No. 59, pp.127 - 138, 2009 はじめに 教育行政によって教育現場が振り回されると いったことは今に始まったことではない。近年 の教育現場もまたよく似た様相を呈している。 しかし、その様相はいくつもの共通要素を内包 しつつも、特に子どもの学力、教師の成長や教 師集団づくりといった側面を中心に新しい変化 のなかにある。 教育の市場化と点数至上主義が浸透するなか で、多くの子どもを覆う「学習意欲の喪失」の 上に学力の二極分化が着実に進行している。経 済的に恵まれ高い学力を志向する家庭の子ども は塾で学習を強要され、そうでない家庭の子ど もは学習習慣が定着せず双方の間に学力差が広 がる。しかし、前者の多くは「何のために学ぶ のか」を見つけられないまま、後者の多くは学 習の場を充分に保障されないまま、ともに学習 への意欲を失っているという実情が見られる。 そして、「油断すれば滑り落ちる」という緊張 と「どうせ勉強したって」という諦めに追い詰 められ、どの子もゆっくりと自分と向き合った り、自分を肯定的に受け入れたりできないでい る。2007 年度より始まった全国学力一斉テス トは、人間の能力を点数化し、それによってそ の人の価値が決まるような価値観づくりに拍車 をかけ、そのテスト結果の公開によって地域間、 学校間での学力競争を煽り、子どもたちをさら に点数至上主義の方へ追いやってきた。 一方、07 年度より教師に対する人事考課制 度が各地の教育現場に持ち込まれ、今年度より 「教師の資質向上」を謳い文句にした免許更新 制が完全実施された。人事考課は、目に見えに くい教師の力量と成果を、限られた一部の人間 の主観によって一元的に評価しようというもの であり、その評価における客観性は乏しく教育 の特質と言える教師の協働が等閑に付されると いう点で大きな問題を抱えている。また、免許 更新制によってこれまでの初任者研修や経験者 研修などの官制研修に加え、さらに研修が押し つけられることで、教師としての成長における 教師の主体性と誇りが奪われるだけでなく、教 師たちの教育実践創造への意欲が削がれかねな い。教育現場では以前より、「教師は現場で学 び現場で育つ」と言われてきた。教師は子ども や保護者と向き合い、同僚の実践に立ち会うな かで、また、先輩教師からの継承によって成長 してきたのである。主観的な評価や押しつけの 研修が、このような現場での教師の学びを奪い、 本来教師自身が深めていくべき教育観や教師観 を深い洞察を欠いた皮相的なものに押しとどめ ていくのではないかと懸念するのである。今後、
福井雅英の教育実践が問いかけるもの( 1 )
―― 公立中学校の教育実践追求と
「子ども理解のカンファレンス」の創造 ――
大 平 浩 樹・堀 江 伸
Educational Practice by a Teacher : Masahide FUKUI ( 1 )
―― Case Conference on Comprehension of a Child in
Public Junior High School ――
団塊の世代と言われる教師の大量退職に始まる ベテラン教師たちの引退がつづく教育現場にお いては、こういった問題がとりわけ若い世代の 教師にとっては深刻となる。教育現場が直面す る教師の主体的な成長とそれを支える教師集団 づくりという課題は、教育のあり方そのものを 問い直すことにつながる重要な課題として追求 されることが求められる。今、我々教師たちは 教育現場でどのように教師として育ち合い、協 働的な精神のあふれる教師集団づくりをいかに 進めていくのかという点で具体的な手立てを問 われていると言えよう。 それぞれの教師の個性と成長の道筋は千種万 様でありながら、教職の専門性としての教育思 想や子ども観・教育観には深めるべき共通の方 向性がある。個々の教師たちが、特に若い世代 の教師たちがどのように教育思想を磨き、子ど も観や教育観を深めていけばいいのか。それを 解く鍵として、教育現場で先駆的実践を展開し てきた先人に学ぶ意味は大きい。 そこで、団塊世代の一人の教師として教育現 場で教師集団づくりに努め、独創的な実践を展 開しそのときどきに実践記録として発表してき た福井雅英(現 北海道教育大学大学院教授) を対象に研究を進めることとする。福井は困難 な教育現場で直に子どもにかかわり、子どもの 主体的な自己成長を援助する実践づくりを進め てきた。広い意味から中学生の規範意識の形成 に取り組んでいたとも言える。また、子ども把 握のあり方を探求し続け、A中学校(以下 A 中)において子ども理解と同僚理解を深める「子 ども理解のカンファレンス」実践を展開してき た先駆的実践家である。そして、社会科教師と して常に変化する社会と子どもの生活に注目し 続け、子どもの生活と学習との結合をめざした 授業づくりを進めてきた。本研究において福井 に焦点を当てたのは、こうした福井の教育実践 の特質や子ども観を構造的に分析・考察するこ とで、福井が何に根源的な価値を見いだし何を 模索してきたのかを明らかにし、教育現場にお いて教職の専門性を深めるための実践的課題を 提起できると考えたからである。 本論の第Ⅰ章では、福井を対象とした長谷川 らによる研究(長谷川ら 2004 以下「福井研究」 とよぶ)を踏まえた上で、筆者による福井への インタビューや福井の文献から福井の現場教師 としての生涯を概観するとともに、本研究の目 的と方法について論じる。また第Ⅱ章では、福 井がA中で残した実践記録『A中の教育』を手 がかりに教育実践の足取りを追い、その特質を 分析・考察した上で、福井が何に価値をおき中 学校教育をめぐって何を模索し続けたのかにつ いて論ずる。『A中の教育』を手がかりの中心 としたのは、A中での勤務が福井の全教職生活 の大半を占めること、そこでの実践記録が毎学 期記録され、その数が 50 を越えることから、 そこにはそのときどきの福井の子ども観や教育 理念が色濃く投影されていると考えられるから である。 Ⅰ.福井雅英の教師としての生涯と実践 1 .現場教師としての生涯の概観 ( 1 )行政職から教職へ 1948 年に滋賀県安土で生まれた福井は、高 校 2 年生で経験した文化祭の弁論大会での優勝 を機に弁護士を志すようになり、やがて京都の 私立大学の法学部に進学した。大学では学園紛 争のさなか、大学生協民主化運動、大学民主化 運動、ベトナム反戦運動に没入していった。福 井は、そうした学生運動での経験を通して、自 分の生き方と社会のかかわりを自覚的に考える ようになっていった。しかし、福井は「自分の 具体的な問題と結びついていない幼いものだっ た気もする」と、当時の自分の未熟さを指摘し ている(福井 1999 p.145)。 そして大学を卒業した 70 年の春、福井は地 方公務員として市民病院に勤めることとなり、 「小さな窓口から住民の福利に貢献する」こと をめざした。しかし、実際の勤務を経験するな かで、福井は「住民の福祉に貢献する」という 一般的な理念と日常の業務の間に大きな溝を感 じていた。その溝を埋めようと福井は組合運動 に参加したが、それでも自分の「福祉に貢献し たい」という思いは満たされず、自分の生きる 道を模索し続けた。 そのような状況のなか、福井にとって新しい 道を切り開く大きな転機が訪れた。事故で亡く
なった大学時代の親友の葬儀の席で、息子を 失った悲しみを背負いながら教師として土佐の 勤評闘争について熱く語る友人の父との出会い であった。その父の配転につぐ配転のなかで「子 どもを組織し、仲間を組織し、父母を組織した」 体験談は、福井にとって「『人民の教師』の誇り」 に満ちたものであった。そしてその語りによっ て、生き方を模索していた福井において「やり たい仕事がリアルな像を結んだ」のである。 当時、教職免許を有していなかった福井は、 その後通信教育で小学校の、出身大学の二部で 中・高等学校の社会科の教員免許を取得した。 そして、72 年 7 月の教員採用試験に合格し、 教職への道を切り開いていった。 しかし、高い志をもって臨んだ教職であった が、福井は小学校高学年の担任として教壇に 立って、教育技術の不足と教員養成課程を経な かった一種の負い目を痛感することになった。 それでも、日々休憩時間を惜しんで子どもとふ れあい、齊藤隆介の創作民話の読み聞かせなど、 詩や文学の授業に力を注いだ。福井が担任して いた教え子の一人はブログに、「私の幼い頃の 思い出は、良いことも悪いことも、この『滋賀 県の田舎時代』に凝縮されている。」と、当時 の福井とのふれあいや学校生活を自分の貴重な 思い出として記している。また、湖東地域に残 る自由な雰囲気のなか、生活綴方、岐阜県恵那 や三重県員弁の実践に学んだり、民間の研究 サークルに所属し県外教員との交流を深めたり した。 そうしたなか、中学校への転任希望者が募ら れた。かねてより専門教科を「思い切りやって みたい」と考えていた福井は、中学校への転任 希望に名乗りを上げた。 ( 2 )中学校での実践の展開 1978 年、福井は勤めていた小学校と同じ市 内にあるA中に着任した。75 年から 76 年にわ たって文部省同和教育研究指定を受けていたA 中では、大規模な校内組織の改革が行われてい た。75 年には、教師一人ひとりが独自のテー マにそって進める「一人一研究」を原則に、「有 機的なつながりを持った研究体制」をめざす改 革のもと、単なる校務分掌としてではなく研究 推進のための学習部、生活部、地域部が創設さ れていたのである(翌年より養護部が加えられ ている)。福井は、研究指定を機に校内組織改 革が進められてきたA中の新しい研究体制に身 を投ずることになった。 生活部に所属した福井は、「民主的な集団づ くり」をテーマにした生徒会・学級活動や道徳・ 特別活動などを担当することになった。A中で は以前より、修学旅行を軸にした平和教育の実 践が展開されていたが、78 年より福井はその 平和教育を任されることになった。そして、平 和教育の編成や教材など、実践全体を自主的に 構想し展開できる環境のなか、福井はそれまで の取り組みに工夫を加え、新しい実践へと発展 させていった。その特徴は、集団の自治能力を 高めようとした班毎のオリエンテーリング型の 見学行動や、年間を通してすべての教科で平和 学習を行おうという総合的で系統的な学習スタ イルに見られた。福井は、それまで子どもにとっ て受動的だった学習をより能動的なものへと転 換し、子どもの主体的活動の組織と平和の尊さ の生活への定着をめざしたのである。この平和 教育へのかかわりは教育科学研究会に参加する きっかけになり、「現場研究者論を知り、自分 の模索の意味を考える」契機となる、小嶋昭道 (当時 滋賀県教育科学研究会顧問)との出会 いをつくりだした。 その後福井は、A中の伝統として現在でも取 り組まれている実践を生み出した。84 年、A 中で起こった対教師暴力を機に、日刊生徒会新 聞「輝けA中!ぼくらの学校」の発刊に取り組 むことになったのである。この生徒会新聞は、 「(84 年)5 月 14 日の創刊第 1 号から 7 月 20 日 の第 56 号まで、 最初の 4 号までは隔日、それ 以降は文字どおり日刊で発行」(24 集 :1984.8) され、現在も日刊で発行され続けている。福井 はこの取り組みを通して、学校で起こる出来事 を機敏に子どもに返し、校内世論の形成をはか ろうとした。そして、この取り組みによって、 教職員や子どもたちに大きな変化がもたらさ れ、次第に校内での市民権を得るまでになって いったのである。 それから新たな荒れに襲われた 88 年、A中 は問題行動を引き起こす子どもをまわりの子ど
もが「言葉の通じないけだもの」と呼ぶような 事態に陥ったのである。このとき福井は、「直 面している暴力克服の課題を、人権・平和教育 の視点から今一度とらえ直し具体的な方針を提 起する必要」があると考えた。そして、父母と の連携や歌声の取り組みの強化、校内の世論づ くりなどに力を注ぎ、平和・人権・民主主義・ 連帯と友情などの大きな価値規範を育て、子ど もの主体的な自己変革を促そうとしたのであ る。しかし福井は、後にこうした実践を「平和 を求める民主主義世論で暴力を取り押さえると いう、いわば “ 政治の論理 ”」とし、「残念なが ら “ 教育の論理=発達の論理 ” の弱さは明らか であった」と反省的に検討を加えている(福井 2005.8 p.51)。 他方、社会科の授業においても福井は、独創 的な実践を展開してきた。福井が授業の中で重 視していたのは、「教科内容を生徒の生活実感 からリアルに捉え直す」、「特別なニーズを抱え る生徒を巻き込み、生徒どうしの交流を生み出 す」ということであった。つまり、多様な意見 交流を通して既存の概念をくだき、「生活と科 学をその子において結合する」(福井 2005.8) ことをめざしたのである。そうした福井の授業 に対する理念を象徴する実践の一つとして、 「『インドネシア』の地理の授業」が挙げられる。 校内暴力が落ち着きだした 91 年、福井は県 の教職員組合の専従役員となった。福井は組合 運動にかかわるなかで稲垣忠彦(当時 滋賀大 学教授 現 信濃教育会教育研究所長)と出会 い、その出会いが現場研究者として大学院で学 ぶ大きな契機となった。 福井は教育研究集会の講演依頼に稲垣を訪れ たことをきっかけに、集団で授業を検討する「授 業のカンファレンス」を提唱していた稲垣の研 究会に参加し、実際に「授業のカンファレンス」 を経験するようになっていった。そして福井は、 稲垣との親交を深めるなかで「生徒を叱らない 教育」、「勤労と結合した、生活と結合した教育」 を戦争末期から戦後にかけて展開した農村私学 「無争学園」(昭和 16 年開校)について、当時 の教員の一人であった小嶋昭道への聞き取り調 査に着手するようになったのである。 福井が専従役員から現場に復帰した 95 年、 A中にはかつてないような荒れが訪れた。特に、 福井が学年主任を務めることになった新 1 年生 の課題は深刻で、毎日のように起こる暴力や破 壊行動とその対応に教師たちは疲弊していっ た。そのような状況の中で学年会がもたれ、そ れが座長を務める福井によって徐々に、特定の 子どもへの理解を深め、とりあえずの手立てを 検討する会議へと発展させられていった。これ が後にいう「子ども理解のカンファレンス」で ある。こうした個別の子どもの事例検討会を通 して、教師同士、教師と子ども、子ども同士が 相互に理解を深め合うことでその人間関係を変 えていった。また、そういった変化のなかで福 井は、子どもの興味・関心と大きな価値とが結 びついた実践を生みだした。さらに、子どもに 起こる変化や教育実践の意味をあぶり出すよう な言葉も生み出していったのである。 ( 3 )臨床教育学の追究 A中の荒れが一段落しかけた頃、福井は稲垣 の退官が迫っていることもあり、「授業のカン ファレンス」について学習したい、また手がけ 始めていた「無争学園」の研究をまとめたいと いう思いを強め、1997 年、滋賀大学大学院に 進んだ。そして、滋賀大学の修士課程を終えた 福井は、2000 年、A中から別の中学校へ異動 するのと同時に神戸大学の大学院博士課程に進 学した。そこでは、戦後改革期に広島県の本郷 地域で大田堯(東京大学名誉教授)を中心に実 践された本郷地域教育計画の歴史的研究を進め た。福井が両大学院で研究の対象としたのはと もに、戦後初期の教育実践において教師の果た した役割についてであった。福井の研究では歴 史的実践が対象とされていたが、福井の関心の 中心は教師の役割と教師の成長に置かれてい た。そして、日常の教育実践と切り離されて「教 育学」が論じられることに抵抗を感じていた福 井は、教育現場から日本教育学会の課題別研究 の場で発表するなど、実践を踏まえた問題提起 を積極的に行うようになっていった。そのなか で福井は、「子ども理解のカンファレンス」が 教師の主体性を取り戻し、教職の専門性に立っ た同僚性の育成や学校再生の力になっていくこ とを強調している。
神戸大学の博士課程を終えた福井は、04 年、 同大学院の助教授として迎え入れられ、院生の 指導にあたると同時に臨床教育学の研究を本格 的に始めることとなった。そして 08 年、現在 勤務する北海道教育大学大学院教授となり、「子 ども理解のカンファレンス」を中心に教職の専 門性と教師教育をテーマとした臨床教育学の研 究を進めながら、実践研究の場を広げようと奮 闘している。 2 .研究の対象と方法 福井の実践は担任としての学級集団づくり、 学年主任や企画研究主任としての教師集団づく りや校内研究の推進、社会科教師としての授業 実践など多岐にわたる。また、多くの教科を通 して学ぶ平和学習を同僚たちと組織的に取り組 んできた。稲垣との出会いを経た後新しい荒れ のなかで生み出された、福井の集大成的な実践 としてのA中における「子ども理解のカンファ レンス」実践も挙げられる。福井の教育をめぐ る価値観や理念の解明と教育現場への実践的課 題の提起という本研究の目的を踏まえると、本 研究をこうした福井の実践や業績の叙述に留め るわけにはいかない。 そこで、福井が残した『A中の教育』におけ る実践レポートを手がかりの中心に、それぞれ の実践に見られる特質や子ども観・価値観を、 つながりや関係性に注意を払いながら構造的に 分析・考察する。多岐にわたる福井の実践は教 育と教師教育を包括しながらいくつかの階層を なしていると考えられるからである。そのなか で福井の教師像が浮かび上がり、福井が何に価 値をおき何をめざそうとしていたのかが明らか になり、同時に教職における専門性を深めるた めの実践的課題を提起できると考える。 Ⅱ.公立中学校実践をめぐる福井雅英の模索 ~A中 22 年間の実践記録から~ 1 .教育実践の足跡 ( 1 )平和教育実践 福井は、A中に赴任した 1 年目(2 年生所属) から道徳・学活部に所属し、平和教育実践に着 手し始めた。特にこの年の 3 学期からは、実践 の原案を十分吟味し学年教師集団で実践展開を 図るため、教師サイドの体制として平和教育推 進委員会を組織した。この組織で練られた平和 学習の原案が学年会で論議され実践に移されて いった。 福井を中心に展開された平和教育実践は大き く、修学旅行までの事前学習と当日の現地学習、 事後の発展的な学習に分けられる。 多くの場合平和教育実践と言えば、被爆地で ある広島や長崎、本土戦の舞台となった沖縄な どが真っ先に取り上げられる。しかし、福井は 「原爆だけを特別視し、他人ごととする弱点を 克服し、自らのものとして平和を守る課題をと らえさせたい」(8 集 :1979.3)と考え、事前ア ンケートや総論学習などの下準備をした上で、 身のまわりに残る戦争の影と父母の戦争体験を 調査する「平和学習フィールドワーク」や教科 における取り組みを進めた。 「平和学習フィールドワーク」では、父母を 始め自分にとって身近な人から、戦争体験談の 聞き取りを中心に「親族の中の戦死者」や「戦 争の記念になるもの」を生徒個人が調査し、既 製のレポート用紙にまとめるのである。さらに その個人調査の結果をもとに、各学級各班ごと の班学習に発展させ、それは「戦没者の年表」 や「戦時中の内地・戦地の衣食住」など多様な 形でまとめられた。これに並行して事前学習で は、放射能・原爆のしくみや威力などを学ぶ理 科や、平和をめぐる歌声をつくり出す音楽を中 心とした教科における学習も進められた。これ は後に「社会、国語、理科、英語、音楽など各 教科で連携したとりくみ」(18 集 :1982.8)にな り、学校独自の副読本も編集されるようになっ た。このように、次年度の長崎での現地学習を 展望した、重層的で探求的な事前学習が進めら れたのである。 修学旅行当日の現地学習としては、オリエン テーリング方式の班別自由行動による現地見学 と宿舎での被爆者との交流会が行われた。班別 自由行動では各班が、自分たちの計画表にもと づいて被爆地長崎を自分たちの目と足をつかっ て見学して回るのである。必須ポイントであっ た国際文化会館資料館を見学した生徒たちの多 くは、「原爆によって死んで行った人たちはど
んな気持ちで死んで行ったんだろうと思うとど うしようもない無念さで胸が熱くなった。」(9 集 :1979.8)といった感想に象徴されるように 強く心を揺さぶられた。福井によると、「自分 たちの知識・想像・感想をはるかに超える重い 事実と直面」することで、生徒一人ひとりの内 面に「事前の知識から、 心の叫びを呼び起こす 認識へと大きな飛躍が生まれた」。また、生徒 の手で運営された宿舎での交流会(平和のつど い)では、「正直いって話したくないんです。 泣きたくなるんですね・・・」と語り出した講 師(石原秋光氏)の講話に、「話し声一つせず ただメモをとる音だけが会場に流れた」。こう して、平和への科学的認識を深めることと心情 を揺さぶる感動との二つを統一させたのであ る。そこには、「原爆は許せない」という感覚 を「生活に根ざした定着したものにする」とい う福井の課題意識があった。 さらに福井は、平和教育実践を「(戦争と平 和に対する)科学的認識と人間らしい感性の双 方を育てる」(10 集 :1979.12)実践として位置 づけ、年間の見通しをもったカリキュラムをも とに系統的にかつ、教科学習や教科の取り組み を通して総合的に展開しようと考えた。そして、 平和主義をテーマにした憲法学習や平和への決 意を確認し合う 8 月 9 日の「平和を誓う会」、 平和を主題にした壁新聞づくりなどに取り組む 文化祭へと平和教育実践を継続・発展させて いった。その後も福井は、体育大会での人文字 実践や「修学旅行壮行会」など、全校的な取り 組みとして平和教育実践をより発展させようと 努力し続けた。 こうした具体的な平和学習を進めるにあ たっては、学年ごとにめあてがもたれ、3 つの 留意点が示されていた。その留意点とは、「地 域と生活に根ざしたものに。」「科学的認識と人 間らしい感性を。」「生徒の自主的活動を組織し、 集団の力で課題にせまる。」(2 年学年会レジュ メ :1985.12.16)という 3 点であった。ここでい う科学的認識とは、2 年生のめあてに示されて いた「戦争の歴史を加害、被害の両面から明ら かに」することである。実際に平和学習に使用 されていた『A中学校 平和学習副読本』(1985) の第二章では、「中国を侵略し『満州国』を誕 生させた日本軍は、ほんとうに『アジアのリー ダー』だったのでしょうか。」と問いかけ、朝 鮮人や中国人の強制労働や南京虐殺にふれてい る。他にも第一章の「研究 一 なぜ、世界的 な恐慌が第二次世界大戦に結びついてのでしょ うか」では、日本を始めドイツやイタリアなど の植民地政策に言及している。福井は、平和学 習を進めるにあたっては「被害、加害、抵抗」 の 3 つの視点が考えにあったという。この「抵 抗」とは、非戦、反戦、厭戦などの多様な立場 の視点を含んでいた。福井は、特定のイデオロ ギーを排除し、多角的な視点から戦争と平和の 事実にアプローチしようとしていたのである。 福井は、核兵器のもつ大量虐殺という非人道性 と世界人類をも滅亡に追い込み得る危険性につ いて、被爆地という現場において考えることこ そが、戦争と平和への科学的認識を深めること と心情を揺さぶる感動との統一につながると考 えていたのである。 A中で進められていた平和教育は、長崎とい う特定の場所に焦点が当てられ、原爆と被爆者 に特化されているように見える。しかし、この 実践には戦争と平和を深く洞察しようとする多 様な視点からのアプローチが試みられていたの である。 ( 2 )道徳・学活から目標学習へ 福井はA中に赴任した 3 年目から道徳・学活 の責任者として、それまでの道徳・学活の課題 を明らかにし、A中独自のもので子どもを学び の主体とする「目標学習」の系統化をめざした。 1975 年、文部省の同和教育研究の指定を受 け、従前の教育実践を見直そうと決意していた A中では、生活部会において「本校の弱点とも いえる『自主性、主体性、団結力のなさをいか に正すか』という点で話し合」われ、「核づくり、 学 級 づ く り の 大 切 さ が 再 確 認 さ れ た 」(1 集 :1976)。それを受け翌年からは、「時間を充 実させるため、道徳と学級活動の時間を区別せ ずに、週 2 時間の道徳と学級活動、さらに火曜 日放課後の『学級の日』を一体化して、学校教 育全体(特に特別教育活動の分野全域)で、常 に同和教育(人権教育)や道徳指導に取り組ん でいく方向」(同)となった。しかし、「取り組
む内容や範囲が多岐にわたる」「突発的・緊急 性のある問題が入ってくるため見通しが立てに く い 」「 支 え る 体 制 に な っ て い な い 」(9 集 :1979.8)などの問題点が指摘されるように なったことから福井は、「道徳・学活の位置づ けと組織体制の再検討」の必要性を痛感しレ ポートにおいて発信するようになった。当時の 道徳・学活の取り組みは、平和学習、憲法学習、 人権学習などを始めとする教科外の学習課題と 学級、学校で起こるさまざまな問題に対する学 級指導や取り組みが含まれ、しかもそのほとん どの生徒向け、窓口は道徳・学活になっていた からである。 福井が赴任した当時のA中では、教科外学習 の重点課題を「6 つの柱」に整理し全校的に取 り組まれていた峰山中学校(京都)の方向目標 学習をモデルとして、人権、平和、進路、郷土 と文化の 4 本の柱に沿って進められていた。さ らに、80 年度からはそれまでの柱に「健康と 生活」を加えて 5 本の柱が設定され、それぞれ の柱にチーフが決められた。このとき福井は平 和学習のチーフを担当し、「これまでの実践を 整理し体系化する」ことを目標としていた。し かし、公式に目標学習部が分掌として位置づけ られたのは翌年の 81 年度からであった。 道徳・学活から目標学習への移行や目標学習 部の設置などは、福井一人でできる課題ではな い。道徳・学活部はもちろんのこと、教育研究 推進委員会や職員会議などの場で組織的な論議 と検討が行われたのである。しかし、同僚のレ ポートからそれまでの道徳・学活の問題点を整 理し、いち早く組織体制の再検討を提起したの は福井であった。また、80 年度からはA中独 自の基本の柱をもとに組織化を進め、福井自身 は平和学習の年間計画を示しその体系化に力を 注いだ。 福井の描いていた目標学習とは、「特設の「道 徳」の中でバラバラな徳目をもっともらしく押 し出してくる徳目主義」(14 集 :1981.3)とは基 本的に異なる、「子どもたちを生活主体・権利 主体としてとらえ育て、民主主義者の成長・発 達をめざす」(同)取り組みとしての民主的道 徳であった。つまり、生活の中で日々生起する 問題や、時間や空間を越えた現実の人間の問題 を教材として子どもたちに自分の生活を対象化 させ、それを改善させることをめざしたもので あった。 ( 3 )日刊生徒会新聞『輝け!A中ぼくらの 学校』 1984 年 5 月、校内で対教師暴力事件が発生し、 NHKテレビや全国新聞で報道される事態に 至った。こうした報道の影響によって父母や生 徒の中に「A中が荒れている」という風評が広 がり、「そのことが生徒の雰囲気を落ち着かな いものにする一要因となる傾向」(24 集 :1984.8) がみられるようになった。この事態を受け、「研 究推進委員会、運営委員会の論議を経て『輝け! A中ぼくらの学校』(以下 「輝け!A中」)の 創刊が決定された」(同)。編集・発行の任務を 与えられた福井は、校内諸活動の中から積極的 側面・肯定的側面をとりあげ前進方向を示しな がら、「全体として『荒れるA中』宣伝の中で 母校に誇りを持」たそうと考えたのである。 この年の 5 月 14 日に始まった発行はこれ以 降、A中の伝統の取り組みとして根づき現在で もその取り組みは続けられている。しかし、一 言で学校新聞の発行と言ってもそれほど容易な ことではない。編集方針の決定から、取材、一 つずつの記事の作成、紙面の編集、印刷、帰り の会での配布までの工程には、担当の福井だけ ではなく担任をはじめとする多くの教職員の協 力が必要とされた。また、毎日の発行となると、 年次休暇や出張などで担当の者がかけた場合の フォローは欠かせない。まさに、「事務室も職 員室も総ぐるみの体制」(同)で臨んだ取り組 みだったのである。 こうした取り組みを通して、多くの成果や教 訓が得られた。生徒から「学校のできごとがよ くわかる」「友だちや、 他の人の考えているこ とがわかって良い」などの反応が見られ、大規 模校のなかでの相互理解が進められた。また、 30 号を越えるころからは、暗い事件や問題よ りも肯定的な側面を優先的に取り上げてきたこ とが功を奏して、「『輝け!A中』にはどうした らのるの?ぼくものせてほしい」という教育活 動上の動機づけとして大きな意味のあることを 示すような声が寄せられ、校内での市民権を得
られるようになっていった。 また、当初教師主導での発行であったものが、 ツッパリグループのボス的存在であった生徒会 の副会長の手に委譲されていったのである。夜 になると学校に何人かの子どもたち、特に昼間 は教師に反抗的に見える子どもたちが仕事で 残っている教師との交流を求めてやってくるの は、当時のA中では日常的な光景であった。彼 もその夜の訪問者の一人であった。生徒による 『輝け!A中』発行という教師から生徒への委 譲は、職員室で『輝け!A中』を書いていた福 井に言った、彼の「てつどうたろか?」の一声 がきっかけであった。この取り組みによってA 中の校内世論がつくられるだけでなく、発刊に かかわった副会長とその周囲の人間関係も変 わっていった。生徒会新聞づくりのなかで、周 囲の教師たちは「頑張ってんな、ありがとう。 これ載せたってくれる」と副会長に声をかける ようになり、その子に対する教師の眼差しは批 判的なものから肯定的なものへと変わっていた のである。また、副会長は学級や全校の様子に 目を向け視野を広げていくなかで子どもを心配 し家庭訪問を繰り返す教師の姿を知り、教師に 対する理解を深めていった。福井は、こうした 変化を「劇的転換」と振り返っている。 ( 4 )社会科授業 福井は、生活指導、教師集団づくりだけでな く、社会科教師として歴史、公民、地理の三領 域にわたる授業実践の記録を『A中の教育』に 残している。教科指導における福井の実践は、 学校全体にわたる教育実践とその基底で連なっ ている。 ①江戸時代の農民の生活(歴史) 福井は封建社会を支えた農民の生活のようす を、農民を支配した仕組みとの関連でつかませ ようと、教材として「慶安の御触書」選んだ。 全文 32 条からなるこの文書は「身分制度のね らいを農民の生活の現場に貫徹したものであ り、ここを学習することで、 身分制の意味も浮 かび上がってくる」(28 集 :1986.1)と考えたの である。 授業のなかで農民の生活のようすを調べさ せ、「慶安の御触書」の内 8 か条についてその 中で「一番嫌いなもの」という感覚的判断で生 徒に回答を求めた。この問いかけは子どもたち に、「もし、自分が当時の農民の立場だったら」 という想定を喚起させ、子どもたちを「当時の 農民と同じ地平に立たせようとした」(同)の である。また、「御触書」を読んだ感想から考 えた当時の支配者のねらいを発表し合い、さら に当時の支配者の農民観を考えさせた。こうし た問いと思考のサイクルを通して子どもたちの 認識は、前時の「身分制」という小単元で学ん だ林羅山の「差別がなければ国は治まらない」 という言葉、その後の農民の越訴や様々な抵抗 へと繋がり、多くの子どもが支配者の本音をつ かんでいった。現代からかけ離れた貧困のなか で蔑まされてきた農民の生活や農民が歴史をつ くり上げていったダイナミックさを、「当時の 農民の目でとらえさせたいと考え、農民の感覚 の追体験から出発しようとした」(同)のである。 授業後、福井は事後学習として「歴史新聞」 と「年表」づくりに取り組ませた。歴史新聞で は生徒がそれぞれにテーマに沿って研究し、資 料を集め、一枚の紙面に新聞として表現するも のである。その取り組みのなかで、生徒自らが その時代に生きた人物となって取材する形式の ものも生まれ、生徒の興味や関心が引き出され たのである。 ②平和主義の授業(公民) この授業は、第 41 回同授研(同和教育にお ける授業と教材研究協議会)全国集会の会場校 として社会科の公開授業を行うことになり、授 業者に福井が指名されたことを機に展開され た。 この日の公開授業は、「戦争の危機と平和運 動」という内容であった。これは単元「平和主 義」の第 8 時に位置づくものだった。授業は、 事前に生徒に出されていた「見つけたぞ、戦争 の危機」と題する新聞の切り抜きを教材に、そ れへの感想の発表から始まった。授業が「核戦 争の危機」というテーマに入ったとき、「人類 絶滅とわかっていてほんとうに核兵器を使うの か」をめぐる討論活動に発展し、ほとんどの生 徒が「使わないだろう」と予想した。しかし、 福井が過去の核使用直前の事例が 12 回もあっ たことを示すことで生徒は大きく驚き、核戦争
を「あり得るもの」という現実的な問題として とらえることができた。そこからストックホル ムアピールやキュリー夫人の演説などの資料を 手がかりに「結局使われなかったのはなぜか」 と問いかけ、平和を求める国際世論の力の大き さについて考えさせた。 授業後の感想文では、「自分に引き寄せて、 主体的なかかわりに言及したもの」(31 集: 1987.1)が目立ったことから、多くの生徒に「平 和運動を人類の課題として引き受けなければな らないのだ」という理解が生まれたと言えよう。 ③リアルタイムのインドネシア学習(地理) この年福井は 1 年生の学年に所属したが、学 年のスタートに際して同じ教科を受け持つ同僚 と「地理の授業の中にも現実の問題を取り上げ て『トピックス』と名付ける授業を織り込もう」 (65 集 :1998.8)と話し合っていた。それは学習 中の単元に関する問題を時事的に取り上げて、 地理を切り口に考えようという試みであった。 インドネシアの授業に入るまでには、「北太平 洋の海面温度上昇」や「変わる地球儀」「中国 の人口問題」など幅広く世界のトピックが取り 上げられた。例えば「変わる地球儀」では、生 徒にボンベイからムンバイへと名称が変わった ことについて考えさせ、「地名は不変ではない」 「教科書を覚えればいいだけではない」ことに 気づかせたり、「『その土地でくらす人』の視点 の大切さ」について考えさせた。こうした時事 的なトピックを織り込む授業が定着しだした 頃、当時のジャカルタで「暴動」が起こり、そ こにインドネシアからの帰国生徒(一時的)が 通学することが重なり、「インドネシアの学習」 授業が生まれた。98 年、日本のマスコミで「暴 動」と伝えられていた、国民の民主化運動を取 り上げた授業である。 この授業は、一時帰国した女子生徒のインド ネシアについてのレポートと彼女の持ってきた 現地新聞「ジャカルタポスト」を教材にスター トした。福井はその生徒との生のやりとりや新 聞記事を生きた教材にし、子どもたちの目を現 在進行形で進む世界の問題に向けさせ、自分た ちの生活と切り結ばせようとしたのである。そ して、帰国生徒への質問や現地の新聞、福井の 問いかけから生徒たちは、日本で報道されてい る「暴動」が実は要求を掲げた国民の「デモ」 であることを知った。認識の転換である。また、 インドネシアの略年表と帰国生徒の説明から国 民の不満や要求は何だったのかを考えた。この 授業は新たに持参された新聞記事によってさら に発展し、生徒たちはインドネシア国民と同じ 目線に立ってその生活をイメージし、インドネ シアを身近な国としてとらえ直したのである。 また、小学校時代不登校だった帰国生徒にも大 きな変化が現れた。授業を始めた当初は、福井 を介して進められていた交流が、その子と周囲 の子との直接の交流へと変化していったのであ る。 この授業は当時の教育実習生にも公開され た。これまで中学校の授業に対して「先生が黒 板に適度な説明を加えながらポイントを板書 し、それを黙々と書き写す」(同)といったイメー ジもっていた実習生は、「従来のイメージと違っ た授業風景だった」と、この授業についての感 想を寄せている。福井の授業は、実習生の目に は生徒と教師との関係が近づいた中で、「教師 が質問し、それに関心を持った生徒が反応する といった楽しそうな授業風景」(同)と映った のである。この授業において福井は、生徒の内 的興味や関心と学習内容を結びつけ、それを教 師と生徒とで問い深め合うような動的な授業を つくり上げていたのである。この授業を通して、 「生徒が関心・興味を持ちそうな話題は、教科 書には書いていないことでもどんどん引用して 授業に使えばいい授業ができるんだ」(同)と、 参観した実習生のなかで授業に対する既成概念 の転換が生まれたのである。 ( 5 )「子ども理解のカンファレンス」実践 福井が専従役員から現場に復帰した 95 年、 A中にはかつてないような荒れが訪れた。特に、 福井が学年主任を務めることになった新 1 年生 の課題は深刻であった。毎日のように起こる暴 力や破壊行動。暴力を加えた子どもに反省を促 すような指導もままならず、被害にあった子ど もの保護者に「安心してください。二度とこの ようなことはありません。」と言えない状況が 延々と続いた。教師たちは日々の問題行動に即 効力のある手立てを打つことができずに、ただ
教師の無力さを突きつけられ疲弊していった。 そのような状況のなかで、福井の提案で学年 部会が毎日もたれるようになった。そして、そ の学年部会が発展的に変化していった。学年会 での論議の中心が、「気になる子どもたち」か ら「特定の子ども」へと焦点化され、一人の子 どもについて深く交流し合う「個別の事例検討 会」の場へと変わっていったのである。教師た ちはその日あった出来事、子どもの発した言葉 や表情、体に触れたときの感覚などについて、 一人ひとりの教師の違った見え方や考え方を遠 慮なく出し合った。 始まって当初の学年会には、「何とかしたい」 という焦りと見通しがもてない苦しさが重苦し い空気となって漂っていた。しかし、教師たち はその学年会で愚痴を言い合い、その場には「何 を言っても許される空気」が醸成されていた。 そうした自由な空気がつくられた背景には、福 井の「教師たちのどんな否定的な発言も受容し、 その思いに共感を示す」という座長としてのは たらきかけがあった。 また、福井は座長として学年会で語る教師た ちに、「どう言いよったんやそれ」「そん時どん な顔しとったんや」などと細部にこだわった問 い返しをした。その問い返しには、「そう感じ る根拠になる事実を共有する」ための細部への こだわりがあった。「なぜそんなことをするの か」と教師たちが理解できないような子どもの 言動を、教師たちにできるだけ共有させ、個々 の教師にその問題について深く考えさせようと する意図が含まれていた。そして、一人ひとり の子どもの事実だけを問題にするのではなく、 子どものなかに生まれている「内面のドラマ」 への想像力を教師たちの内面にかき立てようと したのである。 このように福井は座長として、どんなことも 忌憚なく言える雰囲気を作り、一人一人の教師 の言葉や見方を磨くような問いを投げかけた り、教師たちの意見をコーディネートしたので あったが、当時の福井には「自らがコーディネー トしている」という自覚はなかった。福井は座 長として、「どうすればみんなが共通の認識を もち助け合えるのか」という課題意識のもと、 学年会の進行に専念していたのである。その座 長としての役割を支えていたものに、研究会で の座長としての稲垣というモデルがあった。福 井は稲垣の研究会に参加しながら、稲垣の果た している役割から、座長として「断定的に見方 や考え方を言わない」ことや、「権威的存在で あってはならない」ことを学んでいたのである。 こうした福井のリードのもと、教師たちは学 年会で特定の子どもについて多角的に語り合 い、その子のニーズに即した「今できる手立て」 を考え、協働的に実践を展開していった。子ど も研究とも言える集団的討論を通して、教師の 同僚への理解、教師の子どもへの理解、子ども の子どもへの理解が深まり、新しい実践や言葉 が次々と生み出されていったのである。 その象徴的な実践が、アルミ缶で被爆者たち に車いすを送ろうという「アルミ缶回収」の取 り組みであった。この実践は、問題行動を起こ す子どもたちのなかで最もかかわることが困難 だとみられていた子どもの一言から生まれた。 遊び道具としての車いすと交換するためにプル タブを集めていることを聞いた福井が、その子 の生活関心や課題と、環境-人権-平和という 大きくて質の高い学習の問題とを結びつけよう としたことから生まれた。福井は、この実践に その子の成長と発達の可能性を見いだしていた のである。この「アルミ缶回収」の取り組みに は、「突出生」と呼ばれていた子どもたちも献 身的にかかわり、周囲の子どもたちと「突出生」 たちとの関係は同じ悩みをもった仲間としてつ ながり合う関係へと変わっていった。さらに、 「何をしていいかわからないが、何かしたい」 という親の切実な思いが結集し、学校と地域の つながりがつくり出されていったのである。 また、子どもの変化や実践の意味をあぶり出 すような言葉が生み出された。例えば福井は、 級友との自然な会話がふえるのにともなって、 手を出す回数が減りその暴力性が薄れていった ある子どもの変化を「口数が増えて手数が減っ た」と表現した。また、一見「甘やかせている」 と見えるような、人間的な感情の交流をつくり 出そうとする意識的な働きかけを「甘えさせる」 といった言葉で言い表した。こうした既成の概 念を突き破るようなリアルな言葉は教師たち に、目の前の事実や実践を意味づけ直させたり、
それらの意味をを吟味する新しい視点を与えた りしたのである。 後に福井は、この「特定の子ども」について の集団討論の場を探求的な「子ども研究」の場 と意味づけ、「子ども理解のカンファレンス」 と名づけた。福井は直面する問題にどう対処し ていけばいいのか悩むなかで、稲垣の「授業の カンファレンスは生活指導の面にも広げられ る」ということばをヒントに、徐々に確信をもっ てこの実践を発展的に展開させていったのであ る。(「子ども理解のカンファレンス」実践の実 相の詳細については、大平・堀江 2007 「子 ども理解のカンファレンス」実践と教師の同僚 性~滋賀県下のA中学校における事例研究を通 して~ 『滋賀大学教育学部紀要 Ⅰ:教育科 学 第 57 号』を参照) 2 .教育実践の特質 ( 1 )リアリズムにもとづいた実践構想 ①教科指導におけるリアリズム 授業者が「なんとしてもここまでは進んでお かなければ」と授業進度に神経質になることは、 教育現場では日常的であり伝統的な風景となっ ている。そのあり方が詰め込み教育と揶揄され るような授業に追われる子どもたちと同様に、 教師も授業に追われているのが現状であろう。 予定通りに授業を進めることに気を奪われるな かで教師たちは、子どもたちの授業への参加意 欲や学習内容への関心を等閑にし、子どもに とっての楽しい授業、わかる授業の追求を脇へ 追いやってしまっている嫌いがある。教師が日 常の多様な仕事に追われるなかで一呼吸置い て、自分の授業のあり方や授業に参加する子ど もたちの姿を客観視することは案外と難しいの である。 こうした教育現場のなかで福井は、研究授業 を “ 授業を見直す一つの契機 ” として意味づけ、 自分の授業の反省的な振り返りを行ってきた。 福井の授業には、「与える」とか「学ばせる」 といったようなトップダウン形式ではなく、参 加する子どもを学ぶ主体者として位置づけ、教 師と子どもとで集団的に学び合おうとする特質 が見られる。そして、福井の授業には現実を第 一に重視しようというリアリズムがある。 福井は、「江戸幕府の成立と鎖国」という単 元のなかの「農民の生活」を学ぶ授業(1985.11 実施)を行っている。福井は授業のなかで、「慶 安の御触書」の内 8 か条を子どもに提示し、「そ の中で『一番嫌いなもの』という感覚判断で生 徒に回答を求め、当時の農民と同じ地平に立た せようとした」(28 集 :1986.1)。そして、支配 者の農民観を「百姓は死なぬよう生きぬように 年貢納入を申し付けよ」「農は納なり」という 支配者自身の言葉で示した。こうした学習を通 して子どもたちは、「農民の感覚の追体験から 出発」(同)し、当時の農民の生活を自分のも のとしてイメージしていったのである。そこに は、80 年代に展開されていた部落問題学習の 核心である「身分はつくられたもの」という、「身 分制度のねらい」につなげようとすることも視 野に入れられていた。福井は、江戸時代の厳し い封建社会に生きた農民の生活をいかにリアル に子どもたちに捉えさせるのかを追求し、一歩 でも当事者に近い立場で当時の生活をイメージ させようと「慶安の御触書」を教材に授業を構 想、展開したのである。 また「リアルタイムのインドネシア学習」に も同様の特質が見られる。この授業は、帰国生 徒へのインタビューを交えながら、国内の新聞 報道と帰国生徒の提供する現地新聞の報道とを 教材に進められた。視点の異なる国内と現地の 新聞記事そして、現地を知る帰国生徒の生の証 言をもとに、福井は日々変化していく現地の状 況を生きて変化する現実として子どもたちにと らえさせようとしたのである。 しかし、この授業が展開されたベースには、 それまでの授業のあり方への見直しや新しい実 践の創造という努力があった。それまでに福井 は、同じ教科を担当する同僚と、「学年のスター トから地理の授業の中にも現実の問題を取り上 げて『トピック』と名付ける授業を織り込もう と話し合っていた」(65 集 :1998.8)。そして、 新学期のはじめから「北太平洋の海面温度上昇」 や「変わる地球儀」などのトピックを子どもに 教材として提供し、地理を切り口に環境や人権 といった大きな価値をもったテーマについて考 え合う取り組みを進めていたのである。ここに も福井の、子どもを当事者と同じ地平に立たせ
リアルに問題をとらえさせようとする教育理念 を読み取ることができるのである。 ②平和教育におけるリアリズム 先述したように福井は、A中に赴任した 2 年 目から新しい形の平和教育を構想し展開し始め た。福井がこの平和教育で求めていたものは、 知識の獲得だけに留まらない「学習の知識から 心の叫びを呼びおこす認識」(9 集 :1979.8)へ の大きな飛躍であった。福井によれば、国際文 化会館資料館で触れた展示物という現物、被爆 体験者の生の声の聞き取り、被爆体験者との直 接の交流を通して、「それまでの自分たちの知 識・想像・感想をはるかに越える重い事実と直 面」することで、子どもたちの認識は「原爆に よって死んで行った人たちはどんな気持ちで死 んで行ったんだろうと思うとどうしようもない 無念さで胸が熱くなった。」という心の叫びへ と飛躍的に発展したのである。身近な父母たち の戦争体験の聞き取りから始められた事前学習 は、一歩一歩しかし着実に「これまでとは質的 に違う認識に到達した」というのである。こう した平和教育実践が構想・展開されていく文脈 のなかにも、福井のリアリズムが貫かれている。 ③生徒理解におけるリアリズム 80 年代のA中には、「子どもの現状から」と か「子どもの実態から」という言葉があった。 それらの言葉は、「どんな実践もまずは子ども の実態把握から始めなければならない」という、 教育実践者としての原則的な心構えを示してい た。「子どもの実態をつかむこと」は形式的な マニュアルとしてではなく、実際に何らかの実 践をじっくり構想し展開しようとするとき、教 師の前に必ず立ち現れる実践構想の最初のプロ セスとなる。福井は子どもの実態をつかむこと にかかわって、「実態把握の前提は、『何に、ど う取り組もうとするのか』の構想・仮説を含む 発想」(43 集 :1991.1)と述べている。つまり子 ども把握は、具体的な子どもを対象として「何 のために、どういう観点でアプローチするのか」 といった問いを立てながら実践構想するなかで 深められるというのである。多くの教師は子ど もに語りかけたりするような些細なかかわりを 試みようとするときでも一度は、対面する子ど もの姿を想像し実践をシュミレーションしてみ るのである。また時には、計画的に子どもの実 態調査が行われる場合もある。福井は、A中赴 任後初めて取り組んだ平和学習を展開する際に は、20 項目にわたる「『修学旅行事前学習』を するにあたって」という子どもを対象にしたア ンケート調査を実施している。こうした子ども の実態把握が怠られたり不十分であったりする と、実践は子どもを蚊帳の外に追いやり、子ど もと教師に変化を生み出すような本来の実践と はなり得ないのである。 福井は、実践構想と循環し合う子ども把握に おいて、子どもを暮らしの主体者としてその生 の姿をとらえようとした。福井は、授業に入ら ずたむろし「他愛ない刹那的な話題をジェス チャーや笑顔をまじえ、 ことの他大きな声で語 り合っているにぎやかな彼らの姿に『サビシサ 君』が住んでいる。」(31 集 :1987.1)と感じて いた。そして、「この『サビシサ君』の正体を 知らずには、彼らと真のパイプを通わせること は困難である」(同)と考え、深夜徘徊を繰り 返す子どもたちの生の姿をとらえようと、自ら 彼らの暮らしに分け入っていったのである。こ こに見られる福井の実践に対する姿勢は、まさ に生の姿を自分の五感を通してつかもうとする リアリズムである。 また 95 年、A中に新しい荒れが訪れたとき 福井は、同僚との集団的な子ども把握を展開し た。それまでに経験したことのない問題や子ど もの言動を集団で討議するなかで、どうとらえ 解釈していけばいいのかを深め、さしあたって の手立てを考え出していったのである。それぞ れの個性や子ども観をもった教師たちが、それ ぞれの立場から違った見え方考え方をリアルな 言葉をもって語り合うことで、いろいろな角度 から子どもの姿に光が当てられ、子どもの言動 にリアルな意味づけなされていったのである。