経営理念と宗教一二事例による試論
小
倉
栄
一
郎
は し が き 経営理念が宗教上の信仰によって支持されたり、信仰によって表現される例は少なくない。江壷中井家の歴史をつらぬ く経営理念は店則の中に明瞭に読み取ることができるのであるが、これについては、さいわいに、江頭博士の名著﹁近江、 ユ 商人中井家の研究﹂その他があって、神儒仏の教理にもとづいた信条を貫いていたことがわかるし、かつ、滋賀大学附属 史料館に原史料が所蔵されているので、現実には存しない企業であるとはいえ、文書から理解できる。 いま一つ引用したいのはオナイダ・コミュニティーである。この会社は、今日シルバー・スミスでは全米第一であるが 経営史としては従来寡聞のものであろう。在外研究員として滞米中に、偶然入手した社史にもとずいて調査したものであ る。この社史の著者ウォルター・エドモンド妻巴冨HU.国αヨ。注ωは主としてニェーヨーク州のインディアンや開拓者を 主題とした小説を書いた作家であるが、その作品の一に﹁当初百年﹂ 円げ①国誘け出巷紆①儀k⑦碧ωがある。これはオナイ ダ社○⇒Φ凱pピ鉦●が、その前身のコミュニティー形成からはじまり、銀製品のトップメーカとしての今日に成長する百 年間の発達史であるが、この書は、同社の前社長ピエールポント・ノイズ国里弓09中Zo鴇ωがコミュニティーの指導 者であった父のハンフリー・ノイズ冒プづ寓¢ヨリ冨①団Zo器ωについて書いた﹁父の家﹂竃団岡9・チ臼.ω頃。湯ρ﹀昌○謬Φ崔p経営理念と宗教一二事例による試論 一
経営理念と宗教一二事例による試論 二 buo善oo息を台本として書かれたものである。この二冊が現存する文献であることをみてもわかるように、アメリカの学 界でも見落されていたものである。 たとえば何人かの博学の人、たとえば、スタンフォード大学附属の研究所ω雷ほoa国ΦωΦ震昏H屋梓陣ε汁δつの教授ホーガ ソ博士U鋤三血いΦ昌①国。びqαq窪は﹁当初百年﹂の書名を聞いただけで、一種のコミュニストで興味ある企業であること、 特に社会学的に注目すべきものであることを指摘したし、筆者が同社を訪問した際に尋ねたところ、最近も社会学老が研 究対象としているとのことであったが、文献はまだ発見していない。 き こころみにグロリア・インタナショナル・エンサイクロペディアをみると、オナイダ市の項に同地の産業とインディア ン・リザベーシヨソについて書いてあるうちに、オナイダ社についてその大半を割いて次のようにいっている。 ﹁南東2 マイルの郊外に有名なシルヴァー・スミスのオナイダ社本社がある。当地の銀製品製造は、一八四八年置ジョン・ハング リー・ノイズによって創始されたオナイダ・コミュニティーのパーフェクショニスト団①既8汁δ巳。。↓ωによってはじめられ た。このグループは、一八八一年まで共同生活8日ヨ¢舜=三口αqを営なんだが、外部世論の圧迫によって、その生活方式 の放棄を余儀なくされた。その製造活動の方は株式会社に改組されたが、ある形の協働の性格は今なお残っている。﹂と。 また、パーフェクショニストについては、後に詳述するところであるが、エンサイクロペディアの該項によれば、一般的 な宗派名でなく、ハングリー・ノイズがひきいた特異な信仰集団で、教会共産社会空げぽ巴8ヨーヨ自巳。。膏。・誘拳拳をなし ていたとあるがこの項の筆者O訂二①。。ω.ゆ轟氏①p︵ZO﹁チ藷。・§ロ¢臣く興。・⋮け冤︶は、﹁オナイダ・コミュニティは経済的に裕福 な単位一特にコミュニティ・プレート・シルヴァーの製造元として知られているが、そのパーフェクショニストの宗教的 特長は失われている﹂と結んでいるQ このように、知る人ぞ知るところの極めて特異な企業であるが、宗教的特長一強調点は、今では失われているという見
解は、旧コミュニティーのとった複合結婚O。管覧Φ×日繕同㌶αq①と子供の共棲教育といった小社会でこそ可能な具体的特 異点に重点を置くと、これはたしかに現存しないが、精神的基礎、または、理念としては現在もなお脈々として続いてい るのを見ることができる。すなわち、一つにはオナイダ社の諸制度の上にそれをみることができるし、また、筆者の不十 分.な会話力によってさえ、今日の従業員の老若各層の人の言葉から汲み取りえたのである。 ︵4︶ 中井家とオナイダ社は全体としてはたしかに妙な対照である。これを取り上げた筆者の意図は、まつ、両者とも原史料 に接近する便があるという点で主題を論ずる材料であるということ、次に、前者は経営理念が宗教的表現をとっていると いう関係、後者は宗教的信仰が経営理念となり、経営制度として具現したという逆の対照関係となっていることによって いる。経営理念と宗教は深い関係をもっていて、その例は枚挙にいとまがないが、そのうちの二例に限った試論をもって 一般化への手がかりにしたい。中井家の場合は史料の文字上の表現によるほかはないという点で、実証性において劣る。 オナイダ社の場合は、宗教活動から出発して企業経営に発展したので、系譜がしっかりしていて、実証性が古同いので、本 稿の重点はおのつから後者に傾むくことになる。 なお、オナイダ社の詳細については、別の機会に譲ることとして、本稿ではその経営理念の成立と、これを具体化した 現実の制度に限定して述べるにとどめざるをえないことを断っておく。 ︵1︶ 江頭恒治著﹁近江商人中井家の研究﹂雄山閣。その他に、﹁江州商人﹂日本歴史新書至文堂。﹁近江商人﹂弘文堂。﹁近江の豪商中井家の家憲﹂彦 根論叢第三四号。﹁近江の豪商中井家の店則﹂同三五号。 ︵2︶ 滋賀大学附属史料館所蔵の中井家文書を引用することが多いが、その場合は﹁史料館所蔵﹂と略記することにずる。 ︵3︶、面昌畠色8①象pぎ8ぎ凶陣δロ巴..Oδ諭きぎPぎゼ鼻一蒔■ ︵4︶ 中井家の経営理念に対比せしめるには、同じく江州商人の諸家をもってするとか、類型の異なる伊勢商人・甲州商人・越後商人などをもってする のが至当かもしれないが、史料利用の便に乏しい上に、文書のみにたよって観念的理解に終る至れの点では同じである。オナイダ社に類するものに は、近江八幡の近江兄弟社や奈良の溢情部落の畳製造販売があるが、歴史が新しく、規模も小さいので対象としては不十分である。 経営理念と宗教−二事例による試論 三
経営理念と宗教−二事例による試論 四 二 中井家の家憲店則と経営理念 経営理念という語を用いたが、経営倫理、経営哲学、経営者精神などその意味するところは大体同じである。ただ時代 的背景によって問題意識は異ってくるのが当然である。わが国では資本主義発達の段階的高さの事情もあって、経営理念 としてよりは資本家精神といった方が当っている場合もあったが、いつれにしても江戸時代の末期にはしかるべき商人道 は確立されていた。近江泥棒、伊勢乞食とさげずまれた故事を根拠に、江戸時代の商業道徳が、﹁利潤追及・資本蓄積を自 己目的としてなすもの﹂とされ、営利致富のためには手段を選ばないところの﹁賎民資本主義﹂の精神をもってこの時代 ユ の資本家精神と考えることについては、土屋博士の見解に同意したい。すなわちウェーバーは、﹁資本主義を三つの段階に 区別して、その精神を分析しているといえるようである。第︻の段階は、ウェーバー自ら騰民資本主義箆巴9。茅萱討乱国信。。︶ とも称したものである。ゾムバルトが早期資本主義と称した段階と同じ段階であろう。ウェーバーは、 ﹃ユダヤ主義は政 治的、あるいは投機的方向をもつ冒険者的資本主義の側に立つものであり、その性格は==口でいえぽ賎民的資本主義のそ れであった﹄といっている。⋮⋮彼はまた﹃資本主義的営利の精神に対しては、当時の支配的学説はこれをε王孫巳。 ︵卑賎︶として排斥するか、少なくとも倫理上、積極的に価値あるものと考えることはできなかった。︵中略︶わけてもこ れが資本主義に関与していた人々自らの見解だったのである。彼等の一生の労働は、教会の伝統の上に立つ限り、道徳的 にはせいぜい無関係なものの︵5臼罐9Φ曇①。・︶、寛容されるものにすぎないのみでなく、教会の利息禁止にいつ抵触するかも わからない点のみからみても、救抵のためには危険なものであった。史料の示すところによれば、富裕な人々の死んだ場 合には、莫大な金額が良心の代償︵Ω①鼠ωu・g。・σq。三重︶として教会に寄進され、あるいは時としては生前の債務者に対しても 不当に奪取した臣霞p︵利息︶として返却さ九た。︵中略︶このことは当時の人々が、彼ら自身の行為を道徳以外︵、自。。・。ρの騨,
島昏︶、あるいは、むしろ反道徳的なものと考えていたことを明白に示している﹄と説いている○解するに、ゾルバルトの 表現である早期資本主義あるいはウェーバーの用語である賎民資本主義の段階では、前期的資本家である商業資本家や金 貸資本家は、勤勉に、かつ知恵をしぼって働き、営利につとめ、金をため、富を致したとしても、その営みについては、 名誉なこととして称讃の的ともならず、道徳、倫理には無関係かまたは反道徳的なことと考えて、その営みにふけってい ︵2︶ た、というのである。L営利を罪悪と認めながら、やむにやまれずにこれに従事し、したがって、宗教的寸々をもって道 徳的結末としたのである。江戸時代に近江商人を近江泥棒と認識したのは、商人自身の意識ではないのはもちろん、世間 一般の意識でもなかったことの証拠は少なくない。商人自身の側にも、当時の識者の側にもその反証は存するのである。 本稿の意図するところは、商人自身の側に存する﹁商人道﹂の実証である。 ウェーバーのいう第二段階は早期資本主義時代である。成立期産業資本主義に﹁資本主義の精神﹂を対応せしめること ︵3︶ を論証するのがウェーバーの中心テーマであった。この段階では人間は利潤追求を何らかの人間的目的達成の手段と考え るというゾルバルトの早期資本主義に相当するものであるが、ウェーバーはそれがキリスト教におけるプロテスタント諸 派の経済的合理主義への傾向をもって裏付けて、産業資本主義の成立における営利是認をプロテスタントの倫理観からす る﹁職業﹂の神聖化という方向をとったのである。このような考え方がキリスト教国でなかった日本においては、そのま まあてはまらないのは当然であるが、江戸時代の商業経営理念において、これに対比するものがあると考えている。 そして、オナイダ社の成立をめぐっては、まさにそのままの姿で実例が展開されるのである。 第三段階はウェーバーの主眼とするところではないが、ゾムパルトが産業革命後の高度資本主義時代と呼んだ段階で、 そこではもはや宗教的なものはもとより、もろもろの束縛から解放され、人々は営利そのものを目的として営利活動をす る、すなわち、営利を自己目的としているとゾムバルトはいうのである。自己目的としての利潤追求・資本蓄積というご 経営理念と宗教i二事例による試論 五
経営理念と宗教−二事例による試論 六 とになれば、観念的にはありうるが、はたして事実上存在しうるであろうか、われわれは、これを否定するという基本態 ︵4︶ 度にもとづいて、現実の問題として経営理念を研究しようとしているのである。 さて、中井家に関しでまつ取り上げたいのは、 ﹁金持商人一枚起請文﹂である。初代源左衛門良祐が、その生涯の企業 活動からえた経験と教訓をもとに、後代にいましめとして書き残したものである。 ﹁もろもろの人々沙汰し申さるるは、金溜る人を運のある、我は運のなき杯と申は、愚にして大なる誤なり。運と申事 は候はず。金持にならんと思はば、酒宴遊興を禁じ、長寿を心掛け、始末第︼に、商売を励むより外に子細は候はず。此 外に貧欲を思はは、先祖の病みにはつれ、天理にもれ候べし。始末と吝きの違あり。無智の輩はおなじ事とも思ふべき か。吝光りは消失ん、始末の光明満ぬれば、十万億土を照すべし。かく心得て行いなせる身には、五万金万の金の出来る は疑なし。但し運と申事の候て、国の長者とも呼るるは、一代にては成かたし。二代三代もつづいて善人の生れ出る也Q それを祈候には、陰徳善事をなさんより全別儀候はず。後の奢を膨むため、愚老の所存を書記畢。 文化二丑正月 九十翁中井良祐識﹂ 法然上人の一枚起請文に摸してつくられたもので、良祐が七十七才になった寛政四年︵一七九二︶にはじめて認められ、 次々に複製されたし、また広く商家の間に流布していたようで、江頭博士は五箇荘松居久左衛門家において、同家の家法 ︵5︶ 書とともにこれが大切に保管されていたのを見たということである。また三代源左衛門光煕の﹁旅日記﹂や﹁日量恵﹂な ︵6︶ る記録に一枚起請文を木版刷にして、希望者に疋布したことがでている。さらにこの一枚起請文が石門心学者脇坂義堂の 著﹁五用心慎事﹂の中に載せられている。石門心学と中井家の関係は深いものがあるが、義堂の師手島堵庵にすでに﹁商 ︵7︶ 入一枚起請文﹂の作があるといわ丸、初代良祐はこのアイディアに拠っていると思われるが、内容は相当に違っていて、
初代良祐の思想が明瞭に表現されているのである。 一枚起請文と銘打っているだけあって、ここに盛られた思想は著しく仏教的である。教理としては通俗.的因果応報説で はあるが、その内容は深い意味をもっている。 全体として、営利に対する罪悪観はみじんも存しない。営利蓄財は誰はばかることない大目的であるが、何ものにも替 えがたい自己目的で、外聞も手段も考えないで追求するのではない。﹁商売を励むより外に仔細は候はず。﹂もし度はつれ て営利に走るときは、 ﹁先祖の憐みにはつれ、天理にもれ候べし﹂というあたりに商人の使命観、もしキリスト教的に表 現するならば、新教的聖職観がうかがえる。しかし、仏教には社会的使命の意識が強くないので、あくなき営利に対して は、先祖と天の制約があると考えるのである。商人は﹁商売を励む﹂のが本務であって、それ以外に﹁仔細は候はず﹂、 商売を励めば金持になれるのであるが、そこにいま一つの要因がある。 ﹁始末と吝きの違あり﹂節倹もって身をつつしみ﹁酒宴遊興奢を禁じ﹂るが、それは吝畜とは区別されねばならないと 考えている。 この間に﹁運﹂ということはありえない。いわゆる冒険主義や投機という前期資本主義の特色は、江戸時代の経済体制 下ではすでに邪道となっており、正道は商人としての職分に全力をつくすことであった。この点については、一枚起請文 の文言を越えた解釈をもって補ってみなければならない。運の否定、または投機の否定ということは、一面には危険の回 避という消極的教訓も含まれてはいるが、これだけならすべての段階の経営に共通のところで、この段階で特にとり出し て論ずるまでもないし、ここから積極的指導原理は生れてこないのである。運に乗じることなしに富を致すことが勧奨さ れること自体の意味を理解しなくてはならない。江戸時代の一般的体制は株仲間を基礎にした封建体制であって、それは ウェーバーのいう﹁伝統主義的経済﹂を保守する規制の下に平安な牧歌が流れて・いたわけである。このような体制の中で 経営理念と宗教一二事例による試論 七
経営理念と宗教一二事例による試論八
経済的合理主義に徹した競争原理は、日本では意外に早く、天和年間︵一六八○︶にはすでにはじまったのである。その一 つのメルクマールは﹁薄利多売﹂方式であることはウェーバーの指摘するところである。中井家の歴史の中に明瞭に薄利 多売を唱えた文言はないにしても、初代が創業して三十年も経てば、実績がそれを物語るにいたるのである。それ以上に もっと明白な事実は、近江商人なるものが、伝統主義的経済に対して、常にその打開を目指す進歩的因子であったことと 初代が伏見店を根城にして西陣の糸問屋の機業地業配体制に反逆する競争を仕掛けたことのごとき、競争原理の担手であ ったことをもってすれば、ウェーバー的﹁資本主義の精神﹂の息吹きを感じるのである。 き 一枚起請文の後半には﹁運﹂の背定論が展開されていて、一見背反するようであるが、文言に拘泥することはない。経 営存続の条件を考えているのである。人間の一代は短かく、事業の短期完成は期し難いという人間有限論のほかに、もっ と深いものとして、継続体としての企業には、代々続いて良き経営者が輩出することが存続の条件であるが、これは人為 の及ばぬところであると考え﹁それを祈候には﹂と後継者﹁善人﹂の出現を運にゆだねるけれども、ここに仏教的三世因 果の信仰が出てくるのである。 陰徳善事は善果を願う人筒の祈願の顕である。現代流に考えれば、最高経営者のごときは、経営に関する知識の伝授の みでは開発できるものでなく、人間開発の域を出ているのであるが、先代の生活態度全般にわたる教訓によって後天的に 獲得せしめうると可能性を否定しているわけではないと思う。また、経営環境を良くすることによって人間関係を有利に すると考えているのであろう。これらを含んで、やはり神仏の加護をまっという絶対者への依存の考え方が主である。 陰徳善事とはすこぶる広範な概念である。慈善事業や寄附はその一にすぎないが、中井家は代々寄進や社会事業を大々 的におこなった。これがかの賎民的購罪観とは無縁であることに注目したい。たしかに仏教にも購罪はある。罪ほろぼし という考え方は一般的に生活意識に結びついており、供養という自然で手軽な霊的救済となって生活にとけ込んでいるのであるひしかし、江戸時代の大商人は、営利に関して倫理的背反を感じていないことは前述したところであるひ金持にな るという蓄財はすでに名誉であり出世であった。そして寄進は、彼等がその本分とするところをもってなしうる社会的貢 献の一つの型であり、その故に、誇りをもってその蓄積を割いたのである。飽くなき物欲的利潤追求には吝薔が必然的性 向であり、その腰罪としての寄進に心の和らぎを覚えるという段階もあるけれども、彼等のはそれではない。また、利潤 追求を自己目的とする資本家の倫理からすれば、公共の福祉も人澗愛も彼等には価値なき規範であり、営利のための手段 としてよりほかには意味がないことになる。﹁一代にては成かた﹂い企業の存続を﹁陰徳善事をなさんより全別儀候はず﹂ と考えて、世に顕われた善行を手段として利益の増進持続をはかるという功利的判断と解するのは、あまりにも狂げた解 釈ではなかろうか。 江戸期の商人にあっては、神道と仏教は完全に合体している。そればかりではなく、原始宗教でさえも同列に彼等を律 した。しかしもっとも影響力のあったのは儒教であった。儒教は当時の支配階級であった武士の社会を律する道徳として 仁・義・礼・智・信の道が浸透していたが、石田梅岩の石門心学はあきらかに儒教に立脚したものである。神学的見地か らみて完全なものとはいえないであろうが、商人にあっては、自らを律するものが、 ﹁営利﹂そのものでなく、一つの精 神的よりどころでなくてはならなかったのである。 江頭博士の引用された五箇荘の商人高田善右衛門家の大福帳の開巻第一枚目の﹁神儒仏、謹而礼拝﹂の文言は、当時の 近江商人の経営理念のうらにある精神的支柱を明示したものである。これを江頭博士は日本的エトスと解しておられるの である。次に儒教の影響の特に明瞭な文書を引用してみよう。 寛政十二年︵一八○○︶のこと、仙台藩に対して相当額の融通をしていた中井家が、仙台藩の窮乏をみてやむなく債権を 切捨てた。これに対して藩は苗字帯刀を許した。二代目源左衛門はこれを機に仙台店の店員一同に対して﹁申渡﹂をなし
経営理念と宗教−二事例による試論九
経営理念と宗教−二事例による試論 一〇 たのであるQその一部を引用したい。 申 渡 之 事 一、人之子としては孝に止、駈上は心を付語を修、家を修候様心がけ第一に候、猶末々子孫に至とも、嫡子たるもの十五歳に至り候は ば、前髪落し店え罷出商売見覚可申候、人として其上之愚に先祖よりの家禄を喰居事甚以不届至極、実天道之妙理を失申事に候、能 之致勘弁、家業相勤候様可被致候、子孫に至り父子罹患惰に溺未練之意を出し、仕置忽に致候ては、却て身をそこない家をかたむく るものに候間、随分講義専一に相守り可申候、不馴は親之各也、不勤は子之不孝也、輝々勘弁可被致候 ︵中 略︶ 右書条々急度相等可測候、只人は信と申事一大事に候、縦は孝を尽し候共、信なき孝は見即詰、却て不孝に候、仁義礼智四つのもの 信なければへつらいに相成申候、右ケ条に限りたる事にも無之候、萬事に心を重信を尽し、身上大切に相守、家業無怠相勤奢を禁候 得は、子孫長久之基に候、随分魂入行状相半可申候、若相背候はは其方は不申及子孫に至候共、実子養子にかきらず、家督相除候事 当家之掟に候間、此条々得と承知可致被候事 文面文字から儒教の影響を知るばかりではない。当時の武家の掟が﹁家﹂を基準に組み立てられていたことから、商人 あるじ しゅ にもその思想が移植され、事業を主と見立てて忠義を説くのが一般であったが、カルヴィン派のごとく絶対者として主を 奉じて、主に帰依し、神の意に叶うをもって商売を聖化し、その奉仕に結びつけて利益を是認するというような、徹底し た宗教的経営理念を導き出せていないのは、儒教自身がもつ欠陥であった。しかし、引用した中井家の場合のように、 ﹁孝﹂を徳の最たるものとして、﹁家﹂を絶対とする考え方は経営者の倫理の根幹をなしていたのである。﹁身上大切に相 守﹂というときの身上こそが﹁家﹂の本体なのである。﹁不教は親之省也、不二は子之不孝也﹂という倫理は、親子の情、 肉親の絆を説いたものでなく、 ﹁家﹂への帰一を説いている。そのような﹁家﹂はもはや父子相続の対象ではなく、これ おおやけ を越えて、﹁公﹂としての経営の維持存続こそが関心事となるのである。﹁もし相背き候はば其方は申すにおよぼず子孫に いたり候とも、実子養子にかぎらず、家督相除き候こと当至恩掟に候﹂と、店主としての人材でない愚物が出たときは、
相続させないという規則を打出しているのである。 筆者は以前から商人の﹁家﹂という概念に興味を抱いていたが、家憲など文書になっているものの中からは封建的とい われる主家の概念しか出てこないが、何か異質のものがあるという事実は感じている。封建時代の社会通念として﹁お家 のため﹂という忠義が最高の道徳律と感じられ、商人もこの範に模すことは当然のところである。また﹁閾所﹂というよ うな権力の圧迫がある限り﹁お家﹂を守り抜く努力が一つの目標となるので、武士におけると同じ﹁お家大事﹂の意識が 生じるものと思われる。しかし、商人の相続の原則には、それ以上の要因が加わっていると思う。その一つの根拠が右の 家督相続の原則の申し渡しである。実施された例が中井家にないということは、さいわいに統卒適任者が黒猫出たという ことである。他家には実子を若隠居させて養子を迎えた実例がある。 いま一つの根拠は、文書に明文はないが、史実から理念を推量するのである。初代良祐が八十二才になった寛政九年 (一 オ九七︶に相続を考え試案を練ったと思われる文書が中井家文書の中に残されている。また文化元年︵一八〇四︶にも、 親戚、主立った手代衆四十五人にも分配をなした。しかし、江頭博士の指摘のようにいくつかの支店の閉店・開店があり ゆ 事情が変化したこともあろう、また、初代の考え方が息子たちに理解されにくかったこともあろう、とにかく、実際には
源左衛門分
正 治 分源三 郎分
市左衛門分
仙台湿性金 八、 l〇 Z両 京望性金 先、六七三両 相馬望黒金 四、 nO n両 押立望性金 一、 ツO両 一、 ツO両 一、 ツO両 一、 ツO両 江戸中彦 一、 Z〇 Z両 ㎜、 Z8両 一、 鰍n n両 太田原望性 七、 nO n両 仙台取か えかし 三、OOO両 今 市 三〇 Z両その他
一、 Z〇 Z両 一、 Z〇 Z両 経営理念と宗教一二事例による試論 一経営理念と宗教i二事例による試論 =一 原案から著しく離れ、月並な分配となった。 基本的には長男が仙台、次男が京、三男が太田原、と主力店を受持つことは月並として、押立店と江戸中帯店にみるご とく四人がそれぞれ持分を分配されるのである。個々の財団が個人財産に帰するのでなくて、一箇の経営学としての存在 は変らないままで継続し、その持分だけが分配されるのである。これは今日の会社資本の概念の崩芽であるが、それは中 井家企業というものを分解してしまわないで、所有の変化にかかわらず、経営は存続させるという考え方である。このよ うな大がかりな場合には、月並な考え方が勝ったのであろうけれども、持分という考え方は、多くの店について適用され 通用していたのである。その例は枚挙にいとまがない。 このように﹁家﹂というものが、肉親とか家糸といった個人の関係をはなれて、継続的な経営体であるという考え方が できていたことが推察されるのである。 二代光昌の作と推定されている﹁中乳母要﹂は、前文のほか十ニカ条よりなるもので、未定稿のようであるが、これは 家憲・家訓的なものと、店則的なものが混っているが、中井家の経営理念はもっと明確なものとなっている。 まつ、営利について、あたかもプロテスタントのそれのように、 ﹁商家は財を通じ有無を達するの職分、其余沢を得て 相続を立る﹂と、職能論的職業観に立ち、営利はその﹁余沢﹂であるとする。営利が自己目的であるような人間像は、世 に大をなしたような経営者の中にはおよそ考えることができないのであって、営利が倫理観をともなって、自ら堂々とし た行動規範となっている。したがって、﹁人は人たる務を大切に心懸可申候、恩を忘ず冥加をおもい、世の交り恭敬に、仮 初にも自立自慢の心なく、人の難儀をおもいやり、人の喜を楽み、自己の自由を止め学力に任せて窮迫を青み救志ならば ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ マ へ 上は天の御心に叶へ、下は諸人の気受能、商道の利運も其中に有べし﹂︵傍点筆者︶と、倫理性を強調している。これは当 然、人倫をはつれた強欲な利潤追求とは相容れないものであって、特に投機の禁止になってあらわれてくる。﹁買置の事、
相場の事、やしの儀は、子孫門葉に至宝禁制たるべき也⋮⋮中略⋮⋮相場買置之費術は所謂毛質の所為、人の不自由を〆 くくり、他の難儀を喜ものなれば、利を得ても真の利にあらず、何ぞ久しからんや﹂と、買置は商品を囲いこんで値上り を待つ策、相場は市価変動のサヤかせぎで、具体的商品の流通に結びついていない、やしは不実の商品を売りつける欺朧 行為で、いつれも貧欲な﹁貧賞しといわれるべき悪徳商人の業である。一時的に巨利をえても永続するものではない。商 人たるものは勤勉にして欲に中庸であらねばならないと考える。そこで、営利にも限度がある。知足安分を説いて、 ﹁分 ロ 外の花美を防可動候﹂と、分限に甘んじることを言うあたりは、江頭博士も封建的分限思想とされるが、 ﹁足るを知る﹂ ことが、唯物的でない人間の満足のあり方である。 いま一つ、封建権力と結託して大利をむさぼることは、やはり商道からはつれている。江戸時代に封建諸侯と無縁であ ること、あるいは、積極的に反抗的であることは至難であるが、もともと商人は新しく勃興した勢力であって、来るべき 体制の中心勢力としての実力を意識しながら、反体制に対して加えられる圧力の危険を感じざるをえなかった。封建勢力 を利用して利益をえることは容易であっても、経済の原則の作用する場ではないだけに、前述の職能論的職分にはつれて おり、したがって存在理由が脆弱である。当時の近江商人が武士階級に対して﹁敬して遠ざける﹂態度をとったのは一般 的なことであったが、彼等が常に倫理的にこの結論に達したといっているのではない。むしろ長年の体験からして、直感 的に危険を感じたのであろう。それは商人の意識の中に芽生えた自己防衛であるとともに、そこからはすでに、体制に屋 従するものとしてではなく、自主独立の経営者が意識されているのである。 店則の中には、経営理念を反映している営業細則が多く存するが、これに管言を費すことは避けて、最後に、家憲・店 則を通じてみられる基本的態度として﹁合議による決定﹂を指摘しておこう。事は極めて重大な相続人の決定から、日常 業務の意思決定にいたるまで、広く合議制を採用した。﹁親戚並に別家共相談之上﹂とか、﹁衆評決談の上﹂などの規定が 経営理念と宗教−二事例による試論 二二
経営理念と宗教−二事例による試論 一四 ある。当主や嗣子に対しても、店員に対してもこの原則が適用せられた。その精神の極致が﹁和合寿福講﹂で、文政十二 (一 ェ二九︶年三代光煕によって創められたものである。神道に結びつけて年に一度、本家・分家・別家が集まって伊勢大 神宮の神酒を頂ぎ日野の意向神社に参拝した後、家法を論復し、営業上の重要事項を決したものである。中井家企業の最 高統制機関であったという組織上の重要さはここでは論じない。神道か経営理念にどのように影響したかという観点で検 討するとき、仏教・儒教が理念形成の筋金となっていたのに対して、神道が果した役割は極めて微弱であると考える。 ︵正︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ ︵7︶ 土屋喬雄著﹁日本経営︻理A心史﹂六頁。三六頁。 同右 三六一三七頁。四四頁。四八頁。 同右 三八頁。 同右 五七頁。 大塚 久雄﹁マックス・ヴェーバー研究﹂︿じd①三①びVと経済的合理主義 三三一頁。 江頭 恒治﹁近江商人 中井家の研究﹂九一二頁。 同右 九一三頁。 同右 九二二頁。竹中靖一﹁石門心学の経済思想﹂三九六・七頁、六一五・六一六頁。 同右 五〇頁。 同右 九〇九頁。 拙著﹁江州中井家帳合の法︻﹂三二頁Q 江頭恒治、前掲書、九一五頁。 三 オナイダ・コミュニティーの成立とオナイダ・シルヴァス、ミスの歴史 カルヴィソ派はジョン・カルヴィンぢH50旧く冒︵一五〇九−六四︶の教理に発するプロテスタントの一コ入あって、改 革派と呼ばれる。カルヴィンの著﹁キリスト教要綱しぼω葺三層目︷臣ΦO町二一冨置菊⑦冒σqδ昌は決して彼の独創でなくヒッ ポのオーガスティン﹀昌αq湯菖器oh出品℃。とマーチン・ルーテル竃⊆・H什ぎ冒窪目の見解に類似している。カルヴィンの
新味は、その神学にもあるσ︷種の﹁予定説﹂すなわち、世界は神によって創造され神の計画によウて麦配されるひ二重 の運命山。庫窪Φ鷲巴Φωユまユ。つとは神は人を救うべく人を選び、また罰するべく他の人を選んだ。すべては神の摂理の下 にあり、神は絶対のものである。神に対する絶対服従が教義の中心となるが、これは当時としては、人間を権威や伝統や 特権階級から解放するために作用し、人間が神に直接に結びつくことによって、人間としての自由を獲得することに役立 ったのである。 カルヴィソ派はプロテスタントの法皇と呼ばれるほどに、新教の原流として大きな作用をしたのであるが聖書の聖句を カソリックにおけるよりも、プロテスタントは一そう重大視したけれども、カソリックにおいては営利を否定する精神と なってあらわれたのに対して、カルヴィン派では禁欲的職業意識という形になってあらわれたのである。宗教的倫理が営 利欲を拘束していたのに、プロテスタンティズムの倫理が弛緩したものであったために、いままで拘束されていた﹁営利 欲﹂が解き放されたというように考えるのは間違っている。営利の語とは相連るようにみえる物質的現世的快楽とプロテ スタント的禁欲主義という一見相容ないものが、神の計画にかなう聖化された職業にはげむ精神と、これに対する神の恵 としての利益の是認という結合を生じて、勤労精神を高揚することになったのである。新しく拾頭してきた中産商工業者 や自営農民層に支持者をえて、最初はジュネーブにはじまったが、フランス、オランダ、スコットランドにひろまり、特 に清教ピュリタニズム℃自重餌臥ωヨを形成し強化させる基本となり、 メイフラワー号で新大陸アメリカに押し渡った清教 徒の集団勺 鴨巨守夢Φ誘のバックボーンであった。 アメリカに渡ったカルヴィニストは主としてニューイングランドに定住した。ニューイングランドはメイン、二.一1・ ハンプシャー、ベルモント、マサチュセッッ、コネクティカット、ロード・アイランドの六州を指す。一六二〇年には約 二五、000人のインディアンが居住していたとみられるが、ピルグリムの連中が移住してからは、農業牧蓄業が急速に 経営理念と宗教−二事例による試論 一五
経営理念と宗教−二事例による試論 一六 発達し、さらに⋮七九〇年頃にはロード・アイランド州プロヴィデンス市に最初の紡績工場ができ早くも活況を呈しはじ めた。対欧州貿易もここに主たる地盤があったから、種々の工業の発達が刺戟され、経済的発達の先端を切っていた。 カルヴィン派の教義が成立期産業資本主義の精神を形成したといわれるだけあって、ニューイングランドにはカルヴィ ン派の勢力が強かったが、これが穏健なニューイングランドの家族主義的工場経営者の精神的バックボーンであり、移住 した、あるいは、農場から出て町の工場に集った労働者達の勤勉な気質を培養したのである。本稿の主題はこのニューイ ングランドにはじまる。 ベルモント州の南端に近くニュー・ハン。フシャ!州との境界にある小都市プトニーで、ジョン・ハンフリー・ノイズ 冒ぎ出⇔ヨ盲亀囚づ。審ωがカルヴィン派といわれる宗教改革派の教理にあきたらないで、自らが受けた啓示にもとづいて、 まったく新しいキリスト教を説いていた。ハンフリー・ノイズの説くところは、従来のキリスト教諸派と比べて著しく異 っていた。すなわち、キリスト教の教理は、簡単に表現できるものではないが、いまノイズの説くところを特徴づけるた めにだけの概説を試みよう。 神は最愛のものとして人間を神の形に似せてつくりたもうたが、人祖アダムとイヴは禁を破って人間に原罪をつくって しまった。神は救済のために子︵実は三位一体︶イエズス・キリストを人の世に派したもうたが、人間はこれを拒み十字架 につけ、イエズスは復活の後、神の許に去られた。よって人間は罪を犯しやすいものとして、神から離れた存在となって いる。したがって、常に罪を意識し、悔い改めなくてはならない。罪を犯し、悔い改め、また犯す。キリストが再来し神 に一致するときまで悔悟の反復の生活を送るものとして人間を考えるのである。ところが、 ノイズは神聖な啓示を受け た。それは、西歴紀元後七〇年、イェルサレムの滅亡のときに、キリストはすでに再来したもうたという啓示である。キ リストの第二の出現を信じた彼は、人間はもはや悔い改めを繰返すだけの宗教的生活を送るまでもなく、キリストの再来
によって原罪はすでに償われており、犯罪と悔悟の古い径を辿ることはもはや適当ではない。人間はこの現実の生活の中 で、たゆまざる努力によって完全な状態に近づき、人間に約束されたもの、すなわち、神に一致するために努力しなくて はならないというのである。人呼んで完全主義者℃①駄①ao艮ω訂という。ノイズの教理は軽々には受容されなかった。 一八三九年たんなる聖書研究会として発足してから七年を経た一八四六年にようやく小数の人がこの教理にしたがって プトニー.コミュニティーとして共同生活を送ることに同意したのである。すなわち、現世における神への一致を考える と、このグループは自らの生活を原始キリスト教会のパターンに近いものにすることに同意したのである。ここでは利己 主義へのあらゆる誘惑を去り、完全な霊的な平等に基づく完全な生活を立てるために各人を平等とし、個人的財産を放棄 し、結婚や育児までも利己から遠ざけ、個人の優位を去ってメンバーの全員の利益が等しくはかられるような拡張された 家族を形成することになった。 しかるに、教会からは、異端の廉で破門され、プトニー市民からは排斥されることになった。一八四七年、ニューヨー ク州のオナイダの近くの小村レアードビルいm騨牙巳Φでの完全主義者の会合に招待されたノイズは共同生活形態が完全主 義に最適であることを説いてプトニーコ、・・ユニュニティーの体験を語ったが、聴衆は信ぜず、直ぐには承知しなかった。 何ヶ月か経て、二人が同意し、無資力の共同生活第一年の苦しい冬の共同生活が開始された。あたかもプトニーではコミ ュニティーが教会によって強制解散せしめられ、全員追放されたが、この報を聞いて、ニューヨーク州の仲間はベルモン ト州の彼等を受け入れようと提案し、ノイズに指導者になれと求めて来た。 オナイダ・コミュニティーはこの時をもってはじまる。これまでには相当の困難があった。ノイズの提案はいわゆる理 想主義であって、当時の西欧社会では流行ともいえるものであったが、実験に成功した例はなかった。新大陸アメリカは 実行に移すには格好の場であったし、アメリカでの社会形成は、多かれ少かれこのような経過を辿ったが、すでに十九世 経営理念と宗教i二事例による試論 一七
経営理念と宗教−二事例による試論 一八 紀の中期といえば、開拓もゆきつくしていた。したがってノイズの提案は大改革を意味するものであったわけで、十年の 歳月を経てようやく実験にかかったことになる。 オナイダでの生活がはじまるとメンバーは急速に増大し、最初の三年間で二百人に達した。賛同して集ったメンバーが この新社会のために差出した資金は約十万ドルにも及び、その上各種の職業の経験をもっていたので、早速住居の建策に 着手した。自らの手で焼いた煉瓦を自らが積んで、三階建の堅固な家を建てた。この建物はその後ウイングを増築したが 今ではマンショγ・ハウスと呼んで、そのままの姿で保存されている。 オナイダは、オナイダ・インディアンの名に因む土地で、近隣には住民も乏しく、彼等は自給自足を基本としなければ ならなかったが、いつれも信仰の厚い人であった。その心情については、 ﹁当初百年﹂の著者エドモンドも﹁外部者とし ては何も言うことはできない。多分、宗教的意味と彼等の常識との間の分離線はいつもいたって徴妙なものであったのだ ユ ろう﹂と評している。しかし、実際問題として、彼等は文字通りの自給自足の生活を続けなくてはならなかった。ここで は最初の五十年間はコミュニティー以外から人を雇うことはなかった。雇いたくともまったくの片田舎で、誰もが好意を 抱いてくれてはいたが、余剰の労働力はなかった。 三、四年経って彼等はその生活を農業だけでは支え切れないことに気付いた。最初の十万弗の資金もすでに四万弗を失 ってしまっていたという。他の多くの社会でそうであったように、貧困が希望を失わせ、自滅するまでその選んだ道に盲 目的に沿いつづけるようなことはしなかった。現金収入の流入するような工的な仕事を見出す努力をはじめ、まっは農産 加工をやった。品質の一定している彼等の食品は間もなく全国のキチンにゆきわたり、オナイダコミュニティーのラベル が立派な広告の役割を果した。もっとも好評を博したのは鉄製の罠であった。メンバーの一人が狩猟に長じており、その 経験と科学的研究が実を結んで、極寒のニューヨーク州やカナダの冬にも折れない鋼をつくり出したのである。間もなく
この罠は世界中に通用するブランドとなって一八六〇年︵マンション・ハウスの完成する年︶には年間売上十万弗に達し、以 降この金額を割ることはなかった。 メソバ!の中には行商人も多かった。彼等はいち早く行商に出たが、そのもたらす情報はコ、ミュニティーの経済活動に あつかって力があった。なかでも、絹糸がよく売れる商品であることを知って、婦人達の良い仕事ができた。客が欲する 良品質の絹を供給するためには、自分達で加工するのが最上であると考えて、三人の若いメンバーがニューイングランド の工場へ技術見習に派遺され、数ケ月後には、オナイダの技術が自製を可能にした。 一九〇〇年には三十万弗の売上とな った。 メンバー達は勤勉であったが、それ以上に発見の才にめぐまれていた。労力を省くために種々の機械を発明したが、た とえば、リンゴむき機や洗濯機や種々の調理機もすでに彼等の生活の中にあった。生産にもっとも寄与したのは水力利用 の動力機であって、工場はいつれも川に面して建てられていた。コミュニティー支所ともいうべきコネイティカツト州の ウォリソフォード芝⇔日嶺αqhoaでは水力を利用して錫鍍金の鉄製スプーンを製造していた。一八七七年のことという。 ﹁リリー﹂・﹁オーバル﹂の二つのパターンをもっていたが、これが後のコミュニティーの主力製品、、.Ooヨ日β巳¢勺富8、四 の長い線の直接の祖先となるのである。 指導者ノイズは宗教家でもあったが、それ以上に勤勉な発明家で、発明したランチバッグは特許を有していたし、他に 婦人用ハンドバッグから紳試用旅行鞄まで二十四種にも及び、ノイズは半日を鞄に、半日を罠製造の火造り作業についた。 この年月の間に特に注意したいのは、 ﹁南の部屋﹂と呼ばれる育児室のことである。彼等は結婚が人間を利己的にする ことを知っていたので、夫と妻の個々の結びつき以上のものと考え、コミュニティーへの貢献を強調する考え方をもって いた。複合結婚8ヨ覧。×B費同気αqゆという。そして生れた子供はコミュニティーの子として四才になるまで育児室に入れ 経営理念と宗教−二事例による試論 一九
経営理念と宗教−二事例による試論 二〇 られて育ち、それから六才までは幼稚園に、次で﹁南の部屋﹂で初等学校年令の間を寝食を倶にして学んだ。教育係には メンバー中から選ばれた適任者があたり、両親には週に二度だけ会ったが、実にコミュニティーは拡大された家庭であっ たわけである。南の部屋を出ると一般の学校へと出ていったが、多くは、再びここに帰って来たし、ここで養育された人 々が後のオナイダ社の発展の中心人物となるのである。 これらの年月をオールド・コミュニティーと呼ぶ。 一八七九年ノイズはカナダへ移住した。そしてコミュニティーは缶 詰・罠・絹糸・銀製品・鎖の製造を部門を別けてやっていた。その頃コミュニティーを維持することが困難になってい た。アメリカ社会のただ中で共産生活i古代キリスト教会なみの生活を続けることは到底できるものではない。この間の 事情は別稿にゆづらねばならないが、とにかく一八八○年共同生活をうち切って、株式会社を組織した。コミュニティー 参加のとき提供した資金の半額とコミュニティーで働いた年月の長さに比例せしめて、株式会社の株式六十万弗が全メン バーに男女の別なく割当てられ、九人の取締役がノイズともっとも気脈の通い合う人から選び出された。ノイズは再びオ ナイダに戻ってくることなく、一八八六年カナダで昇天したが、彼の人格の力は、彼がいなくてもオナイダのメンバーを 結束させるに十分であった。 当時のアメリカは、工業化の時代で、大工場が飛躍的な生産力をあげはじめていた。これに対して在来の地方的工場は 依然としてマヌファクチュアリングの時代に属し、オナイダの工場もその例外ではなかった。いつれは大企業に併呑され るか室思してしまうはかなかった。この危機は、 ﹁南の部屋﹂出身の若い連中がオナイダに帰って来て経営の衝に当るこ とによって切り抜けた。特に、ジョン・ハングリー・ノイズの息子ピェールポント・ノイズがすで成功していたニューヨ ークでのテーブル・ウェアの商売を、突然廃業して経営陣に参加したのは、まさに、父ノイズが言う﹁特別の神の恩寵﹂ であった、 ﹁南の部屋﹂で育った連中の完全なチームワークが効を奏した。
オナイダ社の商法は従来の慣習を打破して、公正を旨とした近代的販売政策にのっとって醸全国的配給網を確立した。 まず、商品イ1メージを高めるために、有名商品であったロジャーズ切。σq①易よりも良質のトリプル・プレート↓同葦Φ営讐。 にしてコミュニティーを商標にした。鍍金を厚くしても原価はそれほど高くはならないので、質を良くしただけ価格を高 くすれば、利幅は大きくなり、イメージアップの効果がある。デザインはもっとも苦心したが、同じほどに宣伝にも金を かけ、当時としては劃期的広告法を採用した。もっともその当初においては困難があったが、一九〇四年末にはこの政策 が軌道に乗った、卸商一小売商には販売価格を固定する政策を強行して、かえって強固な配給体制が成立した。それ以上 に重要なことは、オナイダ社発展の最大の礎石となったところの労働政策の展開であった。高配当よりも高賃銀、従業員 持株制の徹底、住宅の自己所有の推進、工場環境の改善等々、それらはいずれもオールド・コ、・・ユニティー時代の仲間の 間に培われていた労働の尊厳の認識の上に立ったものであった。 一九一二年までにスプーン製造以外の諸部門は次々に処分し、ついにナイアガラフォールにあった主製造部門をゆかり の地シェリルω帯H白へ移転集中することに成功した。一八一六年にもっとも古いなじみの缶詰の仕事を打切って、オナ イダ社は純粋に銀製品製造業に専門化する方針をとったのである。 オナイダ社の歴史の中で、ストライキは唯の一回きりである。 一九一六年のこと、全アメリカは不況対策の賃銀引下を つづけていたQニューヨーク地銀工労働組合]≦霧﹄℃o房ゴ臼pゆ¢中臼ρ距讐29即霧。。曽p匹ω穿臼妻。蒔①歴、d臨。⇒o︷ ZoH昏﹀ヨ98はオナイダ社ヘオーガナイザーを派遺してきた。 ノイズは労働組合の必要を自ら唱えてはいたが、闘争 でもつて解決することには賛成しなかった。ストライキという戦術でよりは、言漏らの方策による方がよりょく目的を達 しうるという確信のもとに、これに抵抗した。有力会社インターナショナル・シルヴァー社冒け臼藍島8要望く霞Oo.ワ レイス社≦匿帥8帥Oρはすでに休止しており、オナイダ社でも重役陣はすでに事態やむなぎを覚悟したので、抵抗の 経営理念と宗教一二事例による試論 二一
経営理念と宗教−二事例による試論 二二 責任は一工場長であったP・ノイズにかかってきた。しかし、従業員の彼に対する信頼は厚く、その労働政策に信服して いたので、オルグの努力はついに成功しなかった。同年十月目ルグは引きあげ、不成功を報告した。十月三日のメリデ ソ・デーリー・ジャーナル竃Φ比臨魯∪鋤一ぐ冒実葛一はこれを大々的に報じ、オナイダは他社と異なり従業員を人間とし て扱い、従業員はすべての点で満足していると評した。 ﹁男も女も、金より先に位置せしめるという人間のやる経営政策 である﹂と。 P・ノイズは実に有能な経営者であった。彼が成功の頂上にあったニューヨークにおける銀商売を放棄して、オナイダ に戻ったとき、彼の初任給は年一五〇〇弗であった。一八九六年に月三〇〇弗に昇給され、その後、何番かの高給で彼を 迎えようという会社もあったが、彼はその勧めに乗らなかった。彼にとっては、物的報酬は念頭になかったもののようで ある。父の始めたオナイダ・コミュニティーの良き社会を育てることに情熱を燃やし、会社の経営そのものに全力を捧げ たのである。 一九一〇年ヒンズ社長出島房が死に、P・ノイズが社長に就任したが、第一次世界大戦中は、志願して政府要員とし て従軍し、戦後もヨーロッパでの戦後処理に委員として活躍した。通算三年に及んだが、この期間彼に代って社長の席に あったアルバート・M・キソスレー≧げ①巨ζ齢囚ぎ。・訂図はP・ノイズの良き補助者であり、また経営者としても有能で あった。特に彼は大戦後の不況を乗切るに功があったし、特に労働条件の改善には劃期的成功を収めた人であった。利益 でもつて従業員住宅を建築しこれを次々と払い下げた。シエリルとケンウッドには今も閑静で設備の良い従業員の住宅が 美しく並び、オナイダ市はニューヨーク州最小の市ながら、そのすべてがオナイダ社の従業員とその福祉施設で構成され ている。一九二一年の不況はオナイダ社にも操業短縮と一部従業員のレイオフを余儀なくせしめた。分益制賃銀が正式に 発足したのはこのときであった。彼等は﹁割前賃銀﹂8三ヨσq①巨芝謂Φと呼んだ。今日までにわつかの小修正が加えられ
たのみであるQ 一九二六年社長となったマイルズ・E・ロバートソンζまの国・幻。げ臼80づは﹁よそ者﹂すなわち、﹁南の部屋﹂で教 育された連中とちがって、富農の家に生まれ弁護士となったが、この前途を捨ててオナイダ社に入った人である。一九二 五年オールド・コミュニティーのもとの仕事の最後のものであった罠の製造を売却してしまって、一九二九年にロジャー スその他の銀製品工場を手に入れた。これらの工場の製品が行づまっていたのを完全に回復せしめるためのプログラムを 発足させるまでに、またも不況がやって来た。一九二九年から三二年にいたる間に、オナイダ社は二百万弗の損失をうけ てしまった。またもや従業員のレイオフを余儀なくされたが、入念に仕組まれた待機計画と社長を補佐した有能な管理者 達の努力で、従業員の八○%が維持できた。ロバートソンは従業員の一般集会、通常監督者会議などを実施に移して衆議 によって経営決定をなした。 今一つ忘れてならないのは、従業員持株制である。オールド・コミュニティーを解散して、オナイダ・コミュニティー 社としたときに、その株式は全面的に従業員に割当てられ、その後増資の度、株式配当の度に、新入の従業員も株主とな った。 オナイダ社では株主総会よりも前に従業員に対して会計報告をおこなっている。そして将来の利益をもってする中間ボ ーナスは従業員の意識の中に強い勤労意欲と高い職場モラールを湧き立たせている。 今日四千人の従業員を擁し、全米第一を誇るシルヴァー・スミスの工場は、百二十年の昔には二百人の教会主義共産社 会であった。以上はその歴史のほんの概要である。 ︵1︶ ≦筥け2∪.国自Bo”畠..国冨仲口償ロ脅巴団。霞の目Q。ら◎。1お軽G。..℃.旨・ 経営理念と宗教一二事例による試論 二三
経営理念と宗教一二事例による試論 二四 四 オナイダ社の経営理念 文学者W.D・エドモンドの描くオナイダ社の歴史は物語りに充ちているが、史的考証が弱い。原典となったP・ノイ ズの追詳記はなまなましい体験にあふれているが、数字であらわされた綿密さの点で弱い。しかし、筆者が訪饗して受け た実感はこの両書を読む以前であったが、まさに墨書の語るところそのものであった。そして、幾何かの会計報告書も右 の事実を裏付けるに十分であった。同社の歴史そのものは稿を改めて詳述したい。オナイダ社の経営理念は次のように理 解される。 まつ、プロテスタント的職分意識をその本源までさかのぼった。キリストの第二の出現を信じた彼等は、キリスト教的 悔悟の生活を見限って、キリスト受難前の古代教会の生活に範を求めた。H・ノイズはその教理を書き遺さなかったので 断言はできないが、キリスト者としてはこの共同生活が重要であったに違いない。体験を通じて彼の理念が徹底せしめら れる場であったからである。二百人の共同生活は三十余年で破れたけれども、H・ノイズは予めこれを見ぬいていたので あろう。 ﹁南の部屋﹂での子供の教育に際して、子供達は旺盛な競争精神の酒量をうけたが、 ﹁当初百年﹂の著者エドモ ユ ンドは﹁社会的な実験としてのコミュニティーの終局的解散を予見していたのかも知れない﹂といっている。この共同生 活が一世代続いたことは、それで十分であったと思う。すなわち、彼等の経営理念が、単なる観念としてではなく、体験 から構成せられたからであるQ 神学的には原罪から救済された人擦は、神に一致すべき存在として完全を目指することになるが、この完全主義者の理 想は神の意に適うことであった。それはこの小社会にとっては社会−仲間の生活に何の形ででもあれ貢献することであり 貢献することに喜びを感じたのである。金を儲けることは目的ではなかった。金一物的充足は神の意に五つたときに与え
られるものと考えて、金のない時には、彼等は神に祈ったα神は活動の手段としての金を与えたもうのが常であった。富 むことを最終の目的とせず、約束された個人的成功をなげうって、オナイダ社の経営に身を投じたP・ノイズやM・ロバ ートソンはその好例であるが、経営することに身を捧げたと同様に、働くことに幸福を覚えた従業員も同じく職分に生き たものというべきである。 マンションハウスで共同生活した彼等は、キリスト教的兄弟であることを実生活から意識した。これはまさに一家族で あって、動物的に結婚によって形成される排他的利己的な家族となり、欲で固まるのとちがって、小社会を完成するため の結婚であった。複合結婚が何であったかは十分にはわからないが、エドモンドは﹁彼等は完全な生活というものは、完 全な霊的平等がある所にのみ存すると判断した。このことは個人的財産が社会の利益のため犠牲にされるべきであるばか りでなく、各人は他人の生活に対するあらゆる要求と権利、結婚さえもを放棄すべきであることを意味するのである。⋮ コ ⋮家族精神に重点をおいた結婚は、利己を美徳として助長するものであると信じた﹂といっている。﹁南の部屋﹂での子 供の養育はその極致である。 このような小社会では個人の尊厳は明確に実質的にあらわれた。どんな個人をも無視しては社会は成り立たないのであ る。個人の安堵。・①。霞騨団が社会の条件になる。彼等の間では経営上の重大問題であるところの職能の評価と分業は当初か らの緊急問題であったが、同時に担当の業務からうける満足も重視され、可能な限り仕事を交替した。特に誰もが嫌う仕 事は公平に巡回させることにした。そして、どのような仕事も等しく尊重せられた。コミュニティーが解散され株式会社 となって賃金や給料をうけるにいたると、職種や年功によって受ける賃率は差をつけられたが、尊厳の認識という点では 変らなかった。コミュニティーでは財産の私有は否定されていたが、これを共産主義というのは間違っている。 ﹁工業を やろうとする気持が、たんに個人的利益に動機づけられている人々にとっては、これは社会主義とか共産主義的にみえる 経営理念と宗教一二事例による試論 一一五
経営理念と宗教一二事例による試論 二六 かも知れない。実際にはそうではない。というのはオナイダ社は各人の能力はそれぞれ異っていることを認めており、仕 事と報酬を割当てる場合には各人の共同福祉に対する貢献を計算に入れている。共同福祉を第一におくので、仕事の尊厳 人間をして動物以上たちしめる抱負、それから、独立と安堵への各人の権利を認めている。もしこれが社会主義または共 ︵3︶ 産主義であるというなら、アメリカの夢はそれである﹂とユドモンドはいっている。 人間の能力差には厳格であった。共同生活においてはあらゆる仕事は同等に名誉あるものとされたが、同時に、 ﹁共同 生活の仕方を完全に知っていたので、すべてのメンバーが同等にコ、ミュニティーでの高いポストにつく能力をもつよう信 じるふりをするようなことはなかった。人間というものは自然にそなわった能力以上の仕事に追いやられたときは、幸福 ︵4︶ ではないということを知っていた。﹂ コミュニティーのも一つの原理は競争であった。キリスト者の集団を羊のごとく争はない無気力な平和主義者と混同し てはならない。神に一致する努力には当然競争が伴う。前に引用した﹁南の部屋﹂での競争心の養成は、エドモンドの理 解している以上に本質的なものであると思う。小社会外に対する闘争や、階級的闘争のあらわれとは異なり、完全主義者 として、その最高を目指すのである。もちろん競争原理はプロテスタンティズムの特性であって、従来の伝統主義的理念 に対して、新しい時代を開く原動力になったのが自由競争であった。自由競争はその系として公正の原理をもつ。価格政 策、配給政策に旧来の常得意に対する割引を排して、小売価格を確定したのは、公正の原理のあらわれであったが、これ が時代の要請であったところのメーカーの配給機構統制に効果をあげる結果となり、製品のイメージアップに役立った。 オナイダ・コミュニティーのメンバーはキリスト教的意味での﹁兄弟﹂の意識に立っていたから、資本家と労働者とい う階級対立の意識とは相容れないものであった。重要な事柄はすべて合議で決したが、オールド・コ、ミュニティーでは毎 日汐刻にマンショγ.ハウスの集会室で宗教的話合の時に、同時に日常業務の打合せや、政策の検討がなされた。また彼
等はメンバーの共同作業を好み、納期が迫った時や、収獲時には、他の作業部門の者も、一緒に集って手伝ったがそれは ︵5︶ 村の寄合のように心浮き立つ機会であったという。株式会社になってからもこの気風は消えなかった。一九一六年ストラ イキのためにオルグが派遣されたときが、その試練の一つであったかもしれない。従業員の福祉を標榜し、組合の必要性 を強調していたP・ノイズが、この時ばかりは頑強に抵抗したのも、闘争というやり方で達しうるより以上の効果を彼等 だけが可能な相互扶助の方法で達しうるといる自信があったからであった。全従業員がノイズを信頼し、その方針に従っ たために、オルグも退散のやむなきにいたったし、その後の労働条件はたしかに他社の及ぶ所ではい。トップ経営者の給 お 料は他のどの会社よりもはるかに低く、平均賃金は高かった。ニューヨーク州では、一部の地方を除けば、オナイダ社に ︵了︶ 及ぶ賃銀は払っていない。 従業員の利益が株主よりも優先したといって過言でないと思う。 ﹁利益分配の前に高賃銀を払え﹂を自明のところとし ている。繰返す不況を機に分益制賃銀を実施することになったが、純益の五〇%が従者員に割当てられることが少なくな かった。そして、利益分配に関する会計資料は綿密に作成されて、株主総会に先立って従業員に示されている。 それにも増して、コミュニティーの主旨は従業員持株制となって今もなおオナイダ社の基礎となっている。オナイダ社 はここで働く人々のものなのである。最初株式会社に組織変更して、共同生活を解散したとき、男女をとはず全メンバー を株主として、彼等がコミュニティーに参加したとき拠出した資金の半額とメンバーであった年数に比例せしめて、株式 の持分を決定した。十分に研究せられた結果の案ではあったが、H・ノイズに信頼していたメンバーは完全にこの案に同 ヨ 託した。また、何人も、どの家族も株の三%以上を持ってはならないと決めた。その後何回もの増資があったが、その都 度、一部が金庫株とされ、株主でない従業員に対して賃金の代りに交附された。今日、普通株主のほとんどがシェリルと ケンウッドの市内に住んでいるということが徹底した従業員持株制が実施されている証拠である。 経営理念と宗教一二事例による試論 二七
経営理念と宗教i二事例による試論 一一八 従業員の福利厚生は、今日では極めて一般的なことである。ゴルフ・リンク、ボーリング場、プール、理髪店、売店等 々が会社によって経営されていることは、今日では珍しくない。しかし、オナイダでは百年前から重視していた。男達は 楽器を演奏するのを好み、演劇やダンスがマンション・ハウスでおこなわれた。共同生活が解かれたあとも、この地から 離れる人は少なかったから、会社は早くから住宅問題と取組んだ、最初は社宅を建てこれを希望者に有利に分譲したし、 その後は資金を提供した。また老年退職者は、かのゆかりのマンション・ハウスを転用したアパートに住むことも許され ている。筆者が訪問したときにみた従業員の住宅は、深い一面の木立の中に、アメリカ東部らしい堅固な構造の美しい建 物が点在し、その多くのものはアメリカ一般の中流家庭のそれより一まわり大きかったし、わが国の社宅のように無趣味 で劃一的な安普請ではなかった。また、資料蒐集に協力してくれた取締役秘書のロス君は大学卒業後間もない青年で、オ ナイダ生れでなかったが、会社のゴルフ・リンクに満足し、彼の妻もオナイダに来たことを喜んでいると話していたし、 マンション・ハウスを案内してくれた八十才の老女は、昔話に興奮して目に泪をたたえて彼女の子供の頃のオナイダ社初 期の思い出を語り、彼女の親達が語ったコ、・・ユニティーやH・ノイズを話してくれたが、彼女はバスルーム、キチンつき のマンション・ハウス内の彼女の部屋を見せてくれた。彼女は面倒だからというので炊事はせず、会社のカフェテリアを 利用して、悠々と老後を送っていた。 オナイダの成功の別の一因はメンバーの相互啓発と進取の気象にある。小市民的といわれる部類の社会の構成員は、決 して急進的ではないが、社会の進歩の担い手である。百二十年前はヴィクトリア朝風といわれる優雅な風俗が流行した時 代で、アメリカの女性は完全な権利を享受していなかった。男女同権ではなかったし、むしろ、女は家にあって男に所有 されていた。その中にあって、オナイダの女性は世間の罵声を無視して男とともに労働した。そのためには、あの長く美 しい巻髪と、足をかくすまでの長いスカートは邪魔であったから、頭髪はボーイッシュ・ボブに切りつめ、独創的なペン