観光における「真面目」と「遊び」[1]
16
0
0
全文
(2) 研究ノート. 成長時代の観光旅行がおしなべてストレス発散型で金銭消費型の慰安旅行で あったからで、それは本来、未知なるものを求めての観光旅行とは程遠い旅 行形態を生み出したと指摘する [内田 2004:208] 。現代の観光を批判的に捉 えるにせよ、遊びが中心的な内容となっていることは大方の合意が得られる だろう。 しかし、遊びとしてであれ、実際の観光の意味づけをみると、むしろ、何 か他の目的を達するための手段として位置づけられているのではないだろう か。たとえば、内田がいうように、高度成長期の観光は憂さ晴らしであって、 明日の仕事に向けて心身をリフレッシュするための手段といえる。現在であ れば、歩くことを重視した観光が盛んだが、そこには老後の病気予防のため 健康を維持することが重要な目的として含まれていよう。こうした個人的な 関心に限らず、新たな成長産業を求める政府は、期待できる有力な分野とし て、また、過疎化に悩む町や村は地域の活性化のために観光に着目する。こ のように「真面目」な実利・実益の手段として観光は成立している。 翻ってみれば、観光という概念は遊びではなく、むしろ真面目な目的をも つものとしてはじまっている。そもそも、観光の原義は「国の光を観る」こ とであるとされてきた。つまり、優れた文物、制度を視察して、自国や自分 のために研修し、知識・教養を高めるという意味内容のものであった。また、 現代の多様化する観光のなかで、エコツーリズムやグリーンツーリズムはそ の代表となっているが、こうした新たな観光は、環境、社会、文化と調和を 保った持続可能な地域の発展過程を前提とするものであり、自然・生態系と 人間との共存についての理解や、地域で培われた文化や景観の保全といった 真面目な理念を含んでいる。 このように、歴史的には必ずしも観光は楽しい遊びのための旅行として捉 えられていたわけではなかった。さらに言えば、 現在の観光についての理解、 とくに行政と研究の領域におけるそれは、遊びの性格を後背に退け、真面目 の側面を強調する傾向があるように思われる。 真面目と遊びという、一見すると相反する性格が観光にはついてまわって いる。現実の観光は、どちらか一方であるのではなく、両方の性格をあわせ 98.
(3) 観光における「真面目」と「遊び」 [Ⅰ]. もつことで存続してきたのではなかろうか。つまり、観光の遊びは常に真面 目な目的と抱き合わせで、何か他のことのために行われることで成り立って いたと思われる。本稿は、 「真面目」と「遊び」が対立しつつ統合された有 機体として観光を捉えられるのではないかという問題意識から、日本の観光 における両者のつながりや位置関係がどのように変遷してきたのかを、大ま かに跡づけてみるものである。. 1.真面目と遊びの位置 ――考察の枠組みとしての〈聖〉 〈俗〉 〈遊〉―― 観光において真面目と遊びはどう関係し、両者はどのような形をとって現 れてきたのだろうか。ここではR.カイヨワの議論を援用し、考察の枠組みを 措定しておきたい。カイヨワは、J.ホイジンガが〈聖〉と〈遊〉を同一視し ていることに疑問を呈し、 〈聖〉 〈俗〉 〈遊〉の三項の関係において遊びの位 置を捉えた。彼は「遊び」と「聖なるもの」が共謀し、関連していることは 認めるものの、日常生活に対してそれらが等価的な位置を占め、同一の内容 をもつとは考えていない。聖なるものと遊びはふたつとも実際生活と対立し ているという限りでは共通しているが、しかし、それらは生活を軸として対 照的な位置を占めている[カイヨワ1990:301] 。つまり、生活からの離脱の 方向は逆である。この位置関係について、井上俊は次のようにカイヨワを敷 衍して説明する。〈聖〉の領域は、失敗の許されない厳粛な領域であり、そ こに参与する個人にとっては、日常的な実生活以上に拘束の強い不自由な領 域である。これに対して「遊び」は、それ自体が目的であるような活動の領 域であって、そこでは人は実生活上の配慮を離れ、また〈聖〉なる義務や拘 束も離れて、自由に楽しみを追求するのである。したがって、 〈遊〉は、 〈聖〉 に比べてはもちろん、 〈俗〉に比べても、 はるかに気楽で自由な領域である[井 上 1977:149-150] 。 〈聖〉は言うまでもなく宗教や信仰と深いつながりをもっている。当該社 会の人びとの神仏への敬虔な信奉によって〈聖〉なる領域は真実味をもつも のとして成り立ってきた。 〈聖〉という非日常の存在によって、日常=〈俗〉 である現実社会は構造化され存立の安定性を保つことができた。近代以降、 地域創造学研究. 99.
(4) 研究ノート. いわゆる信仰の領域としての〈聖〉が衰退の方向にあることは明らかであろ う。しかしながら、 〈俗〉を規範し、方向づけ、人びとの日常生活の繰り返 しを根拠づける理念や理想が失われるわけではない。近代社会の基底に定置 されてきた自由や民主主義はその一例であろう。 〈俗〉を超克し、現実のあ るべき枠組みや方向を指し示すものを、ここでは広く〈聖〉の領域として捉 えることにする。換言すれば、それは理想主義であり、厳粛主義であり、か くあるべしという「当為」の原則として社会に作用するものである。以下で は、社会を構成する〈聖〉 〈俗〉 〈遊〉三項間の対抗と依存の関係を、観光の 領域に適応して考察を進めようと思う。 ところで、 遊びを深く追究したホイジンガやカイヨワの指摘するところは、 遊びは遊びそのものを目的として行われるものであり、それ自体に存在意義 があるのだということであった。つまり、 〈遊〉は独自の領域として、その 自立性が強調されたわけである。そして、このような自立理念としての「遊 び」を措定することは、 〈聖〉と〈俗〉の癒着や、現実社会の疎外状況を相 対化するパースペクティブとしての「遊び」の機能を考えたとき、きわめて 重要な意味をもっている[井上 1977:151] 。 しかし、遊びという行為が、何かを達成するための手段ではなく、遊びそ のものを目的とする自己完結的な行為であるとすれば、観光に内在する遊び はそうした性格をまっとうしてきただろうか。自己目的的な遊びは、個人の 主観レヴェルではともかく、現実社会の歴史的過程のなかでは実現すること は困難であったのではないか。少なくとも、 観光という活動においては、 〈聖〉 と〈遊〉が、あるいは〈俗〉と〈遊〉が結びつき、遊びの自立を制約してき たし、 時として反対に遊びが真面目を担保してきたように思われる。つまり、 〈聖〉や〈俗〉の「真面目」と〈遊〉=「遊び」は単純に対峙するのではなく、 むしろ常に共存して観光を成り立たせてきたといえるのではないだろうか。 気楽で自由な領域である〈遊〉と、 真面目の領域である〈聖〉 〈俗〉をめぐっ て、観光はどのように変遷してきたのかを、一旦、近世の信仰の旅にまでさ かのぼって考えてみることにしよう。. 100.
(5) 観光における「真面目」と「遊び」 [Ⅰ]. 2.近世の信仰の旅と「遊び」 観光という概念が英語のtour、tourismに相当する言葉として社会的に認 知されるようになるのは近代からのことだから、この概念を単純に近世に当 てはめることはできない。だが、近世に盛んに行われた寺社詣での旅につい ては、信仰はタテマエで、ホンネは娯楽を目的とした旅だったという捉え方 が一般的でさえある。伊勢参りに代表される信仰のための旅は、表向きは真 面目な行いの最たるものであった。しかし、実際の旅は、伊勢だけでなく、 大阪、京都、奈良さらには宮島や善光寺など各地の名所や温泉地さえも旅程 に組み込んだ楽しみのための旅であった。旅人たちは、寺社への参拝だけで なく、芝居見物、名物、温泉、遊郭、買物等々を楽しんでいた。 このように、客観的に近世の寺社詣での旅の中身をみるならば、現在の観 光に近いものだったといえる。しかしながら、タテマエとはいえ、旅の理由 に信仰を掲げていたことの意味は大きい。それは単に信仰という真面目な目 的を形式的に備えることで、支配者に旅を正当なものと認めさせたというこ とではなく、旅を成立させいていた内的構造の問題としても不可欠だったか らである。 ひとつには、旅人の動機の面からみた場合、伊勢神宮への参拝は、国家安 泰や五穀豊穣、 家内安全といったことがらを祈願することから起こっている。 神崎宣武が指摘するように、このうちの国家安泰は庶民にとっては、さして 現実味のある理由ではなかったに違いない。しかし、五穀豊穣、家内安全の 祈念といった庶民の生活上の実益と結びつく行為には真剣にならざるをえな かったろう [神崎 2004:9] 。 また、こうした旅のシステム化を推し進めたのは、伊勢の御師のような事 実上の旅行業者であったが、旅を事業として捉えた場合にも信仰はそれを成 立させるうえで重要な枠組みとなっている。御師の仕事は、あくまでも伊勢 詣でという宗教的行為にまつわる一連の便宜の供与という形をとった。御師 の手代は各地の村々を回り、檀家である人びとに暦やお札などを配布して講 を組織し、伊勢詣での誘致をはかった。伊勢に到達した彼らも、御師の提供 する宿泊や神楽の催行に対して「御供料(初穂料)」や「神楽料」という形で、 地域創造学研究 101.
(6) 研究ノート. あくまで祈禱のために金銭を支払っていたのであった[神崎 2004:58]。 寺社詣での旅が公に許されたのは、基本的に戸主や家長に限られていた。 このため、女性、若者、子供、あるいは奉公人などが独断で旅に出る「抜け 参り」が流行した。資金に乏しい人びとでも抜け参りが可能だったひとつの 背景に、旅の途上で他人からの「施行」を当てにできたことがある。柄杓を 一本もって伊勢を目指せば、沿道の人びとによって食べ物や宿、路銭の施し を受けられた。旅を支えた、 そうした喜捨も伊勢神宮への信仰の証であった。 観光が近代の諸制度や技術を、あるいは行先や目的の自由な選択を前提と するものであれば、近世の旅は、まだそれを実現しえなかったことになろう。 しかし、ここで注目したいのは、寺社詣での旅が厳密には観光とは言い難い ということではない。そこでは遊びと真面目が不可分の関係にあったこと、 そして、その限りにおいて遊びの旅が成り立っていたことに留意したい。そ して、信仰=〈聖〉という真面目は、単なるタテマエなのではなく、遊びの 存立そのものに内的に連関していることも見落とせないのであり、それは、 近代以降の観光を考えるうえでも示唆に富んでいる。 ところで、近世における旅の遊びの側面と〈俗〉との関係はどのようなも のだろうか。近世の旅は、社会階層に規定された日常生活という〈俗〉から の一時的な離脱であり、既成の秩序の制約からは相対的に自由な時間の享受 であった。庶民の楽しい旅は、封建制という身分社会の枠組みからの逸脱や 避難の意味があった。このことは支配権力の側からすれば、庶民の不満のは け口を作り、社会の安定化を図るうえで役立ったともいえよう。 信仰の旅という行為が同時に愉楽の旅でもあり、それが〈聖〉と〈遊〉の タテマエとホンネを内包し、有機的に一体化して成立していたことは先にみ た。そこで、日常を〈俗〉として捉えれば、楽しみを求める旅は〈聖〉〈遊〉 連携の非日常であり、 〈俗〉と〈聖・遊〉とが対峙する関係を一応は措定す ることができる。 「一応」措定できると言ったのは、観光という旅行が、〈俗〉をまったく排 除した非日常のものとは言い切れないからである。近世においても実際には 旅を支える諸もろの便益が提供されていたし、それらを抜きにして大量の人 102.
(7) 観光における「真面目」と「遊び」 [Ⅰ]. びとの旅は実現できなかった。各街道の宿場には、本陣・脇本陣・木賃宿・ 旅籠屋などがおかれた。また、旅籠屋にはたいてい飯盛女がおり、旅人の食 事の世話だけでなく、遊女の役割も果たした。大きな寺社では御師や宿坊を 中心にして門前町が形成され、芝居小屋、遊女屋、土産物屋などがあり、参 詣者の遊びの場となった。また、為替制度の発達によって、旅人は以前のよ うに現金を大量にかかえて旅をしなくてもよくなった。飛脚問屋を利用すれ ば、参詣の途中で増加した御祓や土産などの荷物を旅程の先の地点まで配送 することが可能となった[石森 1989:105] 。 さらに、旅に関する出版物の存在も見落とせない。 「道中案内」や「名所 図会」のような今日のガイドブックに相当する書物や、風景に旅情を加えて 描かれた浮世絵の流布は、実用的なメディアとしての機能だけでなく、目的 地のイメージをかきたて旅を動機づけるうえで重要な役割を果たした。 このように近世、特に江戸中期以降においては、 「旅の商業化」が全国的 に急速に展開したことによって、庶民の旅が飛躍的に増大したのであった。 つまり、江戸時代の旅には、宗教的要素、経済的要素、遊楽的要素すなわち 〈聖〉・〈俗〉・〈遊〉という三つの要素が複雑に絡みあっていたといえる[石 森 1989:107]。旅はなかば生活であり、遊びも消費行為としての側面を強 くもっていたのであるから、信仰や娯楽だけでなく、経済的要素=〈俗〉が 結びついていたのである。 〈聖〉 〈俗〉 〈遊〉の絡みあいは、相互の因果・優 劣の関係や、結びつき方を変えながらも、その後の観光の歴史を貫いていく ことになる。. 3.近代のナショナリズムと「観光」――「真面目」の勧めとその内実―― 守屋毅によれば、明治政府によって演出された文化は、 「富国強兵」とい うスローガンからも容易に察せられるように、近代産業社会の確立を推進す るという目的の設定と、それを実現するための規範的な価値観を特色とする ものであった。守屋はこの文化を国民文化と呼び、その時代は、しばしば自 己目的的で無規範な行為である「遊び」に関するかぎり、いわば冬の時代だっ たという。つまり、大した価値を認められていなかった「遊び」は、文字ど 地域創造学研究 103.
(8) 研究ノート. おりのレクリエーションなのであり、再生産に必要な最小限の手段として容 認されていたのである[守屋 1989:22] 。明治以降の殖産興業、富国強兵の 国策に対応する形で、少なくとも表向きは勤労・勤勉をモットーとする態度 が社会的な基調としてあった。端的に言えば遊びは罪悪だったのだから、仮 に遊びとしての旅行を遂行しようとすれば、常に何がしか名目が必要であっ たことが予想できよう。 観光も、こうした守屋のいう国民文化の性格を色濃く反映したものだった のではなかろうか。そもそも「観光」という言葉からして、規範的な価値観 を内包した意味内容のものとして使われていた。観光という言葉の源が、四 書五経のなかの易経の次の一節に求められることは、観光研究の入門書には 必ず出てくる説明である。 「観国之光、利用賓于王(国の光を観るは、もっ て王に賓たるによろし) 」 。この「光を観る」について解釈は二つに分かれる。 ひとつは観光をする主体の側から捉える場合で、他国を巡歴して、その土地 の優れた風俗・制度・文物を観察する意味となる。この解釈は行為としての 観光を根拠づけているともいえる。一方、 「観る」には「示す」の意味があ るとして、観光の受け入れ側から理解する捉え方がある。つまり、観光は、 外の人びとに国の光を見せることであるとする。美しい風景や貴重な文物な どを多く見せられることは、 国内が安定して治まっていることの証左であり、 賓客に誇示しうることと解された[橋本1995:15-16]。こちらの解釈は事業 としての観光の根拠と考えることができる。どちらかといえば、観光は当初、 後者の解釈にもとづいていたが、特にそれは「国威発揚」の意味合いで用い られはじめた。 いずれにしても「観光」という言葉は、国の「優れた」文物や制度などに 観光の対象としての本質的な価値を認めており、それらを見て知ることが人 びとの教養や品性の向上に結びつけられている。つまり、最初は教養主義的 な、もっと言えばエリート主義的な意味合いを底流に含んだ概念として立ち 現れてきたのである。ここには宗教や信仰というレヴェルでの〈聖〉とは異 なるものの、ある種の理想主義的な〈聖〉性と結びついた真面目さをみいだ すことができよう。 104.
(9) 観光における「真面目」と「遊び」 [Ⅰ]. こうしたナショナリズムの形成と結びついた文化の位相において、「観光」 という概念は用いられはじめたが、大正期を過ぎると経済的な側面がより注 目されるようになる。観光は、文化的・社会的な活動であると同時に、それ を実現するために提供される諸サービスの生産にかかわる事業としての性格 も有している。この観点から、国の経済的な実益を目的とした観光の役割に も関心が集まるようになっていった。政策的な用語としての「観光」が表舞 台に登場するのは、1930年の鉄道省国際観光局の設立が画期となっている。 第一次世界大戦後の欧米各国は、観光旅行の経済的な効果に気づき、国外か らのインバウンドの観光をサービス貿易の輸出品目として認知するように なった。政策として国際観光が重視され、各国に観光局が発足したが、日本 でもこうした流れに沿って国際観光局が開設された。そこでは国際親善の促 進による平和の維持という〈聖〉なる理念と並んで、経済的実益の確保が大 。また、一方では国内観光が 目的に掲げられた[国際観光局 1940:8,50] 活発になるにつれ、京都をはじめとして各地で地方行政による政策的な関与 も徐々に強まっていった。 このように、明治近代以降の観光は、統治や経済といった視点から、国の 「光」 を見る、 または見せるという理念的な性格を既定されてスタートを切る。 それは、近世の旅のように巡礼という聖性をタテマエとして掲げるものでは ないが、近代国家・国民の理想をめざす厳粛さにおいて、また、経済的な実 利を求める功利主義の点からも、表面的な形式の上では真面目な概念として 立ち現れてきたのであった。しかしながら、教養や国益を目的とする観光と いう発想は、はたして庶民の間に、現実にはどこまで浸透していたのだろう か。 橋本俊哉によれば、大正時代以降、観光は「他国の風光をみて見聞を広め る」という本来的な意味から、 「他国の風光・名所などを遊覧する」といっ た意味へと次第に移行していったという。つまり、観光の重点が「視察」(み て学ぶ旅)から「鑑賞」 (みて味わう旅)へ、さらには「観賞」 「見物」 (み て楽しむ旅)へと移っていったのである[橋本 1995:16]。また、香川眞は、 「観光」 は明治時代中頃までは、 教養的な意味合いを強調する用法であったが、 地域創造学研究 105.
(10) 研究ノート. 亨楽的な意味合いを強調する言葉としては、むしろ「遊山」 「漫遊」が一般 的であったとしている[香川 2007:18] 。たしかに、観光という言葉が一般 に広まる前に、すでに漫遊や遊覧としての旅行は存在したし、発展を遂げて いた。そうした実態としての観光の断面をいくつか拾い上げてみよう。 明治末頃から遊びを主眼に置く旅行が普及していく重要な背景には、全国 に広がる鉄道網の形成によって移動の自由が一段と拡大したことがある。そ の大きな恩恵に与ったのは温泉地であろう。関戸明子は、明治末から大正に かけて、鉄道の開通による観光客の増大が、湯治を基本にしたそれまでの温 泉の性格を変えていった様子を詳細に記している。この時期には、客の増加 に応じて、家族湯・千人風呂などの浴場の新設や大型化、旅館の内湯の開設 が各地で進んだ。また当初から鉄道と行楽をセットにして開発される温泉地 も登場する。箕面有馬電気軌道は、明治末年に宝塚新温泉を開業し、後に少 女歌劇団の上演を加え、一大温泉遊園地を形成した。しかし、全体としてみ れば大正期にはまだ湯治場的要素は強く残っていた[関戸 2007: 76-108]。 昭和に入ると、劇場、玉突き場、ダンスホール、大弓場、射的場などを備 え、療養よりも行楽・慰安に重きを置く温泉が増えていく。なかでも熱海は、 こうした娯楽施設だけでなく、料理屋、芸妓置屋、カフェーなどの並ぶ花柳 街を形成し、享楽色の強い温泉地として発展する[関戸 2007: 150-167]。 明治期には、自然の景観を愛でたり、登山をしたり、避暑地に滞在してス ポーツをするといった、それまでにない活動が外国人によって伝えられ、日 本人に広がった。代表的なもののひとつが海水浴である。当初、海水浴は医 学的効果を目的に導入されたが、 明治中期以降、 夏の行楽として全国に広まっ ていく。ここでも鉄道の威力は大きく、湘南、阪神、房総など、大都市圏か ら比較的に近い海岸に海水浴場が開発されていく。やがて競争相手の増えた 海水浴場は、集客のために遊技場や食堂を併設したり、芝居などの余興を供 したり、花火大会や相撲大会、仮装行列、ヨット競技会などを催し、行楽地 としての性格を強めていった[富田 2008:37-41]。 明治期以降の観光対象として重要なもののひとつに博覧会がある。ウィー ン万博への出展を機に、1877年には第1回の内国勧業博覧会が開かれた。以 106.
(11) 観光における「真面目」と「遊び」 [Ⅰ]. 来日本国内でも数々の博覧会が各都市で開催されていく。政府は産業奨励と 輸出振興をめざして、国民に対する産業技術の啓蒙と彼らの意識向上をはか ることを勧業博覧会の目的としていた。そのため政府は来訪者に、出品物を 比較し、モノの精粗を見分け、得失を判断し、価格の高低を考慮するよう促 した。そして、博覧会は遊技場ではないことを強調し、その娯楽性を否定す る[國 2010:94-95] 。しかし、実際に訪れた人びとは、珍品の見世物が集 まるような場所、つまり江戸時代からある開帳場と同様のものとして認識し た。政府は、博覧会の本義を繰り返し掲げるものの、庶民の見物という態度 は変わらなかった。それどころか、第5回の内国勧業博覧会を機に、政府の 方が事業収支と集客効果を重視して娯楽の導入を許容するようになる[國 。 2010:159,181] このようにいずれの活動にあっても、一方で療養、健康維持、知識向上と いった「真面目」な理由を残しつつ、行楽、慰安、見物といった「遊び」に その内実が転化していったことがうかがえる。観光の種類を問わず、〈遊〉 が浸透し、その中心を占めていくのだが、その背後には観光に関連するサー ビス産業の展開があった。旅行業や旅館などのいわゆる観光産業だけがそう した動きを支えたわけではない。むしろ、先にふれた鉄道と並んで国民大衆 の観光の欲求を創出し、 その実現を後押ししたものとして注目すべきなのは、 新聞と百貨店であろう。 ところで、大正期以降の観光にまつわる諸事業の発展は、観光をする人び との社会的変化ともかかわっている。この時期には、公務員、銀行員、会社 事務員などの新中間層が現れ、特に大都市部ではひとつの社会層として影響 力をもつようになる。いわゆるサラリーマン家庭の増大は、所得水準の向上 と生活意識の変化を引き起こす。彼らは衣食住全般にわたって洋風の合理主 義的な生活の用具や方法を志向するようになる。また、女性や子供が消費の 主体として登場し、 彼らを対象とする商品や娯楽が提供されるようになった。 そうした動きを主導したのは、まさに百貨店、新聞、鉄道といった生活と消 費の分野に深くかかわる産業であった。西洋から導入されたスキー、海水浴、 避暑といった余暇活動、あるいは都会での観劇、動物園、遊園地への行楽、 地域創造学研究 107.
(12) 研究ノート. 百貨店での買物、食事、催事見物などは、都市部の新中間層の成長と並行し て活発になっていった。新しい生活スタイルの登場という〈俗〉領域におけ る変化に影響されて、観光の目的となる事象は、その形や種類を広げていっ たといえるだろう。 さて、このようにみてくると、 「観光」という名辞そのものは近代国家、 すなわち「上」からの命名によっているが、その用法としての実態は国民大 衆と産業によって、 いわば「下」からすでに形作られていたのであり、 「漫遊」 や「遊覧」という遊びとしての旅行が次第に「観光」の名を冠するようになっ たといえないだろうか。つまり、国威発揚や、見聞を広め教養を高めるとい う「本来」の「真面目」な理念=名目を残しつつ、実際には関連産業の発展 を背景に、「遊び」を主眼とする見物や娯楽の観光が徐々に定着していった のであろう。 だが、 近代における実際の観光が、 サービス産業や生活スタイルという〈俗〉 と結びついて〈遊〉の性格を強めていったことを正当に評価するとしても、 〈聖〉の役割を軽視することはできない。この時代では、寺社の神仏とそれ への信仰によって担われた〈聖〉は後背に退くものの、かわって政府によっ て打ち立てられた理想主義的で厳粛な当為としての〈聖〉は観光にとって重 要な意味をもつ。 明治以降の日本において、近代社会を規範する、文化的に崇高な価値とい うものが国家によって措定されていった。たとえば、その具体的な制度・装 置として博物館が設置され、国の歴史・文化の粋として知るべき、または見 るべき学術的・美術的価値のあるものが明示された。また、国家によって文 化の格付けがなされ、西洋から導入した音楽、美術、演劇などは身につける 教養として体験すべき価値あるものとされた。一方では、近世から引き継が れた日本の芸能が仕分けされ、能、歌舞伎などは高尚な芸術として位置づけ られるようになる。 こうした文化と並んで、精神的な次元でナショナリズムの形成にとって重 要な働きを果たしたものは、言うまでもなく、天皇統治体制のもとに形成さ れた国家神道であった。伊勢神宮をはじめ国家神道にまつわる聖地は、国の 108.
(13) 観光における「真面目」と「遊び」 [Ⅰ]. 最高級の「光」であり、訪問すべき場所として認知されていく。 〈俗〉を規範し秩序づける、新たな〈聖〉を体現した場所を具体的に考え るために、昭和前期における東京の典型的な観光スポットを振り返ってみよ う。博覧会をはじめ、都市において近代社会の制度や慣行が生み出した施設 や風俗が観光の対象となっていった。なかでもその先端を行く東京は憧れの 地であり、多くの人びとを誘引した。この東京の見るべき名所を巡る観光バ ス事業のひとつに「東京ユーラン乗合自動車」がある。東京乗合自動車株式 会社が運行したこの観光バスは、昭和初年に四つのコースを擁していたが、 そのうち全線コースは、新橋から出発して皇居、明治神宮、新橋、浅草、上 。ここでは同社 野などを経て再び新橋に帰るものであった[中野 2010:48] が発行した「実用自動車市内遊覧双六」によって、具体的な見所を列挙して みよう[東京都江戸東京博物館 2005:13] 。 東京駅、丸ビル、宮城(皇居) 、東宮御所、靖国神社、日比谷公園、 明治神宮、乃木神社、芝公園、放送局(J.O.A.K.)、松坂屋、松屋、 白木屋、帝国劇場、歌舞伎座、日本橋、三越、浅草、国技館、被服廠、 亀戸天神、上野 ここからみてとれるのは、 東京観光において見るべき場所が〈聖〉 〈俗〉 〈遊〉 の合成によって成り立っていたことである。浅草、帝劇、歌舞伎座という新 旧の娯楽・芸能の中心や、日比谷公園、東京駅、放送局など西洋文化の移入 によって生み出された名所、そして、三越、松坂屋など消費の先端を象徴す る百貨店が並ぶ。さらに、宮城、乃木神社、明治神宮といった近代国家形成 における新たな「神話」を体現する場所が混在していた。実際の遊覧コース では宮城遥拝、 乃木神社参拝、 上野公園の三か所は下車観光となっている[中 野 2010:49]。たしかに、宮城と乃木神社のような〈聖〉なる場所は特別に 扱われてはいる。しかし一方で、それらも誰もが一度は訪れたいと思う強い 非日常性、すなわち際立つ有名性や希少性を担う事象として扱われ、数多い 「遊覧」すべき名所の一部として並記されていたのであった。 地域創造学研究 109.
(14) 研究ノート. では、 その後の観光における〈聖〉 〈俗〉 〈遊〉の関係はどう展開したのか。 満州事変から第2次大戦にかけて、国家神道は強化され、超国家思想と聖戦 思想の根拠とされた。権力の正統性を担保する歴史=国史という規範は、強 力な〈聖〉性を発揮し、 〈俗〉や〈遊〉を抑え込み、その支配の下に置くか のようにみえる。たしかに1930年代末の戦時体制化の時代は、「贅沢は敵だ」 という標語に象徴されるように、消費や娯楽から縁遠い「暗い谷間」のよう に捉えられがちである。つまり、国家目的である「戦勝」は文字通り〈聖〉 なるものとしてきわめて強く前面に押し出され、厳格な「真面目」が社会を 規制する時代だったということになる。しかし、ケネス・ルオフによれば、 この時期にあっても実は政府が唱導するナショナリズムと、新聞・百貨店・ 鉄道などが推進する消費主義が相互依存的に結びついており、それが大衆の 観光を可能にしたという。そのことを示す典型は、 「紀元二千六百年」に際 して、神武天皇即位の場とされる橿原神宮などの皇室関連史跡を訪れる「聖 蹟観光」であった。万世一系の天皇によって統治されてきた国史を学び、そ の偉業を称え、 戦意を高揚するために「聖蹟」へ旅行することは、政府によっ て奨励されたのである[ルオフ 2010:23-24] 。 一方、当時の新聞や雑誌は、紀元二千六百年を祝う記念行事を主催し、国 史に関連したテーマで歌詞や作文の懸賞募集を行った。百貨店は様ざまな催 事によって建国や二千六百年の歴史を広めたし、旅行のサービスカウンター を設け、国民の旅行欲求を刺激した。百貨店をターミナル駅に置く鉄道は、 実際に人を運ぶことでそれをかなえさせた。さらに、聖蹟の候補を有する県・ 地域は、 国家公認の名誉とともに観光客の増加による経済効果を得るために、 懸命のキャンペーン合戦を繰り広げ、来客誘致にしのぎを削った。 ルオフは、この聖蹟への巡礼がイデオロギー装置としての役割を果たした ことを認めつつも、その内実については、気晴らしを求めて出かける余暇旅 行としての性格が強かったと論じている[ルオフ 2010:168] 。ファシズム 体制下の帝国主義国家においてさえ、 「聖跡観光」という形をとって、遊び としての旅行は遂行されていたのである。国家による推奨というお墨付き= タテマエを掲げて、庶民はしたたかに観光を続けていたともいえよう。 110.
(15) 観光における「真面目」と「遊び」 [Ⅰ]. 戦時体制に入っても国家目的と適合するかぎりで許容された観光も、太平 洋戦争の長期化とともに衰退を余儀なくされてしまう。戦後、復活した観光 はそれまでにない量的発展をみるが、そこでは「真面目」と「遊び」はどう 再構成されていったのだろうか。 [注]. 1 当時の遊びと考えられるような行為のなかにも信仰が潜んでいた。一例を あげれば、江戸の見世物で非常に人気が高かった舶来動物がある。なかで も駱駝は評判を呼び多くの見物人を引きつけた。しかし、舶来動物は単に 娯楽の対象だったのではない。その姿を拝むことで疾病予防の効用が得ら れる、特に小児の疱瘡や麻疹に効き目があるとされたことから、庶民が押 し寄せたのであった[川添 2000:97-109]。要するに駱駝は神仏と同様に人 知を超えたありがたい霊力をもつ存在として認識されていたのである。こ こにも遊びと信仰の同居をみることができよう。 2 管見の限りだが、大正期以降も遊びの旅行を指す言葉としては、 「観光」よ りも「遊覧」の方が一般的だったと思われる。 3 また、箱根、有馬、雲仙には純西洋式のホテルも誕生し、外国人のリゾー トや観光地としての性格をもつようになった[富田 2008:37-41] 。 4 1934年に指定された「国立公園」も、対象は自然景観であるが、同様に国 家的に整序された文化とみてよいだろう。 5 神崎は近世期と明治以降の伊勢信仰を区別している。近世のそれは、天照 大神を含めた八百万の神々への信仰や神仏習合の信仰が根付いたところで 形成されている。一方、伊勢神宮が皇室の祖神を祀ることを日本人が周知 するのは、天皇制と皇国史観を基盤とした国家での教育の成果であるとい う[神崎 2004:70]。 6 こうした聖蹟への旅行のほかに温泉保養やスキーが戦時下でも承認された が、それは健康の促進によって労働力と兵力を維持補強するという名目が あったからである[ルオフ 2010:142]。. [参考文献]. 石森秀三 1989「旅から旅行へ――「苦労」から「遊び」へ」守屋毅編『日本人 と遊び』ドメス出版 井上俊 1977『遊びの社会学』世界思想社 内田州昭 2004「観光文化と生涯学習――観光文化の認識――」北川忠宗編著『観 光文化論』ミネルヴァ書房 カイヨワ・ロジェ(多田道太郎・塚崎幹夫訳)1990『遊びと人間』講談社(講 談社学術文庫)[Roger Caillois,1967,Les Jeux et les Hommes(Le masque 地域創造学研究 111.
(16) 研究ノート et le vertige),édition revue et augmentée.Gallimard.] 香川眞 2007「観光の語源」国際観光学会監修『観光学大事典』木楽社 川添裕 2000『江戸の見世物』岩波書店(岩波新書) 神崎宣武 2004『江戸の旅文化』岩波書店(岩波新書) 國雄行 2010『博覧会と明治の日本』吉川弘文館 国際観光局 1940『観光事業十年の回顧』 関戸明子 2007『近代ツーリズムと温泉』ナカニシヤ出版 東京都江戸東京博物館 2005『美しき日本――大正昭和の旅 展』江戸東京博物館 富田昭次 2008『旅の風俗史』青弓社 中野晴行 2010『「はとバス」六〇年――昭和、平成の東京を走る』祥伝社(祥伝 社新書) 橋本俊哉 1995「「観光」の意味の変遷」前田勇編著『現代観光総論』学文社 守屋毅 1989「「遊び」を考える視角」守屋毅編『日本人と遊び』ドメス出版 ルオフ・ケネス(木村剛久訳)2010『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリ ズム』朝日新聞出版. 112.
(17)
関連したドキュメント
従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ
睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている
停止等の対象となっているが、 「青」区分として、観光目的の新規入国が条件付きで認めら
る、関与していることに伴う、または関与することとなる重大なリスクがある、と合理的に 判断される者を特定したリストを指します 51 。Entity
が有意味どころか真ですらあるとすれば,この命題が言及している当の事物も
断面が変化する個所には伸縮継目を設けるとともに、斜面部においては、継目部受け台とすべり止め
「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない
2) ‘disorder’が「ordinary ではない / 不調 」を意味するのに対して、‘disability’には「able ではない」すなわち