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私権の生成とその本質--実体法と訴訟法との交渉の問題として 利用統計を見る

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(1)

私権の生成とその本質--実体法と訴訟法との交渉の

問題として

著者

渡部 吉隆

著者別名

Y. Watanabe

雑誌名

東洋法学

28

1

ページ

1-18

発行年

1985-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003595/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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私権の生成とその本質

   ー実体法と訴訟法との交渉の問題としてー

渡 部

吉 隆

∼ 二 三 四 五  目  次 序  説: 法的事実と自然的事実・ 裁判と法・⋮⋮ 私権の生成⋮: 私権の本質⋮:⋮⋮  一頁 ⋮・四頁 ⋮七頁 ・二頁 二四頁 序  説 私権︵私法上の権利︶ は   、 訴訟とは無関係に、実体法所定の構成要件を充足することによって法律上当然に発生し、 東 洋 法 学 一

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    私権の生成とその本質       ニ        ハエヤ それ自体完結的な権利として存在するというのが、これまでの一般的な考え方であった。この考え方からすれば、民 事訴訟は、私権が侵害され又は侵害される虞れがある場合、国家権力によりそれを保護する制度であって、私権の属 性ないしその附属物︵賎尉9壽︶にすぎない。つまり、私権は、訴訟以前に存在していて、訴訟の論理的前提をなす ものである、ということになる。現に、民事訴訟法の基本原理に係わる訴権論︵遷薦霞8ぼ。 。98器︶においても、私        ハ レ 法的訴権説はもとより、その支配的見解である具体的訴権説も、こうした考え方に基づいているのである。  しかし、従来の考え方のように、私権が訴訟とは無関係に自己完結的な権利として存在しているとすれば、私権の 内容は訴訟以前に確定しているはずであるから、民事訴訟は、私権の観念的確定という第一次的な意義を失ない、多       ハ レ 分に執行手続としての性格を有するにすぎないものとなる。また、私権に対応する相手方の義務の内容も、訴訟以前 に確定しており、相手方においてそのことを熟知しているはずであるから、訴訟は、法を踏みにじる不心得者が存在 する場合にのみ惹き起こされる例外的事象にすぎないこととなる。しかし、実際には、権利や義務の存否・内容が不 明確であって、その点に関し当事者間に見解の対立・抗争があるからこそ、訴訟が起こるのであって、右のごとく訴 訟の対象たる権利義務の存否及びその内容が訴訟以前に確定しているものと観念することは、現実を無視するものと       へせり いうべきである。そればかりでなく、従来の考え方のごとく、訴訟は私権の属性にすぎないものとすれば、およそ私 権の存在するところには必らず法的救済が与えられなければならないはずである。しかるに、実体法上は構成要件を 充足することによって私権の成立していることが明らかである場合であっても、当該訴えの不適式又は証拠不十分等 訴訟法上の理由によって、その権利に対する法的救済の拒否されることがある。そして、法的救済の拒否という点に

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おいては、それが訴訟法上の理由による場合であると、実体法上の理由による場合であるとで選ぶところはない。し たがって、私権の生成は、訴訟との係わり合いを抜きにしては論ずることができないものといわざるを得ないように 思われる。  もっとも、従来の考え方からすれば、実体法上権利を有する者が訴訟法上の理由によって敗訴を喫するのは、訴訟 のやり方が拙劣であったとか、訴訟法そのものの規定が実情にマッチしていなかったことによる異常事象にすぎない のであって、かかる異常事象をもって私権の生成一般を論ずることは許されないとか、﹁訴訟法上の理由によって法 的救済が拒否されても、原告の権利は、敗訴の確定判決とは関係なく厳として存在している。しという反論が予想さ れる。  そこで、権利の保護ないし生成の過程である訴訟の実体を明らかにすることによって権利の本質に迫らんとするの が、本稿の目的である。 ︵1︶ ︵2︶  こうした考え方は、その根底において、政治権力によって左右されたり、社会生活の不合理性によって歪められたりす る現実の彼岸に、大自然の理法、神の摂理ないしは人間自然の本性に根付いた法則があり、権力の濫用を防ぎ、個人の権 利自由を保障するには、かかる形而上的な﹁自然法﹂に基づき、予め行政や裁判の筋道を確定しておくことが必要である という近世個人主義的な自然法の思想があるものというべぎである。  私法的訴権説は、訴権を私権殊に請求権の︸作罵とみるものであり、また、具体的訴権説は、訴権を自己に有利な特定 内容の判決を請求する権利とみるものであって、いずれも、権利保護の利益の本質を、訴訟物たる私法上の権利関係の属 東 洋 法 学 三

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︵3︶ ︵4︶   私権の生成とその本質      四 性ないしその反映と理解するものである。  現に、古代p!マにおいては、私権を基礎づける法︵算︶が簡明であったため、法適爾による私権の存在も、それ自体 明白なものとして、権利者の主張が直ちに判決と同様の効力を有し、訴訟︵8讐算一8︶は、執行手続の性格を有するもの と考えられていた︵兼子一・実体法と訴訟法一五頁注 六参照︶。  さらに、兼子博士は、従来のような考え方からすれば、訴訟は、内容の確定せる私権の存在を前提とするのであるから、 判決の請求は、恰かも受験生が試験官に対して、﹁自分は実力があるのだから合格させろ。﹂と請求するのと同じことであ り、非常識な結果になる、と指摘する︵同書一〇九頁︶。 二 法的事実と自然的事実  まず、訴訟の対象たる法的事実と自然科学の対象たる自然的事実との区別を明確にしておくことが必要である。  O自然科学で取り扱う自然の世界は、ザイソ︵の。8存在︶の世界であって、自然科学は、自然の世界において生起 する複雑で無数の局面を有する自然的事実を、真でも善でも美でもない生の出来事として、た父あるがままの姿にお いて観察し、その間の自然法則を究明せんとするものである。これに対し、法の世界は、ゾルレン︵o 。鼠窪当為︶の 世界・価値の世界であり、そこで取り扱う法的事実は、自然的事実の有する無数の局面の中から法的価値を有するも のを選択し、法概念に即して構成された事実である。たとえぽ、Aが自動車でBを礫殺した場合、自然的事実として は、AのB礫殺という単純な絶対的事実である。ところが、Aにそれによる損害を賠償させるための法的事実は、A の礫殺という生の出来事の中から、それが故意・過失によるか不可抗力によるか、また、損害と殺害行為との間に相

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当因果関係があるかどうか等を検討し、それらの点を総合判断し、不法行為概念に即して決定された構成要件該当の 事実である。  ロアメリカの﹁司法過程﹂O&叢巴 震08邑論者として令名の高い連邦控訴裁判所判事ジェ撫ーム・フランク Q興o纂①憎篤鼻︶は、裁判官の事実認定を歴史家の仕事になぞらえ、ベルギーの著名な歴史家ペレシヌの言葉をかり て、次のように説明している。すなわち、歴史家の仕事は、近づいて観察することのできない過去の出来事を証拠に よって論証することである。そのために、彼は、次の二つのことを行なうのである。その第一は、証拠を批判的に吟 味し、その信葱性を確めることである。この場合、歴史家と事実との間に証人の記憶が介在するので、証人の蓼凱葉 の背後にかくされている真の意味を発見する﹂ことが肝要である。また、その第二は、証拠によって得た心証に基づ き、過去の出来事を記述することである。この記述は、心証を得た事実群を組み合わせるという意味において、総合 ︵。 。実簿ぎ駐︶であり、また、事実相互間に樹立される諸関係が証拠によるものではなく、かといって自明のものでも        ︵王︶ ないという意味において、仮説︵ξ鷺窪a・ 。︶である、と説明している。その点において、歴史的事実は、検証や実 験によりその実在を確定することのできる自然的事実とは、根本的に違うのである。  ところで、法的事実の認定も、歴史的事実の構成と同様のプ汐セスを経て行なわれるのであるが、これら事実の認 定に当って特に留意しなけれぽならないことは、証人が必らずしも真実を伝えるものではない、ということである。 証人は、写真の感光紙でもなければ、録音盤でもないのであるから、彼の行なう証言は、視・聴覚や記憶力、情動 ︵⑦ぢo鋤窪︶等によって左右されるのはもとより、偏見、偽証等によっても歪められ、着色されることがある。しかも、

    東洋法学       五

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    私権の生成とその本質       六 そのような危険は、証人が過去の出来事を想い起こすときと、さらに、これを言葉で表現して報告するとぎの二回に わたって訪れる。エッグルストン卿は、﹁如何なる証人にも五〇パーセソト以上の正確さを期待してはいけない。仮       ︵2︶ 令彼が完全に正直で、何等の先入観ももたない場合であってもそうである。﹂といい、ムーアも、﹁半分だけ真実とい        ︵3︶ うことほど人を欺くものはない。﹂と述懐している。  ㊧さらに、証拠の価値、つまり、或る証拠が信用できるものであるかどうか、その証拠からいかなる事実が認定で きるか、また、そのことが事件の成否にいかなる影響を及ぼすかという問題は、個々の裁判官の持つ知識と経験の深 さにかかっているのである。しかも、いかに経験が豊富で知識に満ちた裁判官達であっても、その間に、多かれ少か れ、個人差のあることも否定でぎない。事実認定の基礎となる証拠原因が同一であっても、裁判官によって結論の異 なることがあるのは、まさに、かかる理由によるのである。  以上のようにみてくると、従来一般に考えられていたごとく、法的事実は﹁所与﹂として訴訟以前客観的に確定し ているわけではなく、しかも、それが認定に当っては、証人及び裁判官の主観的パーソナリティによって左右される 不確定的契機が潜在しているということを知らなけれぽならないのである。 ︵1︶

((

32

))

 同書三〇頁参照。  前掲裁かれる裁判所上二八頁参照。 六〇頁以下、末弘厳太郎・法学入門九二∼九三頁参照。  詳細は、器δ目。閃声葬︸9饗錺窪浮一鼻おお︵邦訳古賀正義・裁かれる裁判所ー以下単に ﹁裁かれる裁判所﹂というー上

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三 裁判と法  裁判の不確定的契機は、事実認定にのみ限られるものではなく、三段論法の大前提といわれている法規範について もそれをみることができる。  O近代法治国家にあっては、裁判は、国家の司法権の行使、つまり、司法として行なわれる。しかし、そのように 裁判が司法として行なわれるということは、国家作用の面からみたものであって、もともと、裁判が法の存在を前提 とし、法がなければ成立し得ないということを意昧するものではない。紛争の解決や刑罰の賦課は、本来、法の存否 とは関係なく、社会の秩序を維持するために不可欠なものである。それを沿革的にみても、法のなかった時代にも、 訴訟や裁判は行なわれ、最初の法は、裁判の中から生まれてきたといっても過言ではないのである。したがって、法        ハまロ の存在は、裁判の論理的前提ではなく、裁判を合理的に行なうための手段であるというべきである。  ⇔また、カードゾー︵0 6・零O貰&8︶f彼は、﹁実用法学﹂︵︾篤窒蝕弩︶の泰斗でオリバー・W・ホームズの後 を承けてアメリカ連邦最高裁判所の判事になった人であるーのいうごとく、﹁曽て測られたこともない⋮ような深淵 までも見透し、この地球を覆う地平線までも一望の裡に収めるほど鋭敏で広大な視野をもつ者は、一人として、この       ハ レ 地上にはいない﹂以上、﹁法の欠敏なる現象は、事実として認めざるを得ないのである。  概念法学なかんずくその思想を徹底したパソデクテソ法学は、法律の直接の明文がない場合においても、既存の法 規とこれを体系づける法原理から、それらを論理的・技術的に操作することによって、あらゆる事件に適用でぎる一     東洋法学      七

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    私権の生成とその本質       八 般的法規範命題を引き出すことがでぎるとして、﹁法の欠飲﹂を否定し、裁判官は、明確な法規範がないようにみえ る場合にも、この一般的法規範命題に基づき、﹁法律による裁判﹂をすることが可能であると強調してぎた。概念法 学のかかる考え方は、近世の個人主義的な自然法思想に基づき、裁判官の恣意的裁判から個人の権利、自由を保障せ んとする趣旨に出たものである。しかし、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、欧州大陸や英米においてほとんど 時を同じくして現われた自由法論、社会法学、リアリズム法学等が挙って概念法学のいう一般的法規範命題の虚構性 を暴露するに至った。  もともと、裁判というものは、訴訟以前に完結している事実に対して爾後に法を適用する制度であるが、かかる制 度が法認されているのは、カ⋮ドゾ⋮判事のいうごとく、その根底において、﹁法の欠敏﹂を認めたうえで、かかる 場合には、コ旦紛争が起こってしまった以上、そして何としても結着をつけなければならぬ以上は⋮たとえ事後に        ︵3︶ 作られたものであるとしても、何らかの典拠︵︾長ど憂く︶を作るより外に方法はない﹂という信念があるからであ る。現に、フランス民法が、法規の不存在、不明確をβ実に裁判しないことを、司法拒否︵激菖牙﹂毯銘8︶として 禁止し︵四条参照︶、また、かかる場合に備えて、スイス民法︵Ω議Oo留︶おS︶が裁判官は﹁立法老であったとす れば制定したであろうと思われる法規に従って︵一条参照︶、また、わが国の明治八年大政官布告第一〇三号﹁裁判 事務心得﹂が裁判官は﹁条理ヲ推考シテ﹂裁判すべし︵三条参照︶と各規定しているのも、右と同様の考え方に出た ものといえるであろう。  日そればかりでなく、そもそも、言葉というものは、事物の表徴であって、或程度凝縮された形をとらざるを得な

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い。したがって、文章的表現をする法規範には、その凝縮された形の規範がどこまで拡張できるか妥当範囲の確定と いう問題が常に残されている。また、法文の構成要素としての法概念にしても、規制の対象たる社会生活が複雑でバ ライティに富んでいるだけに、その意味・内容を数学的正確さをもって表現することが不可能であるため、特定の場 合がそれに含まれるかどうかの判断は、予め法律によって裁判官に委かされているものといわざるを得ない。かよう に、法律に解釈がつぎものであることは、法規範命題が文章的表現をとることから来る不可避的な現象である。  ジェp⋮ム・フランクは、法解釈の必然性について、有名な音楽家の話しを援用して、次のように述べている。す なわち、楽譜などというものは、﹁果断に﹂︵鉱簿審罵a欝ぎ鋒︶とか﹁優しく﹂︵鉱鮪3&⇔導。。 。の︶とか符号で表現 した指定がついていても、それはせいぜい作曲家の意図の近似値にすぎないものであるから、若し音符やそうした指 定に固執して作品を忠実に演奏しようとすれば、却って、﹁我慢のならぬ⋮戯画化﹂に陥ってしまう。というのは、 ﹁すべての種類のニュアンス、抑揚︵3留鼠呂︶、テンポと力のパリエーションは、音楽に必須のものであり⋮⋮[演 奏の]結果は、解釈者の音楽的洞察力と解釈能力とによって変ってくる﹂からである。したがって、﹁フルトベング ラーの読む[第七]がトスカニー二の演奏するもの﹂と比らべて、それぞれ、﹁作曲家の気持を誤りなく伝えている と広言している﹂にもかかわらず、かなり違ったものとなるのを阻止することはできない、と述べたうえで、彼は、 法律についても同様のことがいえるとして、たとえば、いわゆる﹁遵法斗争﹂にみられるごとく、工場労働者が就業 規則について知的想像力を働かすことなく、文言に忠実に従うことにより、効果的なサボタ⋮ジュをすることがでぎ る。かように、立法者の真の意図が明確に表現されていない法規範について、その文言を杓子定規に解釈すれば、立

    東洋法学       九

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     私権の生成とその本質      一〇 法者の意図が無視されることとなる。したがって、裁判官は、解釈によって立法者の意図の実現に努めなけれぽなら ない。実に、法解釈における裁判官の想像力に富んだパーソナリティこそ、立法者の﹁メッセージを伝えるために望        ︵延︶ ましいだけでなく、真に必要な活力の増大﹂をもたらすものである、といっている。  また、古来フレデリック大王やナポレオン皇帝が、自ら編纂した法典の完全性を謳歌して、それについての解釈を 禁止したが、そのことは、皮肉にも、禁止が守られなかったことで有名である。  以上の検討によって知られるように、法は、三段論法の大前提であるとしても、幾何学の公理のように確定不動の ものではない。﹁法の欠敏﹂の場合はもとより、実定法規の多くも、所詮、裁判官の解釈によってはじめて確定的な ものとなるのである。そして、法の解釈は、単なる論理の厳格な操作に終始するものではなく、多かれ少なかれ、結 論についての価値判断、選択の余地が残されており、その限りにおいて、法解釈には裁判官による法の創造が含まれ ているのであって、われわれは、そのことを素直に認めざるを得ないのである。 ︵1︶ 前掲裁かれる裁判所上八頁以下、兼子一・実体法と訴訟法一二頁参照。 ︵2︶ o ごφと勲欝ぎ2・9凌8P円誇90三げoP富鍔∼お8︵邦訳守屋善輝・法の成長ー以下単に﹁法の成長﹂という︶一四五頁   参照。 ︵3︶ 田窪短糞嘗雰○鳶&Nρ網嘗2鋤葺器9魯£&一。芭汐8霧﹂O象︵邦訳守屋善輝・司法過程の性質ー以下単に﹁司法過程の   性質﹂という︶一四七頁参照。 ︵4︶ 前掲裁かれる裁判所下四七七∼八、四八一、四八三頁参照。

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四 私権の生成  e私権が訴訟とは関係なく、実体法所定の構成要件を充足することによって法律上当然に発生するという従来の考 え方は、また、実体法が私人を各宛人とする生活規範ービンディソグのいわゆる﹁第︸次規範﹂︵即ぎ驚8霞9︶ー       ︵1︶ であることを前提とするものである。たしかに、近代の私法法典が権利体系の法典であり、その規定の大部分も構成 要件と権利の発生、変更、消滅等の法律効果との結合からなる命題の形式をとっていることも確かである。  しかし、前提で指項したごとく、法は、裁判の論理的前提をなすものではなく、裁判を合理的に行なうための手段 であること、裁判の歴史的沿革に徴して明らかである。そのことは、単に訴訟法についてだけではなく、生活規範と いわれてきた実体法そのものについてもいえるのである。さらに、この点に関して、M・A・マイヤは、次のように 述べている。すなわち、﹁国家の人民に対する現実の権力行使は、常に行政処分、裁判という国家機関の行動によっ てなされるのであって、立法による法規の制定は、直ちに人民の生活行動に対する国家的干渉ではなく、国家機関に 対してその権力行使の根拠やその限界方式を定めることを目的とするに過ぎない。国家法としての法規範は、本来人 民に対し権力を行使する国家組織の内部規程であるが、これを公布して人民に対する関係でも公表するのは、法治国 家における法規の保障的機能を明確にする必要に基づく。即ち、法規は、国家機関に対するのと同様に、人民に対す る意思表示でもあるが、人民に対しては命令ではなく、約東︵く塞暇①魯窪︶としてであり、行動基準ではなく、保 証状である。法規は国家機関に対しては、規範であるが、人民に対しては期待である。国家はその機関をして、法規     東洋法 学      二

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    私権の生成とその本質      一二 の定める場合及び方法以外にはその権力を行使させないことを人民に対して保証することに外ならない。したがって、 法規は国家機関の行動を通じてのみ、人民を服従さ鷺るものである。法規の内容が直接に人民の行動を規律しその生 活の上で遵守されているように見えるのは、多くの場合その内容が、社会内部の他の規範ーいわゆる文化規範        ︵2︶ ︵溶ξ3舅8馨窪︶ーと一致していることに基くもので、法規そのものの効果ではない。﹂と述べている。したがって、 私法を含む国家法規としての法規範は、すべて、国家機関に向けてその執行を命ずるビソディングのいわゆる﹁第二 次的規範﹂︵Q 。⑦ざ民弩8憎簿臼︶であって、国民に宛てその遵守を命ずるビンディングのいわゆる﹁第一次規範﹂ ︵ギ凶糞鋒⇒段欝窪︶ではない。  口そして、以上の縷説によって推測されるように、実体法も、訴訟法とともに、私人の利益を権利として保護する ための規範であり、私人の利益を国家法的な権利に高めるについて、実体法も、訴訟法と全く同等の重要性を有する のであって、その間に上下・主従の関係があるわけではない。実体法のコ定の事実があれば、一定の法的権利が生 ずる。﹂という規範命題も、正確には、﹁訴訟法の規定に従い、且つ、その適正な手続によって一定の事実が証明され       ︵3︶ るならば、一定の法的効果が生ずる。﹂という事実に関する仮言命題であるというべきである。  もとより、実体法と手続法とを区別することが有用である場合もある。しがし、それは、特定の目的のために作為 的になされるにすぎないものであって、法規そのものの本質的機能に基づくものではない。実体法を含めて、すべて の法規範は、本来﹁法廷戦における武器に過ぎない。﹂という意味において、﹁手続的なものしであるといっても過言       ︵4︶ ではないのである。また、裁判規範としての実体法が一旦制定されると、その規定内容が社会の取引関係や私人の日

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常生活関係に影響を及ぽすことは否定できない。しかし、それは、私人も将来紛争の生じた場合実体法が裁判の基準 になるということから、予めそれに従った行動をとるようになるというだけの意味であって、いわば実体法が裁判規        ハらロ 範として存在することの反射的な機能であり、本来の規範的効力ではない。なお、私法が権利の体系として構成され ているのも、マイヤ⋮のいうごとく、私法法規が私人に行為義務を科する強制命令であるがためではなく、むしろ、        ︵6︶ それが私人に利益享受を保障するという観点から、右のような構成がとられているものというべきである。  日さらに、コ1ラ⋮は、訴訟によって権利の形成されてゆく過程を説明して、訴訟は権利のための斗争関係 ︵溶鋤簿鳳お警饗駐︶であって、この関係から訴訟物たる権利関係と結びついた﹁法的状態﹂︵誘3島3①ω量呂窪︶が 発生し、手続の進行に伴って権利の実体が形成されてゆぎ、遂に本案の確定によって私権が﹁創造﹂されるに至る、  ヘアレ という。ゴールドシュミットの﹁訴訟状態説﹂も、コーラーのこの考え方をさらに押し進めたものであって、コーラ ⋮のいう﹁法的状態﹂の中に、裁判官の主観的判断に基づく﹁不確実性﹂︵¢轟睾誘誇δをもち込み、すべての法 的関係の本質は、裁判官の事実認定及び法律判断に対する見込み︵>霧。 ・狩鐸窪︶ー﹁法的状態﹂1である。訴訟手続 の進行に伴って、勝訴の見込み又は敗訴の見込が生成・変転しつつ発展し、既判力に至ってそれが確定的状態として       ハ レ の権利に凝結する、というのである。  兼子博士も、ゴールドシュミットの﹁訴訟状態説﹂を支持するが、博士は、実体法と訴訟法との交渉による訴訟状 態なるものを強調し、訴訟状態は、単なる当事者間の事実上の利害の対立や事件を担当する裁判官の主観的な心理状 態の反映ではなく、実体法と訴訟法との具体的交渉の成果としての権利関係であって、それが訴訟的に確定されるこ

    東洋法学      二二

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     私権の生成とその本質        ︵9︶ とによって権利が形成されるのである、 と説く。 一四 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ 実体法をもって生活規範とみる者は、実体法が裁判の内容的基準となり得るのは、﹁法による裁判﹂ に対する法規の一般的拘束力に基づくものであると説閏する︵兼子・前掲書四六頁︶。  兼子・ 前掲書四八∼九頁による。 前掲裁かれる裁判所上一六七頁参照。  同霊二六八頁参照。 兼子・前掲書五八頁参照。  この点については、前掲M・A・マイヤ⋮の所説︵本稿四二頁︶参照。  兼子・前掲書ごご二∼四頁参照。  兼子・前掲毒一二六∼八頁参照。  兼子・前掲書二一九∼二一三頁参照。 の原則とか、裁判官 五 私権の本質  最後に以上の所説から私権の本質を究明すれば、次のようなことがいえると思う。  8およそ、利益の享受又は実現をめぐって私人間に紛争が生じた場合、いずれの側にも自己の主張を相手方に強要 するだけの優越的権威がないので、自己の主張を貫徹して利益を擁護するためには、実力行使に訴えざるを得ない。 古代や未開社会においては、人々は自力救済に頼るよりほかなかったのである。しかし、かくして私斗が繰り返えさ 兼子

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れ、しかも、集団や部族を巻ぎ込み、広範な荒廃と殺激をもたらすに至った。そこで、国家は、その権力が確立する に伴い、祉会の秩序と安定を図るため、かかる私人の自力救済を禁止し、その代償として、国家権力によって紛争を 強制的に解決する手段として設けたのが民事訴訟制度である。  ジェpーム・フランクは、こうした訴訟の沿革に徴し、また、訴訟..疑鵯ぎ撮、.という言葉がラテン語の一謬 ︵8諺8簿一霧寝2震髭喧嘩・陰論︶とおo︵8磐行く︶とより出来ていることからみて、次のように主張する。すな わち、訴訟は、裁判官の監督と一定のル⋮ルの下に行なわれるとはいえ、その実体は、裁判官を説得して自己に有利       ︵1︶ な判決を獲得するための斗争であり、現に、法廷で﹁戦術﹂が横行し、当事者が必らずしも裁判官の真相究墾に協力 しているわけではなく、却って、勝つためには、あたかも﹁手術を行なっている外科医の眼に胡椒を投げつける﹂よ       ハ ロ うな行動に出るのは、訴訟が権利獲得のための私斗であったことの名残りである。と述べている。  右の縷説によって推測されるごとく、私権なるものは、訴訟以前に実体法上の構成要件を充足することにより客観 的に存在していて、それが裁判官によって﹁発見﹂されるのではなく、勝訴の確定判決によって﹁創造﹂されるもの であり、訴訟以前に存在しているのは、単なる﹁法規範該当の事実﹂︵労。。導撃霞第9ぴ魯9箒嘗簿︶にすぎない。  ⇔また、私権の本質は、過去の訴訟において勝ったことか、将来の訴訟において勝つものと考えられることであり、 また、義務の本質は、過去の訴訟において負けたことか、将来の訴訟において負けるものと考えられることのいずれ       パ レ かであり、それ以外の何物でもない、というべきである。ホームズ判事も、権利の本質について、次のように説明し ている。すなわち、﹁裁判所はきっとこうする、と予言すること、この予言そのものこそ、私が法と呼ぶもの⋮⋮で     東洋法学       一五

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    私権の生成とその本質      一六 ある﹂。それと同様に、﹁法律上は、権利というものは、単に予言の基盤︵ξ宕。 り霧ご鉱鷺8誇2︶ーそれに対する侵 害といわれるような行為をした老に対して、社会的実力︵要窪。響8︶が加えられるという事実を支持している一種 の実体についての想像ーにすぎない。それは、丁度、われわれが物体の運動を説明するのに、引力を引合いに出すの と同じことなのである﹂。また、法律上の義務も、﹁人が一定の行為をした場合或いは一定の行為をしない場合、裁判        ︵4︶ 所によって、それぞれの害悪を受けるようになると予言する、その予言以外の何物でもないのである。﹂といってい る。  日さらに、裁判の対象たる法的事実は、過去の一回的出来事であり、自然的事実のごとく、五官の作用によって直 接それを確めてみたり、実験によって再現することができないものである。したがって、法の世界で或る事実が存在 するということは、その点の判断が手続法上適法な証拠によって支持されているか、当該判決が確定して争い得ない 状態になり、判断の結果が法律上妥当する︵鐙魯窪︶ことである。したがって、仮りに自然的事実としては存在して いる場合であっても、法的事実としては存在していないとする判決が確定した以上、法の世界では、その事実は不存 在であって、その存在を容認し得る余地はないのである。ジョン・留ックは、この間の消息を説閉して、﹁有は無に 対して、発生は不発生に対して実であり、無・不発生は、真実たり得ない。ところが、妥当は、妥当しないことに対 して実である。したがって、妥当の世界においては、無も不発生も、ともに妥当する限りにおいて、実であり、真で ある。﹂といっている。その論法をかりていえば、敗訴の確定判決を受けた者の権利は﹁無﹂ないしは﹁不存在﹂で あるが、たとえ敗訴の理由が手続法上のものであるとしても、権利の﹁無﹂ないし﹁不発生﹂という判断は、それが

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妥当するものである以上、妥当しないことに対してて、真であり実である。したがって、冒頭叙説のごとく、敗訴の 確定判決があっても、それとは無関係に、原告の権利は厳として存在している等ということは、およそナンセンスで あるといわざるを得ないのである。ジェ葎;ム・フランクのいうごとく、﹁強行され得ない若しくは擁護され得ない        ハらレ 権利など︵正しく︶、ド;ナツの穴のようなもの﹂である。  もっとも、多くの人々は、訴訟をまつまでもなく、相手方の権利を承認し、進んで義務を履行しているのが実情で ある。したがって、私権が形成されるために訴訟が必要であるということは、事実に反するという反論が試みられる かも知れない。しかし、この反論に対しては、ジェρーム・フラソクの次のような示唆に富む所説を引用するだけで 十分な解答が与えられたことになるものと思われる。すなわち、彼は、いう。﹁訴訟外の承認や訴訟外の黙認は、若 し訴訟で争われた場合⋮⋮権利が揺ぎなく支持されることの証拠とはなり得ない。⋮私がいいたいのは、大体の場舎 裁判所に持ち込んで争われることがないという習慣があるからといって、主張されている特定の権利が訴訟によって 吟味されてもいないのに、いわゆる法的権利として現実に存在することにはならない⋮⋮より重要なことは、何人の 権利と錐も、いつ法廷戦の焦点となるかも知れない⋮⋮ということである。﹂そして、そういった訴訟が起こされる としても、その時、場所は判らないし、また、矛盾・対立する証言が現われるかどうか、その内容はどういうもので あり、裁判官がそれに対してどのような反応を示すか等すべて予測することができない。したがって、﹁こうした訴       ハ レ 訟が起こり、判決が下されるまでは、諸君の法的権利・義務は、未知数である。﹂ということである。  なお、この問題は、前項において述べたごとく、実体法は本来国家の裁判機関に宛てた裁判規範ではあるが、それ     東洋法学       一七

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    私権の生成とその本質      一八 が一旦制定されると、実体法の規定内容が社会の取引関係や私人の日常生活関係に影響を及ぽすことは否定できない が、それは、私人も将来紛争が生じた場合実体法が裁判の基準になるということから、予めそれに従った行動をとる ようになるというだけの意味であって、いわば実体法が裁判規範として存在していることの反射的機能であって、本 来の規範的効力ではないということと、共通の問題であるといえるであろう。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ 前掲裁かれる裁判所上一一頁参照。 前掲裁かれる裁判所上二二八頁参照。 前掲裁かれる裁判所上二∼一四頁参照 Oo臣9&聞巷霧も﹂8︵前掲法の成長露六頁による。︶ 前掲裁かれる裁判所上一七〇頁参照。 前掲裁かれる裁判所上︸九∼二〇頁参照。

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