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平成17年3月修了

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平成17年3月修了

修士学位論文

戦後広島の復興を支えた起業家の研究

(マツダ株式会社の企業遺伝子)

A study of entrepreneur's enrollment in revival

of Hiroshima after the World WarⅡ

平成

17 年 3 月 22 日

高知工科大学大学院 工学研究科基盤工学専攻 起業家コース

学籍番号

1075014

浴 靖典

Yasunori Eki

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―目次―

1章 序論

1−1 はじめに

1−2 研究の背景

1−3 研究の目的と意義

2章 広島の遺伝子

2−1 広島の風土・県民性

2−2 広島の歩み

2−3 軍都廣島の歩み

2−4 要約

3章 広島の復興を支えた起業家たち

3−1 第二次世界大戦後の広島

3−2 広島の復興を支えた起業家たち

3−3 マツダ株式会社の復活

3−4 要約

4章 マツダ株式会社(企業遺伝子の事例)

4−1 東洋工業株式会社の設立

4−2 戦時下での躍進

4−3 マツダ株式会社復活

4−4 ロータリー・エンジンの開発

4−5 遺伝子(

DNA)とは

4−6 企業遺伝子(

DNA)とは

4−7 マツダ株式会社の企業遺伝子(

DNA)

4−8 世界から認められた省エネカー記録(元マツダの技術者)

4−9 要約

P3 P6 P8 P9 P9 P14 P16 P18 P19 P38 P38 P40 P40 P41 P42 P44 P45 P48 P48 P52 P53 P55 P66 P68 P69 P71 P73

5章 マツダ株式会社の企業遺伝子を継承・発展させるために

5−1 マツダ株式会社企業遺伝子の原点

5−2 マツダ株式会社企業遺伝子の限界

5−3 新生マツダ株式会社の復活

(フォード経営戦略とマツダ技術のアライアンス)

5−4 要約

6章 まとめ

参考文献

謝辞

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第1章 序論

1−1 はじめに

広島と私 現在、私が住んでいる広島市は原子爆弾が投下されて、今年(2005年)で被爆か ら60年目を迎えようとしています。 このたび、戦争の過ちを後世に伝えようと原爆ドームは、世界遺産に登録され、平和 祈念資料館には、さまざまな記録資料や写真・生々しい惨状を伝える被爆資料などが展 示してあります。この、被爆体験都市ヒロシマへ、世界各地から数多くの観光客や視察 団が訪れています。 今や広島は、世界中の人々の永遠のテーマである「世界平和」の象徴として、日本を代 表する国際平和都市として発展しています。 被爆直後の広島の街は放射能汚染のため、もう何十年も草木も育たず、人間も生活で きないなどと言われていました。県外の人から、いまだにそのような話題がでることも あります。広島のイメージは原爆と平和運動(核廃絶座り込み)ばかりだと思われてい るのではないのでしょうか。 地元経済人の中から「原爆と平和運動だけでは、めしを食って行けない」という経済活 性化・ニュービジネスの創造に向けての、苛立ちの声さえ聞かれます。 私の生まれたところは広島県でも西の端。山口県との県境にある、大竹市という人口 約 4 万人の小さな街です。 大竹市は、石油化学プラントなどが数多く建ち並ぶ工業地帯で高度成長期には、人口 も増えてとても繁栄していました。子供の頃は、時々光化学スモッグが発生して、下校 時間などと重なると帰宅することが出来ませんでした。どちらかと言うと、あまり良い 環境の街で育ったとは言えませんでしたが、20歳近くまで地元で生活をしました。 そのような街でしたが、物心つくようになって広島を意識することになりました。そ れは父から、祖父を原爆で亡くしたことを聞いたからです。その日(昭和20年8月6 日)にかぎって早朝に疎開作業のため大竹から広島市へ出かけて行ったそうです。その 日が最後で二度と家に帰ることはありませんでした。 当然のことながら、私の父は幾日も探しまわったそうですが、どこにいるか見つから なかったそうです。父は今でもあまり語ろうとしませんが、とても無残な現場を眼のあ たりにし、まだ19歳だった父の心の中に、暗い影を落としたことは間違いないでしょ う。このような経験を持つ父の口癖は、『何をやってもいいが、社会に迷惑をかけるな』 とよく口にしていました。

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私の生まれは1960年(昭和35)です。終戦から15年後ということになります が、時代的には日本経済は高度成長期に入り、人々の生活も豊かになり希望と活気に溢 れていたと思います。この時代は、よく豊かさの象徴として、3C(自動車・クーラー・ カラーテレビ)がよく売れていました。 私の父は、広島トヨペット株式会社(トヨタ販売会社)に勤めていましたので、広島 に居ながらトヨタ車びいきでした。しかし、小学の友人達とはマツダのスポーツカー(コ スモスポーツ)の人気は別格で話題の中心でした。コスモスポーツが走るたびに胸を踊 らせていました。その光景は、今も瞼に焼きつき心に残っています。 学生時代の私は、いろいろなことに興味は持っていましたが、これといって取り柄も なく日々過ぎ去るといった感じでしたが、特に、音楽は好きで大学の放送部へ所属した りコンサートのアルバイトなどを積極的にしていました。また、そこでたくさんの仲間 も増え感動や共感できる、この様な仕事に、いつしか就けたらいいなとだんだん強く思 うようになりました。 音楽仲間には、プロを目指すボーカルや楽器演奏者も数多くいましたが、私はそのよ うな才能はなく音源をミキシングする音響ミキサーという裏方を目指して、大学卒業後 東京でプロになることが夢でした。 起業の動機 私は大学3年生の時、21歳で音響会社(コンサートやイベントなどの音響サービス) を広島で起業することにしました。起業の動機は、一緒に生活をして同じ夢を語ってい た親友が、突然交通事故で亡くなってしまったことが最大の要因です。 その親友とは、中学時代の同級生で音楽仲間でした。彼は東京の音響専門学校へ進み ましたが、就職で広島の舞台音響・照明会社に戻って来たことをきっかけに、また、交 流がはじまりました。 毎日のようにたくさんの友が集り、一緒に将来の夢を語っていた矢先の出来事でした。 楽しい日々から崖を転げ落ちるように何も無くなったような失望感、それから半年は夢 も希望も持てず、人生の終焉という気持ちで目標を失いかけていました。 しかし、周りの知人や友人に励まされ支えられたことで、どうにか立ち直るきっかけ を掴むことが出来ました。そのとき、仕事を通じて自分自身を見つめ直そうと思いまし た。生きる希望が欲しかったわけです。 友人・知人の協力を得て両親には相談せず、ひとりで起業いたしました。今風に言え ば学生ベンチャーだと思うのですが、そのころはベンチャーブームで、もてはやされる こともなく、夢どころか毎日資金繰りに追われ、その日暮らし、頼るところも限られて いて明日をも知れず生きるか死ぬかの状況でした。 現在では起業サポートサービスや補助金制度などの実施は、国・地方自治体や銀行に

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とどまらず企業にまでおよんでいます。また、大学などではノウハウを学ぶ事もでき時 代背景の違いは、ここまで影響するのかと驚かされる次第です。 現在、わが社も低空飛行ながら事業継続年数は20年を越え、事業ドメインも情報通 信サービス業と少し幅広くなりました。しかし、典型的な中小企業で(社員数 30 名)、 我流で経営してきたことに限界を感じていました。 社会人学生 現在、高知工科大学起業家コースで学習して感じることは、学ぶ情報量の多さです。 いろいろなケーススタディで、論理的・体系的に思考することが出来ました。 今までの自分を振り返ると、経験だけでは、場当たり的な考えや行動しかできませんで した。しかし、これからは、見識・学識を広げて、とても有効な事業展開を見出すこと が出来るのではないかと思える様になりました。 社会人になって学んでいる理由として、自己実現と共に自社企業の発展に少しでも役 立てばと考えています。また、これからのことを考え、世代間を超えた企業遺伝子(起 業家精神)を、今回の論文テーマにいたしました。 「自社の存在とは何か?」 最近になり広島における、自社の存在意義や地域における役割などを考えるようにな りました。原爆によって過去の財産(人・モノ・情報・伝承技術)を一瞬にして消滅し てしまった広島は、現在を生きる我々の心の拠り所までも無くしてしまったような感じ がします。広島の歴史を知り先達(起業家)の価値ある知恵を学ぶことで、我々の羅針 盤となり、企業活動を通じて次世代の後輩達に受け継ぎたいと思っています。 企業活動の実践を通して、存在意義を考えようと思います 「自分の役割とは何か?」 私は、幼い頃から父の原爆体験を聞かされていたことと、広島地域で仕事をしている ことで、この短期間で広島の復興を支えてこられた先達(起業家)に興味を抱くように なりなりました。 あの原爆で、過去の記録や物などは多くが破壊・壊滅状態になってしまいました。 私は、この研究を通して、先達(戦前)から受け継がれてきた数々の貴重な財産と経営 資源など、また、戦中・戦後、絶望の中から復興を遂げた起業家精神を考察し、少しで も検証できたらと考えています。 そして私は、その学んだ起業家精神で、いろいろなことにチャレンジすることを考え ています。

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1−2 研究の背景

研究テーマ『戦後広島の復興を支えた起業家の研究』(マツダ株式会社の企業DNA) の背景は、戦前・戦後から現在までの社会の背景を理解しておかなければなりません。 戦後の社会環境は、第3 章で説明しますので、その比較として平成13年から実施さ れている参議院国民生活・経済に関する調査会の調査項目を引用・参照し時代背景を探 りました。 「真に豊かな社会の構築」とし、「グローバル化が進む中での日本経済の活性化」と 「社会経済情勢の変化に対応した雇用と社会保障制度の在り方」を調査しています。 今、我が国は経済のグローバル化、少子高齢化、情報技術革命の進展、地球環境問題 の深刻化等の大きな状況変化の流れの中にある。 我が国経済は戦後めざましい発展を遂げ、経済大国を実現したが、バブル経済の崩壊 以降停滞を続け長引く不況に陥っている。同時にこれまで日本社会が培ってきた伝統的 な価値や権威、社会的連帯感等に対する国民意識も大きく変化してきた。 そして、二十一世紀に入った現在、我が国経済社会の構造は大きな転換期を迎え、そ の中で産業の国際競争力の低下、景気低迷による雇用不安、国民の生活保障に対する将 来不安の拡がり等社会を取り巻く状況は一段と厳しさを増している。 こうした中で、多くの国民は世界第二位の経済大国の国民として、本来持つことがで きる豊かさの実感を持てないでいる。 今、国民のこうした閉塞感、不安感を取り除き安全で安心した暮らしができる豊かな 社会を構築することが求められている。 参考資料:参議院国民生活・経済に関する調査会の調査活動 上記の調査は、現在我々が問題視としている代表的な項目です。 厳しさを増している と書いてありますし、 豊かな社会を構築する とも表現して います。我々の取り巻く環境は、と言うより欲望はとどまることを知りません。 また、 閉塞感、不安感を取り除き安全で安心した暮らし 、ともありますが時代性に よって定義付けは、とても難しいと思います。 戦後、半世紀を越えましたが、私たちは限りなく成長し続けなければ満足できないの でしょうか。 東洋工業株式会社(現・マツダ株式会社)は敗戦後、社員や地域社会の人々を支えな がらも、不安の中から再出発しています。

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日本も経済成長期では、 同じ価値観・世界観・企業観 を守ってきたように感じま す。 またそれが、右肩上がりの時代では、原動力にもなっていました。 しかし、バブル経済崩壊後、新しい時代の環境変化に取り残された企業や人々は、苦 汁の選択を求められています。 この研究は、第二次世界大戦の戦前、戦中、戦後の劇的な時代を生き抜いた、東洋工 業株式会社(現・マツダ株式会社)の創業者一族である松田家三世代の広島地域を取り 巻く環境の変化が背景にあります。

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1−3 研究の目的と意義

今回の論文のテーマは、 『戦後広島の復興を支えた起業家の研究』(マツダ株式会社の企業遺伝子)です。 敗戦後、再出発を果たした起業家の思考と行動、または、あの状況下の中でどのよう なミッション・ビジョンを打ち立てて事業活動したのか。今回は、マツダ株式会社の事 例を取り上げて企業遺伝子(DNA)を研究いたします。 参考資料 企業遺伝子<タイトルの引用> 広島というローカルな場所で、どのようにして世界が注目するような技術開発が出来 たのか、まず、東洋工業株式会社(現・マツダ株式会社)を生んだ社会背景を調べます。 創業者松田重次郎初代社長は、東洋コルク工業株式会社としてスタートしています。ど んな起業マインドを持って、現・マツダ株式会社になったのか? 戦後、松田恒次二代目社長に変わります。会社は原爆を体験し復活まで時間がかかり ましたが事業の柱を自動車製造会社として再出発させました。世界でも注目されるロー タリー・エンジンの開発を手がけ、その経営手腕は、日本国内外からも高く評価されま した。広島地域は、マツダの企業城下町と言われ広島の人々から親しまれています。 戦後広島の復興を支えてきた起業家の原動力は何か?を検証します。 松田耕平三代目社長は、不運にもオイルショックなどの影響で会社の業績を下とし社 長を退任します。それからマツダは、経営トップを住友銀行へ、またフォードの傘下に 入ります。 2004年ここにきて、マツダが復活再生したとの話題が数多く聞かれます。勢いは 他ライバル自動車会社の成長率を上回り堅実に復活、再生してきました。 迷走を続けていたマツダの復活の原動力は何か? 眠っていたマツダ企業遺伝子(DNA)は何か?を検証します。

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第2章 広島の遺伝子

マツダ株式会社が、この広島で発展してきたことは、街としての潜在的要素があると 考えられます。この章ではこれらのことを歴史的・地理的要因を調査してまとめていき ます。

2−1 広島の風土・県民性

広島県は気候温和、土地また豊饒で大自然の恩恵を受けている。このなごやかな自然 の中に生い立つ県民は、性質温順で平和を愛し、快活無邪気な気質を具えている。 参考資料:「郷土読本」(広島県教育会)

2−2 広島の歩み

都市の商工業 広島市にはかつて革屋町、鍛冶屋町、鉄砲屋町、研屋町といった町名があったが、こ れは武具職人たちが集り住んだことから起こっている。 また紙屋町、油屋町といった商人町の名もあった。領主は城下町建設に際して、これ ら武具製造関係の手工業者と商人を集めて職種別に町を形成させた。 そのねらいは軍事的な意味とともに、領国経済の発展のために商工業を保護、育成す ることにあった。 鎌倉、室町時代には荘園領主が自領の繁栄を図り収入を上げるため市場を作り、それ ぞれの商品について座商人が営業を独占していた。しかし、安土桃山時代になると、諸 大名は従来の制約を取り除き、自由市場とした。これが楽市・楽座である。 それは農民が荘園のわくを破って小農民経営へと移っていこうとした新しい経済発展 に対応するもので、商人が集まることによって町が生まれ、農村と都市の分業が成立し たのである。 参考資料:「ひろしま歴史の焦点」(上)P125∼126 以上のように広島地区特有の発展を遂げたと考えられる。 タタラ製鉄(鉄山業) 中国山地では、かつて鉄山業が盛んであった。 鉄は鉄穴流し、タタラ、カジという三つの工程を経て生産された。 鉄穴流しとはかこう岩の風化土を崩し、水で流して砂鉄を採集することで、この砂鉄 (小鉄ともいう)をタタラに運んでけらとか銑と呼ぶ鉄にし、それをさらに鍛冶屋へ運

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んで錬鉄にし、一部は村の鍛冶屋に売り、大部分は主として大阪市場へ運ばれた。 これらの鉄は農具やナベ、カマなどの鋳物のなって消費者の手に渡った。 広島藩で製鉄が行われた地域は、奴可、三次、恵蘇、三上、山県、高田、高宮各部な どで、初めごろは民営であったらしい。しかし、このうち三次、恵蘇両部の鉄山は寛永 9年(1632)に設けられた三次支藩五万石の管轄となり、幕専売制度が行われてい た。 ところが正徳二年(1712)には支藩の藩営となり、それ以降支藩が断絶すると本 藩に吸収されて、藩営が続いた。 これに対して、奴可、山県郡などでは一般に民営が続いたが、延宝、天和年間に「御 買鉄」の名称で、広島へ集荷する方法が取られた。 これが藩統制の始まりで、その後元禄九年(1696)に藩は鉄座を設け、広島城下 元安川のそばの鉄蔵へ製品をすべてを集め、大阪の鴻池善右衛門へ売る方法を取った。 藩がこのような鉄を統制したのは、鉄が有力商品で藩財政にプラスになることと、鉄山 経営には多額の資本が必要で、民間では経営が難しかったからである。そのため寛政以 後徐々に藩営が実施され、寛永六年(1853)山県加計の佐々木家を最後に全部藩営 となってしまった。 鉄山通しは至るところで行われたが、太田川上流だけは広島城の堀が土砂で埋まると いう理由で寛永十年(1633)に禁止された。 タタラの作業場は、山内(さんない)と呼んでいたが、製鉄の燃料である木炭を求め て、十年ないし三十年ごとに移動した。山内は高殿を中心にして、元小屋(事務所)、 蔵、鉄池、下小屋(労働者の住宅)などがあり、周囲を竹や木で囲んで村から隔絶され た特殊な地域形成をしていた。工場長にあたる者を村下(むらげ)といい、炭坂(木炭 と砂鉄を投入する役)、炭炊、番子(フイゴ役)山子(炭やき)など労働者やその家族 200∼300人が生活していた。 山内労働者は世襲で、田畑を開いてはならぬとか、商人の出入りを禁ずるとかいった 独自のおきてに縛られたうえ、安い賃金で酷使されていた。彼らは明治以後、鉄山の廃 止とともに多くはそのまま山中で炭焼きや林業労働者、小作農民などになったが、他の 村民からは山内者とか、タタラ者、カジ屋者と呼ばれて、いわれない差別を受けた。 参考資料:「ひろしま歴史の焦点」(上)P137∼139

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いずれにしても広島の歴史は、鉄山業を支援して、発展してきたといっても過言では ないことがわかる。鉄山業は明治以後廃止にはなったが、それに携わっていた人材やそ のノウハウなどは地域のどこかに受け継がれていたと考えられる。 戦国時代においても、領主たちの覇権争いは、この「鉄(タタラ製鉄)」を支配するこ とが重要な役割を担なっていると考えられていたようだ。鉄は、ただ自ら武器を調達す るのではなく,戦略に利用したり、流通によって経済基盤を固める物資であったとも考 えられる。 参考資料:「鉄学の旅」(中国新聞社)P97・98 それではどのくらいの従事者がいたのだろうか。目安としての記述には、明治政府が 廃藩置県を断行する前年の明治 3 年(1870)広島県の北部では藩が四十八のタタラ と大鍛冶屋を営んでいた。そこにどれほどの人が働いていたか、はっきりしない。ただ 翌 4 年、広島県が誕生した時、旧藩営の鉄山で 1 年に仕入れる米が3万石だった。大ざ っぱに一人が年に一石消費するとして、製鉄従事者は家族を含めて約3万人。これには 砂鉄採取、製炭、運搬などの「合間稼ぎ」つまり兼業者は含まれていないから、製鉄関連 人口はさらに多かった。とある。 参考資料:「鉄学の旅」(中国新聞社)P160 タタラ製鉄は、経営難から廃業や業種転換も含め少しずつ時代とともに形をかえてい きます。ちょうど山陰の記録が残っています。 「角炉吹き」の企業化に執念を燃やす野島国次郎が、次々と社名を変えて悪戦苦闘してい るところ、山陰でもこの「西洋炉鑪」に注目した人たちがいた。鳥取県日野町の近藤家、 島根県の絲原家、隣町・仁多の桜井家、「官営広島鉄山」を継いだ「米子製鋼所」、そして 明治32年安来市に創設された「雲伯鉄鋼合資会社」などである。近藤家、絲原両家と米 子製鋼所は短期間で閉鎖しており、桜井家は昭和十年代創業の後発組だった。そんな中 「雲伯鉄鋼」は「安来鉄鋼」「安来製鋼」と社名変更し、大正半ば「角が吹き」を始めている。 これが特殊鋼「YSS ヤスキハガネ」のブランドを誇る現在の日立金属安来工場へとつなが る。 参考資料:「鉄学の旅」(中国新聞社)P209∼210 *マツダが戦後に再起をかけようと協力企業に足を運んだ際、立ち寄った工場の一つが 日立金属安来工場(元・たたら製鉄)であった。煙突から煙を出し、いち早く営業を開 始していたことに、とても勇気づけられたと松田恒次社長がコメントをしています。

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維新と広島藩 広島藩は長州藩・薩摩藩や土佐藩に並ぶ戊辰戦争で活躍はしたが、態度が曖昧だった ため明治政府では良い要職には着けなかった。 寛永六年(1853)六月、ペリーが浦和に来航して以後、日本は激動の時代へと突入 していった。広島藩の西隣に位置する長州藩は、元治元年(1864)蛤御門の変を起こ し、その罪を問われ幕府の追悼を受けることとなった。この際広島藩はその前線基地とな ったため、全国諸藩の兵二万八千余が城下にひしめくこととなった。 結局、殆ど戦闘は行なわれず、長州藩が謝罪の意を表して三家老の切腹などで決着させ たが、こうした処分不徹底は幕府首脳部の不満となり、慶応二年(1866)再び開戦と なった。しかし、高杉晋作・桂小五郎らの主導の元、兵備の近代化など改革が推進され長 州藩に、幕府は度々大敗するなど苦戦し、将軍家茂が大阪城で病死したことを理由に休戦 協定を締結した。この後、広島藩は長州藩・薩摩藩と共に倒幕同盟を締結したが、その半月 後には大政奉還の建白書を幕府に提出するなど、武力倒幕と大政奉還論の間で揺れていた。 慶応三年十月十四日、十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し、同日、薩摩 藩と長州藩には倒幕の密勅がくだされた。広島藩には密勅は下されなかった。 十二月九日、王政復古の大号令が発せられて新しい政府が成立、その夜、明治天皇隣席 の元、総裁・議定・参与及び尾張・越前・広島・土佐・薩摩五藩の重臣が参加して小御所 会議が開かれた。前土佐藩主山内容堂・土佐藩主後藤象二郎らは、徳川慶喜を加えた穏や かな改革を主張し、それに反対する岩倉具視・大久保利通らと意見が鋭く対立した。 この時に調停にあたったのが、広島藩世子で議定の任にあった浅野茂勲である。 茂勲は、後藤象二郎を広島藩重臣の辻将曹に説得させて事態を打開し、最終的にこの会 議では慶喜に内大臣の辞官と納地を奏請させることが決定された。 しかし、この決定に反発した徳川家及び会津・桑名藩などの旧幕府勢力は、慶応四年一 月三日、鳥羽・伏見の戦いを起こした。広島藩は、新政府側として戦闘に参加し、在京中 の藩兵約八百人が出動した。 以後約一年半にわたって旧幕府勢力と、新政府軍との戦闘状態が続く(戊辰戦争)広島 藩は、藩の備中松山征討、さらに応変隊・神機隊などの諸隊を北陸・関東・奥羽方面に派 遣することとなった。 参考資料:「ひろしま郷土資料館だより」 上記にあるように、広島県人は地域柄、多少曖昧な態度をとるようにみられる。 広島は現在も政府や大企業の支店経済のため、戦略的意思決定は少ない。

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広島を発展させた人物 広島市を中心とする安芸地方の歴史を見ると不思議に偉人・英雄が少ないところであ る。広島を大きく変えた歴史上の人物を挙げるならば、まず、初代広島県知事千田貞暁 と毛利元就・輝元父子しかいないのではないだろうか。 デルタの上に城を築き、今日の広島の都市の骨格を作ったのは毛利父子であったし、 維新後の低迷していた広島の町を港一つで日本の桧舞台に上げ、軍都としての性格を作 ったのは千田知事であった。 さらに、毛利父子と千田は、不思議にも置かれた立場と環境がよく似ている点である。 毛利父子が、戦国の末期乱世の中国地方で戦いを重ねながら統一していったと同様、 千田は鹿児島藩士として薩英戦争・鳥羽伏見の戦いから奥州に至る戊辰戦争まで近代日 本統一という錦の御旗のもとに白刃・砲弾の下をくぐり、新しい時代を創ってきた点で 一致している。 次に広島の発展は、海港に求めるしか策はないということを直感的に捉えていること も一致している。毛利父子は、芸北の吉田の山奥から広島湾頭に進出してきたが、それ までの守護大名はこの地をそれ程重視していなかった。武田氏が亡んだ後毛利氏は、広 島湾進出に、草津港を重視しその背後に城を築き、仁保山に城を築き、その間に位置す る五ヶ所村を築堤し、湾奥部の軍事拠点と経済活動の拠点を掌握する方向で地歩を固め た。 結局、それが今日の広島市の発展に結びついたのである。千田の場合は、頭の中には、 旧士族を食べさせるには、地域経済の活力を高める港湾整備しかないという考えがあっ たが、結果として、その港は後から詳しく述べるが、本人も思いもよらぬ方向で国の役 に立ち、広島の性格を大きく変えることになったのである。 さらに、毛利父子は・千田知事に共通していることは、後髪を引かれる思いで広島を 去らなければならなかったことである。毛利輝元は、関が原の戦いで西軍についたがた めに、後に防長二カ国に封じ込められ、折角築いた城と建設途上にある城下町を捨て断 腸の思いで去らなければならなかった。千田知事も、わが国では初めてといわれる六十 万坪にのぼる官製の干拓と近代港湾施設を完成させたが、多大な国費を費やした罪で、 竣工式も待たずに明治22年12月26日新潟県知事に転任を命ぜられた。左遷であっ たという。 その後和歌山・愛知・京都の府県知事を歴任、宮崎県知事を最後に明治31年退官し ている。宇品で情熱を燃やし尽くしたのであろう、その後広島時代の面影はなかったと いう。 その宇品港が日清戦争で大いに役立ち、彼はにわかに脚光を浴びて男爵を授り名誉を 回復した。 今日、当時は海の中の一本道であった宇品御幸通りは、周囲に家が立ち並び、築港当 時の面影はないが、千田貞暁知事の銅像が宇品御幸通りに面した一角の千田神社にある。

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神社は、公園として子供達の遊び場になっている。今日も、彼の名は「千田町」・「千田 神社」・「千田祭り」として広島県民の心の中にとどめられている。 参考資料:「広島湾発展史」P82∼85 移民の県広島 広島はとても移民が多い地域でもある、はじめは期間を区切って出稼ぎ状態であった が、のちに移民が増えていった。そのため、移民先などと交流は昔から盛んで、グロー バルな視点はこのようなところからもうかがえる。 広島県の西部地方は、安芸門徒の名で呼ばれるように浄土真宗の信者が多い地域でも ある。浄土真宗は教義で殺傷を禁じていたので、江戸時代にはこの地域では間引き・堕 胎などが行われず、他の地域に比べて人口増加率が高かった。 地域における過剰労働力は、デフレなどの影響で移民の数を増やした。 ハワイなどは当時の賃金の5∼10倍で、高賃金は魅力であった。 参考文献:「広島県の歴史」

2−3 軍都廣島の歩み

軍都としての広島の歩みは、1871年(明治4)年、東京・大阪・東北・鎮西の四 鎮台が設けられ、そして、熊本に本部を置いた鎮西鎮台の第一分営が広島に置かれまし た。ついで2年後、内乱の鎮圧と列強への対抗を目的として軍備の拡充がはかられ、微 兵令を交付するとともに、四鎮台を六軍管区に編制替えし、広島の分営は第5軍管広島 鎮台と改称されました。 更に、1888(明治21)年には、本格的な対外戦争に備えて軍制改革が行われ、 師団の編成ができました。広島鎮台は第5師団と改称されるとともに、歩兵・砲兵・工 兵・輜重(しちょう)兵で構成され、広島はしだいに軍事的な重要な都市となりました。 「軍都」という広島の性格を決定的にしたのは、1894(明治27)年にぼっ発した日 清戦争でした。ちょうどこの年、6月に山陽線の糸崎・広島間が開通し、5年前に完成 していた宇品港を利用して、広島は大陸侵略のための絶好の派兵基地となったのです。 宇品には、陸軍の運輸・通信・貨物の拠点が急設されて「臨戦地境」(戦場隣接地)と指 定されました。 また、9月には大本営が宮城の中から広島に移され、天皇はじめ政府・軍部の首脳が 広島にやってきて、広島は臨時首都になったのです。 日露戦争の頃までに、広島湾要塞司令部・陸軍憲兵隊・陸軍検疫所・陸軍幼年学校な

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どが設けられるとともに、陸軍の糧沫廠(りょうまつしょう)・兵器廠・被服廠などの 軍需品の製造・貯蔵所、およびその輸送を担当する陸軍輸送本部も設けられました。 こうして、広島は明治末年(1911)頃までに多くの軍隊と軍事施設を備えた「軍 都」となりました。その後、軍隊および軍事施設はしだいに増強、増設され、太平洋戦 争時には、軍事使用地は旧市内の五分の一に達したといわれています。 時代が下りますが、1945(昭和20)年4月、日本国内での米軍との戦争に備え て、三重県の鈴鹿山脈を境に全国を東西に二分し、東部管轄の第一総軍の司令部は東京 に、西部管轄の第二総軍の司令部は広島におかれました。「八・六」当時、広島は西日本 の陸軍司令部の所在地であったわけです。 *大本営とは、天皇直属の最高戦争指導機関 参考資料:「軍都ひろしま」(日本中国友好協会広島県連合会) 呉と海軍・海軍工廠 呉浦が、それまでの平穏な村落から世界的な軍港へと変わっていった最初のきっかけ は、1883年(明治16年)に行われた海岸の調査によります。その結果、呉が、当 時の考え方からして軍港最適地であると判断され、横須賀についで二つめの海軍鎮守府 を置くことが決定されました。調査から6年後の1889年(明治22年)に、呉海軍 鎮守府が開庁し、同時に造船部が開設されます。 戦前、日本には四つの海軍鎮守府と、その管轄下にある海軍工廠が存在し、戦艦・空 母などは呉と横須賀で、巡洋艦は佐世保で、駆逐艦は佐世保と舞鶴で、潜水艦は呉と横 須賀で造るという生産態勢が出来あがっていました。その中でも、呉は瀬戸内海という 波静かなところにあり、艦隊の訓練をする場所として適していたことから、呉海軍工廠 では造船・造機・造兵・製鋼・艤装・検査・実験部など、機能強化が集中的に行われ、 最新技術の導入が可能となりました。こうして新造艦艇の兵器と鋼鉄は、すべて呉から 製造供給されるようになったのです。 呉の工員の数が他の海軍工廠の合計を越えていった過程は、「日本で初めて造られる もの」から、「世界で初めて造られるもの」へと、その能力を高めた形で表され、呉海 軍工廠は「東洋一」といわれるほどでした。 参考資料:「呉の戦災」(呉戦災展実行委員会)P2∼3 軍事基地と「共存共栄」する「平和産業都市」 呉は、海軍基地が設置されたことによって人が集まり、やがて「呉市」になりました。 侵略戦争の拡大とともに基地は大規模化し、人口は増え、市域は拡大していきました。 このことは、よく「発展」ということばで表現されますが、同時に「海軍に依存せざるを

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得ない」という、呉の体質ができあがっていったことは否めません。 そして、アジア、太平洋戦争の末期には、呉は激烈な空襲を繰り返して受け、海軍と ともに壊滅したのです。 戦後の呉の最大の課題は、海軍が消滅してしまったところからどうやって立ち直るか、 でした。その悩み、迷いのなかから、海軍施設の平和的利用をいようという考えが生ま れ、1950年(昭和25年)6月に「旧軍港市転換法」呉市民の圧倒的支持をえて、公 布されたのです。それは、「平和産業港湾都市」として呉があゆんでいく第一歩でした。 しかし、同じ1950年に始まった朝鮮戦争は連合国軍総司令部(GHQ)の対日政策を 変えてしまい、戦後日本の再軍備化を促進させました。それにともなって、呉には再び 軍艦の姿が見られるようになり、やがて海上自衛隊の設置により「基地の街」という姿に 戻って、現在にいたっています。 海軍施設は、かなりの部分が産業用地として転用されましたが現在も基地のある場所 は、そのほとんどがいわゆる 一等地 であり、また呉湾内中心部の140万平方メー トルが自衛隊占有海域となっており、民間船舶の立ち入れない場所となっています。市 内の国道を、弾薬を積んだトラックが走ることがあります。 呉市は「平和産業港湾都市」、として「非核平和都市」を名乗り、同時に市の基本姿勢と して、基地との「共存共栄」をうたっています。 軍事基地・軍事施設とともに歩んできた呉の歴史を振り返ることにより、私たちは、 呉の平和的な発展を思い描いていくことができるはずです。 参考資料:「呉の戦災」(呉戦災展実行委員会)

2−4 要約

この章では、広島の歴史を振り返ることによりマツダと広島の関係を分析するととも に、広島の遺伝子がマツダの遺伝子に及ぼした影響を分析する。 広島の歴史から見える特徴は、次の通りである。 <広島の特徴> ・中国山地の地形は、タタラ製鉄を育てた。そこで、培われた鉄に対するノウハウが 蓄積されている。 ・瀬戸内海の地形や開拓は宇品・呉という軍港を中心に発展してきた。広島は「広島 鎮台」が設置され糧沫廠・兵器廠・被服廠などの軍需品の製造・貯蔵所、およびその 輸送を担当する産業が勃興し軍需を中心に産業が発展してきた。

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これらの特徴から、鉄(たたら製鉄)と機械(軍需技術)をキーワードとする産業形 成の土壌と人材があったものと考えられる。この土壌から生まれた産業の一つが「マツ ダ」の自動車産業であったのではないだろうか。 また、軍需産業の特徴として、次の事項があげられる。 <軍需産業の特徴> ○技術開発最優先 軍需産業は、軍部が要求するシステム、機器・装置、部品および材料・資材など機能 を提供する。軍需産業に携わる企業は、求められる機能を満たすため世界最先端の技術 開発力を最優先するようになった。 ○原価管理意識の欠如 軍需産業は、発注者が日本国ということで、契約履行が安定しているため、不況のあ おりを受けにくい。市場競争におけるような売価という意識が少ない。 このため、売価は「原価+利益=売価」で決められる傾向が高い。企業としては、経 営が手堅いものとなり、売価と品質・機能のバランスよりも世界で最先端の機能を開発 し製造することに専念することが出来た。 この軍需産業で形成された遺伝子が、マツダの「物づくり優先」の遺伝子に引き継がれ ていた。

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第3章 広島の復興を支えた起業家たち

3−1 第二次世界大戦後の広島

下記のデータにあるように、広島は壊滅状態となり過去のさまざまな財産など、ほと んどを失った。 原子爆弾による広島市の被害状況 原爆被害の特質 1.強烈な爆発作用による「大量破壊」「大量殺戮」 2.大量被害が瞬間的かつ斉一的にひき起こされること 3.社会的欠損や経済的欠損が著しいうえに、熱傷や放射線による後障害によって継続 的に健康がそこなわれたり、その不安がつきまとい、これらが複雑にからみあって、 被爆者の健康や生活の回復にさまざまなハンディキャップが課せられていること 死亡者数 約 14 万人(誤差±1 万人) 1945(昭和 20)年 12 月末現在(当時広島市には約 35 万人がいたと推定されている。) 建物の被害状況 原爆が市街地のほぼ中心で爆発したことと、建物の約 85%が爆心地から 3 キロメー トルの範囲内にあったため、被害は市の全域におよび、建物の 90%以上が焼失また は破壊された。(1946 年 8 月 広島市役所調査) 参考資料:ヒロシマ・ピース・サイト http://www.pcf.city.hiroshima.jp/peacesite/Japanese/Stage1/S1-5J.html

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3−2 広島の復興を支えた起業家たち

広島昭和経済史抄 生の声をインタビューしたかったのですが、現在では復興について語っていただける 方は少なくなりました。 下記は数少ない記録で、広島経済人の昭和史(Ⅰ)(2)にインタビューで登場され た広島の経済人の方々です。 インタビューに登場された経済人 名前 代表職 飯田 信雄 広島綿綿株式会社 社長 井藤 勲雄 株式会社広島銀行 頭取 伊藤 信之 広島電鉄株式会社 社長 金田 義夫 三菱製鋼株式会社 社長 河村 郷四 東洋工業株式会社 専務 真田 安夫 中国電力株式会社 副社長 筒井 留三 株式会社新興金属工業 社長 原 幸夫 中国工業株式会社 社長 森本 亨 株式会社広島相互銀行 社長 山根 寛作 中国電力株式会社 社長 参考資料:広島経済人の昭和史(Ⅰ) 広島経済人の昭和史(Ⅱ) ―対話した各経済人の動向にそくして― 昭和史と開幕と「金融恐慌」 昭和史の幕開けとなった昭和元年は、周知のように、わずかに一週間であった、ただ ちに昭和二年をむかえるが、その三月、まず「金融恐慌」が銀行を直撃している。 ときの蔵相片岡直温が、破綻してもない渡辺銀行を、「ついに破産した」と、議会で失言 したことに端を発した恐慌であった。預金者が預金引出しを求めて、銀行の窓口に殺到 するというとりつけ騒ぎが、全国の銀行を巻き込んだのであった。広島でも、まず、広 島産業銀行が預金の支払いに応じきれず休業に追いこまれ、騒ぎは、ほとんど県下の各 行におよんでいく。芦品・東城・三次実業の各行が休業に追いこまれたのである。 対談した 10 人の経済人のうち、森本 亨氏はすでに大正12年11月に広島無尽を 創設して支配人となっており、この恐慌をつぶさに体験している。 また、河村 郷四氏は、この恐慌のさなか昭和2年4月に芸備銀行(現・ひろしま銀 行)に入行すれことになる。預金者のおしかける福山や三次の支店に20万円、50万 円と現金輸送する仕事を、この入行早々の河村氏が、いの一番に志願して引き受けたと

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いう。 氏は、「パニックもわれわれ若いものには、一種、愉快なものでした」と、当時を回想 している。 飯田 信雄氏も、この同じ昭和2年に両親に乞われて、早稲田大学の予科を中退し、 家業の捺染(染織)工場をつぐことになる。氏は「金融恐慌」のとき、芸備銀行の前を通 りかかって、2階の窓から日銀の支店長が「芸備銀行は、日銀が絶対にめんどうをみま すから」と群衆を説得にかかっているのを目撃しています。 一方、この年5月に山根 寛作氏が山口県電気局に入局し、真田 安夫氏が広島電気 局に,「大学出などは不要」といわれる状況のなかで入社している。 これらは、いずれも中国電力の前進である。期せずして、昭和の開幕とともに、これら のひとたちの経済界での活躍が、それぞれスタートしているのである。 このあと、昭和4年から5年にかけては、世界大恐慌のあおりをうけて、いわゆる「昭 和恐慌」となり、また、5年には、ロンドン軍縮の締結が、当時、東洋一の兵器廠とい われた呉海軍工廠に大量の人員整理をもたらすなど、総じて昭和初期は深刻な不況の連 続であった。 しかし、この間にあっても、日本経済は、むしろ順調な成長をとげつづけていたので ある。昭和元年と同10年を比較すれと、広島県工業生産額は、43,7%も上昇して おり、広島市のみをとれば、64,9%と、さらに高い上昇が記録されたのであった。 この時期、物価は漸落(ぜんらく)傾向にあったから、工業生産は、実質的にかなり拡 大していたことになる。2年2月、広島市議会は、現在の政令指定都市にあたる「特別 市制」の実施を要望する決議をなし、商工会議所は、「大広島」の建設を提唱し、4年7 月には、周辺7町村の編入が実現する。同3月から5月にかけては、昭和産業博覧会が 開催され、総入場者数が225万人にも達している。同じ昭和4年の10月1日には県 下初のデパートとして、福屋百貨店が開業し、八丁堀かいわいには、入店できないひと の波がうずを巻くほどの上々の人気を呼んでいる。この福屋の有力な出資者は、日窒 コンツェルンの総帥野口氏であった。野口は広島電燈や東洋工業の経営にも参画して、 本格的な広島進出を企図していたのであった。芸備銀行を退行したあと、昭和9年に東 洋工業に入社していた河村氏は同社の重役であった。その野口のもとによく経理の説明 の通ったという。当時、野口は、旧白島線の電車筋に大邸宅をかまえており、「ぐずぐ ずするのがきらいで、とても忙しいひとで、経理にもやかましかった」と、河村氏が、 その印象を語っている。 参考資料:広島経済人の昭和史(Ⅰ)P1∼4 東洋工業の三輪トラック生産開始 広島経済の中軸のひとつをなす東洋工業(現・マツダ)は、コルクの生産からスター トし、やがて呉工廠へのゲージ類納入など、機械製造にすすんで、しだいに発展の基礎

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を築きつつあったが、昭和6年10月には、三輪トラックの販売にふみきり、自動車生 産への進出をはたすことになる。安芸郡府中村に工場が建設され、この日本に特有なタ イプのトラックが製造されていく。それは二つの点で画期的であった。その第一は、部 品・エンジンをすべて国産化しえたことであり、いま一つは、大量生産システムの導入 にふみきったことであった。その販売は当初は、三菱商事が一手にひきうけており、車 体にはスリーダイヤのマークが付されていた。野口の口ききによるものであった。 野口は、また、東洋工業にドイツ製のさく岩機をもちかえって、その製作をすすめて いる。自らの朝鮮の長津江の開発に、その大量の使用をもくろんでのことであった。 東洋工業は、その後、さく岩機のトップ・メーカーにも成長していくことになるのであ る。 三輪トラックが販売された昭和6年には、原 幸夫氏が商工省に入省し、当時、その 所管下にあった保険部において官史生活をはじめている。また、伊藤 信之氏は、すで に室蘭駅長などをへて、この2年間の欧米留学に出立している。帰国後、昭和10年に 広島鉄道局の総務部長として、広島に赴任してくることになる。同じ6年1月、森本氏 は、広島無尽の専務取締役に就任しており、10年末には、八丁堀に本格的な新社屋を 建設する。 ついで、昭和9年には井藤 勲雄氏が芸備銀行(現・広島銀行)に入行しているが、 貸付の窓口からみて、東洋工業の経営は、なお不安定であったことを述壊している。 真田氏は、この時期、大型の電害研究に没頭しており、水力発電所の建設にたずさわっ ている。この広島電気が、滝山川の水権利をめぐっての係争で、野口に勝訴したのが、 6年7月であって、これを契機に野口の広島での活躍は終わるのである。 *野口氏は活動の場を宮崎県にうつし旭絹織(現・旭化成)をおこす 参考資料:広島経済人の昭和史(Ⅰ)P4∼6 軍需生産への傾斜 昭和9年12月、日本はワシントン軍縮条約の破棄を通告し、いわゆる海軍休日は終 わりを告げる。この年10月、すでに日本海軍は、世界最大46センチ砲の研究に手を つける。のちに世紀の巨艦 大和 に搭載される巨砲であり、この、 大和 が呉工廠 で起工されたのは、昭和12年11月のことであった。12年7月の日中戦争勃発以後、 広島の経済も急速に軍需生産に傾斜していくのである。 13年1月には、陸軍大臣により東洋工業に歩兵銃の生産が下命される。ようやく三輪 トラックのトップメーカーとしての地歩を築き、乗用車への進出をもはかりつつあった 同社の企図は、ここにおいて挫折し、軍需産業としての発展をよぎなくされるにいたる。 河村氏によれば、「自動車こそ戦時に必須の輸送機関じゃないか」と、当初は反論したと いうが、結局は陸軍側の大量生産の要請に応じていき、それがまた、同社の飛躍的な拡 充をもたらすことにもなる。

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同じ昭和13年の暮、筒井 留三氏は、新興金属工業所を創設する。同氏は、それま では大竹でたとう紙をつくっていたのであるが、日中戦争勃発を契機に、一念発起、宇 品造船所の下請けとして、舶用ポンプ部品などの鋳造品の製造を開始したのであった。 その後まもなく、三井造船にも納入し、さらに呉工廠からシルジン青銅を受注し、まさ に新興金属の名にふさわしい発展をとげていくことになる。この年にはまた、粉糾しぬ いた電力国家管理の関係法が議会で成立し、広島電気も水力をのぞく発送電を国家管理 に委ねる。同じ年に広島電気の子会社としての広島電機製造が創設さている。電力国管 対策の一つでもあったが、同社は現在の中国電機製造であり、のちに真田氏が、その社 長をつとめることになる。 参考資料:広島経済人の昭和史(Ⅰ)P6∼7 戦時経済統制 軍需産業化がすすむなかで、経済統制があらゆる分野に及んでいく。まず、昭和13 年6月から綿製品の制限令が制定され、飯田氏の経営も、その直接統制下に入る。この ため飯田氏は、被服廠の軍服やテントの染色を手がける。氏によれば、「比較的余裕の ある価格」で受注しており、相当の利益にも浴したようである。それでも織機の錘など の提供を強いられ、かわってコンクリートのおもしを使うようになったという。 戦時経済下に強行されたものに、広島工業港修築工事があった。いっきよに98万坪 の工場地帯を造出するという目標のもとに、広島湾岸の大規模な埋立て工事が、昭和1 5年11月に起工される。そのうち、観音・江波両地先の埋立地に三菱重工業が進出し てくるのである。海軍の管理下で計画造船という名の大量生産方式を実現するという課 題にそうもので、18年4月に工場を起工、ただしその竣工をまたずして、戦時中に一 万一千トンの戦時標準船を建造するにいたる。この広島三菱造船所の立地は、広島経済 の展開に画期的な影響をもたらしたのであった。なお、同じ計画造船の要請で、三津町 (現・安芸津町)には三井造船が進出したが、この方は戦後は閉鎖されるにいたってい る。 金融機関の統制もすすむ。16年4月、広島無尽は、芸備・双益・山陽の三無尽と合 同する。森本氏によれば、大蔵省の指導で、「むりやりに合併」ということになるが、 これで戦後の広島相互銀行の前身としてのかたちが整う。ただ、軍港地帯の特殊性が考 慮されて、呉地区では、べつに二無尽が合併する。一方、芸備銀行が「一県一行」主義 の大蔵省の方針により、県下五行の合併をとげて再発足するのは、かなりおくれて、2 0年4月のことであった。その芸備銀行で、井藤氏は19年に平田屋町支店長代理とな っている。同支店は本通筋にあり、同氏は毎朝、その本通をぶらぶら歩いて、洋品を扱 っていた河口屋などに立ちより、本もののコーヒーを馳走されたりして、ゆうゆうと通 勤していたという。逼迫した戦局のなかでは、かなり優雅なひとこまではあった。やが て氏は本店に入り、預金課長を務めるのである。

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その他、昭和18年4月には、バス会社の統一運営が強行されている。その前年4月 に鉄道省から広島電鉄へ、伊藤氏が常務としてむかえられており、このバス業者の統合 を指導したのであった。また、電力企業では16年から17年にかけて、第二次国管が 実施されて、中国地方の電力会社をすべて統合して、中国配電が創設される。その本社 が広島におかれ、真田氏は新会社の企画課長に就任している。もっとも力を入れたのは、 発電所や変電所の空襲からの防衛対策であったという。なお、氏は十五年に「満州」の 工業視察のため三週間の旅にででいる。同じ年の暮、原氏は岸信介氏のすすめで、商工 省からその「満州国」官吏に派遣されている。敗戦まで「満州」で鉱務課長などをつと め、本土にもまさる統制経済を推進したのであった。一方、労務統制もすすめられたが、 河村氏は、すっかり軍需会社化した東洋工業において、18年4月以来、取締役労務部 長をつとめ、労務動員の第一線で活躍していた。徴用工・女子挺身隊・学徒などを監督 して、戦時生産の遂行にあたっていたわけである。 参考資料:広島経済人の昭和史(Ⅰ)P8∼10 原爆被災 昭和20年8月6日朝、アメリカ空軍の投下した一発の原子爆弾により、広島市は、 まさに壊滅的な破壊をこうむった。一瞬のうちに20万人以上の死傷者をだすという人 類史上かつてない惨状をていしたのであった。被害の全容は、現在なお明確でないが、 推計の一つによれば、資産の被害総額は、8億8410万円とされる。それは当時の広 島市在住人口の約三年分の所得に相当するとも推定されているのである。市内の銀行・ 商店・工場の大部分が全焼全壊し、一時はすべての産業経済活動が全面的にストップし たのであった。 ここに登場する経済人10人については、うち6人が当日、広島に在住していた。ま ず、真田氏は出勤途次、広島駅から市内電車に乗ったところで被爆、頭部に大けがをし た。その後、頭のしびれを訴えたが、しかし、一日も欠勤せず、電力の復興に没頭して いる。ただ、市女二年生だった長女は、疎開作業中、爆心地近くで被爆、そのまま行方 不明となり、また、小学校二年生の長男も、11月に原爆症で死去したのであった。ま た、伊藤氏は、広電の本社裏で朝礼中に被爆したが、いちおう無傷であった。ただちに 電車復興の陣頭指揮をとっている。ただ、同氏も女学院在学中の長女を、学徒動員で鉄 道局に勤務中に失っている。さらに河村氏は、その朝、すでに東洋工業に出社していて 被爆をまぬがれたが、やはり家族全員を失った。 一中在学中の長男は疎開作業で、三女は自宅の下敷きで死亡、さらに夫人と次女は、 被爆症で一か月もせぬうちに死去、氏は東洋工業のグランドで、材木を集めて、自ら家 族をだびにふしている。三氏とも心中実に痛恨のきわみであったろう。 一方、森本氏は、当日朝、向原の実家にあって、通常、乗るべき芸備線の二番列車を、 その日にかぎって乗りすごしたため、偶然、被爆をまぬがれている。ただの偶然ともい

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えず、「なにかもっと大きな力を感じて、」人生感が変わったという。井藤氏も前日、家 族の疎開先の温品にでむいていて、当日朝、やや遅刻してでようとしたところで、原爆 投下となり、被爆をまぬがれている。なお、筒井氏は、爆風でその工場のほとんどに損 壊をうけたが、自身は無傷であった。 三菱長崎造船所に入所していた金田義夫氏は、このとき、名古屋航空機に転勤が決ま り、八月七日に長崎を立ったため、被爆直後の広島をとおっており、くしくも長崎・広 島の両原爆投下を間一髪まぬがれている。その他、飯田氏は兵役についていて、上海近 郊にあり、原氏は「満州国」官吏として、新京にあり、山根氏は、中国配電の山口支店 にあって、いずれも、原爆には無関係であった。 ところで、かなり重要なポイントで、原爆の被害が比較的軽微にとどまったことも、 みのがせない事実であった。なかでも、需要工場の大部分が被爆地から一定の距離の外 にあったことが注目される。たとえば、三菱広島造船所が 3.7 キロ、東洋工業 5.3 キロ、 三菱工作機械 5.5 キロ、日本製鋼所 6.2 キロなどとなっていて、いずれも全焼全壊地域 の外周に位置していたのであった。広島の戦後の復興も、その後の発展も、いわばこれ らの「遺産」を継承してこそ、なしとげられていくことになるわけである。 参考資料:広島経済人の昭和史(Ⅰ)P10∼12 敗戦後の経済混乱 原爆投下直後、広島市の産業経済は、極度に荒廃・混乱した。「70年は殺人性の放 射能が残る」と、昭和20年8月8日付の『ワシントン・ポスト』が報じていたのであ った。しかし、被爆の翌日から各方面で、すでに復旧への営みが活発にはじまってもい た。 まず、市民生活の安定に不可欠なものとしての電気の点灯が急がれた。被爆直後、真 田氏は、広島電気の支店長に就任して、その復旧作業の先頭に立つ。本社ビルで死亡し た50人余の遺骨を元社長室に安置したが、そのビルも外郭を残すのみであった。手の ほどこしようのないほどの破壊のなかで、作業は営々とすすめられた。ただ、その復旧 にかり集められた従業員中にも被爆者が多く、「きのう、きとったひとが、きょうはき とらん」というふうに、つぎつぎに死亡していったと、真田氏は当時を想いおこしてい う。それでも、8月末にはすでに市内の3∼4割に点灯するまでにこぎつけたのである。 市内電車の復旧も、精力的におこなわれた。無傷で残っていた電車は、わずか三両の みであったが、残った従業員のほか、挺身隊の助力などをえて、屋根のふっとんだ電車 の修理がすすめられた。広電の多山社長は、被爆して似島に収容されており、常務の伊 藤氏が、これらの作業の全責任を負ったわけであるが、「とにかく電車を走らせば、街 に活気がでるだろう」という一念で、作業を急がせたという。9月末ごろに、すでに広 島駅から江波までなどの路線が開通しているのである。 金融面の応急処置も、急を要したことの一つであった。銀行の多くは爆心地に近く、

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被害ももっとも大きく、ほとんどは使用不能におちいっていた。ただ一つ日銀支店がど うにか使用しえた。このビルも三階と二階は破壊されていたが、一階のみが、ようやく 残されていたのであった。当時、芸備銀行の貸付課長の職にあった井藤氏が、8月7日 に、その日銀にいき、そこを12区分して、各行の窓口にわりあて、9日から銀行業務 が再開されるのである。また、広島無尽も本店は全焼しており、やはり庶民金庫(のち の国民金融公庫)の一画を借りて営業を再開した。森本氏によれば、「窓ガラスもなに もない吹きさらし」であったという。いずれも主として、支払い業務のみであったが、 その資金は、もっぱら日銀に依存した。それも役印なしの手形でということであり、顧 客側にも印鑑や通帳を喪失したケースなどもあった。 しかし、銀行は、むしろ取りつけ騒ぎなどの風評のたつことを警戒して、積極的に支 払いに応じた。しかも森本氏によれば、「あとで調べて二重払いや詐欺などのたぐいは 一件もなかった」という。大混乱のなかにも、さしたる人心の離反もなく、ともかくも 信用が維持されたわけである。 敗戦後の混乱のなかで、もっとも活況をていしていたのは、闇市であった。配給ルー トのらち外に、公定価格を無視した価格で、禁制品が、でまわったのであるが、広島市 では敗戦後三日めにして、すでに卒然と闇市が出現している。広島駅前のほか、己斐・ 天満・横川・宇品・鷹野橋・住吉橋・八丁堀などに簇出したのであった。飯田氏が中国 から帰還してきた昭和21年3月ころは、まだ街は荒廃しきっており、氏の染色工場も、 すべて倒壊したままであった。氏は福屋の裏の戎町にバラックを建てて、「統制にかか らないものを集めて売ろう」と思いたつ。輪島塗や信楽焼の火鉢などを、現地から仕入 れて販売したところ、それがとぶように売れることになる。本職の繊維関係が復活した のは、22年で、広島綿スフ卸組合を組織して、組合長となり、翌23年10月には広 島綿業㈱を発足せしめて、その社長に就任するわけである。 一方、食糧難・住宅難などに加えて、インフレが猛威をふるいはじめた。対策のひと つとして、昭和21年2月には、「金融緊急措置令」が公布され、預貯金の封鎖が断行 された。芸備銀行の貸出課長であった井藤氏は、これがさしたる混乱なく実施されるな かで、金融機関も一息ついたが、戦後第一回の貸付は、食糧団体が相手であったという。 これより先、20年11月、森本氏の広島無尽は、牛田に民家を借りうけて営業、21 年6月、第百生命ビルの2階を借りて、ようやく八丁堀に復帰することになる。 他方、経営面では、資金難・資材難が深刻であったが、加えて労働運動が高揚した。 東洋工業では、労務担当取締役として、河村氏が労働攻勢の矢表にたっていた。敗戦直 後には比較的スムーズに大量の人員整理が実施されたが、21年2月には従業員組合が 結成され、5月には1ヶ月以上におよぶストライキに入る。その修拾後、組合長などが 整理され、親和会などの融和のための組織などが生れてくる。各種の社内福施策が講じ られるようにもなるのである。いまひとつ労働運動の激しかったのは、電産に結集した 中国配電のそれであった。21年秋からはストライキが頻発して、電力不足とともに危

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機感をあおった。労使双方とも労組のあり方を模索していた時代であったと真田氏は述 懐している。 また、工業生産の再建をはばんでいたものに、賠償指定があった。県下でも呉工廠・ 日本製鋼所・東洋工業・三菱重工業・日本発送電坂発電所など、主要工場が指定され、 広島市では「六工場、五万人が路頭に迷う」として、商工会議所が指定取消しの陳情運 動にたっている。24年5月に中止が声明されるまでは、生産復興は、容易に軌道にの りえなかったのである。 こうした困難な状況のなかで、さまざまな復興の構想が熱っぽく提起されてもいた。 敗戦直後の8月17日には、早くも中国復興財団が「敗戦ノ原因トナリシ社会機構ヲ探 求改革シ、自主的ニ国民生活ノ安定確立ヲ図ルコト」を目的に組織される。21年1月 には広島市に復興局が設けられ、2月には政財界の中心者を集めて、復興審議会が発足 する。真に「百年の大計」が求められていたのであったが、現実は雄大な構想をともす れば萎れさすほどきびしく、とくに最大のあい路は、資金難であった。資金面から見れ ば、復興はまさに「百年河清を待つ」の感が強かったのである。資金捻出のためには、 移県民としての特性に訴えて、海外からの募金もすすめられた。軍都として多く残され ていた旧軍用地の払い下げも、資金対策の一つとして追求され、その特別措置をすすめ るために制定されたのが、「広島平和記念都市建設法」であった。同法が公布されたの は、24年8月6日のこととなる。 この年は、いわゆるドッジ・ラインが強行された年でもあった。高進するインフレに たいし、GHQ経済顧問ドッジが、一連の超デフレ政策を強制したのであった。このた め、同年5月には、広島市の小売物価が前年比 3.9%マイナスと、戦後はじめて下落に 転じるなど、インフレは急速に終息していったが、一方、日本経済は破局的な不況にお ちこんだのであった。広島出身のときの蔵相池田勇人(のち首相)は、「古典的資本主 義の信条の持主」と、ドッジを評したが、この施策は、まさに、1930年代以降の経 済政策の流れに、まっこうから逆行した時代錯誤的なものにほかならなかったのである。 戦後の混乱は、いわばその極に達していたともいえるが、少しずつ復興に兆もみえは じめてきてはいた。筒井氏の新興金属では、23年にうずまき式ポンプという、画期的 な開発が実現していた。金田氏は戦後、広島造船所の鋳鋼工場長に就任し、ナベ・カマ の製造などで、一時しのぎをしながら、本格的な生産再開にそなえていた。また、21 年10月に「満州」から帰国した原氏は、東京での特許局勤務をへて、23年7月、広 島商工局長(のちの通産局長)として帰郷してきていた。郷土産業たる製針業の振興な どに意を注ぎ、電力不足の解消などにむかって、必死にとりくんでいたのである。 参考資料:広島経済人の昭和史(Ⅰ)P13∼18

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産業・経済の再建・復興 昭和20年代前半は不確実な再建への模索にすぎ、24年から25年にかけては、深 刻なドッジ不況にあえいでいた日本経済であったが、25年6月に突発した朝鮮戦争が、 くしくも、その起死回生剤となった。米軍の特需をうけて、ブームに湧き、日本経済は、 ようやく復興への巨歩をふみだしていくことになるわけである。 県下でも車両部品・木材・かんずめなどの特需を中心に、その波及効果をもふくむと、 わずか一か年で、その受注は、20億円にもおよんだと推計されている。その刺激をう けて、輸出も24年を 100 とすれば、26年には 467 と急伸した。その中心はぬい針で あったが、それらの直接間接の効果が、各産業におよんだ。東洋工業では、三輪トラッ ク生産が最盛期をむかえる。同社の「営業報告書」は「文字通り日夜その受注消化にお われて居る状態」といい、「各種三輪トラックが 10 分間に一台づつの割合で組立工場の 近代的コンベアーラインを辷り出ている」と、活況を伝えてやまない。この間に三輪車 の大型化や性能の向上がはかられ、積極的な車体の改善などをつうじて、業界第一位の 地歩が着実に築かれていくのである。販売拡充のキャンペーンも、派手におこなわれた。 28年秋には、当時、人気絶頂の喜劇俳優柳家金語桜のハンドルさばきで、広島−東京 間を宣伝走行するという型やぶりのP・Rがおこなわれたりした。河村氏は営業担当常 務として、このP・Rを演出し、ゴールの有楽町日劇の舞台で、三輪トラックでのりつ けてきた金語桜と固い握手をかわしたという。 この朝鮮特需ブームによって、日本経済は、急速に復興するてがかりをつかみ、翌2 6年には、ほとんどの経済指標において、ほぼ戦前水準を回復するにいたる。この年に は、かなり難航した電力再編成が実現し、ここでも、中国配電と日発を合して中国電力 ㈱が発足する。この新会社にあって、山根氏は総務部長に、真田氏は営業部長に就任し ている。再編成といえば、金融界では、同じ年に「相互銀行法」の制定があり、広島相 互・呉相互の二行が再発足している。それぞれ、無尽会社からの再編成であったが、そ の無尽という日本固有の金融方式について、占領軍が容易に理解せず、これを説得する 過程で、相互銀行化がはかられるという特殊事情が介在したと、森本氏は述べている。 とくに県出身の池田蔵相が、「相互銀行への転換は、中小企業のために不可欠」と力説 したという。その池田は、銀行として再発足したのを、「馬子にも衣裳」など冷やかし たというが、これを機に、広相は、急成長をとげていく。新発足後三年半で、預金量は 14.5 倍と顕著な増大を示しているのである。 この時期には戦時体制を解体して、新しい企業体制が各分野で再編されていったわけ であるが、三菱重工業も三分割されて、昭和25年に広島造船所は、その一つたる西日 本重工業に組入れられている。ただ、同造船所は、そこにいたるまでに、あわや閉鎖の 危機に瀕したりもしている。22年9月には、「広島造船株式会社」としての独立案が 提起され、もし、また再編成後も、26年に独立会社構想が再燃している。 このとき、第一回世界冶金会議に出張する金田氏は、本社に立ちよって、丹羽社長か

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