の教育予算は、財政議決主義 (憲法83・ 85条)に
よ り国会 の 議決によるほかはない。 また、義務教育年限の延 長 その他学校制度の体系 の決定 も、全国一律 を要 す る以上、やは り法律 (学校教育 法等)の
定めによらなければな らない。 このよ うな外的教育条件 事項の議決 に際 し、参政権者・納税者 としての国民の代表議会 において、教育政策・教育 問題 がそ うい う形 で審議 される余地 が存す る。 しか しそれ と、教育 内容事項 を国家権 力機関が直接 に議決 。 決定す ることとは ちが う。 議会政治的多数決は、議員の選挙 には じまり議会内の票決 にいたるが、いずれも現実的利害 に直 接左右 されるとともに各種の異質 な政策が一時 に くるめ られ、そのなかでせ いぜ い政策 を単位 とす る大 まかな判断 をせ ざるをえない、 とい う特徴 をもつ。 ところが教育 の内容や方法は、子 どもの発 達の法貝!性に即 して教育科学的 にきめこまかに流動的 に決めてい く必要 がある。国連の権利宣言 に おいて も、『児童 の教育 および↓旨導 につぃて責任 を有す る者 は、児童 の最善の利益 をその指導 の原 則 としなければならない』(7条 2項
前段)と
定め られている。子 どもの発達 の法則性 に根 ざす子 どもの学習上の利益は、各学校の父母 と専門職教師 との教育 自治においてのみ、よく見極 め られ う る事柄 で あって、議会政治的多数決 には本質的にな じまない。」 と批半Jする。 た しかに議会制民主 主義下の議会 といえども、いかなる権限 をも授権 で きるわけでな く、教育内容 の内、特 に真理や法 則や科学 に関す るものまで、多数決で決め得 るものではない。従 って、国民主権・議会民主主義下鳥取 大学教育学部 人文・社会科≡ 第28巻 第1号 の議会政治的 多数決で何事 も決めればそれで良いとい うのではない。 しか しわが国の議会で教育内 容の真理や法則 や科学や学説等 に関す るものが実際 に議会で論議検討 され、多数決で決め られたと い う例 は無いのである。 また、教育 は「国民全体 に対 して直接 に責任 を負って行なわるべ きものである」 という、教育基 本法第10条
1項
後段 の解釈 においても対立す る。本条 をもって教育権独立の根拠 とする論者は、「教 育者は官庁組織 を通 じて国民 に間接 に責任 を負 うのではなく」各学校の教師が父母・子 どもをは じ め国民の教育要求 に直接 にその自主的教育活動 をもって応 えてぃ くとい う「直接的教育責任」 でな ければならない。本条1項
後段 は、公選制教育委員会 とい う住 民 自治的 な教育行政体制の予定 をふ くんでいるとともに、基本的 には各学校の教師と国民 との直接的 なむすびつ きを要請 しているので あって、 この意味 からPTAの
しくみが評価 されてよいとす る。 なお近年の西独のラン ト法におい えを1言召三:;将夕[IR手
戸接留写羽そ〒3憐こイ壬」 (unmittelbare padagogische UerantwOrtung)が 1去男とさ
一方行政解釈 は「 直接 に
Jに
、重 きを置 かず、「 国民全体 に対 しJを
重視 して、教師 も一般 の公 務 員 と同 じく議会 を通 じて国民 ・住 民へ の責任 を負 うもので あ るとす。 この両説の違 いは「直接 に」 と「 国民全体 に対 して」 の ど ちらに重 きを置 いて考 えるかの相違 で あろ うが、具体的 に教師の責任 を問い得 るルー トとルー ルが一般 国民 や父兄 に保障 され てない制度 の下 においては「直接 的責任J を云 ってみ て も「8と念的責任 論Jに
終 る きらいが ある。(3)内
的事項独立 説 この説は、教育 行政権 によ る権 力統 制は、外的事項 (exte rn a施 設設備 な ど)す なわ ち教育 の「タト 的条件 の整 備」 の場 合 にはおよんで もいいが、内的事項(htema教
育 内容 ・方法 、教育研修 な ど) にはおよんでは な らず 、 この領域 では非権 力的 な指導助 言制 の もとで教 員 の教育 の 自由が大幅 にみ とめ られてい る、 とす る もので、教育基 本法 第10条2項
「 教育 行政 は、 この 自党 の も とに、教育 の 目的 を遂 行す るに必要 な諸条件 の整備確 立 を目標 と して行 なわれ なければ な らない」 を法的根拠 と す る もので ある。 この教育 行政 の任務 であ る教育 の条件整備 につ いて、 この説 は、教育 行政 に とっ て第一次的 に重要 なのは、教育 の内的事項 に関与 す ることで は な く、教育 の外 的事項 をよ く整備す るこ とで あ り、第10条2項
の「必要 な諸条件」 とは教育 の外 的事項 をさすので あ るとす る。 この説は、主 として教育 学者 や 日教組顧 問弁護 団の支持 す るところで あ るが、 この内的事項 に関 す る「教師 の 自由J(freedon fOr the teachers)と
い う思想 は教 育 学者IoL。
キ ャ ンデルが(15,
イギ リス法例 を例 に とって強調 して きた もので あ る。
ここで、教育 の内的事項 (hate rna)と 外的事項 (exte rna)と の411念を分 け る思想 につ いて見て お く必要 があ る。 この ことば を、 イギ リスの教育行政の あ りかた に則 して、は っ きりと指摘 したの は、 アメ リカの比較教育 学 の キ ャ ンデ ルで あるが、外的事項 とは、教育施 設の設置管理、教育財政 な どに関す ることであ り、内的事項 とは教育 内容 と教育 方法 、す なわ ち教育課程 に関す ることで あ る。 イギ リスでは、外 的事項 には他 の一般 行政 と同様 な統制 が及ぶのは当然だけれ ども、内的事項 には権 力的統 制 が加 えられ ては な らない、 とい う伝統 が確 子 と して存在す る。 キ ャ ンデルはつ ぎの よ うに説明す る。「 教育 は道徳 的 なことが らであ り、政府 は、国家 ので あれ、地 方ので あれ、道徳 的統 制 に対す る独 占 を要求 す ることはで きない。」「国家は、何 が教 えられ るべ きかの詳細 を指図す ること (内的事項 の統 制 をさす
)差
し控 える。 しか し教育 へ の補助 金配分 の基礎 とな る条件 を通 じ て、一般 的標準 を設定す る。 それ らは主 と して外的事項――効 果的 な教育 過程 を可能 にす るすべ て細川 哲:教育権 独立論 と教育法制 の要素―― に関す るもので あ る。」 と。 この伝統 が存 在す るので、 イギ リスにはた とえば教科 書検 定 が な く、祝学制度 は よ く整 ってい るが、 その助 言は強制 では な く、 それ に従 う義務 は ない もの と されて い る。 またイギ リスで は「教師 た ちが もってい る自由の うちで カ リキ ュ ラム と教授 方法 を決 定 す る自由 くらい重要 なものは ない。・・…・実際上 カ リキ ュラムの問題 は校 長 が教師 た ちと協働 して 解決す る。…… その理 由は、文部 省 がイ云統 的 に、Ⅲ…・・それぞれの教育機 関の生命 に高 い価値 をFD・き、 学校 と教 師 の 自由のため にたいへ ん熱 心 で あった とい うことだ。 それゆ え、 カ リキュ ラムや教育 方 法 に影響 あ るすべ ての ことは、『サ ジェスチ ョンズ』 (示唆 1。 とい うことで指導 を与 え、 お もに… …視 学官 に任 せ ることで満足 して きたので あ る。
Jと
され る。 1944年 の バ トラー法 によ り、 イギ リス に も文部 大臣 が置 かれ、法制 の上 では中央 の権 限 が強 まっ た ことは事 実 だ が、 しか し、「国 は外 的事項 に関 し教育 の機会均等 をめ ざす福祉 国家的教育施 策 を 行 な うべ きで あるが、内的事項 の管理 は文部 省 。地 方教育 当局 との協 力関係 (partnership)1と おけ る教員 の教育 の 自由 (freedom of tlle teachers,educational libe rty)に ゆだ ね るがよい、 とい う考 えが、1944年 法 の背景 にある」 と され るよη どんな事項 を内的 と、 また外的 と見 るかとい うことについて、一人の公法学者は、施設設置管理、 就学義務監督、教職員人事、教育財政、学校編制 を外的 とし、内的事項は教師の教育権限の独立 に 包合 されるとして、 その範囲 を、教育 課程編成権、教材決定権 (教科書採択権 、補助教材決定権)、 成績評価権 (学習指導要録 および通信簿、進級・卒業の認定)、 児童 生徒懲戒権 であるとしてい る。 また外的事項 については子 どもの就学条件 と教職員の勤務条件 に関す るもの を上 げている 内的事項・外的事項 とい う概念は、やや異 なるニュア ンスをもってではあるが、ドイツの教育行 政思想 にもあったとされる。 (innere Angelegenheiten,義 ussere Angelegenheiten)。 ところがフロイセ ンでは、 イギ リスとは正反対 に、内的事項は、 まさに内的事項 なるがゆえに、国家がこれを つかさどり、外的事項た る学校の設立維持はこれを地方公共団体 に任せ る、 とい う行政思想が支配 したのであ り、 これを明治の 日本が踏襲 したわけである。教科書は国定で、小学校 の設立維持は市 町村の任務であった。 これが戦前の プロイセ ン帝 国や 日本帝国のよ うな、絶対制的な教育行政のあ り方であったわけである。 戦後の 日本では、戦前の中央集権的絶対制的教育行政の反省の上 に立 ち、 イギ リス流 の民主主義 の伝統 を継受 しよ うとしたものであるとされるが、戦後の 日本の教育の民主化 を指導 したアメリカ では、内的・外的の区別が、 イギ リスほ どはっきり意識 されてはいない。ただ、昭和21・ 3・ 30第 1次米国教育使節団報告書が「教師の最善の能力は、 自由の雰囲気のなかにおいてのみ十分 に発揮 せ られる。
J(論
序)「
中央 官庁 が教授 の内容や方法 または教科書 を定めるべ きではな く、 む しろそ れ らの領域 における活動 を概要書・参考書・教授指導 書などの出版 に限定すべ きである。一・'。 教育 の内容 と方法 をいろいるな環境 にある生徒 の必要 と能力および彼等力峙臣来参加すべ き社会 に道応せ しめることは、教師 の自由にまかせ られ るべ きである。」等%7)と
指摘 してい るのは、 イギ リス流 の伝統の上 に立 っていると考 えられる一面がある。 この教育の内外三分割論は、教育 の内的事項はまさに「教育の自由」 にもっぱ らゆだね られる事 柄で、教育行政の条件整備義務の対象 にはな りえないと考えるもので あ り、 あるいは教育 の聖域 と して教育行政機関の関与 してはな らないもの と説 く。 しか し、内的・外的の境界は必ず しも一義的 に明確 ではなく、たとえば広義 の教員人事は、両側 面を含むとも考 えられよ う。教室 をどのよ うに作 るかは、教育方法 と不離 な関係 にあるし、教育財 政はある意味 では最 も外的だが、 その あ り方が教育 の内容方法 にある意味 では決定的な影響 をおよ鳥取大学教育学部 人文・社会科学 第28巻 第 1号 ぼす ことも明白である。 かくの如 く内的・外的の両者は相関連す る面 を有 し、また教育基本法第10 条
2項
の「必要諸条件」 が「教育の外的事項のみ」 をさす と解せ ざるを得ない必然性 も無 く、本条2項
でい う「教育 の目的 を遂行す る」 に必要 な条件であれば教育行政の条件整備の対象 になり得る と解 し得 るのであ り、従 って教育 の内的事項 に関す る教育行政の関与 を一切禁上 したもの とは解 し 得 ないのである。現 に学校教育法、地方教育行政組織法等の実定法上で教育行政の教育 内容への関 与 を認めている。 しかし、 この点 に関 しては、教育基本法が全体 として憲法の具体化規範すなわち、憲法の付属法 律 ともい うべ き性格 をもっているとい う教育基本法の準憲法的性格 を承認 し、教育基本法 を侵害す る法律 あるいは立法 を、間接 に憲法違反のもの として、その効 力を阻止 し得 るとす る説 もあるが│〕 教育基本法 を教育 に関す る基本法であると解す るのは当然 としても、 これをもって「憲法 と直接 に つ らなる特殊 な法律Jと
して、憲法 に準 じた効 力 を附与す るには無理であろう。 まして教育基本法 第10条2項
のい う教育条件の整備 を外的事項の整備のみ と解せ られないとす る立場 からは、同条第2項
をもって教育行政の教育内容への関与 を阻止 し得ないことになる。 か くして教育行政権 が教育内容 に関与 し得 るとしても、教育の本質から一定の限界が有 るわけで、 戦前の如 く教育内容のすみずみまで教育行政権 が統制支配することは許 されるものではない。 問題 は教育行政権 が教育内容ヘー切関与 し得 ないとするのではなく、教育内容へ関与す る場合の 程度 (方法)と
範囲如何 とい うことで ある。 この点 については、国の教育内容行政権の行使は、教師の自主性 。主体性 を尊重 しつつ その専門 性 を高めるための配慮 が必要であろ う。 かかる立場 から国の教育内容行政権の行使の方法 としては、 主 に、教育上の「指導助言権」 の行使 が望 ま しいと考 えられる。指導主事や校長は法的拘束力こそ ないが教育 の論理 ・条理 に則 った専 門的権威 のある教育上の「指導助言」を行な うことがで きる(学 校28条3項
。地教19条3項
)の
であり、かか る教育内容 に関す る「指導助言」 も適切 に行 なわれれ ば有効 に機能す るもの と考える。文部省設置法 も文部省の権限 として、「教育 に関す る機関に対 し、 その運営 に関 して指導 と助言 を与 えること」、「教育 に関す る専門的技術的 な資料 を作成 し、及で刊 行頒布す ること」 を規定 している(5条 1項
18号 ・20号)。 この教育上の「指導助言権」 は、一般 の行政指導権 とは異 なり、なされた指導助言が真 に優秀で教育専門的権威 を備 えていれば教育界に おいて法的拘束力がある以上 に本格的な効果 をあげ れものだ とい うことを、教育法規 が予定 して定 めた教育法 に独特 な行政的管理権限であるとされる。現 にそれは、欧米各国において祝学官や指導 主事 による教育内容行政の実体 を占めているのであって、これにより各国の中央教育芭庁 は多かれ 少なかれ、「優秀 なるものへの尊敬」 (Respect for exellencc)と い う指導助言の原理 をふ まえ て立 ってぃる、 と見 られるのである。 この ことを確認するよ うに、I LO・
ュ ネス コの「教員の地 位」勧告は、「一切 の視学、 あるいは監督制度は、教員がその職務 を果すのを励 まし援助す るよう なものでなければな らず、教員の固有な自由、倉J造性、責任感 を損 うよ うなもので あってはならな い」 (63項)と
している。 わが国 に 豚戦後教育改革 によってアメ リカか らこの指導助言行政の原則 を導入することになった といわれる。 そのあ らわれは、社会教育法 が「社会教育主事は社会教育 を行な う者 に専 門的技術 的 な助言 と指導 を与 える。但 し、命令及び監督 をしてはならない」(9条
の3第 1項 )と
規定 してい るところにも見 られる。立法・行政処分 。職務命令 などの権 力行使は、現実に能率 よ く公教育内容 の決定 をな しうるであろ うが、教育の内面性精ネ申性人格1生とぃ う教育 の本質あるいは特質 にかんが 盗 決 して望 ま しい教育行政のあり方ではない と云 い得 る。 か くしてこの指導助言行政の原則 は教細川 哲:教育権独立論 と教育法制 育 行政権 の教育 内容 へ の関与 の方法 と しては適 当 な もの と云 い得 るの で あ る。 つ ぎに国の教育 内容行政権 と して、教育課程 の大綱 的基準 の範囲 において、教育 内容への関与 が 認 め られ るか とい う、教育 行政権 の教育 内容へ の関与 の範囲 が問題 となる。学校教育法 は、小 。中 ・高等学校 の「 教科 に関す る事項
Jは
文部 大臣 が これ を「 定 め る」 と規 定 して い る。一 口 に「 教科 に関す る事項」 と言 うと、 そ こには教科 教育 内容 その ものの基準 と教科教育 内容 の制度 的条件 とが ふ くまれ る。後者 は、一般 的 お よび各学校段 階 の教育 目的 (教育 基 本法・学校 教育 法)、 必修 教科 目名、授 業時 数 または卒業 に必要 な総単位 数 (以上 、学校教育 法施 行規則 ・別表)な
どの定 めの こ とで あ り、現行教育 法制 においてそれ らは法律 および文部 省令 とい う国家法規 によ り規定 されて い る。 これ らは、「 ご く大綱 的 な基準事項」 に関す る基準立法 と見 てよいで あろ う。 ところが文部 省 告示 た る「学習指導 要領」 が、前者 の教科教育 の内容 その ものの基準 (各学 年 別 の 目標 ・内容 の ほ か、教 材・教育 方法 まで をふ くむ)を
相 当詳細 に書 いて い る (政府刊 行物 と して 200∼ 400頁 )。 この現行の学習指導 要領 につ いては全体 と して、中央 教育 官庁 がの ぞ ま しい「 教育課程 の森準」 と 考 えるところ を一般 国民 に公示 した指導 助 言文書 にほ か な らない、と解 す るの が相 当で あ る と して、 た とえば教育漢字 の学年別配 当表や高校 におけ る必修 ・選択単位 の配分 な どです らも、学習指導 要 領 の勧 めが教育 専 門的 に優 れて いれ ば各学校 で実現 され て い く、 とい う仕 組 み で事 足 りる と考 える べ きとされ る。 か くして教育 内容 に対す る教育 行政権 の関与 で あ る学習指導要領 は法的拘束 力の な い指導助 言的基準 と解 す る限 り合憲道 法 と解せ られ 懲が、法律 に根拠 を持 つ基準性 を有す ることか ら、指導助 言行政 の有 力 な背景 とな ることは否定出来 ない ところで ある。 さらに、教育 の専 門性 を高 め る第一次的手 だて と して、教育 の研修 (教育研 究)が
あ りこれ も、 場 合 によ り教育 内容 をかな り規制す る一面 を有す る と考 えられ るが、教育 行政 は まず その機会 を十 分保障 す るよ う努 め る必要 が あ るで あろ う。教育 行政機 関 が行 な う教育 研 修 は補 充 的 ・指導 助 言的 範囲 の もの と して と どめ るべ きで あ る とい う考 えが あ り得 る。研 究 はすべ て 自主 的主体 的 な もので あ るべ きで あ るか ら教育 行政機 関の教育研修 とい えども他律 的強制的要素 を持 つ こ とは望 ま しくな い。 ただ教育研修 へ のが加 を、校長 が教 員 に命 ず るの は適 当では ないに して も違 法 とは な らない と 考 え られ るので あ る。(4)教
員の教 育 専権 説 この説 は学校教育 法第28条4項
「 教諭 は、児童 の教育 を掌 る」 を法 的根 拠 とす るもので あ り教育 は学校教育 法 によ り教 員 に完 全 に委任 せ られた専権 で ある と考 えるもので ある。 本条 は、小 学校 にお かれ る職 員の種 類 および その職務 につ いての規 定 で あ り、中学校(40)高
等 学校 (51)および盲 ・聾 ・養護 学校 (76)に も準用 され る もので ある。 学校 に置 かれ る職 員 の種 類 は20種 を超 えて い るが、その学校 職 員 の職 務規 定 を本 条 が規 定 して「 校 長一一 校 務 を掌 り、所属 職 員 を監 督 す る (本条 Ⅲ)」・「 教諭―一児童 の教育 を掌 る (本条 Ⅳ)」「 養 護。 教 諭一 一 児童 の養 護 を掌 る (本条V)」 ・・…・等 に規定 してい るのであるが、 それぞれの職務規定の 具 体的内容 につ いては必ず しも明 らかで ない面 が あ り、 なかで も、校 長の「 校務」 とは いかな る内 容 で あ るの か、 それ と教 諭 の「教育 を掌 る」 との関係 は ど うか、とい う点 は論争 主題 の一 つ で あ る。 「 校務 を掌 り、所属 職 員 を監 督 す る」 の意味 につ いて は、校 長 を学 内管 理権 者 、教 員 の職 務上 の 上 司 と見 る場 合 と、職員会 議 の議決機 関性 と教員の職務上 の独 立 を主張 す る場 合 とで それは著 しく 異 なる。行政解釈 もその時期 の教育政策 の性格 によ り大 きく変動 してい る。 この点 につ いては、校 務 とは、学校 の運営 に必要 な校舎 等 の物的施 設、教 員等 の人的要素 および教育 の実施 の二つの事項鳥取大学教育学部 人文・社会科学 第28巻 第 1号 につ きその任務 を完遂 す るため に要求 され る諸般 の事務 を指す。 (昭
32,8,20東
地 、判事 124-18)と す る判例 が あ り、「 校 務」 の中 に「 教育 の実施 につ きその任 務 を完遂 す るため に要 求 され る 諸般 の事項も を包含 す るとす れば、児童 ・生徒 の教育 活動 は教師 本 来の職務 では あ るが、 その職務 も学校 全体 の教育 計画 の一環 と して行 なわれ る限 り校務 なので あ り、学校 の教育任務 を完遂 す る為 には、校長 は、教師 の行 な う教育 につ いて も一定 の範囲 と条件 の下 に監 督 し得 ることになる。(5)教
育 に対 す る事前指揮権 の否定 説 「 教 員 は、児童 ・生徒 の教育 を本務 とす るので、児童 ・生徒 の教育 の実施 につ いて、校 長 が事前 に具体的 な指示 命令驚す る こ とは、学校 教育 法の/11X意に背 く。事後 において矯 正 的 な立場 で監督 す るの が至当で あろ う。」 現 に学校教育 法 も、「校 長 は、…… 所属 職 員 を監 督 す る。」 と して お り (ぜЭ 、「 指揮監 督」 の よ うに事 前指揮権 をもみ とめ る青 き方 を してい ない とす ると0 しか しこの説 には理 論的 に難 点 が あ る。継続 的有機 的 な教育 活動 につ いて、 この よ うに事前 と事 後 を峻別 で きるか ど うか問題 で ある。 さらに、児童 の成績 評価 や進級 決定 の よ うに、 む しろ事後 の 変更 命令 の方 が教育 の 自主性 を侵 害 す る場 合 もあ りうる。 か くして一般 的 には校 長 は事後 的矯正 的監 督 が望 ま しい と考 えられ る面 は あ るが、学校教育法第 28条3項
か ら、 かか る解釈 が正 当づ け られ るものでは な く、校 長 は、職務上 の事 前事後 の監督・ さ らに身 分上服務上 の監督 に も及ぶ と解 せ られ るので あ り、校 長 は学校運営 の最高責任者 と して一切 の校務 を掌理 しその所属職 員 を監督 し得 ると解せ られ る。(6)教
育 に対 す る指 揮監 督権 の条理上 の限界 説 教育 の本質 が教育 者 と被 教育 者 との間の内面的人格 的 関係 で あ ることか ら、教育 の生命 を圧殺 す るよ うな法的統 制 は許 されず、教育 者 に対す る指揮監督 には一定 の条理 的限界があるとす る説で あ る。 この説 を裏打 ちす る論拠 と しては、昭和 21年 の米国教育 使節 団報 告書中の「教師 た ると行政官た る とを問わず、教育者 とい うものの職 務 につ いて、 ここに教訓 とすべ きこ とが あるので ある。教師 の最書 の能 力は、 自由の空 気 の中 においてのみ十分 に現 わ され る。 この空 気 をつ くり出す ことが行 政 官の仕 事 なので あって、 その反対 の空 気 をつ くることでは ない」 との考 えで あ る。 この説では、 現 行法令 の しくみ と して国 の教育権 を前提 と した上 で、教員 に対 す る指揮 監督権 発動 の条理的限界 を指摘 す るに とどまる。 か くして校 長 がむやみ に教室 に立 ち入 って監 視 した り、教員 に対 してその 教育 活動の細部 にわた る職 務命令 を発 す ることは禁止 さる。 教育 の本質 か ら教育 行政 の指揮監 督 に一定 の条理上 限界 がある とす るこの説 は、正 当 な考 え方 と して評価 し得 るが、 しか しこの説 をもって教師 の教育 に関す る完 全 な る独立権 は立証 し得 るもので は ないことにな り、教育 行政 の教育 内容 関与 に対す る自制説 と して意味 を有す ることにな る。(7)教
員 の教 育 の 自由説 この説 には④ 児童 ・生徒 に対 す る教育 を行 な う主体 は真理 の代理 者 た る資格 を有す る教員であり、 教 員 は真理 を教 える義務 を負 い権 利 を有 して お り、教員 の教育権 は権 力統制 を受 けない とす る説 が あ り、 この説は、教員 が 自然的教育権 を有す る親 の付託 を受 けて児童 ・生徒 に対 し自由 に教育 を行 な う個 人的権利 を教員 の教育 権 と して、教員 が親一般 には期待 で きない「真理 の代表者」 た る資格 を有す るこ とにその根拠 をおいてい る。 しか し教員 が真理 の代理者 た らん と、努 力勉 強す ることは 必要 で あるが、 た えず、教員 が 自 ら真理 の代理者 と断 定 して かか る ことは決 して望 ま しい姿勢 とは細 川 哲 :教 育権独立論 と教育法制 云 い難 く、 また、親 と教員 との 間の信 託 関係 は教育 学 的 に説明 し得 て も、 それ を裏打 ちす る法令上 の しくみが存 しない点 において難 点 を有 す る。 次に◎公教育制度 としての学校の教員に対 しては憲法上教育の自由が保障 されており、 したがつ て、教員は自らの責任 において自主的に教育 を行なうことがで きるとする憲法第13条を根拠 とする 憲法的自由論・〇憲法第23条 (学問の自由
)か
ら 下教育の自由」 をみちびき出 し、教員には真理の 教育が必然的に要請 され、そのような教育 をするためには、教員には教育内容 となる学問研究の自 由はもちるん、その研究成果 を伝 えるための「教授の自由J「
教育の自由」 も当然に保障 されていR孝
極
R挙
え
患
│こ甘
重
`鴨象
ζ
缶
房
象
:堪
仇
と
肇
雇
て
え
省
議
│こ争
三
吾
茂
畳
彊
と
言
:TR34ti基
岳
岳
E
は賛成 し得 ない もの としてす で に述 べ た ところで ある。 (三)教
育権独立否定論
1本節では教師の教育権の独立 を否定 しあるいは消極 に解す る各説 についてみてみたい。 これ らの 説は理念 として教育権の独立 を否定す るとい うよ り実定法 を根拠 に、 それ らの法解釈 を通 じて教育 権独立 を否定す るものである。(1)教
育行政権 自制説 この説 は教師の「教育の 自由Jや
「教育権 の独立」 については法的根拠 は無 く、若 しそれ らがあ るとすれば、教育行政権 の行使 に当って教育 の本質上配慮 され、その行使 が 自制 される結果、 その 反射 として生れて くる現象 にす ぎない とす る。す なわち、地方教育行政組織 法 が教育委員会の権限 としている「学校の管理」 には、物 的・人的管理のほかに、ひろ く教育課程・教材取扱等 に関する 「 運営管池 がふ くまれ、また学校教育法は校長 に所属職員の監督権 をみ とめてお り、 これ らには 教育実施 についての指示命令 もふ くまれている。教員はその教育 を行 な うにあたっても、教育委員 会・校長 などの「職務上の上司の職務上 の命令 に忠実 に従 わなければな らない」(染鶴)の
であ魃 とす る。「ただ、教育は、通常の行政 とその作用 を異 にす るものであ り、教師の主体的な活動がな ければ、教育効果はあが らない。 このよ うな理由から、教育委員会等の管理権 の発動は、学校 ある いは教師の 自主制 を尊重 して、 ある程度 自制す ることが妥 当となる。要す るに、静師の教育上 の自 主制は、教育学上あるいは経営学上 の配慮 の問題 として考 えられ るべ きものである。」としている。 この点 についてはヘ ッケル (Heckel)も次のよ うにいっている。「最上の指令 も、教員が・……反抗 的 だつた ら無益である。方法 上 に多少欠陥 があっても愛 と確信 をもってなされる教育 は、最上最新の 教育方法 を命ぜ られるままに用いてつ まらなそうに行 なわれる教育 よ りも、 いつそ う結果す るとこ ろが大 きいのがふつ うである。 それゆ え、学校監督官吏 や学校官庁 が指令 を発す ることを自制 しも。 で きるだけ忠告や示唆や激励 にとどめ ることは、生活理性 と教育的年同察 とが要求す るところである。」 と、けだ し教育 の内面性人格性 は、教育 が強制や命令ゃ権 力に親 しまない一面 を有するので、教 育への教育行政権の権 力的介入は出来 るだけ自制す るのが望 ましい行政のあ り方であろ う。ヘ ッケ ルの考 え方は、かかる立場 よ り充分 に評価 さるべ きである。 しか し、 それは教育行政権 自らの 自粛 (self commandlの 問題であって教育行政権 に対立す るもの としての教師 の教育権 の独立 について は、現行法上法的保障はないと解す るもので ある。鳥取大学教育学部 人文・社会科学 第28巻 第1号
(2)教
育内的外的事項不分割説 この説は、教育行政 ことに国の教育行政 は教育 目的 を遂行するに必要 な教育施設の管理、就学義務 の監督 その他の教育 の外的事項 について条件整備の確立 をその責務 とするが、「教育課程 その他教 育 の内的事項 については、指導、助言や教育課程の大綱的基準の設定などの一定の限度 を越 えてこ れに権 力的 に介入す ることは許 されない」 とする教育内的事項独立説の批判 から生れた説である。 すなわち、教育行政 の教育内容 に関す る権限 をこのよ うに限定的 に解する考 え方は理由のないもの であるとす る。 もともとこのよ うは区分は説明の便宜上設け られたいわば抽象的な区分 にす ぎず、 これをもって教育行政の権限の限界 を具体的 に説明す ることは きわめて不適 当であるとする。そも そも何が内的事項であ り、何 が外的事項であるかが必ず しも一義的に明解ではない し、 またおよそ 教育 の内容 に関係のない条件 とい うものはあ りえない。たとえば理科設備等の補助 などは外的事項 とみ なされるのであろ うが、補助すべ き理科設備の基準は、ぃかなる理科教育が行なわれるかによ って異 なるのであって、理科教育の内容 を抜 きに しては補助基準す ら決めることはで きないのであ る。 教育の内的外的事項三分割論は前東大教授宗像誠也氏が我が国に紹介 しさきの家永教科書訴訟 に おいても宗像氏はその証言の中でキャンデルの説を引用 して述べたところであるが、キャンデルの 上の論は、約40年前のイギ リスの教育 の状況 を基 に した学説にす ぎない。現在のイギ リスの教育は それ と異 なった ものになっていることを国側証人の勝部真長氏 (お茶の水女子大教授)は
次のよ う に指摘 している。 「 イギ リスでは1944年法 と申 します法規定 によ りまして、宗教の時間とい うもの を公教育 におい て、公立 も、私立 も共 に義務づけてお ります。各学校は、各州 がつ くりましたアグリー ト・ シラバ ス、 まあ指導要領みたいなもんですね、 そのアグリー ド・ シラバスに基づいて、必ず、毎週、宗教 の礼拝行事 を行 な うこととか、宗教の時間にバ イブルを勉強す ることとか、そうい うイ面値内容に関 して規定 してお ります。よ く、キ ャンデルとかぃう人の説 を引用いた しまして、 イギ リスでは外的 事項 のみ に限 って、内的事項 には国は関与 しない、道徳価値 には介入 しないとい うことを称 える人 がございますが、それはキャンデルの本が1933年 に書かれたので、おそらく1944年以後 の宗教教育 の実情 を知 らずに書かれた古い説だろ うと思 います。 その もっとも自由であると言われるイギ リス において さえ、道徳価値の内容 に関 して、国がはっきり宗教 とい うものを義務づけている。 これは 今 日の国民教育 といいますか、福祉国家の教育への関わり方 というものを私は示 してぃると思 うん です。」 と述べ てぃるが、イギ リスで内的事項 に監督権 が及ば ないか らといって、わが国の現行法 の 解釈 をまげて合せる必要ない。一国の法制 は、 その社会的背景――伝統的社会規範の存在、父兄の 監視 、視学制度、教師の質の水準等々―― を抜 きに しては論ず ることはで きないのであって、一国 で妥 当な運営 が行 なわれているか らといって直 ちにわが国にも、 とい うことは、「立法論 としては 軽卒 であるといわねばならないfDし、 む しろ現代国家 においてはfな
ん らかの意味 で国家が教育内 容 に対 し介入 していない国は存在 していないのである。イギ リスの クラウザー報告やアメリカの防 衛教育法 にみ るごとく現代の福祉国家 においては、む しろ積極的に教育内容 にも関与す るよ うにな つて きている。 さらt旱、教育基本法第10条自体 には、内的事項、外的事項の区分 も、内的事項 については指導助 言 に止 まるべ きであるとの趣 旨 も何一つ明確 には定められてはいない。む しろ同条 には「教育 目的 を遂行す るに必要 な諸条件……」 とあ り、 この「教育の目的」 のなかにすでに教育の内容 が含 まれ ているのであるか ら、 この諸条件 には教育内容 に関するものも当然含 まれると考 えられ る。外的事細川 哲:教育権独立論 と教育法制 項 についての教育行政の権限 に、法律上一定の限界があるとす るのならば、よ り明確 な規定 を必要 とす るであろ う。 したがって、同条 にい う「諸条件」 には、教育内容 に関す る条件 を当然含 んでい るのである。 この点については仙台高裁判決 (44・ 2・
19)も
「学校教育の公的性格 か らして、無秩序 な自由 放任の許 されないことは当然であって、教育 目的 を遂行す るためには教育全般 の制度、機構 を整備 し、その運営 を整 える必要 があるのであ り、 したがって、教育基本法第10条第2項
にい う条件整備 とは、教員固有の権 限である教育 の実施 以外の学校施 設、教育財政等の物 的管理や教職員人事等の 人的管理のほか、教育課程 の基準 の設定、教育課程の管理、教科書 その他 の教材の取扱等教育 内容 についての管理運営 を合 むもの と解す るのが現行教育法制の実定法規 に照 して相 当である。」 と同 旨の判断 を示 している。 このよ うに教育 に関す る諸条件 を外的事項 と内的事項 とに三分割 して教育行政の限界 を論 じ、ひ いて内的事項 については教育権 の独立 を主張す るのは、現行制度上 は根拠 の無 いものであるとい う ことになる。(3)「
正当な支配」肯定説 この説は教育権独立論者 が、その根拠 とす る教育基本法第10条1項
「教育 は、不当な支配 に服す ることなく、国民全体 に対 し、直接 に責任 を負 って行 なわれ るべ きものである」 の解釈 について、 対立 した考 え方 をす るものである。 国は、国民の教育 を受ける権利 を積極的 に保障す る責務 を負 い、 この責務 を果たすため国民の合 意 によ り、教育基本法 をは じめ とす る各種の法令 を定めている。教育行政機 関はこれ らの諸法令 に 基づ き教育行政 を行 な う権 限 と責任 を有す る。 ところで、教育行政 については教育基本法10条の規定の解釈 をめ ぐって、教育行政当局 の不当な 支配や教育行政権 の範囲 ない し限界が しば しば問題 とされている。いずれも、国の教育内容への介 入禁上の命題 を前提 とし、教育行政権 を限定的 にとらえよ うとす るものである。 しか し、 これ らの 132 論は教育基本法10条を誤 って解釈 す るものであるといわざるを得 ないとす る。 教育権独立論者 は教育基本法第10条第1項
に定める「不当な支酉由 とは、主 として公権 力による 教育の支配 を意味す るものであ り、 また、同条第2項
にい う「条件整備」 には教育 内容は含 まれて いないと主張す るが、教育基本法第10条第1項にい う「 不当な支酉由 は、 その主体 に即 してみ るな らば、国民の一般意志 を代表す るもの とはいえない社会的勢力 (たとえば、政党、労働組合、宗教 団体 など)の
支配 をい うのであ り、 また、その内容 に即 してみ るな らば、 それが教育 の本質 を失 な わしめるよ うな支配 をい うのである。 したがって、同条項 は教育 に対す る正当なる支配 を決 して否 定す るものではないのであって、国民の一般意志 を代表す る法律 にしたがって行 なわれる教育行政 による支配は、 その内容 が不当なものでない限 り同条項 に違反す るものではない。ただ、教育権独 立論者のい う如 く、議院内閣制 をとるわが国の教育行政当局 も「不当 な支酉證 の主体 となることは ありうるわけであるが、だか らといって、同項は決 して教育 に対す る教育行政当局の正当な支配 を 否定す るものではない。 次いで、教育権独立論者 は、同項の「直接 に」 を根拠 として、聞接 に文部大臣、内閣、国会 を通 じて国民に責任 を負 うのではな く、教育職員が国民全体 に直接 に責任 を負 うべ き旨主張 している。 しかしなが ら、同項 に「国民全体 に対 し直接 に責任 を負 う」 とい うのは、民主主義の原理 にもとづ き、教育 についての国民 に対す る責任 とい う根本原則 を宣言 しているのであって、独立論者は、 こ鳥取大学 教育学部 人文・社会科学 第28巻 第1号 の規定の性格 を把握 していないのである。 すなわち、憲法は、 その前文において「国政は国民の厳粛 な信託 によるものであちて、その権威 は国民 に由来 し、 その権 力は国民の代表者 がこれ を行使 し、 その福利は国民がこれ を享受す る。 こ れは人類普遍の原理 であ り、 この憲法はかかる原理 に基づ くものである。」 と定めていることか ら も明 らかなよ うに、民主政治 を原則 と しているのであ り、同項の「直接 に」 とい う文言は、教育行 政関係者、教育者 を合む教育関係者のすべ てに対 し、 この民主政治 における国民 に対す る責任 を強 調 したもの と解すべ きもの なので ある。 この教育基本法第10条の解釈 に関す る最近の判例 に仙台高裁 の判決 (昭和44年2月19日