5−1 マツダ株式会社の企業遺伝子の原点
マツダの社名の由来
マツダの社名の由来は、創業者である松田重次郎氏の姓だけではない。自動車産業の光 明としてありたいという願いから、叡智・理性・調和の神「アフラ・マズダー(Ahura Mazda)」
にもちなんでいる。
そのため、マツダのコーポレートマークは「MATSUDA」ではなく「MAZDA」と表記される。
(2003/09/30)
※アフラ・マズダーは、ペルシャ神話に出てくる神。火を崇拝するゾロアスター教では太陽神と して信仰されている。
参考資料:オートギャラリーネット
(http://www.auto-g.jp/carlife/zatsugaku/2003_0930.html)
松田 重次郎(創業者)の強い思い
松田恒次2代目社長が、(歴史をつくる人々・父の思い出)で創業者・重次郎のエピ ソードを下記のように語っています。
父の生涯は“機械技術への執念”につきる!!
“少年のころ、郷里広島の片隅でみた鍛冶屋の光景が、父の子供心をとらえて、機械技 術への恐るべき執念をかきたてたのである。
フイゴの小さな窓がパッパッパッと音を立て、青い焔をあげる炭火の中から、真っ赤に 焼けた鉄が引っぱり出される。それが鉄床(かなとこ)の上で打たれ、伸ばされ、形づ くられていく・・・・この素朴だがたくましい姿が、幼い心をうごかしたのであろう。
父はわずか十四歳にして、すでに一生涯の仕事として、“機械づくり”を心にきめ、故 郷をはなれ、母を残して大阪の地へ飛び出していった。ここから、父の長い“技術遍歴”
がはじまるとともに、今日の東洋工業への一本の道が延々とのびていくのである。“ 参考資料:歴史をつくる人々東洋工業社長松田恒次
松田重次郎の職歴
年齢 職歴
鍛冶屋(大阪)
機械鍛冶屋(神戸)
呉造船(呉)
14歳〜20歳
砲兵工廠(大阪)
20歳 鉄工所(大阪)
<独立>→<失敗>
三菱造船(長崎)
20歳〜28歳
海軍工廠(佐世保)
28歳 呉造船(呉)
工作船三池丸(出張軍艦修理責任者)
28歳〜32歳 砲兵工廠(大阪)
32歳〜35歳 鉄工所(大阪)松田式ポンプ製造・販売
<独立>→<乗っ取り・失敗>
35歳〜43歳
鉄工所(上福島)社長→㈱松田製作所(大阪)専務
<独立>→小西喜代松氏を社長に。
重役から兵器製造を強要される
<辞任>
43歳〜44歳
広島製作所(広島)常務 日本製鋼と提携
<辞任>
45歳〜51歳
東洋コルク工業㈱取締役 取締役→社長
↓【社名変更】
東洋工業㈱ 社長
文献からまとめ
1920年(大正 9)1月、コルクを製造する東洋コルク工業として広島市に創設さ れた。27 年社名を東洋工業に改め工作機械メーカーに転進、31 年には 3 輪トラックのマツ ダ号 DA 型の製造を開始し、自動車業界に進出した
2 代目恒次社長は、重次郎の生涯をふり帰って次のことをコメントしています。
“思えば、父・重次郎の生涯は、まことに波乱に満ちたものであった。しかし、一貫し て言えることは、『ʻ機械ʼに対する熱烈な愛着心と、どんな試練にも絶えうる根性の 持主であったと』いうことだ。”
参考資料:歴史をつくる人々東洋工業社長 松田恒次 P96
この初代社長 重次郎氏の生き方が、マツダの企業遺伝子のなかに深く刻み込まれて います。これが、マツダ企業遺伝子(モノづくり精神)の原点です。
5−2 マツダ株式会社企業遺伝子の限界
(1)大衆化路線で伸長も中盤で息切れ
昭和40年代前半の日本経済は戦後の高度成長の中でも、最も華々しい5年間であった。
30年代、数々の積極策が奏功して、三輪から四輪メーカーへの脱皮に成功した東洋工業 もまた快進撃のうちに40年代を迎えた。昭和30年代後半に販売したキャロル、ファミ リアバン、セダンなど大衆路線に乗った車が次々とヒットして、総販売台数は下記(表)
のように43年までは一応の伸長をみた。
昭和40年代前半のマツダ車販売動向
マツダ車販売台数
(万台)
マツダ車シェア
(%)
昭和
国内 総需要
(万台) 総台数 内 軽 全車 小型車 軽 40年
172 28 13 16 14 24 41
209 31 12 15 13 20 42
274 35 10 13 13 13 43
332 38 6 11 14 6 44
384 36 6 9 11 5 45
410 34 5 8 10 4 参考資料:「自動車統計年表1982」【日本自動車工業会】他
しかし、昭和44年になり変調が明らかになった。すなわち、いざなぎ景気のさなか 自動車全儒も順調に拡大しているなかで、マツダ車はシェアはもとより、販売台数自体 下降線を辿りはじめたのである。
軽自動車の退潮がとりわけ厳しかった。R360に続いて軽自動車の決定版として昭 和37年販売された、クラス初の水冷4気筒エンジン搭載のキャロル360当初の勢い を保てず、次第に売れ行きを鈍らせていった。
斬新なクリフカットのリアビューは好評であったが、エンジン性能が思ったほど伸び ないうえ、水冷4気筒による重量増のため走行性能がいささか不充分となったのである。
当時の自動車誌には「無理ヘンに無理と書いてキャロルと読む」などと揶揄されてしま った。空冷2気筒に代えて水冷4気筒にした軽4輪貨物B360もまた同じ運命を辿っ た。一方、軽の退潮をカバーすべきファミリアなどの小型車は昭和43年まではその役 割を果たし、総合数の上乗せに寄与したものの、44年以降は自らのシェアまで下降線
を辿りだした。松田恒次社長のいわゆるピラミッドビジョンたる、軽→大衆→小型とい う軽を底辺とした上向きの流れに沿って販売ボリュームアップを目指す計画に狂いが 生じ始めていたのである。
他方バンケル社との技術提携後7年が経過した昭和42年、初めてのRE搭載市販社 コスモスポーツが販売された。しかし、初年販売台数2百台強と、この時代148万円 スポーツカーにマツダ車全体の販売レベルを押し上げることを期待するのは、もともと 無理な相談であった。
こうした国内販売の息切れを映して、昭和40年代前半の東洋工業の業績は下記(表)
のように、44年より売上の伸び悩み、利益の低下が明らかとなっていった。その中で 輸出増が生産の下支えの役割をはたしていた。
昭和40年代前半の東洋工業業績
昭和
売上高
(億円)
営業利益
(億円)
税引前 当期利益
(億円)
年 配当
(%)
生産 台数
(万台)
輸出 台数
(万台)
40年 1208
158 151 16 30 1 41 1291
171 149 16 32 1 42 1671
184 158 16 40 3 43 2106
201 170 16 48 4 44 2039
180 159 16 44 7 45 2217
167 138 20-16 44 10 参考資料:「東洋工業五十年史」他 注1. 各年の経営数値は、4月期、10月期決算値を合計したもの。
注2. 45年4月期は、創立50周年記念で20%配当。
注3. 生産及び輸出台数は歴年値
戦後最長の好景気の中で、東洋工業が国内シェアを落とした販売部門としての問題点 を次に見ることとしたい。
問題はもとより販売部門だけではなかったはずであるが、当時の私にはそれらが何で あるか明瞭に理解できるところではなかった。ただ、その頃松田恒次社長が「うちには オールを水につけたまま漕ごうとしない重役が多すぎる。逆方向に漕ぐ奴なら向きを変 えてやるだけで簡単なんやけど」とぼやいておられたことが、妙に今も記憶に残ってい
る。
参考資料 自動車産業とマツダの歴史P65〜67
松田恒次社長は、ピラミッドビジョン(軽→大型→小型)を打ち出し、営業戦略のリ ーダーシップを発揮した。しかし、東京から距離のある広島地域は、全国のマーケット 情報が遅くなるため、社内組織に危機意識が反映されず起業家精神が薄らいだとも言え る。そのため社会環境のスピード変化について行けなかった。
(2)高度成長期明暗を分けた、トヨタと東洋工業の国内販売戦略
昭和40年代前半のマツダ車のシェアダウンについて、前項で私は商品面から説明し た。これはむろん現象面のことであって、原因をこれだけに帰することはできない。こ の時期のシェアダウンについて、当時私が所属していた国内販売部門サイドで重要と考 えられることがらを2点ほどトヨタと対比しながらとりあげることにする。
◎うら目に出た赤字の喜び路線、決済制度とその運用がもたらしたもの
昭和40年代初頭、東洋工業販売部門最高責任者の口から「赤字の喜びを知れ」という言 葉が系列ディーラーの経営者に対し頻繁に発せられた。
これはメーカーの拡販要請に対し、「無理して売ると損をする」とか、はなはだしきは「売 れば売るほど、損をする」と反論するディーラー経営者に対して、メーカーの姿勢を明 確に示す言葉であった。
昭和30年代から東洋工業にはディーラーとの決済ルールとして「要決」制度という ものがあった。商品として出荷される車は運搬船が東洋工業の岸壁を離れると同時に、
ディーラーに対して売り上げが計上されるのであるが、要決制度というのはその車がユ ーザーに販売されるまで、代金の回収を猶予する制度であった。(すなわち、売掛金―
ディーラー在庫=要決済額。略して要決)従ってこれは、ディーラー在庫分の資金をメ ーカーが肩代わりするという、ディーラーにとっては一見有難い制度であった。
東洋工業はこの要決制度により、ディーラーが後顧の憂いなく車の販売に専念できる と考えたのである。「赤字の喜びを知れ」はこれを精神的に若干増幅して、ディーラーが 新車販売に力を入れた結果例え赤字に陥ったとしても、他のメーカーと異なり東洋工業 は面倒をみる会社であることをアピールする言葉であった。
一方当時トヨタでは、新車を貨車に積み込むと同時に荷為替を切って代金決済と即リ ンクさせていた。この両社の対照的な決済制度を一見すれば、それぞれ一長一短がある といえよう。すなわち、東洋工業の要決制度は資金力の弱いディーラーに対して手を差 しのべるという温情的な制度である反面、経営体としてのディーラーの自主独立性を歪 める懸念のある制度ということができる。それはディーラー経営者としての取組み姿勢 が甘くなる懸念であり、メーカー側のディーラー経営に対する過剰コミットメントへの